2013年オリジナル


若者が選挙の投票に行かないので、問題になっているようだ。



対策の一つ:税金の可視化。税金で補助されたり建てられた施設にはかかった税金を、明示しましょう。公立小学校の備品にも値段を書いておきましょう。



そうすると、えっ。こんなところに税金が投入されているの?ということになる。



教育に戻して:


県の教育予算について。



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県教委から広報誌が出ている。韓国語版中国語版まであるのは、さすが国際都市の岡山の責務であろう。


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県立の中等教育学校はあそこだけ。



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生徒一人あたりの、税金は上の通りである。


提言:校門に税金の金額を書いて張り出しましょう。


県民(本当は納税者:中学を出て働いている方も含む)の皆様が一所懸命に働いてくださったお蔭でこの学校は運営されています、無駄にしないように頑張って勉強しましょう


一方で塾は税金を払っています。


UBQでもちゃんと法人税も、今話題の復興特別法人税も払っています。個人の役員報酬の税金も払っています。


先日、同じ税務署から同時に2通のはがきが来た。



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9月決算だから、確定の書類が届く。


国税と地方税で管轄が違うというのであればまだ、分かるが、なぜ2枚に分けて配達し、銀行に2回に分けて振り込むのか?全国の法人の数を考えれば郵送代だけでも。。。


そんなお金があれば復興予算に活かした方が良いのではないか?


などと質問しても無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄。


回答は「規則だから」に決まっている。




田舎に行けばいくほど、地方の活性化という大義名分の下、とんでもないところで、しかもとんでもない形で、税金が使われております。県立高校が生徒が東大に入ったら、税金で100万円支給。奨学金としての趣旨なら国単位で行うべきです


自分の街から東大合格者が出ればそれでよいのでしょうか?


ふるさと納税というのも愚の骨頂です。

日本全体で見れば、無駄だからです。


たとえば、岡山市で大きな会議をすれば、会議の主催者が支払うべき会場費だけでなく、その会議の出席者のホテルの宿泊費にさえも補助金が出ることもあること、みなさん御存知でしょうか。http://www.okayama-kanko.net/up_load_files/freetext/convention_subsidy_ja/file/youkou.pdf



岡山空港からチャーター便を飛ばして海外旅行をすれば、税金で補助金(税金)が出る場合もあるということは、みなさん御存知でしょうか。

飛行機の運賃だけでなく、飛行場に行くまでのバス代にさえも補助金が出るのです。


http://www.pref.okayama.jp/uploaded/life/379656_2132164_misc.pdf



これは岡山の活性化だけにはにとっては非常にいいことなのでしょう。
しかし、ところで、岡山は日本の中心なのでしょうか。



問題は、これをさまざまな地方都市がやったらどうなるかということです(現実に行っている)。



一例を挙げますと、県外からの移住者を増やすということで、補助金を出している例があります。

ところが、これを各県や市町村、がこぞってやれば、


結局日本全体では税金と税金のつぶし合いになるわけです。



たとえば、シャープ亀山工場のビジネスモデルは、当初から危険なものだと思っておりました。


お世辞にも都会とは見られていない**市(町・村)の活性化のために、土地を・・・・・、・・・・・、さらには・・・・・を出す・・・・・との由です。


確かにその田舎町では、一時的に雇用も、また税収も増えるでしょう。


とはいえ、同じようなことを日本全体で行ったならば、結局は税金と税金がつぶし合いをして、確かにある地方都市では得かもしれないが、日本全体では損になってしまうことに気づかないのでしょうか。



たとえば、**を世界遺産にしようというキャンペーンをあちこちの田舎街がこぞって、税金を使って一斉に行ったとします。


だとしても、そのすべてが世界遺産に登録されるなどということなどありえない。


そうなると、日本全体で考えれば、本当に世界で認められる可能性のあるところに絞って税金を使ってキャンペーンを張った方が有利なのではないか。


大学誘致もしかり。大学を誘致すれば、その町はとりあえず活性化すると勘違いしている(ただし、正確に言うとその首長の任期中には)。


■ 本学の所在地でございます岡山県高梁市では、2009年12月に「高梁市私立学校入学奨励金支給制度」を制定しております。

 この制度は、高梁市内私立学校への入学を促進するため、高梁市が奨励金の支給を行い、高梁市への若者の定住及び活性化を図ることを目的とし、2010年度(平成22年度)入学生から適用されています。

 制度の概要といたしましては、高梁市居住の受験生が、吉備国際大学へ入学する場合、入学金の全額(30万円)が免除されます。また、高梁市以外にお住まいの受験生でも、入学試験に合格後、吉備国際大学へ入学するために高梁市に居住(住民票の異動が必要です)する場合は、入学金の半額(15万円)が免除されます。(以下引用終わり)http://kiui.jp/pc/topic/?p=166 より



高梁市出身が、岡大に行ったらどうなるの?



しかし、この少子高齢化の時代において、大学生が何とか市に住んだから一人数10万円払う(事実です)ということを繰り返せば、日本全体でこんな無駄遣いはない


結局は国民の税金から出ているということになります。




岡山におりますと、本当に信じられない運動とか、信じられないことがおこるわけです。



たとえば、岡山の活性化のために瀬戸大橋の通行料を無料にしようという記事が地元新聞に出て、その運動がおこる.



これは、岡山の人に聞きたいのです。


例えば、北海道だけ高速道路を無料にするとか、鹿児島県だけ固定資産税を無料にするとか、そんなことをしたらどうなるでしょう。


おそらく全国からものすごい非難を浴びることになるでしょうし、皆さんの中にも非難する人は少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。


瀬戸大橋の通行料を無料にせよというのは、そのくらいとんでもない主張なのです。

にもかかわらず、岡山には今も、瀬戸大橋の通行料の無料化を主張している人がいるのです。



そもそも、大学や大学院は村おこしのためにあるのではない!
























数学の本質は自由にある。だから、自由は怖いので苦手な人が多い。


ある中学生が接弦定理の証明を自分で考えて持ってきた。


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平行線を引く。



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二等辺三角形になる。



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後は、円周角不変の定理で、どこにでも持っていって移動していいんじゃないですか?


うぅーん!!!!!!

信号機のない横断歩道では自動車は歩行者がいない時に限って徐行して通行することができます。歩行者がいる場合には必ず停止しなければなりません。

http://qa.jaf.or.jp/accident/rule/04.htm

 

 
三朝温泉に行った時に倉吉駅前で信号機のない横断歩道を渡っていました。
 
そうするとある温泉旅館の送迎バスが猛スピードで私の後ろを通過しました。
 
すぐにナンバープレートや運転手をスマホで撮影して道路交通法違反だと抗議いたしました。
こともあろうに私に向かって間違ったのはお前だ。と運転手が言いました。
 
さらに温泉に来たお客さんの前で私を指差して罵倒しました。
 
私に喧嘩を売るとはいい度胸されてますね。
 
バスが行ってしまった後で、すぐに警察を呼びました。実況見分もしてもらいました。
 
日本の警察は本当に優秀ですね。
 
単に横断歩道に立っているだけではダメで渡る意思を表明しなければいけないのです。
だから手を上げて横断歩道を渡りましょうというのは本当に正しいのですね。
 
警察には渡る意思を示しているどころか渡ってる最中を一時停止もせずに通過したのだと申し上げました。
 
証拠は全て揃っています。
 
歩行者妨害ということで警察の方からその旅館に事情聴取に行ってもらいました。
 
結果は厳重注意処分になりました。
 
路線バス専用の駐車場に送迎バスが駐車することは違法ではないかと言いましたところ、警察官はやっぱり優秀ですね。この標識は公安委員会が設置してる標識ではないから直接違法行為ではないとのことでした。





しかしながら円滑な道路の運用に関して言えば安全注意義務違反になりますと申し上げました。
私も年をとって人間が丸くなったので、その後観光協会に行って写真を見せて厳重に抗議いたしました。
 
その老舗の温泉旅館はすでに大手の激安チェーンに買収されているということも分かりました。道後温泉で温泉組合からの給湯を拒否されたグループです。
 
 
観光協会の方もあそこだったらね。。。と言いました。
 
せっかくですからその温泉旅館の支配人様にもご挨拶にも行きました。今度機会がありましたらその温泉旅館に一週間ぐらい泊まってドライバーさんにも挨拶したいと支配人様に挨拶申し上げました。旅館業法により部屋がどうしても満室であるという以外は断れませんからね。やり取りは録音してありますからさすが支配人さんですね。
 
是非ともお越しくださいとのお返事でした。
 
運転手は厳重注意処分のうえ自宅謹慎処分にしたと支配人が言われてました。
 
本当に年を取って丸くなったからこの程度で済んだのです。
 
もう少し若ければその場で運転手を逮捕しています。刑事訴訟法に基づき逮捕というのは現行犯であれば誰でもできます。そうなれば送迎バスは止まります。温泉に来ているお客さんに全員に証言してもらうことも可能でした。
 
温泉に来た早々に警察からお話を伺うというのもたまったもんじゃありませんね。
 
でも被害者としての当然の権利を主張するだけの話です。
 
本当に人間が丸くなったと自覚しております。人間が丸くなりすぎて喧嘩をする相手がいなくて困っています。
 
 

だから、ものを見るということは、単に目で見ることではなく、心で見ているわけです。したがって、ものを正しく見るということは非常に難しいことと考えられます。

 

たとえば、ひとつ例を挙げてみましょう。

 

我々は知識として、例えば、ある種の車は非常に高いということを知っていますが、もし高級な外車が目の前を通ったならば、そこに、車が通っているなどとは思わないわけです。あ、すごいお金持ちの人が乗っているな、とても高い車が通っているな、と思うわけです。つまりこれらは、データベースに従って車を見ているからで、

 

もし、生まれてから車を一度も見たことのない人だったら、単に何かの物体が走っているとしか思えない。

 

そうすると我々は、この人は何とか大学を出ている、この人はこういう仕事をしている、この人はこういう地位がある、あるいは、この人はこういう有名な人だ、すべて、汚れたデータベースでものを見てしまうわけです。

 

こういう、人間の勝手な物差しを捨てて、正しくものを見ることを、

 

ブッダは「正見(しょうけん)」、正しく見ると言ったわけです。

また、ものをみるとか、何かをしたいとかいう、さまざまな外界の分析というのも、すべて、個人個人のデータベースに基づいております。

 

たとえば、おなかがすいたときに、単純に「おなかがすいた」と思うことはできないわけです。たいていは、ああ、おにぎりが食いたいな、とか、ラーメンが食いたいなとか、うどんが食いたいなあとか思うわけです。

 

もちろんこれは文化によって規定されているわけですから、うどんのない国や地域では、おなかが減っても、ああ、うどんが食いたいなあとは思わないわけです。つまり、おなかがすいたということでさえ、心のデータベースに従っているわけです。

 

そういった欲望とか感覚の中で、最も根源的なものは、もちろん、性欲であります。ところが、この性欲という欲求ですら、われわれはデータベースに従って処理しております。その証拠に、たとえば、男性写真週刊誌の広告などを見ると、

 

・名門お嬢様女子大生のセクシーポーズ!

 

・現役スチュワーデスが脱いだ!

 

などというのが載っております。

 

このように、一次的な欲求でさえも、この人は、お嬢さんで名門女子大に行っているんだ、そういうのをみんなは喜ぶから、そういう広告が出てくるのでしょう。

名門女子大生とか、現役スチュワーデス(現在でいうキャビンアテンダント)が脱いだとか、そういう見出しが出る。

 

こういうのはすべて、我々が、汚れたデータベースに従っているからである。


 

だから、ブッダの、「正しく見なさい」というのは、今風の言葉でいうならば、「データベースを正しく更新せよ」とでもいえましょう。

これが、ブッダの教えだと思います。

大乗経典が創作された時に、なんとかアーガマ経を貶めてやりたいと考えた。だがブッダその人を貶めるわけにはいかない。そこで知恵第一の弟子を卑しめる方便を思いついた。

 

あんな、頭の良い弟子でも分からないような深遠・高邁な教えを、読んでいる私はなんて、頭が良いのであろうか、ブッダでも教えを説くのを躊躇した教えを受けている私は特別に選ばれたエリートなのだ。

 

自己を正当化するもっとも簡単で有効な方法は他人を貶めることであるからだ。

 

このように自己陶酔させるわけである。

 

TVのクイズ番組で、難関大学を出た高学歴芸人が、わざと間違えて答えるのをみて喜んでいる視聴者と同じ心理なのである。

 

なお、法華経の十如是というのはクマラージーバが勝手に付け加えたものであることは、現在では分かっているから人間ブッダの教えではない。

俗にコンビニ本と呼ばれるものがある。コンビニの雑誌コーナーの隣に軽い読み物が売ってある。岩波書店や東大出版会の学術書は置いていないわけで、多くは芸能ゴシップのような通俗な内容である。少なくとも大学院の研究室に置かれることは無い。

 

その中で素晴らしい仏教書を発見した。

 

西東社「図解 ブッダの教え」という本である。実に優れた仏教入門書である。

 

内容は極めて高度で、著書は大変な学識をお持ちのようだ。非科学的な内容は見られない。

 

法華経は後世の創作であると書いてあるし、ブッダが生まれてすぐに天上天下唯我独尊と言ったという伝承も事実ではないと退けている。他力もブッダの教えではないと、うまく表現に気を遣いながらも、断定している。ところが、この本はどこをみても著者名が書いていない。僧籍をお持ちかどうかはわからないが、匿名でしか書けなかったのであろう。これが日本における仏教研究の現状である。

諸行無常という言葉は、平家物語で始めて習う人が多い。加えて日本の風土より生じる美意識から、なにか「はかなさ」を感じさせるものだと誤って伝えられている。

 

EVERYTHING IS IMPERMANENT

全ての宇宙の諸現象は変化するものであるというブッダの認識論である。

 

確かに人は必ず死ぬ。だが、一方で新しい命が今日もどこかで誕生している。花は枯れる。だが、しばらく見ていると新しい新芽の息吹が誕生し、新しい花が咲く。

 

素晴らしいことだ。

 

なんと、驚くべき豊かさに宇宙は彩られて作られているのであろうか。

 

ほんの100年もすれば、すべての人間は入れ替わる。乞食も王族も、愚者も哲学者も入れ変わる。しかも生命は連続している。

 

命は命からしか生まれないように宇宙は作られている。

寄せては還す波のように、常に滅びとともに新しいものが生まれている。

 

仏教の学問というのは、非常に狭い世界だ。多くの学者や研究者は育った家庭がお寺であることが多い。仏教系の大学院での初対面の挨拶では、

    どちらのお寺さんですか?

と聞かれるほどだ。

 

だから仏教学者は何々宗のお寺の出で、僧籍を持っているという方が多い。日本のお寺で宗派に属していないのは名古屋の日泰寺だけである。

 

当然、僧籍を持っていれば、その宗派の教えを否定できない。大乗仏教がブッダの教えでないという事が分かって来た時に、混乱が起こった。

 

日本のお寺は基本的に大乗仏教に属するからこれを僧籍を持つものが否定すれば僧籍を剥奪されることになる。

 

実際に、僧籍を剥奪されたり宗門を追放されたりした人もいる。

 

一般の人は「僧籍を剥奪される」という事は何でもないように思われるがお寺に生まれた人間が僧籍を剥奪されるということは、

    医師が医師免許を剥奪されたうえ親から勘当されるようなものだ。

 

この国では、大乗仏教を未だに否定できないのはこれが原因だ。

 

世の中に仏典学者ほど頭の良い人はいないのではないかと感じさせられるくらい仏典研究というのは大変な学問だ。漢文や古文・サンスクリット・パーリーはもちろん英語・ドイツ語に精通した上、さらにはチベット語・タイ語・韓国語などの知識が必要だ。

 

ウメー語というのをご存知であろうか?中央アジアで既に失われた言語だが仏典が見つかっているらしい。大谷大学でウメー語を研究している方がおられた。ここまでくると仏典研究には一体、いくつの言語を身につけなければならないかと気が遠くなる。

 

もともとブッダは一切の著書も残していない。弟子がそばで直接書き写したものもない。仏陀の死後、何年もたって(時間については諸説あり)弟子が集まって伝聞推定で記録したものがアジアに伝言ゲームのように広まった。やがて大乗仏教運動が起こると仏典の形式をまねた文学作品がうまれた。

 

これらがごった煮となって現在伝わっている。それに2000年程度の変遷が加わっている。断片的なものやサンスクリットでかかれたもとの仏典が失われて漢訳しか残っていないものもあるから、一層複雑だ。

 

誠に仏典研究というのは「東京ドームでジクソー・パズルをする」ような作業だ。

もっともそのピースが欠けていたり、関係ないピースが入っていたりするのだが。

 

デカルトについて論文を書く際には、一次資料に当たり正確な引用を期さなければならない。もし引用した言葉が実はデカルトの言葉でなければ、研究者として命取りだ。

 

だが、仏典ははじめから伝聞で成り立っている。日本の学僧が中国へ留学したした時に中国の偉い学者も後に「仏典を真似て作られた文学作品」をそれと見破ることはできていなかった。

 

仏典研究という長い歴史を振り出しに戻して、もう一度やり直すということは不可能になってしまった。幸い近年になって日本の学者が仏教の歴史を見直して初期のおそらくブッダの直接の言葉とおもわれる仏典を平易な日本語に訳し始めた。

 

例えば中村元・先生訳のスッパニパータやダンマパダを読んでみると煩瑣な教理や難解な哲学はない。

 

もともとブッダの教えには難解な解釈や哲学的な高尚な理論や倫理学的な議論を必要とする部分はは無かったのである。

 

 

おそらくブッダの教えは平易で誰にでも分かる日常の人間が生きてゆくうえでの真理をといたものであろう。

 

ブッダは2500年まえのインドの一般大衆に救いの道をといたのであるから、間違っても大学院で何年も研究しないと理解できないような教えであろうはずがない。