~西へ~(437) 81日目⑤ 皇居遥拝・靖国神社参拝 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

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本日は半蔵門より、皇居に向かい最敬礼し、心の中で、賢くも
天皇陛下、皇后陛下の御長寿と益々の御健康を祈願しました。




そして、靖国神社へ感謝と慰霊の参拝へあがりました。



 前回参拝時の拙ブログは→こちら



 靖國神社の起源
靖国神社の起源は明治2年(1869)6月29日に建てられた東京招魂社に遡りますが、当時の日本は、近代的統一国家として大きく生まれ変わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程にありました。それ以前、日本は徳川幕府の政権下にあり、約250年にわたって鎖国政策をとり海外との交流を厳しく制限していました。ところが、アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って日本に対する開国要求が強まると、開国派と鎖国派の対立が激化し、日本の国内は大きな混乱に陥ります。そうした危機的状況を乗り切る力を失った徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出すこととなったのです。
しかし、そうした大変革は、一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同士の尊い命が失われる結果となりました。そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの地に「招魂社」を創建したのです。この招魂社が今日の靖国神社の前身で、明治12年(1879)6月4日には社号が「靖国神社」と改められ別格官幣社に列せられました。


 靖國神社の御祭神
靖国神社には、戊辰戦争やその後に起こった佐賀の乱、西南戦争といった国内の戦いで、近代日本の出発点となった明治維新の大事業遂行のために命を落とされた方々をはじめ、明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作・橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達、さらには日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・支那事変・大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して国家防衛のために亡くなられた方々の神霊が祀られており、その数は246万6千余柱に及びます。
靖国神社に祀られているのは軍人ばかりでなく、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれており、その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々などの神霊も祀られています。
このように多くの方々の神霊が、身分・勲功・男女の区別なく、祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として一律平等に祀られているのは、靖国神社の目的が唯一、「国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰すること」にあるからです。つまり、靖国神社に祀られている246万6千余柱の神霊は、「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」であるという一点において共通しているのです。
-靖國神社公式Webより


       

元宮と鎮霊社は柵越があり近づけませんので、
鳥居の所から拝礼しました。

 元宮
この小さな社は、明治維新のさきがけとなって斃れた志士の霊を祀るため同士によって京都に建てられたもので、70年後の昭和6年(1931)に靖国神社に奉納され、この場所に移されました。国を守るために尊い生命を捧げられた方々の御霊を祀る靖国神社の前身となったことから、「元宮」と呼ばれています。
-靖國神社公式Webより


 鎮霊社
戦争や事変で亡くなられ、靖国神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊するために、昭和40年(1965)に建てられました。
-靖國神社公式Webより


      
   能楽堂
この能楽堂は明治14年(1881)に東京・芝公園に建てられたもので、明治36年(1903)に靖国神社に奉納、移築されました。この舞台では神霊を慰めるための能や日本舞踊などの芸能が行われます。
-靖國神社公式Webより


         
        靖國神社 御朱印


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。





続いて、遊就館を見学するために参集殿の裏手に。

   
  パール博士顕彰碑
  碑文
時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には 
また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には
その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを要求するであろう


 
ラダ・ビノード・パール博士は昭和21(1946)年5月東京に開設された『極東國際軍事裁判所』法廷のインド代表判事として着任され、昭和23年11月の結審・判決に至るまで、他事一切を顧みる事なく専心この裁判に關する膨大な史料の調査と分析に歿頭されました。
博士はこの裁判を擔當した連合國11箇國の裁判官の中で唯一人の國際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の文明史的見識の持主でありました。
博士はこの通稱『東京裁判』が、勝利に傲る連合國の、今や無力となった敗戦國日本に對する野蠻な復讐の儀式に過ぎない事を看破し、事實誤認に滿ちた連合國の訴追には法的根據が全く缺けてゐる事を論証し、被告團に對し全員無罪と判決する浩瀚な意見書を公けにされたのであります。
その意見書の結語にある如く、大多數連合國の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の國際法學界に於ける定説と認められたのです。
私共は茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇氣と情熱を顯彰し、その言葉を日本國民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の偉業を千古に傅へんとするものであります。
     平成17年6月25日   靖国神社 宮司 南部利昭



 ここにパール博士の発言を記しておきます。

パール博士は二度目の来日時(昭和25年(1950)10月)、約1ヶ月間の
滞在中に次の言葉を残されています。

「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は《法の真理》である。われわれはこの《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」

 「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために《中立裁判》は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか。」

「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」

「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない。」

「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。
日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい。」

「いまや英・米・仏・独など世界の法学者の間で、東京とニュルンベルクの軍事裁判が、果して正当か否かという激しい論争や反省が展開されている。げんに英国法曹界の長老ロード・ハンキーは【パール判事の無罪論こそ正論である】として『戦犯裁判の錯誤』と題する著書まで出版している。しかるに直接の被害国であり、げんに同胞が戦犯として牢獄に苦悶している日本においてこの重大な国際問題のソッポに向いているのはどうしたことか。なぜ進んでこの論争に加わらないのか。なぜ堂々と国際正義を樹立しようとしないのか・・・」
-「パール判事の日本無罪論」田中正明著より


そして、博士は広島高裁における歓迎レセプション(昭和27年(1952)11月6日)
「子孫のため歴史を明確にせよ」と次のように述べられました。

 「1950年のイギリスの国際情報調査局の発表によると、『東京裁判の判決は結論だけで理由も証拠もない』と書いてある。ニュルンベルクにおいては、裁判が終わって三か月目に裁判の全貌を明らかにし、判決理由とその内容を発表した。しかるに東京裁判は、判決が終わって4年になるのにその発表がない。他の判事は全部有罪と判定し、わたくし一人が無罪と判定した。わたくしはその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠も何ら明確にしていない。おそらく明確にできないのではないか。だから東京裁判の判決の全貌はいまだに発表されていない。これでは感情によって裁いたといわれても何ら抗弁できまい。」

 「要するに彼等(欧米)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去18年間のすべてを罪悪であると烙印し罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いがない。東京裁判の全貌が明らかにされぬ以上、後世の史家はいずれが真なりや迷うであろう。歴史を明確にする時が来た。そのためには東京裁判の全貌が明らかにされなくてはならぬ。・・・これが諸君の子孫に負うところの義務である。

 「わたしは1928年から45年までの18年間(東京裁判の審議期間)の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中に綴った。このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる事実の歴史を、どうかわたくしの判決文を通して充分研究していただきたい。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の偽瞞を払拭せよ。誤れた歴史は書きかえられねばならない。」
-「パール判事の日本無罪論」田中正明著より


また、博士は東京弁護士会においても多数の法律家を前にして、

「日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼らの戦時謀略にごまかされてはならぬ。日本が過去の戦争において国際法上の罪を犯したという錯覚におちいることは、民族自尊の精神を失うものである。自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。日本よ!日本人は連合国から与えられた《戦犯》の観念を頭から一掃せよ。・・・」
-「パール判事の日本無罪論」田中正明著より


と、博士は繰り返し述べられました。





                              つづく






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