フリーランス翻訳者の 「英語で生きる」

フリーランス翻訳者の 「英語で生きる」

中学校の義務教育課程で英語に初めて出会って40年、54歳にしてやっと英検1級、57歳で全国通訳案内士資格、59歳で国連英検特A級に受かり、そのまま勢いで30年以上続けたのサラリーマン生活に別れを告げてフリーランス翻訳者としての道を歩き始めたおっさんです。

30年以上前に一緒に仕事をしていたことのある米国人夫婦から、旅行で日本に行くので会いたいと言われたのが1月ほど前。

いろいろと調整して、今日浅草の寿司屋で食事をすることに。

 

最後に英語で会話をしたのは、4年ほど前の国連英検特A級の面接試験。毎日英文には触れているものの、スムーズに会話ができるか不安で、付け焼き刃ながら、ひとまず「英語のハノン」を閉本の状態でほぼクリアできる状態を確認して臨んだ。

 

 

実際に会話したところ、やはりグダグダ。一緒にいた英語のほとんどできない日本人の友人からは立派に会話できているように聞こえたらしいが、自分は一言発するたびに「今の英語違う!」と言葉の誤りに気づき、心の中で自分で赤入れしている始末。相手が何言ってるのか聞き取れず当たり障りのない返事で誤魔化したことも数回。

 

どうせ機会がないから英会話のスキルはどうでもいいや、と思ってはいるものの、いい気分はせず、自己嫌悪・・・。

アニメ「タコピーの原罪」を見た。

 

最初タイトルの印象から、軽いファンタジーかと思っていたが、YouTubeでこの作品を見て感動している外国人の動画が複数上がっているのを目にして、興味を引かれて見てみた。

 

これは非常にきつい、胸をえぐられるような物語だった。

大人の身勝手な行動に翻弄され、苦しむ無力な子どもたちの話。

 

自分も子供時代、自分ではどうすることもできない状況に苦しんで(詳細については過去のブログを見て下さい)、つい先日も夢の中で叫び声を上げていたので、このアニメに登場する子どもたちを見ていると、幼い頃の自分にも重ね合わせて胸を抉られる思いがする。

 

みんなを「ハッピー」にする使命を帯びて地球にやって来たタコピーは、子どもたちの涙を見てもどうしていいのかわからない。そもそも「みんなをハッピーにしろ」と言われている以外、地球がどんなところなのかも、人間がどんな生き物なのかも知らないのだ。そして子どもたちの泣き顔を見て、自分も涙を流しながら「ごめんね、何もできなくてごめんね」を繰り返す。

タコピーは子どもたちの心そのものの擬態化だ。最終回でタコピーに感情をぶつけるしずかの台詞にそれが現れている。

 

これは、特に大人が見るべき作品だと思う(そもそもこの作品に登場するような身勝手な大人は見ることもないだろうし、見たところで何も感じないだろうけど)。

 

タイトルの質問の答えですが、翻訳に関しては確実にYESですね。

現実に奪われました。

 

近々大きな仕事が入る予定があると翻訳会社から言われていたのですが、クライアントが方針を切り替えて、AI翻訳で対応することにしたそうで、仕事がなくなった旨連絡がありました。

 

まあー、無理もないですね。

自分もChatGPTは有料のPlusプログラム契約していて、洋書や英文解釈のテキストを自習している際に自分の翻訳に自信がない箇所をAIに訳させてみることがありますが、かなり能力が上がっていて、自分の感覚だと英検1級以上の実力はあるのではないかと思います。

 

しかもChatGPTは単なる直訳にとどまらず、「翻訳」の能力が優れていて、かなりこなれた日本語に訳してくれるし、自分が納得がいかない部分は「この部分はこう訳したら間違いですか?」なんて聞くと、「訳として誤りではありませんが、若干ニュアンスが異なります」みたいなアドバイスまでしてくれる。

 

正直、仕事を受けていても、「これ、AIに訳させればいいんじゃないか?」みたいな考えが頭に浮かぶこともあります。

 

もう「AIはこの部分がだめだ、人間の翻訳者には敵わない」なんて言っている場合ではないですね。

車の自動運転と同じで、AIはどこでミスを犯すかわからないのですべてをAIに任せるのは危険ですが、こと実務翻訳に関しては、翻訳者は必要がなくならないまでも、Post Edit以外の仕事がなくなるのは時間の問題でしょう。

 

私が挫折した字幕翻訳に関しては、映像が伝えようとしている内容を理解した上で、字数制限の中で残す部分と訳出する部分を調整するなどのテクニックが必要ですので、まだAIで対応できるとは思いませんが・・・。

噂の映画「国宝」をやっと見て来た。

 

舞台シーンはひたすら美しく、主演の2人もすごかった。まるで本物の歌舞伎役者と見紛う演技(自分が歌舞伎を知らないせいかもしれませんが)。俳優ってすごいなと思った。顔のクローズアップで見せる歌舞伎という、舞台ではあり得ない映像のインパクトもすごかった。

 

ただ、自分としてはそれだけの感想しかなし。

舞台シーン以外のストーリーがどうも凡庸で、インパクトが感じられなかった。

 

途中主役の1人、極道の息子だった喜久雄が「悪魔と取引した。日本一の役者になるためなら何でもする」というシーンがあるので、人間国宝に上り詰めるまでのドロドロが見られるのかと思ったらそんなことはなく、いつの間にか売れ、いつの間におちぶれ(悪魔と取引したなら落ちぶれるなよ)、いつの間にか復活したという感じの、さほど大きな盛り上がりのない展開。

そもそも喜久雄がなぜそこまで役者に賭ける気になったのか、その内面もあまり描かれておらず、よくわからない。

 

ラスト近く、喜久雄と芸者の間にできた娘が成長し、喜久雄と再会するシーンがある。

彼女は、「あなたのことを父親と思ったことは一度もない、あなたのためにどれだけの人間が犠牲になったか」といった意味の厳しい言葉を投げかけるシーンがあるが、喜久雄が人を踏み台にするような悪いことをした印象がなく、才能と努力で登り詰めたようにしか見えないので、とってつけたようで響かず。

そもそもこの娘が喜久雄の人間関係に詳しいわけがない。だいたい彼女の母親は「2号でも3号でもいいから」と言って喜久雄に近づいたのだし、喜久雄の出世と母親は無関係なので、「何言ってんの?」という感じ。

こういうシーンがあることで、映画に「アラ」があるように感じられてしまう。

 

歌舞伎や人間国宝といった権威ある世界を題材にしているので、余りエグい描写はできなかったのだろうと推察するが、どうも中途半端な作品になっている印象。

 

この映画、手放しで絶賛されているようだが、皮肉な見方をすると「皆がいいって言ってるから、とりあえず自分もいいって言っておこう」といった、同調圧力的なマインドが働いているのでは、という気もする。

 

もしかしたら原作をうまく消化できていない可能性もある。機会があれば原作を読んで確かめたい。

人間ドックの便潜血検査陽性を受け、今日大腸内視鏡検査を受けてきた。

 

自分は心筋梗塞を発症して以来、毎日10種類ぐらいの薬を飲んでいる。それを朝6時までに飲み終えるように言われていたので、今日は5時半起き。

 

その後7時から2リットルの下剤を飲み始め、トイレに10回以上は駆け込んで午後の検査の準備を整えた。

 

今日は混んでいるとのことで、検査は30分ぐらい後倒しになった。

鎮静剤を使うかと聞かれたが、今までも大腸内視鏡は何度も経験していて、胃カメラよりは楽だと思っていたのでそれは断った。

 

人間ドックの検査と同じで10分ぐらいで終わるのだろうと思っていたのだが、今日は恐らく1時間ぐらい、腹の中をカメラで掻き回された。

それもそのはず、ポリープが7つあったそう。それはすべて今日切除した。

 

最終的には生検の結果待ちだけど、医師に「悪性が疑われるものはありませんでした」と言われ、ほっとした。

 

自分の癖として、常に最悪の事態を想定してしまう。ただ、これは意識的にそうして、リスクに対して腹を括るようにしていることもある。

だからこのひと月、「大腸癌」という言葉が頭を離れなかった。パソコンに向かうと、10分置きぐらいにネットで症状や原因などを検索してたり、Chat GPTに癌の可能性を質問したりしていた。おかげでそっちにエネルギーを費やしてしまし、他のことにやる気が起きず、既に病人になったような感覚だった。

 

これでひとまず息がつける。早起きと検査疲れで、一仕事終えたような倦怠感がある。

考えてみれば、潜血検査が陽性でなければポリープも発見できず、癌化していた可能性もあったわけで、やはり人間ドックは大切だと再認識。

 

 

今月4日に受けた人間ドックの結果が昨日届いた。

 

ついに来たと思い、ドキドキしながら、何事もないように神様に祈りながら封を切った。

 

思いも虚しく、E判定(要精密検査)がひとつ・・・。

 

便潜血検査2回のうち、1回が陽性だった。

 

潜血検査で陽性が出たのは初めて。

年齢も年齢だけに不安が募る。

 

今日早速病院に行き、大腸内視鏡検査の予約をしてきた。

検査が7月7日で、もし生検まで行うことになった場合、最終結果が出るのは7月23日とのこと。

1か月以上思い悩みながら生活するのかと思うと気が重い。

 

一昨年は前立腺癌の疑い。

昨年は膵臓癌の疑い。

幸い両方とも何ともなかったが、今年は大腸癌。

 

不安を通り超して腹が立ってきた。

癌になった有名人が「悔しい」と言っているのをニュースで目にしたことがあるが、あの気持ちが少しだけ分かる。

今日は最悪のサービスを経験した。

 

4年使ったSoftbankのiPadにいろいろ不具合が出たので、そろそろ潮時らしいと思い買い換えることにした。

 

まずは量販店に行ったが、在庫がなく入荷まで1か月ぐらいかかると言われた。

それで帰宅してからSoftbankのオンラインショップで機種変を申し込んだところ、いったん受け付けは完了したが、その後キャンセルのメールが来た。

 

何かの審査基準に引っかかったようだが、理由は書いていないし、今までずっとクレジット払いで未納もないはずだし、何の警告を受けた覚えもなく、全く思い当たる節がない。

申し込み内容を確認するURLが記載されていたが、そこにアクセスしても理由の記載はない。

 

メールにショップに行けと書いてあったので、早速近所の店舗に足を運んだが、ショップの店員さんに聞いても「私たちも理由は分からないんです・・・」とのこと。

仕方ないのでその場でサポートに電話させてもらったが、そこでも理由は分からず、オンラインセンターのサポートに転送されるもそこでも不明。

 

審査に落ちた理由が分からないのであれば対処のしようがなく、いつまでも買えないことになりかねない。iPadが使えないのは困るので、もう解約して新規購入するしかないと思ったが、機種変のキャンセルメールが来たにも関わらず、「審査中」のため解約ができないと店員さんに言われる始末。

 

その後何とかショップで裏技らしきものを使って解約して貰ったが、ここまでショップの滞在時間2時間以上。おまけに、機種変なら旧機種を56,000円で買い取ってもらえたのに、それも不意になった。

 

ショップの店員さんは申し訳なさそうに見送ってくれたが、礼を言う気になれず、「はい、はい」と言って店を出てしまった。

その直後に店員さんが可哀想だったかなと思って、一生懸命対応してくれたのにお礼も言わなかった自分が嫌になったし、下取りの金も無駄になったし、今日楽しみにしていたiPadの機種変もそもそも必要だったのだろうかという気さえしてきた。

 

敢えて社名を出させて貰ったが、Softbankさん、長年のユーザーにこんな思いさせないでよ。iPadはDoCoMoで新しく買い直すことにします・・・。

岩崎宏美さんの50周年記念DVDのプロモーション動画をYouTubeで見ているうちに、懐かしさが募って買ってしまった。


彼女が大活躍していたのは自分が中学生から高校生の頃だった。当時は毎日のように彼女の歌声がテレビから聞こえ半ば日常と化していたが、改めて今聞くと、10代であの歌唱力は天才だったとと思う。


彼女は肌を露出するでもなく、派手な振り付けをするでもなく、殊更に容姿をappealするでもなく、アイドルとしては(彼女は「アイドル」というより本格派の歌手だったと思うが)、燻銀のような存在だった。


ちなみに、中学生のころ同級生に彼女によく似た女の子がいて、ちょっと意識していた。


このDVDに関してはデビュー当時からのTBSテレビの映像を6時間以上収録したもので、3万円という価格に「高い」という意見もあるものの、現代の歌手のライブDVDも2時間ほどで1万円程度しているし、収録されている映像はYouTubeでもなかなか見られないものなので、まあ妥当だと思う。


岩崎宏美さんは現在も若い頃とあまり変わらない声で歌っていらっしゃるが、今の彼女とこのDVDの映像を両方見ていると、いつの間に時が経ったことを実感して何とも感無量だ。


先日久しぶりに応募した出版翻訳のオーディションは、無事一次審査を通過した。最近、これならいけるだろう、ぐらいの手応えがある時はだいたい一次審査は通過するようになった。少しずつでも進歩はしている気がする。


昨年ピアノの練習を始めたことをFacebookに投稿したら、知人から「いつまでも向上心があって偉いですね」と言ったコメントをいただいた。


それに対しては「興味を持ったことを好きにやっているだけです」と返事をした。


これは真実だ。

でも、英語といいピアノといい、技術を磨き続けているのには他にも理由があると自分で気づいている。


それは「老い」に対する恐れ。

何かに取り組んで、少しでも前に進んでいかないと、人生が先細りになる一方のような気がしているのだ。


自分はたとえ独りであっても、(体に問題がない限り)本と映画と音楽と、あとは少しの酒があれば老後を乗り切れると思っているが、年老いてただそういうものをぼーっと楽しんでいるだけの毎日などぞっとする。


できれば大勢の人に読んでもらえるような本を訳したいし、いつの日かストリートピアノにもデビューできればな、と考えている。それらは「夢」であると同時に、強迫観念も混ざっている。

そうやって世の中に関わっていかなければ、子供も孫もいない自分は、存在が薄くなっていくばかりのように思えてしまう。


英語もピアノも、自分にとっては人生の支えであると思っている。



先日のゼレンスキー大統領とトランプ大統領との会談は、前代未聞の物別れに終わった。

 

その中で、会談が失敗に終わった理由のひとつに、「ゼレンスキー大統領は英語が苦手だから会談がうまく行かなかった、通訳を付けるべきだった」という記事を目にする。それも、個人のブログ記事ではなく、大手メディアがそういう記事を載せている。

 

本当にそうだったのだろうか?

自分はそうは思わない。

 

改めて会談の様子の動画を見ると、最初の40分は通訳がついていなくても、非常に和やかなムードで、ゼレンスキー大統領もトランプ大統領も笑顔さえ浮かべていた。

 

ムードが一変したのは、ラスト10分、ゼレンスキー大統領がトランプ大統領に対して、「あなたはプーチン氏に肩入れしすぎではないか」と質問したことからだった。

 

それに対して、バンス副大統領が、「失礼なことを言うな」とばかりに、トランプ大統領の外交上の功績を支持するような反論したのに対し、ゼレンスキー大統領は、2014年からの経緯を話し、窮状を訴え、「どこに『外交』があったと言うのか。教えて欲しい」という意味で「What diplomacy are you talking about?   What do you mean?」と言い返した。

 

上記の記事で取り沙汰されているのはこの部分で、ここは「Could you clarify~」みたいな表現を使うべきだった、What do you meanは失礼だ、通訳を使えばこんなことにはならなかったなどと書いてあるものを見たが、何とも的外れな指摘としか思えない。

 

確かに、この表現は言葉遣いとしてはかなり強い。だが、険悪な会話の流れからすれば自然な言葉とも言える。さらに、あの状況でそんなビジネス英語のテキストから抜き出したような表現を使うのは、いわゆる「慇懃無礼」というやつで、逆に不自然だし、却って挑発的に聞こえる可能性もある。

 

その後の会話の中でも不適切な言い方があったとして、上記のように紋切り型のビジネス英語を引っ張り出して、こう言うべきだった、なんて指摘している記事もあるが、あれだけ互いに口論になってる中では逆に違和感が大きすぎる。

 

今回の会談が物別れに終わったのは、そもそもトランプ陣営とゼレンスキー大統領の認識が大きく異なっていたことで意見が食い違ってしまったというのが大きな理由で、言葉遣いは確かに「きつかった」部分はあるかも知れないが、「英語が下手なのだから通訳を使うべきだった」ということにはならない。


だいたい「英語に問題があった」という指摘は、「本当に意図したことが正しく伝わらなかった」時に言うものであって、今回のゼレンスキー大統領の立腹した気持ちは正しく伝わっている。

 

仮に通訳を使ったところで、ゼレンスキー大統領が同じ意味の言葉を通訳に伝えれば、同じ結果になっただろう。

 

彼の英語が下手だったのが失敗の原因だった、通訳をつければあんなことになならなかったなんてしたり顔で言っている日本人は、中途半端に英語ができて、恐らく他の部分は聞き取れなかったけど、たまたま「What diplomacy are you talking about?  What do you mean?」を聞き取れたので、得意になってあれこれ言っているだけにしか思えない。

 

会話の流れも理解しないまま、感情的になって口走った言葉尻を捉えて、それが会談失敗の原因だなどと言う指摘は笑止千万としか言いようがない。

 

今回ゼレンスキー大統領に落ち度があるとすれば、それは「英語が下手なのに通訳をつけなかった」ことではなく、「英語ができる」ために、自分の感情をそのまま言葉にしてしまったことだ。

 

ゼレンスキー大統領の英語を全部聞いたわけではないが、もちろんたどたどしさはある。だが、米国大統領と通訳抜きで40分間和やかな会談をして、その後の激論にも対応できるのは相当な英語力だ。上記の記事を書いた日本人に、果たして同じことができるのだろうか。

 

なんか大勢が見当違いなことを言っている状況には、非常に腹立たしさを感じてしまう。