田美妙が一杯に生きた時代

 山田美妙

 

ある人は、「私の人生は楽しくなかった。だから私は自分の人生を創造した」My life didn’t please me, so I created my life.といった。ココ・シャネルのことばである。明治期という時代は、ほんとうに「自分の人生を創造した」という人たちがいっぱいいた。しかも、なんでもありの時代だったなとおもう。

満6歳でアメリカ合衆国に留学した津田梅子のばあいもある。

「満6歳で、留学ですかい? そりゃあ、何ですかな?」というわけである。

杉本鉞子も偉かった。

長岡藩の家老の娘がアメリカに渡り、いろいろあって、コロンビア大学の教授に迎えられた。彼女の英語で書いた「A Daughter of the Samurai(武士の娘)」により、アメリカでの日本人初のベストセラー作家となった。

そしてきわめつきは、高橋是清だろう。

――この人の人生もすごいのだ!

「わたしはアメリカに売られて、奴隷になったのだよ」といっている。「高橋是清自伝」(上下2巻、上塚司編、中公文庫、1976年)にはそう書かれているのだ。

彼は、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾、「ヘボン塾(現・明治学院大学)」で学び、1867年(慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿とアメリカ合衆国へ留学した。

しかし、横浜に滞在していたアメリカ人貿易商、ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を奪われ、さらにホームステイ先である彼の両親にも騙されて、あろうことか、年季奉公の契約書にサインをし、オークランドのブラウン家に売られたのである。牧童やぶどう園で奴隷として扱われるのだが、本人は奴隷になっているとは気づかず、キツイ勉強だと思っていたらしい。

で、いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ね、この間、英語の会話と読み書き能力を習得した。――こんなことをして、よく勉強ができたものだとおもう。

まるで、フィクションのように聞こえる。

 

「高橋是清自伝」(上下2巻、上塚司編、中公文庫、1976年)

 

――さて、話は変わって、去年の夏、漱石ファンを自認している60年配の男が、コーヒーを飲みながらぼくに語った話は、40歳にならなくちゃ、小説なんか書けるもんか、という話だった。それはそうだと、じぶんも相槌を打ちながら、

「それはそうと、数え年19歳で、読売新聞に小説を連載した男がいましたね」と、ぼくはいった。

「だれですか? なんという小説ですか?」

「当時、明治20年とあってみれば、漱石も書けない、いかにもスタイリッシュな文芸の先駆者といえますが、山田美妙の小説は《武蔵野》っていうんですがね、……。冒頭、東京の話が出てくるんですよ。これ、とうきょうとは呼ばすに、とうけいと発音しているんですね。ほんとうは、漢字で書くと、東亰(とうけい)でしょう?」と、ぼくはいった。

そして「東京のことを、東亰といったのは、何年間もなかったでしょう?」と、ぼくはいった。

その人は、「何の話?」といわんばかりに、きょとんとしていた。――そういうことがあったなと、1月半ば、電車に揺られて武蔵浦和に行ったときに想いだした。

さて、若干19歳の山田美妙(1868-1910年)が、読売新聞に書いた出世作が「武蔵野」だったという話は、ほんとうだが、のちの明治31年発表の国木田独歩のおなじ「武蔵野」とは雲泥の差だ。前者は、戯作の範疇を超えていない。

むかし、――といっても500年ほどむかしは、東京は「武蔵野の原」と称していた。その山田美妙は、江戸が東京と改められた慶応4年、――9月から明治元年――その7月8日、――つまり新暦では8月25日に生まれている。

父親は山田吉雄。――南部藩士で、武をもって藩中で鳴らしていた男なのだが、維新まえ、ちょっとしたことで、主家を出て浪人になってしまった男だ。そして盛岡より江戸に上って、千葉周作道場に入り、皆伝を受け、近藤勇ともまじわった。

そのころ、千葉周作道場には新島襄がいた。

新島襄といえば、数え年14歳から剣術をやっている。のちに幕府の海軍伝習所に入り、藩の軍艦に乗ってこっそり箱館(函館)にむかい、あろうことか、脱藩して、上海を経てアメリカへわたり、アマースト農科大学、――現在のマサチューセッツ農科大学――の当時のクラーク学長に会ったばかりか、クラークを洗脳し、北海道開拓のためにクラークを日本に連れてくるのである。

その帰国の船上で、新島襄に英語を教えていたアメリカ人が、新島襄の理解の遅いのに腹を立て、彼を殴った。

「何をするか!」といって、腹を立てた新島襄は、船室にもどって隠し持っていた日本刀を手にしてあらわれた。北辰一刀流である。武士の面目を傷つけられた新島襄は、一刀のもとにその乗客を斬り殺そうとした。

日本刀を手にした彼は、

「新時代を生きねばならぬ!」と、こころにつぶやいた。

もしも船上で客を斬り殺せばどうなるか、密航を企てた意味がないではないか! そうおもった。そして新島襄は、抜刀した刀を振り上げると、

「こんなものは、もう用無しだ。えいーっ!」といって、海に投げ捨てたのである。新島襄にはこれができた。

 

 尾崎紅葉

 

だが、南部藩士の山田吉雄には、これができなかった。

この差は歴然たる事実である。

廃藩置県によって藩を追われた600万人の元サムライたちの約半数は、新時代の波をくぐりそこねたのである。ある者は刀を捨て、鍬をもって北海道にわたり、開拓農に従事した。それが仙台藩に組していた旧南部藩のサムライたちだった。彼らは明治3年から10年間に2700人もの移住を実現し、北海道にわたって二度ともどらぬ覚悟を決め、砂糖工場の経営に成功し、いまの伊達市をつくった。

そしてある者は、ちょんまげを切り、スーツを着て、革靴を履き、カバンをぶら下げる銀行員になった。夏目漱石のように、ロンドン留学を果たした男が小説家になろうなんていうのは、万にひとりもいなかった。

のちに福沢諭吉はいう。

「ペンは剣よりも強し」と。――その時代をくぐりぬけた人びとは、経験したことのない変わりように目を見張った。「ご維新」ということばは、庶民の語りのなかによく聴かれたが、庶民には皆目、何が何だかわからなかった。600年つづいたサムライの時代が終わったとだけしかわからなかった。だが、世界がどんなに変わろうとも、春になれば桜が咲いた。多くの人びとは自然の息吹に、なぐさめられた。

山田美妙、――武太郎が明治8年、8歳になると、新橋の私立の烏森小学校へ通った。

小学校の前を、イギリスから購入したばかりの蒸気機関車が、煙を吐いて走って行くのを、彼は毎日のようにながめていた。運賃は、新橋―横浜間の上等席1円12銭5厘、中等席75銭、下等席37銭5厘だった。ここまでしらべてみたが、美妙が蒸気機関車に乗ったというたしかな話は見当たらない。

その年の12月、武太郎は虎ノ門3丁目の公立西久保巴学校に転校した。芝神明町の家から歩いて20分で行けた。

おなじ町内の長屋に紅葉尾崎徳太郎がいた。徳太郎の母ようは、武太郎の母と同様に町医者の娘だったが、不義の関係で生まれた娘だった。明治2年に若死にしている。つまり、――

紅葉は、母のいない少年だった。

美妙は、父のいない少年だった。

ある日、天下の読売新聞が、美妙に言文一致体の小説を注文してきた。

こんなことがあるのだ! と美妙はおもった。美妙は

「書かねばならぬ」と覚悟した。

ところが、新聞小説はいってみれば戯作の延長であったが、美妙はちがった。小説「武蔵野」は、上中下の3回にわけ、新聞の付録として書いた。明治20年11月20日号が第1回、11月23日号が第2回、12月6日号が第3回というふうに。

この年、――つまり明治20年、美妙武太郎が20歳のときだが、その6月、二葉亭四迷の「浮雲」が坪内雄蔵(逍遥)の名で刊行している。言文一致体は二葉亭四迷のほうが早かったのである。

人力車に乗って、シュークリームを持参して、美妙宅に訪れたのは25歳の徳富蘇峰だった。彼は雑誌「国民之友」を刊行し、3年後には、こんどは「国民新聞」を創刊した男だ。「文体の新しさが問われる」といい、「わしにも、きみとおなじ年の蘆花という弟がいるが、いまは放浪中の身で、どうなるかわからん。――いずれ、わが新聞にもご執筆のほど賜りたい」

そういい残すと、徳富蘇峰は黒塗りの自家用人力車に乗って、帰っていった。

その話をして、だれよりも喜んだのは尾崎紅葉だった。

紅葉は幼いころから、美妙とは竹馬の友だった。紅葉は「話に色気を入れればよくなる」とか、「これからは、女子(おなご)に読まれるようなものが求められる」とかいいながら、美妙に「ちと、相談がある」といった。

「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」というのを出そうという話だ。1冊3銭で、初版3000部。月2回発行。紅葉は顔を赤くして「きみはどうおもうか?」ときいた。すると美妙は、

「大学はどうするんだ? 法科に合格したのに」といった。

「大学と両立させてみせるよ。法科は将来、何かと重宝する。法科を出れば食いっぱくれがない」

美妙のほうは、文科予科入学が不許可となっている。天運はみすから開くものだという信念から、大学がだめなら、人脈でいっぱしの文士になってやる! と考えていた。

明治21年5月25日、「我楽多文庫」が発売された。四六倍判、まあ、いまでいえば週刊誌のサイズで、週刊誌のようなものと思えばいいだろう。社幹は尾崎紅葉、石橋思案、山田美妙の3人。発行者は尾崎徳太郎(紅葉)である。小説は3編載り、最初のページに漣小波(巌谷小波)の「五月鯉」が載り、美妙の「武蔵野」が載った。これは、紅葉にいわれて、色っぽく書き直したものだった。

8月の短編小説集「夏木立」もよく売れた。そのなかに、美妙の「武蔵野」も入っているが、紅葉にいわれて「です、ます調」で書いたものである。

それが、「我楽多文庫」第13号から、美妙の名がとつぜん消えたのである。

小学生のころから盟友だった紅葉と美妙は、袂を分かち、ぷっつりと縁が切れた。明治34年は、紅葉が「我楽多文庫」から美妙を追放したのである。紅葉は、「美妙が脱走した」と書いているが、そうさせたのは紅葉であった。この年、尾崎紅葉は「金色夜叉」の成功によって人気作家にのし上がっていた。そして、硯友社は全盛時代を迎えていた。

しかしその2年後、37歳で紅葉は急逝するのだけれど、「美妙の脱走云々」という紅葉の回想は、美妙への評価に大きな打撃を与えた。人気が最高潮に沸騰していた紅葉のことばを、世間は受け入れたのだった。つまり、美妙は、硯友社の裏切り者というレッテルを貼られてしまったのである。

とうぜん美妙が抜けた「我楽多文庫」は、第16号をもって、明治22年2月16日廃刊となった。おかげで、硯友社のめんめんが路頭に迷ったのである。

山田美妙を非難する紅葉の「回想」を読んでも、悪いことはぜんぶ山田にして書かれているように見え、社が負うべき話は少しもなく、問題の本質が書かれていない。

だが、時代はぐーんとすすんだ。

明治22年、大日本帝国憲法が発布され、街のテーラーと酒屋が繁盛した。テーラーでは、スーツの仕立て希望者がつぎつぎに舞い込んだ。東海道線が開通し、新橋―神戸間を20時間5分で走った。日本初のグラフ雑誌「風俗画報」が日本橋の東陽堂から出た。大槻文彦編の国語辞典「言海」(全4巻)が出て、出版界は盛況だった。

「我楽多文庫」は廃刊となったものの、「文庫」と改題して吉岡書籍店から継続刊行されることになった。そして、山田美妙は、「国民之友」の徳富蘇峰の依頼で、小説「瑚蝶(こちょう)」を書きはじめた。

やがて世界は、1900年を迎える。――フランス革命100年を記念した89年万博から11年、19世紀末の1900年にふたたびパリ万博が行なわれた。過去5回にわたるパリ万博の集大成ともいうべきもので、4800万人もの観覧動員を誇った。

この年、万博を見るために興味深い日本人が訪れている。

ひとりは海軍軍人秋山真之である。

秋山は、1900年5月11日から万博を訪れ、翌12日にエッフェル塔に上っている。

この年の1月、秋山は2年半のワシントンでの日本公使館付留学生としての生活を終え、イギリス駐在武官としてロンドンに着任した。

4年後に、日露戦争が勃発しようとは、さすがの秋山も想像していなかっただろう。当時の欧州情勢は、ロシアとフランスの同盟に対しドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟が対峙し、微妙な緊張をはらんでいた。

日英同盟は1902年1月に成立したが、1899年から南アフリカでのボーア戦争に巻き込まれたイギリスは、アジアでのロシアの南下政策をけん制する余力をほとんど持たなかった。そのため、日本との協調路線を選択する以外に道はなかった。

日露海戦となる主力艦「敷島」「朝日」「初瀬」「三笠」の4大戦艦をはじめ多くの軍艦は、イギリスで建造された。それは、きわめて良好な日英同盟を背景とするものだった。そして、秋山真之は帰国する。そして、彼とすれ違いに欧州へ旅立った男がいた。夏目漱石である。

そして漱石は、パリ万博会場を訪れるのである。そのとき正岡子規に送った句に、「手向くべき 線香もなく 暮の秋」がある。これには少し説明が要るだろう。

もとより、漱石は、1889年(明治22年)、第一高等中学校の同級生として子規を知る。漢詩や俳句の創作をとおして親交を深めた。松山中学の英語教師として松山に赴任したとき、子規が数ヶ月間、漱石の下宿に同居していっしょに俳句を詠んでいる。子規は1902年(明治35年)、病苦のなか、35歳でこの世を去る。

そのことを知った漱石は、悲しみに打たれ、「手向くべき 線香もなくて 暮の秋」と詠み、手紙に添えて子規に送ったのである。それから間もなくして、日本は洋行新時代を迎える。

いっぽう、山田美妙には運命的な出来事が待っていた。

美妙のもとに、稲舟(いなふね)と名乗る女性がおとずれたのは、明治24年の秋のことだった。本名を田沢錦子と名乗った。彼女は山形県鶴岡市の街医者の娘で、共立女子職業学校、――現共立女子大学の図画科の学生だった。

彼女は、親がすすめる縁談をことわり、作家になることを夢見ていた。

稲舟がはじめて読んだ小説は、山田美妙の近作「瑚蝶」という小説だった。これは明治22年に「国民之友」の付録として発表されたもので、稲舟はひそかに美妙の文章に惚れ、美妙に手紙を書き、面会を申し込んだのである。

このとき彼女は18歳だった。

そしていろいろあって、明治28年、美妙は田沢稲舟と結婚するが、1年もたたないうちに離婚。そして彼女は間もなく死んだ。そのことを世間は、美妙が悪いといって激しく非難した。

小説はいぜんとして決定的な大作はできず、人が「やめておけ!」というのも聴かず、辞典編纂の仕事に毎日精を出す。その後結婚し、晩年の彼を励ましつづけた糟糠の妻だったが、美妙は精一杯に生き、明治43年とうとう力尽きて、43歳で世を去った。尾崎紅葉の37歳よりも、少しだけ長生きをした。

ベーカー街風の「蠣スープ」を

べさせたかった

 

ベーカー街221B

 

19世紀後半、1881ー1904年の間、名探偵シャーロックホームズとワトソン博士が住んでいたロンドンのベーカーストリート221Bというのは、どこにあったと思いますか? 

ロンドンでも西北のハズレにあったそうです。

ベーカーストリートはロンドン市街のハイドパークとリージェントパークの間、その間を南北に走る通りです。

ベーカー街は南のほうにあり、オクスフォード通りと直角に交わったあたり、――と地図には書かれていますが、ぼくは、一度も行ったことがありません。

若いころロンドンに住んでいて、ロンドン大学ユニバースティ・カレッジ・ロンドンに通学していました。

そのころ、本格的にミステリー本を売る専門店などは、ほとんどオクスフォード界隈にしかなく、まあ早い話、東京なら、神田の古書店街のようなところですが、あらゆる本が専門化されています。料理の店、登山・山岳の店、珈琲の店、海の店といろいろわかれています。見るだけでもたのしい店ですが、ぼくは一度行っただけです。目指したのは、クラシック音楽の店でした。

書店の入口に、イギリス製のタンノイの大型スピーカーがセットされていて、最高の音響を響かせていました。

さすがは、タンノイだ! とおもったものです。当時、東京・銀座の店で、タンノイを設備しているところは一軒だけしかありませんでした。

ぼくは仕事をしていたとき、ヨーコが出かけるときは、お昼は事務所でお弁当を食べました。

お重に入ったお弁当で、ご飯は少しで、肉も少しだけれど、野菜がいっぱい。それにコーンスープがついています。

「これにお湯を入れて、めしあがれ」というメモがついています。

そんなメモを書かなくても、お湯を入れるにきまっているじゃないか、そうおもったけれど、きゅうに、おかしくなって、ひとりくすくす笑っていました。

ヨーコが帰ってくると、「お弁当、どうでした?」となからずききます。

ですから、何がどうおいしかったのか、ちゃんと答えなくちゃなりません。あれはもしかして、認知症のテストをやっていたのだろうかと密かに思ったり。

もしも何を食べたか、忘れたりすると、ヨーコはむくれます。女ってそうなのかなと思ってしまいます。

むかし、家族5人がそろってちゃぶ台でご飯を食べたとき、母に「ご飯、どうだった?」なんて、一度もききませんでした。どんなにおいしくても、どんなにまずくても、家族は何もいいません。出てきたものを、ありがたくいただく。そして、黙々と口に入れるのです。わが家では食事中は、おしゃべり厳禁なんです。

子守りのナターシャは、母にならって、料理は、おなじものをつくりました。

味は母のものと、ほぼおなじです。

わが家の味噌は、母がつくったものです。

どういうわけか、母方の豊島家の味は、塩辛いものを極端に敬遠し、わが家の味噌汁は、いつも味が薄めで、料亭で出される味噌汁なんかより、ずっと淡泊でした。それがあたりまえだとおもっていました。

父の本家で口にした味噌汁は、母の味とはぜんぜんちがい、母の味の3培くらい濃くて、それもまた、おいしかったのを記憶しています。

世に「ベーカー街風の牡蠣スープ」というのがあるそうです。口にしたことはありませんが、もちろんシャーロック・ホームズ家の料理ですが、ベーカー街221番地Bというのが、シャーロック・ホームズのところ番地です。

ホームズが暮らす下宿の料理人、ハドスン夫人がつくる料理のことで、牡蠣スープというのは、ぼくは口にしたこともありませんが、ヴィクトリア朝の全盛時代のゆたかな食文化は、北海道のいなかの料理とはくらべものになりません。小説のなかに登場するハドスン夫人がつくる料理をまとめた本というのがあって、先日、その本を読んでみました。

それは、「シャーロック・ホームズ家の料理読本」(ファニー・クラドック、朝日文庫、2012年)という本で、著者のクラドック夫人は、夫君とともに、イギリスの民間テレビ局の料理番組に登場し、夫をこき使いながら、コミカルに番組をすすめるやり方で、イギリスではなかなかの人気のある番組だそうです。

彼女は有名な料理の研究家なのだそうですが、フランセス・ディルという筆名で、童話や、小説も書き、著作はなんと80作以上にのぼるといわれています。

彼女がいうには、「シャーロック・ホームズ」の全作の物語を渉猟し、目につくかぎりの引用をひろいあつめ、その料理をテレビで放映したそうです。

ホームズは、読めばわかるとおり、料理にはなかなか小うるさい男です。

捜査にいそがしくて、食事といえば、ほとんどが「寝食」になりますが、それも忘れて、捜査に熱中するホームズは、じつにおどろくほど、食の道具立てがあちこちにちりばめられていることがわかります。

ホームズは、有名な高級料理店に出入りして、冷製の山鴨や、雉料理、フォアグラ・パイ、それに、蜘蛛の巣だらけの年代もののワインなんかが出てきます。そういうわげで、食通としてのホームズは、ふだん、どんな食べ物を食べていたかをしらべ、あるいは想像し、このプランニングを考え出したというのです。

ふだんは物語ではわき役にまわっているはずの料理人ハドスン婦人なんですが、彼女を主役にして、ホームズが活躍したヴィクトリア時代の風俗をまじえた料理本を書きあげたというのです。

  さて「ベーカー街風の牡蠣スープ」ですが、加熱用牡蠣3ダース。卵黄2個。

  濃いめの魚お出し2クォート。小麦粉3オンス。バター3オンス。濃いめの生クリーム1/2バインド。

  漉したレモンの搾り汁1個分。白胡椒。塩しょうしょう。堅いビスケットを粗く砕いたもの14杯分。

 

で、――その作り方は?

むきたての牡蠣のエラをとって、牡蠣の汁は小さなボウルに入れておき、厚手の平らな鍋にバターを溶かし、小麦粉を入れてから、これを魚のお出しでじょじょに薄めていきます。このとき、お出しを加えるたびに掻きまぜます。お出しをぜんぶ入れてから、よく掻きまぜ、ひと煮立ちさせ、そのあとは、かまどの端によせて30分くらいぐつぐつ穏やかに煮ます。

つぎに、8液量オンスの生クリームを加え、もういちど沸騰させます。

塩、胡椒、それらは好みによりナツメグをひとつまみ加え、味をととのえます。

ここに卵黄を残りの生クリームといっしょに掻きまぜながら、ゆっくりと加えます。こんどは沸騰させないように。

つぎに牡蠣をすべりこませ、そこにレモンの搾り汁と牡蠣の汁をまぜ入れ、5分間おいてから、温めておいた深皿に盛り、最後にビスケットを表面にぽんと浮かせ、食卓に出します。

 

――このような手順が書かれています。興味のある方は、本のをご覧になってください。ずいぶん手のこんだ料理になりますね。だからおいしいのでしょう。

「牡蠣の汁」と「レモンの汁」をただ想像しただけで、よだれが出てきそうです。

「牡蠣の汁かあ、……」とおもいます。

101歳で亡くなった父は、牡蠣なんか食べたことがあるのだろうか、とおもいます。

もともと生業は北海道の農家でしたから、穀類をよく食べていたとおもいますが、牡蠣なんか、ぜいたく過ぎて、目もくれなかったとおもいます。

「入るを量りて出(いず)るを制す」ではありませんが、節制をむねとしてきた父にとって、牡蠣料理など、高級高潔なイメージが強すぎて見向きもしなかったかも知れません。機会をつくって食べさせてみたかったなと思います。

むかしの人は、学校では特に「礼記」を学ぶそうです。父の話をきいて、いいなあ……と思いました。

ぼくはそういう感じの話が大好きですが、父はぼくなんかより、ずっと多くの「礼記」を読んでいるはずです。

いつでしたか、銀座で、フランスの高級ワインを父に飲ませたことがありました。

「味は、どう?」ときいてみました。

すると、

「……うーん、あまり、うまいもんじゃないな、……」と、父はぼそりといったのです。いちども口にしなかった父の舌には、なじめないものだったようです。父は、ぼくよりもずっと保守的な舌をもっていたようで、あのときは、ワインなんかより、牡蠣料理でも食べさせたかったなと思います。

子兜太さんにいたい

 

よおら10年前の「二葉亭餓鬼録」に、こんなことが書かれています。

変わり映えのしない日々のなかで、ときどきおもってもいない幸運が訪れることがあります。運勢の話かもしれないが、自分はそうはおもいません。

2015年3月15日(日曜日)は、うれしいことがありました。俳人の金子兜太さんに会えたのです。これで3度目です。

草加市新田の勤労福祉会館で先生の講演会がひらかれました。ぼくは俳句を詠むようになったのは、中学生のころからです。

金子兜太先生が選者で、ぼくははじめて新聞に投稿し、先生にはじめてみとめられました。

それ以来、ぼくは金子兜太という偉い先生の作品に触れる機会が多くなりました。

そのときの先生は、御年96歳(当時)。かくしゃくとしていました。

先生の講演。

1943年9月、わたしは東京大学を卒業し、日本銀行に就職。翌1944年2月、サイパンを経てトラック島へ――第4海軍経理学校に入り、わずか3日間の訓練で卒業。

ただちに海軍主計科中尉に任官、本番の軍務につく。そして第4海軍施設部というところに入る。そこはミクロネシア連邦チューク諸島。――というのは、西太平洋・カロリン諸島に浮かぶ大小の島々の総称です。

施設部の仕事は要塞を構築すること。こんなところに要塞を築いたって何になる! とおもうかもしれないが、ここは肝心かなめの重要な砦になるのです。

人だけは1万2000人もいた。銀座並みとはいかないが、人はけっこういた。

サツマイモを植える耕地をもとめて夏島から秋島に移動したのは、マリアナ陥落の翌年――敗戦の年のはじめだったと記憶している。

秋島に移ったわたしたちは、句会どころの話ではなかった。

耕地をさがし、夜盗虫退治に追われ、7月になると、餓死する人間が多くなった。

暑いので、人間のからだが腐りはじめると、あちこちで嗅いだこともない匂いを発した。そして、人間は死ぬと小さくなり、よく見ると、コレラ、チブス、マラリア、痘瘡(とうそう)などの注射菌がパーッとひろがったのである。

梅澤博さんという、わたしより若い彼は、

「あなたは、お高くとまっている将校連中とは違って、そういう方なら、ついていきたい」といった。

彼らは復員後、学生班のメンバーと「南十字星(サザンクロスの会)」をつくった。わたしも加わった。

会の名称は、そのこころは、「散々苦労す」である。

そのとき先生は、マイクロホンをにぎって、小学生時代の話をなさった。そのころから俳句を詠んでいたそうだ。

「5、7、5のリズムは、最高のリズムで、短歌の5、7、5、7、7の、7、7は、ほんらい余計なものです。あれは、ふんどしみたいなもので、ふんどしは、ないほうがいい!」とおっしゃった。

「男ならそうだ」、といえるかもしれない。

さいきんは、外国人も俳句を詠む人が増えてきたそうだ。

 

田中幸光

 

「日本の俳句、あのリズムがいいと。――シラブルがいいというのですよ。だが、外国人には、これに対応するリズムというのがまったくない。せいぜい強弱の音節(ストレス)で対応するしかないというんですよ。つまり、ストレス・アンストレス・ストレス・アンストレス、……俳句は世界最高の詩の形式であるというわけですよ。それをいいたいとおもいます」

そして、金子兜太氏は、平和について話された。

平和がどんなにすばらしいか、それをいいたくてトラック島で戦ったときの、戦地のむごたらしい死者の話をなさった。俳句なんか、やっていられない! 戦時下において、俳句がいかに無力であったかを思い知ったという。

それでも俳句をつづけてきたという。

それはなぜか?

多くの俳句雑誌は軍部によって叩きつぶされた。だが、つぶされてもつぶされても生きかえった。それは最高の言語芸術だからだ。

そうおっしゃった。

そして、男色の話におよんだ。――戦争の現場は、男たちだけで戦うわけで、女はいない。で、どうしたかといえば、若い男、――16歳から20歳くらいの男たち――は、おかまになるというのだ。先生は24歳で戦地におもむいたので、その相手にはなったことがないそうだが、そういうことも戦争みたいなものだという。

男には性がつきもので、若い男なら、だれでも相手をやらされたという。

「これがどういうものか、考えたことがありますか?」と問うている。

いまの人たちは、「どんなに幸せか、考えたことがありますか?」と。

トラック島の戦地に行かされたときは、死を覚悟したそうだ。海軍に召集され、多くの仲間たちは海に消えて行った。

米軍によるトラック島空襲は、太平洋戦争のなかでも、1944年2月17日-18日になされたアメリカ軍機動部隊、それによる日本軍の拠点トラック島への航空攻撃は、すさまじいものだったという。

この攻撃により、日本軍は多数の艦船と航空機を失った。トラック島は完全に無力化されたが、敵中で孤立したまま終戦にいたるまで、日本軍の拠点としてそのまま残った。

おかげで、金子兜太先生は生き残ったのである。

「ぼくがこうして生きていることのふしぎを、日々噛みしめています。間もなく天に召されるでしょうが、こうしてみなさんのお顔を見ながら、今日的な幸せの話をしたいのですが、ぼくにとって、戦争をくぐり抜けてきた九死に一生を得た貴重な平和なので、あれから80年がたっても、ぼくの頭には、戦争の傷あとが明瞭に焼きついていて離れません。

どうか、そのことを忘れないで、幸せだけを目指して生きてください。

見る夢も、どうか幸せなものであるようにと、祈っております」

そうおっしゃった。

見る夢も。――そうありたいとおもう。

たいていの人は、寝るときに着ているものは、ピジャマである。それはもともとは女性が着るものだった。これを着ると、だれでも夢を見て、幸福になれるといわれている。

日本語には「衣(ころも)を返す」ということばがある。

ピジャマ(パジャマ)を裏返しに着ると、いいことが実現するらしい。そうやって寝ると、おもう人の夢を見ることができるという俗諺(ぞくげん)からきている話である。

だが、この風習はパリっ子たちにもあり、若いパリジャン、パリジェンヌは、夜、ひそかに寝巻きを裏返して寝ているというのである。

また、世の中には「幸福症(ユーフォリア)」という病気があるそうだ。幸せな夢を見ながら毎晩眠る人のことである。そうしなければ生きられない人びとのことだ。うっとりしながら毎夜、夢を見るのだ。

そういえば自分も若いころはそうだったな、とおもうことがある。

若いころは、子守りのナターシャに抱かれながら眠るシーンをよく想いうかべ、妄想しながら寝ていたものだった。

平和は、ありがたい。きょうは、そんな気分にひたれた。

伊藤博好さまへ、――ふたたび。

きょうは長時間、楽しい時間を共有させていただき、かつ、けっこうな飲み物で、ご散財をおかけし、たいへん心苦しく思っております。まずは心から御礼申し上げます。帰宅すると、ヨーコがいいます。

「あら、早かったわね」と。

ヨーコにとってみれば、時間が早かったというわけですね。書道なんかやっていると、もう少しゆっくりしてていいのよ、というわけでしょうか。ヨーコは条幅紙を広げて筆を動かしている最中でした。その気持ちはよくわかります。

それでも、男同士の時間は、けっこうそれなりに中味は充実していたとおもいます。

「そうなの? きょうは、どんな話?」とヨーコはききます。

それは、いつか小説に書こうと思います。

石原慎太郎の小説「私という男の生涯」ではありませんが、おのが人生の評価にかかわる話は、お互い生きているうちはわからないことばかりというわけでしょうか。だから人間は面白いのですね。

またいつか、お話できる日を楽しみにしております。

そして、いつもブログ記事をお読みいただき、感謝しております。シクラメンの育て方、忘れません。台所の排水管のつまり解消の話など、きょうは面白かったなとおもいます。

2023年3月30日

火焔の海。――

雨のなか、東の空がぼんやりした明るさがもどってきた。食事をしたばかりの会場はとても静かで、その人はふたたびわたしの顔を覗き込んだ。

「――そう、信じてください」とその人はいった。

そのとき、その声が山びこになって会場に谺(こだま)す静かな歌声のように聴こえたようにおもった。

それは、わたしにとって青天の霹靂(へきれき)だった。

とつぜん「シェーン、カムバック!」という少年の声が幻聴のように聴こえてきた。そして、アラン・ラッドは馬に乗って少年のもとを去って行く。

彼は、ワイオミングの山へと去っていったのだった。

必死に呼びかけるジョーイの声は、やがて「シェーン! カムバック!」といって、山びこになってふたたびあたりに谺(こだま)す。その「シェーン」というアメリカ映画のことが忘れられない。

やっぱり、アラン・ラッドの出るアメリカ映画、「シェーン(Shane)」はいい映画だったなとおもう。

「シェーン、カムバック!」といって、アラン・ラッドは少年のもとを去って行く。彼は馬の背にまたがり、ワイオミングの山へと去っていくのだ。必死に呼びかけるジョーイの声は、やがて「シェーン! カムバック!」といって、山びこになって谺(こだま)すんですね。

そのときのジョーイ役に扮した、ほら、ブランドン・デ・ワイルドは、のちに、出演する劇場へ向かう途中で、じぶんの運転するクルマで交通事故を起こし、30歳の若さで世を去りました。

みんなでおう―「Norwegian Wood」を

 

おはようございます。

さいきん、村上春樹の小説を読みたくなった。

村上春樹の小説は、けっこう奇想天外な部分もあるけれど、読んでいく過程がおもしろい。

――たとえば、街を歩けば、ふつうのおばさんの感じなのだが、ステージの上で歌を歌わせたら、あまりにみずみずしく、森のなかに吸い込まれそうなほど敬虔な気持ちになる曲。アイルランド生まれのメアリー・ブラック(Mary Black)みたいなものだろうか、とおもう。

 

 

メアリー・ブラック「Moon River」。

 

彼女のちょっと古いアルバム「What A Time」のなかの、どれでもいい何かを聴くと、それは散文的で、ちょうど村上春樹の文章みたいに聞こえるのだ。軽そうで、軽快で、すらすら聴けちゃう歌。

それでいて、なんという深みのある曲なのだろうとおもってしまう曲。

ぼくは、人がいうほど村上春樹をちゃんと読み込んではいないけれども、村上春樹の小説には、いままでの日本文学にはなかった新しい風が吹いている。

その風は、メアリー・ブラックみたいな感じがするので、ちょっと例にあげたけれど、それはカー・ラジオから流れてくるような物語なのだ。

それが格別めずらしい物語なんかじゃなく、振り返れば、自分もそうだったとおもわせるような素朴な物語なのだ。

ある批評家は、村上春樹の小説を批評して、堀辰雄の「風立ちぬ」を持ち出している。

「風立ちぬ」という小説では、結核で死ぬ話がつづられており、村上春樹の「ノルウェイの森」では、精神を病んで自殺する女を描いている、といっている(小谷野敦「病む女はなぜ村上春樹を読むか」、ベスト新書、2014年)。そのような設定は、いかにも現代的なのかもしれない。

 

自我が病んでいるように書かれているからだろうか。

たぶん、人は何もいわないけれど、評論家がいっているような、谷崎潤一郎とか、川端康成とか、いろいろな作家たちの書いた本と比較し、引用したりして縷々(るる)のべられているけれど、村上春樹の小説は、それらともぜんぜん違っているし、比較するほうがむずかしく、むしろ比較などには意味がないと、ぼくなどは考えている。

そして、どんなふうに違っているかなんて、そんなことはいわなくても、読めば読むほど、その先を読みたくなるような、なつかしいヒップポップ風なテンポで描かれているのだ。

カー・ラジオから流れてくるような、どことも知れない風景を描き、たとえセックス依存症に悩む女を描いていても、その不幸を現代の身近なインシデントとして映し出されているのだ。日常的な、ありふれたシークェンス。

ぼくが読むかぎり、村上春樹にたいする批判は批判として受け入れつつも、それはちょっと違うな、という気になってしまう。

批判の的をフォーカスしていないから、よくわからないのだ。

どこがいけないといっているのか、どの本を読んでも、村上春樹をちゃんと批評していないようにおもえる。

なかにはドストエフスキーと似ているという批評もあり、ドストエフスキーとの綿密な比較をのべているが、100年まえのリアリズムと比較しても、はじまらないのでは、と考えてしまう。

たとえば、村上春樹が翻訳している作家たちをならべるだけでも、そのだいたいの傾向がわかる。

S・フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、カート・ヴォネガット、マーク・ストランド、ジョン・アーヴィング、レイモンド・チャンドラー、……。まだまだいろいろある。

トルーマン カポーティの「クリスマスの思い出」は訳さないはずはないとおもっていたら、やっぱり訳した。

村上春樹の土壌は、大平原にあり、日本を意識しないで書かれている。ロシアであろうが、ドイツであろうが、中国であろうが、人びとはおなじだといわんばかりに、国を特定したり、民族を特定したりしていない。

村上春樹は、戦後を描かない作家である。団塊の世代のちょっと後あたりに生まれた青年が出てくる。

日本の経済成長というものを冷ややかに見つめてきた世代だろう。

それで何か夢を描いたのか、といえば、そういうものはなく、ニュートラルな日常のなかで、なんとかその日その日を生きようとする人たちだ。こんな小説は、ちょっとなかった。

小説としての結構が、ひとむかしの小説と、まるで違うのだ。物語の結構や、ストーリーに何かいいたいことがあるとしても、村上春樹の小説の多くは、何かの依存症に苦しむ人びとを描いている、とおもえる。

芥川賞作家になれなかったのは、至極とうぜんのような気がする。こういう小説は通俗小説と見なされるからだ。

モームだって一流の通俗小説作家だった。わが国の文学登竜門には、むかし気質の選考委員というのがいて、それがしばりになった。それがいけないというのではなく、文学のトレンドが変わったのに、日本文学の体質だけは変わらない。

たとえば「ノルウェイの森」。――直子が死んで18年後、主人公はヨーロッパ行きの飛行機に乗り、ハンブルクの空港に着陸しようとしたとき、むかしのことをおもい出し、男泣きに泣けてきて、グレーイッシュに暮れなずむ空港で、18年前の悲しいシーンをおもい出すというわけである。その記憶が、一冊の本になって「ノルウェイの森」と名づけられた。

「ノルウェイの森」は、ぼくにとって、とうぜん村上春樹の小説であるまえに、ビートルズ・ナンバーの一枚だった。「NORWEGIAN WOOD」は、もともとは「この鳥は飛び立ってしまった(This Bird Has Flown)」というタイトルだった。「NORWEGIAN WOOD」に書きかえられても副題として「This Bird Has Flown」がしばらくついていた。

この「飛び立つ」ということが素敵だなとおもっていた。しかし、主人公は飛び立つまえに、直子のことを想い出したのだ。

ぼくにとって1987年、――昭和62年は45歳で、多忙な日々を過ごしていた。

東京から札幌に移転し、16歳の息子が小児ぜんそくのために転地療養をかねて札幌の親の家に移り住み、やがて二度目の家を買って、北海道暮らしがはじまった。

その年の9月、講談社から書き下ろし作品として村上春樹の「ノルウェイの森」(上下2冊)が刊行された。

ぼくは家を手に入れると同時に、その本を手に入れた。

読みようによっては、性にだらしのない青年が、セックス好きの彼女を抱き、その後彼女は精神を病んで、自殺してしまうという出来事を、たんたんとつづっているように見える。

小説の構成はじつにシンプルで、日記みたいにつづられている。どこにも気を衒(てら)ったようなところがない。とてもさらりと描かれている。

だが、村上春樹も気づいていただろう。

「NORWEGIAN WOOD」の訳文が「ノルウェイの森」になってしまっていることを。

ぼくは音楽業界のことは何も知らないが、キングレコードの某氏がぼくの部下になったとき、彼からビートルズの「ノルウェイの森」の話を聞いている。

Norwegian Woodということばは、英国の装飾調のヴィクトリアン家具とはちがって、モダーンな木の家具として取り入れられはじめたころだ。それを総称して彼らは「Norwegian Wood」と呼んだというのである。

詩のなかで、「ぼく」の目に映ったのはそのNorwegian Woodだったというわけ。

彼女とはまだ深いつき合いはない。その証拠に、そこは、

I once had a girl Or should I say she once had me

という表現になっていて、

She showed me her room Isn't it good, Norwegian Wood

「彼女は、ぼくを部屋に案内してくれた。おっと、こいつは素敵じゃないか……」という気持ちで、Norwegian Woodということばが、詩のなかに突然あらわれてくるのだ。家具はみんなNorwegian Woodじゃないか、という気持ちで。

それに、もしも彼女が恋人なら、「show(案内・披露)」なんていう語を使うわけがない。それが「ノルウェイの森」だなんていう可能性は、万に一つもない。

ところが詩の内容が変なのだ。

いよいよ夜も更けてきた。

すると彼女はいう。

「She asked me to stay(泊まってってよ)」

彼は胸を高揚させる。

「ask」した彼女は、つづいてこんなことをいう。

「どうぞ適当に座って」と。

しかしその部屋には一脚の椅子もないのだ。

ジョンは少しあわてて、rugの上に座った。このrugというやつは、暖炉の薪の火がはぜて、床が焦げるのを避けるために床に敷いた一枚の、日本風にいえばマットなのだ。そこに座れって? 

で、彼は座った。

火が燃えていれば、熱くて仕方ないだろう。

さーて夜も更けて、いよいよベッドにというとき、彼女はいう。

そのIt's timefor bedには、「いっしょにベッドに行きましょう」という含意は少しもない。わたしは自分のベッドで寝るわ、という意味。

「あなたはバスで寝て、わたしはじぶんのベッドで眠るから」というのである。

And crawled off to sleep in the bathの「bath」は、女の「bed」と呼応して二意一語のくっつき合う語だ。歌の文句にすれば、音がグーンときいてくる。なんてことだ! そんな話はないだろう! と男はおもう。さっきから、迂闊にも勃起させていた彼は、たちまちしぼんでしまった。

いっしょに寝るつもりだった彼は、妄想がゲームセットになったことを知る。彼はてっきり、女がこういうとおもっていた。

「ねぇ、あたし、眠れないの……いっしょに寝て」と。

その夢も終わった。

だから、「あの鳥は飛んでいってしまった」と最初は書いたのだ。ビートルズの「ノルウェイの森」はそういう曲である。ひるがえって、村上春樹の「ノルウェイの森」のほうも、彼女が死ぬことで、彼自身の夢も終わっているのだ。

■アメリカ合衆国が生んだ詩人エドガー・アラン・ポー

永遠の想美をたたえたを読んで

 

米ワシントンのポトマック河畔を彩るサクラ並木の路を歩いたことありますか? いまは秋になって、秋櫻(コスモス)の季節を迎えました。――と書いて、ぼくはほんとうに秋櫻が「コスモス」と読ませるのか、あちこちの辞典で調べてみました。すると、つぎのような文章が出てきました。

 

【秋桜】コスモス――「秋桜」と書いて「コスモス」と読むようになったのは、昭和52年(1977年)に発売された山口百恵のヒット曲「秋桜」(作詞・作曲:さだまさし)で、この漢字に「コスモス」とルビを振って歌われたことがきっかけです、と。

それは知りませんでした。

 

 

田中幸光

さいきんは、ちょっとエドガー・アラン・ポー(1809‐1849年)の詩を読んでいるところです。ぼくは若いころ、この詩人から多くのことを学びました。ぼく自身、詩を書いていたからです。

ぼくの書斎には、若いころから読んできた本がいっぱいあります。

エドガー・アラン・ポーにも若いころというのがありました。彼の若いころというのは、……借金をかかえ、ヴァージニア大学を辞めざるをえなくなったて、1827年3月に家出同然にリッチモンドの実家を出てボストンへ向かいます。

ボストンに着いてからはアンリ・ル・ランネという偽名を使い、店員や新聞記者のアルバイトをして生活費を稼ぎだしていたのですが、5月になってエドガー・A・ペリーという偽名を使い、また実年齢18歳を、22歳だと偽って、アメリカ合衆国陸軍に入隊したりしました。――と書き始めると、きりがありません。おもしろい話がえんえんと書かれていますが、そこは思い切って飛ばします。

もっとも有名な詩は、詩「大鴉」(The Raven)でしょうが、黒い鳥が「二度とない(Nevermore)」と繰り返す、喪失と絶望をテーマにした最も有名な物語詩です。

でも、これを高校生のテキストとして読ませるにはちょと難しすぎますから、こまってしまいます。

1830年7月、ポーは入学試験を経てウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学します。1831年1月にアランへ手紙でその旨を伝えて、意図的な怠業(たいぎょう)を行なって軍法会議にかけられ、放校処分となりました。

――まあ、怠業といっても、ポーはただ詩を書いていただけなんですが。

詩集の出版費用はウェストポイント士官学校の生徒たちのカンパで賄われており、ひとりにつき75セントずつ、合計で170ドルに達していて、すべてをまかなうことができました。彼らはこの詩集を、ポーが以前書いて見せたような上官に対する風刺詩を集めたものと思っていたようです。

ポーの第三詩集「ポー詩集」は「アル・アーラーフ」や「タマレーン」を再録していたほか、「ヘレンに」など「海の中の都市」「イスラフェル」の新詩を含んでいましたが、あまり好評は得られませんでした。

なかでも優れている「ヘレンに」という詩をじっさいに声を出して読んでみると、とてもいい詩なのです。

英詩を読むときは、ヘタでも、じっさいに声を出して読んでみてください。そうすると、詩行の意味がよくわかってきます。

じぶんに吟じ方や読み方、書き方を教えてくれた人を頼って、先輩たちの特に吟じ方をいろいろ研究して覚えたものです。

ある日、ポーの本をそっちのけにして、むかし読んだ本をひっぱり出してきて、床についてから寝ながら読みはじめました。松本道弘氏の「交渉力の英語」(講談社現代新書、1988年)というおもしろい本です。

付箋がいっぱい貼られています。

――ということは、じぶんがかつて読んだことがあるという証拠です。しかし、ほとんど悲しいくらいきれいさっぱり忘れてしまい、「ぢつと手を見る」石川啄木のようにはいきませんでした。

この本にはprincipleという語がけっこう出てきました。これは白洲次郎のことばでもあります。

それはともかく、ぼくはむかしから学校英語というものに、どうもなじめませんでしたが、こういう本にはおもしろい英語の謎がいろいろと解かれていて、半分くらいまで一気に再読してしまいました。

――It's a matter of principle.ここだけは人の妥協に応ずるわけにはいきません! という気持ちが強くはたらきます。

学問というのは、そういうprincipleを身につけるところ、というわけですね。

英詩はぼくなら、このように教えたいとおもって、娘が高校生のころ、娘のために英語についての文章を書いたのです。かつてじぶんが書いた原稿を引っ張りだしてきて、いまながめているところです。――それには、エドガー・アラン・ポーの詩を例に出して、次のようなことが書かれていました。

以下写します。

ここで取りあげる「ヘレンに(To Helen)」という詩は、まぎれもない彼の若いころの傑作で、アラン・ポーの代表的な詩です。

 

  ヘレン、あなたの美しさは、

  いにしえのニケーアの舟に生き写しだ。

  かぐわしい海を渡って、ゆるゆると、

  やつれ果て、旅に疲れたさまよい人を

  故郷の岸辺に連れ戻した、あの舟に。

  Helen, thy beauty is to me

  Like those Nicean barks of yore,

  That gently, o’er a perfumed sea,

  The weary, way-worn wanderer bore

  To his own native shore.

 

この詩には、もうすでに使われなくなった古語がたくさん出てきます。

18世紀から19世紀のはじめにかけて、詩は、詩句のリズムを整えるだけでなく、このようにして優雅な古語や詩語をふんだんに用いることが、詩である徴(しるし)みたいに思われていた時代があったようです。

これは、散文とは違った詩の特長だと考えられています。だから、ぼくらもそう考えましょう。彼らの多くは、イギリスの詩を模倣することからはじまっています。

ちょっとめんどうな話をしますが、1行目の「thyあなた」は、yourとは違って、単数の相手にだけ用いる古い語です。

ここは意識的にそうしているとおもわれます。

詳しくはのちに触れます。

シェイクスピアの時代から単数の「thy」をよく用いられています。これは所有格で、主格は「thouあなたは」(youにあたる)で、目的語は「theeあなたを(あなたに)」(youにあたる)です。

2行目の「ニケーア」については、ちょっとむずかしいのでのちに触れるとして、「those」は「ほらあの、例の。みんなが知っている……」という意味。「barks」はboatsやshipsのこと。「of yoreいにしえの」もいまでは「むかしの……、of old」という意味の古い詩語ですね。

――さて、ここで英語の勉強を、あらためてしようという考えは少しもありません。原詩を読んでみましょうという意味で、触れないわけにはいかなくなったのです。

1831年の「Poems」に発表され、ポーの少年時代の友人の母親で、彼をいつくしんでくれた女性Mrs.Jane Stith Stanard (1824年歿)をうたったものといわれています。ですから、ポーが14~15歳ごろの作ということになります。

いずれにしても、永遠の理想美をたたえた作品ですね。

3行目の「That」はもちろん「barks舟」にかかる関係代名詞で、ここでは主格になっていますね。

「o’er」の「……を横切って」は、前置詞overの省略したかたちです。「over」は2音節ですが、「o’er」と置くことで1音節にしています。

ですから詩のなかで音節の数を節約したいとき、つまり1音節ですませたいときに使われます。同様に、ときどきの詩趣に応じて「over」が「o’er」になったり、あるいは「taken」が「ta’ en」になったりするわけです。これは韻を踏ませるために行なわれるものです。

4行目の「weary」は「疲れた」ですが、これは「way-worn」として、「way」と「worn」をくっつけた「旅に疲れた」という意味の合成語です。いわば「w‐w」は「w and w」というhendiadys and=二詞一意という合成語になりますから、「旅」でもなければ「疲れた」でもありません。「旅に疲れた」というひとつの熟語になってしまうわけです。

「旅に疲れた」という意味の熟語は日本語にはないので、困ってしまいますね。

「あなた(ヘレン)の美しさ」は、舟のようだ、まるで疲れきったさまよい人を故郷の海辺まで静かに運んでいった、あのいにしえのニケーアの舟のようだというのです。

え? もう一度いいましょうか?

ある女性の美しさを別の何か、――ここで詩人は、それをむかしの舟にたとえているわけですが、それだけで終わらず、この舟の説明だけが長々と3行もつづけるのです。

ここでは「Like……のよう」を仲介していますが、長い3行を引っ張っているので、ぼくなら「生き写し」と訳してみました。

「……のよう」ではちょっと弱すぎるのではないでしょうか。しかもここでは、直喩=比喩であることを前もって明言しているからです。

すると、この詩をもういちどざーっと読み返してみると、ふしぎにおもわれます。

「あなたの美しさは、ニケーアの舟のようだ」といっていることです。

「あなたは、舟みたいにきれいだね」といわれて、世の女性たちは喜ぶでしょうか。こんな褒め方をされると、ヘタをすれば怒り出す人がいるかも知れません。

「舟とは、何よ!」というわけで。……「きれいな舟のように」ではないのです。「舟のようにきれいだ」といっているのです。

第1の連句でおもしろいのは、まさにこの〔ずれ〕です。

舟が旅に疲れたさまよい人を、故郷の岸に連れ帰ったというのは、思い遣りと親切心のあらわれと見ることもできるでしょう。舟にとって岸=港は、憩う場所であり、眠りを約束する「しとね」ですから、ちょっと深読みすると、夜の「褥」は「閨房」となります。

この「ヘレン」は、「舟」という名の、じつはだれでも訪れたくなる「港」のような存在なのではなくて、「港」そのものだった。

――とすると、「ヘレンの美」は、待ち焦がれていた「舟」であり、「舟」が持っているもうひとつの「美」であり、「美・美=B・B」の第1連として眺められそうですが、いかがでしょうか。

「ヘレン」は、はつらつとした女性というよりも、「海」がそうであるように、「母」でもあった。フランス語のラ・メール、――「海のmer(メール)」は「母のmére(メール)」にも通じます。発音はおなじです。

あるときは男を迎える女のように。あるときは夫を迎える妻のように。

あるときは息子を迎える母のようにと。

すると、ほら、日本語の漢字、「海」のなかにもちゃんと「母」という字が描かれていますね。その「母」は、――むしろ、母親ならではの、愛情こまやかな感情を「ゆるやかに」描いている、と解釈することもできます。

しかも、「あなたの美」が主題になっているにもかかわらず、ここでは外形なんかよりも、振る舞いや人柄にかかわるイメージを持ち出していることです。

舟の比喩(ひゆ)は、「ヘレン」の外観よりも、人物の与える印象全体を伝える形になっています。

「あなたの美」が「舟のようだ」というのですから、きっと美しい帆船(はんせん)なのかも知れません。その舟は、海の上を優雅に走る乗り物です。そしてじつは「舟」も「海」も女性名詞です。

船を女性名詞にした理由は諸説ありますが、船は頻繁にペンキを塗り替えるので、そのようすを化粧に例えたり、お祝い時の満船飾(まんせんしょく)を女性のドレスアップに見立てたのが始まりといわれています。

「港」には、さまざまな船が停泊しています。もともとはそこを「水の門」という意味を持っていました。人びとが降りたり、荷物を下ろしたりする場所、広くは「河口」という意味も持っています。

人びとにとっては、そんな港は絵になったり、歌になったりして、ここに描かれる女性は、倦()み疲れたさまよい人をあたたかく包みこみ、優しくいたわり慰めてくれる、詩興の生まれるポイントなのですね。

2行目の「いにしえのニケーアの舟のようLike those Nicean barks of yore」をゆっくりと音読すると、たとえば古代地中海を舟が静かにすべっていくように、いかにものびやかな調べになっています。

この1行のなかには、8つの音節があります。

すべてが長母音か、それとも二重母音によって支えられています。

例外は「of」だけです。「of」以外はどれも母音が長くつづく音節ばかりなので、似たような感じに聞こえるわけです。――この「聞こえる」というのがポイントでしょうね。「疲れ切ったweary」と「旅にやつれたway-worn」という、ほぼおなじ意味の語がごていねいにも重ねられています。これを二重母音といいますが、これは「旅の疲れ」を強調する役割を果たしています。

それだけでなく、語句の音声の面でもおなじように重複による強調が行なわれているわけです。

Weary, way-worn wandererとなるわけです。W-w-w-w がそうです。〔w〕が4つも出てきます。

そして、たたみかけるような〔w〕の重複は、つよく聞き手を惹きつける語句の意味を強調しています。〔w〕が行の頭に出てくれば、それを「頭韻」と呼び、たいていは各語の初頭の音を揃えます。

ポーは、これをかなり徹底的に、そして意識的に、くどいほどやっています。

これはもうヨーロッパでは使いふるされたやり方ですが、アメリカでは、新奇なほどモダーンにひびいたことだろうとおもいます。

シェイクスピアなみの古語連句を突き破って見せたのがポーでした。

ただし彼はシェイクスピアを念頭にはおかず、先達のホイットマンやボードレールを念頭においたと思われます。ある意味が特定の意味を暗示させるという「音声象徴性」がはやった時代があったのです。

ホイットマンも、ディキンソンもやっています。

いまでいえば、たとえば「ドナルド・ダック」「ミッキー・マウス」「ピーター・パン」、これは、「D・D」「M・M」「P・P」という母音の音声象徴性をうまく利用したものですが、それですね。

「コカ・コーラ」もそうかも知れません。

こうすることで、人の記憶に入りやすくなります。いまでは詩の世界もそうですが、コマーシャルや広告・宣伝の分野でも、吟じやすくておぼえやすい語彙の連句を、ポーは狙ったのでしょうか。

くりかえしますが、彼女の美しさはそのむかし、疲れた旅人を故郷へ連れ帰った舟のようだといいます。

放浪に疲れた旅人、つらい人生の旅に倦()み疲れた精神の彼方へのノスタルジア、それは安らぎに満ちた魂の故郷へのあこがれの声であったり、――いろいろに解釈できるでしょう。

読書人の楽しみは、そこは自由勝手に、「思いつくまま解釈していいのだよ」といっているみたいです。

その理由を述べます。

ふつう、旅人が帰っていくところが、ニケーアの舟が葡萄酒色に染まった海を行き来するような、神話と伝説の世界――古代の光と美の格調にあふれた理想郷として捉えることもできるでしょう。

これは、ギリシア神話に登場するニケーアという女神を連想するからでしょうね。

そこで、さっきの「ニケーア」について述べます。

ニケーアは、むかし小アジアの北西部にあった古代の王国ビチュニアの古い都で、「ニカイア」ともいわれるそうです。神話では戦いの女神として描かれていますが、おそらくはそうではなくて、ポーが描こうとしたのは、おそらく地名のほうでしょう。

ぼくがもう少し深読みすれば、そこは、じっさいに存在した「ニケーア」ではなくて、おなじ名のどこか、遠い架空の国。

それをポーは臆面もなく

「ほら、あの、よくご存じの、……those」と書いているのですから、「あなたのニケーアは、どこ?」ときいているみたいな詩句に聞こえますね。旅人を救う舟のイメージ、――それは、読者の想像にゆだねようとしているかのように見えるのです。

戦いの女神が憩う故郷と解釈しても、どうもしっくりきません。

そこは、あのポーのやることですから、にくらしいほど、うまくできあがっていると思うわけです。

英詩は、1行を〔ダダン、ダダン、ダダン、ダダン〕というように、リズム感をもってひびくように読まれます。

これを日本語におきかえると、〔タタタタタ/タタタタタタタ/タタタタタ〕というふうに、5・7・5という語数で読まれるわけですが、これとは違い、「弱強4歩格」といわれ、じつは「弱強」の最小単位でリズミカルに吟じられるように書かれています。

さてそれでは、じっさいには声を出して読んでみましょう。

【参考文献】この文章を書くにあたって、特に川本皓嗣氏の本やその他多くの本を参照させていただきました。

浜松市にお住いの小杉春見先生の水彩画作品。

 

 

してうことは

愛した経験のないことにまさる

 

「愛して失うことは、愛した経験のないことにまさる。'Tis better to have loved and lost than never to have loved at all.」

そういった男がいる。 アルフレッド・テニソン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson, 1809年-1892年)である。

 

アルフレッド・テニソン

彼はヴィクトリア朝時代の桂冠詩人だった。偉い詩人なのだが、ぼくにはあまりに時代がかって見え、ほとんど彼の詩を読まなかったけれど、「In Memoriam」だけは読んでいる。

このことばは、そこに出てくる。

急逝した友人の死を悼み、愛の喪失とその苦悩を歌いあげた詩だった。ぼくはまだ20代で、ある企業のクリエーティブセンターというところで、企業のコマーシャル企画に従事していた。ぼくの直属の上司は、38歳くらいの女性だった。彼女は仕事にはとても情熱的だった。彼女は企画の責任者をしていて、ぼくらのチームリーダーである。ぼくが考えた企画は、たいがいはダメ押しされた。それでも、ぼくはがんばった。

TOTOのシステムキッチンのカタログ企画だった。

ある日、ぼくは彼女に、「こんな企画はどうでしょうか?」と提案した。

カタログなのに、「創刊準備号」と書かれている。住まいの雑誌風にしたのだった。ほとんどが記事で、巻末にTOTOのシステムキッチンのカタログを配した。そして、婦人雑誌「主婦と生活」の付録としても考えていた。

「おもしろいじゃないの? 田中くん、ひとりで考えたの?」ときく。

「でも、きいていい? これって、毎月だすの?」

「ええ、毎月だしたいです。《主婦と生活》も毎月でますから、……」

「あいてに、もう打診したの?」

「いいえ、まだですけど、……」

縣(あがた)京子さんは、うーん、といってから、「少し、考えさせてね」といった。

「でも、田中くんて、touch and goなのね」と彼女はいった。

「飛行機、ですか?」

「……まさか!」といった。

それから1週間がすぎた。べつのメーカーの400ページにおよぶ照明器具カタログ、その事実上の編集長をしていたぼくは、けっこう多忙だった。飯島取締役局長のひと声で、編集責任者にぼくが抜擢された。社内スタッフと、外部スタッフの約50名ほどの仲間たちで動いていた。

地下のスタジオに入って、トビラの写真撮影にずっとたち合っていた。

アート・ディレクターやデザイナーたちとの打ち合わせは、ときどき深夜におよんだ。

そのとき、スタジオに縣さんがやってきた。

そしていった。

「このプレゼンだけど、ОKよ! やって!」といった。

飯島局長のオーソライズをうけたらしかった。

そして、そのまま彼女はディスクのほうにもどっていった。ぼくは夜食を手に入れるために外に出た。銀座の夜空に大きな月がかかっていた。

社にもどると、5階に行き、縣さんに「これ、食べてください、ぼくからの差し入れです」といって手渡した。ドーナツパンと温かい缶コーヒーだった。

「あら、田中くん、いいの? ありがとう」

そういって、ぼくの隣りのディスクで、彼女は食べた。そのフロアには、ぼくらだけしかいない。もう2時をまわっている。仮眠室はあるけれど、彼女もぼくも、あまり眠りたくになかった。このまま仕事をしていると、どうなるのだろう、とおもった。

それからしばらくして、彼女はぼくのディスクの衝立てにもたれかかるようにして、「いま、何やっているの?」ときいてきた。ぼくは、住まいの間取り図なんか見ていた。スタジオに家を建てるプランだ。

そして、彼女は、ぐーんと接近してきて、ぼくの頬に彼女の長いヘアがかかると、縣さんはスタンドのスイッチをオフにした。そして、ぼくのアゴをきゅっと持ち上げると、そっとキスをした。とても優しかった。

そしてぼくの胸に手のひらをはわせ、こんどは、はげしくキスをもとめた。ぼくはおもわず、キューンとなって立ち上がった。ゴミが箱がひっくり返った音がして、定規も鉛筆も床に落ちた音がした。

ひろいフロアのほとんどは真っ暗で、とても静まり返っていた。

その一部のリノリュームの床が月明かりで光っていた。

ぼくらは突っ立ったまま、キスをつづけていた。彼女の舌がぎゅーっと押し入ってきた。そして縣さんは大きくわめいた。――それからのことは、ただじっと抱き合ったままだった。

それ以来、ぼくらは深夜になると、キスを交わしていた。

でも、セックスはしなかった。ぼくが誘っても、縣さんは、「しよう」とはいってくれなかった。それから1年半ぐらい、だれもいないところで、いつもキスをしていた。ぼくはときどき我慢できなかった。

ある夜、彼女はいった。

「いまのアメリカのvice presidentも、bisexualなの。しってた?」ときいた。

そのころ、両性愛者という言葉がぼくには馴染めなかった。

「もしかして、縣さんも?」ときいてみたが、彼女は軽く笑みを浮かべただけで、何もいわなかった。

ある日、ぼくは上席部長に呼ばれ、いってみると、

「田中くん、いままでがんばってくれたね。苦労さん。こんど京都に欠員ができた。田中くん、制作部の主任として行ってくれないか」といわれた。異動の話だった。

7年間を東京本社ですごしたじぶんは、やがてこうなることは予想していた。縣京子さんと別れるのは悲しかった。

「京都はいいわよ、いつでも会えるじゃない。田中くん、京都へ行きなさい」と彼女はいった。京都支局は、行ってみると、おもしろかった。

「恋人? 恋人なんていてません」と、20代の女の子は明るくいった。

「田中さんは、独身?」ときかれ、

「そうです」といった。

北海道には、いいなずけがいた。だが、ぼくは何もしゃべらなかった。

それからぼくは、その子に夢中になった。和服を着せると、完全に京都の女に見えた。けれども、身は離れても、年上の縣さんのことをときどき想いだしていた。

彼女の乳房は、やわらかく、美しかった。ぼくは年上の女性にあこがれた。

ぼくは北海道で子ども時代をすごした。ぼくは、ナターシャというロシア女に育てられた。彼女はぼくより8つ年上だった。彼女が23歳のとき、ぼくは15歳だった。子守りの女の子としてわが家に8年間雇われた彼女だったけれど、母親よりもきびしく、ぼくら兄弟3人を育ててくれた。

寒い冬、ぼくらはナターシャとわいわいいいながら一緒に風呂に入っていた。湯気で、ホヤつきランプの灯りも薄ぼんやり曇ってしまい、何も見えなかった。

でも、ナターシャの大きくて、まっ白なお尻が湯げむりの中で、光って見えた。

ぼくが16歳のとき、ナターシャはわが家を去った。彼女と別れる辛さをおもい知らされた。

ぼくは縣さんに手紙を書いた。きのうも、きょうも書いた。

それでも足りなくて、一日に3通も、5通も書いたりした。

そのうちに、縣さんから何もいってこなくなった。

クリスマスにはとっておきのプレゼントをおくったけれど、彼女から何も送られてこなかった。

 

じぶんのディスク。裸の女の子の写真が貼ってある。

ある日、鷲津という男から電話がきた。――やあ、先輩、おげんきですか? 

という。そのときはもう2年もたっていた。

なつかしいやつからの、なつかしい話を聞いた。そして、本社で会議があって、東京に出向くと、縣さんの姿が消えていた。

「縣さんのこと、何か、聴いてる?」と鷲津にたずねた。

「ああ、先輩。……ちょっとコーヒーでも飲みましょうか?」といって、鷲津はぼくをいつものコーヒー店に誘った。

「縣さんのことですが、ぼくら、結婚しました」といった。

「なに! 結婚だって?」

ぼくは、とてもおおきな衝撃を受けた。――そして、あのときの縣さんのキスシーンを想いだし、情()れない話の顛末を聞かされたのだった。その衝撃に、じぶんが立ち直るのに、3年半もかかった。

3年半たって、ぼくは北海道のいいなづけの女性と結婚した。つき合ったこともない女だった。それから、ぼくら夫婦は、少しずつ好きになりはじめ、それから3年後に子どもが生まれた。

それから53年たって、秘密の書棚のひきだしの中から、縣京子さんの写真が出てきた。一瞬、どきっとして、切り裂こうとしたが、それはできなかった。

そのころ読んでいたS・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の本のページに栞のように挟んで、もとの書棚のひきだしのなかにそっとしまいこんだ。そして翌朝、化粧室でヒゲを剃るとき、日々使っている整髪料「GATSBY」の文字を見て、もう一度読み返そうとおもった。

「一一別

ふたたびまみえし」

 

 

ぼくはいつもおもうのですが、子どもの前では、じぶんの年をすっごく感じてしまいます。子どもたちは「おじさん、いくつ?」なんてききません。ききませんが、子どももいつか大人になる、その精神的な成長の早さには驚くべきものがあり、ついこのあいだまで小学6年生だった子が、170センチを超える高校生になりました。

つい見惚れてしまった。

ミヒャエル・エンデは、「自由の牢獄」という童話を書きました。主人公はひと目惚れした女に、こういわれます。

「わたしが欲しいなら、これからの人生、何ものにも従わず、じぶんの意志だけで動くと誓って」といわれます。イッシーアラーは「神にかけて誓う」と断言します。

「それはダメ。神に従っているから、それはダメよ!」といわれます。

「じゃ、じぶんの眼差しに誓って」といい直します。

いよいよ彼女を物にしようとおもったとき、女は消えてしまいます。

 

 田中幸光

 

彼は地上から飛ばされ、宇宙のような広い空間にいることを自覚します。けれども、気がついたら彼は部屋のなかにいたのです。ドアはいくつもある。どのドアから出ればいいのかわからなくなります。

イッシーアラーは、そこからついに出られなくなります。

ミヒャエル・エンデのこの物語は、何をいっているのでしょうか。

 

あなたはじぶんの好きな人生を選んでいいのだよ、といわれても、そういう自由が、少年にとってほんとうに意味のある自由なのだろうか? と、考えるイッシーアラーの戸惑いの気持ち、それがぼくにはよーくわかります。

なぜ人は、自由な環境にいて、息苦しさを感じてしまうのでしょうか? 

生き抜くための選択肢はいくらでもあるのに、ドアを開けようとはしません。

生き抜くことを悟った空海は、803年、ひとり日本という島国を出て、中国の地を訪れます。仏教を学んで帰国しました。30歳のときです。

そのころ中国に行くことは、宇宙に行くようなものだったでしょう。異国の中国で人と出会い、そして別れます。

いま手元にある詩にはこう書かれています。

 

  また、わたしの悲嘆といえば、置いてきてしまったものがある、

  いまとなっては、もうなくなっているに違いない。それは沈黙の真実だよ、

  戦争の悲しみ、戦争が滴り落とした悲哀の雫(しずく)だよ。

  And of my weeping something had been left,

   Which must die now. I mean the truth untold,

   The pity of war, the pity war distilled.

  (ウィルフレッド・フォン「奇妙な出会い」より

 

詩人ウィルフレッド・フォンは、「置いてきてしまった」「沈黙の真実」というその人の語られないほんとうの物語は、からだの奥底にちゃんと持っているのだといいます。

おもえば、ぼくが、北海道のサクジロウおじさんと別れたとき、「さよなら」もいっていませんでした。これでお別れだなんて、そのときはちっとも思っていませんでしたし、あんなに慌しくさよならして、もう会えないことがわかってから、急にさびしい気持ちになったのも、考えてみればふしぎです。

ですから、ぼくは空海のことばをおもい出すわけです。「一生一別ふたたびまみえ難し」と。――

 

 

 

  同法同門 喜遇(きぐう)深し

 

  空に遊ぶ白霧 忽ちに岑(みね)に帰る

 

  一生一別ふたたびまみえ難し

 

  夢に非ず思中に数数(しばしば)尋ねん

 

  (空海の詩より) 

 

 

 

ある日、中学を卒業して、律ちゃんたちと別れたシーンを書いていて、ぼくはこの空海のいった「一生一別ふたたびまみえ難し」ということばをおもい出しました。

律ちゃんだけじゃない、多くの友人たちと別れたときのシーンをおもい出すたびに、このことばがしぜんに想い浮かんできます。――空海が中国の地を去るとき、こういう詩をつくっています。

 

これは、唐をあとにするとき、空海が青龍寺の義操(ぎそう)という人に与えた詩といわれています。――ここで、ついでですが、空海について少し書きます。

 

空海は、恵果(けいか)から、密教両界の伝法阿闍梨(あじゃり)位の灌頂(かんじょう)を受け、日本への帰国をいよいよ決意したときの惜別の詩です。「同法同門」、そして「一生一別」というように、おなじことばを重ねて対句で韻を踏むのを空海は得意としていたようです。白く見える霧が岑々(みねみね)に帰っていくように、じぶんもまた国に帰るというのです。

これは、空海が唐に留学してまだ2年に満たないけれども、日本に帰朝する日を迎えて、世話になった方々に惜別のおもいを吟じたものといわれています。「一生一別ふたたびまみえ難し」が、空海の心境を吟じて、ひじょうに感動的です。

ぼくは、こんなふうにして別れたことはありませんが、こころのなかでは、これに似たような惻々(そくそく)とした感情を抱きました。

 

わが家にいた子守りのスーちゃん(ロシア人の娘)のことをおもうと、空海のこの詩が、しぜんにおもい出されてきます。じっさい、スーちゃんには二度とお目にかかることがなかったからです。――律ちゃんと再会したのは平成11年ごろだったでしょうか。家に家族みたいにして長くいたスーちゃんとは、ぼくは中学2年生になる冬、正月をすぎたころに別れ、それっきりです。

 

15年ほどまえでしょうか、NHK総合テレビで、2夜にわたって司馬遼太郎さんの「空海の風景」というドキュメンタリー番組が放送されました。原作はあとで読みましたが、司馬さんもいっているように、空海は、なみの人物じゃない、とおもいました。

釈迦仏教を否定するだけじゃなく、それをのり超えて、人間の現世的な赤裸々な姿――激しく生きようとする欲望や煩悩を持つ生身の生を、しっかりと受けとめ、その教えを説いていたことがわかります。もともと空海はドラマ作家でした。

京都の大学を去るときの空海のエピソードが、すばらしいですね。

世に最澄伝説なるものは聞きませんが、空海伝説は今もっていたるところにあります。最澄とくらべると、血統が違うだけじゃなく、僧となった経歴もまったく違っています。空海は山林修行をおこない、忍辱(にんにく)の袈裟(けさ)をまといはしましたが、比叡山にこもりとおした最澄と大きく違い、いたるところへ遊行(ゆぎょう)して歩きまわっています。

 

大峰山、金峰山のような山や室戸の海などで無名の沙門(しゃもん)として修行しており、その間、街から村へ、村から漁村へと、街道筋、あるいはキコリや漁師の歩く道なき道を歩いて、たえず人に接していたことが、このような伝説を生んでいったのではないでしょうか。

ずーっとまえ、ぼくは「ゴータマ・ブッダへの旅」という、300ページの文章を書いています。そこでも、空海と最澄に触れています。

中国は文章の国であり、文章が人を動かすことを空海はよく知っていました。大学では儒学と書道を習い、もっぱら字を書く技術を習ったでしょうから、彼の書の技量もかなりのものだったに違いありません。

空海が24歳のときに書かれたという「三教指帰(さんごうしいき)」は、有名なドラマですが、これは、空海にとって信仰宣言ではあったけれども、漢文で草した独創的な戯曲作品なのです。

ここでいう「三教」というのは、儒・道・仏のことで、その優劣を論じて仏教を最上としたものです。これを戯曲ふうにまとめて著したものです。

 

この形式はすでに中国にあり、司馬相如(しょうじょ)の「子虚(しきょ)の賦()」などがそうで、おそらく空海は、この作品を倣って創作したらしいという説が一般的です。

「三教指帰」にはおもしろいことに、兔角(とかく)というふしぎな人物が出てきます。角のあるはずがない兔に角をつけたもので、ありえない人、――架空の人として登場します。蛭牙公子も、蛭(ひる)は吸いつくもので牙で噛むものではないので、ありえない人物として登場し、また亀毛という名も、亀の甲羅には毛がないことから、やはり架空の人物として登場し、それらは実際にはありえないことで、それを明らかにしていくという筋立てのドラマになっています。

仏教を代表する仮名乞児は、もともと名もない乞食の修行者として登場し、ドラマの最後に3人はつぎのような十韻詩を唱和して幕となります。

 

  居諸(きょしょ 月日)冥夜(めいや)を破り三教癡心(ちしん)を裹(かか)ぐ

 

  性欲(しょうよく)に多種(たしょう)あれば医王薬鍼(やくしん)を異にす

 

  鋼常(こうしょう)は孔(孔子)に因(より)て述べ受け習って槐林(かいりん)に入る

 

  変転は耶公(たんこう 老子)の授け依り伝えて道観に臨む

 

  金仙(きんせん)一乗の法 義益(ぎやく)最も幽深なり

 

  自他(じた)兼ねて利済し誰か獣と禽とを忘れむ

 

  春花は枝の下に落ち秋露は葉の前に沈む

 

  逝水(せいすい)住(とどま)る能わず廻風幾か音を吐く

 

  六塵は能()く溺るる海 四徳(しとく)は帰する所の岑(みね)なり

 

  すでに三界の縛(ばく)を知んぬ何ぞ纓簪(えいしん)を去(すて)ざらむ

 

  ※「纓簪(えいしん)」の「簪」は、かんむりをとめるもの、「纓」はかんむりのヒモ。転じて高官の人物という意味。

 

   儒教を「鋼常」としてとらえ、道教を「変転」と規定し、仏教を「金仙一乗仏」とたたえます。

 

この対句がみごとですね。

春花と秋露、枝下と葉前、逝水と廻風、六塵と四徳、海と岑というふうに。しかもこの10行すべてに韻を踏んでいます。「心」「鍼」「林」「臨」「深」「禽」「沈」「音」「岑」「簪」――これが各行の最後の文字となり、ぼくらが現代の日本語で読んでも韻を合わせていることがすぐにわかります。

むかし習いおぼえた漢詩用語でいえば、この10字は「平声侵韻(ひょうしょうしんいん)」に属していて、じっさいの作詩技術からいっても、これをつくることは容易ではないでしょう。しかも、これは唱和の部分だけじゃなく、「三教指帰」全体がこうした韻を踏んで書かれているわけです。

ひるがえって、空海のような天才が生きた生き方を、そっくりまねることは愚かなことでしょうけれど、学ぶことはよいことです。むかしのことばでいえば「まねぶ」です。お師匠さんのいうことをまねることです。それが転じて現在の「学ぶ」になったわけで、それが学問というわけです。

生き抜く力「英知」とは? おそらく「まねぶ」ことでしょうね。

ンズを通して去を見る

偏光レンズをかけて川床を撮ってみる

 

 

マンションの裏庭でどんぐりを発見
 

 

しばし仮眠をしてから、人がたずねてきたので、書斎からウッドデッキに出て顔をだし、客人を招いた。つい先日までこのマンションに住んでいた人だ。彼は65歳。

「あれから早いものですなあ、もう1ヶ月たちましたよ」といっている。引っ越してから1ヶ月たったといっている。

「落ち着きましたか?」ときくと、

「まあ、まだ片付いていない部屋もあるけど、まあそのうちに」といって、たばこの煙をぷーっと吐いた。

「もう秋ですなあ」といっている。

「秋になって、もうだいぶたちますよ。先日、善光寺に行ったら、どこも秋でしたね」

ぼくの住んでいるマンションは、530坪の敷地のなかに林ととも建っていて、まるで手つかずの木々が高く伸びている。高さは13メートルの電線を超えている。電線を跨ぐようにして大きな枝が道路側に伸びている。さっきそこを歩き、写真を撮った。どんぐりが落ちていた。

「あれは、空師(そらし)に頼まないと、切ってくれないでしょうな」と彼はいっている。

「きょうはバカに天気がいいですなあ。絵でも描きたくなりますなあ」と彼はいっている。彼は器用に絵を描く。俳句もひねる。

「田中さんは、風景画は描きませんか?」

「ええ、人物画は描きますが、風景画は描きませんね」

「人物画のほうがむずかしいでしょう?」という。

「ぼくはある画家の先生にこっそりならったことがあります」といった。

「ほう、……」

そのときにならったのは、水彩の技法のひとつ「ウェット・オン・ウェット(wet on wet)」という技法だった。

これは、にじみとぼかしのことで、水の動きを利用して、色をどうにじませるか、どうぼかすか、――というのが、水彩画の基本であると、高橋俊景画伯の説明を聞いた。透明水彩で写実的な味を出すものいいけれど、にじみ、ぼかしのグラデーションを立体的に表現する技法は、二度とおなじ絵がつくれない、ある種偶然の絵ができるおもしろさがある。

「にじみのムラムラは、水彩画では味わいがあって、いいですなあ」と彼はいった。

「――つまり、紙と水の滴りでつくる芸術。それですね」

あまりゆっくりやっていると、絵の具は途中で乾いてしまう。

「なるほどそうですな」という。

「ある程度、紙が湿っているあいだに色を乗せ、にじませることが技法のようですよ」

色と色が混じりあい、そこに美しいグラデーションができあがるというわけだ。絵の具を塗ってから、あとから水を湿らせることもある。菱田春草が得意とする絵だ。水が薄くのびていく毛足が、美しいグラデーションをつくる。これは水彩画の基本であると先生はいった。

「ぼくは空を描くときは、たいていはじめに水で薄く塗る。それがある程度乾いたら、空の色を薄く塗る。すると、まだ湿っている部分ににじみができて、うまい具合に、グラデーションができることを覚えました」

ある種、偶然にできあがるタイミングというものがあるようだ。

――ぼくは若いころ、写真の現像をしていた経験から、印画紙を現像液から定着液に移すまえに、手のひらの温もりを利用して、強調したい映像をできるだけ強く出す方法を偶然にも見つけた。印画紙に写る像は、温めると、像の露出が強く出てくるという性質を持っている。温めたところ以外は、出てこない。

これを利用して、1枚の印画紙で、強調したい部分に手のひらを押し当てて像が浮き出るようにした。

特に明かるく写っている部分は、ハレーションを起こして、フィルム感光もじっさいに乳剤が濃くなっていて、ほとんど真っ黒に見える。これをシロクロに反転し、映像をポジティブにすると真っ白になる。像はたしかにぼんやりとだが、いくぶん写って見える。それを出す方法は、部分的に温めることだった。これを偶然に知った。

「それは、モノクロですな?」

「そう、モノクロです」

「――ところで、モノクロって、どういう意味ですかな? クロはわかるけど、なんでモノなんですかな?」と彼はきいた。

「ははははっ、写真をやってると、よく尋ねられましたよ。モノ・トーンのモノですよ。モノ・カルチャーとか、これは単作。浜松町から出ているモノ・レールとか、あれは1本のレール。だからモノなんですよ。モノ、パラ、トリってギリシア語でいうところの1、2、3のことですよ」

「ははーん、そういうわけ? むかし《ぴんからトリオ》ってありましたな。ピンはポルトガル語で最上とか1とか、ピンからキリまでといえば、1から10まで、となるんじゃないですか。ポルトガル語をすこしやったのでね」

「そうでしょうね。《月と6ペンス》といえば、お月さまは手に取ることのできないもので、世の中にひとつしかない。ところが6ペンスは、吹けば飛ぶようなニッケル硬貨で、価値のないもの? 《二十日鼠と人間》っていう小説がありましたね。似ていてちょっと意味が違うとおもうけど、まあ《生きとし生けるもの》という意味なんですが、その成句を、日本の翻訳者たちは、中身まで翻訳してしまったわけです。《生きとし生けるもの》なんて、だれもいわない」

「――さっきのクロっていうのは、ギリシア語ですか? 色の黒だとおもってましたよ」

「クロっていうのは、クローム、つまり乳剤のことですよ。モノクローム、単一乳剤。カラーじゃないというわけです」

これと似たような現象が、水彩画にもあるとおもっている。

写真では、赤の絵の具を塗った上側の部分は「赤」になっているが、この赤という色は、分解すると、赤100パーセントと黄色100パーセントを掛け合わしてできた色である。赤という色のなかに、黄色があるのだ。水を垂らして赤色の端を伸ばすと、ほとんど黄色だけになる。赤の顔料が落ちてくるからだろう。――つまり、色は分解できるということだ。

印刷用語では、これを「色分解」といっている。4色の色をいろいろ組み合わせてカラーをつくっているからだ。その基本の4色とは、黄色、赤、青、墨の4つである。黄色と青を掛け合わせると、グリーンになる。それに赤50パーセントを加えると紫になる。こういう色の特長を掴むことが水彩画にも求められるだろう。光の3原色は、――赤、青、緑。

光は混ぜ合わせると「白」になる。ところが絵の具というのはまったくぎゃくに「黒」になる。濁った色になる。どんな色も、混ぜれば混ぜるほど黒く濁る。

モネは、この問題をどう解決したのだろう? 

彼はこんな方法を考えた。――絵の具をできるだけパレットでは混ぜないで、カンヴァスの上に置いていく。べったりと塗らない。「色を置く」という感覚だ。すると絵の具は濁らない。そのかわり、それを見る人の頭になかで勝手に混ぜてくれる。それをおもいついた画家なのだ。

油彩はほとんど色を載せるので、いちど塗ったあとから色を解くということはしない。ただし、解くオイルはたいていはテレピン油だが、たいがい、あとでキャンバスの上から色を削り落とす。ところが菱田春草は、いちど塗った面に油を湿らせた布を当てて色を消し、そうやって木漏れ日を描いている。光はどこも丸い輪郭を描く。

むかし、写真をやっていたとき、ぼくはいろいろなフィルターを持って歩いていた。風景を見ながら、色の入ったフィルター越しに風景を眺める。あっと驚くようなインスピレーションを得ることがある。

カメラレンズに装着するフィルターは、手で持って歩くというわけにはいかないけれど、ゼラチン紙でできた薄いペラペラのフィルターを何枚も持って歩くことはできる。ポケットに入れて。――出会った銀座のショーウインドーのなかに、秋の季節を感じたら、すかさず秋色のフィルターを取り出して眺めてみる。するとどうだろう。たちまち秋色に見えてくるじゃないか。人の顔まで秋色になる。こうしたことはあるとき、偶然におもいつくものらしい。

ある日、橋の欄干から下を流れる川を見ていて、流れの風景を写真に切り取りたいとおもったことがある。ニコンF2フォトミックの標準レンズを、32ミリ~82ミリのズームレンズに取り替えて覗いて見た。すると、川床の風景が大きく拡大されて写って見える。ゆらゆら水が流れるなかに、川床のきらめきがちゃんと写って見えるじゃないか。そこで、川の表面のきらきらを消すために偏光レンズを装着した。

そして撮影するとき、ぼくは薄めのアイ色のフィルターをかけた。そして何枚も撮った。1コマに水しか写っていない。だが、よーく見ると、川床が見え、そこに人の足跡が写っている。川床には石ころが散乱していて、ほとんどカビかコケのようなもので覆われている。

それをもっとリアルに撮りたくなり、レンズにさらに偏光フィルターをかけ、少し斜めに構えて川面に映る反射光を消して撮ってみた。水面のきらきらがなくなり、水のなかで撮ったみたいにゆらめいている川床が、もっとくっきりと見えるじゃないか。水に反射する光線を、偏光レンズとフィルターがカットしたためだった。

その写真ができあがり、トリミングするとき、ぼくはなぜか、後期印象派のセザンヌの絵のように見えたものだった。

「そういうもんですかなあ」と彼はいった。

「むかしが懐かしいですよ」とぼくはいった。

タドリの

 

ぼくらが漫然と過去を振り返るとき、いつも、現在時制でものごとを考えてしまう。過去への記憶の連鎖が、いま反復と再生をくりかえすのだけれど、ふしぎなことに、イメージだけはどんどん遠ざかる。

たとえば、「先祖返り」というのは、植物のばあい、交配により品種改良が加えられたものを栽培しているとき、何代か前の親株がもっていた遺伝子の形質がとつぜん子孫の個体に現れるという現象をいう。じぶんの場合、田中源次郎というじいさんの形質を受けて、とつぜん孫であるじぶんにあらわれる現象をいう。

今朝は雨が降って、庭先に転がっている重い大きな石のてっぺんに、だれかが苦労して刳()りぬいたシンク状の大きなくぼみがあって、雨が降るたびにそこが海のように満ちる。ときどき木の葉が散って、ぷかぷか水面に浮かんでいたりする。夜が明け染めるころ、小鳥がやってきて、水を飲んでいたかもしれない。

ぼくはそういうとき、ふと「先祖返り(atavism)」ということばをおもい出すのである。

田中源次郎というじいさんが、北海道北竜村の恵岱別(えたいべつ)に居をかまえたときのことをおもい出す。父には受け継がれなかったじいさんの形質が、孫のじぶんの眉毛に憎々しくあらわれてきたと実感するときだ。じぶんが60歳をこえるころ、きょくたんにあらわれてきた。

じぶんはおもう。

時は遺伝子の塩基配列みたいに、つながっているのだと。それは因果的で、ときどき断絶して、非連続性の記憶の欠片(かけら)みたいだが、あらわれるときは突然にあらわれる。

森鴎外は「青年」に書いている。

「夜の思想から見ると昼の思想から見るとで同一の事相が別様の面目を呈して來る」と。まことに、そのとおりだとおもった。

いまからむかしを振り返ることは容易だが、映画のスクリーンを見るようにして振り返ることはできない。現実や真実が抜け落ちるからである。

まして、当人にとっては、腹立たしい過去でもあり、悔恨(かいこん)に満ちた過去でもあるからだ。天涯万里に想いを馳せて、人はつながっているのだ! と思う。そうでなければ、ひとり孤絶していては、生きられない世界なのだ。

明治26年5月17日。この日は、北海道に根をおろした記念の日となった。

そのころ、源次郎じいさん一家は、田畑を開墾し、じゃがいもとトーモロコシを食べ、ときにはカラス麦をドーナツパンにして食べていた。

高松にいた若いころは、じゃがいも栽培は成功し、じゃがいもの育成にはみんなは目を見張ったものだ。

品種改良にも精を出し、その体験が北海道の人跡未踏の農場に受け継がれた。

北海道の農家でも、そのころ白米はよほどのことがないかぎり、食べられなかった。病気をした者だけが小粥(おかゆ)にして食べていた。

27歳の吉植庄一郎が団長として千葉県・埜原村(やはらむら)から北海道にやってきたとき、食べるものは、いつもじゃがいもだった。運がよければ、トーモロコシにありつけた。米づくりをおこなう農業経営は、全員が、明治29年に設立された合資会社培本社に所属し、生活は給料によってまかなわれた。

草創のころの会社では、クラーク博士の率いる札幌農学校の校訓をまもり、社員家族は、酒もたばこも禁じられた。

会社組織にした理由は、全員がこころをひとつにして、出資することが義務づけられ、金のある者は金で出資し、金のない者は労働出資をし、労働を投資して見返りを得るという、人びとのインセンティブの高い組織をつくって、毎月、給料を支給した。

このような北海道入植者は、北竜村の人びとをのぞいて、どこにもなかった。わずかに、東北の南部藩がサムライの地位を捨てて、大挙して北海道に創設した伊達市の砂糖工場村が先行していた。

吉植庄一郎は、行政の援護に頼らない伊達市の取り組みを大いに参考にしていた。彼らの星雲の志の高さがしのばれる。

まず、北海道から払い下げを受けた50万坪の土地は、培本社の資産として発足した。

その「総則」の第1条には、

「本社は培本社と称し同志の社員により成立す」と書かれ、第2条は、「本社は北海道石狩国雨竜郡雨竜村貸下地五十萬坪を開墾し混同農業を経営するを以て目的とす。但し総会の決議を以て補助業として商店又は工場を設けることあるべし」と書かれている。

第6条は、「本社資本金は金一萬円とし社員に於て金員又は労力を以て分担出資するものとす」と書かれている。

社則はきびしいものだったが、発足まもないころ、札幌農学校から人が視察に訪れた。視察におとずれた人びとは、恵岱別川を渡る橋がなく、渡し場にはそまつな独木舟があるのみで、農民が舟をあやつって彼らを渡した。

作業は、事業計画にそっておこなわれ、週6日働き、日曜日は休んだ。培本社草創のころは、札幌農学校の専門家である総勢70人の教授陣の協力を得ていた。

農地の開拓はしばらくはオランダ農法がメインだったが、しばらくして、アメリカ農法が入ってきて、北海道の北の国は、少しは米開拓時代の文化をそろえることができた。ホヤ付きランプはアメリカから入ってきた。トタンはオランダから入った。社長の吉植庄一郎は、若い社員、家族の教育を重視し、毎日1時間の割で、講話をおこなった。

一日の作業がおわると、夕食を全員でとり、「反省の時間」をもうけた。

開墾がすすみ、事業計画どおりにすすむと、功労のあった者には、事業年度末には褒賞をおこなった。

ラテン語のふるい諺に、「勤勉なる農夫は、その果実を見ることのない木を植える」というのがある。彼らは、文字通りの、強風が吹く川岸には防風林をつくり、家の周囲にはりんごの木を植えて、気温零下20度という北の寒さを防いだ。大きな実りをもたらすのは、つぎの時代を築く若い者たちだけである。

第一次入植者たちは、人跡未踏の原生林のなかで、まず道をつくり、川には橋をかけ、家を建て、村づくりのインフラ事業からはじめなければならなかった。まず道をつくることで、モノ、金、人、情報が迅速にすすむことを最優先にした。それは、想像を絶するほどの開拓農民の苦労である。

農民らが手にする武器は、最初は馬、のこぎり、斧、スコップの類だけだった。それが彼らの農具のすべてであった。

さらには、用水路や集会所、学校、診療所、鉄道にいたるまで、将来へのグランドデザインがおこなわれ、培本社の事業は、文字通りの村づくりの長短期のインフラ事業の必要性に直面した。

そのころは、まだアメリカ農法や、オランダ土木、農具は入ってきたばかりで、札幌農学校の指導が待たれた。馬は通常は2頭引き。千葉県からやってきた人びとは、馬を見るのもはじめてだった。

アメリカから田畑を耕すプラオが入ってきたのは、ずっとのちのことだった。目指すは50万坪である。気後れするほど壮大な事業だった。

雨も降れば雪も降る。北海道の冬をどうやって乗り越えるか。

千葉の埜原村(やはらむら)からやってきた人びとにとっては、すべてが初体験だった。家畜らを育てるのも、子どもたちを育てるのも、難儀の連続だったろう。

――みんなは、《埜原》と書いて「やわら」と発音していた。だから、北海道に根を下ろしたとき「和(やわら)」と命名されたのは当然だった。みんなで、北海道に第二のふるさとを創設したのだった。

北海道史が語る植民政策は、さまざまな失敗や、やりなおしがおこなわれ、開拓行政は、ときに頓挫した。

クラーク博士は北海道開拓のプランナーでもあった。

米マサチューセッツのアマースト農科大学の学長をしていたころ、彼は西部開拓を例にとった北海道開拓を研究していた。だが、民間人は、農兵である屯田兵のようにはいかなかった。屯田兵は国の指令でうごく。農兵は民間人の指令でうごく。つねに両者の確執が互いを疎外した。

それでも、北竜村の人びとは、自費自賄の志があり、他の移民たちとちがって、特別の行政支援を受けることなく果敢に事業に立ち向かった。

まず馬をあつかったことのない者ばかりだったので、はじめは、プラオをつけて3頭引きの馬を御する技術から学んだ。

そしてカルテペーターと称する種まき機をアメリカから導入した。といっても、まだ水田ではなく、陸稲栽培だった。

当時は、イネの熱帯ジャポニカ系の限界線は、本州の北端、青森が限界とされていた。中国では7000年前に河姆渡(かぼと)遺跡まで到達していたが、北海道は緯度がもっと高く、寒かった。

だが、吉植庄一郎の考えのなかには、北海道をわが国の穀倉地帯にして、国の自給力をつけるための先鞭にしたいという強い志があった。

だから、のちに、さまざまな農機具も積極的に取り入れ、オランダ農法だけでなく、より優れたアメリカ農法も取り入れると、パワー・マシンの威力で田畑の開墾(かいこん)をいっきょにすすんだ。

アメリカ渡来の農具は、すべて英語発音で名付けられた。

じゃがいもは、「ごしょいも」といわれ、1株で5升も獲れるようになったのはほんとうである。これらは、田中源次郎じいさんの功績である。小豆は肥沃な土地柄を証明するほどの豊作になり、とくに菜っ葉類などの葉物、豆類はよくできた。やがて稲、黍(きび)、麦類はゴールドの穂をなびかせ、亜麻の実もよく成長した。

作物が想像以上にとれ、できすぎを抑えるため、過リン酸石灰をまいて、出荷調整をおこなった。ほとんど無肥料栽培がつづいたと、資料には書かれている。それにしても、こんなことがずっとつづくはずはない。吉植庄一郎はひとり考えた。基本肥料である窒素、リン酸、カリ以外に、石灰の必要性が大きくふくらんだ。

吉植庄一郎社長は、近い将来を憂慮し、石灰を必要とするときが必ずやってくると考えた。だれもがそうおもった。

そして社長は、この機に臨み変に応じて南米のチリに、世界最高の「チリ硝石」をもとめる交渉をすすめたのだった。

彼は国をあてにせず、直輸入することを考えていた。明治30年代のことである。そのころは、まだ稲作は本格的ではなかった。水田形式ではなく、まだ陸稲の段階だった。それにしても、いつまでも無肥料栽培というわけにはいかない。

イネの栽培をもくろむために、札幌農学校の研究者を呼んで、いっしょに研究をすすめたこともあった。稲作に成功するまでは、米は本州からの移入に頼っていた。

北海道の農家の納屋が、オランダ流のダッチコロニー風の大きな納屋に変貌し、北海道のあちこちにできて、建てる工期も日本本来の軸組工法とはちがって、現在のツーバイ法のような手軽さがあった。日本の従来からある軸組工法では工期がかかりすぎるため、みんなは、オランダの納屋を建てた。それ以来、北海道の田園風景は、オランダの風景にすっかり変わった。

これには柱がなく、全体を壁で支えるので、北米のツーバイフォー工法(別名、プラットホーム工法)と似ていた。

屯田兵は国から給料が支給されていて、米は自由に食べられたが、開拓農民の口には入らなかった。というより、米はクスリなみに高価な主食だった。

彼らの食事は、朝は麦、トーモロコシ、小豆混合食、みそ汁。昼はおなじ。夕食は、じゃがいもと、くず米・黍の混合の小粥、それに野菜の塩煮だった。

しょう油、砂糖はあるにはあったが、高価で、めったに使えなかった。

ときには川ざかなを釣ってきて、焼いて食べていたが、それは特別の日で、赤ん坊が生まれたときなど、祝いの膳として出された。当時の生活を描いた加藤愛夫の小説「開拓」、「イタドリの道」のなかにくわしく描写されている。食卓は、このようなものだった。それには、ぼたもちの話も出てくる。

「お砂糖なのよ、これで明日、ぼたもちをつくることになったの」という会話がある。とうじの砂糖は、「玉砂糖」といって、土くれのように黒い玉状になったヤツだった。むかしは、じぶんもその玉砂糖というものを食べたことがある。キッチンに砂糖箱が置かれ、きびしく管理されていた。それまで、こっそり玉砂糖を食べる者がいて、係りの女性が箱をのぞいたときは、空っぽになっていたという。吉植社長に報告すると、

「これからは、あなたが管理をしなさい」という。砂糖など、口に入れたことのない者たちには、とびっきりの嗜好品になったらしい。

そのころ、会社では暖房は薪ストーブを使っていたが、一般家庭にはまだなかった。玄関の入口に、大きな炉がしつらえられ、割った薪(まき)を焚(た)いて暖をとった。料理の炉釜をかねていた。

夏を迎えるころになると、ふきのとうなど、山菜が豊富にとれた。大きな釜で炊くと、豚やニワトリの餌にもなった。ストーブが本格的にお目見えしたのは、ようやく大正時代になってからだった。とうぜん電気などない。灯油をもやすホヤつきランプがほとんどだった。

これも、アメリカから輸入したもので、ガラスやストーブが入ってくると、家にはガラス窓が入り、屋根にはオランダから輸入されたトタンで葺()かれた。北海道に瓦職人がいなかったので、多くの屋根はトタンで葺かれた。

着るものは、毛織物などはまったくなかった。みんな木綿の着物で、シャツも木綿のネル製のものは農民には上等すぎた。メリヤスもなければ、洋服など論外だった。

子供たちは、小学生ならツマゴと呼ばれるわら靴を履き、防寒靴と呼ばれたラシャの靴は、ようやっと大正時代になってから履かれるようになった。寒いときは、みんな赤いゲットーを肩から羽織り、マントがわりにした。

女性はカクマキを羽織った。冬の移動には馬そりを使った。人びとのつくった道に、やがてイタドリが群生し、一幅の絵のような季節の風景になった。

吉植社長はそのころ、滝川から旭川にいたる運送業の経営に乗りだし、培本社の事業として、冬場、農閑期経営の多角化をおしすすめ、事業収益の拡大をはかった。

まだ鉄道がなかったので、運送業が軌道にのると、農産物を輸送することもでき、市場へのデリバリーは一段とすすんだ。

明治32年を皮切りに、寺小屋での学校ではなく、本格的な小学校がつくられ、真竜小学校、碧水小学校、美葉牛教育所、恵岱別の公立教育所、竜西の私立教育所などが開設され、明治43年ごろにはいずれも公立の認可を受けた。

明治21年にヨーロッパ留学から帰朝した伯爵平田東助、子爵品川弥次郎らによって、産業組合組織の必要性を認識し、明治30年に産業組合法が成立すると、北海道における産業組合の創設が説かれた。板谷農場産業組合を皮切りに、北竜村の農業組合が実現にむけて大きくスタートした。

創設に尽力したのは北正清だった。

そのころは、村の272戸の農家をもって創設されたのを機に、どんどんつくられていった。

北海道の農業経営は、このように多難のスタートを切ったが、吉植庄一郎の描いた「和(埜原やはら=やわら)」構想は、実りある世界を実現したのである。――21世紀に入り、すでにこの物語から120年が過ぎだが、1世紀100年という単位は、最も自然でかつ具体的な単位であり、北海道人の開拓精神を培うことができたのも、最初にタネを蒔()いた、このような人びとの戦いの日々があったからである。

ルテの手記」のように、

地球の中心たるの眠るパリで

 

こんにちは。

人生65歳からは、たいていの人は、だれでも黄金の自由を手に入れることができます。そのかわり、からだの機能はすっかり衰えてきます。機能が衰えてくると、ふつうの人は、思考まで衰え、しまいには停止するらしいのです。そんなことをする必要は、すこしもありません。

かりに、からだをベッドにしばられていても、思考は、いつも自由であるべきなのです。この考えに賛同できますか?

「――おれはあいつらにいおう。見ろ! おまえのからだを見ろ! 肩は傾いていて、脚はねじれ、足はむくんでいる。そんなひどい仕事をして、いったいおまえ自身のためになったか? おまえ自身を台無しにしてまで、そんなに働く必要はないんだ。服を脱いで、おまえのからだを見てみろ、本来、生き生きとして美しくなければならないおまえが、醜く、死人も同然じゃないか。そしておれは、彼らに違う服を着せてやりたい。たとえぴったりした、明るい赤のズボンと、小さく短い白い上衣だ。赤いちゃんとしたズボンを履いているだけで、男というのは、一ヶ月で変わるんだ。ふたたび人間らしくなる。人間らしくだ! ……」

 

 

田中幸光

 

ぼくは、このくだりがとても好きです。

メラーズのことばは、まだつづきます。――D・H・ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」のいちばんいいところだとおもっています。ぼくは80歳を過ぎ、そんなセリフをいってみたくなります。だからといって、ぼくは日々、赤いズボンを履いているわけじゃありません。

これとはちがうけれど、リルケにあっては「誤算の総量」が、すべてに基づいて書かれているといった人がいます。スペンダーです。スティーブン・スペンダー(Stephen Spender 1909-1995年)は、イギリスの詩人・批評家です。

スペンダーとはおもしろい名前だなとおもいました。Spender、――「浪費家」のことかとおもったのです。

だから読んでみる気になりました。

母方にユダヤ系ドイツ人の血をひき、オクスフォード大学在学中から、W・H・オーデン、セシル・デイ・ルイス、ルイス・マクニースなどと交わり、共産主義者になったこともあります。その彼が、ドイツにおける彼の名声は「誤算の産物であった」と書かれています。

ところが、後世の人は、彼こそ正気だったと語っています。ドイツ人は軍神をあがめるようにして、リルケを読んだと伝えられています。

ドイツばかりか、日本もやがて軍神を讃美する時代がやってきました。「スティーヴン・スペンダー日記 1939-1983」(彩流社、2002年)は、そういう時代が描かれていて、おもしろいと思いました。

リルケほど誤解されている作家はいないかもしれません。

彼はゴッホとはちがった手紙の名手です。「書簡全集」(全6巻)が編まれたほどです。

そのなかでも知られているのは「若き詩人への手紙」でしょう。先日も、その話を書きました。詩の本質についていろいろとのべられています。

彼はパリで、バラのトゲが刺さって、白血病を悪化させて亡くなったのです。客死は詩人には最もふさわしい出来事です。墓碑銘にはむろん、リルケの自作の詩が彫られました。

 

 Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,

 Niemandes Schlaf zu sein unter soviel

 Lidern.

 おお薔薇、純粋な矛盾の花。

 花びらと花びらは幾重にもかさなって、目蓋のように。

 もはや誰の夢でもない堅いねむりを、

 ひしとつつんでいる、喜びよ。

 

――リルケは、幼いころから、娘がほしいとおもっていた母親に育てられました。すっかり女の子に見たてて育てられたのです。

名前は「ソフィ」と呼ばれ、髪をのばし、おもちゃの人形を与えられ、彼が11歳のとき、母親のおもちゃだったリルケは、こんどは父親の気まぐれの対象になったのです。

だから彼は、母親のおもちゃから、父親の希望に切り替えられ、セント・ポールテンの士官学校の士官候補生になったわけです。

リルケは、生涯でいちど結婚していますが、幸福な家庭を築けませんでした。

ある批評家は、妻を母親像に見立てて、彼女の機嫌をとることに辟易し、夫婦の暮らしはしぜんに消滅したようだと書かれた。そのいっぽう、彼に歓びを与えてくれる古城の貴婦人と出会い、家庭の外で、おもいのたけを手紙に書き、あたかもプルーストの部屋のキルクのクロス貼り模様みたいに、世間を隔離する役割をじゅうぶんに果たしたといわれています(スペンダー「夢を孕む単独者」深瀬基寛・村上至孝訳、筑摩書房刊、昭和31年)。

スペンダーは、その本の「リルケとエリオット論」のなかで、リルケについて、つぎのように書いています。

 

そのような背景を考慮すると、リルケの小説「マルテの手記」は、幼年時代のおとぎ話のような、閉じ込められたような個室の物語といえるかもしれないと。そのかわり、リルケは、多くの読者にこびる小説は書かなかったというのである。

ここに、リルケが女流彫刻家、のちの彼の妻となるクララ・ウェストホーフと、彼女の友人で画家のパウラ・ベッカーとはじめて出会ったときの描写がある。

 

あの茶色の目をまともに見ながら、クララの抱えたヒースの大きな花輪を持ち上げたまま、そこにすわっていると、彼女が花輪に曲げたヒースの小枝が、いかにも彫刻家らしい彼女の両手にこもった素朴で、敬虔な、力づよい光のように放射しているのを見た。このように、一人の少女のからだの力が、おのずからさしあげた両手に伝わってきた。すると、もう一人の少女のなつかしい顔が、いかにも謙虚で、凜とした甘美な感じをわたしに与えた。

 

まるでD・H・ロレンスのような描写です。

けれども、リルケのばあいは、すべて現実回避ばかりなのです。

スペンダーは、「リルケのただひとつの発展は、じつは彼の詩のなかにあった」と書いています。彼の書かれた手紙に見られる「誤った詩的発展」は、のちにほんものの詩として発展していったと書かれています。それはおどろくべきことなのだといいます。

リルケの緩慢な生活のなかで、気乗りしなかった孤絶の暮らしは、幼年時代から遮断されてきた自己のリアリティを、確実な経験のなかで醸成し、描かれていったと。

「わたしの母は、人が1杯のコーヒーでも飲むように、いつも祈っていた」といっています。彼はフソィという女の子の役割を演じるために育て上げられたばかりでなく、彼の洗礼名の「レネ」、――これはのちにライナーとあらためられたものだが、――「マリア」とは、男女いずれにも適用されるあいまいな名前でした。

ある日、士官学校のドイツ生まれの教官が、有名な詩人になっていたリルケに、「きみは、むかし士官学校で教えたレネ・マリーア・リルケだというのは、ほんとうかね?」と訊いたのです。

彼は即座には返事をせず、こみあげてくる怒りは数日におよび、遠くむかしに葬り去ったはずの過去の闇をおもい出させ、手紙を出すことさえためらったと書いています。――もしも自分が5年間の軍事教練のすべての記憶を否定し、抹殺しながらその後を生きてきたのだが、もしそうでもしなかったら、こんにちの自分は生きながらえてはいないでしょう、といっています。

リルケは、生まれ落ちるときから「レネ・マリーア・リルケ」として育てられ、女の子として可愛がられました。自由をしばられる外性要因とはちがって、リルケのばあいは、のがれることのできない内性要因としての呪縛でした。

こう見てくると、彼が書いた詩、「天使と人形!」と、「第4の悲歌」で叫ぶ意味が少しはわかってきそうです。

 

天使と人形。かくてやうやく演劇が在る。かくて、われらが存在するとき、たえず分割するものが一緒になる。

(「第4悲歌」、浅井眞男訳)

 

ここでうたわれていることばを読むと、きれっぱしの人形の実在が、じっさいのリアリティを超えて迫ってきそうです。

芸術とは人形のように、感情のない、それ自体のなかにけっして存在し得ないものです、といっています。自分の存在を主張するために詩を書いたけれど、その詩は、人形の布切れのようにはかなく、自分を投影していません。だとしたら、リルケの詩は、いったい何なのでしょうか。

たしかにいえることは、リルケの母がそうしたように、母のおもちゃとして生き、そのことが、のちのリルケを形づくっていったようにぼくには見えます。

彼はそれを「否定なき無辜(むこ)」といっています。

リルケにはふたつの持続した世界があり、いっぽうは母胎であり、またいっぽうは、その死なのだと。そこに書かれている「死」は、あたかも果実が実り、花を咲かせるような甘美な死であり、母胎と対をなしているように見えます。

「神よ、わたしなくして、あなたはどうして存在するのですか?」と書き、彼のいう存在には、「ひとつの全体」をあらわしていて、そこには生と死のふたつがあるというのです。

彼の主著「マルテの手記」における主人公、ほとんどリルケの分身ともいえるマルテ自身が、すっかり「不安の交響楽」に彩られているのは、そうした理由によります。

さて、わが国では、いまもリルケは読まれつづけています。

日本の読者も多少はリルケに興味をもち、彼の詩を読んだのでしょう。

それを論ずるスティーブン・スペンダーは、いくぶんD・H・ロレンスに傾く傾向をしめしつつ、マルテの悲しみをちゃんと真正面から捉えようとはしません。リルケの「マルテの手記」の冒頭は、パリと共に死ぬためにやってくるのだ、と書かれています。パリは文化の震源地であり、あわれなる地球の中心たる魂の眠る街、革命に殉じた多くの英霊たちの墓場なのだ、と。