レバンテの風が吹く和の道

 

 最近、デンマークのカーレン・ブリクセンが書いた「冬物語」のシーンをおもい出す。コペンハーゲンの北郊のルングステズルンというところに、カーレン・ブリクセンの生まれ育った家があるそうだ。

彼女はアフリカから帰国し、作家としてそこで生涯を送った。

「冬物語」といえば、もちろんシェイクスピアの「冬物語」のほうが知られている。冬の夜、暖炉で女たちがあつまって語って聞かせる話のことを「冬物語」としたようだが、そこで語られる話がじつに恐ろしいのである。

「冬は悲しいお話じゃなければ……(A sad tale's best for winter.)」と書かれている。

 冒頭の「少年水夫の物語」のなかに、バーク帆船シャーロッテ号に乗り込んだ少年の話が出てくる。マルセイユからアテネに向かう情景が描かれ、メインマストの上檣(じょうしょう)帆桁を見上げながら、彼は小鳥たちが帆木につかまって羽をやすめている鳥たちを見つめる。

 見ると、鳥たちが帆あげ索のゆるみに足をとられ、なんとかして逃れようと羽をばたばたさせている。こいつらも、生きることに懸命なのだ。この世では、だれでも他人をあてにせず、なんでも自力でやっていかねばならない。

少年は、それでもこの無言の死闘に一時間以上も見とれている。ツバメ、ウズラ、ムクドリ、ハヤブサ。……

マストのてっぺんにとまっているのはハヤブサだ。

 彼らは嵐のなかでも生きるために殺し合う。身を優位にするために安全なマストにとまる。生きるために殺し合っても、お互いに恨んでいるふうには少しも見えない。

「恨みっこなしだぜ!」といっているようだ。

 ぼくはこの物語は、人間のおこす戦争とはちがうなとおもう。戦争には恨みがともなう。

 大規模な塹壕戦がくり広げられた第1次世界大戦、そして第2次世界大戦は、ヨーロッパで相次いだユダヤ人虐殺、スターリンの大粛清、無差別爆撃や原爆に象徴される20世紀最大の戦争は、なによりも20世紀の「進歩の時代」を加速したという専門家の話に聴き惚れているうちに、いつの間にか戦争を正当化する風潮を鵜呑みにするようなった。それでアメリカは200回以上も戦争し、傷だらけになっても、大国の誇りをかろうじて保っている。

 いまその世紀を超えて、夏になったら、地球のあちこちから渡ってくるツバクロが、いま姿を消していることに無頓着で はいられない。ある人はいう。

「ツバメは、初夏の旅人さあ」

 今年はどうしたことか、まだツバメの姿が見えないという。

「何か、あったのかい?」ときいてみる。

 5月10日の愛鳥の日はもうとうに過ぎてしまったが、バードウィークにおもったことはそれだった。

 ある人はこういった。

「渡り鳥は世界を知っているんだ!」と。アリューシャン列島は渡り鳥の道である。

 かつての縄文人は、渡り鳥のルートをたどって、渡り鳥を見ながら移動していったにちがいないと。

 鳥も知っていたに違いない島伝いに行くのがもっとも安全なコースであることを――。戦前まで、千島列島は日本の領土だった。日本軍は千島列島の北端に海軍基地と飛行場を設け、本土防衛の最前線基地とした。太平洋戦争はハワイの真珠湾攻撃からはじまった。日本の空母艦隊が出撃拠点にしたのは、択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)だった。

 日本軍はさらに、アメリカの領土であるアリューシャン列島のキスカ島、アッツ島を占領して守備隊を送り込んだ。アリューシャン列島をすすめばアラスカ本土に到達する。

 日本軍は、北太平洋の洋上に弧を描いて連なるアリューシャン列島、千島列島を島伝いにたどる作戦を敷いたのである。近 代戦を見てもそうなのだから、縄文人がアメリカ大陸への移動ルートを、ベーリング海ルートを取って移動していった可能性は、かなりの確率であたっているのではないかとおもわれる。

 その道は、渡り鳥の道でもある。

 しかも現在より、海抜は100メートルから200メートルも低く、ところどころ陸が連なっていただろう。

 第2次世界大戦では、その道はやがて戦争の道になった。アメリカ大陸で、家の柱にホゾを刻む縄文人の足跡が発見されて四半世紀を過ぎた。

 

真ん中が久世光彦氏である

 

 英国人の抱く日本人論の感覚は、いったいどういうものか? ――年配のイギリス人は恐らく同年配の日本人を心底嫌っている。アメリカ人はベイブ・ルースの産んだ国で、アメリカ野球を有名にしたヒーローを生んだ国だった。ヒーローは日本にもやってきた。そして日米野球を戦って、誇り高き名誉の野球を有名にした。

 いっぽう、イギリス人は第2次世界大戦に兵士として戦った元日本兵を嫌っている。それは間違いない。だが、いまは年老いてしまって、日本人もイギリス人も、わが身はどうすることもできない切歯扼腕の悔しさを滲ませ、額に汗するばかりに年老いた。

 イギリスの人びとが抱く対日感情には、終戦から長い春秋時代を経てもトゲ立つものが依然として残った。平成10年に上皇ご夫妻――当時の天皇と皇后ご夫妻――が訪英なさったとき、歓迎パレードの沿道では日の丸の小旗が焼かれ、元捕虜の人びとが馬車列に背を向けて沿道に立ったりした。

その日の公式晩さん会のもようを伝えた記事には、こう書かれた。

上皇さまは、「戦争により人びとの受けた傷を思うとき、深い心の痛みを覚えます」と挨拶された。

エリザベス女王は「英国は、晴れの日(うわべ)だけでなく、本当の友人です」とのべられた。

今日あるのは、先の大戦で砲火を交えた両国の仲を、丹念に縫い合わせてきた皇室と王室の努力の交誼(こうぎ)の賜物である。国家連合「コモンウェルズ(英連邦)」では各国首脳と関係を築く女王の仕事ぶりが両国の「接着剤」とよばれたりした。

わが国にとって、恩も縁も浅からぬ女王の訃報が届いたとき、英国史上最長となる在位70年はまさに「国民への奉仕」という理想と、現実の差に想い悩んだ日々の長さではなかったかとおもわれる。

訃報が流れたとその日、ロンドンの夕空に2つの大きな虹がかかったという。

 昭和45年、――ぼくが28歳のとき、「よど号」乗っ取り事件と三島由紀夫割腹事件があった。ぼくは東京・新宿矢来町にあった㈱リビングデザインセンターに入社し、若手登用試験に合格し、初の取締役に就いていた。大学を出て4年目の夏だった。久世光彦の「歌が街を照らした時代」という著作を読んでいると、昭和の香りがいっぱいの街々が登場する。

 

 花曇りの朝、一人の男が茅葺き門を潜り、苔むした踏み石伝いに、急ぎ足に入ってくる。見覚えのある風貌なので、はて誰だったろうと思案しているうちに、唐桟(とうざん)の袷(あわせ)の上に広袖の半纏(はんてん)を引っ掛けた男の背中に、ちょっとそこらで見かけない凄味のある色気を感じて、、私は思い出した。

 (久世光彦「歌が街を照らした時代」より)

 

――と書かれている。

 あの、なかにし礼のだという。「あの」というのは、「色気」のことであると書かれている。

もしもそこに自分がいたなら、なかにし礼とはいかないが、そこそこの詩文を書いていたかも知れないのだ。そこは銀座。雨のなか、「銀巴里」から、ひょいと小走りにやってきて都電に飛び乗る人がいて、振り向きざまにぼくの肩に触れて、そのとき地面に落ちた譜面に書かれた文字を瞬間、読む。「なかにし礼」と書かれていた。

という具合の展開になれば、……

 当時日本では、観光目的の渡航が禁止されていたので、気軽に海外へ行くことはできなかった。渡航制限が解禁されたのは、翌年の1962年だった。学生仲間で何人か留学した。

当時、アメリカの情報がほとんどなかった。わずかにラジオのFM放送から流れてくる米軍の「Far East Network 」の情報と、英字新聞だけだった。当時は、ベトナム戦争前期にあたり、英字新聞は軍事用語で埋め尽くされた。

ぼくはアメリカの情報を知りたくてラジオを聴いた。

 早口でしゃべる米語を我慢して聴いた。すると、ジャズとか、ポピュラー音楽にまじって「ウエストサイド・ストーリー」の音楽が流れてきた。そして、レナード・バーンスタインの語りの入った音楽、「What is Jazz」が紹介され、さっそくそのレコード版を買い求めた。

 それがレナード・バーンスタインの音楽を、はじめて聴いた瞬間だった。先輩にjazz狂いがひとりいて、Jazzの話を朝から晩まで聴いた。植草甚一の本、野村あらゑびす(作家・野村胡堂)の「楽聖物語」(角川文庫)などを読んだ。それでも音楽のことはちっとも分からなかった。

 聴くにかぎる。――そう思って、銀座通りの2丁目にあった音楽喫茶「えちゅーど」へ毎日のように通った。そう、ほとんど毎日だった。

 おなじ2丁目にある銀座通りに面した音楽喫茶「ラ・ボエーム」へも通った。ここは偶然なことに、学割がきいた。

 コーヒー1杯が60円のところ30円で飲ませてくれた。

 ときどきピアノの生演奏が聴ける。それ以来、ピアノ曲が大好きになった。

 朝日がのぼると、ビルの麓(ふもと)のあちこちに強い影ができ、遠くから見ると、外濠川(そとぼりがわ)に沿った水にうかぶ船のような建物に見えた。なかでも有楽町の朝日新聞社の社屋はモダーンな建物の姿をしていた。

 昭和40年代まで、有楽町には、朝日、毎日、読売の三大新聞社があったため、ロンドンの新聞街にあやかって「日本のフリート・ストリートFleet Street」などと呼ばれたりした。そこはまさに、シティ・オブ・ロンドンの主要な道路のひとつに見えた。

 その読売新聞の朝刊婦人欄に、毎週コラムを書くことになるなんて、考えてもいなかったし、朝日新聞の日曜版に毎週コラムを書くことになることも夢想もしていなかった。それが大学を出て数年後に実現した。

 朝日新聞社から住宅情報雑誌が発刊されると、㈱リビングデザインセンターを代表してさっそくじぶんも加わったりした。住宅雑誌数本、ファッション誌「男子専科」「メンズクラブ」にレコードの紹介記事などを書かせてもらった。たぶん、そのころ将来、男子の服飾評論家となる出石尚三さんとのおつき合いで実現したのではないかとおもわれる。

 出石尚三さんとは、彼がデビューする前にすでにふたりは付き合っていたのだった。ぼくは、出石尚三さんと知り合う前に、彼の師匠であるファッションの大家・小林秀雄先生をすでに見知っていた。

 60年代に入って、ファッション界はアメリカのアイビーへとシフトした。その象徴となるのが、1965年に発刊された「TAKE IVY」という写真集だった。アメリカの東海岸の8校からなる名門私立大学を総称したアイビーリーグ校、アイビーリーガーのファッションは人気が出てきた。ぼくはそのころ、石津健介さんとよく会っていた。明治大学の先輩にあたる方だった。そのころだった。アイビーリーガーの大学といえば、なんといっても慶應義塾大学だったなとおもう。

 ぼくはいつも、銀座から自転車で晴海通りを突っ走り、三田の慶應義塾大学のキャンパスに出かけていった。そこにピアノの名手がいた。

 あの軽やかな慶応ボーイ、ヨット部の主将にして、戦後のジャズ界の最先端をゆくモダン派の巨匠だったし、昭和の天才ジャズピアニストは、31歳の若さで、目黒駅のホームから身を投げて自殺した。

何があったのだろうとおもう。

 その名のとおり、守安祥太郎は「風のように走りぬけて行った」音楽家だった。ぼくは、その伝説の男のことをずっと知らずにいた。新宿のピットインで仲間から守安祥太郎の話を聴くまでは。ぼくは彼と会ったことはなかった。中村八大が守安祥太郎にかわって、コンサートピアノのイントロを引き受けていた。ぼくはかつて、明大マンドリン倶楽部に所属し、中村八大の軽やかなピアノ演奏に聞き惚れていた。

 中村八大といえば、坂本九の「上を向いて歩こう」だろう。石原慎太郎の「太陽の季節」も戦後の時代を塗り替えた出来事だったなとおもう。

 ぼくは学生のころからクラシック音楽が格別好きだった。

 レコードを聴いてその記事を書くと、原稿料のほかに、LP判のレコードをいただけるのだ。それが欲しくて書いた。ぼくは27歳くらいから毎週、音楽漬けになっていた。なかでもピアノ音楽が大好きだった。

ぼくが朝日新聞社のちょっと奥まったところに建つ別館に足を踏み入れたのは、昭和37年の2月半ばだった。その外濠川(そとぼりがわ)はすでに埋め立てられ、「君の名は」で知られる数寄屋橋ももうなかった。

 目の前にあったのは日劇だった。「これが日劇かあ」とおもった。

 有楽町と朝日新聞社のあいだには、戦後のマーケットのような商店街がにぎわっていて、そこは学生らにも楽しいところだった。なぜなら、ベトナム戦争の前期だったため、そこに米海兵隊員も大勢やってきて、まさにロンドンのような街角に見えた。

 近くのジュークボックスが鳴りはじめると、若者たちがあつまってきて路上で踊りはじめた。日本人の女の子らも踊っていた。背の高いセーラー服を着た黒人兵らも、彼女たちの腰に長い腕をまわして、音楽に合わせてスイングしていた。

彼らのしゃべることばは、聞いたこともない米語だった。

有楽町界隈(かいわい)には、映画館があり、デパートがあり、三大新聞があったころの駅前には、「すし横丁」という飲食店街ができていた。

 その「すし横丁」が解体されて建てられたのが、交通会館だった。

 じぶんがはじめて有楽町に足を踏み入れたのは、まさに交通会館が建築中のころだった。ビヤ・レストラン「レバンテ」――レバンテ (Levante 風) というのは、地中海西部に吹きつける東風のことで、それも移転してしまった。

三大新聞も、やがて有楽町から姿を消し、毎日は竹橋へ、読売は大手町へ移転し、朝日だけまだ有楽町の一角を占めていた。有楽町駅の高架下、そこは「焼鳥横丁」と呼ばれ、赤ちょうちんが並んでいた。夜になると、そこは学生らも姿をあらわす。

激変する東京の街だが、有楽町のあたりはむかしから少しも変った印象がない。いまもって、その姿をとどめている。いまでもぼくの足は、しぜんと交通会館のほうに足が向いてしまう。絵画のギャラリーが多いのも楽しいし、物産館が多いのもうれしい。ヨーコに「馬油」をよく頼まれる。有楽町と馬油。――まあ、わが家ではそう呼んでいる。

 朝日新聞社別館の2階のオフィスは広く、活気に満ちていた。ぼくがそういう朝日新聞社に関係する仕事に就くことに、なんとなく誇らしいような気分になった。

 「北海道から、よくいらっしゃいましたね。疲れたでしょう」といって、お茶をすすめられた。ほんとうは珈琲を飲みたかったが、それはいえない。40歳ぐらいの男は、ぼくが先に送った履歴書を広げ、「北海道の旭川には知り合いがおりまして、……」とかなんとかいいはじめた。「そこには、第7師団がありまして、……」とぼくがいうと、

「ああ、関東軍とともに、戦った……その第7師団ですか」といって男は感嘆したような顔をして、茶を飲んだ。ぼくの顔を見ながら、彼は戦後の話をした。

 「吉田義男さんという、東大法科を出られて、朝日新聞の記者活動をなさっていた方です。きょうお会いできます。もうすぐ、係の方がこられますから、彼といっしょに銀座の店に行ってください。えーとですね、……そこは銀座1丁目で、昭和通りの、……」といいはじめた。

 じぶんの勤務先である朝日新聞尾張町専売所というところに勤務する話である。ということは、ぼくは面接には合格したということかなあ、……とひとり考えていた。やがて30歳くらいの、星野竜男さんという人があらわれ、有楽町駅で夜具を運び出すと軽三輪車の荷台に積み入れ、「店は、すぐですから」と星野さんはいった。

 運転席のとなりの助手席に腰かけると、都心を迂回して、晴海通りから昭和通りに入って、東銀座の角を新富町方面に向かって走らせた。寮にはすぐに着いた。その日からじぶんは、銀座の寮生活者となるのだ、とおもった。

それからじぶんは、駿河台の明治大学文学部を受験し、合格した。

一校しか受けなかった。合格する自信があった。

 ぼくは吉田義男氏に会うと、彼の口から、関東大震災後の「東京復興」ということばが飛び出した。その建物は、まさに関東大震災後の東京復興のなか、朝日新聞社の社屋は、昭和2年に建てられたという建物だった。

吉田義男さんにお目にかかり、東大では柔道5段だったという話を聴いた。

「きみは何かスポーツは?」ときかれた。

「じぶんは、スキーをやります」といった。

 そして、ぼくは、北海道のいなかの養鶏事業でできた特製のたまごをお土産に持ってきた。父が木の特製箱をつくって、もみ殻を入れ、たまごを何段にも入れられるようにしつらえてくれていた。背負ってきた箱ごと差し上げたら、社長の吉田義男さんは立ち上がり、びっくりしたみたいに、「これをきみが、北海道から運んできたのかね? これ、全部たまごなのかね?」

「はい、全部、ニワトリのたまごです。200個くらいあります」といった。

「はい、寮の皆さんにも、食べてもらいたくて、……」とつけ足した。

「きみ、きみは将来、大物になるよ、うははははっ」といって吉田義男さんは大きく笑った。その翌日から、じぶんは銀座の区域をあてがわれ、新聞配達をすることになった。

北海道のいなかでは、高校生のころ、アルバイトで郵便配達をしていた。冬はスキーを履いて配った。長距離電報配達は、馬をひき連れて冬の夜道を歩いた。じぶんは、こういう仕事はいっこうに平気だった。

5、6時間のひとり旅はかっこうの勉強時間になった。石川啄木の歌500首はこうして諳(そら)んじた。声をだして覚えた歌は、いまでもすべて記憶している。

7月のに乗って

 

平成11年11月11日は、水曜日だった。

ぼくがずっと注目していたのは、ENG(Electric News Gathering)と呼ばれる小型VTRの登場だった。これを使えばマイクロ伝送ができて、編集もかんたんにできて、締め切りのぎりぎりまで取材が可能になるということだった。

そのため、この小型VTRへの切り換えが急がれた。これを使って、これまでのようにカット割りを決めたフィルム・ドキュメンタリーのつくり方とはまったくちがった映像が撮れるようになった。

しかも、フィルムの一回の撮影時間は3分だが、小型VTRの場合は20分の撮影が可能となった。

ぼくはちょっとふるい航空機墜落事故を思い出した。

1985年、日航ジャンボ機が御巣鷹山(おすたかやま)に激突し、520人が死亡したが、川上慶子さんら奇蹟的な生存者の救出場面がテレビで伝えられると、全国民が茶の間のテレビにクギづけになった。

また、豊田商事の永野一男会長が刺殺された事件では、殺人現場を放送することの是非論や、テレビマンのモラルを問う論争が巻き起こった。これらは小型VTRの威力を示す結果ともなったが、いっぽうではモラルの問題をあらためて浮上させることにもなった。

しかし、時代はもっとすすんだ。

テレビは音声と映像をリアルタイムで現場の模様を茶の間に送りこむ「生中継」こそが、見せ場、最大の売りものとなった。――ぼくは、テレビ朝日の報道生番組を見ていて、スタンバイ映像のちょい出しはやめ、現場中心に、出すなら徹底的に出す現場主義を期待していた。

しかも、パラボラアンテナを背負って山に登ったのは、NHKとテレ朝だけだった。現場から直接本局に伝送することがだきた。他局は、山を下りて通信網に接続しなければ送ることができないのだ。

いっぽう、本局内の地下1階にある放送機能を一手に担うコントロール・センター、そして当時は、Aスタジオと直結した通称Aサブと呼ばれる地下2階にある指令塔A副調整室が、生放送システムの心臓部だった。

サブのなかには20台くらいのテレビモニターがならび、さまざまな映像が映しだされている。

サブの入口から階段を降りたところにあるメイン1・スタジオが、通称Aスタと呼ばれているAスタジオである。

そこから出演者を映すカメラがそれぞれちがったショットを映しだしている。

一階にある報道スタジオからはニュースの読みを待って待機しているアナウンサーの映像や、これから中継することになっている地方局の映像などが、すべてサブのテレビモニターに映しだされている。

番組がスタートすると、ディレクターの指示で、スイッチャーがつぎつぎにこれらの映像を切り換えてゆき、全国の茶の間に送りだす仕組みになっている。

「本番、1分まえ。……」

タイムキーパーの秒読みがはじまった。

AスタジオにいるADたちが、オウム返しに大声で秒読みをはじめた。

サブとAスタジオとの連絡は、ヘッドフォンと口もとに小型マイクがついた通称インカムと呼ばれる小型機でむすばれている。サブに陣取るプロデューサー、デスク、ディレクターたちは、スタジオフロアのディレクターやADらがつけているインカムを通じて、出演者やカメラマンとつねに調整や指示をおこなっている。

「10秒まえ9、8、7、……」

キャスターら出演者3人ないし4人が座っている250平方メートルほどのメイン・スタジオであるAスタジオは、このときばかりは一瞬静まりかえる。

タイムキーパーが告げる声だけが聞こえる。

「3秒まえ、2秒まえ、1秒まえ、……」そしてつぎは無言まま指で秒数を知らせ、スタートの合図「キュー」が振られた。

同時にAサブでは、ディレクターの指示でイントロのVTRのスイッチが押され、番組がスタートした。

「報道ステーション」のCG(コンピュータ・グラフィックス)の映像と音声が流れたあと、クレーンカメラをふくむ4台のカメラのうち、キャスターを映すメインカメラに赤ランプが灯った。

1998年のこの日は、つぎのようにしてはじまった。

 

「11月11日、水曜日、夜10時をまわりました。みなさんこんばんは。……」チャコールグレーのスーツに目立たないキャメルの柄のネクタイ姿のキャスターが、まずにこやかにあいさつした。

そしてこの日のヘッドライン・ニュースがはじまったが、10時17分、札幌の見佳から衝撃的なニュースがぼくの耳に入ったのである。ぼくはWOWOWの映画を録画し、この「報道ステーション」を見ていたときだった。

じぶんは、新聞の記事を読みながら、数日まえ見佳から入ったときの第一報の電話のようすを思い出していた。

見佳のただならない緊張した声がよみがえってきた。それは、音声だけのニュースだったけれど、これは、電話「テレ(遠い)=ホーン()」という名の、プライベートでリアルタイムな双方向メディアなのだ。

こうしたプライベート・ニュースは全国で何千万人という人びとによって、日々おこなわれているのだろう。

「お父さん、落ち着いて聞いてね」といっている。

……でね、お母さんがさっき交通事故に遭って、いま札幌の市立病院で手術中なの。わかる? それでね、お父さんにお願いがあるの。お父さん、帰って来て。いますぐ帰って来て。見佳待ってる! お母さんも待ってる! お母さん、身体がぐちゃぐちゃなの。生きられないかもしれない。胃が心臓の上に押しつぶされて。膵臓が破裂、左の肺も破裂、大腿部・骨盤が複雑骨折、……お父さん、きて! 見佳待ってる。見佳待ってる」

「お父さん、また何か考えてる」と、うしろで見佳がいった。

新聞を持ったまま、よそ見していた。

「かつ代おばさんに、オムツを買いにいってもらってるの」

「お兄ちゃんは、どうした?」

「きょう、京都にもどるといってた。……その北海道新聞、なつかしいでしょ。お父さん」

「そうだね。……あいつもう帰っちゃうのか」

「いま、いそがしいんだって」

「だれだって、いそがしいよ」

見佳は、毛布をめくってユキ子の足を揉みはじめた。

ユキ子は、きのうの手術で頭を剃っていた。女の髪がないのだ。陥没したところの頭蓋骨は復元したけれど、水がでれば、ふたたび開頭するかもしれない。頭は帽子のようにまるまる包帯されている。

「お父さん、お母さんが泣いてる!」と、見佳が立ち上がって、叫んだ。

「ほら、ね? お母さん、お母さん、起きて!」見佳は感動したみたいに叫んだ。

ユキ子の顔をのぞいたら、左の目から涙が流れ落ちていた。耳のほうまで流れている。

意識がもどったのかもしれない。

人間は最後まで聴覚だけは生き残るときいていたから、ユキ子は、とつぜん意識が戻り、目を開ける元気がないまま、じっと周囲の人の話をきいているのかもしれない。

じぶんはおなじフロアの奥まったところにある看護師詰め所にいって、田島看護師をつれ出した。ちょうどかつ代さんが、外からオムツの包みを抱えて帰ってきたところだった。

「ユキ子さん、ユキ子さーん、聞こえますか? 聞こえたら、手をにぎってくださーい。ユキ子さーん」

ユキ子は起きなかった。手もにぎらなかった。

「お譲さん、お母さんを呼んでみてください」見佳は、くりかえし呼んでみた。しばらくして田島看護師はいった。

「これは、ちがいますね。……これは、生理現象のひとつです。悲しくて泣いているわけじゃなく、嬉しくて泣いているわけでもありません。感情的に泣いているのじゃなくて、ただ、生理的に涙を出しているだけですね。生理的には生きているという証拠にはちがいありません」

見佳は、なーんだ、といったふうに田島看護婦のほうを見てから、

「でも、泣いてるみたいだね」といって、そこにいる親の顔を見た。

じぶんもそうおもった。かつ代さんが右の目をのぞきこんで、「こっちも少し泣いてるわ」といった。かつ代さんはタオルで涙を拭いてから、「いくら泣いてもいいですよ。好きなだけ泣きなさい」といった。

「なぜだかしらないけれど、みんなの会話をちゃんと盗み聞きしてるみたいだわね。ユキ子が聞いているように思えて……」と、かつ代さんはいった。

このまま意識が永遠にもどらなくて、脳死状態になったら、どうするか。

だれか見知らぬ人に臓器提供して、他人のからだのなかで生きかえる方法を決断しなければならないとしたら。――じぶんは、瞬間だが、ユキ子の顔を見ながら、そんなことを考えた。

ユキ子は自分の所有物を愛をもって喜捨(きしゃ)するようなタイプではない。見返りを欲しがるタイプだった。

いっぽう、自分のからだがダメならば、他人のからだのなかででも生きぬきたいという本能を持っているかもしれない。ユキ子は、宗教にこだわっているわけではないが、田中家にきてからは、神道を信じた。ユキ子の実家は、天理教である。

霊媒やお筆先(ふでさき)をまともに信じているわけではないけれど、じぶんが女ぐせが悪いと思ったユキ子は、退院後、いちどだけ霊媒師まがいのところにつれていったことがある。効果はなかった。彼女がもっとも嫌っているのは、キリスト教だった。

というより、じぶんが好むものは、すべて嫌っているようだ。じぶんがよく通っていた札幌北一条教会のことを、うわさで知っていたからでもある。名のしらない女性のクリスチャンから田中宛の手紙がとどくと、かならず自分も読んだ。

「主にありて……」

などと書いてあると、ぞっとするという。「この人は、だれなの? あなた、どの程度つき合っているの?」などといって、いぶかしそうに質問してくるのだ。いちどでも質問に答えると、つぎつぎに新しい質問をしてきた。

「これは何です」といって、女性からきた手紙を見せるのだ。

手紙の最後にある差出人の名前のうえに、「あなたのもの」という余計なことばが英語でつづられていた。これを訳してくださいというのだ。

ユキ子は、本能的にわかるらしい。

ここだけ英語で書いていたからだろう。いちどだけ、美佐子を招待したことがある。家族といっしょにレストランに出かけ、そこで食事をして楽しんだ。美佐子も楽しんでいた。

ユキ子は洋裁ができるので、会話はスカートかなにか、美佐子のために一枚つくろうという話になった。が、けっきょく、実現しなかった。夫を日曜日ごとに教会につれだす美佐子に嫉妬したのだ。「あなた、そんなに教会がいいんですか? あの女性のほうがいいんじゃありませんか?」というのだ。――口やかましい妻だったけれど、いま妻を失うのは、たまらない気分だった。

じぶんは、元気だったころのユキ子を思い出していた。

「お父さん、またなにか考えてる。こんどはなに?」

見佳が目のまえにコーヒー缶をかざして、にこっと笑ってきいた。

見佳はよく気がきく子だった。「シュークリームもあるけど、食べる?」ときいた。

「いま、お兄ちゃんのケータイに電話したら、千歳に向かってるところだって」

「そうか。……なにも話ができなかったな」

「峯田のおじさんが、きょう、きてくれるって」

「病院に?」

「そうじゃない? かつ代おばさんとどこかへいくみたいよ」

――ぼくはふたたび新聞に目を落とした。

東京のテレビスタジオを思い出し、アメリカのあるテレビマンがいっていた「テレビはシンドバッドの水晶玉である」という記事のことを思い出した。

『船乗りシンドバッドの冒険物語』では、シンドバッドが呪文をとなえると、世界のどんなところへも、自分のいきたいところ、見たいシーンをすぐさま映しだしてくれる魔法の水晶玉を持っているという。

水晶玉は、まさにテレビの役割を担っているというのだった。世界じゅうで起こっている国際ニュースを瞬時に映像と音声で伝えることができれば、それは画期的なニュースとなる。

それだけでなく、大事件や大きな政治問題が起きると、衛星回線をつないで、当事者同士を画面のなかに引きだしてきて、意見をたたかわせるというテレビ・ネットワークならではの報道企画が、以前にもましてかんたんに実現するようになったことに、じぶんは注目していた。

CNNニュースがテレビ朝日のチャンネルにいま流れているが、これを引っ張ってきたのは、「報道ステーション」の生みの親ともいうべき人物だった。発足してまもないアメリカ・アトランタのCNN本社を訪れたのは、1984年の秋だった。

当時のCNNはアメリカの三大ネットワークには、まだまだ相手にされてもいなかったときだ。

「生」のニュース映像がつぎつぎと送られてくるその迫力と同時性は、ニュース番組づくりを大いに刺激した。

これからは、肌で感じる「生」のニュースをつくる時代がやってくる!

CNNニュースは、ロスからオーストラリアのチャンネル7を経由してNBAテレビに流れている。

これはのちに、報道生番組「報道ステーション」の不振を吹き飛ばすきっかけになった。

世界じゅうの出来事が、衛星の足まわりで生中継することがかんたんにできるようになった。

湾岸戦争は世界のビッグニュースになったけれど、CNNの送りだす映像がこれほどテレビの生中継の威力を見せつけたことはなかった。

「シンドバッドの水晶玉」は、たしかに自分のいきたいところ、見たいところをすぐさま映しだしてくれる魔法の水晶玉とはなったけれど、じぶんの記憶を映しだしてくれる魔法のランプとはなってくれなかった。

■政治の季節になって考えること。――

もう一度問い直す「義」の話

白洲次郎

 

さいきん小関隆氏の近著「イギリス1960年代」(中公新書、2021年)という本を読んでいて、ああ、あの時代は懐かしいなとおもいました。それは、文字通りイギリス現代政治の軌跡を書いたもので、60年代はすでに往時茫々となってしまったけれど、ひさしぶりに、その時代の指導者たちの現代史に触れることができ、個人的には、最近はひどく感傷めいたものをおぼえました。

60年代の半ば、ぼくはじぶんの大学の学業をそっちのけにして、叔母からの多額の援助を受けて、何も知らないロンドンの地を訪れたのです。ウインストン・チャーチル、アントニー・イーデン、ハロルド・マックミラン、アレック・ダグラス=ヒューム、ハロルド・ウィルソン、そして少し飛んで、マーガレット・サッチャー、ジョン・メージャー、トニー・ブレアとつづく時代、近代政治のお手本となったイギリス政治から何を学ぶかを考えさせられました。

「田中、おもえには政治の話なんか、興味ないだろう?」とみんなはいいます。興味はないけれど、ブレア首相は、もともとは長髪をなびかせたハードロックバンドのボーカリストとして活躍し、ピッカピカのボーカルを歌っていて男だったけれど、どういう風の吹き回しか、紺のスーツに着替えて政治家に変身したのです。

いっぽうジョン・メージャー首相は、バスの車掌になることを夢見ていた青年だったけれど、面接会場に行くと、

「おまえは、背が高すぎる」

といって不採用になったのです。彼は16歳で学校を退学し、大学も出ていないサーカス芸人の息子でした。

それが、マーガレット・サッチャーのあとを継いで、堂々便々たる英国首相になったのです。47歳でした。

そのころのロンドンは、「怒れる若者たち(アングリ・ヤングメン)」の時代です。

開戦50周年の前後を見ると、エスタブリッシュメントへの敬譲が急速に失われました。チャーチルの死は、「ロバに率いられたライオン」と揶揄されました。

戦後15年ほどたった《昭和》という時代は、イギリスも日本も、文字通りの「豊かさの到来」とはいえなかったけれど、明らかに若者たちの時代だったいえます。大人の年齢になっても、自分たちの考え方はおろか、行動の仕方さえ変えない世代が史上はじめて姿を現しました。「親のようになりたくない!」という世代です。

「偉くなるなんて、つまらない!」とおもってしまう世代です。戦後のベビーブーマー世代がそうです。

さいきん明治外交史などを読んでいて、自分は自分らしくなり、国家は国家らしくなりたいという欲求が芽生える時代の足跡を見ることができます。以前書いたことのある「国語は国家なり」のつづきみたいですが、また別の見方もあり、きょうはその話を少し書いてみたいとおもいます。

 

白洲次郎とイギリス、――その話です。

白洲次郎のすばらしいところは、イギリスの歴史をちゃんと勉強しているところだろうとおもいます。これまでの英国史といえば、だいたいが王室を中心とした英国史だったように思いますが、白洲次郎は、独自の英国史を勉強していたようです。

イギリスの歴史がイギリス人の手によって書かれたのは、デヴィッド・ヒューム(David Hume、1711年-1776年)の「英国通史(The History of England 全6巻、1754-1762年)」がはじめてといわれています。

それまで、ちゃんとした英国史というのはないそうです。

ヒュームは、大学教授にもなれなかった哲学者ですが、その「英国通史」で、フランス革命を予言しています。それで名を上げたような学者なのですが、その本のなかで、「理性こそ、あてにならないものはない。政治的自由を体験しない者たちが、頭の中でこうすればいい政治ができるというプログラムを書いたことから、しばしば革命が起こる」といっています。

「理性こそ、あてにならないものはない」と。

ヒュームは、人間の理性を信用しなかったようです。「われわれが持っている自由をひとつでも具体的に実現する。これが政治である」といっています。

ヒュームは「自由」ということばをたびたび使っています。政権が失脚しても、財産を没収されない自由とか、首が飛ばない自由。私有権を法のもとで認め、「つくる法律」ではなく、「発見する法律」を目指したといわれています。「悪い合法」を発見し、見直し、改定をする。正義の基盤は、つねに「発見」であると唱えました。

イギリス議会は、王の横暴な権力行使を、行過ぎないように思量するための機関であるという意識が強く、「議会」は、王の見張り役のようなはたらきをしていますが、それが、いつの間にか立場が逆転し、議会が税法を決め、戦争を決議し、悪の合法を生んできました。

あのナチスにしても、議会による合法の上に成立したユダヤ人狩りです。

議会は、つねに国民の総意を代表し、そのときどきのやり方で、戦争を起こしたりします。王の勇み足を食い止める役割をもつ議会だったはずですが、議会が先導して悪の合法へと突き進みました。――それが人間の理性の真の姿であるとヒュームは考えたのです。

「法律で国民や王を縛るのではなく、法律で国益にかなった新たな開拓をするのだ」といっています。

そこで、白洲次郎のいう「民主主義」について、もう一度あらためて考えてみたいとおもいます。つらつら「民主主義って、何だろう?」とおもうことがあります。白洲次郎はいいます。近衛氏に対して、

「民意はときに凶暴をあらわします。……近衛さん、あなたが戦争反対者の立場をとることは、あなたの自由です。平和主義もけっこう、民主主義もけっこう。しかし、国民は軍部の台頭に恐れています。戦争には反対しないが、わが国の軍部を恐れています。国民は何をするか分からない。わたしはそれをいうのです。おのが主張は、国民に対してもっと明確にすべきです」

という場面がありました。このことばの裏には、

「民意って、何をするか分からない。民主主義って、何をするか分からない」という、白洲にとっては永遠の、先の見えない謎めいた命題があったのではないでしょうか。ポピュリズムの真の姿です。アメリカのトランプ大統領に代表される政治思想にもあらわれています。イギリスの民主主義は、だいたい3つの層に積み重ねられた民主主義だったようにおもいます。

 

 ①王権、

 ②議会、

 ③ジェントリー。

 

――イギリスでいわれる民主主義は、議会制民主主義のことをいい、民意は、ほんとうの民意ではなかった。税金を多く納めた人間が議会に選ばれ、税金の少ない大多数の人びとの民意はどこにも諮られる機会がなかった。二院内閣制による議会制民主主義は、てっとり早い政治システムをつくったけれども、国民の大多数の人びとの考えは、何ひとつ議会に諮られることなく重大な事態へと導かれました。

欧米の政治的理論には、理論としての出発点があります。

欧米の近代社会を構築する際の「理論の出発点」としたものの多くは、われわれ日本人には分かりにくいものです。分かるわけがありません。その筆頭にくるのが「自由」だからです。いま、その自由を否定する人は、世の中では少数派でしょう。

しかし、この「自由」は、どう控えめに見ても、積極的に賞賛すべきものではないと、ぼくにはおもわれます。戦後は事あるごとに「自由」が強調されてきました。憲法、教育基本法をはじめ、さまざまな法律にも基本的な人間の権利としての「自由」がうたわれました。

それをわが国では「人権」といっているわけですが、この「自由」という名の化け物みたいなもののおかけで、日本古来の道徳、日本人が長い年月にわたって培ってきた伝統が傷つけられていきました。

「自由」というのは、欧米がつくり上げたフィクションである、そうおもわれてなりません。もともと「自由」なんてなかった国から、もともと「自由」のあったわが国に持ち込まれた思想なのですから。

近代国家としての「自由」は、あくまでも権力に対して用いられる自由でじゅうぶんです。イギリスでいわれる「自由」は、強力な王権に対していわれる「自由」でしたし、権力に対する自由は、イギリス人ならばだれでも強く持っています。王権によっていためつけられてきた歴史が長かったからです。

議会制を生んだというのも、王権に対してものをいう議決機関として生まれました。嫌なやつをぶん殴ったりする自由、立ちしょうべんをする自由、愛人と夢のような暮らしをする自由、……。そういう自由は制限されていいのだという考えが、イギリスにはありました。

17世紀のイギリスの思想家トマス・ホッブス(観念論者)は、この自由を「自然権」と名づけ、万人に自由を与えたならば、万人の万人に対する闘争がはじまり、無秩序と野蛮と混沌の世界になると警告しました。

国家とは、人民が自由を放棄した状態をいうのだといっています。

また、つぎにあらわれたジョン・ロックは、「他人の自由な権利を侵害しない限りの自由」が必要であるといい、「自己生存にかかわる(勝手な)自由」は制限されました。

民主主義の根幹は、いうまでもなく主権在民、国民主権です。ロックが祖としても、最初に民主主義を実践した国はアメリカではないでしょうか。

主権在民。――しかし、これはほんとうにすばらしいことなんでしょうか? これには、「国民が成熟した判断を下す」という無言の信頼を寄せた理屈です。つねに国民の考えが「成熟している」ことを前提にした考えです。しかし、国民はつねにそうだったとはいえません。

第一次世界大戦はなぜ起きたのでしょう? 

オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子だったフェルディナンドがサラエボで、セルビア人によって暗殺されました。これに大衆が熱狂し、ブダペストでは「セルビアの豚に死を」と叫ばれ、ウィーンでは新聞が「強盗と人殺しのセルビア」と書きたてました。セルビア政府のいかなる関与もなかったのにです。

こうした世論は政府を動かし、セルビア政府に宣戦布告をしました。ところがこの事態でロシアが怒り、それに対してドイツが怒り、つぎにフランスが怒り、イギリスも怒りだして世界規模の大戦となったわけです。これが民主主義、国民主権の真の姿です。

――そういうことで、民主国家があのヒトラーを生んでいきました。ヒトラーひとりが悪者のようにいわれますが、ヒトラーはもっとも民主的に戦争を企画した人物です。ドイツの国民はつねにヒトラーを支持し、1938年にオーストリアを併合したときの内閣支持率は99パーセントまで高まりました。これが民意です。ヒトラーが独走したというよりも、国民をうまく煽動して、圧倒的支持を得て行動した結果です。

さて、白洲次郎がいう「成熟した」国民なんて、世界のどこにもないのだということをもう一度、ここで考えてみたいとおもいます。白洲次郎のいう、「民主主義もけっこう、平和主義もけっこう、……」というとき、その「理論の出発点」にもういちど立ち返ってみれば、どちらも危険だという理屈になりませんか。――そういう白洲次郎の立場で戦後を見てみますと、ほんとうに白洲次郎のいいたかった考えは、まだ実現されていません。

第2次世界大戦で、日本が敗れるだろうということは、彼はとうに知っていただろうとおもいます。

軍部は民意を押しつぶし、政府を牛耳って戦争へと一直線に駆り立てました。そして日本は破れ、GHQの占領下で白洲次郎は国家再建に加担していくわけですが、このとき、米国の大衆は、どういう考えを持っていたでしょうか。

「日本という国は存在するかぎり悪を成すので、国家を壊滅し、民族を奴隷にすべし」という意見が国民の3分の1が支持していました。しかし、政府のエリートたちは、このような国民的ヒステリーを抑え込みました。――これが、イギリスで生まれたジェントリー意識のあらわれです。真のエリートたちです。

アメリカ政府のしたことは、「日本がふたたび立ち上がって、アメリカに刃向かわないような国にする」ことでした。ソ連の台頭とあわせて、日本列島を東アジアの橋頭堡にしようと考えました。

そこでGHQがまず最初にやったことは、へたにエリートをつくると、底力のある国民はふたたび強力な国家をつくってしまう。そこで、エリートを潰すことを考え、真っ先に旧制中学、旧制高校を潰してしまいました。

これは、明らかに「ハーグ条約」に違反した行為です。

「占領者は、現地の制度や法令を変えてはならない」というハーグ条約です。それにもかかわらず、マッカーサーは「憲法を変えろ!」と命じました。これについて白洲次郎は、ハーグ条約違反(ハーグ条約第43条:占領軍は現地の制度や法令を変えてはならない)を訴えますが、聞き入れられるところとはならず、時の総理大臣吉田茂に説得されて、日本国再建に加担する政治の渦中に投げ出されていきます。

そして、戦争を裁く東京裁判では、第二次世界大戦の終結とともに、戦犯訴求のためのマッカーサー条例をタテに、「人道に対する罪」のもと、「法の不遡及」――すなわち、実行時に違法でなかった行為を事後に定めた法令によって処罰することを禁止する、そういう近代刑法の原則を踏みにじることになったのです。

しかし、そうはいっても、ぼくはおもうのですが、「民主主義」というのは、まことにもってありがたい話で、本来の姿、意図した姿とはかけ離れていても、主権は国民に在るというのはすばらしいことです。GHQのおかけで、新憲法には女性の参政権がうたわれ、天皇は象徴天皇となりました。

どうせつくるなら、すばらしい憲法をつくろうとしたGHQの考えは、戦後の工業立国を推進する大きなバネとなりました。

そして、行政府は、戦後の敗戦国の立場で、他国との交易に不平等な取引きをなくすよう、「通商部」と「産業部」をひとつにした「通商産業省」を設けることになります。その、そもそもの企画者は白洲次郎でした。

彼は初代の長官となり、行政手腕を発揮しますが、白洲次郎がほんとうにやりたかったことは別にありました。だから、できあがると、彼は何の未練もなく、さっさと政治の舞台から姿を消します。

しかし、現在の日本で、この謎の男、――白洲次郎という男がふたたび脚光を浴びるというのは、実にふしぎなことです。それとともに、「国家は国語なり」というイギリスのことばをおもいますと、白洲次郎のいおうとしたほんとうのところは、「プリンシプル」のあるエリートの生き方を指し示すことだったようにおもいます。

現在の市場原理主義も、国家原理主義がそうであるように、遅からず自滅していくものです。市場原理主義の前提は、「まず、公平に戦いましょう」ということです。公平に戦って勝った者が利益のすべてを手にする。企業間のアライアンスしだいでは、利益を分け合いますが、ウインウインの原理でいえば、勝った者だけが利益にあずかるという理屈です。

これは公平に戦って勝ったのだから、ぜんぜん悪くない。そういう風潮が現在の資本主義経済のトレンドになっています。勝者は全部取ってかまわない。まず「公平に」というところが、じつは「公平じゃない」と、ぼくなどはおもってしまいます。強い者が弱い者と戦ってやっつけることは、公平どころか卑怯です。強い者が弱い者をやっつけることは卑怯です。

しかし、市場原理主義は、そんなことには頓着しません。――そうしてできたアメリカは、国民の1パーセントの人たちが国富の半分近くを占有しているではありませんか。これは、公平な経済とはとてもいえないでしょう。

70年まえまで、日本は超国家主義をかかげ、非民主化のなかで、軍部によって抑圧された世界観を築き、思想・言論・行動を締めつけてきました。

国民は、戦争に敗れてはじめてこれまでの価値体系がくずれたことを知りました。戦争が終わったから、戦後になったのではないのです。敗戦の構図をあきらかにしたから、目もくらむような新しい戦後がやってきたわけです。

それを理解したのは、政治家ではありませんでした。国民でした。だから全共闘による安保反対運動や、大学解体という挙に出たわけです。

その先頭を走って主導したのが思想家・丸山眞男です。

その丸山眞男ですら、大学教授という肩書を捨てず、国体や大学の刷新に目を向けなかったとして学生らに糾弾されました。丸山から教わった多くの学生たちからも、するどい批判の罵倒を浴びせられ、彼は大学を追われました。

安保反対に動いた学生たちは、岸首相の非民主的な強行採決を、軍部にかわる国家権力と見做し、軍部となんら変わらないやり方に我慢がならなかったわけです。

しかし、それから半世紀以上もへた現在でも、世界のどこにも民主化に完全に成功した国はありません。いみじくも丸山眞男がのべるように、「永久革命としての民主主義」に向かって、まだその実現途上にあるということではないでしょうか。丸山眞男は、戦後51年たった8月15日の終戦の日に、82歳で亡くなりました。民主主義って、何だろう? 今朝は、そんなことを考えました。

ムズ川のに吹かれて 

 

  決死の覚悟で、人生最大の20ストロークを繰りだしてやる。最初のストロ

  ークから、強い推進力を感じた。チーム全員が全力を出している。

  (デイビッド・リビングストン、ジェイムズ・リビングストン「Book Over Water」より

 

ぼくは、かつてロンドンにいたころ、あるイギリス人女性に恋をしてしまい、ロンドンの彼女の部屋で数ヶ月同棲した。

彼女はオクスフォード大学大学院の学生で、ひとり乗りのスカル競技をやっていて、オリンピック出場をめざしていた。テムズ川にボートを浮かべ、一日じゅう練習に明け暮れていた。それでも彼女は疲れを知らず、とてもたくましかった。

テムズ川の水の流れは、季節によって変わる。

そのころのテムズ川は、ほとんど自然のままで護岸工事をしていなかった。濁った水が勢いよく流れていく季節もあれば、いくぶん澄んだ水がゆったりと流れる季節もあった。水面がきらきら輝いて青く見えるときもあれば、日が暮れると、まるで鏡のように夜空を写すこともあった。

ぼくはロンドン大学で講義のないときは、彼女の手伝いをしていた。

彼女の専攻は分子生物学で、将来は学者になることを夢見ていた。

ぼくらは彼女のことを、通称「デブ」と呼んでいた。イギリスの名優デボラ・カーとおなじデボラ・ワイルドといった。

または「ピープスの日記」に登場するデボラ・ウィレットとおなじ名前で、彼女もまた愛称「デブ」と呼ばれている。

夕暮れの雨の日は、たいへんだった。

流れる汗も雨に打たれて顔が熱をおびて高揚する。

テムズ川のヘンリー付近で、毎日ボートを漕いでいれば、仲間のボートとすれ違うこともあった。彼女のボートはカーボンファイバー製のボートで、父親の援助で手に入れたものだった。

この「ヘンリー・オン・テムズ」は、とても風光明媚なところで、夕方になると、宵の灯りとともに多くの人びとが散策を楽しむ。だが、デボラにはその風景を見て楽しんでいるヒマはなかった。肉体をガソリンにして、一日の目標のノルマを果たした。そして、一日あたり6000から7000キロカロリーの食事を摂った。ものすごい量である。

だが、デボラとの性交は、そういうエネルギーを少しも感じさせなかった。オフのときは、ひたすら精神的な愛を求めた。

 

(ダイアン・セッターフィールド「テムズ川の娘」、小学館文庫、2021年)

 

彼女の部屋にいくと、「バリートロッター―の室内便器」という、子どもの読む絵本のようなものがあったり、日本の扇子が、壁の一角に飾っていたり、ふつう和室に置く衝立てが置いてあったりして、デボラはけっこう日本びいきなのだ。それはいいのだが、真っ赤な布が、タテに折りたたんで衝立てに引っ掛けていた。

そいつを広げてみると、なんと腰巻なのだ。

「腰巻って、どうやって使うのか、わからない」という。じゃあ、教えよう、といって、デボラの衣服をぜんぶ脱がせて、腰に巻いたのが縁で、それからつき合うようになった。

「ほんとうは、パンティなんか履かないんだよ」というと、デボラはそのとおりにした。

「なにも履いてないみたいだわ」といって、くっくっくっと笑っていた。

彼女の背丈が173センチあって、ちょうどいい感じに見えた。彼女の部屋着は、上は合わせになった派手な和風の衣服で袖丈がながく、下はロングの黒のスカートだった。

デボラは腕も脚も長い。

だから大学のクラブの入会を強くすすめられた、といっている。一度女性の「エイト」に選ばれたこともあったが、練習中、肩の異常を起こし、その後うまくいかなかった。

これはオクスフォード大対ケンブリッジ大のボートレースだ。通称「ザ・レガッタ」といわれ、パトニー橋からテムズ川をさかのぼり、およそ7キロのコースが、ザ・レガッタのおこなわれる春の風物詩なのだ。

これに参加する8人で漕ぐ選手のことを、「エイト」と呼んでいる。これに参加することのできた選手にはたいへんな栄誉がかかり、いくつかの競技では、「ブルー」の称号が与えられる。

トップクルーのボートに乗って、スタートからゴールまで漕ぎきった選手のみに、「ブルー」の称号があたえられる。試合の勝ち敗けには関係ない。

デボラは2年まえまで、「ブルー」の称号を持っていなかったが、1年まえ、はじめて称号があたえられた。彼女は本来、シングルスカルで実力をのばしてきた。何度も優勝している。

トップでフィニッシュラインを越えたとき、デボラは喜んだ。

日焼けした、少しそばかすのある彼女の顔が、川風のなかでとても美しかった。その夜は、デボラのお気に入りの女たちの多いパブに、ぼくを連れていった。その店は、チャリング・クロス駅から歩いて数分のところにある。彼女の仲間たちも駆けつけた。

そこにぼくがいたものだから、デボラの競技の関係者のように見られた。

まずはイギリスビールで乾杯。祝福のキスを受けて、デボラは最高にいい気分のようだった。イギリスには星の数ほどパブがある。どんなに小さな村を訪れても、パブのないところはない。パブで家族や友人たちと、ビールを片手に語り合うこと、それはイギリス国民にとって大切な生活の一部でもある。

そういう話をじっさいに聞いたわけではないが、そうに決まっている。

デボラが論文作成に気を入れているとき、ぼくは静かに彼女の部屋で本を読んだ。散歩をしようというと、連れだって出かけた。

「……苔むした岩に隠れるスミレの花、ただひとつ、ひと目に触れず!」とデボラがいった。「……空に輝くひとつの星」と、ぼくはいった。

そして、「ひとつだけなら美しく」と、さらにふたりはつけ足した。デボラは、振り返ってぼくの顔を見た。

「ワーズワスは、ぼくも好きだよ」とぼくはいった。

「ランチのパスタ用のお皿がほしいわね」といい、それからぼくらは雑貨を商う小さな店に入り、大きめの皿をふたつ買った。それから近くの公園でぐるぐるまわって散歩をした。ベンチに腰かけると、デボラはいった。

「日本は、遠いわね。でも、日本も名誉と勝利のために戦ったわね、テムズ川のトニーからモートレイクまでの、7キロのコースで戦うのとは、わけが違うわ」といった。

「そうだよ。日本は、あなたの国のおかげで、勝利を手にすることができたんですよ。感謝しています」

「戦争には、1位があっても、2位はゆるされない、そうでしょ? 《ザ・レガッタ》もおなじなの。大学の名誉がかかっているの!」

もう夕暮れになっていた。

ぼくは彼女との別れの日が迫っていて、その日が永遠にやってこないことを祈っていた。何か重大な、国家をゆるがすようなことが起こり、帰国を妨げる何かが起こって、そのとばっちりを受けて、このままロンドンに居つづけることを密かに願っていた。だが、それは叶わなかった。

図書館へ行って、「」の意味をしらべたかっただけなのに。

 

いま、「FACTFULNESS(ファクトフルネス)」という本が売れているという。

こんなにおもしろいのに、図書館にないのだ。「最寄りの図書館に申請すれば、取り揃えてくれるらしいよ」

ほんとですか!

ぼくはけっこう図書館を利用するほうかもしれない。近くの喫茶店で人と会ってコーヒーを飲んでから、その帰りにはなんとなく図書館に入って、雑誌コーナーや新刊コーナー、テーマコーナーをぐるっとまわり、ちらちらながめることが好きになった。漫然と館内をながめながら、不図おもい出したようにレファレンスコーナーにいるスタッフのお姉さんに声をかける。

「貶黜へんちゅつ、ということばを使った三島由紀夫の小説、あれは、《金閣寺》だったでしょうか? しらべることはできますか?」とたずねてみた。

「しょうしょうお待ちください。しらべてみます」といい、「30分ほどお時間をいただけますか?」という。

「それは、助かります」といって、ぼくはカウンター席を離れた。

ぼくが主に利用している草加市中央図書館には、比較的辞典類が多くそろっていて、手にあまることがあると、まずはそこで調べる。「貶黜」という漢字をおぼえたのは高校一年生のころで、たぶん三島由紀夫の「金閣寺」を読んでいて発見したものだった。そんなことはどうでもいいようなものだが、ことばの出典という意味で、確かめたくなった。

時間になってカウンターのお姉さんにたずねると、

「わかりませんでした。もしもよろしかったら、《金閣寺》をお読みになりますか?」とたずねられた。

「いえ、それにはおよびません。ぼくはその本なら持っています」といって、引き下がった。

作品をインターネットで検索することができて、さらにお目当ての漢字を検索することができればいいのだが、あいにくと三島由紀夫の「金閣寺」は電子化されていない。ウェブサイトの「青空文庫」にもない。

こうなると、本を読んで自分でしらべてみるほか手がないようだ。

広辞苑にも大辞泉にも語義は載っているが、引用文はない。

ぼくはおもうのだが、図書館のレファレンス業務というのは、図書館員だけに任せるのではなく、アウトソーシングして、民間の専門家集団のデータベースの協力を取り付けておくべきではないかと、なんとなくおもっている。もしも意欲にあふれるデジタル・ライブラリアンがいたなら、きっと気づくはずだ。

レファレンスのデータベースは、もっと集積され、もっと活用されるべきだとおもっている。デジタル化とインターフェース、ハイブリッドなライブラリーにすることが、いまもとめられているのではないだろうか。

インターネット、IТ化の発達した現在では、人材(レファレンス・ライブラリアン)の育成とともに、図書館の運営の一部をアウトソーシングすることは、だれも反対しないだろうとおもわれる。生きたリサーチとは、そういうものだとおもっているからだ。

ぼくは図書館員の仕事をくわしく把握しているわけではないのだが、ウェブ技術の進展にともない、インターネットを活用したWeb Based Training(WBT)は公共図書館の常識であるはず。

ビジネスや教育分野でもWBTを活用したe-Learningが活発化している。e-Learningというのは、コミュニケーションをインターネットを利用してオンラインでおこなう学習指導のことである。アメリカではあたりまえになっている。

日本でe-Learningといえば、もっぱらの事例は「資格」の獲得に向けられているようだ。パソコン、数表ソフトの使い方といった情報処理が主で、それらもとうぜん必要なことではあるが、ステップ・バイ・ステップの技能としては、全体として何に役立てていいか、どう役立てていいかを明確に意識されないと、図書館機能の半分は役に立たないだろう。

ただ本を貸し出すだけではなくなった。クライアントの「問い合わせ(レファレンス)」に明確に答えてこそ、地域に根付くライブラリーなのだとおもっている。

しかし、それはユーザーの勝手な考えで、いま図書館は、それどころではないようだ。ウェブ2.0時代をどう乗り切るかという、もっと別のところで頭を抱えているに違いない。たとえばコピー、たとえば電子メール、たとえばファックスといった対応に、どう対応していいのか、という問題である。複製権、著作権という公共的なしばりがあり、著作権法第31条にさだめる図書館等の図書、記録その他の資料のあつかいにおいて、きびしい制約が定められている。これがあるかぎり、安易に対応できないようになっている。

これは図書館にかぎらないが、もう10年ほどまえになるが、こうした問題で衝撃をもたらしたことがあった。書誌学者として知られる林望氏に、「公共図書館は、ベストセラーのただ読み機関だ」(「図書館は無料貸本屋か」、文藝春秋2000年4月号)と論じられたことがあった。

ベストセラーになった乙武洋匡の「五体満足」などが、大量に値引きされて買い上げられ、無料で貸出しサービスする公共図書館が痛烈に批判されたことがあった。

図書館業務の一部を民営化すべきか、というシンポジウムがひらかれ、公共図書館サービスの高度化にともない、業務のアウトソーシング問題が提起された。

そんなおり、有害図書を締め出すフィルタリング問題が浮上し、言論の自由と、幸福追求権(日本国憲法第13条「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」)、未成年の人権、親の教育権などとともに、その線引きがおこなわれた。

もっと突っ込んでいえば、OPAC(オパック・オーパック Online Public Access Catalog)の推進である。

OPACというのは、図書館において公共利用に供されるオンラインの蔵書目録のことである。

これはオープンになってはいるが、地域のコンテンツやリサーチが時間に無関係に24時間アクセスできるウェブOPACこそ、もっともっと活用されていいとおもわれる。

現在、図書館に常設されているパネルタッチ式の検索機でも活用できるけれど、その都度図書館に出向かなければならない。なにはともあれ、地域の図書館は、書斎がわりに自由に使いたいものである。

きのうも暑かった。

だが、金曜日だというのに、とても静かな日で、時間が音もなく流れている。さっき、タクシーがマンションの前に停まったきり、なかなか動こうとしなかった。ダイヤモンド・タクシーだ。

「どうかしましたか?」と、ぼくは余計なことだが、きいてみた。

「お客さん、部屋からだれか連れてくるようです。待っているところです。ありがとう」といって、あいさつしている。赤いハンチングをかぶり、白いYシャツにネクタイを締め、腕に金属のアームサスペンダーなんかしている。ちょっと粋な感じのドライバーだ。50歳くらいか。

「タバコ吸っていいですか?」と彼はたずねる。時間待ちは、それにかぎる。

いいとも! 

大きな灰皿スタンドが置いてある場所を示した。ドライバーがぬーっと立ち現れた。でっかい! 190センチはあろうかという大男だ。脚がじゃまになるくらい長い。じゃまになりますか? とはきかなかったが、振り返ると、おばあさんが娘さんといっしょにやってきた。「じゃ」といって、彼と別れた。これから図書館に行き、本10冊を返却して、また10冊を借りてくるつもりだ。

ジェームズ1世の欽定訳聖書を「King James Bible」というのだが、聖書の物語は、善、悪、奇跡、裏切り、殺人、売春、誕生、結婚、儀式など、この世で起きるさまざまな物語が出てくる。数あるタナック(伝道書)の成立をめぐって、7つの大罪を決めたのはいつだったのか、トロント公会議であったか、それをしらべたかったのである。

これらは物語である。――かつてリンカーンは、「聖書は神が人間に与えられた最善の贈り物です。……それがなかったら、わたしたちは善悪の識別ができないでしょう」といっている。神の国アメリカの精神が、いまも息づいているらしい。

立花隆の「脳を鍛える」(新潮文庫)という本を少し読む。これは東大講義をまとめたものである。かなり専門的な本である。

全国の国立大学の入試問題は、19世紀以前の学問から問題がつくられているという話が書かれている。なぜなら、高校の教科書には20世紀の量子物理学もアインシュタインの物理学も出てこない。高校生にはあまりにむずかしいからだという。

しかし、大学に入って、いままでいちどもお目にかかったことのない学問を教わることになるのだ。

数学の「数論」は教わっても、「調和解析」はたぶん教わらないだろう。

「数論」と「調和解析」がDNAでつながっている話など、大学院の数学でしかやらないだろう。しかし、20世紀の科学は、真剣に受け継がれなければならないと彼はいっている。

大学といえば、日本の大学では軍事は教えない。

GHQ以来、軍事を教えてはならないというしばりが、いまだに利いているわけである。

世界の国々で、自国の防衛について教えないのは、おそらく日本だけだろう。政治、経済、軍事の3つで世界は動いているというのに、戦後、民主教育云々といわれながら、戦後、国を守る方法をずっと教えてこなかった。憲法には、防衛するために戦うことを抜きにしている。一方的に「戦争を放棄する」とかいって、おかしな国だ。他国が攻めてきたら、どうするつもりだ?

2010年9月7日午前、尖閣諸島付近で操業中だった中国漁船と、これを違法操業として取り締まりを実施した日本の海上保安庁とのあいだで事件が発生した。これを「尖閣漁船事件」、または「中国漁船衝突事件」とも呼ばれている。海上保安庁はこれを拿捕したが、菅直人首相は、今後の日中関係を考慮したとして、中国人船長を処分保留で釈放するととつぜん発表した。

本決定を、仙谷由人内閣官房長官は容認し、翌日未明、中国側が用意したチャーター機で、中国人船長は石垣空港から中国へと送還されたのである。

とうぜん予想されたことだが、その後のアメリカの反応に、日本側はピリピリした。

このように、日本が戦おうとしない場合、日米安保を取り交わしているアメリカといえども、これに助太刀(すけだち)しないというのだ。

日米安保の中身が現実のものとなった。

そんなこと、あたりまえじゃないか! といいたくなる。日本という国は、相手国が法に背いても、処分保留で釈放する国なのだ。だが、中国が攻めてこないのは、日本にはアメリカがついているからだ。

そこにMさんがあらわれ、ヒマそうだったのでコーヒーを振る舞った。

すると、テレビのクイズ番組で、「三行半(みくだりはん)」の話を演()っていたという。

「こんなの、だれでも知ってる問題だよ」と、彼はいう。だが、ぼくは相槌を打たなかった。

「田中さん、知りません?」ときく。

テレビでは、その答えとして「夫が妻に離縁を申し付けること」といっていたらしい。ぼくの考えは、そうではなかった。その逆もあるということ。

「――その逆?」

「そう、その逆です」

江戸時代、長男をのぞく武士の次男、3男は、武家に婿入りしなくてはならない。婿入りした先で、この三行半を突きつけられるのは、多くは妻のほうからだった。夫を迎える妻のほうが、家では権力者なのだ。しかし江戸期の女たちは、儒学倫理でがんじがらめになっていたので、始末にこまる。

はっきりいって、江戸時代は男たちの時代である。――徳川幕府は、政治の根本理念を儒教においたことで、きびしい身分制、階級制の社会だった。なかでも男女の性差別は、ことのほかきびしいものだった。

先日の曲亭馬琴の記事にも書いたけれど、

「女は夫を君主と思うべし」とか、

「ひとたび嫁しては、その家を去らないのが女の道」とされ、およそ女子の自我とか自立心など、骨抜きにするような教育がおこなわれた。

武家社会も、百姓の世界も、女たちには身動きできない儒教倫理でがんじがらめに縛られていたのである。江戸期の女たちが、王朝時代のように絢爛たる女性文化を持たなかったというのは、どうも、そういう理由による。

藤沢周平の小説に、そういう武家の話がよく出てくる。

「おまえは、なぜ、妻を叱らないのか」と男がいうと、

「おれは、婿入りの身だからな。……」といって、肩を落とすのである。

じぶんは、ヨーコの家に婿入りしたような気分だというと、Mさんは、ははははっと笑って、「おれもおんなじさ! おれんちも、まだ江戸なんだよ。ヘタすりゃ、三行半をくらいそうだよ」そういって、夕刊をぽんと置いて、Mさんは早々に帰っていった。

小池真理子さんの小説を広げたら、一枚の広告記事が出てきた。

小池真理子さんの「望みは何と訊かれたら」というタイトルの小説の広告が入っていた。「あの時代の空気をまとって、今も私は生きている」というリード・コピーがあった。

「あの時代……」というのは、1972年の浅間山荘事件のあった年で、武装闘争に明け暮れた年を指しているらしい。これはもうかなり古い話だが、じぶんはそのとき30歳で、会社の会議室のテレビ中継に釘づけになっていた。過激派が群馬県の山中にアジトをかまえているという情報を得た群馬県警は、その2月16日から19日の朝にかけて指名手配中だった森恒夫と永田洋子ら8人を逮捕した。

警官隊はさらに、長野県軽井沢で5人の不審な男を発見。

彼らは河合楽器の軽井沢保養所である「浅間山荘」に逃げ込み、管理人の妻を人質にとって立てこもった。クレーン車から繰り出される鉄の玉で山荘を破壊し、そこに警官隊が突入して、人質を救出し、10日ぶりに犯人5人を逮捕した。そのとき、警官2名が拳銃に撃たれて死亡している。

この模様は、テレビ各局の生中継で全国に流され、NHKは、ほかの番組を中止して一日じゅう報道していた。警察が使用したガス弾は1000発、ピストル発射15発、放水は100トンにのぼり、犯人から押収した武器は、猟銃4丁、ライフル銃1丁、ピストル1丁だったという。

彼らは連合赤軍を名乗っていた。

1971~72年にかけて、一連の連合赤軍事件で、殺人や死体遺棄罪などに問われ、1993年に死刑が確定した元連合赤軍幹部の永田洋子死刑囚が、東京拘置所で死亡したことが報じられた。死因は多臓器不全とみられた。

小池真理子さんの小説は、不毛の愛をめぐる話が多い。

そのなかにあって、浅間山荘事件をテーマにした小説となると、ちょっと想像できないが、ぼくは読んでいる。

彼女の「欲望」という小説は、愛した美しい青年は、じつは性的に不能で、けっしてかなえられない肉欲と、そこにいたる究極のエクスタシーをテーマにした物語だったようにおもう。その他「水無月の墓」、「蜜月」などを読んでいる。直木賞を受賞した「恋」も読んでいるが、「欲望」はそれを凌ぐおもしろさである。

1972年は、いろいろな出来事があった。沖縄・小笠原諸島が返還され、首相に田中角栄氏が選ばれて、日中国交が実現した。

この年、西ドイツでミュンヘン・オリンピックが開かれた。史上最高の動員をほこり、話題になったが、それとは別に、物騒な事件も起きた。会期中、アラブゲリラが選手村のイスラエル選手団の2人を射殺。9人を人質にするという事件が起こった。

ゲリラの要求で、ミュンヘン郊外の空軍基地に移った一行は、警官隊との撃ち合いで人質9人全員とゲリラ5人が死亡するという惨事になった。日本は182人の選手団を派遣し、日本は男子バレーボールの初優勝をはじめ、平泳ぎの田口選手、バタフライの青木選手、男子体操などが活躍し、合計13個の金メダルを獲得したほか、銀8個、銅8個を獲得した。

ぼくは30歳で、越谷に家を買った年である。

さて現在、科学がすすんだといわれる21世紀にあって、依然として13世紀の考えに縛られている人たちがいる。聖書を通して世界を見る。お経を通して世界を見る。われわれの目が聖書にそそがれているとき、こころを動かされる聖書の金言が、何を意味するのか、現在という時代相において、みつめなおす必要がありそうだという話を聞く。

でなければ、21世紀の聖書学は、不毛だろう。

キリスト教を異端としたイタリア・ルネサンス時代、人間はふたたび復活した。神についてではなく、人間について深く考えようという時代の幕が切って下ろされたのである。

ダンテの「地獄編」、――そこに登場するベアトリーチェは、神や女神ではなく、現実の美しい人間として描かれているではないか、とおもえる。ダンテはフィレンツェの、今風のことばでいえば内閣総理大臣であったこともあって、国の行く末をみつめていた。放浪の旅をして書かれた「神曲」は、だれにも読まれない傑作なのである。

若いころ、ぼくはあるデパートの本屋で、「ダンテの《神曲》、ありますか?」とたずねた。すると、若い女性はいった。

「レコードは、あちらです」と。

イタリア・ルネサンスとは、花田清輝のことばでいえば、「神を差し引いた人間の時代だった」という。イタリア・ルネサンスとは、塩野七生さんのことばでいえば、「見たい、知りたい、分かりたい」という。ダ・ヴィンチや、ミケランジェロもまた、人間を描いたのである。

自分は、画家になりたい。

自分は、彫刻家になりたい。

自分は、医者になりたい。

――じぶんの生涯の仕事を、じぶんで選べる時代を迎えたのである。それが、ルネサンスである。神の教えに縛られない、これは、偉大な時代の転換といえないだろうか。多くの文芸・美術が生み出され、人間讃歌の時代を迎えたわけである。

「三国志」に登場する曹操(そうそう)は、人の運というものを最大限に利用した武将である。ここで、曹操の生き方の魅力について、少々述べてみたい。

これは「三国志」に登場する英雄の曹操の話だ。――すなわち、魏()の武帝があらわしたという「魏武帝註孫子」という本がある。これは俗に「孫子の兵法」といわれ、いまもビジネスマンの必携の書になっているらしい。大正時代に日本の大谷探検隊が敦煌(とんこう)付近で発見した西晋時代の「孫子兵法」でも知られている。

「女が結納をかわして、進物の箱を開けると、おかしなことに中味がない。だまされたのである。男が犠牲の羊を斬()りさいても、おかしなことに血が出ない。知らない間に凶事に取り囲まれたのである」と書かれている。運を味方にしなければ、こういう凶事に、あっという間に巻き込まれるという話が書かれている。

曹操という人は、なかなかの学者であり、ただ強いだけの武将ではなかった。ぼくは、いつのころからか、この武将の戦い方が気に入り、「孫子の兵法」を読んできた。曹操がいなかったら、「孫子の兵法」は世に残らなかったかもしれない。

読んではきたが、実行は間違っていたらしく、ぼくには失敗が多すぎる。この本が書かれたのは、もう2000年も前の話である。

この本の存在は、日本では、上杉謙信によって知られるようになったといわれている。兵法は、武将だけが知るものではなく、末端の兵士にいたるまで、知らなくてはならないとされた。上杉謙信は、曹操のやり方を真似たために、多くの戦役(せんえき)に勝利した。

たとえば、総大将の命令にそむくことも教えている。川や沼地は、死地(しち)といわれ、そういうところで戦ってはならないという教えがある。部下は、総大将の命令にそむき、死地での戦いを避けたことで、勝利にむすびついたというじっさいの話が出てくる。

川や沼地のそばは、古代中国では、子孫が繁栄するりっぱな家はできないとされている。そういうところで、戦ってはならないというのだ。生きること、すなわち戦うことなのだ。わが国でも、川や沼地で戦われた前例がひとつもない。生きにくい場所とされている。ぼくは風水や方位の知識はほとんどないが、多くの戦役を見て、教えられることが多い。

冷房がきき過ぎて、ちょっと寒くなったので毛布を引っ張り出し、それを引っ掛けて昼寝をした。寝心地はよかった。ぐっすり20分ほど眠った。

「これは、お客さん用の毛布よ! ……お父さんのバカ!」

ぼくは妻に叱られた。20分間、身を横たえて腹式呼吸をすると、免疫力がアップするとヨーコがいうので、きょうも実行した。

圖(カント)、哥羅垤斯(シオコラテス)の話

 

おはようございます。

朝早くから、いきなり漢文の話を書きます。

 

「――そうかい。楽しいかい。ついでに、辞書には載っていない話をするよ」といって、ぼくはこんなことをいいました。

漢学の伝統がしっかり根をおろしていた明治のころは、ヨーロッパ哲学の翻訳もなかなか容易ではなかったようです。人名もすべて漢字に翻訳されています。

北インドに生まれた仏教のことばが、中国にわたってすべて漢字に翻訳されていったのとおなじです。人の名前まで漢訳されました。

たとえば、哲学者カントは「韓圖カント」と書き、ソクラテスを「所哥羅垤斯シオコラテス」と表記しました。それらの論文の中身も漢文が主流だったので、すべて漢字に頼らざるを得ませんでした。

そこで、アリストテレスは「亞利斯多拉アリストツトル」、デカルトは「垤加爾多デカールト」、プラトンは「伯拉多プラト」、ヘーゲルは「俾歇兒ヘイゲル」と記されました。

「おもしろい! お父さんはどうしておぼえたの?」

むかしの本を読んで覚えました。

当時のエリートたちは、というより、女学校を出るほどの女性たちも漢文が読めることがあたりまえだったわけです。まずもって漢文が読めなければ、勉強もできなかったわけですね。テキストはすべて漢文で書かれていたからです。

ちなみに「フィロソフィ」は、「専ラ理ヲ講ズル学」というわけで、「理学理論」と訳されました。ギリシャ語の由来は、「ソフィア(知識)」を「フィロ(愛)する」という意味です。知識を愛する学問。

これを、のちに「哲学」という字に翻訳したのは、西周(あまね)という人です。

もしも外来語そのままにカタカナ表記になっていたとしたら、こんなふうになっていたでしょうね。

「理性」はヘアヌンフト、「意識」はベヴストザイン、「現象」はフェノーメン、「主観」はズプエクト、「客観」はオプエクト、「概念は」ベグリフ……というぐあいに。哲学論文の邦訳は、およそ呪文のようになっていたでしょう。

「へぇ、そうなんだ! そっちのほうがずっとむずかしい」

「漢文といっても、ついこのあいだまで漢文だったんだよ。漢文の読み方を勉強したいと思ったら、漢文を読むことですよ」といいました。

じっさい、読めば読むほど自然に分かってきます。

この「自然に」というのがコツです。

むずかしい本を読んで分かろうとするよりも、ほんものを読んで分かろうとしたほうがいいようです。英語を分かろうとするとき、英文法の本とにらめっこすると思いますが、肝心のことが分からなくなります。つまり、英語の語感です。英語の語感は文章を読まないことには分かりませんね。

この世に生まれて3年しかたっていない女の子でも、おしゃべりがじょうずです。お母さんのことばを覚えるからです。

3歳の女の子が、「どうもどうも」なんていうのを聞くと、笑ってしまいます。

でも、彼女にはちゃんと語感が備わっていて、びっくりするくらい大人っぽいおしゃべりができるわけです。

きのうは、ふたたび五十嵐さんからお電話を頂戴し、「三国志」の世界から「かおり」の世界へと引き戻されました。ぼくは、ちょうど漢文を読んでいたところです。かおりさんの世界も悪くないなと思いながら――。


さて、先日は「三国志」についておしゃべりしました。

そのなかで、曹操は宦官(かんがん)の家系に生まれたと書きましたが、これにはちょっと説明が要るかと思われますので、ふたたびペンを執ります。

「宦官の家系に生まれた」ということ自体、とても奇妙に思われると思います。なぜなら、宦官というのは、宮廷の後宮(こうきゅう)、つまり奥御殿、――皇帝の妃(きさき)や女官たちが住まうその場所に勤務する男性役人のことをいいます。

この役人になるためには、睾丸を切り落とす必要があったのです。もちろん大人になるまえ、10代の若いころに切り落とします。

曹操は、代々宦官の家系に生まれたというからには、睾丸を切り落とさなかった役人がいたということになりますか? 少なくとも、彼の父親は切り落とさなかったのではないか、そう思ってもふしぎではありません。

睾丸を切り落としてしまうと、子孫は生まれないわけで、ちゃんと子孫を残しているということは、そこに何か事情があると思っていいでしょうね。

宦官はなぜ睾丸を切り落とす必要があったかといいますと、奥御殿の、女性だけが住む場所に勤務するわけですから、間違いがあってはならないわけです。皇帝以外の男が、もしも女官に子種を残すようなことがあってはならないからです。女官たちは、皇帝の子種を宿すことが使命です。

そういう場所に、りっぱに男性機能を有する成人男性が勤務すること自体、奇妙な話です。

で、調べてみますと、即位した皇帝がまだ子供のときは、宦官のなかに一般役人も、特に命を受けて宦官の職に就いていたことがありました。

曹操の父親もそのひとりであった可能性がありますが、いましばらく調べてみる必要があります。詳しいことは分かりませんが、そうでなければ、曹操が生まれるはずがありません。

そのことを蛇足ながら、ここに申し添えておきたいと思います。

このような宦官制度は、中国はもとよりのこと、オスマン帝国、インドのムガール帝国にもかつてありました。

皇帝や後宮に接近して政治の実験をにぎるなど、宦官の政治的な影響力には大きなものがありました。曹操の時代にも宦官という役職は、そういう意味では名誉ある役職だったようです。

そうはいっても、子供を産まない女官は、皇帝が亡くなると、殉死させられます。それほどきびしい世界だったようです。

ところが、宦官は、若いころに睾丸を喪失するので、第2次性徴が止まり、男性機能が衰えたり、髭も生えず、声変わりもしない男となって、特有の「宦官症」という病気を発症するわけです。それはどういうものか、想像の域を出ませんが、かつての中国にそのような制度があったといいます。

当時の政治的な勢力には、外戚、宦官、清流の3つがあったようです。

外戚(がいせき)というのは、母方の親戚です。清流というのは、名門というほどの意味です。

これは後漢の時代のことですが、竇武(とうぶ)と太傅(たいふ)の位置にあった陳蕃(ちんばん)が、宦官の曹節(そうせつ)、王甫(おうほら)の専横をうらみ、これを取り除こうと謀りますが、機密がもれて、ぎゃくに曹節(そうせつ)、王甫(おうほら)によって殺されるという事件が起こりました。

これが起こったのは、皇帝がわずか13歳で即位したばかりのころです。

大将軍の竇武は、霊帝(れいてい)の前の皇帝、つまり桓帝(かんてい)の皇后の父でした。桓帝には子がなく、霊帝は傍系から入って帝位についた人で、桓帝の竇とう皇后はなお皇太后として、朝廷内に重きをなしています。その背後にいたのがすなわち皇太后の父、竇武です。

一般にこのような皇后、皇太后の里方の一族を外戚というわけですが、後漢の時代には、竇武のように外戚の大物が、軍事面の最高権力者である大将軍の地位につくのが、ふつうでした。

太傅(たいふ)の陳蕃(ちんばん)は、この時代、清流と呼ばれた儒教的な知識人であったようです。太傅というのは、いわゆる皇帝の指南役というような名誉職で、官僚集団の最高位にありました。

当初、桓帝は出身のいやしい田(でん)貴人を寵愛し、皇后に立てようとしますが、陳蕃に反対されて、家柄のいい竇武の娘をやむをえず皇后にしたという経緯があり、陳蕃と竇武はそのときから協力関係を築きます。

この両者が打倒しようとした曹節や王甫ら宦官は、いうまでもなく皇帝の奥向きの用をつとめる去勢された男たちのことで、いわば皇帝の私的なネゴシェーターでした。そういうことで、この事件は、外戚勢力と知識人、官僚勢力が結託して、皇帝の権威をかさに着る宦官勢力を追い払おうとして失敗した事件でした。

このように、正義の味方であったはずの清流派が勢力を失い、濁流のような宦官が実権を握るという時代になり、それが原因で、後漢王朝がだんだんと滅亡していったという象徴的な事件です

ひと口に宦官といっても、このように権力の強い集団になっていったわけです。

――中国には、正義が滅び、悪が栄えるという時代がいくども訪れます。

「三国志」をいっそうおもしろく読み解く歴史がそこにあり、それらを下敷きにして読んでいきますと、とてもわくわくします。


黄巾(こうきん)の乱が起こった年、曹操と孫堅はともに数え年で30歳。

劉備は24歳。

この3人は、黄巾の乱によって物語の舞台に登場します。この年、孫堅の長子の孫策(そんさく)は10歳、次子の孫権はわずか3歳。諸葛亮孔明は4歳です。

若いころ、「乱世の姦雄(かんゆう)」と評されてにんまりしたという曹操は、宦官曹騰(そうとう)の養子、曹崇(そうすう)の長男として生まれています。――これで謎が解けました。曹崇(そうすう)の息子として生まれていたわけです。つまり、養子の子でした。

宦官曹騰が亡くなったとき、魏の明帝は、「高皇帝」の尊号を贈ります。

死後の追贈ではありますが、中国史上、ただいちどの宦官出身の皇帝となりました。

その養子となった曹崇(そうすう)は、もと夏侯(かこう)氏の出であったといわれますが、養父がためこんだ莫大な財産によって官職を買い、太尉にまでなりました。このことは、清流派からみれば、唾棄すべき濁流です。曹操は、そういう自分の出自におそらくコンプレックスをもっていたのではないでしょうか

さて、その曹操には謎めいたことばが残っています。

劉備が漢中を手に入れたのち、曹操の魏王の向こうを張って漢中王となります。漢中はかつて漢の劉邦が項羽に追い込まれたのち、この地を根拠に天下統一を成し遂げ、漢という国号の由来になっている土地です。

そのめでたい漢中を手に入れた劉備は、きっと漢王朝の復活の夢に燃えていたことでしょう。このときが劉備の生涯のなかで最良の日々であったと思われます。

 そのとき、劉備に負けてやむなく撤退した曹操は、「鶏肋(けいろく)」、つまり、鶏のあばら骨という謎めいた命令を出しています。この「鶏肋」ということばの意味は緒家によっていろいろに解釈されているようですが、ぼくは、ある専門家のいうことばに真実味があるのではないかと思い、以下、それについてすこし述べます。

 それまでは、曹操が狙った漢中を、いま一歩のところで獲得できなかったことに、負け惜しみをいったらしいという解釈が一般的でした。

 曹操は、張魯が降伏したのち、漢中の住民数万を長安にただちに移住させています。また漢中軍事の統治に当たっていた杜襲(としゅう)もまた、住民をうまく手なづけ、八万あまりの住民を洛陽と鄴都(ぎょうと)に自主的に移住させています。

 劉備がせっかく手に入れた漢中は、人のほとんどいない空の土地でした。劉備は、曹操との戦いに際して、蜀の学者、周羣(しゅうぐん)に戦いの成否を占ってもらったところ、彼は「その土地を得べきも、その民を得ず」と答えたといいます。はたしてそのとおりになっていることから、ぼくは先の「鶏肋」の意味を、つぎのように読みました。

 人口の激減したこの時代、人間はある意味では土地よりもずっと値打ちがあったはずです。土地の占領がむずかしいと知った曹操は、その土地の人間を連れ去ったと思われます。残った土地は、なるほど食べるところのない鶏肋のようなもので、「取るに足りず」です。曹操の負け惜しみなどではなかったとぼくは見ます。

いかがでしょうか?

曹操のほうが、1枚も2枚も上手です。

そのまえに、曹操は、長江沿岸の地域が、孫権の攻撃を受けるのを心配して、住民を北に移住させようとしたことがあります。ところが、これに驚いた住民10万は、長江を渡って東に逃げてしまいます。そのため長江の西の曹操側の地域は、合肥(ごうひ)の南の晥城(かんじょう)をのぞいて無人地帯となります。

住民は、どうやら孫権の支配地域のほうが暮らしやすかったとみえます。のちに曹操が漢中の住民を内地に移住させたのは、このときの経験に学んだらしいといわれています。

ある日、孫権は曹操に手紙を送ります。

「春水まさに生ず、公よろしく速やかに去るべし」と。春になって川の水かさも増えたので、一刻も早く帰りなさいといいます。さらに別紙に「足下死なざれば、狐は安らかならず」と書き記します。そなたが生きているかぎり、拙者は安心できないのですといいます。

これを見た曹操は、「孫権はわしを馬鹿にしてはおらぬな」といって、なんと素直に撤退しているんですね。

若いけれど、孫権の力を見くびらず、正統に評価していたと見る人もいます。

このとき、孫権は大きな船をしつらえて、大胆にも曹操の軍営を偵察に出かけます。曹操側は船めがけてさかんに矢を放ち、片側に矢を受けた船は大きく傾きます。

すると孫権は船の向きをくるりと変え、反対側にも矢を受けてバランスを取り戻し、悠々と引き上げていったといわれます。

このとき、曹操は59歳。孫権は32歳だったそうです。

親子ほども年がちがう孫権に、曹操は好敵手を見出したようです。

ふしぎなことに、このふたりは一度も会ったことがありません。

ふたりが最も接近したのは、この戦いのときでした。

劉備と曹操、劉備と孫権はそれぞれ面識がありましたが、孫権と曹操はいちども出会っていません。いつも手紙です。

関羽(かんう)を討つにあたって、孫権は曹操に手紙を送ります。このとき、曹操は魏王になっていて、孫権よりも格が上です。そのため、同盟を結ぶには臣従というかたちを取らなければならなかったようです。この手紙で孫権は、さらに曹操には天命があると説いています。天命を受け、皇帝となるよう暗にうながしたもので、要はご機嫌とりです。

受け取った曹操はその手紙を臣下に見せ、

「この児()は吾(われ)を炉火(ろか)の上に著(ちゃく)せしめんと欲するや」といったそうです。こやつめ、わしをストーブの上に座らせようとしているな、と。

 この解釈は、ちょっとむずかしい。

 曹操は、著名な詩人でもあります。そういう詩人のいうことばは、文字通りのことではないように思われます。

というのは、中国の五行説でいえば、漢は火徳をもって王朝を開いたということになっています。火の上に座るとは、漢王朝を乗っ取ることを意味します。もうひとつの意味は、文字通りストーブの上に座れば、やけどするという意味ですね。このふたつを引っ掛けたことばだとしますと、たいへんユーモアがあり、たいへん意味深長なことばです。どっちとも取れるような文言になっています。もし天命とする漢の皇帝になれば、ただし、やけどもするとも読めます。

いま述べましたことは、「三国志」には書かれていませんが、「史記」に書かれています。「史記」は物語ではありませんが、事実を書いて「三国志」なみにおもしろい書物です。

漢字には、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、行書、草書、楷書(かいしょ)などさまざまな文字があります。そのうち篆書は戦国時代に用いられ、漢代の通用字体は隷書(れいしょ)でした。ところが後漢末期に隷書から行書体が生まれます。ついで行書体から楷書体が生まれます。

楷書というのは、現在ふつうに使われている正字体です。

曹丕(そうひ)が皇帝に即位したころ、いくぶん楷書化した文字になっていたといわれます。亳(はく)県の曹操一族の墓から出てきた墓磚(ぼせん)の文字は、初期の行書体だったと書かれています。

現在のわれわれの感覚からしますと、楷書がもっとも整った字体で、それをややくずしたものが行書体、さらにくずしたものが草書体と思いがちですが、事実はその逆で、草書体は行書体よりもさらに早く、初期の隷書体から生まれたといわれています。たたじ、漢代には章草(しょうそう)体といわれ、現在の草書体とは多少ちがうようです。

この時代にもうすでに書家と称する人がいました。その拓本を見てみますと、ほとんど楷書体です。行書から楷書に移る過渡期の文字のようです。それまであった篆書、隷書は、印章文字や石碑、建物の額など特殊な用途に使われるだけで、実用の字体としては淘汰されていきました。

わが国でも、江戸時代には草書で書かれた文字が中心だったようです。毛筆で和紙の上にすらすら文字をつづけて書きますから、草書体がもっとも適したようです。庶民も、草書で書かれた文字は読めますが、楷書で書かれた文字はむずかしくてほとんど読めませんでした。

これは古代中国でもおなじで、のちにできた楷書体文字は、ほとんどだれも読めなかったといわれています。

そのかわり、隷書や篆書は読めるというふしぎな現象が起こっています。

篆書体は、印鑑に使われる文字のことで、現在でもふつうに使われていますが、それを読めといわれると、はたしてどうでしょうか。一画一画、篆刻(てんこく)された文字は、ふつうの楷書体と違って、いまではたいへん読みにくい部類の文字です。

――もう秋も深まりました。今朝は寒くて霜柱が立ったかもしれません。いずれまた、お会いしましょう。今朝はこのへんで。

■イギリス人として、気高く高邁に。――

ィンストン・ャーチル

 

 ウィンストン・チャーチル

 

間もなくイタリアの、ミラノ・コルティナ冬季オリンピックがはじまる。

ところがいま日本では、女性党首のもと初の選挙戦に突入し、「日本のまんなか」とか、「へそのまち宣言」とか、「日本のへそ」を掲げる兵庫県西脇市や「日本の地理的中心」を名乗る長野県辰野町など、へそ自慢の声があちこちから発せられている。いま、そうした連呼舌戦の賑々しい日本列島のはじまりを迎えた。

「競馬の有馬記念も終わった」といって嘆息するSさん。

「女性党首が日本のへそ宣言なんかしたら、米トランプ大統領が、またやってくる!」とSさんがいう。「ダービーじゃあるまいし!」

ダービーはイギリスで生まれ、日本ダービーとしたに始まる。そんな中で、新型コロナウイルスの感染者数は、世界で8000万人を超え、死者は約180万人を数えたことなどはもうとうに忘れてしまっている。しかも変異種が不気味に猛烈な勢いで拡散を始め、その最初のころは、

志村けんさんとか、岡本行夫さん、岡江久美子さん、高田賢三さんなどコロナにつぎつぎに倒れた人も多かった。

さて、きょうはウィンストン・チャーチルについて、少し考えてみたい。

チャーチルは、二期目の首相就任の一ヶ月後、77歳になっていた。

だれもが知るその高齢で、「大丈夫なのか?」という国民の心配する声が巻き起こった。

チャーチルは、ラジオのマイクロホンに向かって、「われわれがものごとを改善したか、悪化させたかを判断するには、少なくとも3年は必要である」

といった。

事実チャーチルは、二度の心臓発作に見舞われながらも、80歳まで3年以上首相を務めた。

チャーチルが多くの関心を示したのは外交面だった。第二次世界大戦後、世界平和に対するソ連の脅威を最も感じていたのはチャーチルだった。そのフルトン演説は有名で、世界に警告を発した。

「バルト海のステッチンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが降りています。その線の後ろに中欧、東欧の古くからの国のすべての首都が存在します。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア、これらの有名な都市および周辺の人びとは、ソビエト圏と呼ばねばならぬところにいるのです。そしてすべては、いかなる形であれ、ソビエトの影響下にあるだけでなく、多くの場合、モスクワからのきわめて高度なコントロールの下にあるのです」

先日は、サッチャー首相の回顧録というのを一部読み返した。

この種の本は、多くは信じがたい政治的なシーンが書かれていて、興味のある人には魅力的な話なのだが、ぼくには退屈なページもあり、とても興味深いページもあって、その都度、いろいろと教えられている。

で、先日からぼくは、W・チャーチルの本をひっぱり出してきて読んでみた。ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill 1874-1965年)。――イギリスの現代史のなかにかならず顔を出し、イギリス文学史のなかにも顔を出す政治家、――というよりは、大いなる散文家として断続的に、しかも、かなりの頻度で本を出しているこの著述家は、ぼくにとっては散文家として、とても興味深い人物なのである。

日本では、著述家としてはほとんど語られることの少ない人物である。

もちろん散文家としてのみならず、彼にはほかに仕事があり、1940年から45年まで、イギリスの首相としての一期目の職もふくまれる。というよりは、19世紀のあいだにチャーチルは政治家になるまえから著述家として鳴らし、すでに5冊の本を出していた。

 

 「マラカンド野戦部隊物語(The Story of the Malakand FieldForce,1989年)」、

 「河戦(The River War, 1899年)」、

 「サブローラ(Savrola,1900年)」、

 「ロンドンからプレトリアを経てレイディスミスへ(London to Ladysmithvia

  Pretoria,1900年)」、

 「イアン・ハミルトンの行進(Ian Hamilton's March, 1900年)」があります。

 

彼が最初の国務大臣になる少しまえ、父親の伝記である「ランドルフ・チャーチル卿(Lard Chuchill,1906年)」という本を書いている。その後、およそ30年間に、すぐれた戦略家としての研究「モールバラ(Marlborough,1933-36年、3巻本)」という本も書いていて、ぼくは未読だけれど、その研究について書かれた本などを読み、いまさらながら驚いている。

そのうち、ぼくが読んだのは大学生のころで、「ロンドンからプレトリアを経てレイディスミスへ(London to Ladysmithvia Pretoria,1900年)」という本だった。神田の古書店で安く売られていた。これには、翻訳本はなかった。

それも、最後まで読んだかどうかおぼえていないが、ちょうど、ぼくはエミリー・ブロンテの「嵐が丘(Wuthering Heights)」を読む前後のことで、ぼくはそのころ、イギリスの本ばかり読んでいた。そういえば、Т・E・ロレンスの「知恵の七柱(The Seven Pillars of Wisdom,1926年)」を読んだのもそのころだった。

チャーチルといえば、Т・E・ロレンスなのだが、そのころチャーチルとならんでロイド・ジョージの本が多く読まれていた。彼の「回顧録(War Memoris,1933-36年、全6巻)」はよく知られており、これは、チャーチルの大著「第二次世界大戦(The Second World War 原書では全6巻)」に匹敵する大著といわれ、大学では西村孝次氏のシェイクスピアの講義を聴きながら、こっそり読んでいた。政治に興味を持ったのも、そのころだった。

けれども、多くはТ・E・ロレンスの本に魅せられて、ペンギン・ブックス版で読んでいて、学生にも手軽に手に入れられる本だったので、チャーチルの本もおなじシリーズ本で読んだ。

ときどき大学の近くの神田神保町かいわいの古書店を散策し、ふるびた本を手に取り、気に入ると原書を買いこみ、多くは教室か喫茶店でひとり読んでいた。

学生仲間がやってきて、単位論文の提出日が迫ってくると、「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンみたいにして、ぼくは彼らの論文書きを手伝ったりした。20枚ばかりの論文を引き受けるかわりに、コーヒー一杯が飲めるというわけで、それが嬉しくて、よく引き受けたものである。最低5人の単位論文を書いている。

ある日、先輩の長尾克彦氏から、エリザベス朝の文学にかんする質問があって、シェイクスピアの「ハムレット」についての質問を受けた。それが元となって長い論文を書いてしまった。

たぶん原稿用紙で200枚は書いたとおもう。

それを印刷所に持って行って、表紙をつけて製本してもらい、そうして彼に手渡した。コーヒーを、何倍も、好きなだけ飲ませてくれた。

ぼくは「ハムレット」より、彼の「ソネット」をひそかに研究していて、その話を書きはじめたわけで、それはいいのだが、そうすると、止まらなくなった。

ところが、書けども書けども、シェイクスピアのソネットはよくわからないということがわかり、途中で投げ出して、チャーチルの話を書いたりした。すると、彼は目を丸くして、

「シェイクスピアは、どうなったの?」ときいてきた。

「あと、数年時間がほしい」と返事を書いた。

あと数年といえば、大学を卒業するころになる。

ぼくは不遜にもシェイクスピアをあと数年かければ理解できると考えていた。ところが、理解できるどころか、ますます疑問がわいてきて、それから社会人になってからもシェイクスピアと格闘しつづけ、それが完成し、第1稿ができたのは、それから5年もかかっていた。彼は辛抱強く待っていてくれた。けれども、それでもぼくにはよくわからなかった。

そして、長尾氏は、

「じゃ、チャーチルの何が、そんなにおもしろいの?」ときいてきた。

「チャーチルなら、いえます」といって、ぼくはシェイクスピアをそっちのけにして、チャーチルの話をした。

「ふたつの大戦のあいだの時期にわたしがしたあらゆる言動は、ふたたび世界大戦などになるのを防止することを、ただひとつの目的としていた。……こんどの第二次ハルマゲドンくらい、簡単に防止し得る戦争は古来あり得なかった。わたしは常に暴虐をくじき、破滅を避けるためには力を用いるという用意をもって臨んだ。

しかし、もしもわれわれ英米その他連合国側の国策が、ちゃんとした家庭であって、あたりまえとされる普通の一貫性と常識(コモンセンス)とをもって処理されてさえいたならば、《力(パワー)》が《法》を伴わずに出かけてゆく必要などなかった。

それどころか、正義のために流血の危険なく《強さ》を用いることができたのだ。自分らの目的を見失い、自分らがこころの底から信奉する信条まで放棄してしまったために、英仏はとりわけ、莫大な力と、偏らない立場をもつだけに、アメリカは、彼らのいちばん恐れる破局へと通じる条件が、しだいに打ち建てらてゆくことを許したのである。

こんにち、われらのまえに横たわる当時の不思議なくらいよく似た新しいいくつかの諸問題に対して、もし彼らが当時とおなじく、意図は善良だが、近視眼的な態度をくりかえすならば、3度目の戦争・動乱が起きることは必定であり、しかもそのときは、生きてその出来事を語り得るものは、ひとりもいないということなのだ。」(チャーチル「第二次世界大戦」より)

 

チャーチルという政治家は、このように、だれよりも歴史の高見から超然とかまえてものをいう政治家だった。

ある人は、チャーチルの文章を読んで、光輝く希望を与えたり、容赦なくつぎつぎと移り変わるさまざまな現実の困難に、シーンをパノラマのように展開させ、人びとはひとつひとつの出来事を、巨大な宇宙の展望を見るかのような目で、それを読んでいったと書かれている。

その本の第1章の冒頭、ここにはふたつの大戦のあいだの時期、――その大部分をチャーチルが要職につかずに過ごした時期にあてられていて、「わたしの目的は」と書き、まず――

「この時代に生き、かつ行動してきたものとして、まず第一に、第二次世界大戦の悲劇はいかに簡単に防止し得たかについて書かれ、いかにして邪悪なものらの悪意が、それらを打って一丸となって、もっと大きな有機体に改組しないかぎり、それのみがつつましい大衆に安全を約束し得るところの、あの根気強さとか、確信とかの要素を欠いているか等々を隠さずに、明らかにすることである」と書く。

これが、チャーチルの、この本を書く目的だったのだ。

膨大をきわめる本の中身は、ほとんどその目的のために書かれている。チャーチルの大戦まえの7年間というもの、ことあるごとにこのような演説に終始し、この要職にない政治家は、まるで、マケドニアの独裁者がもたらす危険を暴露するかのような語気をもって、ギリシアの雄弁家のように語っている。

チャーチルは迫りくるドイツの脅威に対処すべき方策を適切に対処しておれば、このような危険は避けることができたのだ、といっている。

外相になったアントニー・イーデンが、戦前、閣内にあって実に勇敢に戦ってきたのに、辞職のほかなしという心境に陥ったとき、チャーチルをおそった暗黒の絶望感は、文脈からも切々と伝わってくる。

「深夜から明け方まで、わたしはベッドに寝たまま悲しみと不安の念に身も細るおもいだった。ただひとり、この力強い若い政治家が、果てしなく陰気で、煮え切らない流れのようななりゆきに身をまかせ、あなたまかせの、相手の意図をはかりそこねるようにして、気力は少しもないといった態度であったが、敵対する政治家たち大勢に抗して、毅然と立っているかに見えた。……しかし彼はいま、わたしには、英国民の生きる望みを具現化していると思えたが、……その彼が、いまや、わたしからも、国民からも去っていったのである」(チャーチル「第二次世界大戦」より) 

全編、このような文章で書かれている。

まるでサミュエル・バトラーの小説「万人の道」をほうふつとするような文章だ。このように書きつづけるチャーチルは、文章家としても高く評価され、1954年にノーベル文学賞が贈られた。

もとより、日本とイギリスはふしぎな因縁をもっていて、薩英戦争以来、友好関係にあり、パークス公使が幕府を見限って薩摩や長州に先行投資をしたり、明治新政府を世界で最初に承認したこともあって、さらにチャーチルも賛成票を入れた日英同盟によって、日露戦争や第一次世界大戦では日本は勝利した。

チャーチルは「日露戦争」の結果は、ただ一国をのぞいて、すべての列強を驚かした。ヨーロッパで唯一の、冷静な目で日本の軍事力を測定できたイギリスは、この戦争で得るところは大きかったようだ。

イギリスの同盟国日本が勝利したことで、フランスは、イギリスとの友好を求めるようになったといわれている。

イギリスでは、現在でもチャーチル人気はとても高く、2002年にBBCがおこなった「100名の最も偉大な英国人」の世論調査では、1位に輝いたそうだ。なお、「第二次世界大戦(The Second World War)」(全4巻、佐藤亮一訳、河出書房新社、河出文庫、2001年)は、いまは翻訳本で読める。

「もしもドゴールが私より先に死んだら、はじめの計画通りでいい。しかし、彼が私の葬儀に来ることになったら、ウォータールーを通らせたいのだ」といっている。

チャーチルはじぶんの死に臨んで、そんなことをいっていたという話がつたわっている。なぜウォータールーを通らせたいのかって?

ナポレオンがイギリスのウェリントン将軍に敗れたという歴史的主戦場の名だからだ。やって来るなら、ドゴールには、悔しい思いをさせるウォータールーを渡らせようというチャーチルらしい魂胆なのだ。1815年6月18日、ワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)は、双方熾烈をきわめ、その模様は、ビクトール・ユゴーの「レ・ミゼラブル」にも描かれた。

やっぱり、春は《けぼの》――ンボーの世界が見える!

 

 

だれもいないギャラリー

 

  今朝の日の出ごろは、霞がかかったような風景だった。そのなかから、太陽が薄ぼんやりとだれかの後輪のように、ハレーションを起こしたみたいにほの見えた。

今朝の新聞には、「イタリアのオリンピック」模様があちこちに報じられていた。

かつての詩人にも、過去からずーっと太陽を意識し、なかでもランボーは「La mer mèlèe,Au soleil.太陽と溶け合う海)」をうたっている。

詩人ランボーは、若いぼくに自分の「あけぼの」を呼びかけた人物として忘れがたい。ランボーの詩の特徴は、それだとおもう。

同様に、ランボーの死後に出版された詩集「イリュミナシオン」の《あげぼの》という作品も、きわめつけの詩だとおもっている。

「ぼくは、夏のあげぼのを抱いた」ではじまる散文詩だ。

 

ぼくは、夏のあげぼのを抱いた。まだ何も動いていなかった。水は死んでいた。野営した影たちは、森の道を離れてはいなかった。ぼくは歩いた。生き生きとして生暖かい息吹きを目覚めさせながら。すると宝石たちは目を凝らし、翼は音もなく飛び立った。……とつづく。

ランボー「イリュミナシオン」の《あけぼの》より

 

 

  前列左からヴェルレーヌ、ランボー。――ランボーは

  17歳ごろと思われる。画=アンリ・フアンタン=

  ラトゥール。印象派絵画の本にはきまって登場する

  絵である。

 

ここでは、詩のミューズが「あけぼの」になっているわけだけれども、しょせん、こころに描くのは女神。女神=エロスである。そう読んでしまうと、あまりにも生々しくて、みずみずしい。

世界の始まりを生きるエロスの衝動を感じさせる。詩人になりたいという、読む者をその気にさせるような文章である。 これらは詩人の物語であるとおもえばいいかも知れない。

詩人は挫折し、物語のてっぺんからいきなり反転し、ランボーが切り開いた現代詩全体の宿命、可能性の限界のすべてが、ここに盛り込まれているらしいことに気づく。

そこに、西條八十や、三好達治、小林秀雄らを虜にした悪魔が潜んでいるようだ。

「地獄の季節」は、語られる意味さえも極端に変えてしまった。

変えてしまったばかりか、いわばパッチワークみたいに継ぎ足された物語の間から、近代散文詩の「あけぼの」が差し込んできたかのようだ。

文学史のなかでは、これを「自由詩の誕生」といっているらしいのだが、この気運にもっとも大きなはずみを加えたのは、ヴェルレーヌとともに新しい韻文の探求につとめたアルチュール・ランボー(1854-91年)だったのでは、とおもう。わずか数年のあいだに、「生きながらにしてみずからに詩の切除手術を施した」(マラルメ)といわれるほど、ロマン派や高踏派をやっつけている。

そのあゆみは、ヨーロッパ絵画のあゆみと、ぼくには完全に重なって見える。ランボーが印象派絵画におよぼした影響は、はかり知れない。

マネの女たらしのスキャンダルは、マネの芸術を変えたし、カンヴァスに塗る色さえを変えた。太陽のイメージにまつわる愛の希求に象徴される描き方は、ランボーの詩文とそっくりなのだ。

それは「太陽に溶け合った愛」なのだろう。――太陽と番う海といってもいい。愛の究極的な1点を指し示した裸身の抱擁。瞬間を身にまとった永遠。――そういう考えを深めていった時代だったのではないか、とおもえる。

「マネの色は激しく、それでいて、磐石なデッサン力に支えられている。この両方をきわめた最初の画家は、おそらく、マネだったでしょうね」と、いつだったか、画家の高橋俊景画伯はいっていた。

有彩色の革命。――しかし、そういう意味ではゴーギャンもゴッホも、革命的な絵を描いているというのだ。しかし、そのふたりは、デッサンとのバランスに欠けた、と高橋俊景画伯はいう。色を全面に出す人は情熱家で、そういう意味ではゴーギャンもゴッホも、実人生のバランスを欠いていると。日本画家は、ぼくにそう力説する。

この話はおもしろい。じつに、おもしろいとおもう。

ゴッホの色彩は、いわれるとおり、情熱の色そのものだからだ。まるでカンヴァスが燃えるような色遣いだ。しかし、高橋画伯にいわれてみれば、デッサンは2の次、そういう印象があるなあとおもう。そういう人は、人生のバランスさえ欠き、彼らが生きているうちに報われることはなかったという。

ランボーも、15歳からの数年間はひときわ輝き、ヴェルレーヌとの事件を引き起こすまでは、輝いていた。彼の輝きは、詩文における色彩だったのだろうか。彼が好んで画家たちと交わったのは、そういうことも原因していたのだろうか。

ランボーの凛々しい美少年ぶりは、作品のイメージと強く結びついて、作品とは切っても切れない感じがする。石川啄木の美少年ぶりとよく似ている。ふたりとも夭折のアーティストだった。いっぽう、ランボーの友人だったヴェルレーヌは、短い生涯のあいだに、彼自身の容貌にかなり苦しんでいる。

ヴェルレーヌはきわめて美しく、繊細な叙情的な詩をたくさん書いたが、どう見ても彼の容貌とは釣り合っていない。それが強いコンプレックスとなり、奇行に走ったり、女性不信からランボーと同性愛にふけり、痴情のもつれから、ランボーにピストルを発砲して逮捕されるという事件まで引き起こしている。

ルネサンス期のイタリアをして、まさに人間の悪が花咲いた時代だったとすれば、ゆえにこそ、絢爛たる豪奢を帯びた時代としての魅力ある芸術が生まれていった。そのようにいう人がいる。ルネサンスは、「神を差し引いた人間の時代だった」といったのは、梅崎春生だった。

そしてまた、ランボーの時代に、詩の世界と絵画の世界が軌を一にして、スキャンダラスな悪の芸術が生まれていった。そういえるかも知れない。

「私とは、一個の他者である」

ランボーはそういった。Je est un autre. ――「私は考える」じゃなくて、「私において何者かが考える」というわけである。「私」=「私」という自己同一律に支えられた先験的な自己とは、まったく無縁の存在であるとランボーは考えたらしい。語り手の「私」は、たえず新しく生起し、そして死滅する存在というのである。

ランボーの詩には、一人称主語の「私je」が頻繁に出てくる。定冠詞の「le」についで2番目に多いといわれている。これは何を意味しているのだろうか。むかし、シャトーブリアンという作家がいた。彼の「ランセの生涯」という作品のなかで、「私は私自身を引用する(すると、私は時間でしかなくなる)」という意味の文章が出てくる。これとおなじだろうか?

ランボーも同様に、詩のなかで、「私」自身をほとんど引用しまくっている。そうおもえる個所がたくさんあることに気づく。こんなふうにいえば、むずかしく聞こえるかもしれないが、ランボーにとって、詩は、語り直された「私」ばかりで成り立っているように見えるのである。

■お気に入り、ブラームス「交響曲第1番」――

小澤征爾指揮ラームス「交響曲第番」

 

 ――何もいうことはない、この曲をまず聴いていただきたい。

 ブラームスの「交響曲第1番」ハ短調、作品68である。

 

 

ブラームス 交響曲第1番/小澤征爾指揮・サイトウキネン・オーケストラ

 

ぼくがこの音楽に触れたのはたぶん中学生のころだったが、ブラームスのことなど、何も知らなかったころのことだから、たいした記憶もない。

それからずいぶん時間をへて、1990年代初頭のある日、ぼくは札幌の、「芸術の森」にできた「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」(略称:PMF)の会場に出向いた。これは、1990年にレナード・バーンスタインの提唱ではじまった日本のクラシック音楽の国際教育音楽祭である。以来、

 

 レナード・バーンスタイン(1990年芸術監督)

 マイケル・ティルソン・トーマス(1990年-2000年芸術監督)

 クリストフ・エッシェンバッハ(1991年、1993年-1998年芸術監督)

 シャルル・デュトワ(2000年-2002年芸術監督)

 ベルナルト・ハイティンク(2003年首席指揮者)

 エド・デ・ワールト(2003年客演指揮者)

 ヴァレリー・ゲルギエフ(2004年、2006年首席指揮者、2015年- 芸術監督)

 

――といった、音楽家たちが招かれたフェスティバルだった。その初期のころ、会場がぼくの家から近かったこともあって、よく出かけていった。そこでぼくはブラームスの音楽を聴いたのである。

ブラームスは、大学生のころから、都内のコンサートで聴いていたが、ブラームスが自分のこころをとりこにしたのはずいぶんたってからだった。多くは新日本フィルの渡邉暁雄指揮によるものだった。

彼のコンサートは、ほとんど毎週聴いていた。

ちゃんと聴いておればよかったのだが、ぼくは音楽はただ聴くだけで、ぼくの音楽はほとんど渡邉暁雄指揮か、レコードのブルノー・ワルター指揮となんとなく決まっていた。

だから後年になって、はじめて小澤征爾さんの音楽を聴いて、身震いした。

そのころ彼はボストンにおられ、そのうちにウィーン・フィルがやってきて、カール・ベーム指揮の「第1番」を聴いて、ぼくはもっと身震いした。ぼくはブラームスを知らずにいたことをおもい知らされたのである。

そして、ブラームスの生涯を知り、数かずの彼の音楽を聴くようになった。

まず聴いていただきたいのは、第1楽章の、強い響きではじまる、バスとティンパニの連弾である。それが8分の9拍子という連弾で、突如として明るいト長調の和音が奏でられる。

木管と弦による音階的な下降が奏でられ、オーボエの主旋律と、それにつき添うホルンと木管が伴奏する。そのあたりが、もっともブラームスらしい音楽になっている。

専門家の話では、ブラームスの交響曲では例外とされているようだ。

つまり、このウンポーコ・ソステヌート――アレグロの第1楽章は、とてもゆるやかな序奏ではじまる。

「ウンポーコ(unpoco)」というのは、イタリア語の音楽用語で、ウン(un)は「1つの」という意味で、ポーコ(poco)は「少しの」だから、「やや少し」という意味を表している。

ウンポーコは単独では使われることがなくて、「アンダンテ・ウンポーコ(ややゆっくり歩くような速さで)」という意味になったり、「ウンポーコ・ソステヌート(たっぷりと、ていねいに)」という意味になったりする。ブラームスのばあいは、この「たっぷりと、ていねいに」という意味が重要なのだ。

ぼくはふたたび、テレビ受像機に写して、カラヤン指揮のブラームスの「交響曲第1番」をまわして聴いた。これがカラヤンの音楽か、とあらためておもった。1973年にリリースされたベルリン・フィルによる録音である。

音は不満の残る出来栄えだったが、さすがはカラヤン。ブラームスの曲趣をおもう存分に吟味してできた演奏で、なにも付け足すものはないとおもった。

後年、ぼくはウィーン・フィルを率いて来日したカール・ベーム指揮で、これを聴いた。そのときの驚きは、表現に困るくらい感動した。

ブラームスを演奏して間然するところがないとおもった。

時代は引き継がれていくもので、カラヤン亡き後、第1楽章をこのように演奏する音をはじめて聴いた。ワルターでも、ミュンシュでもなく、伝統の上にさまざまな解釈をほどこされ、ようやくカラヤンによって締めくくられたはずの「第1番」は、そのとき、べつの音楽に甦ったのを感じた。

それ以来、ぼくはカール・ベーム指揮がブラームスの基本になってしまった。なんだか聴きなれているはずのブラームスだったが、じっと聴いていると、どこか違う。

なんだろう? ぼくはブラームスという作曲家について考えた。

シューマン亡き後、ピアニストのクララ・シューマンをヨーロッパ演奏に送り出すときの、あの優しいブラームスの心遣いが、忘れられない。ロンドンでは、霧の誘惑をけっして信用してはいけないとか、疲れないように、からだを温めて休んでくださいとか、こまめに彼女あてに手紙を送っている。そして、クララからの返事がとどく。

そういう日々が、なんと40年もつづいたと書かれている。

クララとブラームスとの付き合いは、彼女の死をもって終りを告げるわけだけれど、その間、ブラームスは、作曲に邁進し、来る日も来る日も、繰り返し、ロマン派音楽の再生に没頭する。

そうして完成したこの「交響曲第1番」は、友人のリストやヨハン・シュトラウスとはぜんぜん違った音楽になった。

パリで――だったとおもうが、――この3人はひとつのテーブルを囲み、即興で何かつくることになった。最初にリストが、1小節をさらさらっと書いて見せた。つぎにヨハン・シュトラウスが、そんなのは朝飯前という感じで、日本の扇子を広げて、そこに、さらさらっと何か書いた。そしてブラームスの番になったが、彼は何も書けなかった。

ブラームスという男は、そういう男である、とぼくはおもっていた。

即興の妙手としては、少なくとも彼らふたりには、はるかに見劣りする。

しかし、ぼくには、ブラームスの音楽は、彼らにはない詩的な余韻、研ぎ澄まされた祈りの音楽に聴こえる。ロマン派最後の輝きを放ったのは、だれでもない、このブラームスだったとおもっている。

こんなふうにおもうと、ブラームスの音楽は、クララとともに生まれた、といっていいかもしれない。完成したその喜びを、ふたり分かち合ったのはいうまでもない。その喜びを、カール・ベームは表現してくれている、とぼくはおもった。

第1楽章の最初の導入部Un poco sostenuto-Allegで、すべてが決まった。こんな音楽は、聴いたこともなかった。

その音楽は、ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894年)によってベートーヴェンの「第10番」と名づけられた。ベートーヴェンの「第9番」の「歓喜」の合唱主題によく似ている。そればかりか、ベートーヴェン風に古風で、ベートーヴェン風にすぐれているからだろう。

ブラームスは北ドイツ人らしく、どこまでもくぐもった表現を押し通し、北国的な暗さと深さを奏でている。そう評する人はゴマンといるが、この曲の創作をおもい立ったのは彼の22歳のときだったといわれている。

シューマンの「マンフレッド」序曲を聴いたのがはじまりで、多感なブラームスはこのとき、新しい曲趣がおもい浮かんだ。

それが「第1番」で、第1楽章はまだできていなかった。そして1862年までにはだいたいのスコアが完成していたらしい。シューマンの妻クララ・シューマンも、ブラームスの新しいこの曲を見ていた。そして練りに練って、1876年の夏、ハンブルク近くのザースミッツで全体を仕上げ、その年の9月に完成したといわれている。

初演されたのは、完成された年1876年11月4日、カルルスルーエの大公の宮殿劇場で初演され、一週間後はミュンヘンで、12月にはウィーンでブラームス自身の指揮で演奏された。

ブラームスは、交響曲は4作しか残していない。

「第1番」は着想を得てから、じつに20年の歳月をかけて完成させている。

ブラームスはベートーヴェンから強い影響を受けているのだが、ふしぎなことに、ベートーヴェンのように、中間の楽章にスケルツォとか、メヌエットとかいう楽章をつくっていない。

しかも、この楽章をすべて第3楽章として描き、第2楽章を緩徐楽章風に描かれ、4曲とも、かたくなにおなじスタイルを押し通している。ただし、この「第1番」だけ、第1楽章と第4楽章にゆるやかな序奏をおいている。それがブラームスのスタイルなのである。

第4楽章に、ホルンののびやかな音色が出てくる。それは、シューマン先生の妻クララ・シューマンの誕生日の祝いとして、

 

 山の上高く、

 谷深く、幸あれ、

 御身に千回ものあいさつを送る。

 

という歌詞をつけて贈ったことのある旋律で、そのアルプスのホルンは、いかにものびやかな旋律を奏でている。

なんという曲であろうか、とおもう。

ブラームスにとって、クララとの思い出深い旋律だったのかもしれない。

で、今夜は、小澤征爾さんの指揮で聴いてみた。すばらしい。第4楽章は、アダージョ、ハ短調、4分の4拍子。ベートーヴェンとはちがったブラームスらしい喜びを歌い上げている。喜びながら、回想し瞑想する音楽だ。

ラビアの《レンス》」より

 

きょうは晴れ、草加は気温15度。静かな夕暮れを迎えています。――いかがお過ごしでしょうか。お送りしましたものは、日々なんの脈絡もなく、漫然区々と気ままに書いてきたもので、ぼくは書くよりも本を読むほうがずーっと好きで、あいかわらず、多読三昧の日々を過ごしております。

いままた、青年とのおしゃべりに付き合って、こんな時間になったものの、彼のいうT・E・ロレンスの興味に耳を傾けながら、彼の主著「知恵の七柱」(東洋文庫、全5巻)をひっぱり出してきて、それを広げながらのおしゃべりでした。ぼくがT・E・ロレンスと出会ったのは、昭和38年、大学2年のころです。ロレンス研究家の中野好夫の本「アラビアのロレンス」(岩波新書、1963年再版)を読み、映画「アラビアのロレンス」を見たのが契機で、おりにつけてロレンスの本を読みました。

そのころはまだ翻訳されていなくて、ぼくは彼の「Seven Pillars of Wisdom」という分厚いペンギン文庫版を読み、その格調高い文章にびっくりしたものです。英文をあまり読んでいなかったぼくは、それでも辞書と格闘して読んできました。とてもおもしろいからですが、ロレンスはほんらいは考古学者で、アラビア語が堪能で、英国のアラブ統一の政治的な野心に翻弄され、砂漠の国、そのファイサル国王の統治するアラブ統一の苦難のなかで、イギリス人にしてアラブ国家建設に加担していきます。彼は英陸軍中佐(のちに大佐)として、チャーチル植民地相の麾下(きか)で、大きな仕事に立ち向かっていきます。

彼の「砂漠の反乱」という本では、対トルコ軍との戦いの日々を克明に描き、映画は、この本を下敷きにしてつくられたようです。

 

T・E・ロレンス

 

最初に訳本が出たのは1971年で、柏倉俊三訳の「知恵の七柱」(全3巻、東洋文庫)です。近年、田隅恒生訳で全編訳出され、多くの資料をつけて、J・ウィルソン編全5巻として、おなじ東洋文庫版から出ました。これはすばらしい訳本で、ロレンスの格調高い文章がそのまま日本語に再現され、ロレンス研究の取り組みの深さが伝わってきます。

ロレンスは、20世紀初頭の英文学界に金字塔を打ち建てたと評されるくらい、文章の巧みさにおいてチャールズ・ダウティと双璧をなす人物と目されるようになりました。一考古学者・軍人が書いた文章とは、とてもおもえないような出来栄えで、やがて、チャーチルの本がノーベル文学賞を受賞しますが、それにまさるものがあると、ぼくはおもいました。ロレンスはけっして著述家ではなく、行動する思想家、そんなふうにぼくにはおもわれます。

たとえば、ダマスカスからアカバ湾を攻略する記録は、一編の叙事詩といっていいほど、その研ぎ澄まされた文章は目を惹きます。そんな話をするものですから、青年とのおしゃべりにも熱が入り、時間をわすれてしまいます。

「お父さん、お風呂、どうするの? 早く入って!」という妻からの電話。

風呂もいいけど、おしゃべりもいい。

こんな調子で、わいわいやっております。――というのも、ぼくは腰を痛めて以来、いつもこの時間に入浴しています。

少しふるい話からはじめます。

1963年、ロングランで上映していた「ウエストサイド・ストーリー」が終わり、その後、おなじ日比谷のピカデリー・シアターで「アラビアのロレンス」がかかりました。東京理科大学の学生だった野々村一郎くんが先に観て、えらく感動していたのを聞き、ぼくもおっかけ観に出かけたものです。都合4回も観ました。

ピーター・オトゥール主演の映画で、オトゥール自身、映画はこれが2作目というときでした。彼はアイルランド人で、もともと舞台俳優です。シェイクスピアを専門とする俳優だったことをあとで知りました。この映画は、アカデミー賞7部門を受賞しました。

実際のT・E・ロレンスについては、ぼくは多少の知識を持っていました。中野好夫の書いた「アラビアのロレンス」(岩波新書)という本を読んでいたからです。T・E・ロレンスといえば、かつては東京大学の教授に招聘(しょうへい)しようという動きがあったりして、彼はアラビア語が堪能で、中東事情に明るく、専門は考古学ですが、アラビアの軍事、政治にも精通しています。彼はのちに「知恵の七柱(Seven Pillars of Wisdom)」という本を書きました。

このタイトルは、旧約聖書の「箴言」に出てくることばで、「知恵は家を造り、7つの柱を立てる」から取られたといわれています。

この本をペンギン・ブックス版で手に入れ、若いころに読んだのです。かりに英文科を出ていても、なかなか読解するのに骨の折れる難解な書で、晦渋をきわめる文章でした。

いつだったか、北海道にいたとき、佐原清美さんという、当時20歳の看護学校の学生さんにその本をプレゼントしてしまい、いま、ぼくの手元にありません。果して彼女は読めたかどうか、たぶん読めなかったかもしれません。それ以来、ぼくはこのT・E・ロレンスという男に興味を持ちました。

映画では、身長188センチのピーター・オトゥールが演じましたが、じっさいのT・E・ロレンスは細身の男で、165センチしかなく、体型にくらべて、上半身がえらく大きく発達して、頭の大きな男だったようにおもいます。彼のじっさいの写真を何枚も見ています。

世界の火薬庫と呼ばれたキナ臭い中東戦争は、戦後の昭和48年まで尾を引いていて、昭和39年ごろ、中東戦争が巻き起こったとき、アラビアの新聞にはいっせいに「ロレンスあらわる」の見出し記事がおどったそうです。当時の朝日新聞の一面トップにも報じられました。アラビア独立の立役者だったイギリス人ロレンスは、彼らにとっては期待の星だったわけです。

あれから、50年がすぎました。

戦後の中東戦争は、1948年から1973年までつづき、その間、大規模な戦争は4度ありました。ユダヤ人国家のイスラエルと、周辺アラブ国家との戦争です。アラブ側の盟主だったエジプトのサダト大統領が和平に調印すると、戦争は終息しましたが、アラブ主義を掲げた一青年によって彼は暗殺されました。

ロレンスが活躍したのは、それよりもずっと以前の1920年代です。

当時、アラビアには無数の民族がいて、結束力に欠けていました。ロレンスはアラビアの独立を旗印に、アラビア統一のために活躍しました。彼は考古学者であり、軍人であり、著述家でもありました。あの格調高い文体は、どのようにして生まれたのだろうとおもいます。

前出のチャールズ・ダウティには「アラビア砂漠紀行」という本があります。ロレンスは彼のような著作を目標にしていたらしいのですが、なにしろ、ロレンスの人並みはずれた読書量は追随をゆるしません。3年間で5万冊を読破しているのです。1日あたり45冊という量になります。それに、彼には並外れた行動力がありました。

幼いころから自転車を愛用し、1日で160キロを走っています。その後、彼はラクダを愛用し、ロンドンの街をラクダに乗って歩きまわったりしています。そして、やがてオートバイを愛用するようになり、「オートバイ狂」といわれるようになって、時速177キロで飛ばした記録があるといいます。彼は1935年5月19日、このオートバイ事故で亡くなりました。享年46。

まずは、つぎの文章を読んでいただきたいとおもいます。彼の「知恵の七柱」(田隅恒生訳、東洋文庫、2008年、第2巻)、その第57章「戦闘」の文章を転記してみます。

 

この知らせに、われわれは即座に立ち上がった。ただちに荷物を駱駝に載せ、シリアの卓状地がこちら側に延びた端にあたる起伏の多い高原をダラウシャ族とともに抜けて行った。焼けたばかりでまだ熱いパンを手に持ち、食べながらの行軍で、その味には谷底を渡る大軍が巻き起こす砂塵の舌ざわりと、斜面をぎっしりと埋めている苦蓬(にがよもぎ)の独特の刺激的な匂いが混じっていた。長い、息の詰まるような夏の日が続いたあとの山中で暑い夜の静かな空気に包まれていると、何もかもがいきなり五感に印象を刻み込む。われわれのように長い一列縦隊の行進では、暗闇のなかを慎重に足を運んでいる先頭の駱駝が埃をかぶった芳香のある藪の枝を蹴ると、その香りの粒子が空中に舞いあがり、長い靄になって漂い、あとに続くものの道を匂わせるのだ。

(T・E・ロレンス「知恵の七柱」、第57章)

 

丸一日、これが続いた。途方もない暑さで、アラビアで私がいままで経験したこともない暑い日だったが、それに不安と走りどおしが加わって、きびしいことになった。頑健な部族民ですら残酷な太陽に屈服するものが出て、岩かげに這い込むか、放り込まれるかして生気の回復を図っていた。わが方は人数面の劣勢を機動力で補い、トルコ軍の動きのあれこれを迎撃する新しい適地を求めて長い山なみをつねに眺めながら駆け登り、駆け降りるのを強いられた。山肌は険しく、息が切れ、草木は走りまわるくるぶしに小さな手のように絡みつき、体を後ろに引き倒そうとする。するどく角ばった地面で足は切れ、エネルギーがあるほうの男たちも夕暮れの前には赤錆色の血痕を歩くたびに残していた。

(T・E・ロレンス「知恵の七柱」、第57章)

ぼくは、昭和38年に出た中野好夫の「アラビアのロレンス」という本を読んで、自分なりのロレンス像を勝手に描いていました。中野好夫は英文学者ですが、知る人ぞ知るロレンス研究家でもあります。当時、銀座の寮で夢中になってその本を読みました。

デビット・リーン監督の「アラビアのロレンス」がやってきたとき、その映画の迫力に圧倒されました。アレック・ギネス、アンソニー・クイン、オマー・シャリフなど錚々たる俳優たちが登場します。広い砂漠のなかでは、人間の姿など、まるで蟻のようにしか見えません。1960年代に、この映画を企画した人たちの才能はまことにすばらしい。

先年、デビット・リーン監督の生誕100年を記念して、東京・テアトル・タイムズスクエアで上映されていました。

中東近現代史のなかで、いまでもロレンスは大きな地位を得ています。

しかし映画「アラビアのロレンス」は、Т・E・ロレンスの実像ではありません。ベドウィン主体のアラブ独立軍を指揮する、金髪碧眼の青年考古学者Т・E・ロレンスは、欧米でつくられた人物像です。

この英雄伝説は、いつどのようにしてつくられたのでしょう。

イギリスが種を蒔いた20世紀最大の、そして21世紀におよぶ最長の地域紛争――アラブ・イスラエル紛争の原点である第一次世界大戦の直後において、どのようにかかわってきたのか、少し考えてみたいとおもいます。

ロレンスは20世紀における最も著名なイギリス人であって、第一次世界大戦後の中東問題の処理にからむ、その存在の大きさは、ロレンスの直属の上司だったウィンストン・チャーチルも遠くおよばないほどです。

それほど魅力ある、謎に満ちた人物なのです。

中東戦線でロレンスを取材した従軍記者ローウェル・トマスが帰国後、各地で行なった記録映画の上映が火つけ役となり、トマスはその後イギリスに招かれ、4年にわたって国内を巡業、ロレンスだけで100万人の動員に成功しました。そうして、国民的な英雄としてロレンス像を定着させたというのが、どうも真相のようです。

金髪碧眼の青年考古学者が、ラクダにまたがり、アラブの叛乱軍を率いて独立のために戦うというのが、そのシナリオだったようです。おもしろいことに、ロレンス本人が、この出し物を5回も見たと書かれています。

そして後半生を貫いた極度の自己否定ともいうべき奇怪な行動と、悲劇的な死。これでロレンスは、伝説的な英雄にまつり上げられていきました。

生誕100年を記念して訳出された、ヨルダンの歴史家スレイマン・ムーサの「アラブが見たアラビアのロレンス」という本は、いっぷう変わったロレンス論になっているらしく、ぼくはまだ未読ですが、訳出された牟田口義郎氏の話によれば、「アラブの視座」という、これまでになかった立場から書かれたユニークなロレンス論になっているそうです。

つまり、「アラビアのロレンス」とは、西洋人が西洋でつくられた西洋のお話であり、英雄の出現にその舞台を提供したアラブは、何ら関知していなかったというものです。これもまた、おかしな話です。

にわかには信じられませんが、西洋人のつくり話だといわれてみれば、たとえば、ロレンスの主著「知恵の七柱」には、いたるところにアラブ蔑視の姿勢が見られます。アラブ抜きの「アラビアのロレンス」など、考えただけでもおかしいと、牟田口義郎氏はのべています。

著者のムーサ氏は、ロレンスは骨の髄までイギリス人であったし、彼が祖国とアラブのはざまで、煩悶する悲劇の人であったとする通説を退けているというのです。牟田口義郎氏はいいます。

《彼はラッパを吹いて名声を手に入れたが、その一方で、自分の欺瞞に対する歴史の厳しい判決を恐れる一個の繊細で学識のある人物でもあった。この「内なる声」が彼の後半生の行動指針となる――これがムーサ氏の結論だ》と。

「アラビアのロレンス」は、アラブに何を残したのか、ムーサ氏の博捜の跡をたどると、彼の業績は、「アラブの叛乱」を指揮したという戦中よりも、むしろ、戦後処理の政治段階のほうがはるかに大きかったように描かれているというのです。

植民地相となったチャーチルの指令で、フサイン・ヒジャーズ王を見捨て、西アジアのアラブ世界を、フランスとイギリスが分割する政策に手を貸し、その裏で、「サイクス・ピコ協定」を結んだ事実は、ロレンスを怒りへと追い立てました。

これが事実です。ロレンスが砂漠が嫌いになったのは、そのときでした。自分がイギリス人であることを彼は恥じたのです。

「イギリスの矛盾した帝国主義的な政策こそ、現在のアラブ・イスラエル紛争の直接の原因である」とする牟田口義郎氏の論は、明らかに説得力を持ちます。