ツイッターでの感想、ありがとうございます!

昨日の「死について」の記事は、書いてて自分でもスクリプト的というか、わかるようなわからないような内容だなーと思っていたのですが、それで「勇気をもらえました」と言っていただけたのは、すごく嬉しいです。

 

そうして自分で改めて読み返してみると、確かにこの記事には、単に「よくわからない」だけではないなにかがあるなー、とも感じるんです。

 

やはり心に聞きながら書くと、意識で書いた文章とは違ってくるのかな? と思います。

 

 

さて、今日はなにについて書くの? と心に聞くと、「心に聞くのコツについて」と返ってきました。

 

これについては先日、とある場所でとある人と話題に出した話でもあったのですが、え、ここで今書くの? という不思議さはあります。

 

 

「心に聞く」という技術は、現在のFAPにおける根幹であり、最重要テクニックではないかと思います。

 

元々の根幹は、手を振って指の反応を見る、中指ビンゴでしょう。

 

これもすごいテクニックですし、手軽にできるということで私も常用しています。

 

しかし、心になにかを聞くのは、また一味違った感じがするんです。

 

 

ただ、中指ビンゴにしろ、心に聞くにしろ、うまくできない! という人は結構いるみたいです。

 

私の母も、中指ビンゴは指の反応がいまいちわからないこともあったりする、そして心には全然聞けない! となっています。

 

しかし、どうせFAPをやるのなら、というより大げさに言ってしまうと、楽しく生きていくのなら、中指ビンゴか心に聞くか、このどちらか、あるいは両方を使えたほうがいいんじゃないかな? とは思います。

 

なぜなら、これらの技法は、行動の指針になってくれるから。

 

指の反応だとか、心に聞くだとかなんか怪しい! という疑念はさておき、少なくともこれらをやることでなにがしかの反応が常に返ってくるのであれば、それを基準として全ての選択・決定を下すことができるんです。

 

 

さて、そこで今日のテーマである「心に聞くのコツ」なんですが、実を言うと私の意識レベルではよくわかりません。

 

なぜなら、私は最初から、簡単にできてしまったから。

 

 

そもそも、私が大嶋先生の本に出会ったきっかけは、「自分の潜在意識が求めているものを知りたい!」というところにありました。

 

精神疾患で苦しみ、いろんな療法を試してもうまくいかなかった私は、「これはどうやら自分の潜在意識に向き合わないとダメなんじゃないか?」と思うに至ります。

 

自分が、自分の本心をだましながら生きている、という自覚はありました。

 

けれど、すっかり感覚が麻痺してしまった私には、自分は本当はなにをやりたいんだろう? なにを望んでいるんだろう? ということが、まるでわからなくなってしまっていたのです。

 

そんな中、当時通っていた整体の先生のメルマガで、大嶋先生の本のことが触れられていました。

 

その先生のことは信頼していたので、この人が触れるぐらいなら相当なんだろう、と思って、当時の最新刊を買ってみました。

 

それが、『言葉でホルモンバランス整えて「なりたい自分」になる!』でした。

 

今振り返ってみると、大嶋先生の数ある著作の中でも、トップレベルにややこしくて怪しいのがこの本では? と思いますw

 

実際、当時の私は、内容はよくわからんが、この著者が只者ではないことはよくわかった、といった感想だったはずです。

 

ただ、本の中で「心に聞く」という技法が別の本で紹介してあるよ、と書いてあって、「私が求めていたものだ!」と身体に電撃が走り、即座にそっちも買った、というのはハッキリ覚えています。

 

 

そうして知った「心に聞く」を、私は最初から、なんの問題もなく使えました。

 

一般論で言うと(心に聞く自体が全く一般的ではないであろうことはさておき)、心にうまく聞けないときは、「心よ! 私と心との間に邪魔はある?」と尋ねて、あるようならその排除を心にお願いする、となります。

 

この邪魔の排除をしないと、心に聞いても反応がなかったり、心ではなく支配者の返事が返ってきたりするそうです。

 

しかし私の場合は、この邪魔の排除すら「必要ない!」と、邪魔を排除した上で聞いた心に、何度も言われています。

 

いや、さすがに邪魔は排除しないとダメなんじゃないの? と思い、きちんと邪魔を排除した上で何度も心に確認してるんですが、「私の場合は必要ない」そうです。

 

理由を聞くと、「心に聞く力が強すぎるから、悲しいことに」と言われるのが常でした。

 

 

なぜ「悲しいことに」なのかというと、その力の強さが、私の病気の原因にもなっているから、だそうです。

 

「心に聞く力」とは、「脳のネットワークに接続する力」と同義だそうです。

 

その力が強いということは、支配者のネットワークにも簡単に接続できてしまうということ。

 

私の症状が重く、なにをやってもなかなか治らない理由の一つは、この力が強すぎるがゆえに、支配者とも強烈に結びついてしまっているから、と心は言います。

 

なので、「悲しいことに」と心は言っていたみたいです。

 

なお、わざわざ「悲しいことに」なんて言ってたのも一つのメタファーだったらしく、今は同じ問いを投げても、こうは言ってきません。

 

今、「心よ! なんで私は邪魔を排除する必要がないの?」と聞くと、「邪魔を蹴散らして(心の声を)聞けるから」と返ってきます。

 

 

さて、ここまで書いていて、ふっと思いました。

 

つまり、心にうまく聞くコツって、脳のネットワークの力を強化することじゃないの? と心に聞くと、「その通り」だそうです。

 

でも、脳のネットワークの力を下手に強化しちゃうと、支配者との繋がりも強くなって、私みたいに苦しみが増す可能性もあるんじゃないの? と聞くと、「敵が見えれば斬ることができる」と心は言います。

 

支配者の存在をハッキリ感じることができるようになれば、それだけ切り離しやすくもなる、ということだそうです。

 

だったらなんで私はいまだに支配されてるんだよ、と心に愚痴ると、「(支配が)無茶苦茶根深いから」だそうです。

 

こういう納得できない答えが来た時のお約束として、邪魔を排除してから再度聞き直してみましたが、答えは変わりません。

 

 

さておき、じゃあ脳のネットワークの力を強化するにはどうすればいいんだろう? という疑問がわきます。

 

ここで、そうだ、この前出てきた「他人のテクニックを無意識で受け取る」技を使えばいいのか! と気づきました。

 

大嶋先生の言葉に従うなら、見て聞いて感じてをやって反すうして~となりますが、私は自分の心のほうに従って、「○○さんの無意識」の呪文で楽をしちゃいます。

 

今回は、「脳のネットワークを強化できた人の無意識」と繰り返し唱えることで、脳のネットワークを強化するコツを探ってみます。

 

すると浮かんできた言葉が、「投げやりにやる」でした。

 

 

どういうことよ? と、一連の説明を心に求めると、以下のような感じでした。

 

 

「心に聞くという行為自体は意識的なものだが、それによって無意識を発動することによって返事が得られる。

 

それは例えるなら、自転車に乗ろう! という判断は意識的なものであっても、実際に自転車を動かす際は無意識で動いているのと同じこと。

 

いちいち意識して「足でサドルを回して、手でハンドルを動かして、ブレーキを握って」などと考えていては、自転車はうまく動かない。

 

心に聞くのも同じで、最初に「心に聞こう!」と決める時点では意識だが、その後は無意識がすること。

 

「うまく心に聞くためにはああしてこうして」といろいろ意識してしまえば、その分だけ聞きにくくなる。

 

だから、うまくやろうなどとしなくていい。投げやりにやればいい。質問の頭に「心よ!」とつければ、あとは知ったこっちゃない! ぐらいでちょうどいい」

 

 

参考までに言うと、この長文は心の返事ではありますが、いちいち一文ごとに「心よ!」と聞いて文章を確認しているわけではありません。

 

最初に軽く心に聞いた後は、自分の中に浮かんだことを、ただそのまま書いているだけです。

 

それが心の答えではないときは、書いてて自然にブレーキがかかる、と経験上わかっているから。

 

 

その意味では、「心よ!」と質問の頭にくっつけた時点で、自分の意識の仕事はもう終わっているのかもしれません。

 

あとはもう、全部無意識がやってくれるから、それに任せればいい。

 

答えが返ってこなかったり、なんか納得できない答えだった場合は、「心よ! だまってないで答えろや!」とか、「心よ! それ支配者の答えじゃねーの?」とでも、苛立ちの赴くままに心にぶつけてみればいいのかもしれません。

 

そんな投げやりな感じでやってみれば、案外うまくいくのかも?

 

 

てか、この「投げやりにやる」って、別に心に聞くに限らず、なにをするにしても基本にして奥義になるんじゃないの? と心に聞くと、「当たり前やん」とニヤニヤした感じの答えが返ってきます。

(私は関西育ちだからか、心の答えも関西弁になることが結構あります)

 

投げやりかー、と思うと、昨日引用した上杉謙信の 「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり」 という言葉が浮かんできました。

 

「投げやり達人の無意識」と繰り返し唱えてみると、戦国時代の戦場で、他の味方と一緒に槍を持って、必死の形相で走っている兵士の顔が浮かんできます。

 

つまりは、そういうことなのかもしれません。