■1972年、日中国交正常化交渉 2 ――
周恩来と田中角栄
周恩来、毛沢東、田中角栄
あるとき、弟子の子貢(しこう)という人物が孔子にきく。
「士とは、どういう人物をいうのでしょうか」士とは社会の指導的な立場にある人物と理解していいだろう。つまり子貢は指導者の条件について尋ねたわけである。孔子はいう。
「己(おのれ)を行なうに恥あり、四方に使いして君命を辱(はずかし)めず」と答えた。自分の言行について恥を知り、諸外国に使いしてりっぱに外交交渉をやりとげられる人物、これが士であるという。
そこで子貢は、ふたたび尋ねる。
「もうひとつランクを落とすと、どういう人物になりましょうか?」と。
「親孝行で兄弟仲もよい人物。これなら士といえるだろう」
平凡すぎて、拍子抜けするような答えだが、しかし、平凡だからこそ、いざ実行となるとかえってむずかしい。たぶん子貢もむずかしいとおもったのかも知れない。さらにつづけて、
「もうひとつランクを落とすと、どういう人物になりましょうか」ときく。
「言(げん)必ず信(しん)、行(こう)必ず果(か)。硜硜然(こうこうぜん)として小人(しょうじん)なるかな。そもそもまたもって次(つぎ)となすべし」と孔子は答えた。
約束したことは必ず守る。手をつけた仕事は最後までやりぬくというタイプは、融通のきかない小人物ではあるけれど、まあなんとか士の仲間に入れてもいいだろうというわけである。「言必ず信、行必ず果」というのは、指導者としては最低限の条件ということになる。
これをきいた子貢は、
「ああ、斗筲(としょう)の人、なんぞ算(かぞう)るに足らんや」といっている。カスみたいな連中だ、お話にならんよ、というわけである。――このような文脈で「言必信、行必果」を読むと、カスみたいだけれど、士としてはかろうじて合格という程度ということがわかる。少なくとも100パーセントの褒めことばではなかった。
♪
周恩来は明らかに、このような微妙なニュアンスを含めて田中首相に贈ったことがわかる。――つまり、あなたも約束を守らなかったら、つまらない政治家と見なしますよ、と釘をさしたわけである。それをもし知っていたら、田中首相も無邪気に喜んでばかりはいられなかったはずである。
外交交渉のシーンに「論語」が登場し、かなり重要な使われ方をしたという珍しいエピソードだが、ぼくは、この出来事を忘れていない。
陽明学者であり、中国文化にあかるい思想家の安岡正篤氏は、この「言必信行必果」といういい方は、一国の首相に贈ることばとしては、たいへん「失礼ではないか」と苦言を呈している。「言必信行必果(げんかならずしん・ぎょうかならずか)」という色紙を贈られて得意満面の姿が新聞紙上をにぎわしたときの話だ。
ぼくは、かならずしもそうはおもわない。論語では、身分の上下を問わず、総理大臣であろうが、日雇い労働者であろうが、論語は人の身分を越えた教えである。
約束を守る人間を「士」と認めようというのだから、かならずしも悪い評価とはいえない。約束を守るくらいの政治家は、政治家の資質としてはあたりまえじゃないかと周恩来はおもっているほど、彼は田中角栄という人間像の、ありのままの実直さを評価していたともとれるのである。
ともあれ、周恩来は、それから3年後に膀胱がんで亡くなった。
周恩来という世紀の大物が、政治の表舞台に最後に登場したのは、田中角栄との交渉の場面であった。自分のいのちはもう尽きようとしている。そのことを自覚していた周恩来は、もっとも困難な交渉をやり遂げたのちに亡くなった。亡くなってみて、あのとき、中国側がどのような状況にあったかがわかり、日本側の思惑をよそに、大きな問題に直面していた中国の姿が浮き彫りになったのである。
♪
それは旧ソ連の恐怖だった。
太平洋側に張りついていた中国100万人規模の軍隊は、ソ連の恐怖が高くなるにつれて、北へ北へと移動させた。そのために、南はがら空き状態になった。
周恩来は、このままではいけない、南には日本がある、日本と仲良くしなければもはや立ち行かなくなる、そう考えたに違いない。
中国側は、戦争賠償責任を切り捨てても、アジアの盟主日本を味方につけておかなければならない、だから、中国は、あんなにも早く日本との国交を急いだのである。そこを理解できなかった日本側は、条約締結という目的を実現したが、どうして実現できたのか、首脳陣も当時はほとんど理解できなかった。
♪
蛇足だけれど、当時、日本の国防費は160億ドル、中国は50億ドルだった。
アジアの大国と見なされつつある中国だが、その国防予算は日本の3分の1しかなかった。アジアのなかでは日本が突出した国防費を持っていたことがわかる。いまは逆転している。
そういう彼らにとって、日本はひたすら軍国主義の道を歩みつづけているように見えてしまうのは、とうぜんかもしれない。それを突き破って、いま日本と手を結ばなくちゃやっていけないという高度な政治的判断を下したのが周首相である。
政治的手腕という面でいえば、周恩来のほうが1枚も2枚も上だったということだろう。
結果論でいえば、田中さんは中国との国交樹立という偉業を成し遂げた政治家ではあるが、交渉の中身は、ほとんど周首相の提言でまとまったに過ぎない。心にくいほどの手腕を発揮している。
「田中さんがお国へ帰られても、国民の理解が得られるように」と、周恩来は戦争賠償問題をはじめから放棄して臨んだ。そうでなければ、日本との国交再開は長引く。周首相には時間がない。おそらく死を覚悟した決断だっただろうとおもわれる。
日本側に一円も賠償させない周首相の決断は、最後には、中国国民を納得させたが、それは、周首相ならではのことだったとおもわれる。そして賠償問題は放棄する。……そのかわり、国交を速やかに回復させる。それが中国側の狙いだった。
♪
サンフランシスコ講和条約では、アメリカの方針によって中国が疎外され、吉田茂は、アメリカの意向に添って、台湾との平和条約に踏み切った。これは、有無をいわさぬアメリカの極東戦略体制に組み込まれた日本の立場だった。
鳩山内閣になって、国交正常化への動きが表面化するかに見えたが、これも実現せず、岸内閣では、ふたたびこの道を閉ざした。60年代に入って、佐藤内閣も一貫して、中国敵視の政策をやめなかった。が、このときアメリカはすでに、中国との関係打開をめざす秘密工作を開始していたのである。
しかし、日本政府は、それを見抜く能力を持たなかった。キッシンジャー大統領補佐官の北京訪問が報じられると、それまでアメリカの尻馬に乗ってひたすら中国敵視、政経分離をとなえてきた佐藤内閣の無能さがさらけ出される形となった。
♪
こうして、あらたに成立した田中内閣は、アメリカの対中国方針にしたがう意味からも、中国との国交回復に踏み切らざるを得なくなったというのが真相だろう。ここでも、アメリカ追随の姿勢を崩すことができなかったわけであるが、歴史的な評価という面から見ると、田中角栄は、戦後の中国問題に決着をつけた第一人者ということがいえる。
日本がまだ、中国と国交がないとき、大平さんは、日本に上海バレー団を招いた。その団長を首相官邸に呼び、にこにこしながら座って握手をする姿がテレビに写った。大平さんは座ったまま、握手の手を放そうとしない。手を握ったまま会談がはじまる。そして、大平さんはいう。
「あなたの国とはまだ国交はありませんが、帰国されたなら、この手紙を周恩来さんにぜひ渡してほしい」といって、封筒に入った書簡を手渡す。そして、「上海バレー団のみなさんを、日航機で北京までお送りする用意があります」といった。
団長さんはちょっと困ったような表情をし、いったんは断る。団長が、そのときの模様を周総理に電話で報告すると、周総理はこういった。
「よろこんで大平外相の申し入れを受けなさい。日本の飛行機で帰国しなさい。それが政治というものです」と。
このくだりを、ぼくはいまもちゃんと覚えている。
日本の外交をになう大平さんが、中国にどうしたいとおもっているのか、会う以前から周総理には伝わり、話はでき上がってしまった感じである。田中角栄より、8歳年上の大平さんの申し出に、周総理は乗ったわけである。大平さんの巧みな外交が功を奏した。
ぼくは、田中さんにはできないことを、外相の大平さんがもうやっているとおもったものである。ぼくは、政治の話は得意ではないが、このようにながめると、政治も小説以上におもしろいとおもう。
残念ながら、そのときの上海バレー団の団長さんの名前を失念してしまった。孫平化さんといったか、たしかなことはもう分からない。
のちに、国交が開かれたとき、この団長さんは政府の重要な要人のひとりであったことがわかった。いま考えれば、あるいは、もともと政府の要人が団長として送り込まれたのかもしれない。中国側も、対日本外交にもっとも力を入れていたときだった。そして何よりも、周恩来は、中国人として、日米安保条約を認めていたただひとりの政治家だった。
そのとき、周恩来74歳、田中角栄54歳だった。