もう一度見たいベラ・ャスラフスカがいた京オリンピック

廃墟の中から祖国の繁栄をつかみ取ってみせた日本が、いま悲しんでいる。

 

ベラ・チャスラフスカがいたオリンピックを取り戻そう。

日本のオリンピック委員会は組織ぐるみで賄賂疑惑の黒い汚染にまみれて、みずからを汚してしまった。かつての日本は、すばらしい国であった。その「自由と繁栄の時代」を予感させた地球規模の晴れがましい気運が地に落ちたのだ。

日本人としてのプライドはどこへ行ってしまったのか。

 

 

ベラ・チャスラフスカ。1964年東京オリンピック

 

 

あのころの政治家をささえる、エリート然とした語学力抜群の若き外交官たちがいた。

それはジョン・F・ケネディのダラスでの暗殺劇に端を発した米ジョンソン政権の奇跡のアジア重視の路線から飛び出したエリートたちだった。

だれの目にも、時代は変わると認識させた。

多くの友人たちは、大学3年ともなると、駿河台キャンパスのマロニエの木々が色づくころ、本格的に就職活動にはいった。

1960年代とうじの日本は、右肩あがりの時代で、とりわけ奇跡の復興をなし遂げた日本の風景が所与する、とうぜんの繁栄のはじまりのように見えた。

それまでGHQによる占領政策の軛(くびき)に縛られていた日本は、このとき気づいたのだ。

「戦争がおわったから、目もくらむような戦後になったのではない」ことを。

戦後にできたマッカーサー条例を突き付けられて、多くの日本のエリートたちの息の根を止められ、自虐的戦争の犯罪人として糾弾された。多くの日本人は、じぶんたちが戦争犯罪者であったことを恥じたのである。

日本人は潔く、みずからを恥じる国民であることを熟知していたマッカーサーは、そういう侵略戦争というフィクションを、多くの日本人のこころに植え付け、みごとに成功した。

その口車に乗ったのが日教組で、日本全国の小学校、中学校で、ありもしない日本の軍人が戦争犯罪を犯したという自虐史観を教え込ませたのである。戦後日本の歴史は、GHQの政策の一環として長く定着し、70年以上たったいまでも、体制においてまだつづいている。

ぼくは、大学3年のとき、人のすすめもあって駿河台の大学のキャンパスを飛び出し、ロンドンに向かった。なにかがおかしいと気づいたからだった。

ロンドンは、都内で鬱然と過ごした空気感とはまるでちがった空気が流れていた。列強大国を相手に戦った側の日本人のじぶんに、彼らはみんな歓迎の手をさしのべたのである。

あの戦争、近隣諸国への侵攻は、征服のためではなく、解放戦争であったろうという日本のプロパガンダに似た褒めことばさえ彼らから聞いた。事実、その後の日本の拡張政策は時代錯誤のなかで西欧列強の資本主義者を標榜する新リーダーのご機嫌をそこね、パールハーバーでは眠れるライオンをたたき起こし、侵略の汚名をかぶったまま野蛮な戦いに挑んだ。

このことは、戦後多くの識者たちによって「間違った戦争」と呼ばれ、反戦思想を生み、7年弱の占領下をくぐり抜けた日本の若者たちは、学生運動によって日米安保体制への批判を繰りひろげた。

戦争の知らない若者は、平和憲法のもとで、ふたたび強国による戦争に巻き込まれまいとする強烈なアピールを繰り広げた。こうした若者が、戦後の時代を築いたのである。それは、目もくらむような戦後だった。

それから70余年が過ぎたいま、日本政府は「自由と繁栄の弧」というスローガンを立て、それからさらに抜け出して、こんどは「地球儀俯瞰外交」ということをいいはじめた。「自由と繁栄の弧」は、ひと口にいえば「価値の外交」ということらしい。

日本の新機軸は、民主主義、自由、人権、法の支配、そして市場経済を指す。その取り組みは、東欧のポーランド、ハンガリーにたいして総額19億5000万ドル(2800億円)の支援策を乗り出し、バルカン半島の旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナに内戦終結後には、5億ドルを支援したことになる。

それはあきらかに日本が平易、明解、正直に本音を対外向けに発信した本格的な外交シグナルだったとおもわれる。日本の歴史的転換点に立っていることを訴えたもの。

これは、ある人は、現在のコロナ禍にあっても、自信に満ちた「日本の自画像」であると述べた。

そしていま、「インド洋を制する者、世界の経済を制す。日印は連携強化を」とか、「いまこそインドとの連携強化を。中国の新型ミサイル登場を受けて」とか、ほとんどだれも想像しなかった安倍政権の「日米豪印《安全保障ダイヤモンド構想》」などが打ちだされたのである。安倍晋三総理がいない現在でも変わらない。

それまでの国の政策は、日米安保のもと、経済に集中していた。ここにきて、安全保障と軍事バランスを抑止とした連携が打ちだされるようになったのである。

しかし、事はそう単純ではない。

パワーポリティックスのもとで、つねに実践の洗礼を受ける宿命の外交シーンでは、二者択一の現実を前に「国益の最大化」と、「パワーの拡大」はおたがいに矛盾するテーゼであった。

だが、少なくともリチャード・ニクソン大統領は、「廃墟の中から祖国の経済的勝利をつかみ取ってみせた」という日本の手腕に、戦後の指導者たちの力を見くびらなかった。

アベノミクスとジャパンブランド。――よくいわれることに「ジャパンブランド」がある。「ジャパンブランド」とはいったい何か?

中小企業庁が中心となって、日本の伝統的な技術・技能を伝統を重んじながら進化させ、今日のくらしに合わせてより魅力ある「もの」にしていくプロジェクト。――そんなふうにうたわれている。

各地域の中小企業が、時代と国境を越えて発揮できる「強み」や「志」ある伝統技術・技能を「匠の品質」、「用の美」、「地域の志」の3つをあげている。それで想いだされるのは、映画「Always 三丁目の夕日」だ。2005年公開。原作は西岸良平のマンガ「三丁目の夕日」だった。

日本人のこころを描いたものである。

昭和33年ごろの東京下町を舞台にした日本の敗戦の焦土から立ち上がり、いよいよ高度経済成長期に移ろうとする時代を背景に、夕日町三丁目に暮らす庶民のこころ温まる交流を描いたものである。

日本がもっとも輝いていた1964年、東京五輪開催の年、ぼくはロンドンの街角のTVで東京五輪の競技のようすを観ていた。ベラ・チャスラフスカの、あの美しい体操競技はため息がでるほど素晴らしかった。平均台、跳馬と個人総合の金メダルに加え、団体でも銀メダルを手にした。優美な演技は日本において「オリンピックの名花」、または「体操の名花」と讃えられた。

そのころから、国力はスポーツ競技にも如実にあらわれた。

だが、ぼくには東側にいたベラ・チャスラフスカに政治的なメッセージを少しも感じなかった。東洋のアジアではじめて開かれたのオリンピックの舞台で、その美しさは、並みはずれて見えたのである。

この間日本は、冷戦終結という歴史的大事に遭遇した。

日本外交は、「空間的な点と線」から、いきなり「面と立体」を加えて(鈴木美勝「日本の戦略外交」、ちくま新書、2017年)、戦後、米主導で構築されてきた国際秩序が名実ともに終止符が打たれた。

さらにアジアでは、力まかせに脅威と粗暴をふるまう中国やロシアに、どう立ち向かっていくべきか、待ったなしの外交と向き合っている。北朝鮮問題の雲行きもあやしくなってきた。外交にともなう交換文書も、ときに不敵なことに相手国はいきなり反故(ほご)にするのだ。

イギリスにはこんなことばがある。

「The devil is the details(悪魔は細部に宿る)」ということばだ。中国の台頭など、外交とはオリンピック競技のようなルールはないのだ。これからの世界の外交に目が離せない。