だから、ものを見るということは、単に目で見ることではなく、心で見ているわけです。したがって、ものを正しく見るということは非常に難しいことと考えられます。

 

たとえば、ひとつ例を挙げてみましょう。

 

我々は知識として、例えば、ある種の車は非常に高いということを知っていますが、もし高級な外車が目の前を通ったならば、そこに、車が通っているなどとは思わないわけです。あ、すごいお金持ちの人が乗っているな、とても高い車が通っているな、と思うわけです。つまりこれらは、データベースに従って車を見ているからで、

 

もし、生まれてから車を一度も見たことのない人だったら、単に何かの物体が走っているとしか思えない。

 

そうすると我々は、この人は何とか大学を出ている、この人はこういう仕事をしている、この人はこういう地位がある、あるいは、この人はこういう有名な人だ、すべて、汚れたデータベースでものを見てしまうわけです。

 

こういう、人間の勝手な物差しを捨てて、正しくものを見ることを、

 

ブッダは「正見(しょうけん)」、正しく見ると言ったわけです。

また、ものをみるとか、何かをしたいとかいう、さまざまな外界の分析というのも、すべて、個人個人のデータベースに基づいております。

 

たとえば、おなかがすいたときに、単純に「おなかがすいた」と思うことはできないわけです。たいていは、ああ、おにぎりが食いたいな、とか、ラーメンが食いたいなとか、うどんが食いたいなあとか思うわけです。

 

もちろんこれは文化によって規定されているわけですから、うどんのない国や地域では、おなかが減っても、ああ、うどんが食いたいなあとは思わないわけです。つまり、おなかがすいたということでさえ、心のデータベースに従っているわけです。

 

そういった欲望とか感覚の中で、最も根源的なものは、もちろん、性欲であります。ところが、この性欲という欲求ですら、われわれはデータベースに従って処理しております。その証拠に、たとえば、男性写真週刊誌の広告などを見ると、

 

・名門お嬢様女子大生のセクシーポーズ!

 

・現役スチュワーデスが脱いだ!

 

などというのが載っております。

 

このように、一次的な欲求でさえも、この人は、お嬢さんで名門女子大に行っているんだ、そういうのをみんなは喜ぶから、そういう広告が出てくるのでしょう。

名門女子大生とか、現役スチュワーデス(現在でいうキャビンアテンダント)が脱いだとか、そういう見出しが出る。

 

こういうのはすべて、我々が、汚れたデータベースに従っているからである。


 

だから、ブッダの、「正しく見なさい」というのは、今風の言葉でいうならば、「データベースを正しく更新せよ」とでもいえましょう。

これが、ブッダの教えだと思います。