フランソワ・トリュフォー監督の――

映画「人はってくれない」。

 映画「大人は判ってくれない」。

左は、映画「禁じられた遊び」の子役ブリジット・フォッセーさん5歳。右は、主演女優になったブリジット・フォッセーさん。

 

1985年5月31日に開幕された第1回東京国際映画祭は、すばらしかったなとおもう。抜けるような青空のもと、ジャンヌ・モローさんが日本にやってきた。われわれに圧倒的な存在感を示した。

ぼくは中年の43歳になっていた。

そして、もしもそこに、フランソワ・トリュフォーさんがいたならば、会場はもっと最高の演出で盛り上がったに違いない。彼は前年の8月21日に死去していた。トリフォー監督の追悼会が催されたのは、ジャンヌ・モローさんがいたからできたといわれている。ぼくは、元岩波ホールの総支配人・高野悦子さんの書かれた「女性が映画をつくるということ」(朝日文庫、2000年)という本を読んでいて、その本でトリュフォーさんの追悼会の模様を知った。

西ドイツのヘルマ・サンダース=ブラームスさんもやってきた。すらりとしたきれいな金髪の美しい女性で、彼女は大作曲家のブラームス家の子孫で、彼女の映画は「ドイツ・青ざめた母」(1980年)以来、日本のファンも多くなった。のちの彼女の映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」は名作である。そのときやってきたのは、「エミリーの未来」の主演女優のブリジット・フォッセーさんといっしょに現われるシーンのために、二人連れだって登場したのである。

ブリジット・フォッセーさんといっても、日本人にはなじみがないかもしれない。

だが、「禁じられた遊び」の名子役だったフォッセーさんといえば、だれもが想いだすだろう。その人なのだ。

そのときは聡明な30代の女優に成長していた。主役のエミリーに希望を託す映画なのだから、フォッセーさんにぴったりの映画だったらしい。残念だが、ぼくは見ることができなかった。

映画ではないけれど、ある詩人(シャルル・ペギー)の詩のなかにある「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)nouvelles vagues」ということばを想いだす。宇宙飛行士とヌーヴェル・ヴァーグはなんの関係もないけれど、少し考えたら、宇宙飛行士ガガーリンは、現代の詩人か、それとも、ヌーヴェル・ヴァーグの騎手だったかもしれないぞ! とおもったりした。

それは1957年、週刊紙(新聞)「レクスプレス」の女性記者フランソワーズ・ジルー、――のちにミッテラン政権時代に初の女性閣僚になった人物――が、フランスの若者たちの生き方について「ヌーヴェル・ヴァーグ」と題するアンケートをおこなった。彼女はその詩の一節をタイトルに抜き出したのだ。

ヌーヴェル・ヴァーグとは、それが由来である。

山田宏一氏の「山田宏一のフランス映画誌」(ワイズ出版、1999年)という本にはもっと詳しく書かれている。ぼくの敬愛してやまない山田宏一氏の本は、とても刺激的だ。

 

 戦後のヒロシマを舞台にしたふたりの情事を描いた映画。

 

ファッションではクリスチャン・ディオールがあらわれ、戦後のフランスの若者たちの生態、風俗、モードを総称し、たちまちフランス映画の新人監督のだれもがヌーヴェル・ヴァーグの映画をつくったものだった。量においても質においても、時代の波はたちまち世界に波及した。

1958年の秋ごろから、フランスに現われた新世代の映画作家は、ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」、アラン・レネの「24時間の情事」、フランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」など。

1959年公開の映画、「24時間の情事(Hiroshima mon amour イロシマ・モナムール)というモノクロ映画は、そういえば、あれもマルグリット・デュラス脚本の映画だったなと想いだす。アラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本による日仏合作映画である。被爆地広島県広島市を舞台に、第2次大戦により心に傷をもつ男女が織りなすドラマで、アラン・レネ監督の第1回長編劇映画作品といわれている。

フランソワ・トリュフォー監督の文字通りの長編第1作「大人は判ってくれない」がその波にのって大成功し、ヌーヴェル・ヴァーグ映画の代表作になった。

ぼくは学生のころ、銀座か渋谷の、どこかの名画座でこれを見ている。そのときはなんともおもわなかったが、壮年期を迎えるころ、なつかしいというのではなくて、ただ無性にこころを揺さぶられた。この映画はトリュフォー自身を描いたのではないか、とおもったからだ。彼は少年のころから映画のトリコになっている。父親と母親はいつもケンカばかりして、口うるさい。

こんな家になんかいられるか!

映画好きの12歳の少年にとって、夫婦げんかの絶えない家庭では、じぶんの居場所さえもない。彼には映画館だけがじぶんの居場所と考えるようになった。映画をそっちのけにして、好きでもない女の子とデートするなんて、ちっとも楽しくない。ひとり映画館で映画を見るのが好きだった。これって、現実逃避? ――それぐらいの分別はあっても、映画館は少年にとって別世界なのだ。

じぶんの少年時代はどうだったろうか? 

ぼくはおとなしい生徒で、教室の隅っこで先生の話を聴き、なんとなくみんなと溶け込む勇気がなかった。みんな頭のいいやつばかりで、勉強をしないじぶんは、ワルガキどものグループに入り、小学校のグラウンドで日が落ちるまで真っ黒になって、野球に興じていた。そしてじぶんは、大人になりたいとは少しもおもわなかった。

なのに、6年生の上級生がやってきて、こういった。

「大人の証拠を見せてやろうか?」っていったのだ。

「見せて!」というと、彼はズボンを下げた。うっすらとチン毛が見えた。

「これが証拠だ!」と彼は、胸を張っていった。

少年の好奇心はチン毛にそそがれたが、ふーん、といったきり、何も考えなかった。

「女の子もおなじさ」と彼はいった。

ぼくは想像できなかった。18くらいの子守りのナターシャといっしょに風呂に入っていたけれど、そんなのは見たこともなかった。

大人はわかってくれない!

そういうことも、ぼくは考えなかった。

 

 フランソワ・トリュフォー。

きのうの夜、――北海道の中学時代、同級だったKさんと草加で会った。とつぜんのことだったが、彼のお姉さんを見舞うためにクルマで越谷に行く途中、草加のじぶんのマンションに立ち寄ってくれだのだった。むかしの話はさんざんしているので、きのうは、彼の奥さんのこと、お姉さんの病気のことを聴いた。

認知症の話になり、Kさんはちょっと暗い顔になって、さいきんは憂鬱なんだ、と彼は話した。

「妻もそうだからね。家を出るとき、どこに行くの? って、またきくんですよ。さっき説明したのにね、もう忘れちゃってて。またおなじことをいうわけですよ」

だからぼくらは、レストランで飯を喰いながら、ひそひそ話になった。

「きょうは、これ、渡そうとおもってさ、……」という。

彼が持ってきたのは北海道・北竜町の田園を撮ったB4判サイズほどの2枚の大きな写真だった。2枚とも分厚いボードに貼りつけている。地面はほんの少し。空が80パーセントを占めるという青い空を撮った写真だった。

「これ見てると、こころが晴れるよ」という。

それからふたりは、少年時代の話をした。ぼくはナターシャの話をした。長男のぼくは、ナターシャにかまってくれなくて、いつもむくれていた。

「ゆき坊は、お兄ちゃんなんだから、ひとりでできるでしょ!」というのだ。

彼女は、生まれたばかりの末の弟のめんどうをみている。

母は結核性の肋膜炎で、ベッドで寝ている。彼女は母のめんどうをみながら、ふたりの弟たちのめんどうをみ、ご飯をつくり、洗濯をし、掃除をする。

お風呂の水汲みは彼女の仕事だ。手押しポンプを操って、ごきごき漕ぐ。風呂桶まで樋(とい)をわたし、満杯になるまで漕ぐ。力を入れて漕ぐと、砂もあがってくる。風呂桶には砂がたまっている。水を抜くとき、砂を掻きだすのも彼女の仕事だ。

人がくると、ナターシャが出ていく。

「ゆき坊、これやってなさい!」とじぶんにいいつけて。

ぼくの力ではおもうように漕げない。ポンプはすっごく重いのだ。もどってくると、

「ゆき坊、ランプ!」というのだ。こんどは、ランプのホヤを磨きなさいっていうのだ。わが家には電気というものがなかったからだ。

学校から帰ると、ぼくはランプのホヤを磨いていた。そろそろランプに火を入れる時間になり、家族だけのときは、3分芯(さんぶしん)の明かりにする。夜になってご飯を食べるとき、もうちょっと明るい5分芯の明かりにする。来客があると、全開にする。お茶を出す手元が明るくなり、新聞も読める。

お酒が出るころになると、父は上機嫌になって、ヴァイオリンを弾く。客人はギターを弾く。ぼくらは、ほんとうはラジオを聴きたかった。ラジオは、中学生になるまでおあずけだった。

 「にがい米」のシルヴァーナ・マンガーノ。

 

1956年、若い批評家でもあった25歳のフランソワ・トリュフォーは、「あすの映画は、私小説や自叙伝よりもいっそう個人的なものになるにちがいない。告白のようなもの、あるいは日記のようなものに」といったという。そして生まれた「大人は判ってくれない(Les Quatre cents coups 1959年)」という映画は、鮮烈な映画だった。60年代、東京の映画館は、ほかの惑星に行くみたいな心地がした。しかし、その火つけ役になったのは、たぶんフランソワ・サガンだったろう。

ぼくはトリュフォーにはなれなかったけれど、フランソワ・サガンの「悲しみよこんにちは(Bonjour Tristesse 1954年)」を読み、12歳のトリュフォー少年のことを想像した。わが家も似たり寄ったりのひねくれた会話が飛び交ったが、あの「悲しみよこんにちは」より、ましだったなとおもう。

「告白のようなもの、あるいは日記のようなものに」なるだろうと見抜いたトリュフォーの目論見はあたっていた。まるでフランスの哲学書を読むような、目くるめく家族の世界が描かれている。トリュフォー監督は、コンテストのあり方をめぐって、カンヌ国際映画祭の粉砕を主張し、もっとも過激な論陣を張った。

しかし、この出来事があってから、盟友ジャン=リュック・ゴダールと決別した。

「トリュフォー最後のインタビュー」(山田宏一・蓮實重彦共著、平凡社、2014年)という本を読むと、そのいきさつさがくわしく書かれている。

トリフォー研究については、山田宏一の本がいちばん信頼できそうだ。パリでトリュフォーらとともに、映画について熱心に勉強していたからだ。

60年代の初頭は、なんでもありの時代だった。東西冷戦の雪解け気運がはじまり、「ぼくの村は戦場だった」とか、「誓いの休暇」とか、「自転車泥棒」、「鉄道員」、「処女の泉」、「野いちご」など、いろいろな映画がやってきた。「野いちご」は2回も観たけれど、わからなかった。なかでも「シェルブールの雨傘」のカトリーヌ・ドヌーブはとても美しかった。そのころのことを思い出して、彼女の近作「ルージュの手紙」をぜひ観てみたいとおもいつつ、まだ見ていない。

名もない家族を描いた世界の名作はいっぱいある。ありすぎるほどある。

時代の主人公にはならないけれど、家族のなかではいつも主人公なのだ。そういう映画を見せてくれたのは、フランソワ・トリュフォー監督だったなとおもう。

1960年代は、日本が戦後大きく政策の舵をきった工業路線とともに、地方からどんどん人が都会にやってきた時代で、若くて、豊富な人口資源にめぐまれていた日本は、彼らをその時代の先兵に導いた。それがあたって、驚異の経済成長を成し遂げた。

東京都が1000万人の人口になったのは、1962年だった。ぼくが大学に入学した年だった。首都圏の通勤・通学ラッシュはものすごかった。

朝8時台の電車は、全員を乗せきれなかった。イタリアもおなじだ。イタリア映画の「にがい米」(1949年)は農村部の田植えを描いたものだが、渡りの女たちの確執を描き、話題になった。娼婦が出てきたり、女どろぼうが出てきたり、ケンカをしたり、人を殺したり、自殺したりの映画で、ふしぎなことに、みんな美人ぞろいで、ガルシア・ロルカの舞台劇「ベルナルダ・アルヴァの家」をなぞったみたいな映画だった。

「恋で死ぬのは映画だけよ」と、雨傘を売る店の女主人のセリフがある。「シェルブールの雨傘」だ。まさに恋のもつれで死ぬ映画だったなとおもう。

もしも、いまの12歳の少年がこの映画を観たら、きっとわからないかもしれない。恋の恐ろしさを知らないからだ。

して失うことは、愛した験のないことにまさる。

アルフレッド・テニソン。

 

北海道のいなかにいたときも、庭先によくひばりが遊びにきた。

つがいのひばりを見たとき、いいなあとおもった。いかにも「うるわしい」感じがした。

この「麗(うるわ)しい」という漢字は、もともと岩の上に2頭の鹿がたたずんでいる図だ。鹿のつがいが、2頭並んでいるだけで、とてもうるわしい気持ちがする。愛しい人をそばに持っていることを語っている漢字だ。

「愛して失うことは、愛した経験のないことにまさる」そういった人がいる。

アルフレッド・テニソン(Alfred 1st Baron Tennyson,  1809年-1892年)。

彼はヴィクトリア朝時代の桂冠詩人だった。中部イングランドのリンカーンシャーの町で牧師の子として生まれる。

彼は偉大な詩人なのだが、ぼくはほとんど彼の詩を読まなかった。だが、「In Memoriam」だけは読んでいる。急逝した友人の死を悼み、愛の喪失とその苦悩を歌いあげた詩である。

このことから、彼らは同性愛者なのではないか、と世間ではおもわれたらしい。まっとうなヴィクトリア人なら、けっして持ち出そうなんておもわない類いの話だが、いま読むと、こころに浸みわたる。

さて、その詩の原文は、――

 

'Tis better to have loved and lost

Than never to have loved at all.

 

なんてきれいな詩だろうとおもう。コーヒーを飲みながら、こんな話ができる古き友人がふたたびあらわれるのを期待して。

友人が天に召されて、すでに20年がすぎた。

ニー・ブレア首相とリティッシュ料理。

 トニー・ブレア。2007年。

 

トニー・ブレア英首相は、若いころ、母の実家の援助でオクスフォード大学にいくことができた。オクスフォード大学出身の政治家はまことに多いが、とうじは、議員になることなど考えてもいなかった。学生仲間とつくったロック・バンド「アグリー・ルーマーズ(醜い噂)」のボーカリストとして活躍した。ロングヘアをたらし、胸をはだけて、ミック・ジャガーを気取っていた。

もしもトニー・ブレアがロックスターになろうとしているといわれたら、だれもがそれを信じただろう。だが、労働党のリーダーになろうとしているといわれたら、だれもがクビをかしげただろう。それほどトニー・ブレアは、政治とは無縁の男だった。

大学では社会科学を専攻した。やがて社会問題に興味を持ちはじめ、ブレアは何か感じたのかもしれない。ほどなくして労働党に入党し、政治活動を活発化させていく。結婚したばかりの妻チェリー・ブースが政治に強い関心を持っていたこともその一因かもしれない。だが、政治に関心を持ったからといって、だれもが政治家になれるとはかぎらない。

しかし、彼には幸運がついてまわった。はじめて労働党の候補者になった補欠選挙では敗れたが、つぎの1983年の総選挙で北イングランドのセッジフィールドから立候補した姿は、ブレアの未来を象徴していた。

1983年6月の総選挙を一ヶ月前にして、妻が開いたブレア30歳の誕生日のパーティは憂鬱だった。ほとんどの選挙区で候補者が決まっていたが、彼が出馬する選挙区がまだ見つかっていなかった。

パーティの席で、彼の生まれ故郷に近いセッジフィールドは、まだ労働党の候補者が決まっていないことがわかった。翌日ブレアはカバンひとつ抱えて、セッジフィールドに出かけた。妻の話では、選挙がおわるまで帰ってこなかったそうだ。

現地に行くと、労働党活動家5人は、そろいもそろって、サッカーのテレビ中継に夢中になっているところだった。サッカーがおわり、ブレアはここにやってきた理由を話しはじめた。そのうちに、労働党の未来はどうあるべきか、EUに対してもイングランドはどういう方策をとるべきか、彼自身の国の在り方を情熱をこめて話した。

「ここに、労働党を心底から改革しようとしている人間がいる」という印象を強く残した。そこには、ブレアとは考えの違う左派系の男もいたが、党の改革をめざすことにおいては目的はおなじで、ブレアをセッジフィールドの労働党候補にするため、強く後押しすると約束した。

こうして、ブレアは選挙区内の各地区支部の指名を受けることができ、サッカー観戦でぐうぜん出会った五人組の男の選挙運動がはじまったのである。代議員の支持を得なければ正式な候補者にはなれない。ここは日本とちがって、候補者選びの段階で、民主主義が強く作用する。

そして、1992年の総選挙はどうであったか?

敗北したキノック労働党党首が引退し、ジョン・スミスが党首になった。

彼の現実的な政策は多くの支持者を納得させた。もしもスミスが首相になれば長期政権も可能といわれた。世論調査もそれを物語っていた。

ところが、スミスはとつぜん心臓発作に見舞われ、急死してしまった。労働党は茫然となった。最有力者は、ブレアとゴードン・ブラウンだった。ふたりは1983年に議員となったいわば《同期》であり、議員事務室も共有し、右派的思想もおなじだった。けれども、ふたりが党首選に立候補すれば共倒れする危険性があった。党内分裂はどうあっても避ける必要があった。

ふたりは話し合い、ブレアが党首選に立候補することになったのである。ブラウンは涙を飲んでブレアを支えることになった。のちにブラウンを影の内閣の蔵相、労働党政権成立後には蔵相として遇した。右派をまとめたブレアの手腕は、みごとに花を咲かせた。

イギリスのリーダーシップを見ると、民主主義のあらゆる形を見ることができるといわれている。そこにはリーダーシップのさまざまな姿を見るだけではなく、リーダーとはどうあるべきか、リーダーひとりの意志と行動によって国がどれだけ変わるか、恐ろしいほどにわかる。

イギリスは第2次世界大戦を機に、超大国としての地位をすべり落ちたが、世界の模範となる福祉国家を実現し、気を吐いた。ストライキに象徴される英国病で、経済的に日独米から遅れをとったが、サッチャー革命によって息を吹き返し、ブレア政権は一時期、新しいイギリスをスローガンに《世界の信号塔》となった。

日本の政治体制はイギリスにならい、立憲君主制、議院内閣制、二院制、小選挙区制など、もっとも根幹的な政治システムというものをイギリスを範としてずっと受け入れてきた。日本の皇室は、基本的にイギリス王室を模範としてきた。

1931年には、「ウェストミンスター憲章」が制定され、「ブリティッシュ・コモンウェルズ・オブ・ネーションズ」が発足した。その構成単位は、本国イギリスと、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ニューファンドランド、南アフリカ連邦、アイルランド自由国の6つの自治国で成り立つ。ただし、1949年以降は、「ブリティッシュ・コモンウェルス」という名称にかわって、たんに「コモンウェルス(連邦)」が正式の名称になった。

 

ジェイミー・オリバーのつくるカルボナーラ(spaghetti alla carbonara)。

さて、わずか24歳で、ブレア首相を支えた若手の料理家、最も政治的雰囲気の旨みたっぷりに満たされる晩餐会のシェフとしてその名を高めたジェイミー・オリバー(Jamie Oliver、本名:James Trevor Oliver、1975年-)の話をしてみたい。むかし、BBCで「Naked Chef(裸のシェフ)」と題する料理番組シリーズが放送され、人気をあつめた。日本でも、スカパー、テレビ東京系で放送されていた。

ジェイミー・オリバーのハーブ料理をつくるドキュメンタリー番組である。なぜジェイミーのことを「裸のシェフ」というのか?

ジェイミーのレシピが、とってもシンプルで、素材を丸裸にするというような感じを表すので、「裸のシェフ」といわれるようになったとか。イギリス版では、ジェイミーが「No way! It's not me, it's the food.」とタイトルバックが出ていた。

そのころ、早稲田大学稲門会のロッキーの話によれば、本場のイギリス料理は、あまりうまいものじゃなかったという話を聞くけれど、……。ガラにもなく、ぼくはジェイミーのやりたい放題の番組に気をまわしすぎたかもしれない。そのころ仲間も多かったテレビメディア系の友人たち15人ほどと、わが家でホームパーティをして、よくジェイミーのブリティッシュ料理に挑戦したものだった。――

ときどき、「きょう雨が降ったせいか湿気が多くていやな天気だ」とおもいながら、じぶんは、晴れ男でいたいと念じたものだ。

こんどこそ友人のグラフィックデザイナーを食事に招待したいとおもい、いまブリティッシュの勉強をしているところだ。招待とはいっても、目の玉が飛び出すほど高い高級レストランというわけにはいかないので、ささやかな手作り料理でもてなすことを考えている。ヨーコの手前、さいきんは何もつくらないけれど、先日、カレーライスをつくってヨーコに食べてもらったところ、彼女は、

「お父さんはじょうずよね。……3年前につくってもらったスパゲティ、あれもすばらしかったわよ」といっている。

ぼくは、カレーのルーの辛味度を、一種類ではすますことをしない。辛味度2度と5度のルーをブレンドすると、果たしてどんな味になるのだろうと、じっさいにやってみたことがある。いろいろやってみた結果、銘柄の違うルーをブレンドすると、けっこういい味になってくれる。

「ご飯を炊かせたら、お父さんの右に出る人はいないわよね」などといって、ヨーコはおだてる。ヨーコがつくるご飯より、美味しいご飯をつくる自信はある。どこが違うのかというと、水加減である。

だって、学生時代、目黒のアパートで弟といっしょに暮らし、自炊をしていたので、ご飯ぐらいはお手のものだ。ぼくはいつも、水は目分量で測る。手のひらがちゃんと覚えている。

 

 ジェミー・オリバー。

 

さて、何をつくるか。――このあいだ図書館から料理のDVDを1巻借りてきた。イタリア人のロザンナさんが、テレビでやっていたイタリア料理に挑戦してみようかと思って、そのときメモしたレシピを見ながら、食材をいろいろ買ってきて、つくってみたことがある。

食材ならなんでも売っている店があるので、豚の肩肉のロース300グラム、それにトマトソース、セロリ、たまねぎ、ニンニク、パセリ、にんじん、ついでに調味料のオリーブ油、固形になったスープの元(チキン、ビーフ)、というのが目についたのでそれを数個、おまけにローズマリーを数本手に入れ、イタリア料理では、このローズマリーが決め手になってくれるはず。

ある日、悪戦苦闘して、やっとできあがってヨーコに食べてもらった。なかなかいけるわね! と彼女はいった。けれども、エアコンをかけているのに、ちっともきいてくれない。エアコンの真下は冬温度なのに、遠い台所は夏温度。調理場は反対側にあるので、冷気がとどかない。

肉は包丁で切れ目を入れ、包丁をひっくり返して柄の先でとんとん叩く。肉をやわらかくするためだ。肉にオリーブ油をひっかけ、ぴしゃぴしゃ手のひらで叩く。ナターシャのお尻みたいにいい音がする。それに塩をふりかけ、胡椒もふりかけて、つぶしたニンニクを、ぱらぱらっとふりかける。そして、手でこすりつけるようにして揉む。

※ナターシャっていうのは、わが家に雇われて住み着いていた、ロシア人の子守りの女の子。肌が白くて、香辛料たっぷりのミートボールをつくるのが得意で、年の離れた弟を背中におぶって、よくはたらいた。20を過ぎたばかりの彼女のお尻がよく動いていた。

 

 ロザンナさん。

 

ローズマリーの枝を小さくちぎったやつをふりかけ、最後にオリーブ油をかけてから、しばらく皿の上で肉に浸み込ませる。それがすんだら、たまねぎのいためにかかる。

甘味が出たら、さっきの肉を入れる。肉の両面にすこし焦げめがつくまで煮込む。焦げ付かせる理由? いい質問ね、うま味を閉じ込めるためよ、とロザンナさんはいっている。たしかにそうだろう。できあがったら、トマトソースを汁ごとダイナミックに入れ、ぐつぐつ煮る。

ロザンナさんによれば、弱火で1時間ぐらい煮込むといいそうだ。肉がとろとろになる。電気代がかかりそうだな。できあがったころ味見をしてみる。ここで味見をすることが大事である。イタリア料理はできあがってから、あとで何かをつけ足すということは絶対にないからだ。

ぼくが悪戦苦闘している姿を見ているので、ヨーコは何も文句をいわないで食べてくれた。

「どう? 感想は?」

「ローズマリーなのかしら、この味は? いい味ね」とかいっている。ローズマリーはシソ科の植物で、隠し味として使われる香辛料の一種。トマトも、おいしいわという。ぼくは、そのとき、「トマトの受難」ということばがひらめいた。イタリアのトマトは、日本のトマトのように皮がやわらかくない。かなり厚皮になっている。トマトはイタリア料理にはなくてはならない食材である。それに、トマトは赤い。あたりまえの話だけれど、これがいっそう食欲をそそる。

トマトづくりの名人だった母のことを思い出す。それに、母は紫蘇(しそ)をつくる名人でもあった。第一トマトは赤くて、たくましい女の子のお尻みたいな果肉に見えてしまう。もぎたてのトマトは、汗をかいたみたいに、朝露にぬれて光っているやつだ。ナイフで切ってもおしゃれで、人間みたいに血が出るわけじゃない。

そういう完熟トマトは、イタリアでも遠いむかしから料理に使われてきたようだ。トマトといえば、ナポリが名産。そこは、むかしから農業が盛んなところで、土地も広かったので、戦火にまみえる歴史も少なく、のんびりとした風土をはぐくみ、自給率2000パーセントの北海道とよく似ている。

「お父さんは、ハーブ料理なんかには、興味ないんですか?」とヨーコがきく。

ハーブ料理といえば、イギリスのシェフ、ブリテッシュ料理の達人ジェイミー・オリバーだろうな、とおもう。彼はそれ以来、さまざまな本で、びっくりするブリティッシュ料理の数々をつくっている。

「こんど、お父さん、ハーブ料理をつくって。スパイシーなカレーなんか食べてみたいわね」と、ヨーコにいわれてしまった。

もしかして、

「アヘンを消すスパイシーなカレー味? だって。シャーロック・ホームズは、そんなことを呟いていたそうだよ」と、ぼくはいった。

そのころ、日本はイギリスからカレー粉を輸入した。なかでもC&B社(Crosse and Blackwell、1706年創立)のカレー粉は有名だ。日本国産初のカレー粉は、1930年だった。それもS&B社。ちょっとまぎらわしいネーミングではある。

1858年、ヴィクトリア女王がインドを直接統治するようになると、インドは大英帝国の一部となった。1877年になると、インド帝国ができてヴィクトリア女王を戴く国家となった。そして、カレー粉もカレー・ペーストも工場で大量生産され、ロンドンのパブのメニューにも登場し、カレー料理がふつうに食べられるようになったとか。

――そもそもイギリスの庶民が、カレーを食べるようになったというのには、理由があった。その物語を描いたのは「シャーロック・ホームズ」だからだ。ホームズが登場する「白銀号事件」というのがそれ。名馬「白銀号」が失踪し、調教師が殺されるという事件である。馬につき添っていた青年がアヘンで眠らされているあいだ、何者かに連れ去られたらしいという事件である。「白銀号事件」という作品は、シャーロック・ホームズの全56作品のうち、イギリスでは1892年、13作目に発表された作品である。

カレー料理にアヘンを入れられ、彼は眠らされていたというのである。

ホームズはアヘンの味を消すためにカレー料理をその日のメニューに出すことのできた人物は、調教師夫妻しかないと踏んで、調教師に疑惑の目をむける。それになんと、そばにいた犬がその夜、吠えなかったというではないか。忠犬ならば、主人のなすことをよろこんで見守っていただろうから。

その日出された料理は、ひつじの「カレー風味のマトン(a dish of curried mutton)」。

この時代、カレーはもうすでに庶民の料理になっていたという証拠である。上流階級のイギリス人がインドにわたり、そこでおぼえたインド料理として持ち帰ったのがスパイシーなカレー料理だったというわけである。もちろんカレー・ルーのことではなく、カレー粉(curry powder)のことである。

ぼくらが子供のころに食べたカレーも、もとはカレー粉だった。もともとインドにはカレー粉はなかったという話を聞く。カレー粉にしたのはイギリスである。それを輸入したのが日本だった。

イギリスでカレー粉を大量生産されるまえは、どこの家の主婦も、あたりまえのように、手づくりでカレー粉をつくっていた。イギリスの料理研究家の本によれば、カレーのつくり方がちゃんと書かれているのである。なかでも、「マトンの腿肉(a leg of mutton)」は、とくに紳士には好まれたようだ。「白銀号事件」を描いたころというのは、すでにカレー粉が出まわっていたようで、ならば、調理はいたって手軽にできたことだろう。

で、けっきょくぼくは、ブリティッシュ料理をつくるつもりが、イタリア料理をつくってしまったわけだった! 途中で牛のブロック肉をひとつつくり、それをメインにした「ジェノぺーゼGenovese」というのを仕上げてみた。真っ白な皿に盛りづけし、真っ赤なプチトマトを乗せる。見た目もおいしいし、忙しい人も、日本人ならカプッチーノcappuccinoなしでも、気軽においしく食べられそう。

「プチって、何?」ときく人がいる。これ、フランス語で「小さい」という意味。イタリア語では「ピッコロPiccolo(男性)」、または「ピッコラPiccola(女性)」と聞える。

なんでもありの21世紀音楽。

ュゼッペ・ノーポリ。

ジュゼッペ・シノーポリ。

 

ぼくはまだ、やめられない。

ぼくはなぜ、音楽のことを考えるのだろう、とおもう。最もパッショネートな季節は、音楽の季節だ! とおもってしまう。――たとえば、ワーグナーやブラームスといった、偉大な音楽家たちが闊歩した19世紀ロマン主義のあとにやってきたのは、なんだとおもう? キラ星のような、なんでもありの20世紀だったのだ。

ぼくはまだ、やめられない。音楽の形式や、そのあり方、楽器やオーケストラ編成にも、もうタブーなんかなくなったかに見えた時代だ。

響きの美しさを最大限に発揮したドビュッシーは、ジャワやインドの音楽に大いにカルチャーショックを受け、パンドラの箱を開けたかのような音楽をつくった。

それは、彼だけじゃない。

シェーンベルクの弟子のベルクも、偉大な先輩たちの思惑などどこ吹く風と、新手法で豊かなウィーンの音を響かせたし、そんなウィーンに背を向け、田舎で民族音楽の探求に忙しかったバルトークも、本気でシリアスな音楽と取り組んだ。

そのころパリを出奔したストラヴィンスキーは、そんなロマン主義音楽はもう終わったと宣言し、バロックやジャズから得体の知れないものを紡ぎ出し、パロディ三昧の音楽をつくった。そして革命ロシアでは、社会の混乱のさなか、若きショスタコーヴィッチはドライな雄叫びをあげ、声高に時代の物語を語った。

――まずそこに、耳を傾けようではないか!

ふだん、ぼくはたいてい、ドビュッシーの「月の光」をまわして聴いている。

そう、手紙を書くとき、原稿を書くときはなおさらだ。

すると、フランスの「印象派」という新しい絵画の出現と同時に、その音楽がはじまったことを嫌でもおもい知らされる。それはどういうものだったか、ラヴェルの音楽と同時にはじまった印象派音楽に、絵画同様の芸術性を感じないではいられない。

このふたりの印象派の巨匠の作品のなかでも、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は忘れがたい音楽になって聴こえてくる。

この一曲で、これまでの作曲家たちが使ってきた音楽語法というものが、根本から変えられたことを知る。ドビュッシーやラヴェルの東洋的なオリエンタリズムは、これまでの音の流れを目覚めさせ、パリ万博における日本の雅楽や、ジャワ、東南アジアの音楽を汲みとった彼らの耳殻はすばらしいとおもう。

耳殻の礫石(れきせき)、扁平石、星状石と個々のかたちは違っても、音を聴くという行為、――夜半の、あるいは暁闇のなかの、しぐれの音でもあり、地球のあげぼのでもあり、風のゆくえかもしれないその音。

詩人みたいなことを云々してもはじまらない。まずは、この音楽を聴こうではないか。

ドビュッシーにとって、音楽とは、個人的な感動の物語ではなく、イマジネーション豊かな「夢の領域」を指向するものだった。感覚的な印象を描くことに心血をそそいだ。

ドビュッシーは若いころ、フォン・メック夫人の子供たちのピアノの先生を務めたこともあり、彼女は、チャイコフスキーに年金を送って、陰ながら経済的な支援をした女性としても知られている。このふたりはふしぎなことに、一度も会うことはなかった。

チャイコフスキーのネヴァ河への投身自殺は、みずからを救った。チャイコフスキーは死ぬつもりだったが、それがかえって、真の音楽的開眼を彼にもたらした。向う見ずな、彼の度胸試しには、グーのネも出ない。一度も会わない人と結婚しようなどというのは、まずもって、音楽家のやることじゃない!

チャイコフスキーよ、あなたは雀が食べる草sparrow's grass を、だれかにそそのかされて、もしかして食べたのではあるまい?

聡明なチャイコフスキーが。――しかし、そうとしか考えられない。生きていてくれて、人類はあなたに感謝している。

ぼくは現代音楽というものを、知っているわけではないけれど、ポール・グリフィスのことばを借りれば、「現代音楽にはっきりした始まりがあるといえるなら、それはドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》冒頭の、フルートの旋律が示している」といえるかもしれないなとおもう。そうおもって、ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》冒頭のフルートの旋律を何回も聴いたけれど、ぼくにはついにわからなかった。

英国人には分かるまい! そういって噛みついた男がいた。

 イギリスのジョン・ブル(John Bull)ポスター。志願兵募集。

 

きのう4月4日土曜日、東京都の新型コロナウイルス感染者は、ついに118人となった。だが、ジョン・ブル(John Bull)は、擬人化されたイギリスの国家像、もしくは擬人化された典型的イギリス人像のことだが、「ブル」は雄牛で、これはもともとスコットランド人のジョン・アーバスノットとかいう風刺画家が1712年にイギリス人の戯画的典型としてつくった一人物像であった。

ほんとうは「ジョン・ブル物語」という作の主役で、オランダ人の典型ニック・フロッグや、フランス人の典型ルイ・バブーンなどが脇役で登場する。

バブーンbaboonというのは狒々(ひひ)で、つまりここでは野蛮な人という意味になる。ジョン・ブルが英国人の呼称として確立したその背景には、彼らは、それほど牛肉が好きだったという話である。

イギリス人のクラブ好きは昔からだ。

ビフテキ協会というのが結成されたが、作家フィールディングは加入しなかったが、その集会では、「ロースト・ビーフ・オブ・オールド・イングランド」の唄が合唱された。

この協会は、10月から翌年の6月まで毎日曜日に開かれ、供されるものは牛肉だけで、それにマスタード、ホースラディッシュ、ベイクト・ポテト、オニオンなどが添えてあって、多量のポーター(黒ビール)、ポート、パンチなどが出たといわれる。

そしてぼくは、きょうは音楽について考えてみた。

つぎつぎに脳裏に浮かぶ音楽は、みんな思い出深い音楽だったなとおもう。それはオーケストラや指揮者にもよるだろう。

ぼくは8歳でヴァイオリンを弾いた。ぼくの人生に音楽があったことを幸せにおもっている。イェーツという詩人は音楽のことを少しも書いていない。少しは音楽に触れていたことだろうに。

ジェームズ・ジョイスとは違うのだ。

ジョイスはアイルランドの舞台に立って、オペラのアリアを歌うほどの実力を持っていたが、それはともかく、ぼくには忘れがたい指揮者が何人かいる。いや、何人もいる。

現代の名指揮者ランキングというのがあって、さいきんの発表――30人の批評家が選んだ指揮者ランキングなのだが、――それを見ると、第1位はサイモン・ラトル、第2位はマリス・ヤンソンス、飛んで、第6位にヴァレリー・ゲルギェフ、リッカルド・ムーティ、エサ=ペッカ・サロネンとつづく。――圧倒的にサイモン・ラトルの人気が高い。

ここ数年というか、10年間はサイモン・ラトルの黄金時代がつづいている。それは認めよう。たしかにサイモン・ラトル指揮による音楽は、どこか聴くたびに新鮮な感じがするし、わくわくする。聴きなれた音楽が、いつも新鮮なのだ。

むかしはカール・ベームの時代があり、カラヤンの時代があり、短かったがレナード・バースタインの時代があった。それは過去のランキングだ。それでもぼくの耳は保守的で、少なくとも、カール・ベームやレナード・バースタインの音楽が依然すてきだとおもいつづけている。

それでもいいじゃないか、とおもっている。

もっともポピュラーな「ウェストサイド・ストーリー」の音楽。

そして、彼の作曲による「キャンディード序曲」など、レナード・バーンスタインの音楽はとても刺激的だ。タイン・ショスタコーヴィチの「交響曲5番」ロンドン交響楽団指揮は、1966年の名曲といっていいだろう。彼の若いころの指揮ぶりが映像としていま見ることができる。そしてマーラーの「交響曲第5番」へとつづく。

ぼくの過去は、音楽とともにあったし、いまもそうだ。

なのに、ぼくは音楽家を目指そうと一度もおもわなかった。

数学にあこがれたが、数学者を目指そうとは一度もおもわなかった。

小説を読みつづけたけれど、小説家になろうなんて、一度もおもわなかった。

写真を見つづけたけれど、写真家になろうなんて一度もおもわなかった。

いったい、どうして?

読んだり、聴いたりする喜びを知ってしまったからである。

これはひとつの才能かもしれないぞ! とおもう。

小説を書いて、おもしろく読んでもらわないことには忘れられる。だが、忘れられている作品や、誤解されている作品を引っ張り出してきて、再評価することにぼくは情熱を燃やした。いまふり返って、シェーンベルクや彼の弟子だったベルクの音楽に、もう一度耳を傾け、バルトークのシリアスな音楽にも耳を傾け、そのころパリを出奔したストラヴィンスキーの音楽にも、ふたたび時代の指揮者たちによる音楽に耳を傾けて、聴き直すのもわるくない、そうおもっている。

いまは、偉大な先人たちの思惑などどこ吹く風と、つぎつぎと新しい音楽の担い手たちがあらわれている。

だが、21世紀の光を見て間もなく急逝したジュゼッペ・シノーポリはどうだろう。ジュゼッペ・シノーポリ。――2001年4月20日、ベルリン・ドイツ・オペラでヴェルディの歌劇「アイーダ」を指揮中、第3幕のところで心筋梗塞で倒れ、急逝した指揮者だ。享年54。

彼は博士号をもつ精神科医でもあり、哲学にも通じた真のインテリ指揮者だった。考古学の博士号も持っている。そして現代音楽の教授であり、作曲家としてもオペラ「ルー・サロメ」を成功させた。

1983年からサンタ・チェチーリア国立音楽院管弦楽団常任指揮者となり、1984年、フィルハーモニア管弦楽団常任指揮者(1987年からは音楽監督)を歴任し、1992年にドレスデン国立歌劇場管弦楽団の首席指揮者に就任し、2003年からは同歌劇場の音楽監督就任が決まっていた。――日本には何回もきた。何回もやってきて、「イタリアとドイツ、医学と音楽。相反するものが、わたしの中で共存している」と語っていた。

ダスターコートに黒いソフト帽をかぶり、マーラーそっくりの縁なしメガネをかけて、1992年の秋、日本にやってきて、日本の聴衆を熱狂させた。NHKホールで聴いた彼の「マノン・レスコー」はすごかった。歌劇場ではオーケストラ・ピットに入ると、聴衆の熱気でたちまち温度があがる。NHKホールのばあいも、幕ごとに確実に温度があがったと書かれている。

 

ゲオルク・ショルティ。1912-1997年。彼の録音は膨大であり、そのほとんどが専属契約を結んでいたデッカ(Decca)レーベルの録音である。ワーグナーの「さまよえるオランダ人」以降の10大オペラをすべてスタジオ録音した数少ない指揮者のひとりである。

 

「日本にきて、聴衆の質の高さにおどろきました」とシノーポリはいっている。

シノーポリの指揮には特長がある。音楽に酩酊したような安直な振りではなく、それは、体の中から迸るリズムの加速的表現なのだと、じぶんで説明している。

よくいわれることに、シノーポリはいろいろな音楽家に似ているといわれている。音楽の作り方ではフルトヴェングラーに似ていると。聴衆を熱狂させるという点ではクライバーに似ていると。そして作曲家で指揮者としてはマーラーに似ているといわれた。

しかし、いくら似ていても、ぼくにとってジュゼッペ・シノーポリは、あくまでもジュゼッペ・シノーポリなである。

ジュゼッペ・シノーポリは、日本でこんなことをいっている。

「チャイコフスキーは、19世紀末から21世紀への終わり目の作曲家だからです。マーラーと同時代に生きた、ひじょうに重要な作曲家だとおもいます。わたしは、この世紀の変わり目という時代に興味があるのです。この世紀末は、カタストロフィ(変革)の時代で、そこに生きたチャイコフスキーは、達成できないような不可能を夢見た、ユートピアにあこがれる人だった。わたしはそこに惹かれるのです」(石戸谷結子「マエストロに乾杯」共同通信社、1994年

「引退は惜しまれるうちにしたい」と、ゲオルグ・ショルティはよくいっていた。

彼は78歳という高齢にもかかわらず、鷹のような鋭い目つきと精悍な姿はむかしのままだったが、54歳で急逝したジュゼッペ・シノーポリこそ、その死が惜しまれた。

は人を尊敬し、は人を見下す》。Dogs look up to us. Cats look down on us.

3時ごろ、Sさんがやってきた。きっとくるだろうとおもって、こっちは身構えていた。

そしてKさんが顔を出し、きょうは、読売新聞の夕刊は、数え間違いをしたらしくて、1部足りなくなったとかいって、きょうは置いていかなかった。そういうわけで、きょうはかんべん願いたいという。

「また、きますよ」といってさっさと出ていった。夕刊は、サービスでいただいていた。それからSさんと事務所でコーヒーを飲んでおしゃべりした。きょうのSさんは、いつものSさんと趣きがちと違った。何かの話で女の話になり、Sさんはこんなことをいった。

「女性の気になる部分を、逆に褒めてあげると、まったく抵抗なく喜ぶものですなあ。ある人にとっては、欠点に見えても、べつの人、――つまり、田中さんのことだけどね、ははははっ、……魅力的に見えるんでしょうな。美の基準なんて、そういうもんですかなあ」という。

「そうかもしれませんね。《万物の尺度は人間である》というからね」というと、

 

15世紀のヴェネチア女性が履いた靴。少しでも背が高く見えるようにと、ヒールを高くした。人類初のハイヒールは、彼女たちが考案した。ぼくは2011年9月、江戸東京博物館で開催された「ヴェネチア展」にて、本物の靴と衣裳を見ている。会場では撮影できないので、アウトラインをスケッチをした。

 

「だれのことば?」

「プロタゴラスっていうんだ」

「そいつは、知らねえな。まあ、わかりやすくいうと、彼女を嫌う人がいるいっぽうで、彼女を好きになる男もいるっていうことですな、いつの世にも」

「《蓼喰う虫も好き好き》というからね」

「そりゃあ、そうだ」

「《犬は人を尊敬し、猫は人を見下す》。……だれだっけ? ウィンストン・チャーチル。《私は豚が好きだ。犬は人を尊敬し、猫は人を見下す。しかし豚は人を対等に扱う》っていいますから」

「ヨーコが怒ると、これはなかなか魅力的な女に見えるらしいよ。彼女のいっていることが、なーるほど、ごもっともとおもってしまってね。彼女はいつも正論を吐くので、どこにも逃げ場がないんですよ」

「親切な女は、屁理屈をいう男には、ちゃんと逃げ道をつくるもんです、そうですよね? いい女は」と、Sさんはいっている。

「田中さんのいう逃げ道の話で、いま、おもい出しましたよ」

「なにを?」

「女のスカートの中にね。……そこに逃げたっていうヴェネチア議会の男の話ですよ」という。

「つまり、上野千鶴子さんの書いた《スカートの中の劇場》? そうそう、ヴェネチアの女性はヨーロッパ人の平均より可愛いけれど背が低い。だから彼女たちは、ハイヒールというものを考案したのさ。……議長がつるし上げにあって、逃げたところが女のスカートのなかだったっていう話ですよ。だれにもわからない。いい方法を考えついたもんですね?」

「いまじゃ、スカートが短くなっちまって、そんな芸当はできませんな。隠れるところなんてないし、……。だいいち、じぶんなんか、ちょっとすみませんといって、女のスカートを持ちあげようもんなら、強制わいせつ罪で、つかまっちまう」

「それはそうです。そんなこと、やっちゃいけませんよ。……Sさん、バレンタインで、女性から何かもらいましたか?」

「そういえば、ギリチョコっていうやつですがね、平べったい板を1枚、もらいましたなあ。今次、新型コロナウイルスが蔓延する世の中になっちまうと、ウイルスまみれのチョコなんて、恐ろしくて」といっている。

「その女性は?」

「事務所の事務の女性ですよ、20代でしょうな。でも、これまた、人妻でね」という。Sさんは人妻に縁があると見えて、彼のいい女はぜんぶ人妻なのだ。あるいは、すでにいい人のいる女だったり。

「バレンタインって、いったい、ありゃなんですかなあ」という。

「そう、バレンタインでおもい出しますよ。戸板康二さん、すでに亡くなりましたがね、彼はいってましたよ。――バレンタインは、破廉恥の隣りにあるとか」

「そりゃあ、なんですかな?」

「ははははっ、……もともとは、《春は、バレンタイン聖人の隣人》とかいいますからね。そのことばからきているんだとおもいます」

「春は、バレンタインの隣人? きいたこともない。なんですかな、そいつは?」

辞書にはこう出ている。

「バレンタイン・デーとは、西暦270年2月14日、異教徒の迫害を受けて殉教した聖バレンタインを記念し、男女相愛の日とされて、1年に一度、女性から公然と求愛でき、また一度破れた恋もこの日祈るとよみがえる。恋人に手紙やプレゼントを贈る風習もある」(「コンサイス・カタカナ語辞典」三省堂、第4版)と出ていた。

「その、隣人というのが、わからない」

「つまり、イエスの隣人、その隣人でしょうね。……破廉恥の隣人は、おもしろいとおもいませんか。ぼくなんか、むかしからずーっと破廉恥の隣人でしたからね」

「それもそうですなあ」と、Sさんはえらく感心していう。

「そんなに感心されなくてもいいですけど、……。阿部達二っていう人、知りません? その人のエッセイ、なかなか軽妙で、オール読物なんかに載ってますよ。出石尚三さんの小説も載ってますね。両氏とも、なかなか該博な知識の持ち主で、尊敬しています。さっきのギリチョコじゃありませんけどね、それを受け取って、にやにやしている中年の、いや、老年のおじさんたちの図は、破廉恥といわれても仕方ないでしょう」

「そういう田中さんは、もっともらっているんでしょうな」という。

「悲しいかな、もらってませんね。いや、1週間前、もらいましたね。23歳のОLさんで、背が179センチもあって、きれいな日本語をしゃべる美人OLさんなんですね」

「田中さんは、スミに置けませんな。で?」

「お返しはいいっていうんですよ、彼女は。ほんの、わたしの気持ちですってね。そんなこといわれると、めろめろになってしまう」

「どこの人?」

「よく知りませんが、東京でしょう? 30代のお兄ちゃんが、越谷にいるそうです。先日、ある人の玄関キーをふたりで取り替えていたら、彼女、すっごく力んじゃってね、おならをしたんですよ」

「ほう、ところで卓球の平野美宇ちゃん、ご存じでしょう。世界選手権で戦っている最中に、おなら、windが出たっていっていましたな。ちがったかな。世界選手権じゃなくて、中国の陳夢をやぶって優勝したときだったかな。世界ランク1位の陳夢(Chen Meng)をかんたんに3対0でやぶっちまった。おならをして、アジア選手権に優勝した平野美宇ちゃんですな」

「彼女、力んだんでしょうね」

「ヨーコさんからは、もらいますか?……?」

「ヨーコはたぶん、わすれたんでしょう」

「いや、もらってるな。あの人は、そういうことをわすれたりする人じゃないですからな」とSさんはいう。

ヨーコからはもらわなかったけれど、べつの人から、べつの意味で、チョコのついた菓子をいただいた。あれは、バレンタインとは関係ないんだろうなとおもっている。ヨーコがユズ茶の元をつくって、小瓶に入れたやつをプレゼントした、きっとそのお返しだ。

「しかし、夫婦の愛って、すばらしいとおもうよ。……ケンカしたって、はじめっからわかり合ってる仲だしね。……」

「愛? いきなり夫婦の愛ですか? 夫婦といっても、後期高齢者とかになっちまうと、愛っていうものがどういうものだったか? ……塩野七生さんの『ルネサンスとは何であったか』(新潮社、2001年)という本を読むと、《ルネサンスとは、見たい、知りたい、分かりたいという欲望の爆発が、後世の人びとによってルネサンスと名づけられることになった》と書かれています。掲載された塩野七生さんの雑誌も《海》でしたね」

「そういうもんですかな。しかし、ありますよ、愛は。――古代中国に、《陰陽5行説》ってあるでしょ? それですよ」とSさんはいっている。

とつぜんむずかしい話になった。Sさんの口から、「陰陽5行説」が出てくるとは思わなかった。

 

ヴェネチアの女性ファッション。塩野七生さんの「海の都の物語」より転載。

古代中国の「陰陽5行説」に出てくる「7情」というのは、嬉()、怒()、憂(ゆう)、思()、悲()、恐(きょう)、驚(きょう)の7つの感情が書かれている。それは、よく考えみれば、たがいに打ち消しあう諸刃の剣だと考えてしまう。

よくも悪くも、取りようによっては、いくらでも都合よく取れるもので、感情の異常な変化は、女の抑圧としてトラウマになるといわれているのだけれど、……。ストレスのもとになる7つの感情を和らげてあげると、たしかに、リラックスできるような気になる。和らげてあげる最大の方法は、じぶんの場合、「ことば」だ。そして、ヨーコの足の裏を揉む。

ヨーコはたぶん、それは行動だというかも知れない。

なるほど行動には違いない。――だから、足の裏を揉むのだが、何回も、何回も、ヨーコがもういいというまで揉みつづける。しまいには、彼女は眠ってしまうのだ。

「奥さん孝行なんですなあ、田中さんは。……だから、それは愛なんですなあ」といっている。

このあいだ、じぶんはヨーコの料理を褒めた。

ヨーコがつくる料理は、美しい。盛りつけにもそれを感じることがある。美的な配慮が奥ゆかしいときがある。きのうはカレーライスだったが、自分がひとり食べるときのことを考えて、あらかじめつくってくれている。

むかしから、《男は松、女は藤(ふじ)》などといわれている。

松には藤がからまるように、女は男を頼りにするというたとえらしいけれど、ところが、ヨーコのいうとおり、じぶんは松なんかになれず、藤になっちまって、ヨーコにからみついているというわけだ。

……うははははっ! しかし、ことばって魔術だなあと、つくづくおもう。

ヨーコはさいきん、足の裏を揉みはじめて、足がラクになったといっている。これは、女のたしかな反応である。足の裏にはいろいろなツボがある。性感帯もあるのだ。しらべてみると、性感帯は、中医学でいう「気」、「血」、「津液(しんえき)」の旺盛なはたらきで感じ取るツボと書かれている。

「出ましたな。……性感帯の話が、……」とSさんはいう。

「ところで、例の電子辞書、どうですか? 使えますか?」

「ああ、あれですか。……このあいだ、カバンていう字を忘れて、辞書で打ってみましたよ」

「漢字のカバンですね?」

Sさんは俳句をひねるので、辞書が要る。そのために電子辞書を手に入れたのだ。

「やっと、出ましたな。さんざん苦労しましたよ」といっている。

「美空ひばりは、出なかったでしょう?」

「出ませんでしたな、……ところが、【よのなか】《世の中》っていう字をしらべたら、そいつは、愛し合う人と憎み合う人と出ていましたな。田中さんのいうとおり、【れんあい】《恋愛》は、特定の異性と特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、できるなら合体したい、と書かれていましたな。小説を読んでるみたいだ」

「――ということは、それは、山田忠雄主幹の三省堂の新明解国語辞典でしょう。漢字の話も出ていましたか? カバンの、いわれなんか書いてありましたか?」

「いわれ? べつになかったですよ」

「なかったですか。ほう……」

カバンは「鞄」と書く。――ちょっと古いが、「オール読物」の2007年2月号に阿部達二という人の書いた《歳時記くずし》というページに、鞄のいわれが書かれている。それによると、明治23年2月22日、明治天皇は上野公園で開かれている内国勧業博覧会に出かけられ、途中、馬車の窓から銀座の谷沢商会のまえに「鞄」という看板がかかっているのをご覧になったそうだ。

天皇も、おつきの者も読めない。

のちに使いを出してたずねると、舶来の皮のバッグを売るために「革包」と書いたらしいのだが、それが横書きになっていて、字と字がくっついて、「鞄」の1字に見えたのだそうだ。中国語の「鞄」はホウ、ハクと読み、「なめし皮、それを作る職人」という意味。これ以降、日本では鞄はバッグという意味になり、日本読みは「きゃばん」を当てたのだけれど、これがどうもいいにくいというので「かばん」ということばになって、国訓文字になったという。

「ほんとですか? ウソみたいな話じゃないですか」とSさんはいった。

「そういうことなら、ひとつ漢字ができますなあ」と彼はいった。

「《金》に《矢》と書いて「鉄」の字をつくる。

この字は、どうでしょうな? 鉄は、金を失うと書くじゃないですか? じぶんは、金を失いたくないのでね。妙な字をつくりましたなあ」という。

「あっ、おもい出しましたよ。北海道のJR北海道旅客鉄道株式会社の《鉄》という字は、たしか、矢になってたと思いますよ」

「そりゃあ初耳ですなあ。事業者たちは、考えたんでしょうな。……」

「みんな、ウソみたいな話ですがね。……そういえば、中国人のいう配偶者は愛人と書く。知ってました?」

「配偶者ですか。愛人とは、おそれいりますな」

「ふつう、奥さんのことは、老婆(ラゥプオ)と書くそうですよ。……母は?」

「母親じゃないのかい?」

「これ、娘なんですって」

「ほんまかいな!」

「ふつう、女ヘンに古と書いて、クーニャっていうそうですよ。または女ヘンに児とも書く。……飯店は、ホテル。これはご存知でしょう?」

「だったら、田中さん、手紙は?」

「トイレットペーパーかな?」

「じゃ、手紙はどういうのかい?」

「手紙? ……うーん、たしか、信とかいうんじゃないの。正式には郵便信かな?」

「辞典なんて、《ことばを、ことばで写生する》ってよくいいますね。三省堂ブックレットという本に、そんな話が書かれていますよ」

【おんな】《女》は、①人のうちで、やさしくて、子供を生みそだてる人。女子。女性とあって、「婦人」という語が消えている。もう「婦人」とはいえなくなった。「婦人警官」とはいえなくなったわけ。

【おとこ】《男》は、①人のうちで、力が強く、主として外で働く人。男子。男性と出ていて、三省堂の語釈は、原則的に小学5年生までで習う漢字の範囲で書かれているという。だが、子供のレベルに落としては書かれていない。

さて、ここまではわかる。

ところが、――

【じこ】《事故》の語釈を読んで、ぼくはびっくり。

「②その物事の実施・実現を妨げる都合の悪い事情」と書かれている。それはそのとおりかもしれない。用例が載っていなくて、ピンと来ないのだ。「いつだったか、じぶんはおまわりの職務質問にあって、カバンのなかを調べられ、カッターナイフがあったものだから、ちょっと来いと呼ばれ、草加警察署に連れていかれましてね、……。その話、いいましたよね? あのときは、説明にこまりましたよ」と、Sさんはいっている。

「ああ、それはぼくにもおぼえがありますね。木刀を裸で持ち歩いていて、職務質問を受けました。そりゃあそうですね。友人から木刀一本をもらい受けた日のことですよ」

「友人の名前と、住所、連絡先をいえっていうのでしょう? じぶんもいいましたがね」とSさん。「それですな。ここに3本ありますな」といって、Sさんは立ちあがって木刀の一本を持ち上げた。

「おっ、重いですな、……」といった。

これを木剣(ぼっけん)ともいう。つまり、凶器なのです。黒檀、蚊母樹は高価で、重い。赤樫は軽いけれど、強く打ち合うと折れやすい。

「《剣は一人(いちにん)の敵まなぶに足らず》ということばがありますね。この意味、わかりますか? だからといって、国民といえども、そのひとりから成るわけで、その意味は、万人を相手にしたときとおなじなんですよ」とぼくはいった。

「つまり、木刀を振るう人は、ひとりだけれど、天下国家を相手にするとき、万人を相手にする兵法にはかなわないって意味ですかな?」

「そうなんですね。でも、ぼくはこのことばが好きですね。剣道では《打って反省、打たれて感謝!》ということばがあります。相手を打って勝ってもけっして奢らない。打たれたときは、なぜ打たれたか知ることになる。勝った! 勝った! といってガッツポーズをしようものなら、1点減点される。打つことは、人の死を意味するので、喜ぶ場合ではないからです」というと、

「そりゃあ、そうでしょうな」といった。

「残心(ざんしん)ということば、英語にも、フランス語にもありません。ウクライナからやってきた剣道家は、ちゃんとした日本語で、そういっていました。剣道は、いってみれば、《残心》を極める武術といえるかもしれませんね」

「いかにも! ……ああっ、トイレしたくなった。わすれていましたな。……さっきから、我慢してたんですよ」といいながら、たばこの火をもみ消してSさんは立ち上がった。

《関羽の青偃月刀(えんげつとう)が首を三つ飛ばし、張飛の蛇矛(じゃぼう)が四人を馬から叩き落としていた。さらに首が飛びつづける》と読みはじめると、

「《三国志》ですな? そんな感じがしますな」とか、いっている。

「人が、用を足しているときに狙い撃つのは、卑怯です。フォークランド紛争のとき、英国人は、草原でズボンを降ろして、用を足している敵兵を見て、指揮官は撃ち方やめい! といって発砲を止めたそうですよ。英国人には、武士の情けではなくて、れっきとした騎士道精神というものがありましたからね」

それにしても、1982年3月19日、アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島のイギリス領サウス・ジョージア島に2度に渡って寄港、イギリスに無断で民間人を上陸させたことに端を発している。日本は、日露戦争前夜、アルゼンチンにはひとかたならぬ世話になっている。装甲巡洋艦「日進」と「春日」は、建造後、アルゼンチンから買い受けたものである。そのアルゼンチンが! とおもったものだ。

上の暇。

 

ぼくはかなり年をとってから、北海道のふるさとに帰って眺めた風景は、とても美しいものだった。バスのなかから見た田園の風景は、見慣れた風景なのに、なぜかよそよそしく感じられた。それはそうだろうな、とおもった。

ぼくは、そこに寄りつかなくなって、50年がたつ。

50年は、ほんのひと時のようにも感じられ、はるか遠い時間のようにも感じられ、その50年間は、そのときのぼくには、100年にも感じられた。

2013年、101歳でこの世を去った父のことを少し考えた。

「おまえは、東京へ行け!」

父は、そういってぼくを東京の大学に送りだした。

それから数年たって、こんどは、

「おまえは、イギリスへ行け!」といって、父はぼくをイギリスの大学へ送りだした。それから50年がたった。年をとるはずである。

55年まえ、北海道のいなかの家の花畑には、ひまわりが咲いていた。母の好きなひまわり。放し飼いにしていたにわとりたちが、玄関先のパドックを遊び場にして、あちこちに群れていた。ひまわり畑に隠れるようにして地面をついばんでいるやつもいた。パドックには、彼らのお目当てのご馳走がいっぱい落ちていた。ときどきカケスがやってきて、先取りされていく。

「おーい、ハシゴをかけてくれ!」と父がいった。

父は鶏舎の屋根にのぼり、トタンを張り換えていた。こんどは、妻側の屋根のエッジ部分のトタンを張り換えるという。ぼくは大きなハシゴを持っていき、屋根のケタ方向に立てかけた。

「そこじゃない。こっちだ!」といっている。ハシゴを足場にして張り換えるらしい。そこは小屋組みの、屋根のてっぺんに近く、ちょっと危険なところだ。重いハシゴを移動し、父のいうところに立てかけた。

そうだ、そこだ! 

といって、ハシゴの桟に両足を乗せると、トタンを張り、エッジのふくらみを金づちでトントンと叩いて、軒板の上までじょうずに張り渡した。

「ぼくにもやらせて!」というと、

「やめておけ!」といい、そして「見ておれ!」といった。

ぼくは首が痛くなるまで父のやることを眺めていた。

ぼくは、ずっとまえ、――平成10年ごろのことだが、――父が書いた「自叙伝」の原稿の一部をコピーして読んだことがある。北海道に帰省したときにコピーして持ち帰ったのは、原稿用紙にして70枚ぐらいのものだった。

それによると、母との出会いや、ぼくが誕生したころの話、3人の子守りの女の子たちの話などが書かれていた。母が結核性肋膜炎でながいあいだベッドで臥せっていた。母ははたらくことができなかったので、家にはいつも子守りの女の子がいた。

いずれも彼女たちの名前は書かれていない。

最後にいた子守りの女の子は、日本人とロシア人のあいだに生まれたハーフの女の子だった。彼女はサハリンで生まれ、日本人の引揚げ者といっしょに北海道にわたってきた女の子だった。

当時、サハリンからの引揚者は100万人を超えていた。

日本人妻のある家族は、ロシア人の夫とともに北海道へ渡ってきた。ナターシャは、ぼくより8つ年上だった。彼女の父親はロシア人で、軍の事務局で働いていたらしい。北海道にわたると、にしんなどの行商をしていた。

ぼくが8歳のとき、彼女が子守りの女の子としてわが家にやってきた。

ぼくの下に弟がふたりいた。生まれたばかりの弟は、ナターシャの背におぶさって母のおっぱいを吸っていた。――わが家は、北海道の雨竜郡北竜村という農村地帯にあった。父は、陸軍旭川第7師団から満州の戦場へと駆り出され、戦時中は、母がひとりで家の切り盛りをしていた。秋田、青森方面からの出稼ぎの季節労働者が北海道に渡ってきたので、母はそういう彼らを雇って、田畑を耕していた。

父が帰ってきたのは終戦の年の暮れだった。ぼくはすでに生まれていた。

いまおもい出しても、むかしの写真を見るように、ぼんやりとして何も覚えていない。

自分がまだ幼かったころの記憶は、ほとんどなくなっている。

わずかにおもい出すのは、本家のばあさんのことだった。父のいない家には、おそらくばあさんが母のめんどうをみていたに違いない。

ナターシャには野良仕事をさせなかった。家の切り盛りのすべてを任せていた。母のめんどうや、弟らの子守り、食事・洗濯など、彼女には休みというのはほとんどなく、家族のように暮らしいていた。

ぼくが小学校6年生のとき、馬の世話をして、馬を自由にまかせてくれたことが嬉しかった。農家も農閑期になるとヒマになり、せいぜい田んぼの草取りをするくらいで、ぼくはあちこちに馬を連れだして、馬とともに過ごした。

そのころの夏は、恵岱別川で釣りをしたり、馬の脚を洗ったりして、父と偶然、川原の土手で出会うことがあった。なぜか、そばにナターシャがいた。彼女は、夏には浴衣を着ていた。

「おれはきょう、休暇をとる! おもえたちは家にいろ!」

そういって父は、ナターシャを馬に乗せると恵岱別川に出かけた。

ナターシャは父よりも背が高く、たぶん170センチはあったろうか。

ブルネットのヘアをしていて、目は茶色っぽかった。肌は白く、お尻の大きい子だった。その子が馬に乗ると、あぶみに乗せた父の足より、彼女の脚が長く見えた。

彼女は背が高いので、母は彼女に和服を着せていた。おそらく彼女のサイズに合う服はなかったのかもしれない。和服や浴衣なら、背丈に合わせることはかんたんにできる。よく母の履いている下駄を、気に入って履いていた。

浴衣のすそが割れて、彼女の白い太股が見えたりした。ふたりを乗せた馬は、農道を歩いていった。

恵岱別川に向かう農道は、水路に添ってまっすぐに伸びていて、途中に小豆川があり、その橋にかかる水路は、板でできた樋になっていて、真ん中に調節弁がついていた。あまった水は、調節弁を開いて水を川に放流していた。

そのあたりにはイタドリが群生していて、水は深く、ときどきそこでみんなと泳いでいた。

父はナターシャを誘って、そこでひと泳ぎするつもりだったのかもしれない。

川はそれほど深くはなかったけれど、急流で、押し流されそうになったことがある。ぼくはうしろから彼女の浴衣の帯をつかんで、しがみついていた。

お姉ちゃんが、川に流される! とおもった。

そして、お姉ちゃんがおぼれる! とおもって、ぼくはお姉ちゃんの浴衣の腰にしっかりしがみついていた。ぼくは、少し水を飲んだ。ふたりは流されてコンクリートの護岸のある壁につかまった。

真上に用水路の樋(とい)のあるところだった。樋から水がぽたぽた川に落ちていた。木々のあいだから洩れてくる朝日が、いくつにも散らばって見えた。

お姉ちゃんは、護岸の壁が尽きたあたりにある柳の小枝につかまった。そこは木の茂みの影で薄暗くなっている。

彼女は、ぼくの腕をしっかりつかんで、「ゆき坊、がんばって!」と叫んだ。

お姉ちゃんは、片手で自分の浴衣の帯を解くと、それをぼくのからだに巻きつけた。そして、川岸をよじ登っていこうとした。お姉ちゃんのお尻がゆれて、からだがぼくのうえにずり落ち、ふたりとも川に背面から音をたててすべり落ちた。

水の中に沈んだ耳のなかで、お姉ちゃんの叫ぶ声がぼんやりと聞こえた。水の中は別世界だった。これが魚の世界なのかと、ぼくははじめておもった。

水のなかで、太陽が見えた。

きらきらして、まぶしいくらいだった。

彼女は柳の小枝につかまり、べつのルートを探してよじ登っていった。丈の短いクマ笹(ささ)がたくさん生えていた。ホウの木やクマゲラが好きそうな橅(ぶな)の木があった。ロロロロロと聞こえるクマゲラのドラミングの音は、このあたりでしていたのかもしれない。

お姉ちゃんは、土手にあがると、笹を掻きわけて農道のほうに歩いていった。

父が向こうから歩いてきて、いきなりナターシャの頬を打った。

「おまえたち、川で何をしていたんだ。おまえたちの姿が見えたので、きてみると、これだ!」と、父はいった。

父は中国の戦地で戦ってきた機関銃兵だったから、叱り方が怖かった。

帯をつけない、ぬれたままの浴衣着のお姉ちゃんは、見たこともないほどきれいだった。ブルネットの髪がぬれて、顔じゅうに張りついていた。

「おまえは、帰って馬に餌をやれ!」と、父はいった。

それから、父は彼女を連れて恵岱別川のほうへ行った。ぼくは叱られて家にもどった。父のあとからついていくナターシャのぬれた浴衣姿を見て、父は、彼女をどうする気なのだろうとおもった。ふしぎな光景に見えた。

夕方、西日が落ちて、父たちが帰ってきたとき、父は上機嫌だった。何があったのだろうとおもった。

それ以来、このときの記憶は忘れてしまい、それから数ヶ月して、秋のおわりごろ、稲の収穫に多忙になり、納屋では連日連夜、発動機のエンジンの音を鳴らして、ランプの灯りひとつで、父は稲屑まみれになって精を出した。

夜も遅くなって、納屋は静かになり、ぼくら兄弟は眠った。そして、あることをおもい出して、納屋のほうに行くと、父は、稲わらのなかでナターシャと抱き合っているのが見えた。

父に見たことを知られたくないとおもい、ぼくはこの話を封印した。

一瞬、お姉ちゃんがいじめられている、とおもった。だが、それは違ったようだった。

父の機嫌のいい日はめったになかったが、ある日、父はまたナターシャと泳ぎに出かけた。

「おまえは、家にいろ!」と、父はいった。ぼくはおもった。父はナターシャが好きになったに違いないと。母は病気で、ベッドでいつも寝ていた。

その帰り、父とナターシャが農道を歩いてくる姿を見た。そして、ナターシャが家に帰ると、父のふんどしを洗濯しているのを見た。

それからぼくは大きくなり、中学2年生になった冬、母がペニシリンを打って元気になると、母はナターシャを追い出した。

父は、「ながいあいだ、ご苦労さまだった」といって、給金の入った封筒を差し出すと、彼女は深くお辞儀をして、翌日、家を去って行った。

母はおそらく、父が彼女と通じていたことを、とうに気づいていたのだろうとおもう。子どもたちのまえでは、何もいわなかったが、母は父にたいして、つよい不信感を抱いていたかもしれない。彼女は24歳ぐらいになっていた。

ところどころ、ぼやけているが、記憶の断片をつなぎ合わせると、父はまだ若かったので、彼女の魅力に抗しきれなかったのだろうとおもう。

ぼくはこの年になって、若いころの父が嫌いな軍隊にいき、ほとんど父には青春がなかったのをおもって、ゆるせる気になった。父の書いた「自叙伝」には、ナターシャのことは一行も書かれていない。ナターシャのことを尋ねると、「もう忘れた」といっていた。

父の休暇は、北海道の夏のように、ごく短かった。

しゃ降りのに。

きみちゃん。――そういえば、麻布十番のパティオ通りにあった。

田原がさいきん見たのは横浜のほうではなくて、麻布の銅像だった。可愛い女の子の銅像だ。おさげ髪にコートを着た少女の立ち姿だった。片手をコートのポケットに入れている。

横浜の山下公園にはむかしからあった。

赤い靴をはいた少女が座って、海を見つめていた。異人さんとともに遠い外国へ旅立った少女に思いを馳せ、そこに建てられたのだろう。

ふたつの銅像に秘められた詩のもつ哀愁感は、この歌に海外への夢を託す人もいただろう。野口雨情が作詞し、本居長世が作曲した童謡「赤い靴」のモデルになった女の子だ。

 

 赤い靴はーいてた女の子

 異人さんにつーれられて行っちゃった

 

きみちゃん。

 

――田原がこの詩をおぼえているのは、北海道と関係が深かったからだ。

女の子は岩崎きみちゃんといった。明治35年に静岡県で生まれ、まもなく、母かよとともに北海道に移住する。

そこで母は鈴木志郎という男性と結婚し、開拓農場に入植した。生活は貧困をきわめる。母はやむなく3つになったばかりのきみちゃんを、アメリカ人宣教師チャールズ・ヒュエット夫妻の養女にした。宣教師がまもなくアメリカへ帰国することも承知していた。ふたたび会うことはないと覚悟し、すこしでも娘が幸せになるならばという願いをこめて娘を手放す。

その後、母かよは、夫とともに農場を離れる。生活が苦しすぎた。

夫志郎は札幌の小さな新聞社に勤める。そこで知り合ったのが野口雨情だった。そして、歌ができた。

ところが横浜から船に乗って外国へいったはずのきみちゃんだったが、じっさいはそうではなかった。宣教師夫妻は明治39年にアメリカに帰国する。とうぜんきみちゃんを連れていく予定だった。

ところが帰国の直前、きみちゃんは重い結核をわずらってしまう。

当時は不治の病である。

そのまま長旅をつづければ、きみちゃんの命をうばってしまうだろう。宣教師夫妻はやむをえず、麻布のメジスト系教会の孤児院にあずけ、帰国してしまった。きみちゃんはまだ6歳の幼女だった。

孤児院でひとり病魔とたたかっていたけれど、明治44年9月、きみちゃんは息を引き取った。わずか9年の短い人生だった。

「赤い靴」が世にでたのは、大正11年。この事実は、母も雨情も知らなかった。きみちゃんが息を引き取った場所が麻布永坂にある鳥居坂教会の孤児院だった。

「そうなんですか。北海道のどこなんですか?」

「留寿都村(るすつむら)です。そこにもきみちゃんの銅像があるんですよ」

隣りの男たちがカラオケの準備をしていた。むかしの演歌が流れた。由利子は男たちのほうを見ながら、ウイスキーを飲んだ。

「そうだったんですか。野口雨情は北海道の人?」

「いや、ちがうけれど、小樽の新聞社にいたんだ。そこに啄木もいたんだよ」

「そうなんだ」

「同僚の啄木といっしょに主筆の排斥運動かなんかやって、クビになるんじゃない?」

「でも、雨情の詩って、しみじみとした詩なんですね」

「白秋とか西条八十らの都会的なしゃれた華やかさとは、まるでちがうよね」

「西条八十って、読んだことないわ」

「ぼくも、あまり読んだことがないけど、西条八十には《トミノの地獄》っていう、奇妙な詩がありますね」

「《トミノの地獄》、ですか?」

「きいたことない? 《姉は血を吐く、妹いもとは火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く》って」

「なんだか、怖そうな詩だこと。どういう意味なんですか?」

「わかりません。わからないけれど、寺山修司がこれをもじって、《姉が血を吐く、妹は火を吐く、謎の暗闇壜(びん)を吐く》っていってるんだ。トミノの部分を《謎の暗闇》といってる。だから、謎なんじゃないの?」

「ビンを吐く?」

「ビールビンのビン」

「ビンなんか吐くもんじゃないでしょ?」

「ふつうの人は、ビンなんか吐かないね。暗闇がビンを吐くというんだから、人じゃないね」

「わたしは雨情のほうがいいわ」

「もう聴かなくなったね。……《十五夜お月さん》も雨情だね」

「いまも幼稚園で、歌ってるのかしら」

「ここにはないよね?」

「ここにはたぶん、ありません」

「……なんですか? 田原さんたちも歌いません?」と、ママがいった。

「ママ、童謡歌いたくなった」

「どうよう? あら残念だわねぇ、こんど準備しておきましょうか? 田原さんのために」

「ママ、じょうだんですよ」

ドアが開いて、またさっきの男が顔を出した。そして入ってきた。30歳くらいの痩身の男だった。白いワイシャツがよれよれになってぬれている。

「いいの? きょうはこないと思うけど、……」と、ママがいった。

「待ってみる」

「あらあらぬれてしまって、……こっちへきて、座ってちょうだい」

ママはタオルを男に差し出した。

男は、歌っている男のわきで突っ立ったままでいたが、カウンターのほうにやってきて、田原の隣りに座り、タオルでぬれた頭を拭いた。女でも待っているのだろうか。男はちらっと由利子のほうを見た。歌がおわって、男はカウンターにもどってきた。カラオケ装置のわきにあるボックス席は、がらんとしている。

「ママ、もう帰るよ。電車がなくなる」と、歌っていた男がいった。

「雨降ってるわよ。傘もっていっていいわよ」と、ママがいった。

「3人分、いくら?」

「いいの?」ママはカウンターのなかで計算していた。

「きょうは、朝から天気よかったのにね、……」とつぶやきながら、ママは伝票を男にわたした。3人がドアから出ていった。

「ママ、こなくていいよ」

「いいえ、下までよ」といって、ママも出ていった。

「ぼくらは、まだいていいよね? 電車はとうになくなったけど……」と、田原はいった。

「ええ」

「走って帰れるくらいの距離? 由利子の家は」

「走って帰ったら、50分くらいかかるかも……」

「そんなに遠いんだ」

ジントニックがなくなった。由利子の肩がななめにすこし動いて、カウンターのなかをのぞきこんでいる。肩幅が、こんなに広いと思わなかった。胸もこんなに大きいとは思わなかった。

からだのつくりがすべて大きく見えた。ステンカラーになった白いシルクのブラウスが、由利子をいっそう大きく見せていた。襟のカラーの幅が大きくて、可愛らしい感じがした。ヒダのない、淡いライラック色のミディのスカートがよく似合った。

田原と歩くと、179センチの、かなり長身で、髙いヒールに乗せると、キリマンジャロの山のように見える。

「ぬれちゃった。雨がすごいのよ」といって、ママが入ってきた。それから、

「あなた、何にします?」と、男にきいた。

「ぼく、こちらの人と、おなじものを」といって、田原が飲んでいるグラスを指さした。

「ジントニックよ、それでいいの?」

「ええ」

「もう、こないわ」

「ええ」と、男はいった。

雹でも降っているようなパチパチッという音とともに、稲妻の閃光(せんこう)が走った。そして室内のライトが一瞬ダウンしそうになった。

「いやだあ、カミナリだわ」と、ママがいった。

「こんな天気になるなんて、いわなかったと思うけど……」と、田原がいった。

「そうよね。天気予報、あてになりませんね。あらっ、おつくりしますね」といって、ママがジントニックをつくりはじめた。

「昼間が天気だったから、きょうは、じゅうぶん楽しめた」と、田原がいった。

「何を楽しんだんですか?」

「楽しみましたよ。ママのしらないところで」

「でも、由利子さんだいじょうぶ? こんなに遅くなって」と、ママがきいた。

「ええ、走って帰りますから」

「いいえ、こんな雨だもの、帰れないわよ」

「雨、雨、降れ降れ母さんと……」

「なにいってるんですか、田原さんたら……。さっき、童謡を歌いたいなんていってましたわね。きょうの田原さん、めずらしいんですよ。ちょっと酔ってしまったのかしら」

「いいえ、お酒に酔ってしまったというより、童謡に酔ってしまったみたいです」と、由利子がいって笑った。

「田原さんと休んでいけば……」

「なんですか?」

「いえね、田原さんは、NBAテレビの方だから」

「ママ、このお店は何時までやっているんですか?」

「もう、おわりなんだけれど、きょうは田原さんがいらっしゃるから」

「ママ、ぼくのことはいいんですよ」

「ええ、もうそろそろ、わたしは帰ります。おふたりはいいのよ、ごゆっくりして」

「えっ? ママ、帰っちゃうんですか?」

「ママは、帰りたいんだって。ここにいれば」

「ママ、ぼくも帰ります」と、きゅうに男が立ちあがっていった。そしてポケットから折りたたんだお札を取りだした。

「帰ったほうがいいわね。彼女、もうこないわ。――いえね、この人の彼女のことですよ」

瀬基寛教授から文学を学んだ日。

 

きょうは朝から、4月の生ぬるい雨が降っている。

去年の秋、庭に落ちた木の葉が、残酷な色になって林の丘を染めている。

新型コロナウイルスの蔓延で、山口晃先生のヘンリー・D・ソローの朗読の会の休講が、ずっとつづいている。このままだと、夏を過ぎるまでみんなと会えないかもしれない、とおもう。

 

 雨にぬれてる 焼けあとの

 名も無い花も ふり仰ぐ

 青い山脈 かがやく嶺の

 なつかしさ

 見れば涙が またにじむ

 (西條八十・作詞、服部良一・作曲、藤山一郎・歌「青い山脈」の第3番

 

別室になった書斎の部屋を開けると、デスクの上に広がったままになっている1冊の本が見える。灰皿の上には、たばこの燃えかすが残り、ウッドデッキのある裏窓のほうから入ってくるのは、きょうも雨模様だが、半分は、やがて強烈な夏の光が、ぼんやりとだが差し込んでくるはずである。

昨夜書いていた日記のページが開いたままだ。何を書いていたのだろう。……「The Creative Element」ということばが見える。――先日、タレントの志村けんさん(70歳)が、新型コロナウイルスが原因の肺炎で亡くなった。

きょうも、雨の景色を撮った写真を見ながら、日記のつづきを書く。

さいきん、深瀬基寛(もとひろ)という人の書いた「悦ばしき知識」(ちくま哲学の森5「詩と真実」、2012年)というページを読んでいて、おもしろいなあとおもった。この「悦ばしき知識」は、昭和33年9月、京都大学定年の記念講義をもとにして書かれた本で、しゃべり口調そのままに書かれている。ぼくは、この人に一度もお目にかかったことがないけれど、親しみを感じている。

彼は、マシュー・アーノルドやТ・S・エリオットの紹介・研究をおこなった人として知られている。ぼくのТ・S・エリオットに関する知識は、だいたいこの人の本を読んで知ったことが多い。

T・S・エリオットは1917年にロイズ銀行に入り、以降9年間、植民地外務部に1行員として勤めることになる。長身で猫背、いつも身なりの端正なこの銀行員は、判で押したように規則正しい勤務をつづけながら、1920年、「詩集(Poems)」を出版したのち、1922年には季刊誌「規準(Criterion)」を創刊し、そこに長詩「荒地(The Waste Land)」を発表して、画期的な成功をおさめた。

イギリスに帰化し、英国国教会に改宗したのは、1927年のことである。

こうしてまたたく間にイギリス文壇に絶大な尊敬と信頼を築いたエリオットは、詩、批評、劇、そして編集・出版などの分野でめざましい活躍をつづけた。

1920年代から50年代までのほぼ30年間は、まさにエリオットの時代と呼んでいいほどで、いまから思えばちょっとふしぎなくらい、彼は英米文学の創作と批評に圧倒的な影響をおよぼした。

もっとも「荒地」以降のエリオットは、「古典派、王党派、アングロ・カトリック」という自己規定にも見られるように、初期の詩とは打って変わった保守的な傾向、強い宗教的な信条を前面に押し出すようになる。その後の代表作としては、長詩「四つの四重奏曲(Four Quartets)」などがあげられる。

L・D・ラーナーの「英文学をどう読むか」(1969年)という本を読んだのも、深瀬基寛教授のおかげだった。訳書もけっこう読んだ。

 

 「スティーヴン・スペンダー日記 1939-1983」(彩流社、2002年)。

 

先日も、この人の訳で、Stephen Spender(1909年-1995年)という人の本を読んだ。彼は、イギリスの詩人・批評家である。Spenderというのはおもしろい名前だ。訳して「浪費家」と読める。スペンダーの「The Creative Element」という本を、深瀬基寛先生は「夢孕む単独者」と訳された。それを10年前に再読した。

そのときぼくは、リルケについて興味をもっていた。

教授の講義では冒頭、ダラスという学者が書いた「陽気な科学」という本を取り上げ、「《陽気な科学》とは、poetry」のことだと書かれていて、つまり悦ばしき知識は詩から生まれるといっている。Joyful wisdomあるいはjoyful knowledgeというのは、comes from poetryだといっている。

「その時代に、詩の弁護、defence of poetryというものが、英文学にはあるんであります」という。その講演の語り口調がおもしろい。すこし長くなるけれど、その部分を引用してみたい。

「――ごく簡単な例をあげますと、古くはあの16・7世紀のシェイクスピアの時代、サー・フィリップ・シドニーという偉いもののふがおりまして、これは戦場で瀕死の手傷を負って、まさに息たえんとするときに、かたわらに倒れている戦友をかえりみて、この水は――一滴の水が残っていたんですが、水筒が何かに――おれよりもお前のほうがまだ必要だ、おれよりもお前が――両方とも死にかかってるんですな――そういって最後に末期(まつご)の水を親友に与えて息絶えたという、ものすごい武勇伝中のひとりですが、これがエリザベス朝時代のAn Apologie for Poetrie――詩の弁護――というのを書いたんであります」と。

そして、「科学者が科学的な認識をする道がひとつある」と書いている。

しかし詩人は科学者のような真理を書くわけじゃなく、詩人は嘘をつくといい、その嘘も、「ま、だいたい日本の詩にも《巨大な胃袋の中に……》とかいうような詩もあるんですが、胃袋の中に何か、人間がおるような詩を書くんですな。そんなことは常識では考えられんけれども、詩ではそれが、嘘、ほんとうになるんです。つまり、事実に関する真理は、科学が引き受けるんだが、詩のほうは嘘をつくんだというんですよ」

「――あの時代のIndustrial Revolution――産業革命――です。あれがつまりロマンティシズムの、つまりキーツとかシェリーとかワーズワスの時代の詩的活動の中心が、この産業革命というものに対するreactionです。ひじょうなる反逆。……」

そんなふうに書いてあって、凡百の研究書を漁るより、ずいぶんおもしろく、かつ的確に、直裁的に書かれているのである。

イギリスで華咲いたそのころの産業革命というものは、いったいどういうものか、いまでは想像する以外に手立てはないのだけれど、イギリスでは、ゆっくりと時間をかけてすすんだが、大西洋を隔てる対岸の新生アメリカ合衆国では、急速にすすみ、産業革命の歴史は、じつにアメリカにおいて、イギリスよりも早いスピードで実現したのである。

ふるい時代の遺物は、新しいものに取って変わられ、ふるい人たちは新しい時代の担い手たちに道をゆずった。好むと好まざるとにかかわらず、新時代の大波は津波のようにすべてを押し流した。

日本の横須賀造船所は、江戸幕府が海防に備えて、小栗上野介が創設した造船所である。

1865年(慶応元年)8月に建設された横須賀製鉄所を前身とし、フランスの海軍技師フランソワ・ヴェルニーをはじめとする雇用フランス人の技術力と輸入機械を生かし、当時にあっては日本最大の総合軍事工場であった。のちの1871年(明治4年)4月、横須賀造船所と改称。日露海戦までに40隻以上の造船事業を築いた。

それでも、日本には産業革命の波はやってこなかった。

ここにおいて詩の復権を叫ぶ新しい詩人たちがあらわれたという。

しかしどうだろうか。

そのころの詩人たちは自然を歌い、永遠の愛と忍耐の革命の詩を書いた。その代表的な詩人は、P・B・シェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792-1822年)だったかもしれない。

シェリーは、「Passion(キリスト十字架上の受難)」という語を、「passion(情熱)」という語に意味をつくり変えた。もっといえば「熱情、激情、欲情」という訳語を与えた。このとき以来、passion=情熱という意味に変わった。

ワーズワスやコールリッジには革命の色がない。

たとえばシェリーの「解放されたプロメシュース(Prometheus Undound)」という詩には、とことん戦って生きる人間が描かれている。

 

 大地よ、海よ、泣け、大声で叫べ、

 大地の裂けた胸が答えよう、

 叫べ、生ける者と死んだ者の精たちよ、

 汝らの拠所で、汝らの守護である彼は倒れ、捕らえられてしまった。

 Wail, howl aloud, Land and Sea,

 The Earth's ret heart shall anewer ye.

 Howl, Spirits of the living and dead.

 Your refuge, your defence lies fallen and vanquished.

 

――そして、Eternity.……とつづき、「永遠だ。それより恐ろしい名を求めるな(Demand no direr name.)」と歌っている。

イギリスの産業革命は1760年代から1830年代までという比較的長い期間にわたって漸進的に進行した。それはイギリスにかぎらず、西ヨーロッパでは「産業革命」に先行してプロト工業化と呼ばれる技術革新が存在した。

そのために、そもそも「産業革命」のような長期的で、緩慢にすすむ、この文明の進歩が「革命」と呼ぶに、はたして値するか、という議論も出てくるのはとうぜんである。

一説には、初期の軽工業中心のころを「第1次産業革命」と呼び、電気・石油による重化学工業への移行後を「第2次産業革命」と呼び、原子力エネルギーを利用する現代を「第3次産業革命」と呼ぶこともあるようだけれど、現在では産業構造の変化と、それにともなう社会の変化については、「革命」というほど急激な変化ではないという観点から、日本語では「工業化」ということばで表されることが多い。ただし、イギリスの事例については依然として「産業革命」ということばが使われている。

――いっぽう、日本では産業革命は起こらなかったが、明治維新を経験した。

「幕末」をつくった人びとは、みんな志というものを持っていた。

それが、ひとりやふたりではない。その歴史に登場する人びとは、まことに多く、まるで銀河星雲の星のきらめきにも似て、やれ「討幕だ」、やれ「尊王攘夷だ」と叫び、人びとが入り乱れてひしめき合った時代だった。――この時代図は、一服の絵巻には到底おさまり切らない、蜿々(えんえん)とつづくキラ星の歴史である。時代は100年かけて、ゆっくりゆっくりと変化していった過去の歴史とはぜんぜん違い、まことに目まぐるしくて、慌ただしい時代だった。

そのきっかけをつくったのは、いうまでもなく、嘉永6年の黒船来航である。

吉田松陰らの尊皇攘夷派(つまり、外国勢の排除)が台頭し、井伊直弼の幕府独裁論的な佐幕論と対立して、安政の大獄へと発展する歴史である。

そのような時代背景のなかで、イギリスの詩人たちは、「永遠」や「理想」、「真実」というものを追求した。ジョン・キーツ(Jahn Keats, 1795-1821年)もそのひとりである。「ギリシアの壺に関するオード(“Ode on a Grecian Urn”)」という詩。オードというのは、叙情詩のひとつの形式で、頌詩をいう。呼びかけるような詩が多い。若い男が、若くて美しい女を追いかける詩である。――いまも時代は変わらない。もう少しで、女はつかまりそうになる。そういう詩だ。古代ギリシアの優美な大理石の壺に浮き彫りにされたふたつのシーンを歌っている。

 

 もっと幸福な愛よ! もっと幸福な幸福な愛よ!

 永久に熱く、つねに成就の直前、

 永久にあえぎ求めて、つねに若い。

 More happy love! more happy, happy love!

 For ever panting, and for ever young;

 

――こういうような詩である。

「美は真実であり、真実は美だ(Beauty is truth, truth beauty)」ということばを残したのもシェリーだった。シェリーは石川啄木のように、26年という短い生涯だったが、彼が残した詩は、詩の近代を予言した。

キーツもすぐれた詩人だった。

「イギリスのジョン・キーツ、19世紀の先程のシェリーの時代におりましたそのキーツが、手紙の中にじつに面白いことを言っている。これはですね、今のこのmicro-eventの時代ではなしにmacro-eventの時代に、すでにこのことを予言している訳なんです。詩人がどういうことをやるべきかと言うと、fact――事実――とreason――理由、(科学者は事実を一生懸命に調べようとする、哲学者は理由、ものの理由を突き止めようとする)。

こういう事実と理由の方向へいらだたしく手を延ばす、何とかして捉えられないものかと、捉えられないものを捉えようとする、これを捕らえようとすることではないと言うんです。むしろ不安定、――さっきのprnciple of uncertaintyですね、不確定性原理、あのuncertainな状態。それから不可思議、人間の理解を越えている。それからdoubt――懐疑。懐疑の状態にどこまでも止まりうる能力を持つこと、いいですか、一足とびに結論を急がないんですよ。どこまでもuncertainな、不可思議な、懐疑の状態に止まりうる能力。この能力をキーツは、Negative Capabilityという有名な二字で表した」と、――さっきの深瀬基寛教授は力説する。

ははーん、そういうことかとおもう。

スティーヴン・スペンダーのことばでいえば、「夢孕む単独者(visionary individual)」と教授はいっている。「想に耽る」ことの特質が書かれている。

「スペンダーはですね、このspecialness――芸術のspecialness――つまり、二人の人間がいてですね、おれの見るところはこうだ。こちらに、おれもそうだ、お前らとわしとは実に意見が一致する、こんなのは詩人じゃないんです。誰にも見えないものを見る。そうでなければ詩というものは成り立たないんです」といっている。

こんなことが書いてある。

このような切り口でものをいう学者もめずらしい。そしてТ・S・エリオットについての論考では、「詩人の目的は、このinterfaceにおけるrealityというものをreveal(明らかに)する、これが詩人の目的だと。……illustration(引用、図解)にしてみたいと思うのでありますが、一つは、これはТ・S・エリオットの――これは私はイタリア語をよく知りませんけれども、La Figlia che Piangeというんですが、意味は《なげく女》という、初期の大変美しい詩があるのであります。

これはまあ英語を書いてもいいけど、私の下手な訳がありますから、訳でご紹介しますと、こういう3行があります。《われゆく道もありなん》というんです。私の行く道もどっかにあるかも知れん。《たぐいなく軽ろく》――重いの反対、軽く――《巧みなる道》、非常に巧みな、非常に軽くて、非常に巧みなる道。……芭蕉の《この道や行く人なしに秋の暮れ》。この有名な文句は、これは芸術の極地を、誰も行かない道、……なのであります」といって説明している。

ここを読んだだけでも、なんだか、ぼくは大きな価値あるものを、ひょいと手に入れた心地になる。

ふと見れば、外は雨はやんで、すっかり厚い雲に覆われてしまっていた。明日もこの調子かもしれないとおもいながら、ぼくはキーツのいう「永遠」についてぼんやりと考えていた。

像が妊娠するApril。

いつも思う。卒業式が終わって4月を迎えるころ、あらためて、想像とぜんぜんちがう過去を想いだす。

思い出すたいていのシーンは、いつもモノクロ映像のようにおもえてくる。

「2年たったら、また会おう」

「2年たったらね。そうしましょう」と美佐子はいった。

列車がプラットフォームを離れてしまうまで、美佐子は手を振っていただろうか。ぼくはそうして札幌を離れた。近くを走るクルマの尾灯が赤く見え、雪道を赤く照らしていた。平成4年の冬だった。

――と、ここまで書いてヨーコが口をはさんだ。

「こんどは、だれの話?」

「だれでもない」

「お父さんの頭のなかに、いったい何人の女の人がいるのかしらねぇ?」という。

「いるいる、何人もいる。ヨーコも、そのひとりだったんだからな」というと、

「あら、そうなの? だったら嬉しい」とかいっている。

「――ふーん、何読んでるの?」といって、ヨーコはパソコンのデスクの上にある一冊の本を手に取った。ハヤカワミステリの「冬の灯台が語るとき」という本だ。

「《冬の灯台が語るとき》って、なんだか読んでみたくなるわね。灯台の話じゃなさそうね、そうでしょ? 恋愛? それとも事件? どんな事件?」とかいっている。

スウェーデンのエーランド島に移住して、双子の灯台を望む「ウナギ岬」の屋敷に住みはじめたヨアキムとその妻、そしてふたりの子どもの話だ。

しかし間もなく、一家に不幸が訪れる。「スウェーデン推理作家アカデミー賞」の最優秀長編賞、「英国推理作家協会賞インターナショナル・ダガー賞」、「ガラスの鍵賞」の3冠に輝く傑作ミステリー。

「そうなの。そうよね! 何も起きなければ小説にならないわよね? そうでしょ?」もう一冊は赤い表紙の「解錠師」という本だ。ヨーコはそれを見て、こういった。

「――マンションの一階のだんなさんも、《解錠師》よね。いつも部屋にいるようだけど、あの人、いつ仕事しているのかしら? 目を合わせるとニヤッとしてるのよ。あまり話さない人よね」

「奥さん、さいきん見た?」ときくと、

「そういえばそうね。見ないわね、……。仕事してるのかしら?」という。

「だんなは夜、仕事してるんじゃないの?」

「《開錠師》だから? まさか。子どもも見ないわよ、奥さんと別れたのかしら? 人の家(うち)のことだけど、ちょっとミステリーよね」とかいって、黒く焼けたニンニクを皿に入れてベランダから持ってきた。

「うまくできたわ、ほら」といって見せた。真っ黒に焦げているみたいだ。

「そう、焦げているのよ」といっている。

「開錠師」には、8歳のときに言葉を失った主人公が登場する。マイクには才能があった。絵を描くことと、どんな錠も開けることができる才能だ。やがて高校生になったマイクは、ひょんなことからプロの金庫破りの弟子になり、芸術的な腕前をもつ解錠師となる。……

「ヨーコは、どっちを読みたい?」

「わたしは《灯台》のほうが好き。開錠師の世界には興味はないわ」といっている。

 

 

 ハヤカワミステリ、「開錠師」と「冬の灯台が語るとき」。

 

きのうも、きょうも、ちょっと寒い日がつづいた。

画用紙でできた特製のはがきで、ほんとうは絵でも描いて出そうと考えたのだけれど、気分がかわり、太字の黒のボールペンで文面だけ、さーっと書いて北海道の友人あてに手紙を投函した。

おなじハヤカワ・ミステリに「殺す手紙」というのがあった。

フランスのミステリー作家のポール・アルテの作品だ。ポール・アルテは多作で、いろいろ書いている。1988年に「赤い霧」を発表し、フランス冒険小説大賞を受賞し、彼は若手の作家だと考えていたが、いつの間にか、もう67歳になっていた。

ぼくは彼の若い顔しか知らない。

手紙といえば内田百閒(ひゃっけん)を想いだす。百閒を有名にしたのは数々の随筆と日記文だろう。ミステリとは無縁に見えるけど、ミステリみたいな随筆もけっこう書いていて、そしてもちろん日記も書いていて、彼の身辺のことをいろいろと知ることができる。百閒の小説にも実名が出てくる。それでぼくは、百閒の文章をとおして漱石のことを知るようになった。

内田百閒の「戀文・戀日記」が出たのはいつのことだったろうか? 

 

内田百閒。(1889-1971年)

 

百閒が東京帝国大学在学中の23歳のとき、堀野清子という女性と結婚している。清子は岡山時代の親友の妹で、百閒が16歳のとき、まだ12歳だった清子に恋をして、その彼女への恋慕の気持ちをつづったのが「戀日記」なのだ。なんとも早熟な、とおもうかもしれない。

しかし、15歳で詩を書きはじめたアルチュール・ランボーのことをおもえば、手放しで驚くこともないだろう。5歳で詩を書きはじめたエミリー・ブロンテもいるじゃないか! とおもってしまう。彼女たち、――エミリーとアンの、幼い2人で書いたという詩集「ゴンダル物語」はすごいとおもう。

18歳で小説を書きはじめ、文豪になってから完成させたというショーロホフの「静かなるドン」もある。近年では、15歳の1997年生まれの米高校生ジャック・アンドレイカくんが、すい臓がんを初期段階で発見する検査法を開発したのも驚きのニュースだった。

それはそれとして、いっぽう「戀文」のほうは、清子にあてて書かれた手紙だ。たしかにいまの16歳よりはるかに大人びている。語彙の豊富なことにも驚かされる。

 文芸評論家・斎藤美奈子さん。

 

恋愛とは――。

れんあい【恋愛】、特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来ることなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。

「新明解国語辞典」第4版

 

それが「新明解国語辞典」の第5版では、男女の「合体論」が修正され、男女の「一体感」と書かれている。――「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」と修正している。

「まれにかなえられて歓喜したりする状態」と書かれている。ふーん、恋は実らぬものとおもっていたが、たまに実ることも「恋」というのか、とおもった。内田百閒は恋を実らせたのだ。

ヨーコはさっきから、ダイニングテーブルの上で、条幅紙に毛筆を走らせている。さっきヨーコは何かいっていた。だれかが亡くなったとかいっていた。

「だれが亡くなったって?」ときく。

「お父さん、いまごろなんですか? 聞いていなかったの? さっきのドラマの人、訊いたからよ。彼女のこと。女優の生田悦子さんは亡くなったっていったのよ」という。

生田悦子さんが、亡くなっただって! 

ほんとかよ! 

という気分で新聞を広げた。「お父さん、きょう亡くなったんじゃないわよ。もう1年前か、2年前よ」といっている。

そうなの?

2018年7月15日午前に就寝中の異変に夫が気づき、救急車で病院に搬送されたが、その後に息を引き取ったという。死因は虚血性心不全。71歳没。ぼくは、生田悦子さんのファンだった。

「例のお隣りのHさん、妊娠したそうよ」といっている。

「ふーん、いつ生まれるの?」

「いつ? いつかしら?」とヨーコはいっている。

「妊娠小説」。――斎藤美奈子さんのこの本はおもしろい。毒舌とはちがったおもしろさがある。「妊娠小説」は、むろん小説ではない。

森鴎外の「舞姫」、島崎藤村の「新生」をそれぞれ妊娠文学の父、母とするところからはじまる彼女の文芸評論の論述は、めっぽうおもしろい。

1950年代の「太陽の季節」とか、「美徳のよろめき」とか、1980年代のW村上による「風の歌を聴け」と「テニスボーイの憂鬱」の比較とか、妊娠小説の生物学的な分類からしてきわだった冴えを見せている。

「21世紀文学の創造(7) 男女という制度」(岩波書店、2001年)もよかった。Т・S・エリオットはうたう。この4月のうたを。

 

  四月は一番残酷な月だ

  不毛の土地からリラが芽生え

  記憶が欲望とごっちゃになり

  根っこが春雨を吸ってモゾモゾする

  冬はあたたかく包んでくれた

  気ままな雪が大地を覆い

  球根には小さな命がやどっていた

  夏にはみんなびっくりした

  (Т・S・エリオットの詩「荒地」から、「死者の埋葬」1。壺齋散人訳

「お父さん、包丁研いで、まだぁ……」といっている。

「研ぐまえに、わるいけど、お買い物してきて」とヨーコがいう。今朝から頼まれていた買い物だ。――そういえば、砥石は日本にしかないなとおもう。刃物で知られるドイツにも、ヨーロッパにも砥石というものはない。

包丁が切れなくなったらヤスリで研ぐ。日本の刃物がすぐれているのは研ぎ師がいて、専門に研いだ時代があった。荒砥、中砥、仕上げ砥と3種類あって、最高の砥石は1本50万円もする。

それに、ヨーロッパの庖丁は両刃で、日本の庖丁は片刃と決まっている。研ぐのは片方だけ。むこうの素材は1種類だが、日本の庖丁は硬軟2種類の素材をくっつけている。

だから、庖丁も使えば使うほど研がれるので、刃の長さがだんだん短くなる。料亭の板前さんが使う庖丁の刃渡りは、短くなるだけでなく、いつも切れ味は最高なのだ。大工さんだっておなじだ。のこぎりの手入れをしている時間のほうが、仕事をしている時間より手間をかける。

そんなことを考えながらベランダの外を見ると、どんよりとした厚い雲間から、わずかに3月最後の太陽が照りつけようとしている。きのうのテレビは、先日亡くなった志村けんさんの悲しみを大きく報じていた。雲を見ていると、ひばりを想いだす。

そういえば、日本語ではひばりのことを「雲雀」と書く。雲という字があるのは、雲間からその鳴き声が聞こえることから名づけられたようだ。これには「告天子(こくてんし)」という別名がある。詩人ワーズワスの詩、「雲雀に寄す To the Skylark」を想いだす。

むかしの本では「日晴(ひばり)」と書いた。こっちのほうが美しい。

さっきの斎藤美奈子さんではないけれど、英語で妊娠というのは、空っぽが満たされることをいうらしい。満たされるのは子宮wombで、そこに何かが宿ると、それは妊娠conceptionの姿となる。もともとはラテン語で、男は、Stick()を用いて空っぽの器官に種を注入する。こういうところから、妊娠という単語には「con-(共に)」がくっついている。セックスはひとりではできないからだ。

Contentsはもともとは「満たす」という動詞形だった。本の中身を満たすもの、という意味で、「目次」にもなった。Contentsのcon-はcomとおなじで、「共に、……ある、する」という意味である。「共に満たす」という意味から、conception(妊娠)という語ができた。妊娠は、男女「共に」あってはじめて可能なのだとおもえる。中世英語はconcepciounで、もともとはフランス語である。

近代語になってコンセプションは、われわれがコンセプトというとき、「構想」、「創案」、「概念」というふうに意味が拡張していったが、意味の基本は妊娠である。生まれる前の状態をいう。

「(読者が)子宮みたいに、空っぽの何かを満たしたいと期待すれば、うぬぼれガスで腹が膨れあがった作家の想像力が、屁をペン先から出すようにして綴られた産物のように見えて、じつは恐ろしく冗漫な自然誌(ナチュラル・ヒストリー)なのだ」ということばを残した辞典編纂者のサミュエル・ジョンソンをおもい出す。

ちょっと例が卑猥だけれど、――「空っぽ」の部分は今のことばでいえば「子宮」となっていて、もともと古英語では子宮は「空っぽ」という意味なのだとわかる。東洋のわれわれには、ちょっと馴染みのないことばではあるけれど、おもしろい。小説家は、この「コンセプション」を「子宮」ではなくて、「頭」のなかで、想像力だけでつくるのである。――「いわれなくても分かるわ」といわれそうだけれど。

■世界一傑作の短編小説。――

ーパッサンの「肪の塊(ブール・ド・シュイフ)」。

 ギ・ド・モーパッサン。

 

コロンビア大学の元教授、神山幹夫先生が来日される前から、先生とはメールでいろいろとお話をさせていただいておりました。先生のメールは、いつも長文です。先生のご専門は免疫血液学。来日された日は、都内でお目にかかりました。さいきんは少しごぶさたをしています。

先生はニューヨークにお住まいで、新型コロナウイルスの感染拡大で、たいへん心配をしています。

いまニューヨークは、モーパッサンの話どころではないでしょう。

先生のご専門が免疫血液学とあれば、今回のウイルスと大いに関係があるのではないでしょうか。素人ながら漠然とですが、そんなことを考えております。

先日、近くに住む独身の男性がわが家をおとずれ、ひさしぶりに小説の話をしました。ウィリアム・ゴールディングの「蝿の王」その他の話をしました。そして、最後にモーパッサンの「脂肪の塊」の話をしました。そして、おもいました。神山幹夫先生は、世界の傑作短編のなかで、モーパッサンの「脂肪の塊」が最高! といっておられたのを想いだしたのです。

そして神山幹夫先生もいっておられるように、永井荷風も、

「そもそも、私がフランス語を学ぼうという心掛けを起しましたのは、ああ、モーパッサン先生よ。先生の文章を英語によらずして、原文のままに味いたいと思ったからです。一字一句でも、先生が手ずからお書きになった文字を、わが舌自らで、発音したいと思ったからです。」(「モーパッサンの石像を拝す」荷風『ふらんす物語』)――と書かれていることを、いつかのメールで教えていただきました。

そして、「荷風はこの過度に熱気をおびた記述のあとモーパッサン先生の墓に参りに行くのですが、わたしはモンパルナスに住んでいましたので、墓地までは数分で行けました。右に墓地、左にバルザックの像を見ながら、ヘミングウエイの「日はまた昇る」に出てくるモンパルナス大通りを歩いて職場に通いました。」と書かれています。

「1971年、パリに着いてまもなく、日暮れ時期に妻を連れてモンパルナス墓地へモーパッサンの墓を見に行きました。(わたしは1967年に墓を見て知っていました)。当時はまだサルトル、ボーヴォワールの墓はもちろんありません。

墓の中をぶらぶら歩いていて、6時の門の閉鎖時間を失念してしまいました。ベルを音を聴き逃したのです。気がつくと、高い鉄柵が閉まっていました。冬だったので、すっかり暗くなり、墓地を野良猫が何匹も徘徊していました。

「今晩は墓地で夜明かしをしよう」といったら、妻はすっかりおびえていました。遠くのアパートの窓に明かりが灯っていましたが、叫んでもとても声が届く距離ではありません。わたしは高い徹柵をよじ登り、途中で妻の手を引っ張り、柵を乗り越え歩道に飛び降りました。そのとき、肋骨を1本痛めました。今でも、たまに骨が疼くことがあります。パリの思い出です。」と書かれています。

――神山幹夫先生はもちろん作家でもありますから、受け取るメールも、このようにおもしろく読めます。筆名は「畔井(くろい)遠」さんといいます。

できょうは、あらためてモーパッサンの短編小説、「脂肪の塊」の素晴らしさについて書いてみたいとおもいます。

世界の短編小説にはいろいろあって、すぐれた作品がめじろ押しです。

若いときにぜひ読んでおいていい小説に、ぼくはモーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant 1850-1893年) の「脂肪の塊(Boule de Suif ブール・ド・シュイフ)」という小説をあげたいとおもいます。ぼくがこの小説を読んだのは大学生になったばかりのころです。苦労して、原書で読みました。

そもそもこの小説は、モーパッサンが作家としてデビューする記念史的な作品で、わずか30歳で書いています。のちに、師匠であるフローベルに高く評価されました。評価されたその年、フローベルは亡くなりました。

「脂肪の塊」、――つまりブール・ド・シュイフというのは、太った人という意味ですが、それにしても、女性にむかって「脂肪の塊」とは、なんたるいい草! とおもうかも知れませんね。たんなる太った女性という意味だけでなく、多くは、人を見下したり、蔑んだりする、娼婦に向かっていうことばです。

 モーパッサン「脂肪のかたまり」、岩波文庫、2004年。

 

物語は、そういう蔑んだ娼婦に、紳士淑女たちが助けられるという話で、なんとも皮肉な物語になっています。

プロシア軍に攻め込まれたフランス人は、すでに占領されているルアンを抜け出してディエップに向かう10人の人びとの6日間の旅のようすを描いたものです。岩波文庫で100ページ弱の短い小説です。

10人は、馬車でディエップに向かい、そこから海路フランス軍が集結しているル・アーブルに行く手筈になっているのですが、ところが、大雪のため馬車はひどく遅々としてすすまず、その日の昼には、ルアン北方34キロの村トートというところに到着する予定が、午後になっても馬車はいっこうに目的地に到着しません。

乗客たちの空腹は耐えがたいほどになります。

さいわい、乗客のなかにひとりの娼婦が乗っていて、彼女だけ、食料を持参していました。

彼女が気前よく分けてくれたおかけで、一同は救われます。

娼婦にはちゃんとした名前があるのですが、高山鉄男氏訳の岩波文庫版では、彼女のことを「脂肪のかたまり」、――つまり、ブール・ド・シュイフと書かれています。さて、日が暮れて、トートのコメルス亭に着いた一行は、そこで、2番目の危機が待っていました。

 神山幹夫先生のお話は、都内のレストランで5時間もつづく。「モーパッサンのブール・ド・シュイフは最高です」といっておられました。

 

プロシア軍の士官が、娼婦ブール・ド・シュイフをひと目見て、

「今夜、自分に抱かれろ!」

と迫ります。

もしもそこで士官の機嫌を損ねでもしたら、トートを抜け出すこともできなくなる。しかし、ブール・ド・シュイフは、プロシア軍を心底から憎んでいます。彼らに身をまかせるなんて、とんでもないこと! とおもいます。

ところが、ほかの9人は、こころないことをいいます。

おまえは人に抱かれるのが商売なんだから、これからも抱かれろ、といい、敵とはいえ、一夜の同衾(どうきん)ぐらいなんでもないだろう、といいます。トートの村で足止めを食らった乗客たちは、ブール・ド・シュイフに妥協をせまり、ついに娼婦は一行の身の安全のために、こころならずもプロシア軍の士官に身をまかせます。

うまくいったことで、みんなはホッとします。

そして翌日の朝を迎え、一行はディエップへと馬車を走らせます。

そして昼時になり、みんなは弁当を出して食べはじめます。

ところがブール・ド・シュイフはあわただしく朝を迎えてしまったので、弁当の用意をしていません。娼婦にはだれも弁当を分け与えようとはしません。のみならず、人びとは彼女にたいして嫌悪感をあらわにし、不潔なもののように蔑んだ目を送ります。

旅の第一日目には、彼女の弁当で救われ、トートでは、プロシア軍の士官の欲望を満足させるために彼女を犠牲にしたというのに、この憐れな娼婦に目もくれません。

人びとが、たちまち俗物のかたまりに化したのを見て、ブール・ド・シュイフは悲しみます。

このように6日間の旅を通して描かれる人間のあさましい姿が克明に描かれていきます。モーパッサンの諸作品の基調となっている人間性への絶望感が、あますところなく描かれています。

さて、このブール・ド・シュイフにはちゃんとしたモデルがあり、その彼女は、ルアンに実在した娼婦、アドリエーヌ・ルゲーという人であったといいます。

またトートの宿舎、コメルス亭もちゃんと実在していて、現在でも「白鳥亭」という名前で営業しているそうです。

この物語の背景は、じっさいにあった普仏戦争の歴史を踏まえていることに注目してみたいとおもいます。

1870年当時、統一国家としてのドイツはまだ存在していませんでした。

原文では、「ドイツ軍士官」と書かれていますが、この戦争が発端となって、統一国家としての、ヨーロッパ最大のドイツ帝国が誕生します。

プロシア、あるいはプロイセン王国の宰相ビスマルク(1815-1898年)は、フランス軍と戦うことで、プロシア王国を中心とする統一国家形成におおきな弾みをつけました。フランス皇帝ナポレオン三世(1808-1873年)は、1870年7月、プロシア王国にたいして宣戦布告をします。

フランス側の予想では、当初、プロシア王国を破ることはかんたんだと思っていました。ところが、かんたんに撃破されたのはフランスのほうでした。

フランス軍はスダンで降伏し、ナポレオン三世は捕虜となります。

軍勢の違いは圧倒的にプロシアが有利で、総勢45万人にたいして、フランスは30万人。火器も雲泥の差がありました。

そして1871年1月、終戦に先立ち、フランスのヴェルサイユでドイツ諸侯より皇帝に選出され、ドイツ帝国が誕生します。こういういきさつがあるため、小説では、ドイツ軍士官となっていますが、そのときは、まだドイツ帝国は誕生していませんでした。

モーパッサンは、この戦争に志願兵として、じっさいに参加していて、ルアン東方にあるアンドリーの森のあたりで軍務についていました。

プロシア軍がルアンに侵攻してくると、モーパッサンらフランス兵はいっせいにポン=トドメール(小説にも描かれています)をへて、英仏海峡にのぞむ港町ル・アーブルに向かって敗走します。

モーパッサンは、このときの経験を生かしてこの小説を書いたものとおもわれます。モーパッサンが20歳のときでした。

その屈辱的な敗北の経験が、これを書かせたといえます。

ぼくはこの「脂肪の塊」は、世界の短編小説のなかで最高の傑作と考えています。人間の本質が鋭く描かれているからです。

モーパッサンはけっして教条的な小説を書こうなんておもっていなかったでしょう。戦場という非日常の世界においてこそ、人間の本性があさましく出てくる。時代のブルジョワ階級、貴族、修道女、革命家といった人びとにまじって、ひとりの憐れな娼婦を描くことに成功しています。

のちに、リアリズム作家フローベルに認められたわけですが、モーパッサンは、フローベルを目指して、その後バルザックなみに小説を量産しましたが、フローベルを超えることはできませんでした。

しかし、「脂肪の塊」だけは、フローベルにも書けない小説です。19世紀の小説の代表作のひとつとして、いま読むことのできる最高の小説、――ぼくは、そうおもっています。モーパッサンはわが国では、日露戦争前の明治34、5年から短編が翻訳され、自然主義文学の時代に、田山花袋や島崎藤村、永井荷風に影響をあたえたとされています。もちろん、翻訳が大きな影響をあたえた外国文学といえば、日本では圧倒的にロシア文学のドストエフスキーや、トルストイ、ツルゲーネフでした。

ついでに書けば、さて2番目にすぐれた短編小説は、何でしょうか?

そうおもったとき、ふと頭をかすめたのは、19世紀の新生アメリカで誕生した、軍人作家アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク鉄橋の出来事(An Occurrence at Owl Creek Bridge)」かも知れません。こんな小説をかつて読んだことがありません。ひとりの南部兵を処刑する瞬間、

「構え!」から「撃て!」にいたる、世界一短い物語を描いた傑作です。

アンブローズ・ビアスは、芥川龍之介によって日本に紹介されました。機会がありましたら、その話を書いてみたいとおもいます。

――またまた蛇足ですが、新型コロナウイルスの感染拡大で戒厳令に入った首都・東京。

3月下旬としては32年ぶりに降雪に見舞われました。不要不急の外出自粛を呼びかけるなか、テレビに映るターミナル駅や繁華街では人の姿はまばらとなり、29日は気温がぐーんと冷え込み、東京都心では朝から冷え込んで、1月下旬並みの0・7度まで気温が下がりました。

一日明けたきのう、タレントの志村けんさん(70歳)が亡くなられたという報道に接して、世間はびっくり。これを「ウイルス戦争」といいはじめました。

トランプ米大統領は、「世界は隠れた敵との戦争になっている」とツイートしました。そして、「中国の責任」とする日本の報道も目立ちます。今月11日、WHO(世界保健機関)は「パンデミック(世界的な大流行)」を表明して3週間になります。

世界は今後、どうなっていくのでしょうか?