健康絡みの情報をネットで調べていたら、結局一体どうすればいいんだ? と混乱したり、自分がとんでもない病気になってしまうのでは、と不安になったりします。
実際、過去にもそんな感じで不安を抱えながら病院に行ってみたら、想定していたよりはるかに軽い症状で、あの心配はなんだったの? となることが何度もありました。
まあ基本的に、ネットで病気について書かれている情報は、最悪のケースを想定していることが多いのかな、という感じはあります。
そんなに気にしなくて大丈夫ですよ! とか書いちゃうと、もしも大丈夫じゃなかった場合、記事を信じて病院に行かなかったらとんでもないことになった! と言われる可能性もあるため、そこらへんを考慮しているのかもしれません。
もちろん、本当に病院に行ったほうがいいケースというのもあるため、ちゃんとその危険性を考えて、というのもあるでしょう。
ただ一方で、そういった情報に振り回され、不安をかき立てられること自体がストレスになる、ということもあります。
私の精神疾患がひどかったときは、まさにそんな感じでいろんな治療法の情報を探してみるも、どれをやっても効果がない、どころかかえって悪化したりして、どうすりゃいいんだ! となってました。
今思えば、一時的には悪化したように見えても、そのまま継続していれば回復につながっていたものもあったかもしれませんが(カウンセリングでは実際よくあります)、今の悪化が今後よくなる流れの中にあるものなのか、ただ純粋に悪くなっただけなのか、どう見分けりゃいいの? という話ですからね。
そこを見分ける方法ってあるの? と心に聞くと、「ありとあらゆる状況で通用する方法はない。経験則的に一時的な悪化が起こるとわかっているケースだとかはあるが、それも例外はありうるしな」とのこと。
私の場合、まさにそういうときのために「心に聞く」をやってたりもするんですが、「心に聞く」自体が100%信用できるのかは10年近くやっていながらいまだにわかってないので、なんとも言えません。
でも一方で、100%の成功だけを目指すというのも、それはそれでよくないのかもな、とは思います。
心身ともに完全無欠に健康で、公私ともに生活において何一つ問題がない、という人生は理想ではあるでしょうが、はたしてそんな理想が実現しうるのかという疑問はありますし、生まれてから死ぬまで常にその状態で居続けることはおそらく無理でしょう。
そして無理に完璧を目指しすぎると、かえって歪みが生じるよな、とも思うんです。
もっとも、諦めや妥協を当たり前にするのも、なんか違う気はする。
老化や病気に関して、治すことにこだわりすぎず、うまく付き合いながら生きていく、という考え方があります。
それが人生の質を上げるうえで本当にいい考え方なのかどうか、私は断言できません。
この苦しみは受け入れるしかない、というのが実はただの思い込みだという可能性もあるからなあ、てなことを思うんです。
実際どうなん? と心に聞くと、「全部や」という答えが返ってきます。
「病気や苦しみ、それへの妥協や諦め、そして治したい、よくしたいという気持ち、そういうもんを全部ひっくるめて生きるんや」
なるほど。全部を諦める必要はないし、なにもかもをよくしたいと考えなくてもいいし、そもそもそういった考え方自体を常に統一する必要もなく、時々でブレまくっても一向に構わない。
やることやって、時にはあえてやらずに済ませて、それでもなんとかなったりならなかったりするのが人生だもんなあ、とつぶやくと、「そこに『生きる力』の真髄があるんや」と心は言うんです。