■米大統領の浮気。――

ラリー・クリントンさん、「が起きたの?What Happened?」――

 

 

大統領のお相手はモニカルインスキー女史

 

おはようございます。――さて、「7枚のヴェールと聖杯のゆくえ」についてもさることながら、ヒラリー・クリントン女史の「何が起きたの?(What Happened?)」というエッセイ本が刊行され、遅まきながら、読んでみました。

ヒラリー・クリントン女史は「新しい道を歩きはじめた」と書きました。

彼女の弁を要約すると、《上院議員》とは、わたしを謙虚にし、畏怖を感じさせる責任ある役職である。わたしがニューヨークに移ったわけ、その一部始終、上院議員になるための選挙活動、わたしを選んでくれた人びとにたいする務めなどについては、またの機会に語らせていただくとし、上院議員候補としておさめた成功は、ホワイトハウスでの経験によるものだということを、この自伝で明らかにできたと彼女は思っているそうだ。

「――そこからわたしはわたしの神と、国を愛するように育てられた。……」と語り、

そこからはじまる彼女の物語をえんえん500ページを超える文章を読まされるのである。

「――ここにおられる皆さんとはそんなにおつき合いしていなかったと気がついたからです。それに先週、ヘレンがぼやいていたそうです。《ファーストレディと旅行できないわたしが、どうやって彼女に質問したらいいの? と。さあ、ヘレン、わたしはここにいますよ。最初の質問をどうぞ」

「マディソンからホワイトウォーター事業に、あるいは大統領の選挙運動にお金が流れたかも知れないと聞いていますか」

「いいえ、そんなこと耳にしたことはまったくありません」

「商品取引の利益に関してですが、投資額と利益の大きさを見ると、専門家でもどうかと思えるのに、ましてや素人には普通では不可能に近かったのではないでしょうか。ご説明いただけますか」

そこでわたしは説明した。――と書かれている。

まあ、こんなふうにして、500ページを読まされてしまうのである。彼女は物語の構成とそれを語る語り方のじょうずな作家の才能を発揮できる政治家だ。どういえば、賛同してくれるかどうかをたちどころに見抜いてしまう。

それに、解釈の方法がユニークだ。

「世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。

その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め」とニーチェはいった。

 

第42代合衆国大統領ビル・クリントンの妻で「最強のファーストレディ」と呼ばれ、グラミー賞も受賞し、国務長官も務めてきた。

話は変わるけれど、ダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」では、マグダラのマリアがイエスの左隣りにちゃんと描かれている。ファーストレディとしてのヒラリー・クリントン女史がいったわけではないけれど、これは、イエスの妻として描かれ、またそのように意図して描かれたことになる。――ということは、ダ・ヴィンチ当時のローマ教皇に楯突いたことになる。

ダ・ヴィンチって、そこまで命知らずだったのか?

なぜそのように描いたのか? 

ダ・ヴィンチは、シオン修道会の隠れた役割(会長職)を勤めていたからだった。つまり、ダ・ヴィンチはマリア信仰をしていたからだったとされている。数年におよぶ「最後の晩餐」の修復で分かったことは、そういうことだった。修復が終わったのは1999年。ヘンリー・リンカーンが聖杯伝説の謎を解く物語を書いたのは1980年代。「イエスの血脈と聖杯伝説」というのがそれ。

ダン・ブラウンによって書かれた「ダ・ヴィンチ・コード」が出たのは2003年になってからだった。

――さて、おもわず脱線してしまったが「マルコによる福音書」(15・42-46)にはつぎのように書かれている。

 

既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アマリタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。……そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入口には石を転がしておいた。

(「マルコによる福音書」15・42-46)

 

伝説では遺体を降ろすとき、アマリタヤのヨセフは、イエスの最後の血を酒杯(cup)で受けたといわれている。

そしてそのcupこそがHoly Grail、――すなわち「聖なる杯」だというのである。手元にある「ウェブスター辞典」(第3版)でgrailを引くと、「Last Supper(最後の晩餐)」に使われた杯と出ている。

 

While they were eating Jesus took a piece of bread, gave a prayer of thanks, broke it, and gave it to his disciple. Then he took a cup, gave thanks to God, and handed it to them; and they all drank from it.

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 

(「マルコによる福音書」14・22・23)

 

このcupはぶどう酒の味を鑑定する杯、鑑定杯の意味でも使われている。

この語は聖書では「苦悶」、「試練」、「受難」などの意味もある。したがって、Holy Grailは、ひろく「困難な探求の対象」という意味にもなっていった。

「ニューズウィーク」の別の号では、UNHOLY GRAIL: the Burglar`s cross-country raids.という見出しが躍っていた。「聖ならざる杯 全国をわたり歩く泥棒侵入」という記事だった。

しかしこの話はべつの話である。

 

ビル・クリントンと妻ヒラリー

さて、「サロメ」といえば、ルネサンス以来、数多くの芸術家、作家たちによって描かれてきた。ぼくは第1に、アイルランド生まれの詩人・作家のオスカー・ワイルドが1891年に書いた1幕ものの悲劇「サロメ」をおもい出す。

恩師である明治大学文学部の西村孝次教授は、岩波文庫版に訳されている。映画のテーマにもなったらしいけれど、ぼくは観ていない。

2004年に公開された映画では、サロメはフラメンコを踊っているらしいが、聖書に描かれているほうのサロメは、中近東で見られるような、女性が腹と腰をくねらせて踊るベリーダンス(belly dance)、ひろくはオリエンタル・ダンス(oriental dance)を踊ったらしいけれど、これは官能的なダンスである。

サロメとヘロデ王の関係は、権力者の男と、それを自分の意のままに操る若い女性(愛人)の関係の象徴として使われてきた。

その関係のなかから、全米を揺るがした大スキャンダルをひとつあげてみたい。――たまたま読んでいる本が、ビル・クリントンの妻ヒラリー・クリントン、――米元国務長官が数年前に書いた「Living History」という自伝である。

この本は500ページを超える大著だが、けっこうおもしろい。

ひねくれた構文を使わず、誠にすなおな文体で書かれていて、全体には政治的な話で埋め尽くされてはいるが、全ページ女性らしい筆遣いでていねいに書かれている。

だが、「ニューズウィーク」誌は違う。

サンドラ・バーソンという女性記者は、1998年9月12日付の記事で、当時のクリントン大統領がヒラリー夫人についての不平をモニカルインスキーこぼし、そしてヒラリー夫人は冷たい女だとなじったという。モニカ・ルインスキーは、どれほどの幸せを味わっただろうかと述べている。

そして、

 

“She would dance so seductively as to make Salome and her seven veils seem prissy.”彼女「モニカ・ルインスキー」は、サロメと彼女の身を覆う7枚のヴェールとが堅苦しく感じられるほど魅惑的に、ダンスを踊ったのだろう。

 

――と結んでいる。

ところで聖書では、サロメの希望に従い、洗礼者ヨハネの命を奪ってしまったヘロデ王の物語として書かれている。

サロメの母が再婚したロデ王の誕生日の席で、サロメは祝宴にふさわしいダンスを舞い、そのご褒美に、母の再婚を責めた洗礼者ヨハネの首をもらうというグロテスクな物語なのである。

聖書を読むと、ヨハネはなかなか複雑な人間であることが分かってくる。

じつはロデ王ロディアは、母との再婚を非難し、モラルを諄々(じゅんじゅん)と説くヨハネのことばに、熱心に耳を傾けていた。

ヨハネのことばは、彼にとって耳の痛いものばかりだ。――

モラルと自分の欲望とのあいだでさまよう彼自身の矛盾した姿がひじょうに現代的に書かれている。そして記事はつづく。

ある会話部分。――舞台「サロメ」公演の衣装デザイナーを努めた日系オーストラリア人のアキラ・インガワ氏は、つぎのように述懐している。

 

It is , of course, a biblical tale, but we wanted something contemporary, and Wilde had given it that initial modern feel.それはもちろん、聖書の話ですよ。でも、わたしたちは現代的な何かを望みました。そして、ワイルドが、それに最初の現代的な感覚を与えたんです。

 

記者はワイルドの解釈を通して、2000年前の聖書のサロメの話へと引っ張っていく。

記事で見るかぎり、読者はどのような経緯で聖書に近づいていくかは、人さまざまだろうけれど、欧米の記事は、何かというと「聖書に書かれている」という表現を使う。この記事もそうだ。

この記事にはわざわざ「7枚のヴェール(seven veils)」と書かれている。完全数は、もちろん6である。1,2,3の約数を足してもやはり6になる。

ところがモニカ・ルインスキーが身につけている衣装は7枚と書かれている。6は完全数だが、はその上をゆくというのだろうか。西欧社会で7という数字は、「完全」、物事や物語の「完成」という意味がある。

智恵の7柱(seven pillars of wisdom)」ということばがある。T・E・ロレンスの「智恵の七柱」は叙事詩といっていい。7は、そのものになりきって非の打ち所がないという意味になるだろうか。

ドストエフスキーの小説「罪と罰」は6章で構成されている。「完成」するには1章足りない。

だが、おしまいにエピローグがくっついていて、「この物語はまだ終わっていない」と書かれている。作者の周到な計算を読むことができる。さて、サンドラ・バーソンという女性記者は、彼女の衣装を、ひとつ、ふたつと数えたのだろうか? まさか、そうではないだろう。

聖書に出てくるサロメは7枚のヴェールを身につけていた。7枚のヴェールをひとつひとつ脱いでいき、男の欲望をくすぐった女性として描かれている。

記事は、モニカ・ルインスキーをそのサロメとおなじ境遇に描こうとしている。

さらに、そ7枚のヴェールですら「堅苦しく感じられるほど……」という表現で、「ダンスをしたのだろう」といっている。

オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」は、1896年にパリで初演。この耽美主義的な怪奇ドラマは世紀末文学を代表する作品となり、のちに英訳本に付されたビアズリーの挿絵は有名だ。

さて、問題のヒラリー・クリントンの「リビング・ヒストリー」には何が書いてあるだろう。

1998年1月26日現在、ナショナル・パブリック・ラジオとPBSテレビのインタビューを受け、アル・ゴア副大統領とヒラリーの前で、クリントン大統領は、キャスターの質問、――実は、きのうもルウィンスキーをめぐる同じ記事を書いたが、――

「大統領、ルウィンスキーさんとの性交渉はありましたか?」という質問に対して、

「性交渉はありません」と断言している。

これは真っ赤なウソだった。

のちにウソがバレて、大統領の弾劾裁判になる。米大統領として弾劾裁判を受けるのはクリントンでふたり目となる。

そして、

「国民は、ここのところずっとひとつのことを疑問に思っています。クリントン夫人。それはあなたのご主人とモニカ・ルウィンスキーさんは実のところ、いったいどういう関係だったのか、という疑問です。ご主人はあなたにその関係について詳しく話しましたか?」ときく。

「ええ、ふたりでずいぶんいろいろ話しました」と答え、目下FBI捜査官ケネス・スターと大統領との戦争という表現を使って、いろいろ取り沙汰され、報道されている内容を確かめる。

「あなたは親しい友人に、こうおっしゃったそうですね。これは最後の大戦だと」

放送終了後、局から出てくると、テレビ・インタビューで質問した相手に電話する。

「あなたの智恵のことばが、聞こえたような気がしたの」とヒラリーがいう。

「で、聞こえたのは、どの驚くべきことばかね?」

「くそったれ! って(Screw`em !)」

すると電話の相手は、

「それはわたしじゃなくて、昔クエーカー教徒が使っていた表現なんだけど」

「あら、だったら、くそったれあそばせ、かしら?」

ふたりして大笑いをして、鬱憤を晴らした。

Later, when David Kendall called to discuss my appearance, I told him I had thought about him as I was going to the interview.

“I heard your words of incredible wisdom ringing in my ear,?” I said.

“And which words of incredible wisdom were you fearing ?”said David, going for the bait.

“Screw`em !”I laughed.

David, who was raised as a Quaker, chuckled and said sheepishly, “It`s an old Quaker expression.”

“Oh, like ‘Screw thee’?”

We were both laughing hard now, letting off steam.

 

来る日も、来る日もインタビューの申し出ばかり。

ヒラリーは落ち込む一方。夫ビルのクビを締めたくなる。

性交渉があろうがなかろうが、国民にウソをついた夫を信じられない。ほんとうにこれからも結婚生活がつづけられるのかという不安でいっぱいになる。

「批判は真摯に受け止めて。でも、個人的に受け取ってはダメ。もしその批判が事実で受け止めるべき内容なら、そこから学びなさい。そうでないなら、放っておけばいいわ」けだし名言である。

――と、ここまで書いたところで、ヨーコがやってきた。

「あなた、何、書いてるの? ……夕ご飯、できたっていってるのよ。冷めるわよ。……クリントン? ああ、アメリカの? どうしたの?」といっている。そういうことで、このつづきはまた書くことにする。

100年前のLondonの代は?

 

はるか遠いむかしのことだが、ぼくが大学に入学して、英文学の戸口に立ったとき、世間はベトナム戦争のニュースでいっぱいだったことを想いだす。東京・銀座の街には米海兵隊員がうようよいた。それはビートルズがデビューする前で、東京はオリンピックを控え、銀座のあちこちの路面がひっくり返されたみたいに、破壊と建設の槌音(つちおと)が鳴りひびいていた。

そのビルの影で、田宮二郎の映画の撮影がはじまり、人だかりができていた。

となりの三波春夫事務所から当の三波春夫があらわれると、こっちにも人がむらがった。

その脇道には人力車が通り、古新聞を満載したリヤカーが通り、「銀座の金銭ドロボウ!」といって叫びながら男を追いかける腰巻姿の女がいたりして、そこへ「下着ドロボウ」を追いかける渥美清さんに似たおまわりさんがやってきて、男を抑えつけたものの、「おまわりさんには、敬意を払って……」とかなんとかいいながら、民放の記者であることを記すPRESSの腕章をつけたひげの男がのマイクロホンを手に何かしゃべっている。

よく見ると、それらはみんな小学生が描いた塗り絵だ。遠目には赤い「PRESSの腕章」はなんとなく本物に見えてしまう。

中学生くらいの男の子のいたずらか?

やがて出来立ての首都高速道路にはダンプカーが通り、政府要人を乗せた黒塗りの高級車が走り、パタヤの押すリヤカーが通って行った。リヤカーには年老いた女の病人が乗っている。

日本橋では高速道路の建設がおこなわれ、地下鉄工事もはじまり、人びとは雨のなか、通りに敷き詰めた鉄板の上を歩いた。有楽町では古びた人家や大小の商店をつぶして、交通会館の建設がはじまったばかりだ。

ぼくは、そうしたどんよりとしたうすら寒い風景を見ながら、有楽町駅から電車に乗って大学に通学した。そのころから読んでいた英文学にかんする懐かしい本をおもい出す。もうほとんど忘れてしまったが、北海道のいなか出身のぼくが読んだ驚きの本をいくつか想いだす。

わたしの年齢だと、ロンドンの異なる時代を、三つは見ている。

鉄道馬車にも乗ったし、二人乗り一頭立ての辻馬車に轢()かれたこともある。マフィン売りのベルの音も聞いているし、ロンドン市庁舎の前で、白い上っぱりを着た前途洋々たる何十人という若者たちが往来にとび出して行って、馬糞集めにかかるところも見た。

(V・S・プリチェット「ロンドンの感触(London  Perceived)」第1章より、小野寺健訳)

 

風薫る5月のある日

俊青会を主宰する日本画の高橋俊景画伯

 

「マフィン」というのはイーストのないパン。――つまり酵母菌のないパンという意味である。

これを訳された小野寺健さんは、じぶんがはじめて大学で講義を聴いたときの英語の先生である。先生はまだ若く、イギリス留学をされて、帰国されたばかりのころだった。

それ以来、ぼくは小野寺健さんの本をできるだけ読むようにしてきた。おそらく膨大な量にのぼる。亡くなられて10年ほどたつ。

明治大学では、ほんの短いあいだ英文科の講師をなさっておられた。先生の経歴にはほとんど書かれていない。

「先生は、イギリスに留学されたのかあ」とおもっていた。

すごいな! という気持ちだった。

それから数年後、じぶんがイギリスに留学することになろうとは、夢にもおもっていなかった。留学を決意したのはたぶん「ウエストサイド・ストーリー」を見たからだ。洋画なんていうものをはじめて見た。そしてコーヒー・ショップでコーヒーをはじめて飲んだ。そこで米海兵隊員と出会い、アメリカの話を聞いた。

1962年の春である。

ここにあげたV・S・プリチェット(Victor Sawdon Pritchett 1900-1997年)という作家は、日本ではあまりなじみがない。英米では多くの人に名前が知られているらしい。有名な「ニュー・ステイツマン」の編集長だったし、数々の長編を書いていて、国際ペンクラブの会長をしていた。

小野寺健さんによれば、作家としては、下層中級階級の悲哀を描く作品が多く、多方面におよぶ教養を身につけ、ロンドンの歴史・芸術を語るとき、V・S・プリチェットの本は欠かせないだろうといっている。

ちょっとご覧いただくように、プリチェットの文章は、むかしの長谷川如是閑に似ているとおもう。いいかげんにはしょることをしないのである。

 

重苦しい都会、頭痛の町、これがロンドンの第一印象だ。ロンドンという名前そのものが、ずしんと重い。ロンドンという二音節は、ズシンズシンという蒸気ハンマーの音、ゆっくり歩いてくる警官の重い足音、機関車を入れ替える轟音、ヴィクトリア朝風の住宅がならぶ歩道から地下室へどっと石炭を投げ入れる音だ。

V・S・プリチェット「ロンドンの感触」より

 

――こんなふうに描かれている。

 

二年目の留学中只一度倫敦塔を見物したことがある。その後再び行こうと思った日もあるが止めにした。人から誘われた事もあるが断った。一度で得た記憶を二辺目に打壊すのは惜い、三たび目に拭い去るのは尤も残念だ。[塔]の見物は一度に限ると思う。

(夏目漱石「倫敦塔」より)

 

夏目漱石は、五校教授在籍のまま、文部省海外留学生に選ばれて渡英する。明治33年10月~35年12月までロンドンに滞在して英文学の研究に没頭する。日記によれば、明治33年10月31日に、漱石はこの塔を見物している。ウィリアム一世が1090年に建てた城塞である。のちに主として王族、貴族などを幽閉する牢獄に使われた。

 

文化などということが念頭にないのが英国の文化に一貫した一つの性格であるとも言える。又それはこの文化を理解し、それに親しむ上で無視出来ないことでもあって、従って先()ずその説明から始めるのが妥当かも知れない。英国人が文化というようなことを余り考えないのはそういうものが幾らかあっても何れは死ななければならない我々にとってどれだけの意味があるかという観念がそこに強く働いているからである。そしてこれは無常を感じることとも違っていて英国人はやがては過ぎ去る我々の命を果敢(はか)ないと見る代わりにこれに執着し、生きる喜びをこの地上に生きているものとして凡(すべ)てに優先させる。

吉田健一「英国に就いて」より

 

イギリスにも、アングロ・サクソンの侵入に抗して戦ったケルト系の民族がいて、今もって、わたしはスコッツだ、アイリッシュだ、ウエルッシュだという誇りをもっていますが、イギリス人=アングロ・サクソンという等式は、かなり通用していると考えてよいのではないでしょうか。その他の民族を含めても、少なくともここは白人の社会だったはずです。

木村治美「黄昏のロンドンから」より

 

「……労働の報酬がないのに、どうやって人を働かせるのですか? 特にどうやって一所懸命働くようにさせるのですか?」

「労働の報酬がない、ですって?」ハモンドは重々しくいった。

「労働の報酬は生きることです。それで十分ではありませんか」

「でも、特に優れた仕事にも、なんの報酬もないのですね」とわたしはいった。

「報酬はたっぷりあります」と彼はいった。

「創造という報酬です」

ウィリアム・モリス「ユートピア便り」より

 

――一八三七年、鉄道はすでにロンドンに姿を見せていた。前年の末にロンドン・ブリッジからグリニッジまでの短い鉄道が開業していたし、大幹線ロンドン・アンド・バーミンガム鉄道はロンドンの北から乗り込みつつあった。ディケンズの一家がロンドンに引っ越してきたとき、最初に住みついたのは、北の場末に当たるカムデン・タウンのスラム街だったが、そこでも父親のジョンはしょっちゅうわずかに部屋代が払えなくなって、おかみに文句をいわれ、ときには追い出され、そして最後には債務者監獄へと引っ越しを余儀なくされたのだった。

小池滋「英国鉄道物語」より

 

ぼくがビートルズを聞きはじめたのは、ほとんどグループの離散(69年)の時期だったし、はじめて聞いたレコードが「ザ・ビートルズ」や「アビー・ロード」といった四人が一緒に演奏した最後のものであったのも、間抜けな話である。もっとも、六〇年代にビートルズとともに育った当時の若い世代――あの武道館の阿鼻叫喚の中で、幼い性にとってのカリスマの前で自意識なんぞを失心させてしまったあの女の子たちも、いま頃は、CMじゃないが、「ホントハ洗濯、スキジャナイケド、アナタノタメナラ、セッセトヤルワ」と、マイホームの中でもそもそと「スパーク」しているのだろう。

東野芳明「曖昧な水――レオナルド・アリス・ビートルズ」より

 

紳士――ヂェントルマンという名に最もふさわしい最初の条件は、オックスフォードかケイムブリッヂの卒業生だということである。ほかの大学では駄目だ。そこでもうすっかり勝負がきまってしまう。

オックスフォードかケイムブリッヂの卒業生だということは、その前にどこかのパブリック・スクールで教育を受けたということを意味する。パブリック・スクールというのは、この頃、池田潔君の「自由と規律」で、大分わかって来たが、えらい訓練である。あれだけ厳しい訓練をして置いて大学へ入ると、のんびり大人にして育てる。イギリスの大学は、学問と社交とによって人間をつくるところだ。職業人をつくるのでもなければ、学究をつくるのでもない。英国紳士をつくるところなのだ。

福原麟太郎「英文学の周辺」より

 

――このような本を読んでもわからない世界。少しはわかったような気がするけれど、さいきんぼくは、何もわかっていないことに気づいた。ただ疲れただけかもしれない。

■松本清張の文学。――

「《倉日記》伝」は、ネルヴァのふくろうのように落日前に飛び立った。

 

 

サルトルの「存在と無」。哲学の夜明けがはじまる。

むかし、高校生のころだった。

ぼくはヘーゲルの「法哲学」という分厚い本を読んでいて、その序文のことばにひかれた。「ミネルヴァのふくろうは、たちこめるたそがれとともにようやく飛びはじめる」ということばだった。

「たそがれ?」

ほう、たそがれか、とおもった。しかし、わからない。

たそがれとは何だろう?

それは一日のおわりであり、月のおわりであり、一年のおわりであり、人の晩年を意味するのだろうか? と考えた。

そんなふうなことが書いてあった。

 

松本清張。

 

その話をIТ戦士の若い人に話した。

彼は、ニーチェを読みはじめたといっている。そして、「だれにでも得意な時がありますよ」といった。なるほど。それはハムレットのセリフじゃないか、と、ぼくはおもった。つまり「犬はワンと吠える」というセリフの原文、dog will have his dayというセリフを「だれにでも得意な時がありますよ」という意味をこめて「ワンと吠える」からだ。

彼は、先日は吉田松陰を読み、「徒然草」を読み、そしてこんどはニーチェ。

若い人はいいよな、吉野家でビールを飲みながら、「ニーチェはまだか!」っていいながら、ミネルヴァのふくろうのたちあらわれるのを、いまかいまかと待ちつづけることができるのだ。

ぼくだって若いころは哲学書を読んだのだぞ! とおもいながら。

森の主ふくろうは、平和な日向に活動しないで、夜のとばりが下りてくるころになって活動を開始するという。

松本清張はそうやって活動した。晩年ではなかったが、お世辞にも若いとはいえない。しかし、そのエネルギーは、若者をしびれさせる。

昭和25年に「週刊朝日」が募集した「百万人の小説」というのに松本清張の「西郷札」が入選したことが機縁となり、木々(きぎ)高太郎の知遇を得た清張は、雑誌「三田文学」に、「記憶」(昭和27年3月号)と、「或る《小倉日記》伝」(同年9月号)を発表した。

木々高太郎といえば、当時、「三田文学」の編集主幹だった。彼はもともとは生理学者で、慶応大学の教授でもあった。

彼自身、作家でもあり、推理小説「網膜脈視症」という、おもしろい医学作品を書いている。戦後、「人生の阿呆」で直木賞を受賞しているが、ぼくはこっちのほうは読んでいない。――この人は、清張の推理的な物語のはこびが、何か新鮮で、人を引きつける魅力があって、それはまた新しい時代の推理的手法でもあると述べた。

「或る《小倉日記》伝」のほうは、直木賞候補にあがったが、選考の途中でおもしろいことに、第28回の芥川賞にまわされ、それを受賞して、文壇へのデビューを果したことは有名である。

この作品は、じっさいにあった出来事を小説に仕上げたものである。

これは、清張の文壇への出世作であるばかりでなく、受賞の経緯が示すとおり、大衆的な読み物としても読まれ、文芸の奥深い物語にもなっていて、選考委員たちを大いに悩ませた一作であった。郷土・小倉を舞台に地方ドラマを試みているが、史実に即しながら、その空白を想像力で埋める創作手法はみごとだった。 まさしく清張らしい作品である。

主人公の田上耕作は、小倉にいた実在の人物である。

彼は、森鷗外が小倉に滞在した明治33年(1900年)に生まれ、昭和10年(1935年)の小倉郷土創立の会員のひとりであり、昭和13年(1938年)には小倉の鍛冶町の旧宅に「森鴎外居住の趾」の標柱を建てた人物である。小説のなかにある「昭和15年」という年には、彼は40歳になっていたとおもわれる。

 

いつもの越谷の店で

 

これを清張は、田上の生まれた年を、明治42年生まれに変え、そのとき32歳として描いた。そこには、田上の森鴎外研究への情熱を描き、しばしば断念と絶望の繰り返しを描き、耕作が身体障害者という、どうにもひとりでは生きられない人間として描いた。

「女には特別な気持ちを動かすことはなかった」と主人公に語らせている。

そのいっぽうで、彼のめんどうをみるために近づいてきた「山田てる子」に、そっけない態度をとり、彼女との縁談を断りつづける人物として描いた。――この部分は清張さんの創作である。

母親の愛情だけに見守られて、耕作は、鷗外が小倉で過ごした3年間の「小倉日記」を再現させようとして、鷗外と付き合っていた年寄りをたずねていろいろ当時のことを聞き書きする仕事に打ち込む。

鷗外の「小倉日記」が行方不明になっているため、鷗外の当時のことが分からず、鷗外研究者を困らせていた。それに目をつけた耕作は、ただひとつの仕事をして死にたいと、母親にもらすようになった。そのひとつの仕事とは、鷗外の「小倉日記」を新しくつくりなおすことだった。

 

 

 

 

母親は、ふたたび生きる力を取り戻した息子のために、ほうぼうへ息子が取材にでかけるとき付き添って行った。そのうちに、てる子も同行するようになり、しばらくして、母親はそんな心根のやさしいてる子にまかせて、行かせるようになった。

田上耕作が、「小倉日記」をもういちど再現させたいと考えたのは、柳田國男の民族学の資料採集方法というのをじっさいに知ってからだった。

「その方法でやれば、いまなら、まだ間に合う」と彼はおもった。

「おまえには、ムリです。わたしがかわりについていきます」といって母親がついていったわけは、耕作がふつうの会話ができなかったからである。田上耕作は、からだこそ不自由だが、頭脳は明晰で、地元の指導的な文化人である白川慶一郎のもとに出入りして、資料調査の手伝いなどをしていた。

「鷗外という巨人の、……3年間の空白を埋めようと思った」と彼は語る。それが耕作が文学へと駆り立てた大きな動機だった。

鷗外にフランス語を教えたというベルトラン神父や、朋友、玉水俊虠(しゅんこ)和尚の未亡人など、鷗外にたびたび原稿依頼していたという門司新報の支局長・麻生作男など、小倉時代の鴎外を知る人物に取材し、当時のことがしだいにあきらかになっていくさまを描いた。

しかし、調査資料がうずたかく積もるいっぽうで、耕作の病気が重くなり、病状がますます悪化していく。昭和25年の暮れ、鷗外が「冬の夕立」と評した空模様の日、ついに息を引き取る。――東京で、鷗外のほんものの「小倉日記」が発見されたのは、翌年のことだった。

 

  耕作は幼時の追憶が甦った。でんびんやのじいさんや女の児のことが眼の前に浮かんだ。あの時

  はでんびんやとは何のことか知らなかった。今、思いがけなく、その由来を鷗外が教えた。

  (松本清張「或る《小倉日記》伝」より

 

これは悲しい小説である。苦労して3年におよぶ取材の末、やっとできあがった「再現・小倉日記」を残して耕作は死んだが、ほんものの「小倉日記」は、鷗外の息子の於菟(と)のやなぎ行李の底から発見されたのである。皮肉なことに、この小説は徒労に終わった青年の話を書いている。

田上が、「でんびんやさん」のことを考えていたころ、東京の鴎外宅は、鴎外記念館となり、鴎外ゆかりの品々がそろえられた。だが、肝心の「小倉日記」はないままだった。そこで、田上耕作の「再現・小倉日記」は、早稲田大学の専門家に認められて、その記念館の陳列棚にならんだ。

このいきさつを述べた本「鴎外森林太郎」が昭和17年に、森潤三郎の名前で丸井書店から発行された。――たぶん、清張はこの本を読まれたのだろう。

この本には、田上耕作の名前が出ている。本には耕作から寄贈されたという「森鴎外居住の趾」を写した写真が掲載されている。現在は、東京・文京区立本郷図書館鷗外記念室で保管されている。田上耕作は、幸いなことに、「小倉日記」発見の知らせを知らないまま世を去った。

すくなくとも読者にとって、救われるのはそのことである。「小倉日記」は1899年6月16日~1902年3月28日までつづられており、これには、もともとの日記原稿と、浄写本とがあり、後者には鴎外の訂正・校閲個所があることが分かった。かなりの訂正があり、ページの上にページを貼り合わせて追加した部分がある。なぜ、鴎外がこのように改定したのかは、別の話である。――鴎外が雇っていた女中の話が書かれていた。

鴎外記念館には、耕作があわい恋心を抱いた看護婦・山田てる子とひとときを過ごした小倉の広寿山福聚(ふくじゅ)禅寺の品も陳列されている。鴎外がよくこの寺を訪れ、旧藩士だった小笠原家の記録などを丹念に読んでいたという。この情報を聞きつけた耕作は、寺の住職をたびたびたずね、鴎外についてのエピソードをいろいろと聞いている。

お寺の開基から、中国僧だった即非(そくひ)の像が鎮座している。これを見た看護婦の山田てる子は、耕作にいう。

「鴎外さんて、こんなお顔をなさっていたのかしら?」

そういって笑ったという記録がある。――写真で見ると、いかにも福福しいお顔で、こっちを見ている。この禅寺では、格子を通してその像をながめる形式になっており、拝観者たちには、像のそばには行けないようになっている。

清張さんは正午ごろ、禅林寺の住職と別れ、その足で深大寺へと向かったと書かれている。

文面では、深大寺の門前の石段を降りて左側へと足を向けた、そこには、赤い幟りが旗めいていて、蕎麦の匂いがしていた、と書かれている。

赤い緋毯を敷いたベンチが見え、誘われるようにして店に入り、山菜のてんぷら、虹マスの塩焼き、蕎麦を食べたと書かれ、そこを出て、多摩川霊園にいき、両親の眠る墓前に額づき、花を供え、両親の墓は小さく、よい場所があれば移したいと思った――という。

このシーンを深めるために、きょう、じぶんは深大寺へと出かけた。

清張さんとは違って、じぶんは昼膳「くみ揚げとうふ料理」というのを食べてみた。4500円。ひじょうに美味かった。

そのころ清張さんの脳裏にあったのは、HHKの放送番組、「ミツコ――ふたつの世紀末」が終わって、こんどはヨーロッパを舞台にしたハプスブルグ帝国にスポットをあてたテレビ放送番組の企画だった。これはのちに、「暗い血の旋舞」(日本放送出版協会、1987年)となって放送され、本にもなった。

                        ♪

第2次世界大戦がはじまったのは昭和16年の暮れ、清張さんが32歳のときだった。戦況のきびしさが伝わるなか、3人の子供の父になっていた清張さんのもとに、《赤紙》がとどく。3ヶ月の教育召集を経験した昭和19年、35歳にしてとつぜん臨時召集を受けたわけである。北九州の久留米の兵営まで父親に見送られ、二等兵として入隊する。間もなくニューギニア戦線に送られることが分かり、彼は、死の予感をおぼえる。

しかし戦況の変化とともにニューギニアへは移送されず、軍医部の衛生兵――のちに衛生上等兵となる――として朝鮮・京城(現在のソウル)市外の竜山、南朝鮮の井邑(せいゆう)へ送られ、そこで1年半を過ごし、終戦を迎える。

ぼくは彼のこの小説を読むと、人に訪れる哀しいまでの哲学を感じる。だから、感動するのだとおもえる。

のあるれた日に

 

きのうの午後、郵便受けに手紙が入っていた。日野匡さんの奥さまからだった。彼は亡くなられたという便りだった。

享年85と書かれている。

彼とは雑誌編集の仲間として、若いころ、銀座でいっしょに仕事をしていた。それからやおら50年、すっかりご無沙汰をしていて、数年前、草加の図書館で偶然お会いした。そのときの記事がある。そこにはこう書かれている。

高岡早紀 feat. 山下洋輔 (P)/アゲイン (Again) [Live at JZ Brat, 2014 Dec 5]。

 

 

ある図書館での出来事である。

ぼくが貸出し受付にすすみ出ていくと、ひとり前のその人もすすみ出た。

「お先に、どうぞ」といって、ぼくは譲った。そのとき、懐かしい気分になった。そしてとっさに、「日野さん」というお名前が浮かんできた。日野匡さん。

「先輩じゃありませんか?」と、ぼくは声をかけた。彼は、ぎょっとしたような目でぼくを見つめた。

「田中です。……あのう、編集部にいた、田中です」といった。

「え? 東京の、矢来町の(株)リビングデザインセンターの?」

「そうです」

「いやー、……きみかね? 覚えていますよ。きみ、草加にいるのかい?」

「ええ、草加にいます。先輩もですか?」

「ぼくは谷塚にいますよ。谷塚駅前のマンションに」という。

「あの、高層マンションに?」

「そう。――」

この人と別れたのは、もうずいぶんむかしのことだ。昭和47年の暮れごろに別れている。

あれ以来、一度もお目にかかっていない。日野匡さんは、当時、あちこちの雑誌に記事を書いていた。図書館を出てから、ぼくらは近くのコーヒー店に入った。

「田中くんは、その後、本を書いていたそうだね」といった。

「ええ、職場が変わっても、書かせていただきました。ぜんぶで66冊書かせてもらいました。シリーズ本の共著も入れると、100冊を超えます」

「いま、どこにいるの?」

「草加の手代町です」

「そうですか。……ところで、Kさんは亡くなったそうだね?」

「ええ、そのようです。まだ50代でしたから、……。インフルエンザもバカになりませんね」

「インフルエンザですか。……日野先輩は、いま、何をしてらっしゃるんですか?」

「おれか? おれは何もしてないよ。おれ、日野じゃないよ。日野はおれのペンネームなんだよ。知らなかった?」といった。

「え?」

「じつは、本名は秋吉っていうんだ。じぶんの名前が気に入らなくてね、……」といった。会社の連中は、みんな日野姓で呼んでいたことをおもい出した。あれはペンネームだったとは!

「いまもそうですか? 日野さんでいいんですか?」

「いいとも! 日野雅司っていうジャズピアニスト、しらないか?」

「日野雅司? もしかして、慶応ボーイの守安祥太郎さんの時代ですか?」

「きみ、守安祥太郎を、しってるのか?」

「ええ、すこし聴きました。新宿ピット・インで」

 

植草甚一さん

 

「――山下洋輔も?」

「ええ、……山下洋輔さんは、ぼくと同じ、1942年生まれで、麻布高校時代からジャズ・ピアニストのプロとしてデビューしましたしね。国立音楽大の作曲科卒ですが、60年代の半ばは、やっぱり銀巴里でしたね。新宿2丁目のあたりに《ヨット》という店がありまして、植草甚一さんといっしょに、原稿か何か書いていたり。……ぼくもそこで、次号の新聞のコラム原稿を書いていたり。ピアノといえば、やはり守安祥太郎さんのイントロですね」

「守安祥太郎は、自殺したんだよ。そういう中村八大の時代でもあったな」

「ええ、彼もしってます」

「あのころは、銀座の通りを歩いていると、ほら、植草甚一さんに出会ったり、片岡義男や、坪内祐三に出会ったりしてさ、……」

「ぼくなんか、東海林太郎さんと、夜の銀座で並んで、ふたりで雨宿りしてみたりしていました。ははははっ。そうかとおもうと、《平凡パンチ》の石川次郎さんと出会ったり。……」

「彼も、知ってるかい?」

「石川次郎さんとは、テレビ朝日の局内で、毎週お目にかかっていました。1994年ごろからでしたか、石川次郎さんは《トゥナイト2》のキャスターでしたから。雑誌《ブルータス》創刊に、ぼくも少し関係していましたし。ぼくは、女性雑誌《ウーマン》の創刊にもかかわっていました。……それよりも懐かしいのは、ぼくには守安祥太郎さんですね。守安祥太郎さんはピアノの名手でしたから」

 

石川次郎さん

メンデルスゾーンと守安祥太郎。――この取り合わせは奇妙な感じがするが、ぼくにとっては、すこしもふしぎではなかった。

渡辺貞夫があこがれた守安祥太郎。守安祥太郎があこがれたショパン。音楽でいうカデンツァみたいな無伴奏による即興演奏は、じつに守安祥太郎の音楽そのものだったなとおもう。

「守安祥太郎という名前を聴いて、思い出すことのできる人は、現在80歳以上の人ではないでしょうか?」

「そうだろうな」

あの軽やかな慶応ボーイ、ヨット部の主将にして、戦後のジャズ界の最先端をゆくモダン派の巨匠だったし、昭和の天才ジャズピアニストは、31歳の若さで、目黒駅のホームから身を投げて自殺した。

何があったのだろう。

その名のとおり、守安祥太郎は「風のように走りぬけて行った」音楽家で、ショパンの難曲をなんなく弾きこなしていた天才音楽家のことが忘れられない。ロマン派の最盛期を代表するメンデルスゾーン。

その「ヴァイオリン協奏曲」は、ぼくにとっては、守安祥太郎という音楽家を思い出させるにじゅうぶんな衝撃的な曲だった。

武満徹が、のちにジャズについての文章を書き、そのときの「音」は、守安祥太郎の音を想像していたに違いないとおもった。曲のはじめはわずか一小節の前奏なのだが、すぐにヴァイオリン独奏として有名な美しい旋律へとつながる。

ジャズでいえば、守安祥太郎のイントロとおなじ効果があって、当時にあっては、中村八大も弾けなかったイントロで、いま思い出しても、守安祥太郎はイントロの名手だったなとおもう。

「おれか? ずっと海外にいて、最後はリオで過ごしたよ」

「ブラジルの? ですか」

「そう。――年をとると、人生なんてカーニバルだとおもってね。カーニバルやってたよ。去年帰ってきたんだ」

「奥さんも?」

「そう。……」

「ずっとお元気でしたか?」

「女房か?」

「いえ、日野先輩は、……」

「元気なことは元気だけどね、……」といった。

昭和45年、三島由紀夫が亡くなり、旅館のテレビに釘づけになって原稿を書いていたころのことだ。

日野さんは、べつの企画で、べつの旅館に缶詰めになって仕事をしていた。たいていは、婦人雑誌の新年号の企画と格闘していた。社長の菅原康さんや坂本和雄さんは、会社にいて、陣頭指揮を執っていた。

 

田中幸光78歳、2020年の草加市「市展」会場にて

 

ぼくは先輩の谷口晋三さんと組んで、雑誌の付録記事を書いていた。ときどき新聞のコラムも書き、そのころ銀座にあった読売新聞本社に原稿を持っていき、その帰りに近くの喫茶店に入り、息抜きをしていた。ぼくは若かったが、木曜日の婦人欄のコラムを書かせてもらっていた。

住宅専門誌や週刊誌は数号、毎月・毎週担当していた。

そこを出ると、また文京区湯島の婦人雑誌社の近くにある旅館に入り、谷口先輩とともに翌日の朝まで缶詰めになる。日野さんとは一度も組んだことがないので、ぼくは親しくさせていただかなかったが、日野さんが小説を書いていたことは知っていた。彼が海外で何をされていたのかは知らない。コーヒーを飲みながら、リオの話を聴いた。

リオでは、朝7時に目が醒めて、それからカーニバルの一日がはじまるといっていた。

「そうですか。朝7時ですか」

「そう。……でも、ふしぎなことがある。リオの午後2時をすぎると、ぼくは熱いコーヒーを飲むんだ。午後2時32分30秒というのが、その時間だよ」

「そのって、何ですか?」

「その時間は、日本時間でいえば、午前2時32分30秒というわけ。この32分30秒というのが、どちらもおなじなんですよ。時差がちょうど12時間あるからねえ」という。

「そうですか。知りませんでした」

「東京の反対側にはリオがあって、秒数までおなじなんだよ。地球上に朝がくると、その裏側は夜というわけ。おなじ時刻に、昼と夜が逆さまになってる。これは、おもしろいとおもわないかい?」

「ええ、おもしろいですね」

「日本から見て、地球の裏側では、おかしなことが起こるよ」

「カーニバルですか」

「そう。……」

日野さんは、メガネのなかで目を細めて、懐かしそうに笑った。

すると、昭和45年ごろの日野さんのお顔になった。

三島由紀夫が亡くなって、ソルジェニーツィンがノーベル文学賞をもらったころ、雑誌社のある編集長が亡くなった。ぼくはすでにべつの会社にいたが、その葬儀の席で日野さんの悲しいお顔を見た。それが日野さんとの最後の別れだったな、とおもい出した。

葬儀の席で、日野先輩は、ぼくを有楽町の居酒屋に誘った。

酒を飲みながら、日野さんは「前を見て、後ろを見て、そして人間は、何もないものにあこがれるのさ」といった。

たしかそんなふうなことをいった。

あこがれながら、人間は死ぬのさ、というふうにいったのかも知れない。

それにしても、日野さんをリオのカーニバルに突き動かしたのは、いったい何なのだろうとおもった。――それから4日がたって、日野さんから手紙がきた。「そして、さよなら」というタイトルがついていた。

日野さんはいまも小説を書いていると書かれていた。

「影ながら、きみの幸運を祈ります」と書かれていた。ぼくのこころのなかでは、昭和45年に送られた手紙のようにおもえた。

その日野さんが亡くなられたというのだ。

パーッと突然、あのころのことがおもい出されてきた。

彼は佐々木茂索の文章を気に入っておられた。多くは話さなかったけれど、美的なまでに繊細なことばが書かれていた。彼の文章は、ぼくには中村真一郎の文章のようにおもえた。ぼくには惜しい人を亡くした。そうおもっている。

いま、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」を聴いている。旋律の美しさでは、これにまさる曲はないだろう、そうおもった。

「暗殺の時代」、サムライはび道具を使わず、執拗にを使ったのはなぜだろう?

藤沢周平原作「蝉しぐれ」

 

ところで、「新撰組」を見ていると、土方歳三は近藤勇とともに、「武士よりも武士らしく」なろうとして、武士になる物語を描いている。武家に使用人として奉公すると、苗字帯刀がゆるされ、「うだち」を上げることがゆるされる。

これがのちになまって「うだつが上がる」ということばになった。

漢字で書けば「梲」。――「うだち」は、梁の上に立てて棟木をささえる柱のことで、外に張りだした柱なので、それを見てみんなは「うだつがあがっているな」と思う。その家は、苗字帯刀がゆるされていることを知る。そういう社会だったから、江戸時代の後期になると、幕府の体制がゆるくなり、養子縁組の名目で豪商や富農が息子のために武士の株を買うようになる。つまり、人の身分を、金で売り買いすることができるようになった。

これを「株(身分)を買う」という。

旗本の株までが、1000両単位で取り引きの対象になったというから、おもしろい。もちろん剣術の心得がまったくない者でも、大枚の金を払えば、2本差しのりっぱな武士になることができた。近藤勇は、こうして武士になった。

彼は後年、京での動乱で証明されたように、生まれながらの武士の子に負けない剣の技倆を鍛えあげ、結果として2本差しの特権を手に入れたのである。

幕末には桂小五郎、高杉晋作といった長州藩の有名な志士が入門したという神道無念流・練兵館道場の斎藤弥九郎は、越中国、――いまの富山県の農民の子だったが、文武の才能をあわせ持っていた弥九郎は、江戸に出て、武家奉公をしながら苦学して荒稽古を耐え抜き、ひとり立ちして開いた練兵館道場は、江戸三大道場のひとつになった。

ところが、武士という特権階級は、かりにも特権階級であっても、サラリーマンの禄高はいっこうに増えず、なおかつ、武士の家の格式に応じて頭数の使用人を雇わなければならない。

武士の体裁、面目をたもつ義務があったので、どれほど内職にはげんでも限界があった。

いっそ株なんぞ売ってしまい、隠居してしまえば楽になると考えてもふしぎじゃない。現役の武士としての体面をたもつには、どうあっても維持費が入り用だった。

そこで、頼みの綱になってくれたのが「質屋」である。

中世のヴェネチア共和国なら、銀行である。

当時日本には両替屋はあっても銀行はなかった。

そのころ、武士はじぶんの生活を維持する能力をとうに失っており、財力で勝る庶民のほうがはるかに有力だった。

幕藩体制に終止符が打たれ、外国に倣らったかたちで、新政府が成立した明治維新は、ときどき革命にたとえられる。

「メイジ・レストレーション Meiji Restoration (無血革命)」ということばがそれである。世界的にも有名になり、そのことばが世界の歴史の教科書に載った。

しかし、王侯貴族にながく抑圧されてきた民衆がいっせいに蜂起したフランス革命やロシア革命とは違って、江戸時代の庶民は、武士階級にたいして反乱を起こしたわけではない。庶民にとって、武士の刀自体は、そんなに恐ろしい存在ではなかった。

辻斬りが横行したのは、江戸も初期のころである。

切り捨て御免だの、無礼討ちだのと理由もなく庶民を手にかければ、当の武士が罪に問われる。庶民のほうが武士に寛容だったからこそ、武士が武士を倒す明治維新にいたるまで、徳川幕府は存続し得たのだと思う。

そのへんは、質屋もちゃんと心得ていて、たとえどんなに駄物であっても、刀を質入れしにやってきたサムライたちには、快く応じている。

 

坂本竜馬

剣術でいうところの「間合い」ということばは、専門用語だが、「間合いをとる」というのは、一足一刀を狙って間合いをとるという意味である。一足一刀、――つまり1歩踏み込んで刀を振るえば敵にとどく有効な射程距離を意味する。対する弓は、15間(約27メートル)、火縄銃はじつに30間(約54メートル)の有効射程距離を誇る。一足一刀の斬り合いのシーンでは、刀はこすれる。

とくに刀身の「しのぎ、鎬」という出っ張った部分がこすられる。

これがのちに「しのぎを削る」という語になった。

幕末ともなれば、いっそう飛び道具の独壇場となる。

さらに、最新兵器として、当時、買いつけられたガトリング砲は、米国人ガトリングによって考案された銃器で、機関銃とか、アームストロング砲などが出現すると、もはや刀などは形無しである。それでも、幕末にクローズアップされるのは、なんといっても刀だった。

池田屋事件で有名な新撰組、土佐藩の岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛、中村半次郎、肥後藩の河上彦斎(げんさい)といった《人斬り》たちは、勤王と薩幕に分かれて敵対し、刀を交えた。これはいったいどうしたことだろう。

刀が無用の存在になったことは、すでに歴然たる事実であるにもかかわらず、この幕末においては、これほど刀剣に重きをおいた時代もかつてなかったように思われる。

外国の圧力に屈して開国後に吹き荒れた尊王攘夷の嵐は、徳川幕府と大名家の別なく、血で血を洗う派閥抗争を引き起こした。敵対する派閥の重要人物を暗殺して決着をつけるという、「暗殺の時代」を迎えたのである。

「小太刀(こたち)」。

――小説「たそがれ清兵衛」に登場する清兵衛の小太刀だが、彼こそは小太刀の遣い手。けれども、小太刀ながら、ここではけっしてあなどれない武器となる。

でもふしぎだ。

なぜ大刀をもちいる剣法にたいして、わざわざ刀身の短い小太刀で向かったのだろうか? 

小説に出てくる心極流というのは、実在した小太刀術の流派である。この流派については、別の本にはこう書かれている。

刀を小さくする意味は、刀を持たずして刀に打ち勝つことを究極の技法として鍛錬することであると書かれている。そうなると、刀など持つ必要がない、というわけ。その流れでいうと、小太刀の遣い手は「無腰(むこし)」も同様となる。無腰というのは、武器を身につけていない素手という意味である。

柳生新陰流の「無刀(むとう)取り」がまさにそうだ。「無刀(むとう)取り」というのは、真剣をかまえた相手に素手で対峙すること。斬りかかる相手の腕をとらえて勝負を制するわけである。そんなことが果たしてできたのだろうか。

清兵衛の小太刀の意味は、柳生新陰流の「無刀(むとう)取り」にも通じるわけである。

映画では、彼は棒切れで対応した。

「たまぎる」。――すなわち魂が消えるほど驚くこと。

そいつはたまげた! というときの「たま」は、魂のことである。

漢字では「魂消る」と書く。

この「魂消る」は、さいきんたまに週刊誌で使われているようだ。「たまげる」はもともと「魂が消えるほど驚く」という意味だったわけで、考えれば、ぎょっとすることばだ。

ついでに書けば、「相対死(あいたいじ)に」ということばがあった。

――つまり、いまでいうところの心中のことだけれど、情を通じ合った男女が、愛の証拠として相手の名前を腕に彫ったり、誓紙を交したりすることで、これを「心中立て」といった。「心中」とは、おたがいの愛を証拠立てるための最後の手段、というわけ。

現世ではおもいを遂げることができない男女、――多くは不倫の男女――が、道連れの情死を遂げた。当時の幕府は、「心中」というはやりことばを禁止し、「相対死(あいたいじ)に」と称したことから、このことばが定着したようだ。

「出合茶屋(であいちゃや)」。――

そういうのもあった。わけありカップルの出会いの場所だ。

むかしもそういうところがあったようだ。藤沢周平の「隠し剣 秋風抄」に登場している。

当時、密通は女に夫があるばあいは、とくに罪が重く、男女ともに死罪に処せられた。もしもその現場に、夫がやってきてふたりを斬り殺しても罪には問われなかった。もしも町人ならば、その密通事件は示談となり、慰謝料も5両、7両という値段で処理されたようだが、武家のばあいは、そうはいかない。

面目の大きい武家は、不倫が発覚した妻は即座に斬り捨てられ、その相手には果し合いを申し入れるのが武士の筋道となる。

「出合茶屋」を利用するのも命がけ。

そこを利用する男女は、別々におとずれ、時間差をもうけて別々に帰る。周囲の目を周到にくらますわけだが、その苦心のほどはいかばかりか、想像するしかないけれど、藤沢周平の「隠し剣 秋風抄」にそのもようが描かれている。

そして「髪結いの亭主」。――これはもう、そうありたいという男の夢であろう。というのは、江戸時代、女の髪型は時代とともにどんどん増えていった女の商売だからである。

武家の娘の髪型といえば島田髷(まげ)だけれど、それだけでも数10以上あり、すべての髪型をあげれば200を越えるといわれた。

そんな多くの髪型を商う髪結いは、職業としてりっぱに成り立ったが、その亭主はといえば、何もしなくても髪結いの女房を持ったために、日々の暮らしはのらりくらり、いっこうに働かなくてもいいわけだ。

女髪結いは女房の仕事。

朝から晩まで人さまの髪を結いあげるのだ。ただし「女髪結い」は店を持つことをゆるされず、「まわり髪結い」と呼ばれて、むかしから出張営業だった。藤沢周平の「春秋の檻」には、その話がくわしく描かれている。

もう少し新しい時代、――夏目漱石が亡くなって4年たった大正9年(1929年)は、米ウォール街の株式暴落に端を発した世界大恐慌に巻き込まれるが、日本では、第一次世界大戦後の好景気にささえられた大正バブルが崩壊して、それで、すってんてんになった路上の人が街にあふれた。

その後大正12年には、こんどは関東大震災がやってきて、被災した企業を救済するために震災手形が街に流通する。――この震災手形というのは、つまり繰り延べ手形のことで、その間、国がこれを保証して流通させるという手形である。

しかしその多くは不渡りとなって、震災手形不況となり、社会はいっそうの混乱状態に陥った。昭和2年(1927年)、芥川龍之介の亡くなった年、世界で3番目に、東京の街に「銀座線」という地下鉄が一部開業した。

この年、金融恐慌が大きく吹き荒れた。取り付け騒ぎがあちこちに起こって、多くの銀行が破綻した。

日本には当時、2300もあった銀行が、世界大恐慌と重なって、金融経済はいっそう混乱した。

そんな折り、芥川龍之介は自殺する。夏目漱石が活躍した時代は、日露戦争後の明治40年代から大正5年までで、ほとんど戦後不況の時代と重なり、漱石の作風はそれと呼応するかのように、ぜんたいに暗いものが多く、かつては俗に「不況文学」と呼ばれたりした。

しかし大正バブルがはじけたのち、不景気な世の中ではあったが、雑誌文化が花開き、文学的メディアが一変した。不景気だからこそ文学が華やかに栄えた、ともいえるかもしれない。――ちょっと脱線した。

開国を断行した井伊直弼が、脱藩した水戸藩士らによって暗殺され、桜田門外の変が起こった。

その後、「明治」と改元された後にも、あちこちで要人暗殺が横行した。幕末の要人暗殺に、刀ばかりが用いられたのは、よくよく考えてみれば、ふしぎな話である。神道無念流と北辰一刀流を併せ修めた剣客を、確実に仕留めるには、刀よりも遠間から狙える銃のほうがはるかに有利なはずだ。――ところが、暗殺というのは、正々堂々たる真剣勝負ではない。正規の果し合いのルールや作法にこだわる必要など、もとよりない。

相手を背後から斬りつける。あるいは、徒党を組んで、一対多数で襲いかかる。ほんらいは、武士として恥ずべき振る舞いである。

その凶器となったのが飛び道具ではなく、刀だった。とはいえ、暗殺を相手に察知されては元も子もない。だから刀が必要だったと思われる。幕末の暗殺は、標的とする要人の虚を二重三重に衝くことからはじまったといえる。

 

 まさか、この者が自分に造反するはずがない。

 まさか、この者が刺客であるはずがない。

 まさか、ここで抜くはずがない。……。

 

――武士ならば、だれもが帯びている刀。

たとえ合戦場の主役ではなくても、刀は紛ごうことなく凶器だった。この「まさか」がしばしば起こる。

刀を鞘におさめ、しっかりと鯉口を締めておけば危険はないけれど、確たる殺意を抱いた者がひとたび鞘走らせば、血の惨劇となること必定である。幕末の動乱は、わが国が近代国家になっていくためにはどうしても経験しなければならなかった、いわば産みの苦しみだったといえるかもしれない。

260年もつづいた幕府、ひいては藩までも解体しなければならなかったという天下の事態は、未曾有の対立を引き起こし、どうあっても血を見ずにはすまされなかったのである。

坂本竜馬は、短い刀を愛用した。すると、

「これからの時代は、拳銃だよ」という者があらわれるが、竜馬は、「これからの時代は、これだよ」といって、1冊の本を懐から取り出す。それが「万国公法」という国際法「International Law」だった。

これからの時代には、もう武器は要らない。必要なのは、国と国を結びつける法律だよと竜馬はいったというのである。

そして時代がくだって、函館戦争において新政府軍の黒田清隆と戦った榎本武揚は、じぶんらが敗けることを覚悟したとき、敵将の黒田清隆に2冊の「万国法」を贈っている。これは榎本がオランダで学んできた国際法であった。これからの日本にはどうあっても必要な書物であるといって、黒田清隆に受け継いだものだった。歴史はおもしろい。

鹿島茂先生に訊いてみよう

パスカルの「ンセ」に見る性の限界。

 


 
「100分de名著」ブックス 「パスカル パンセ」
鹿島茂、NHK出版、2013年。

  雲間から瞬間の光が差し込むと、人びとは、木陰の下のベンチに腰かけて、木々の枝ぶりをながめます。雲がなければ、空は真っ青で、遠くまで抜けるような色をしているでしょう。色温度でいえば4000ケルビンというところでしょうか。青いフィルターをかけたみたいな空になるはず。

 太陽から放たれる光は、なんと強烈なのだろうとおもいます。

 光速で走っても、8分もかかる遠い宇宙の距離から放たれる太陽の光。

 

 200年まえもそうだったのでしょうか。

 宇宙のことを考えていたパスカルの時代も、そうだったでしょうか。――こういう日にはつまらないことを考えて、頭の中で時代の移り変わりをいろいろと想像してみたくなります。

 しかし人類にとって、1000年、2000年なんて、ちっぽけな時間でしかない、そうおもえてきます。 

 その時間は、まるで瞬間仄見える閃光の一瞬の長さにも足りないでしょう。宇宙も神も、当時は太陽よりも、はるかに大きな存在だったに違いありません。

 今夜は、ある青年とパスカルについておしゃべりした。

 ぼくがはじめて本格的にパスカルを勉強したのは、1966年、大学最後の1年間でした。ぼくは大学には5年間在籍し、その最後の最後にパスカルと出会いました。岩波書店から刊行されたばかりの「三木清全集」(全19巻)の第1巻は、「パスカルに於る人間の研究」でした。三木がドイツで書かれた原稿を、岩波書店の店主岩波茂雄に送ったのは、1925年。三木清の処女論文です。それ以来、全19巻を買い揃え、ほとんど全巻を読みました。頭がくらくらしました。感動すると人にプレゼントしてしまい、現在、その全集は歯抜け状態です。

ぼくはこれを読んで、パスカルの考えをなんとなく知りました。三木の文体はきわめて硬質なもので、それでいて熱意あふれるものでした。大学生にはかっこうのテキストとなりました。

しかし、パスカルのついての論文は、ぼくには容易に読み下せない代物でした。ぼくは真剣にパスカルを読んでいなかったからです。ぼくはふたたびパスカルを読み直し、社会人になってからも読み直し、なんど読んでも攻略できない鉄の塊みたいな堅い芯をこじ開けることができませんでした。

パスカルはほんとうは、何をいいたかったのだろうとおもいます。――そういうわけで、きょうはあらためて、その堅い芯の話をしてみたいとおもいます。

 「パンセ」は、パスカルが晩年――とはいっても30代の半ばでしたが、――キリスト教の弁証論を執筆するために書き溜めた草稿を、死後、友人たちがまとめたものです。草稿とはいっても、文章の断片が、順序もなく、取り留めもなく、乱雑に書かれているだけで、そこにパスカル自身のはっきりとした、統一あるヴィジョンが示されているわけではありません。けれども、友人たちはそれらをつなぎ合わせて一冊の本にまとめあげます。それが、有名な「パンセ」と呼ばれる本です。

    その後、ポール・ロワイヤル修道院によって、この写本を基にした本が「パンセ」とうい題名で出版されました。これが第1写本と呼ばれるものです。しかしこの研究は、その後も途切れることなくつづけられ、新たな視点から断片を配列しなおした本が、あらわれます。現在、ぼくらが読める標準的な「レ・パンセ」のテクストは、1897年に、ブランシュヴィックという人によって編集出版されたものです。

 

 

3年前の田中幸光

 

 ぼくが学生時代に読んだ「パンセ」は、それです。

 しかしわずか一冊の本が、理解しがたい難解な本に見え、三木清の論文を読んでも、明快な論点が浮かんできませんでした。三木は、この「パンセ」を哲学書としてあつかいました。ぼくは三木の哲学的な主題に振りまわされ、神との契約である「信仰」の主題については、ますます混沌としたカオスの世界に投げ込まれる感覚に襲われたものです。

真理と理性のはざまで、パスカルが考えたことの多くは、キリスト教弁証というものであったことを知らずにいました。今日、哲学者のいう「パスカル論」の多くは、その根本命題を差し置いたものだとぼくはおもいます。

なぜなら、パスカルがこの草稿を物する動機が、ちゃんとあったからです。それは、おそらく哲学などとは程遠いものです。パスカルがそれを書く動機になったのが姪の病気でした。涙腺炎という病気で、現代病でいえば、上まぶたの裏の外上方にある涙腺の炎症で、涙が出にくくなる病気です。たぶん、それだったかも知れません。すでに手のほどこしようがなくなったとき、イエスの遺物とされる茨の冠に触れたところ、たちまちにして病が治ります。

 パスカルは、そのとき神の恩寵を感じ、「キリスト教弁証論」を執筆する決意をします。

 それが「パンセ」の原型になったわけです。

 この文書を書いているとき、パスカルの健康が急速に悪化し、執筆もままならなくなります。彼は脳裏に浮かんだことを断片的に書きとめながら、健康の回復を待ったようですが、ついにその願いはかなわず、執筆から4年後に亡くなりました。

 こうした成立の由来から判断すると、この書物は、パスカル自身の信仰について語ったものであるといえます。ぼくらやこの時代の読者は、この本をとかく哲学、または人間研究の書として読んでいるようですが、パスカルがこの中で目指していたのは、キリスト教の弁証であったことを、知る必要があります。このような背景を考えながら、ここでは、人間の理性の限界と信仰への跳躍について、パスカルが打ち出している考え方を中心に、この書物をいま少し読み解いてみたいとおもいます。

 おもしろいことに、パスカルは「パンセ」のなかで、デカルトを許せないと書いていますが、それはどういうことなのかについて、まず考えてみることにします。パスカルを理解する手っ取り早い方法は、デカルトとの考え方との相違を考えてみることだとおもいます。

 デカルトは、「方法序説」において、神よりも、理性を優先した考えから出発しています。デカルトの神は、理性に先立つのではなく、理性の後に、しかも理性によって導き出されたところの神だったのです。そこが、パスカルには受け入れられるところとはならず、この点で、パスカルはデカルトと袂を別つことになります。

 

 われわれは理性によってのみではなく、心によって真実を知る。

 We know the truth, not only by the reason, but also by the heart.

 

 いっぽうパスカルは、読めば分かるとおり、理性というものを全面的に信頼していません。人間はこの世界において、理性の力を頼りに自然や人間について、多くの洞察を得ています。けれども理性によって人間が知ることのできるものは、ちっぽけなものに過ぎないというのです。その理性によって、世界に臨む人間というもの、それは宇宙の壮大な存在に比べれば、はるか問題にならないほど小さな存在でしかないと彼は考えました。このような問題意識をもって、パスカルはつぎのように語ります。

    「我々は、考えられる限りの空間の彼方に想像を巡らしてみても無駄である。我々の生み出しえるものは、事物の実在に比べれば、原子でしかない。実在とは,至るところに中心があり、どこにも周縁がないような、無限の球体なのだ」

「結局自然の中において、人間とは何者なのか? 無限と比べれば無、無に比べれば全体である。つまり無と全体の中間に位置しているのだ」

パスカルがこれらのことばで表現しているのは、合理主義思想に対する批判です。

 デカルトは合理主義思想の第一人者として、人間の理性に全面的な信頼を置いていました。デカルトにとっては神でさえも、理性のパートナーに過ぎなかったわけです。少なくともデカルトのうちに、敬虔な信仰心を認めることはできない、それがパスカルの心証だったのでしょう。

 デカルトの理性によって、われわれ人間が知りうるところはほんのわずかでしかない。宇宙との関連においても、人間は自分が本当はどのような存在なのかについても、ほんとうに知るところはほとんどない。まして、神について、その存在を人間のちっぽけな理性で云々することは笑止千万です。人間は己の存在の矮小さと、理性の限界を知らなければなりません。

「この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐れさせる(Le silence eternal de ces espaces infinis m’effraie.)」ということばが、胸にひびいてきます。

 パスカルがここでいっていることは、宇宙という全体と「わたし」という人間との間に横たわる深淵についてです。

われわれはこの深淵を容易には飛び越えることができないといっています。深淵のこちら側にあってわれわれが見ることができるのは、自分の目先の空間だけであり、また自分が生きている一瞬の間の時間の流れでしかない。深淵の先に何があるか、理性では、想像することもできないのだ、といっています。

 これらは、宇宙の計りがたさと、その中で生きている人間の頼りなさについての感慨でありますが、その宇宙の計りがたさの中には、神の存在も含まれています。その神を人間はどのようにして知るのでしょうか。

 デカルトは理性を正しく働かせることで、われわれは神の存在を確信できるのだと考えました。そしていったん確信した神の存在については、神自身の内包するものによって、神の全体像を知りうるとしました。

こうしたデカルトの考え方をパスカルは受け入れません。

 人間は理性によっては神の存在はもとより、宇宙の全体像でさえも知ることはできない、なぜなら人間は有限なものだからだといっています。

 その神にしろ、デカルトは当然のことのように存在を疑いませんでしたが、しかし神があきらかに存在しているという保障はどこにもありません。もしかしたら神は存在しないかもしれないし、存在しないものに自分の生のすべてをかけることは無謀といわねばなりません。

 そこでパスカルは、人間が神の存在を信じるのは、一種の賭けだともいうのです。

 だがその賭けは、人間にとって有益な賭けだとも、パスカルはいいます。ここでは、無力な人間のうちにも偉大な側面があると 述べた部分、有名な「考える葦」の一節を取り上げます。

 「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これを押しつぶすのに、宇宙全体が武装するには及ばない。一滴の水がればこれを殺すに十分だ。だが宇宙が人間を押しつぶしても、人間は自分を殺すものよりも高貴であろう。なぜなら、人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙が自分よりも優越していることを知っているからである。宇宙はそのことを知る由もない」

 ぼくは80年生きてきましたが、このパスカルの深淵について、何もわかっていないことに気づかされます。

 パスカルにかんする凡百の哲学書を読んでも、ほんとうのパスカル解釈は、ささやかな脚注にしかあらわれていないように見えます。これを、実存哲学の源流と見たことが大きな間違いなのではないか、とさいきんおもうようになりました。今夜は、青年との対話を通じて、50年前の自分自身をおもい出し、実存哲学の文脈のなかで考えてきた自分のパスカル理解の愚かさについて気づかされました。

■スティーブン・クレインという作家。――

今朝、“The Blue Hotel”を読んでみた

 

 スティーブン・クレイン

 

おはようございます。

女の顔に、いかにも「水をさされた」という印象の、嫌な表情が浮かんだのをぼくは見逃さなかった。北海道での出来事だった。

大学を出て、卒業証書を親に見せようとして、札幌行きの電車に乗った日のことだ。

「幸光さんは、そのまま北海道に帰ってしまうなんて、ないわよね?」と良子がいった。

「ないない、永遠にないさ」といってみた。人生なんて、この先何もわかっちゃいないぜ! とおもっていた。それからしばらくして、――正確には2年半後、ぼくは良子と別れ、欧州のロンドン大学を目指していた。

スティーブン・クレイン(1871-1900年)については、以前にも書いたことがある。先日から、あらためて「The Blue Hotel」を読んできた。いいなあ、とおもう。

 

スティーブン・クレイン“The Blue Hotel”

彼はニュー・ジャージー州の牧師の子として生まれた。

少年時代をニューヨークの片田舎で過ごし、Lafayett CollegeとSyracuse Universityにそれぞれ1年ずつ学び、その後ニューヨークに出て、Herald紙、Tribune紙の記者になり、そのかたわら小説を書いて身を立てようとした。

よく知られている「Maggie: A Girl of the Street(街の女マギー)」(1893年)はそのころ、――シラキュース大学在学中に最初の草稿が書かれた。これは彼の処女作である。

ニューヨークのバワリー地区のスラム街に生まれた娘が街の娼婦に転落する悲哀を書いた。この作品は、いくつかの出版社で刊行を拒絶され、やむなく自費出版されたものである。当時の自然主義の影響を受けつつも、印象的な独自の視点で書かれ、のちにスケッチ風(sketch)の物語を書いた。これをstoryとは呼ばずに、アメリカでは単にsketchと呼ばれている。

批評家ウィリアム・ハウエルズや、アメリカのリアリズム文学に貢献した作家、ハリスン・ガーランドなどの知己を得ると、それらは短編だが、作品にするどい批評性を盛り込んだ作風を生みだした。

最初の「街の女マギー」は、売れ行きはかんばしいものではなかったが、これは虚構ではなく、みにくい現実をありのままに書いたマギーの物語であり、それは当時のアメリカ文学界のW.D.HowellsやH.Garladなどによって高く評価された。市民には見慣れた現実を描いているのだが、ニューヨーカーも、びっくりするほど吐き捨てたい嫌悪感のある現実をとらえ、さすがにそのショックは大きかった。

マークトゥエンから出発した、これまでのストーリーの常識を打ちやぶったのである。

ニューヨーク。――ニューヨークといえば、ポール・オースターについて何か書きたくなる。ポール・オースター(Paul Auster 1947年~  )は、ニューヨークの街をさかんに描いている。

特にブルックリンのあたりを舞台にした好きな小説がある。

彼の作品が日本で比較的読まれている理由は、オースターの表現がアメリカの雰囲気を感じさせ、扱われている土地が日本人になじみの多い場所が多いからだろう、という人がいる。しかも、彼の文章は、過去に遡るようにニューヨークを描くことが多く、あのシャーウッド・アンダーソンのように現在時制では描かず、ひと味違った描き方をする作家である。

ぼくが彼に注目したのは1980年代からだった。

彼の作家としての地位をゆるぎないものにしているのは、なんといっても「シティ・オブ・グラス(City of Glass, 1985年)」、「幽霊たち(Ghosts, 1986年)」、「鍵のかかった部屋(The Locked Room, 1986年)」の3作ではないだろうか。いずれもニューヨークを舞台にして描かれている。

この3作に共通しているのは、ニューヨークに住む孤独な人物が登場し、ふとしたことから、都市空間の迷宮に入り込むというような描き方をしていることだろう。まるで迷子になったかのように、人間の存在感の揺れる物語なのだ。

たとえば、……。

 

ニューヨークは果てしない空間、出口のない迷路だった。どんなに遠くまで歩こうが、またどんなによく隣人や街路を知るようになろうと、彼はいつも自分が迷子になった気持ちがした。街のなかだけではない。自分自身のなかでも。散歩をするたびに、彼は自分を置き去りにしているように感じた。

(ポール・オースター「シティ・オブ・グラス」より)

 

――まあ、こんなふうに語っている。

1962年、ぼくが北海道のいなかから出てきて、銀座の街に住むようになって、世の中を見渡したとき、まさにそんなふうな気持ちがしたのをおぼえている。

当時の日本は東京オリンピックをひかえ、銀座通りの石畳が掘り返され、都電がなくなり、地下鉄工事がはじまって、銀座の通りはいたるところに、つるつるした鉄板が敷きつめられ、その上を歩かされた。雨が降れば、鉄板の上を雨水が流れこみ、危険な道になる。

そのときぼくは、じぶんという一個の存在が、とても小さな存在であることをおもい知らされた。

オースターという作家は、都市を描きながら、ニューヨークは、アメリカのどんな都市とも違う視点で描写している。たとえば、トルーマン・カポーティの「クリスマスの思い出(A Christmas Memory, 1956年)」や「ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's, 1958年)」とはちがう描き方をしている。

ヘミングウェイの「日はまた昇る」は、人によれば、観光案内のような描き方をしているという人がいるけれど、オースターのばあいも、シティとしてのニューヨークの都市空間機能、――交通アクセスや、観光名所などがいろいろと登場し、旅行者がながめるような視点で、驚きをもってニューヨークの街が描かれている。

「きみは想像する。このおなじ玉石の上を最初のオランダ人入植者たちは木の靴で歩いた。そしてさらに時を遡れば、だれもいない小路をすすみアルゴンクイン族の勇士たちが獲物を追いつめていったのだ」と書いたのは、ジェイ・マキナニーである。

ソール・べロウもまたニューヨークを描いた。

彼の傑作「この日をつかめ(Seize the Day, 1956年)」は、アップダウンのブロードウェイ沿いにあるホテルの窓辺から眺めるニューヨークが描かれている。ニューヨークは、人種や階級の雑多な人びとが住んでいる街で、ほとんど一様に成功した老人がまことに多い。そういう人たちがホテルに住んで暮らしているのだ。ブロードウェイに出ると、じつに雑多な人びとが歩いている。

 

ブロードウェイはまだ明るい昼下がりであった。排気ガスの立ち込めた空気は鉛のような陽光の輻()の下でほとんど動きがなく、おがくずの足跡が肉屋や果物屋の玄関先に残っていた。そして大きな、大きな群衆。あらゆる人種と階級の尽き果てることのない数百万の人びとの流れが吐き出され、ひしめき合っている。あらゆる年齢、あらゆる能力、あらゆる人間の秘密の持ち主たち。

ソール・べロウ「この日をつかめ」より

先日、電話をかけてきた友人は、まだ50代で、日本橋の証券マンである。大学がぼくとおなじで、学部はちがうが、先輩、後輩の間柄だ。

後輩は若いころヘミングウェイの「日はまた昇る」を読んだらしいが、格別の感想は聴いていない。というより、後輩は文学とは無縁の生き方をしている。その彼から、さいきんのニューヨークの話をいろいろと聞いている。

その話のなかに、映画「タクシー・ドライバー」に登場するデ・ニーロの話が飛び出してきた。ニューヨークを舞台にした映画「タクシードライバー」がいいといってくれたのは後輩だった。主演はロバート・デ・ニーロ。第29回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞を受賞した。

 

「そのタバコが燃え尽きたら、あんたの時間はおしまいよ。(When that cigarette burns out, your time up.)」

(アメリカ映画「タクシー・ドライバー」より)

 

こんなセリフがあった。

その話をすると、友人は「あっははははっ」と笑った。

この映画には、元海兵隊員で、不眠症のタクシー・ドライバーが登場する。大都会ニューヨークへの嫌悪と絶望を抱いている男である。

街の恐怖と退廃を、鮮烈に描いた映画だった。1976年の問題作。少女の娼婦が、ドライバーに身を売るシーンのセリフである。身を売るとはいっても、スカートを開いて、あそこをちょっとばかし見せるだけである。その持ち時間は、たばこ1本が燃え尽きるまでというわけ。

――ニューヨークという街は、富を求めて欲望をぎらつかせ、その気運にうまく乗ることのできた人間だけが、天井知らずの富と権力を手にすることができる。――スティーブン・クレインの描く「街の女マギー(Maggie: A Girl of the Syreets, 1895年)」という小説、あれはすごかったなとおもう。

彼の第2作、「The Red Badge of Courage(赤い武勲章)」(1895年)は、はじめて出版社から出て、作家としての地位を確立することができた。

この作品は南北戦争を取材して書かれたもので、クレイン自身は戦争の体験は少しもなかったが、そのためにまったくの想像で書かれた。これによって彼はアメリカにおける戦争文学の先駆者となった。

その後、戦争文学として知られているのは、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ(Gone With the Wind)」で、これが出たのは、それから半世紀近くたった41年後、1936年ことである。

クレインは、その後も新聞記者のかたわら、つぎつぎに作品を発表していった。それまで5つの小説と、86のエッセイ風スケッチや短編小説を書き、128の新聞記事を書き残している。

ぼくは、彼の短編のなかで記憶に残っているのは、「新しい指なし手袋(His New Mittens)」とか、「屋根なしボート(The Open Boat)」、「青いホテル(The Blue Hotel)」を読んできた。これらはまだ翻訳されていなかったころで、――というより、スティーブン・クレインの小説は、「勇気の赤い勲章」をのぞき、いままで一度も翻訳本では読まなかった。これらは、短編集「The Monster and Other Stories」に収められていて、かんたんにElibron Books版で手に入れることができる。先の「街の女マギー」は、現在、ネットではフリーで読める。

そのなかでも目を見張るのは、E.Hemingwayに強い影響をおよぼしたとされる「青いホテル(The Blue Hotel)」という小説だ。

クレインの小説のなかで、主人公の心理描写は描かず、人物と行動をできるだけ客観的に描写することに努めたのは、この作品においてであるといわれている。クレインの試みは功を奏し、彼が新聞記者であったことと関係があるかもしれないが、自然主義文学のおこったその時代のアメリカで、このような小説があったことは驚愕に値する。

この物語の貫通行動の担い手であるスウェーデン人は、異常ともおもえる強迫観念のとりこになっている男で、その彼と、ホテルのオーナー、その息子との確執を描いてみごとというしかない。あるシーンでは、ぼくにはS・モームの短編のいくつかをおもい出させる。

激烈にして果敢な行動、それと非主観的描写を貫いたヘミングウェイを彷彿とさせる作品で、ホテルのオーナーは、スウェーデン人の客をなんとかなだめようとして苦労するが、彼は、いっそう何かに恐れて虚勢を張り、怒鳴りちらし、それを振り払うかのようにして、かえって大胆な振る舞いに出る。外は荒れ狂う吹雪。

常軌を逸した客人に、オーナーはとうとうかんにん袋の緒を切ってふたりの格闘がはじまる。

それに勝ったスウェーデン人は勝ちに乗じて、近くの酒場で酒をくらってあばれまくり、あっ気なく命を落とすのである。

なんという無意味な死だろうか。

そこには、過去・現在にいたるひとりの人間の尊厳など、みじんも感じさせないのだ。男がひとり、不運な死を迎えるという結末に、なんともいえないアイロニーを感じてしまう。

スウェーデン人の死には、高名な動機づけもなく、人間の努力のすえの死でもなく、そこには狂った上の恐怖との闘いによる偶然の所産としての死があるだけで、こうした死は、年々成長を遂げる近代都市ニューヨークの寒い空の下で、希望もなく這いつくばって生きるしかない人びとの日常の姿なのである、といわんばかりにたんたんと描かれていく。

この小説を読んで、ぼくはヘミングウェイの先駆者としてのクレインの目のつけどころに、こころならずも、うなってしまった。

彼を死なせたのは、ホテルのオーナーか、それとも息子か、それとも酒場のばくち打ちか、彼を打ちのめし、死なせた下手人は、たしかに直接的な最後の一発だったかもしれない。

しかし、そうではないだろう、と作者自身が、人の口を借りていわせているところがおもしろい。それは「abverb(つけたしの)副詞」みたいなものだといっている。

 

……And you ――you were simply puffing around the place and wanting to fight.And then old Scully himself!  We are all in it! This poor gambler isn't even a noun. He is kind of an adverb. Eevery sin is the result of a collaration. We, five of us, have collabaorated in the murder of this Swede.

それにあんた、――あんたはただ騒ぎまわって手だししてたじゃないかよ。そんで、スカリー老人がな、わたしらみんな、ぐるだったんだって! かわいそうなばくち打ちは、名詞とはいえないまでも、まあ、副詞ってとこなんだ、どんな罪でも、いろんな力が合わさって、おもわぬことができちまうのさ。わたしら5人がスウェーデン人が死ぬのを協力しただけじゃないか。

 

この小説は熟読吟味するほど味わいがある。

この少し前の文章に、「Usually there are from a dozen to forty women……(ふつう、たいていの犯罪の影には女が関係しているものだ)」と書かれている。

そして、この小説の最後にはこう書かれている。

 

The cowboy, injured and rebellious, crird out blindly into this fog of mysterious theory ; “Well, I didn't do anythin' did I”

カウボーイは気を悪くし、ちょっと意固地になって、この奇妙な理屈の霧を晴らそうと、やみくもに叫んだ。「だって、おれは何もしなかったんだぜ、そうだろ!」

この小説が出版されて、多くのニューヨーカーは歓迎した。そればかりか、等閑にふされた前作「街の女マギー」が注目をあつめ、改訂出版された。

これによってスティーブン・クレインの名がアメリカだけでなく、イギリスでもヨーロッパでも注目されるようになった。もとより反俗スピリットが持ち味の彼の新鮮さは、きわだっていた。そして、次代に受け継がれたのがセオドア・ドライサー(1871-1945年)だった。

ドライザーはクレインとまったく同世代の作家である。

スティーブン・クレインの「街の女マギー」は、アメリカ文学のもうひとつのベクトルを示す画期的な作品となったといわれる。その証拠に、セオドア・ドライサーの「シスター・キャリー(Sister Carrie, 1900年)」は、「街の女マギー」が、セオドア・ドライサーに強い影響を与えたかどうか、それはぼくにはわからないけれども、ドライサーは、その7年後に、「シスター・キャリー」という小説を書いた。

これは、「街の女マギー」のパターンを、まったく逆に描いた小説で、結婚外で肉体関係をもった女性が、男を踏み台にして成功していくという話である。そのかわり、男たちのほうが破滅していくという筋立てになっている。

この小説が発表された1900年、――つまり、スティーブン・クレインの死んだ年だが、――当初、「街の女マギー」以上に、ごうごうたる非難を浴びたと伝えられている。小説の内容は、当時の倫理観をおおきく外れていたからだった。

スティーブン・クレインの「街の女マギー」は、彼の処女作であり、ドライサーの「シスター・キャリー」もまた処女作だった。

そして、ふたりともニューヨークを舞台に書いている。

「シスター・キャリー」は岩波文庫で現在も読むことができるので、おおく読まれているとおもわれるが、ウイリアム・ワイラー監督で映画化され、邦題は「黄昏」で、名優ローレンス・オリヴィエ主演で、ご覧になった方もおおいとおもわれる。ドライサーには「アメリカの悲劇」という作品がある。これも「陽のあたる場所」という邦題で人気をあつめた。

「シスター・キャリー」は、こういう物語だ。

いなかからキャリーという無垢な娘がシカゴにやってくる。貧しいいなかでは暮らせなくて、シカゴという大都会へやってくる。彼女は都会のきらびやかな雰囲気のなかで、職を見つけようとするが見つからない。やっと見つかった製靴工場の仕事も、病気でちょっと休んだだけで追い出される。

やがて、キャリーは豊かな暮らしをしている男と出会い、身を任せる。そして、地方まわりのセールスマン、高級レストランの支配人と出会い、つぎつぎと男たちとの関係をつづけ、欲望のままに行動していく。高級レストランの支配人は、店の金を横領し、キャリーとニューヨークに駆け落ちする。男は、雇われ支配人で、職を辞めてしまえば、ただの男。40を過ぎた男に、新しい街での再スタートはきびしい。金のない男には魅力もなくなり、キャリーは、元支配人との暮らしに物足りなさをおぼえる。

キャリーはブロードウェイにならぶ店に魅了され、宝石店のショーウィンドーに見とれ、この都市は、快楽と愉悦がうずまく運動体のようにおもえ、元支配人との暮らしがみじめにおもえてくる。

男の人生は、悪くなるいっぽうで、金がなければ、いい服も買えず、そうなるといい職にもありつけない。やがて男は病気になり、貧しい者たちのいる慈善病院に運ばれる。

そして、そこを出るとホームレスになり、物乞いをするようになる。警官からも通行人からも追い払われ、人からモノをめぐんでもらうのも困難になり、男は自殺する。しかし、キャリーの人生は、いままでになかったほど輝き、つぎの夢を追いかける。

――ニューヨークという街は、富を求めて欲望をぎらつかせる街で、その気運にうまく乗ることのできた人間だけが、天井知らずの富と権力を手にすることができるのだ。――ここに登場するキャリーという女性は、男を食い物にしてのしあがっていくしたたかな女性として描かれている。ドライサーの小説は、この処女作で決まった。

1925年に発表された代表作「アメリカの悲劇」は、貧しい青年が出世のために恋人を殺害し、死刑になるまでを描いたもので、この作品は、アメリカ自然主義文学の最高傑作とされている。ぼくは、1900年から1930年までのアメリカの自然主義文学は、この2作で代表されるだろうとおもっている。

で、最後にひとこと。――クレインはそういう現実を直視した作家であるとともに、彼は詩人でもあった。彼の詩についてはもう紙幅がなくなったので、いつか書いてみたい。

指を立てて、「Elle va bien?」なんてきかないこと

 

 

映画「シェルブールの雨傘」

 

まずもって、小指を立てて、「Elle va bien?」なんてきかないこと。

「あんたのこれ、元気?」なんていう意味になるから。――Elle fait la sainte nitouche.「彼女は聖女ぶっている」を日本語でいえば、「彼女は猫をかぶっている」がいちばんぴったりくる。「わたしは猫の手も借りたいほどだ」は、Je suis tellement occupé que je ne sais plus oú donner de la těte.あまり忙しすぎてどこから手をつけていいかわからない)とつづる。

フランス語のchatは、ふしぎなことに日本語の「しゃがれ声」になり、「鬼」にもなり、「蛇」にもなる。

丸山圭三郎さんはそういっている(「言葉とは何か」ちくま学芸文庫、2008年)。ことばって、何だろう? 

彼は根源的にいって、正解のないこの問いに真正面から取り組んだ人だ。

では「意味」ってなんだろう? そういうことを考えた人である。

J'ai un chat dans la gorge.

「(わたしは猫を一匹もっている)声がしゃがれてしまった」

La chat parti, les souris dansent.

「(猫がいなくなると、ねずみたちが踊る)鬼の居ぬ間に洗濯」

Ne réveillez pas le chat qui dort.

「(眠っている猫を起こすな)藪を突いて蛇をだすな」となる。

ぼくは、自分のもっていることばについて、深く考えたことはなかった。せいぜい日本語の活用形に多少の疑問をもって考えたことはあるけれど、こんな切り口で語った本にめぐり会うこともなかった。数年前、丸山圭三郎さんの本に触れて、いまさらながら、すっごく驚きをもって読んだ。

だいたいことばって、「物や概念の呼び名である」という認識があって、その程度のことしか耳に入らないし、そうおもってずっと過ごしてきた。

物にはひとつひとつ名前がついている。――たとえば、ぼくの好きな「馬」。馬という動物はラテン語でcaballusということは知らなくても、フランス語のcheval、英語のhorse、ドイツ語のPferdと呼ばれているのだから、外国語を知るということは、すでに知っている事物や概念のあたらしい呼び名を学ぶこと、たんに単語を暗記するものとおもい込んでいるのではないだろうか。たんに、単語を知っているからといって、英語なりフランス語なりを知ることになるのだろうか、といえば、大きな間違いであると、丸山圭三郎さんはいっている。

「それは違うぞ!」と。

たとえば、フランス語で「行ってまいります」は、

Le m'en vais et je serai de retour.といい、直訳すると

「わたしは出ていって、またもどるだろう」といっている。

「ただいま」は、Maintenant! これを直訳すると

「いま!」といっている。

また「いただきます」は、Je vais manger.といい、これを直訳すると

「わたしはこれから食べる」といっている。いっている意味を知ると、笑ってしまいそうだ。

英語だってそうだろう。ぼくはずっと前、イギリスのトイレの話を書いた。

英語にはpluck a rose薔薇を摘む)という成句がある。英和辞典には「薔薇を摘む」は、転じて「(女性が)外でのんびり、息抜きをする」と載っているとおもうけれど、英語成句の本来の意味は、「用をたす」という意味。「用を足し」ながら、だれでも息抜きをしているもんだ。しかし息抜きをすることを意味しているのじゃなくて、用を足すことを意味しているわけだから、結果としては息抜きにもなるわけである。

――pluck a roseは、ほんとうの意味は、息抜きだろうか、それとも用を足すだろうか? とたずねられてもぼくにはわからない。

日本語では古来「ちょっと勘定する、勘定してくる」といって、外で用を足してきたものだ。別に勘定してくるわけじゃない。

それと似ていることばである。

彼女たちも、外で薔薇を摘んでくるわけじゃない。それに日本もイギリスも、用をたす場所は、母屋から離れたガーデンにあったからで、いまでは「薔薇を摘んでくる」などといってトイレにはいかないだろうけれど、ことばにはそれぞれ、つくられた時代がちゃんと反映されていて、そこが無類におもしろいはずなのに、どうして日本の英和辞典は、ちゃんと書かないのだろうとぼくはおもっている。あと一歩の労を惜しんで、大事なことを落とし、つまらない解説をしてしまっている。

シェイクスピアお得意の卑猥語のなかで突出しているのは、なんといっても「薔薇」だろう。「薔薇」が女性性器を指し、薔薇には棘があり、それこそ自然なのだけれど、その隠語の意味あいで読めば、黒い笑いや楽しみの冒涜はここに歴然としているはず。「薔薇」の花びらが咲いているところには「棘」があり、しかもその棘がツンと立っている表現が見える。

「地獄」とか「薔薇」とか、シェイクスピアの詩句のなかに散りばめられている奇妙な語彙は、そのまま読んでも分かるようにはなっているが、ほんとは違うんだよというか、隠語にもなり得る語彙をわざわざ「むしり取る」ようにして「摘み取り」、pluck upしているのだ。

丸山圭三郎さんの本は、じつにその根源的な問題を、わかりやすく説いていて、80すぎのぼくの脳みそにも、すんなりと入ってくる。じつにふしぎな本だ。

フランス語からきた外来語で、まず絶対にフランス人に通じないものに、シュークリーム(chou à la crème)があるといっている。シュ・ア・ラ・クレームは「クリームの入ったキャベツ状のお菓子」という意味になる。それが原義で、「靴を磨くクリーム」ではけっしてない。

オードブル(horsd'œuvreオル・ドゥーヴル)は、「作品の外、つまり食事のコースには数えられない前菜のこと」。オーデコロン(eau de Cologne オ・ドゥ・コローニュ(コローニュ水))、シャンパン(champagneシャンパーニュ=シャンパーニュ地方産の発泡性ワイン)、ギロチン(guillotineギヨティーヌ=ギヨタン博士という医者が発案した断頭台)、デラックス(de luxeドゥ・リュクス=ぜいたくな)などいろいろある。

ただし、まぎらわしいのは和製フランス語だ。

「ヘチマコロン」とか「プレタメゾン」とかは日本で生まれた和製フランス語。

プレタポルテ(prĉt-à-porter)が既成服で、いつでも着られる状態にあるというわけで、建売住宅のことをプレタメゾンといったりしている。おかしいに決まっている。

サンテクジュペリの「星の王子さま(Le Petit Prince)」、これを直訳すると「小さな大公」となる。これじゃおもしろくないだろうと考えて、内藤濯さんは「星の王子さま」と訳された。タイトルにはない「星」をくっつけたのだ。

これがみごとにあたって、ベストセラーになった。そういう例もある。

ちょっと余談だが、そもそも内藤濯さんが翻訳する予定ではなかった。もともとは岸田國士に、ある日、岩波書店から翻訳の依頼が舞い込んだのだが、彼が最も尊敬している先生に翻訳してもらおうと考え、この仕事を先生にゆずったのである。

「せめて先生への恩返しです」といって、弟子である岸田國士は深く頭をさげた。内藤濯さんの「星の王子とわたし」(文藝春秋1968/文春文庫1976/丸善2006)、村松定孝氏の「近代作家エピソード辞典」(東京堂出版、平成3)等に詳しく書かれている。

シャトーブリアンの小説「アタラ」には、こんな文章が出てくる。

《アタラは、山生のオジギ草の茂みの上に横たえられていた。彼女の両脚、頭と肩、そして胸の一部が露わになっていた。髪には萎えたモクレンの花が副えられていた。それは、子供をさずかるようにと、わたしが彼女の寝床に置いた、まさにその花だった。彼女の唇は、二日前の朝に摘んだバラのつぼみのように、萎えてほほえんでいるように見えた。/修道士は、ひと晩じゅう祈りつづけた。わたしは愛するアタラの死の床の枕元に無言で座っていた。/そして間もなく、古い樫の木や海のいにしえの岸に打ち明けるのが好きな、あの大いなる憂いの秘め事を森のなかにまき広めた。》

――と、このように書いて「アタル」という小説は終わる。

そこに「子供をさずかるようにと、……」という部分の原文は「cellelá méme que j'avais depose sur le lit de la vierge,pour la render fécoonde.」となっていて、直訳すれば、彼女を「豊穣にするために」という意味なのだが、ここでは、彼女に子供がさずかるようにと書かれている。女性にとってフランス語の「豊穣」とは、すなわち懐妊を意味しているからだ。これなんか、フランス語の奥ゆかしい表現のひとつだろう。

それと、フランス語にはかならずといっていいほど、ゼスチューがともなう。

雨がぽつりぽつりと降りだしたら、手のひらを上にむけて「おや、雨だ」という。あるときパリで、フランス人とおしゃべりしていて、彼は手の甲を下にして、「Tiens, il pleut.」といった。ホームスティしていた郵便局長のお宅で、その主が。

ちょうど、映画「シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg)」がかかっていたころだ。カトリーヌ・ドヌーヴがいちばかん美しいころだったなとおもう。ホームスティのお宅に背の高い中学生の女の子がいて、ぼくはサムライの話をした。そして、「サムライ、好き?」ときくと、「好き、好き」という。で、「しのぎを削る」という話をした。わからないだろうとおもって、地面に棒きれで刀の絵を描き、しのぎの線を描いた。ほら、刀身の断面に、左右出っ張りがあるだろう? それがしのぎの線。ふたりがやりあうと、しのぎの線が擦られる。で、「しのぎを削る」ということばが生まれたという話をした。「だったら」といって、彼女はフランス語で手の話で、何かいった。ぼくはもうおぼえていない。

手でおもいだしたが、フランス人に向かって、けっして人さし指で指さしてはならない。失礼と見なされる。これはフランス人にかぎらないだろう。

「自分です」というときのゼスチャーは、鼻を人さし指で示さず、胸の心臓のあたりを親指でさす。軽く手をあててもいい。間違っても親指を立ててElle a celaなんていわないこと。「彼女にはこれがついてるんでねぇ」という意味になる。また、小指を立てて、Elle va bien? なんてきかないこと。「あんたのこれ、元気?」なんていう意味になる。

さて、肝心のソシュールの話を書こうとしていたが、もう紙幅がなくなった。

■モジュラー楕円方程式とフェルマーの「最終定理」

ンドリュー・ワイルズのミステリアスな

 

先日、ぼくは、大宮駅の東口の目抜き通りをしばらく歩いて右折し、エル・ポエタという2階の画廊で開催されたコヤマ大輔さんの絵の個展を見てきた。ぼくにとって、ごくごく見慣れた水彩画が並んでいたわけだが、奥まった正面の100号の水彩画を見て、思わず、ぼくは息を飲んだ。

「水彩画って、こんな風に描くのか?」とおもった。

コヤマ大輔さんの絵を見て、いつもおもう。先生はじょうずに教えてくれるが、教えることが仕事ではないのだと。先生は画家なのだから、教えるヒマがあったら、ごじぶんの創作に専念しなければならない、とおもっているはずである。

仮の話をするけれど、絵画における任意の曲線における対称性というのは、考えてみると没我的で、真冬の北側の窓ガラスを凍らせる雪の結晶みたいなものだろうか、とおもえる。それは見事な結晶というほかはない。自然の作為的な対称性に見えて、それがなかなか創造性が豊かなのだ。

米カルフォルニア大学バークレー校のエドワード・フレンケル教授の「白熱教室」、――数学ミステリーは、何度見ても、わくわくする講義である。ぼくはときおり隠れるようにこっそり見ている。なかでもロバート・ラングランズの「ラングランズ・プログラム」は、壮大な数学ミステリーである。

そんなことが、はたして可能なのか? とおもってしまう。

ぼくが「ラングランズ・プログラム」に出会ったのは、「フェルマーの最終定理」について調べているときだった。それはとても奇妙な発想で、とつぜんぼくの眼前に現れた。谷山豊はアンドレ・ヴェイユにいう。

「すべての楕円方程式(楕円曲線)は、モジュラーである」と。

「楕円方程式のいくつかは、モジュラーだというのか?」

「いいえ、そうではありません。すべての楕円方程式は、モジュラーなのです」と谷山豊はいった。

ぼくにとって、谷山豊のこのことばは、最大の数学ミステリーとなった。2つの数学がDNAでつながっているということにだれよりも衝撃を受けたのは、ロバート・ラングランズのほうだったかもしれない。

谷山豊のこの発想は、数学におけるひじょうに壮大な発想で、「楕円方程式」と「モジュラー形式」はつながっているという発想なのだ。どうしてそんなことがわかったのか?

「谷山=志村予想」についていえば、かつては「ヴェイユ予想」とも呼ばれた時期があった。20世紀数論界のゴッドファーザーといわれるアンドレ・ヴェイユが谷山の仮説をヨーロッパに紹介し、数学界にデビューさせるプロセスのなかで、あたかもヴェイユ自身がかかわっているかのごとくあつかい、そのために、この仮説を「谷山=志村=ヴェイユ予想」、あるいは「谷山=ヴェイユ予想」、まれに「ヴェイユ予想」と呼ばれるようになっていった経緯などがいろいろあった。そこに顔を出すヴェイユという巨大な存在を無視することはできない。

1970年代を迎える少しまえ、大勢の数学者が「谷山=志村予想」を繰り返し繰り返しテストしていた。楕円方程式とそのE系列から出発して、それに一致するM系列を持つモジュラー形式をひとつひとつ探していったわけである。

すると、楕円方程式はどれもみな、どれかのモジュラー形式と関連することが分かったのである。

このことから多くの数学者たちは、「谷山=志村予想」は成り立ちそうだと感じるようになった。しかし、「予想」は「予想」でしかない。「予想」が明らかに成り立つことを論理的に証明されなければならないのである。

ハーバード大学のバリー・メーザー教授はいう。

「みごとな予想でした。どの楕円方程式にも一つのモジュラー形式が付随しているというのですから。はじめのうちは無視されていました。あまりにも時代に先駆けていたからです。あっちは楕円の世界、こっちはモジュラーの世界というふうに。この2つの世界は、それぞれあくまでも別の世界なのです。

「別の世界?」

「そう、別の世界でした。楕円方程式を研究している数学者はモジュラー形式のことは詳しくないだろうし、その逆もいえたでしょう。

そこに谷山と志村が登場し、完全に別の2つの世界に橋が架かっているという壮大な予想をしたわけですよ。そもそも数学者というのは、橋を架けるのが好きなんですね」

数学に橋が架かるというこの発想は、それ自体すばらしい発想である。

離れ小島に住んでいた数学者同士が、たがいにアイデアを交換したり、相手の研究している事柄を詳しく検証することができるのだから。数学とは、未知の海に浮かぶ多数の知識の小島から成る世界なのだというわけである。

「谷山=志村予想」は、2つ(楕円方程式とモジュラー形式)の小島を結ぶ大きな橋を架けることを意味している。

バリー・メーザー教授にいわせれば、それは「ロゼッタストーン」のような翻訳の道具なのだという。「谷山=志村予想」は現代数学のロゼッタストーンだといわれるゆえんである。

楕円方程式では解けない問題を、このロゼッタストーンを使ってモジュラー形式の世界から問題を解いていくことができるというわけ。

その逆もある。

そういうことで、もし「谷山=志村予想」が成り立てば……という仮説のもとに多くの試みがなされた。

そのひとつにこんなことを考えた数学者がいる。1960年代、プリンストン高等研究所のロバート・ラングランズは、「谷山=志村予想」に秘められた絶大な力に衝撃を受けていた。

ロバート・ラングランズは、これが、数学のはるかに大きな枠組みの一部に過ぎないのではないかと考えた。彼は、数学の主要な領域はすべてつながっているという考えを深め、数学全体を統一する壮大な試みに着手していく。

ラングランズは「谷山=志村予想」が成り立てば、他の主要な数学上の尾根に「谷山=志村予想」のような大きな橋を架けることができるのではないかと考えた。

これを「ラングランズ・プログラム」といい、世界に俄かに知られるようになった。これがもしも実現すれば、純粋数学のみならず、応用科学、工学の分野にとっても大きな意味を持って貢献することになりそうだ。そして1970年代には、「ラングランズ・プログラム」は数学の未来像を示す青写真となった。

このようにして、「谷山=志村予想」は未証明だったにもかかわらず、もしもそれが証明されたならば何がいえるか、という推測が何100にもおよぶ論文に登場することになる。

「谷山=志村予想」が成り立つと仮定すれば……ということばではじまる推論である。その代表的なものが先のロゼッタストーンの発想から導かれた「ラングランズ・プログラム」だった。

これについて、アンドリュー・ワイルズはこういっている。

「希望を持って描いてきたわれわれの設計図が正しいことを示すためには、《谷山=志村予想》をまず証明しなければならないのです」と。

そこに現れたのがゲルハルト・フライだ。

フライは、「谷山=志村予想」を証明することはそのまま「フェルマーの最終定理」を証明することになるといったのである。

1984年の秋のころだった。

「フェルマーの最終定理」によると、整数解はない、という。それをフライは整数解がもしあるとしたらどうなるかを考えた。仮定の解が分からなかったのでA、B、Cとしたようだ。この方程式を、フライは別の形に並べ替えた。

並べ替えられた方程式は、もし解があるとすればという前提に立って導かれた。これをさらに変換する。

フライの並べ替えた方程式は、確かに楕円方程式になっている。

このようにしてフライは、フェルマーの方程式を楕円方程式に変換することによって、「フェルマーの最終定理」を「谷山=志村予想」に結びつけたわけである。したがって、「谷山=志村予想」を証明するだけで「フェルマーの最終定理」を証明することができるといった。

 

 ①もしも「フェルマーの最終定理」が成り立たなければ、フライの楕円方程式は存在する。

 ②フライの楕円方程式はあまりにも異常な性質を持つので、モジュラー形式ではあり得ない。

 ③「谷山=志村予想」によると、すべての楕円方程式はモジュラー形式でなければならない。

 ④ゆえに、「谷山=志村予想」は成り立たない。

このことから注目されるのは、フライの論理は逆説的に思考の反転をうながしていることである。フライの試みのおもしろいところは、もし「フェルマーの最終定理」に解が存在するとしたら、という見方から出発した方程式なので、その方程式に解がないということは、逆説的に「谷山=志村予想」が正しいことを訴えたのである。話をまとめると、

 

 ①もしも「谷山=志村予想」が証明されれば、すべての楕円方程式はモジュラー形式でなければならない。

 ②もしもすべての楕円方程式がモジュラー形式なら、フライの楕円方程式は存在しない。

 ③フライの楕円方程式が存在しなければ、フェルマーの方程式は解を持たない。

 ④ゆえにフェルマーの方程式は成り立つ、という論理である。

 

つまり、ここで注目してほしいのは、方程式の並べ方を換えるだけで確かにフライのいう楕円方程式になっていることである。フェルマーの方程式の解からつくられた彼の楕円方程式は、じつに異常な性質を持つことを指摘している。

ところがフライの方程式はあまりにも異常なのでその存在自体が「谷山=志村予想」を破壊してしまうと述べた。もしフライの楕円方程式が実在するなら、それはあまりにも異常すぎて、モジュラー形式にはならないのだと。

したがって、フェルマーの方程式には解がないことを逆説的に証明したのである。その結果から、フライは、「フェルマーの最終定理」の証明は、「谷山=志村予想」が証明できるかどうかにかかっているというドラマティックな結論を導き出した。

このことから、もし「谷山=志村予想」が証明することができれば、そのまま自動的に「フェルマーの最終定理」を証明することになるのだと発表し、数論界に衝撃を与えた。

つまり、この難攻不落な「フェルマーの最終定理」を証明するためのハードルは、「谷山=志村予想」だけということになったのである。

ところが、話はこれで終わったわけではなく、フライのいう異常な楕円方程式を示す過程で重大なミスを犯していることがわかった。それはごく初歩的なミスとおもわれていたので、これを聞いた聴衆は、明日にでも簡単に解決できるものと考えたようだ。

ところが、多くの数学者がフライの講演コピーを持ちかえって挑戦したにもかかわらず、1週間たっても1ヶ月たっても、フライの電子メールには解決策を示すものは何も入ってこなかった。

そのころ奮闘していた数学者のなかに、カリフォルニア大学バークレイ校の教授ケン・リベットがいた。リベットもまたフライの楕円方程式は異常すぎて、モジュラー形式にならないことを証明する仕事に没頭していた。

それから2年がすぎた。

そして、1986年夏、リベットとバリー・メイザーがバークレイ校の近くのカフェで、カプッチーノを飲みながら雑談していた折りのこと。

 

ケン・リベットは、フライの楕円方程式の奇妙さを証明しようという試みを話題にした。

リベットは、自分の試みは期待できそうなのだが、あと一歩、何かが不足しているとメイザーに語るのだった。

「私は自分のやっていたことをバリーに話して聞かせました。特殊ケースは証明できたが、それを一般化して完全な証明にする方法が分からないと、いったのです」

メーザー教授はカプッチーノをすすりながらリベットのアイデアに耳を傾けていたが、突然ぴたりと動きを止めて、信じられないという顔をしてリベットを見つめます。

「おい! 分からないのかい。もう解けているじゃないか。(M)構造にガンマ・ゼロを加えてやって、きみの理論をそれに当てはめればいいんだよ。それですべて解決するじゃないか!」と。――この話は有名な話なので、ここではそのまま引用した。

のちにリベットがいう。

「(M)構造にΓゼロを加える」という発想は簡単なことなのに、どうして気づかなかったのだろうか、と。――ケン・リベットにとっては簡単かも知れないけれど、カプッチーノを飲みながらそれができる数学者は世界広しといえどもほんのひと握りの数学者だけであろう。この時点で、フライの楕円方程式がモジュラー形式でないことが証明されたのである。

これを知ったアンドリュー・ワイルズは、「谷山=志村予想」を証明することだけに目標を絞り、挑戦をつづけた。目標がさだまると一瀉千里、ひとり研究に没頭する! ワイルズは、それから7年間、ひとり自宅にこもり「フェルマー予想」に挑戦しつづけたのだった。

1994年のワイルズの証明論文は、明らかに「谷山=志村予想」を踏み台にして導かれるアプローチをとった。「谷山=志村予想」が証明されれば「フェルマーの最終定理」が証明されることはフライとケン・リベットによって既に証明ずみのことだったからである。

このようにしてフライの発想は、ワイルズに多大な貢献をしていることが分かった。ちなみにアンドリュー・ワイルズ証明論文は、次の2編からなっている。

 

(1)  Wiles,A.,”Modular elliptic curves and Fermat’s last theorem”モジュラー楕円方程式とフェルマーの最終定理

(2)  Taylor,R.- Wiles,A.,”Ring theoretic propertiea of the certain Hecke

     Algebras”(ある種のへッケ環の環論的性質)

 

この2編目はテーラーとの共著になっている。

テーラーはワイルズの教え子で、最後の数ヶ月をテーラーとともに苦闘しながら取り組んだことから、共著としたようだ。――ここまで多くの文献を参考にさせていただきました。お読みいただき、ありがとうございます。