SMAP 世界に一つだけの花 Sekai ni Hitotsu Dake no Hana。

 

歌は世につれ「界に一つだけの」ほか

 

さいきん、ギターを弾いているじぶんの夢を見る。

よくよく考えれば、学生時代に銀座に住んでいて、近くの公園でギターを弾いたものである。

銀座には1962年から1965年まで新聞配達の銀座の寮生活を愉しんでいた。学生の仲間たちが25人ほどいた。大学に通っていた3年間と少しだけ、銀座に住んだことになる。

で、北海道の弟が上京し、念願の法政大学に入学が決まると、目黒本町で8畳の部屋を見つけると、ふたりはそこで自炊生活をするようになった。札幌の叔母から多額の援助があり、ぼくらはバイトもしていたので、けっこう裕福な生活だった。

じぶんは明治大学文学部に通学し、この前年、渡航の自由化がきまると、ロンドン大学留学をきめた。無試験だった。

あのころは、大学の教育レベルは、ひどく遅れていた。

ベトナム戦争の前期とはいえ、アメリカの若者たちが怒涛のように都内に押し寄せ、数週間後、みんなベトナムの前線におくりこまれた。

日本で発行される英字新聞には、軍事用語が山のように書かれていたが、それを伝える恰好の英和辞典がなかった。

「スナイパー(sniper)なんて、何のことか、さっぱりわからなかったんですよ。だってそうでしょ? スナイプ(snipe)は、キジバトのキジだろう? それに-erをくっつけたら何になる? ってわけだよ。東洋人には、物陰から狙い撃ちする《狙撃兵》なんていう難解な軍事用語はわかるわけないだろう?」

これから世界はどうなるのだろう、とおもった。

いくら勉強なんかしても、われわれはベトナム戦争の前に立ち向かう勇気さえないのだ。

前線に行こうともしないわれわれ日本の若者は、このままでいいのか! とだれもが思った。

コネチカットの農村からやってきた青年は、坂本九の「上を向いて歩こう」(アメリカでは「スキヤキ」といった)を歌って目を潤ませ、田舎の女の子のことを話した。兵役義務の2年間は無事に過ごしていきたいといった。

「無事に帰れたら、そのときはかならず東京へやって来るよ。コネチカットの女の子のその後のことを、君に教えてあげるよ」といった。

「なぜ?」

「女の子はまだ18だが、お腹には赤ん坊がいるんだ。ぼくの子さ。だから」といった。

何やらアドレスらしいことを書いた紙を受け取ったが、ボストンバッグの書類入れのポケットに入れたままになっている。古いパスポートはもうない。

想い出はビールの泡のようにたちまち凋んでどこかに消えてゆく。

 

 

坂本九「上を向いて歩こう」

ぼくは、お酒に弱くなった。

アルコールを分解する酵素が失われたのかもしれない。ビールを少し飲んだだけで、たちまち酔っぱらう。若いころ、札幌のすすきので飲んだくれていたころ、ぼくはけっこう飲める口だった。札幌はいい街だ。歌も歌える。

「田中さんて、歌うんですか?」と、きょう質問したのは、長年札幌で仲良くしていた後輩にあたるある社長だった。きょう久しぶりに、――おそらく20年ぶりだろうか、――計画的に草加で会った。会って3時間を共にし、食事をしたりしていろいろな話をしたっけ。

「ぼくは流行歌のほうはちょっと、……」といっている。

「田中さんは歌うんですね」というから、

「歌うよ。若いころはもっと歌った」というと、69歳の彼は、「ほう」といってから、ははははっと笑った。

「長年田中さんとお付き合いしていて、そいつは知りませんでした」といった。

「ついこのあいだ、旭川で友人とカラオケ店で、おもいっきり、歌ってきましたよ」とぼくはいった。

「なにを歌いました?」ってきく。

「そりゃあ三橋美智也から春日八郎さ、水原弘、美空ひばり、……そして藤山一郎さ」

「もっとふるい歌、歌えますか?」

「たとえば……」

「たとえば、ほら、《誰か故郷を想わざる》とか、《国境の町》とか、……」

「ほう、東海林太郎さんの歌ですね。……ぼくは東海林太郎さんに会いましたよ」

「どこで?」

「新橋の、……ほら、夜の新橋ですよ。雨に降られちゃって、東海林太郎さんとビルのふもとでふたりならんで雨宿りなんかして。あの方は、そういうときでも、直立不動なんですよ、ははははっ、わかる?」

「わかりますよ、ははははっ、それはいつ?」

「もちろん、じぶんは学生のころですよ。昭和37、8年ごろかな。ぼくはそのころ、マンドリンを弾いてました」

「マンドリンかあ、マンドリンていえば、古賀政男ですね。ギターは?」

「高校生のころはギターを弾いてました。古賀政男先生の曲なら何でも弾けます」

「《異国の丘》っていう曲、弾けますか?」

「もちろん。もっと若いころはヴァイオリンで弾いていましたよ。《今日も暮れゆく、異国の丘に、友よ辛かろ、切なかろ》って歌うやつだね。これには別の歌詞もあってね、《帰る日も来る、春が来る》っていう歌もありましたね。ぼくはそっちのほうが好きだな。希望の光が見えてくるみたいで」

「ほう、田中さんて、そんなに古い人だっけ?」

「ははははっ、そんなに古くはないよ。父がヴァイオリンを弾いていたから知ってるのさ。昭和6年、――シェー・ママが生まれた年、――友人のママのことですがね、――若槻禮次郞の時代だそうだよ、そのシェーママはいってた。昭和6年には古賀政男の《酒は涙か溜息か》が生まれ、昭和7年には《影を慕いて》が生まれ、《雨に咲く花》が生まれ、ほら、《およばぬことと、あきらめました》って歌うやつさ。なつかしいですよ」とぼくはいった。

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」ですか。菊田一夫原作のラジオドラマ「君の名は」は、戦火のなかで巡り合った男女が愛し合いながら擦れ違いの運命に翻弄されるというドラマだった。

じぶんも、夜の日比谷公園で、銀座のエレベーターガールとデートして、

「キス? ぼくは経験ありません」といったものだから、26歳の彼女は、夜の公園に誘ったわけだった。

「ほら、ここが日比谷公園よ。広いでしょ? お山に登ってみたい?」と、じぶんにきいた。

「ええ、……」というと、彼女は「ここにはライトがないので、お山は真っ暗よ。足元より、木々の小枝に気をつけてね! それに、地面に寝てる人もいるから、……」といった。

お山の上で彼女とキスを交わしていたら、暗がりでライターの光が走った。男がたばこに火をつけたのだ。すると女たちの顔が大きく浮かびあがった。

ぼくはもう、頭がくらくらしていた。

そのころは、なんといっても坂本九の「上を向いて歩こう」だね、じぶんはいった。

中村八大、永六輔という稀代の名コンビ、日本ポップス界の頂点に君臨する代表的な楽曲「上を向いて歩こう」は、1961年に大ヒットし、翌年、全米ナンバー・ワンに輝き、世界的なヒット作品になった。

日本の歌がポップスのメッカ、アメリカで大ヒットを飛ばすことは前代未聞で驚異的なことであり、後にも先にも、そうした例はない。

自国のアメリカのアーティストによってカバーされてヒットしたというならば、考えられないわけでもない。しかしそれは、日本人がつくり、日本人が歌って受け入れられ、ヒットチャートのトップに躍り出るというのは、二度とない快挙だった。

 

 

 

NHKテレビの《夢で会いましょう》から日本の多くのポップスが生まれていった。

ジャズやアメリカン・ポップスの影響を受けて、若いみんながその夢を追いかけるように育っていった。

「ぼくらは、それを聴いて育っていった世代なんだよ。そんななか、《いつでも夢を》が大ヒットし、1963年(昭和38年)のレコード大賞に輝いた」

その前は、「星よりひそかに」が大ヒットし、橋幸夫と吉永小百合のデュエットが若者のこころを捉え、素晴らしく売り上げを伸ばした。

同時に、ふたりが出る映画「草を刈る娘」を観て以来、4歳年上の吉永小百合の色気のあるぴちぴちした若さにめろめろになったという、当時小学校5年生林哲司氏告白している。5年生とはいえ、おませではない。じぶんも5年生でそうだったのだ。林哲司氏の自著「歌謡曲」(音楽之友社、2004年)のなかで語っている。

「小学校5年生」だぜ! とぼくはいった。

「小学校5年生のおちんちんに、毛がうっすらと生えてきちゃって。そりゃあもう、嬉しかったなあ。大人になった気分さ」

「先輩のアレ、見せて」というと、1年先輩の隣りのお兄ちゃんがパンツをそっと下げると、静かに見せてくれた。

「ふーん、まだ産毛みたいだね」とぼくはいった。

「自分のはどうなんだ? ってきくから、5年生のアレを見せてやったよ。「青い山脈」の「旅の乙女に」ツルツルのアレを。

 

 古い上衣よ さようなら

 淋しい夢よ さようなら

 青い山脈 バラ色雲へ

 あこがれの

 旅の乙女に 鳥も啼く

じぶんが通っている明治大学文学部の駿河台キャンパスに映るのは、その年に入学してきた日活の女優松原智恵子さん(19歳)だった。彼女は女優で若く、美しかった。

「――きみを一日に喩えようか」ではじまるシェイクスピアのソネット。英文科の橘忠衛教授は、松原智恵子さんにシェイクスピアのソネットの英文をけっして読ませなかった。そのかわり、いつも松原智恵子さんの隣りに座っているじぶんに読ませた。

 

松原智恵子さん

 

 きみを夏の一日に喩えようか。

 きみはさらに美しく、さらに優しい。

 手荒な風が5月の可愛いつぼみをゆすり、

 しかも、夏の貸借期間は短すぎる。

 Shall I compare thee to a summer’s day?

 Thou art more lovely and more temperate:

 Rough winds de shake the darling buds of May,

 And summer’s lease hath all too short a date:

 (シェイクスピア「ソネット」第18番)

 

「映画好きかい?」ときくと、

「むかしは好きだったな」とSさんはいった。

「むかしはジョン・ウェインの出る西部劇が圧倒的な人気がありましたな。映画では、《駅馬車》とか、《黄色いリボン》、《アラモ》なんかがつづいていたっけ。三本立て映画館はすいていて、館内は涼しく、これまた安いんだ」とSさんはいった。

「大学の講義なんて、おもしろくもなんともない。そういうときこそ、東京は場末の映画館に身を浸すのさ」

「ジョン・ウェインの映画はよかった。映画と歌とがくっついたのは、加山雄三の映画《エレキの若大将》が最初だったですよ。曲がヒットチャートに躍り出た映画《エレキの若大将》がはじめてじゃないかな。その年、若大将ブームが巻き起こるなんて、半年前じゃわかるわけありませんからな」

「そりゃあそうだ」

「山手線の有楽町駅のガード下にはまだ傷痍軍人がずらりと並んでいて、サラリーマンたちの靴を磨いたりしてるんだ。宮城まり子さんの《ガード下の靴みがき》が大ヒットを飛ばしていた」

「彼女の名前は、知っていますよ」とSさんがいう。

彼女の愛人は、――というか応援者は、――作家の吉行淳之介さんなんですよね」

「恋人というか、庇護者というか、なにしろ、宮城まり子さんのことを心底から好いていらっしゃるご仁で。ぼくなんか、真似もできません」とSさんはいった。

 

 

宮城まり子「ガード下の靴みがき」

 

SMAPの「世界に一つだけの花」があちこちから聞こえてくる時代は、もう去った。

ウクライナの人びとのことを想って、「世界に一つだけの花」をささげる人はいるかもしれない。戦争はなくならない。決して、決してなくならない。だから生きているわれわれは歌わなければならないのだ。

だからといって、№ONEを否定するわけじゃないけれど、№ONEにならなくてもいい。もっと特別なOnly oneになろう。それが「世界に一つだけの花」なのさ。

 

美空ひばり「悲しい酒」

 

 

たとえば、美空ひばりの、ほら、1966年?だっけ、石本美由紀の歌詞ができて、古賀政男が作曲したという「悲しい酒」ですが、それを聴いていると、音楽評論家の小西良太郎のいうとおり、あのころの時代の空気っていうやつが、無性に伝わってきます。

 

 ひとり酒場で 飲む酒は

 別れ涙の 味がする

 

この出だしは、石本美由紀がなかなか書けなくて、酒場にひとり出向くのですね。

そして、酒場の女とちょっと会話を交わすのです。女は田舎からでてきたばかり。

「店で、ひとり飲んでいると、お酒って涙の味がするんですね」といったのです。

それで石本はコースターの裏に「ひとり酒場で 飲む酒は 別れ涙の 味がする」と書いたのです。

そしてコートを着て酒場を出ていきます。そのころには、もう8行ぐらい想い浮かんでいるんですね。なんとも懐かしく想い出されます。ぼくは明大マンドリン倶楽部にいて、毎週、駿河台の明治大学記念館講堂の地下1階、もぐら街道1丁目にあるマンドリン倶楽部で、古賀政男先生の指導を受けていました。

そのころ、ぼくは銀座1丁目の京橋小学校の隣りの寮に住んでいて、真夏になると暑いので、よく海水パンツ1枚になって、夜のフェンスをよじ登って、小学校のプールに身を浸していました。

守衛はめったにきません。汗もひいて、気分もさっぱりするとギターを取り出してきて、公園で「古賀メロディ」を弾いたり、アンリ・バルビュスの「地獄」を読んだりしていました。

さーて、この「青い山脈」の「山脈」というのは、いったい何だろう?

彼も頭をひねっている。しかも「青い山脈」と歌っている。西條八十にきいてみたくなる。

終戦後、この歌は爆発的にヒットしたらしい。

西東三鬼の「恐るべき君等の乳房夏来(きた)る」っていう句みたいなものか。

「ほう、恐るべき君等の乳房っていうところが、いいねぇ。――」

「だって、夏は薄着の季節だからね。戦争がおわってみれば、黒っぽい衣服を脱ぎ捨てて、みんな真っ白なブラウスになった。女性の乳房の、あの流線形に作者は圧倒されているんだね。女性と母性の象徴、その乳房がですよ。

夏はいつだって、崇高な生命力があらわれる季節なんだね」

「《ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき》(桂信子)っていう句もあるね」とぼくがいうと、「みんな戦後の空気を溜めていますね」と彼はいった。

「戦争が終わったから、戦後になったのではないという考えがあるらしいですよ」とぼくはいった。古い上衣を脱ぎ捨てるように、新しい時代を迎えようっていうわけかい?  軍国主義よ、さようなら。悲しい旅路よ、さようなら。

芽生えはじめた新しい人びと、新しい時代、それはまだ青く、幼いけれど、次代を築く山脈のようだというのだろうか。――70年以上たったいまも、「青い山脈」は歌い継がれている。

学生のころ、ピカデリー劇場では、「ウェストサイド・ストーリー」がロングランをつづけていた。別の劇場では「ニュールンベルグ裁判」、「野いちご」、「怒りの葡萄」などが上映されていた。

ぼくは銀座について、これまで何か書いたという記憶はない。ぼくの小説には、たびたび出てくるけれど、そうでない文章には銀座はけっして出てこない。ぼくはそのころ、いつも「恋」にたいしてつよい憧憬を抱いていた。

夢あわき青春時代である。青白い顔をしたニキビ面の大学生だった。勉強もしたけれど、そういう銀座の街全体にたいして、北国出身の朴念仁としては、異常なほどコンプレックスを抱いていたように思う。