~西へ~(438) 81日目⑥ 靖国神社 遊就館 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


「祖国・日本を巡る旅」、始まりは、皇居遥拝、靖国神社参拝。



最終日の今日も皇居を遥拝し、靖国神社に参拝にあがっております。

      
   軍犬慰霊像              戦没馬慰霊の像

       
   鳩魂塔                    母の像

     
             護國海防艦(海防艦顕彰碑)   

        
   特攻勇士之像


遊就館の中に入ります。


館内は一部を除いて撮影禁止です。

      

このガラスの屏風は、本館の玄関正面にあった透窓の飾り金物の図案を復元したものです。昭和六年の本館竣工時には、大陳列室の天窓から差し込む光がこの飾り窓を通り、玄関の広間を明るく照らしました。遊就館の館名の出典が刻まれています。

君子居  君子は居るに
必擇郷  必ず郷を擇び
游必就士 遊ぶに必ず士に就く   -荀子勧学篇-



      



          八九式十五糎加農砲


          九六式十五糎榴弾砲


       三菱零式艦上戦闘機五二型



 遊就館
遊就館は明治10年の西南戦争が終わるころ設立の構想が出され、同12年に陸軍卿・山県有朋を中心に、「御祭神の遺徳を尊び、また古来の武具などを展示する施設」として構想され、イタリアの雇教師カペレッティーの設計により、明治14年にイタリア古城式の建物が竣工し、翌15年2月25日に開館式が行われました。

館名は、構想段階で正式名称が決定するまでは「額堂並に武器陳列場」と仮称されていましたが、後の宮内大臣 田中光顕伯爵が学者吉雄菊瀕の原案に基づいて正式名称を「遊就館」と決定しました。

その後、日清・日露両戦争、第一次世界大戦等を経て、増改築、別棟新設など館の拡充が進められますが、大正12年の関東大震災でレンガ造りの建物は大破し、撤去の已むなきに至ります。
翌13年、取り敢えず仮館を建設し、規模を縮小して開館しますが、昭和天皇が即位の大礼を行われた昭和3年2月、復旧建築委員会がおかれ、復旧が急がれました。近代東洋式(帝冠様式)の本館を再建すべく、東京帝大の伊東忠太教授を顧問に準備を開始し、昭和5年に地鎮祭催行、建物が翌6年に竣工、そして昭和7年に4月26日に開館記念式典が行われ、遊就館の復旧が完了しました。更に昭和9年、国民への軍事知識普及のため付属の国防館(現靖国会館)も建設されました。

大東亜戦争中、昭和20年5月の空襲により、大ホール周辺の展示室に被害があり、別館は焼失し、蔵書や幕末以来の貴重な絵画類を失いました。また敗戦により9月11日に「遊就館令」が廃止され、64年に及んだ遊就館の機能は停止しました。遊就館の建物はその後、占領軍に社屋を接収された富国生命保険相互株式会社の本社事務所として昭和55年まで使用されます。

昭和34年、ご創立90年に際し日本橋三越にて開催された「靖国神社展」で遊就館の所蔵品を公開したことがきっかけとなり、昭和36年4月より靖国会館2階を改修して「靖国神社宝物遺品館」とし、宝物遺品の陳列展示を再開、皇族方もご覧になられました。

昭和55年になると、いよいよ遊就館再開の準備が本格的に始められ、昭和60年12月、遊就館改修工事竣工、昭和61年7月、展示内容等を充実し、およそ40年ぶりに遊就館は再開されました。その後、靖国神社御創立130年を記念して、平成14年7月13日、本館を全面改装、展示手法・展示内容も一新し、更に映像ホールを備えた新館を増設。ガラス張りのホールの中に零戦を初め、野外展示物を収納し現在に至っており、世代を越え、多くの方々にご拝観いただいております。
-靖國神社公式Webより




                              つづく






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