「焼き場に立つ少年」は、なぜ封印され、なぜ、公開されたか。 | 見上げれば、青空 ~羽生結弦選手に夢を託して~

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励まされ、受けとめられて、初めて人は、生きていけるのかな?

コメント、嬉しいです。
励まされないと、何もできない性質なので・・・・。
って、いきなり弱気?

フィギュアスケートの羽生結弦選手を応援しています。

苦しい程に結弦くんが好きな方、ようこそ!

今日は、長崎原爆の日。

一度目にしたことのある方なら、きっと忘れることのない、一枚の写真。

「焼き場に立つ少年」



原爆投下直後、
長崎で米軍のカメラマンによって撮影されたものです。

ローマ法王がこの写真でカードを作り、
自らのサインを入れて配布したことで、
世界中から注目されたのは、昨年の1月でした。(CNN

この少年は、いったい、誰なのか、
この後、彼はどのようにして、生きていったのだろう・・・。
◆もういちど“長崎の原爆”をみつめる「“焼き場に立つ少年”をさがして」
(きっと再放送もあると思います。)



実はこの写真は、
米軍カメラマンだったオダネル氏の自宅で、
戦後、43年もの間、ずっと隠されていたのです。

それも、「絶対に開けてはならない」と貼り紙をしたトランクの中に・・・。


オダネル氏は米軍のオフィシャルなカメラマンだったけれども、

これらの写真は、全て、
オダネル氏が軍の規律に違反して
こっそり撮影し、
密かに米国に持ち帰ったものだったのです・・・。



この写真を巡り、
二つのドキュメンタリー番組が作られていたことが分かりました。

◆原爆の夏 遠い日の少年~元米軍カメラマンが心奪われた一瞬の出会い~(TBS)
https://www.bs-tbs.co.jp/genre/detail/?mid=KDT0401600

◆解かされた封印 ~米軍カメラマンが見たNAGASAKI(NHK)





「焼き場に立つ少年」は、

実は、軍の規則に違反し、
個人のカメラで密かに撮影した30枚のうちの1枚だったのです。







新型爆弾の効果を記録するために長崎入りしたオダネル氏は、
長崎で目にしたものの、あまりの衝撃に、夜も眠れなくなり、
彼は、その写真を封印してしまいます。

そして、実は、オダネル氏は間接原爆症に悩まされ、全身にガンを発症し、
長崎原爆投下と同じ、8月9日に息を引き取るのです。


でも。。。。
その死が訪れるまでの間に、

彼が何を為したか。


つまり、

どうやって、封印した秘密の写真を公開したか。

公開したために、彼がどんな立場に立たされて、

家庭の幸せも全て失ってしまったか。


目撃してしまった記憶に突き動かされた、

彼の戦後の人生に迫ったドキュメンタリー。

ぜひ、一度ご覧になっていただければ、と思います。


◆NHKスペシャル /解かされた封印 ~米軍カメラマンが見たNAGASAKI

以下、動画の説明より。

 「焼き場に立つ少年」1枚の写真が注目を集めている。

63年前、被爆した長崎で撮影されたもので、亡くなった幼い弟の亡きがらを背負い火葬場の前に立つ「焼き場に立つ少年」と題された写真だ。

 撮影したのはアメリカ人カメラマン、ジョー・オダネル。去年8月9日、亡くなった。

占領軍として原爆投下後の長崎に入り、その破壊力を記録するため写真を撮影する一方で、軍に隠れ内密に自分のカメラでおよそ30枚の写真を記録した。

帰国後、被爆者の記憶に悩まされ、悲劇を忘れ去ろうと全てのネガを自宅屋根裏部屋のトランクの中に閉じこめ、43年間封印してしまう。

しかし晩年になって原爆の悲劇を訴え母国アメリカの告発に踏み切っていく。原爆投下を信じる周囲から非難の声を浴びながら、85歳の生涯を閉じた。

 なぜオダネルは、軍の規則に違反して写真を撮影したのか。

 なぜその写真を長年隠し、晩年になってトランクを開け母国を告発したのか。

 その足跡を追う息子が、遺品の中に残された録音テープを発見した。そこには写真に秘められた過去と、真実を伝えざるを得なかったオダネルの思いが告白されていた。

「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。

10才くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶ紐をたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。

しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。しかも彼は裸足です。少年は焼き場の渕まで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。

少年は焼き場の渕に、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクをした男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。

 この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気づいたのです。男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それから眩いほどの炎がさっと舞い上がりました。

真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血が滲んでいるのに気がついたのは。

少年があまりにきつく噛みしめている為、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりと踵(きびす)を返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした。」




 「これほど残酷な人災があるだろうか。これは人類に対する重罪と言える」(ジョー・オダネル)

 オダネル氏が所属していた米海兵隊は一九四五年九月、佐世保に上陸。同氏は福岡、広島、長崎などを回り、戦争の生々しい傷跡をカメラに収めた。来崎は十月以降とみられ、廃虚と化した爆心地付近で撮影した。

 倒壊した浦上天主堂の廃虚に立ったオダネル氏は「神様、わたしたちは何とひどいことをしたのか」と悔恨の涙を流す。帰国後は「忘れてしまいたい」と四十三年間にわたり、未現像フィルムをトランクの中に封印していた。しかし九〇年、「核兵器の恐怖を伝えなければ」との思いから、ついに写真を公開した。

 今回展示するのは、オダネル氏の妻・坂井貴美子さんが長崎市に寄贈する四十六点のうち、撮影場所が同市内とほぼ特定できる写真だ。

 中でも注目されるのは、オダネル氏の著書「トランクの中の日本」(小学館)にも未収録の「廃墟の兄弟」。辺り一面のがれきの中、傷付いた幼子を背負う少年がたたずむ。悲しみと不安の入り交じった目が胸を打つ。

 長崎平和推進協会写真資料調査部会の深堀好敏部会長(79)は「当時の人物を撮影した写真は少なく、『廃墟の兄弟』は特に貴重と言える。その他の風景写真も被災状況をはっきり実感できる資料だ」と話している。

「ジョー オダネル写真集」
トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録: Joe O’Donnell,








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