日常生活のいろんな場面で、不快感を感じる人に出くわしたとき、「こいつ支配者だろ!」と心に確認したりします。
そうすると、9割方は「支配者やで」という返事なんですが、たまに「すげー支配を喰らってる虚無」という答えが心から返ってきたりするんです。
え、これが本当に虚無なの? と疑問を抱いたりもするものの、まあ真実はわからない。
ただ根本的なことを言ってしまえば、他人が支配者であるのか虚無であるのかとかは、実はどうでもよかったりする。
なぜなら他人が何者であれ、自分のすることは変わらないから。
不快は拒絶する、ただそれだけ。
別の言い方をすると、他人が何者であるかというのを気にしてしまうというのは、その相手を中心に世界を考えてしまっている、となるわけです。
自分の感覚を中心に生きれば、そんなことはどうでもよくなる。
そう考えると、幼子先生ってやっぱりすごいな! と、フィクションの存在ながら感心したりする。
私のイメージの世界に存在している幼子先生は、他人というものを本当に気にしていない。
といっても存在を無視しているとか馬鹿にしているとかいうのではなく、単純に、自分の快不快の感情で対応を決めていて、そこが全くブレないんです。
私もそんな幼子先生みたいになれたらなー! と思う。
あれ? これってフィクションの存在とはいえ、他人みたいになりたいと思っちゃってるのって、結局は「自分の感覚を中心に生きていない」ということになるのか?
という疑問が出てきたので、心に聞いてみます。
「全部自分やから」と心。
ん? じゃあ他人が何者であるかを気にしてるときって、自分がブレちゃってるもんだと思っていたけど、実はそれもふくめてしっかり「自分」になるってこと? と聞くと、「全部自分やからな」と心は言います。
でも全部自分と言われたって、自分は今の自分じゃない存在に変わりたいと思ってるんだけど! と抗議をしてみる。
「変わればいい」と心は言ってくるので、どうすれば変われんのよ、と聞いてみます。
「全部自分なんやから、そういう自分になればいい」というのが心の返事。
なるほど、そもそも「自分じゃない他人」になろうという認識だから難しい! となるだけで、全部自分なんだと認識しちゃえばいくらでも自由になれるってこと? と聞くと、「全部混ざっとるからなー」と心。
他人に影響されてしまう自分は嫌だ! と思っていたけれど、逆に言えば、どう転んでも影響されるんなら、カッコいい他人に思いっきり影響されちゃえばいいのかも! と、心の言葉を聞いて思ったんです。
なんて書くと、「そんな簡単にできないから苦労してるんだろうが!」というダメ出しが頭に浮かんでくるんですが、さて、これは誰の声なんでしょうね?