■1972年、日中国交正常化交渉 2 ――

恩来と中角栄

周恩来、毛沢東、田中角栄

 

あるとき、弟子の子貢(しこう)という人物が孔子にきく。

「士とは、どういう人物をいうのでしょうか」士とは社会の指導的な立場にある人物と理解していいだろう。つまり子貢は指導者の条件について尋ねたわけである。孔子はいう。

「己(おのれ)を行なうに恥あり、四方に使いして君命を辱(はずかし)めず」と答えた。自分の言行について恥を知り、諸外国に使いしてりっぱに外交交渉をやりとげられる人物、これが士であるという。

そこで子貢は、ふたたび尋ねる。

「もうひとつランクを落とすと、どういう人物になりましょうか?」と。

「親孝行で兄弟仲もよい人物。これなら士といえるだろう」

平凡すぎて、拍子抜けするような答えだが、しかし、平凡だからこそ、いざ実行となるとかえってむずかしい。たぶん子貢もむずかしいとおもったのかも知れない。さらにつづけて、

「もうひとつランクを落とすと、どういう人物になりましょうか」ときく。

「言(げん)必ず信(しん)、行(こう)必ず果()。硜硜然(こうこうぜん)として小人(しょうじん)なるかな。そもそもまたもって次(つぎ)となすべし」と孔子は答えた。

約束したことは必ず守る。手をつけた仕事は最後までやりぬくというタイプは、融通のきかない小人物ではあるけれど、まあなんとか士の仲間に入れてもいいだろうというわけである。「言必ず信、行必ず果」というのは、指導者としては最低限の条件ということになる。

これをきいた子貢は、

「ああ、斗筲(としょう)の人、なんぞ算(かぞう)るに足らんや」といっている。カスみたいな連中だ、お話にならんよ、というわけである。――このような文脈で「言必信、行必果」を読むと、カスみたいだけれど、士としてはかろうじて合格という程度ということがわかる。少なくとも100パーセントの褒めことばではなかった。

周恩来は明らかに、このような微妙なニュアンスを含めて田中首相に贈ったことがわかる。――つまり、あなたも約束を守らなかったら、つまらない政治家と見なしますよ、と釘をさしたわけである。それをもし知っていたら、田中首相も無邪気に喜んでばかりはいられなかったはずである。

外交交渉のシーンに「論語」が登場し、かなり重要な使われ方をしたという珍しいエピソードだが、ぼくは、この出来事を忘れていない。

陽明学者であり、中国文化にあかるい思想家の安岡正篤氏は、この「言必信行必果」といういい方は、一国の首相に贈ることばとしては、たいへん「失礼ではないか」と苦言を呈している。「言必信行必果(げんかならずしん・ぎょうかならずか)」という色紙を贈られて得意満面の姿が新聞紙上をにぎわしたときの話だ。

ぼくは、かならずしもそうはおもわない。論語では、身分の上下を問わず、総理大臣であろうが、日雇い労働者であろうが、論語は人の身分を越えた教えである。

約束を守る人間を「士」と認めようというのだから、かならずしも悪い評価とはいえない。約束を守るくらいの政治家は、政治家の資質としてはあたりまえじゃないかと周恩来はおもっているほど、彼は田中角栄という人間像の、ありのままの実直さを評価していたともとれるのである。

ともあれ、周恩来は、それから3年後に膀胱がんで亡くなった。

周恩来という世紀の大物が、政治の表舞台に最後に登場したのは、田中角栄との交渉の場面であった。自分のいのちはもう尽きようとしている。そのことを自覚していた周恩来は、もっとも困難な交渉をやり遂げたのちに亡くなった。亡くなってみて、あのとき、中国側がどのような状況にあったかがわかり、日本側の思惑をよそに、大きな問題に直面していた中国の姿が浮き彫りになったのである。

それは旧ソ連の恐怖だった。

太平洋側に張りついていた中国100万人規模の軍隊は、ソ連の恐怖が高くなるにつれて、北へ北へと移動させた。そのために、南はがら空き状態になった。

周恩来は、このままではいけない、南には日本がある、日本と仲良くしなければもはや立ち行かなくなる、そう考えたに違いない。

中国側は、戦争賠償責任を切り捨てても、アジアの盟主日本を味方につけておかなければならない、だから、中国は、あんなにも早く日本との国交を急いだのである。そこを理解できなかった日本側は、条約締結という目的を実現したが、どうして実現できたのか、首脳陣も当時はほとんど理解できなかった。

蛇足だけれど、当時、日本の国防費は160億ドル、中国は50億ドルだった。

アジアの大国と見なされつつある中国だが、その国防予算は日本の3分の1しかなかった。アジアのなかでは日本が突出した国防費を持っていたことがわかる。いまは逆転している。

そういう彼らにとって、日本はひたすら軍国主義の道を歩みつづけているように見えてしまうのは、とうぜんかもしれない。それを突き破って、いま日本と手を結ばなくちゃやっていけないという高度な政治的判断を下したのが周首相である。

政治的手腕という面でいえば、周恩来のほうが1枚も2枚も上だったということだろう。

結果論でいえば、田中さんは中国との国交樹立という偉業を成し遂げた政治家ではあるが、交渉の中身は、ほとんど周首相の提言でまとまったに過ぎない。心にくいほどの手腕を発揮している。

「田中さんがお国へ帰られても、国民の理解が得られるように」と、周恩来は戦争賠償問題をはじめから放棄して臨んだ。そうでなければ、日本との国交再開は長引く。周首相には時間がない。おそらく死を覚悟した決断だっただろうとおもわれる。

日本側に一円も賠償させない周首相の決断は、最後には、中国国民を納得させたが、それは、周首相ならではのことだったとおもわれる。そして賠償問題は放棄する。……そのかわり、国交を速やかに回復させる。それが中国側の狙いだった。

サンフランシスコ講和条約では、アメリカの方針によって中国が疎外され、吉田茂は、アメリカの意向に添って、台湾との平和条約に踏み切った。これは、有無をいわさぬアメリカの極東戦略体制に組み込まれた日本の立場だった。

鳩山内閣になって、国交正常化への動きが表面化するかに見えたが、これも実現せず、岸内閣では、ふたたびこの道を閉ざした。60年代に入って、佐藤内閣も一貫して、中国敵視の政策をやめなかった。が、このときアメリカはすでに、中国との関係打開をめざす秘密工作を開始していたのである。

しかし、日本政府は、それを見抜く能力を持たなかった。キッシンジャー大統領補佐官の北京訪問が報じられると、それまでアメリカの尻馬に乗ってひたすら中国敵視、政経分離をとなえてきた佐藤内閣の無能さがさらけ出される形となった。

こうして、あらたに成立した田中内閣は、アメリカの対中国方針にしたがう意味からも、中国との国交回復に踏み切らざるを得なくなったというのが真相だろう。ここでも、アメリカ追随の姿勢を崩すことができなかったわけであるが、歴史的な評価という面から見ると、田中角栄は、戦後の中国問題に決着をつけた第一人者ということがいえる。

日本がまだ、中国と国交がないとき、大平さんは、日本に上海バレー団を招いた。その団長を首相官邸に呼び、にこにこしながら座って握手をする姿がテレビに写った。大平さんは座ったまま、握手の手を放そうとしない。手を握ったまま会談がはじまる。そして、大平さんはいう。

「あなたの国とはまだ国交はありませんが、帰国されたなら、この手紙を周恩来さんにぜひ渡してほしい」といって、封筒に入った書簡を手渡す。そして、「上海バレー団のみなさんを、日航機で北京までお送りする用意があります」といった。

団長さんはちょっと困ったような表情をし、いったんは断る。団長が、そのときの模様を周総理に電話で報告すると、周総理はこういった。

「よろこんで大平外相の申し入れを受けなさい。日本の飛行機で帰国しなさい。それが政治というものです」と。

このくだりを、ぼくはいまもちゃんと覚えている。

日本の外交をになう大平さんが、中国にどうしたいとおもっているのか、会う以前から周総理には伝わり、話はでき上がってしまった感じである。田中角栄より、8歳年上の大平さんの申し出に、周総理は乗ったわけである。大平さんの巧みな外交が功を奏した。

ぼくは、田中さんにはできないことを、外相の大平さんがもうやっているとおもったものである。ぼくは、政治の話は得意ではないが、このようにながめると、政治も小説以上におもしろいとおもう。

残念ながら、そのときの上海バレー団の団長さんの名前を失念してしまった。孫平化さんといったか、たしかなことはもう分からない。

のちに、国交が開かれたとき、この団長さんは政府の重要な要人のひとりであったことがわかった。いま考えれば、あるいは、もともと政府の要人が団長として送り込まれたのかもしれない。中国側も、対日本外交にもっとも力を入れていたときだった。そして何よりも、周恩来は、中国人として、日米安保条約を認めていたただひとりの政治家だった。

そのとき、周恩来74歳、田中角栄54歳だった。

■1972年、日中国交正常化交渉 1 ――

恩来と中角栄

 

先日、日本画の高橋俊景画伯と会い、戦後の日中国交正常化についておしゃべりした。ぼくらは会えばけっこう政治的な話もしている。そしてぼくは、条約締結という局面で、論語の話が出てきた話をした。すると、

「そのときの周恩来の《論語》の話を、もういちどいってください」というので、最後は論語の話になった。

今朝の新聞によれば、ロシアのウラジオストクで開かれている「東方経済フォーラム」で、安倍首相と習近平主席が会談し、その10月に首相訪中調整に入ったことがわかっている。「日中関係は正常な軌道に乗った」としていたものの、尖閣諸島の領有権他をめぐって、いまも好ましくない状況下にある。

中国問題はいまはじまったわけではない。戦後の大きな政治的な出来事としては、日中の国交再開が実現したが、それが戦後最大の出来事だったようにおもう。それでいま、おもい出すことを書く。

 

https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page24_001940.html

 

あれは1972年(昭和47年)の秋だった。――いまから40年以上むかしになる。戦後、日本と中国が国交を再開したのは、このときである。ちょうどニクソン・ショック、――日本をさしおいた米中の頭越し外交というビッグな出来事のあった年で、日本の首相は、佐藤栄作から田中角栄にバトンタッチされ、沖縄、小笠原諸島が返還された年であった。

その年の9月29日、田中角栄首相は、大平外務大臣、二階堂官房長官、高島条約局長らを引き連れて、戦後はじめて北京を訪れ、北京人民大会堂で、中国側首脳陣と戦後はじめて顔をつき合わせた。それまでは国交がなかった。日本の要人を乗せた日航機が北京空港に降り立つというのは、戦後はじめてのことだった。

 

周恩来と田中角栄

それまで、「竹入メモ」で知られる公明党の竹入委員長が、上海経由で北京に入り、いろいろと中国側の首脳陣たちとの事前の工作をやり、

「田中さんが、もし北京にこられるなら、北京空港を田中さんのために空けて待っています」という周恩来首相のメッセージをぶら下げて帰国した。

戦後はじめての中国外交をやれるよう下地をつくった。竹入委員長の功績はとても大きかったとおもわれる。だが、この功績をひとり占めしたとして、その後、竹入委員長は公明党委員長のポストを追われ、創価学会からも追放され、活動の場を失った。

しかし、それを受けた田中は、その年首相に選ばれると、ただちに日中問題を解決するために北京へと飛び立った。日本側首脳陣は、意気揚々と北京空港に降り立ったのである。

そして、その日の歓迎晩餐会で、田中首相は、

「貴国の国民に多大なご迷惑をおかけしました」と陳謝した。

東アジアの大東亜共栄圏という名のもとに、日本は東アジアの国々をつぎつぎに併合し、なかでも、中国に戦争をしかけ、軍部による満州国――現在の吉林省長春市――を樹立した。

軍部は多くの中国人を殺傷し、迫害した。日本は戦争に負けて、平和外交を表明し、戦後7年目にして国連に復帰し、専守防衛に徹して、軍部を持たない東アジアの盟主として中国国民に謝罪し、ふたたび中国との国交を結ぶ目的で中国首脳陣との交渉に臨んだ。

この一方的な日本側からしかけた戦争によって、多くの中国国民は塗炭の苦しみを味わい、このことについて、首相は遺憾の意を表して「多大なご迷惑をおかけしました」と陳謝したわけである。

ところが、この「ご迷惑(添了麻煩 ティエンラ マーファン)」ということばが、中国のマスコミを通じて、たいへんな反発を呼び、「ご迷惑の一言ではすまない!」という、国民の悲痛な叫びが中国全土で巻き起こった。

このことばをめぐって、外交交渉が一歩もすすまなくなり、交渉がはじまったばかりだというのに、交渉の初日から思わぬ事態となり、その日の交渉が終わって宿舎に戻った日本側首脳陣はすっかり困り果て、とくにたいへん真面目な取り組みで知られる大平外相は、

「明日からの交渉を、どうするつもりだ?」と首相に迫る。

「交渉決裂ならば、仕方ない。だめならだめで、帰ろうよ」と首相はいう。

首相だけがマオタイ酒を飲んで顔を真っ赤にしている。その他の首脳は、酒にはいっさい手をつけず、憂鬱そうな表情を浮かべて、飯も喉を通らない。

「きみら、大学出は、だめだなあ。……こういう修羅場でじたばたしても仕方がないだろう。だめならだめで、結構!」

そういって、首相だけがひとり酒を飲んでいたという。

翌日、2回目の交渉に臨む。

会場のまえにいくと、周恩来首相が入口近くに立って、にこにこしながら日本側首脳陣に握手を求めて迎え入れた。日本側は全員、キツネにつままれたような顔をし、むりやり笑顔をつくって握手を交わした。いっぽう、新聞・テレビのマスコミ報道によれば、中国の青年たちの暴動化していく騒ぎをトップニュースとして報じていた。

席につくと、周首相から、

「田中さん、あなたのごあいさつでは、わが中華人民共和国の国民は納得しません」といい、いま中国で起こっている国民の声を説明する話を延々と聞かされる。

そこで、

「田中さんが、心からわが国国民に謝罪するというのならば、わが国は貴国にたいし、戦争賠償責任を放棄します」と発言した。

それまで、日本側首脳陣は、戦争賠償問題で、多大の外貨を中国に支払う覚悟でいたので、周恩来首相の「賠償責任を放棄します」という発言に、おもわず耳を疑った。聞き違いではないか?

「貴国の国民に、さらなるご負担を強いることは、中国政府の本意ではありません。賠償問題は外交の最大級の問題です。だが、われわれには田中さんしだいでは、その問題を放棄する用意があります」と周首相は答えたのである。それに対して、高島条約局長は、台湾とのあいだで、日華条約が成立し、蒋介石はすでに戦争賠償責任を放棄するといい、賠償問題は決着済みであるといったのです。それを聞いた周恩来は、顔を赤くして怒りました。周恩来は、中国側の譲歩をくみ取っていない日本に苛立ったのである。

日本側はだれひとり、周首相の真意を汲みとる人間はいなかった。

周首相が、そのように発言する目的はいったい何だろう? 

暴動化する中国国民の盾になって、周首相ひとりが田中首相に握手を求める真意は、いったい何だろう、ということだった。もしかすれば、周首相は国民に殺されるかも知れない。その矢面に立って、ひとり熱っぽく条約締結を迫る周首相のほんとうの気持ちを理解する人物は、日本側にはいなかったのである。

それまで、日本は台湾を唯一の中国政府とみなして平和条約を締結している。ここで、中華人民共和国政府を唯一の中国政府と見なして平和条約を取り交わすことは、台湾との条約を反故(ほご)にするということになるので、日本側は、なんとも困難な交渉をするしか方法がなかった。

平和条約の締結を目的にした首脳外交なのだから、とうぜん、高島条約局長を引き連れて行った。それが問題をいっそう大きくした。台湾との平和条約を蹂躙(じゅうりん)する締結はできないと、高島条約局長は発言したからである。

彼は条約局長なのだから、とうぜんである。

さて、これには田中首相も、大平外相も、二階堂官房長官も、中国側にどう説明していいか、わからない。いっそう大きく膨れあがる難問山積のまえに、日本側は、会談の突破口を見つけることができなかった。

つまり、台湾との平和条約がある以上、中国側との平和条約締結はできない。もしも、一方的に中国側と条約を結べば、日本の国際的な信用は失墜する。苦渋の選択を迫られた日本側には一枚も切り札がない。それを知っている周恩来首相は、友情ある説得を繰り返す。

そのときに、田中首相は、ぎくしゃくしていた尖閣諸島問題を切り出したが、周首相は、その問題は「後世の政治家たちに委ねようじゃありませんか」と切り返し、現在にいたっている。

なぜなら、いまここで、尖閣問題を切り出したら、国交正常化問題に決着をつけることができなくなる。それを見越した周恩来は、後世の政治家たちに委ねようとしたのである。それ以来、のちのち中国国内では、尖閣問題には決着がついていないということになってしまった。

そして、翌日も交渉に入る。

ただ、その日は趣きがちょっと違った。会談終了後、周首相と田中首相その他がクルマに乗って、毛沢東の家を訪れたのである。

しばらく話してから、毛主席はいう。

「日本と中国は、むかしから兄弟ではないか。ときに兄弟喧嘩は大いにやるべきです。気がすんだら仲良くすればいいのですよ。それでどうです? もう喧嘩は終わりましたか?」と田中首相にきく。

すると、周首相がいう。

「もう終わったので、ここにお連れしました。田中さん、お国に帰られるまえに、万里の長城にのぼってください」というのである。

田中首相らは、何の話なのかさっぱり要領を得ないままに、会談は終了する。

「2国間の不正常な状態を正常に戻す」という、きわめて抽象的な文言を入れて、国交再開のための条約が締結されたのである。すべて周首相から出たことばだった。台湾を刺激することなく、日本と中国2国間の国交をここに樹立したわけである。

「2国間の不正常な状態を正常に戻す。これでいいのではありませんか?」と周首相はいう。なるほど、そのとおりである。共同声明の案文もそれでまとまり、双方の代表団にほっと安堵の色が浮かぶ。いちばんほっとしたのは、大平外相だったのではないだろうか。いちばんやきもきしていたのは大平さんだった。

中国との戦争で、日本は中国国民の生命、財産を奪い、中国全土を荒土にしてしまった。その責任は大きく、たったいちどの交渉で首尾よく締結できるとはおもっていなかったから、会談日程がすべて終わり、帰途についた機内でくつろぎながらも、いったいどうしてわれわれは一円の賠償もなく、中国との条約締結が実現できたのか、だれにもわからなかった。

会談の最後に、周首相は田中首相に一枚の色紙を取り出して、田中首相に渡す。見ると、「言必信、行必果」と書いてある。約束したことは必ず守る、そして、やりかけた仕事は必ず最後までやり通すという意味である。

田中首相はこれを見て、すっかり喜び、「信(しん)は万事の元(もと)」と日本語で書いて周恩来に贈る。

じつは、周首相のいう「言必信、行必果」ということばは、「論語」のなかに出てくることばである。それは、どういう意味なのだろう? 

その「論語」の意味は、これを受け取ってただちに歓べるようなことは書かれていないのである。

砲よりタナを重視した時代

 

ぼくは、国際政治についてはほとんど門外漢もいいところだが、かつて、国際政治学者のジョセフ・ナイ(ハーバード大学教授)という人が1990年代の終わりごろに提唱した「ソフト・パワー」ということばがあって、興味深く読んだことがある。

 

ジョセフ・ナイ

 

それは、強制や報酬ではなく、国の魅力によって、のぞむ結果を得る能力のこととされてきた。

具体的には、その国の文化や、政治的な理想、政策への魅力も指しているだろう。1543年に、ポルトガルから種子島に火縄銃がもたらされたとき、その衝撃にはすさまじいものがあった。日本人がはじめて西洋の火器に触れた瞬間だった。その火縄銃1丁が、なんと1000両という破格の値打ちものだった。現在のお金にして1億円はするだろう。

日本人は、これを手に入れたのだった。

ポルトガル商人はよろこんだ。

「これからは、もっと売れるぞ!」

ところが、その翌年からポルトガル商人がやってきても、日本人は彼らの売りつける火縄銃を買わなくなった。

どうしてか?

それから12ヶ月後、日本は火縄銃の生産国になったからである。

どうしてそんなことができたのか? 日本には刀鍛冶というすぐれた技術があった。鉄砲1丁をつくるのに、その技術を使えばわけなくできたからだった。

孫子はいった。

「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」と。

しかし、その上の句は意外にも忘れられている。

「これゆえに百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」といったのである。

徳川時代の交渉史、江戸期から幕末にいたる交渉史を見ると、日本は火器よりも、つねに刀を重視してきた。それはどういうものであったか、検証してみる価値がありそうだ。刀こそ、「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」の象徴的な存在なのだ。

明治9年の廃刀令によって、一般に刀を持つことは禁じられたが、現在、登録すれば、だれでも刀を持つことができる。

この「日本刀」という表現は、明治になってからいわれるようになった。それまでは「刀(かたな)」である。

一般には江戸時代が舞台になった時代劇に登場する黒鞘(くろさや)の刀をおもい浮かべるとおもう。現在、武道の稽古用として一般に市販されている真剣や、模擬刀(もぎとう)は、鹿角(ろっかく)をかたどった刀架といっしょになって、ともに大小セットで売られている。

もっともスタンダードな日本刀は、そういうイメージのある黒鞘の大小である。江戸時代にはこれを「番(ばん)指し」と呼び、武士の標準的な装備、――つまり制服ならぬ「制刀」だったわけである。

日本刀とひと口にいっても、それには刀と太刀(たち)がある。太刀の鞘には金具がふたつついており、この足金物の環(かん)に下緒(さげお)というストラップを通して左腰に吊る。帯に「差す」、または「帯びる」刀にたいして、太刀はこんなふうに携行するところから、太刀を「佩()く」という。

また、刀を腰に差すときは、刀の刃を上向きにして差し、太刀を佩くときは、刃を下向きにして吊る。刃を上向きにしておくと、いざというとき、抜刀と同時に一動作で相手を斬ることができる。下向きにしておくと、抜刀してから構えに入る、もうひとつの動作が要るため一歩遅れる。

日本刀といえば、どれも刀身に反りがあるのがあたり前というイメージがある。つまり、半月刀である。

じっさいには、そこまで反りがあるわけではないのだが、三日月をおもわせる浅い反りを打っているのが、日本刀の特長である。反りのないのを「直刀」という。太刀があらわれるまえは、すべて反りのない直刀だった。

反りのない直刀にたいして、反りのある太刀や刀を「彎刀(わんとう)」という。日本刀剣史を見てみると、弥生時代から平安時代まではすべて直刀だった。直刀がどうして彎刀になっていったのかを調べると、おもしろい。

直刀よりも、反りのある彎刀のほうが敵を斬りつけるときに威力を発揮する。刀身が反動にも耐えやすいこともうなずける。この彎刀ができたことで、大陸から伝わった刀剣の影響を脱し、やっと日本独自の刀剣、――日本刀が生まれたといえる。

武士以外の者の帯刀を幕府が禁じたのは、正保2年(1645年)とされている。

それとともに、武士も好き勝手な長さの刀を差すことはできなくなった。佐々木小次郎の「物干し竿」の異名を取った3尺余の大太刀は、大坂の陣が火ぶたを切る以前、徳川幕府の支配体制が、まだ未完成という時代のことだった。

庶民から刀を取りあげると同時に、幕府は公用以外で武士が槍やなぎなた、ゆみ、鉄砲を持ち歩くことを禁じた。理由は、平和な時代になると、日本刀以外の武器は、無用の存在になったからである。

しかし、武器としてほんとうに必要なときは、武士は刀ではなく、長柄(ながえ)の武器を頼りにしていたようだ。その代表が鴨居にしのばせる槍となぎなたで、それをつねに架けておいて侵入者にそなえた。

これらは、映画などでおなじみの武器である。

平和な江戸市中で、大きな闘争となったのは赤穂浪士の吉良邸討ち入りである。

そのとき、47士は、じっさいには刀ではなく、槍を武器にして戦った。剣豪として名高い堀部安兵衛は大太刀の刀身に長柄をつけた、長巻(ながまき)という武器で戦っている。

ところが、庶民は2本差しはゆるされなかったが、刀身が2尺に満たない脇差は武器とは見なされず、その1本差しならば、何の問題もなかった。

たとえば、黒澤明監督の「用心棒」という映画では、宿場の覇権をあらそうふたつの一家が登場し、双方とも親分、子分もごくあたりまえのように長めの脇差を持っている。親分も子分も、武士ではないので、2本差しはゆるされない。

この物語は、舞台となる宿場の治安が破綻しているためにお構いなしというのではなく、もともと幕府の禁令には抵触しない武器だったからである。

じっさい、ばくち打ちが長いほうの刀剣を持ち歩いていたとすれば、たちどころに罪に問われたに違いない。少なくとも、脇差にかぎっては、多少長めであっても、取締りの対象にはならなかったようである。

だから、江戸時代の人びとが旅をするとき、護身用の脇差を携行したことはよく知られている。このように1本差しであれば、役人にとがめられることはなかった。ただし、ばくち打ちが持つ脇差のことを「長脇差(ながどす)」と呼ばれ、ふつうの脇差よりも長めのものだった。

剣術でいうところの「間合い」ということばは、専門用語だが、「間合いをとる」というのは、一足一刀を狙って間合いをとるという意味である。

一足一刀、――つまり1歩踏み込んで刀を振るえば敵にとどく有効な射程距離を意味している。対する弓は、15間(約27メートル)、火縄銃はじつに30間(約54メートル)の有効射程距離を誇る。

一足一刀の斬り合いのシーンでは、刀はこすれる。とくに刀身の「しのぎ」という出っ張った部分がこすられる。これがのちに「しのぎを削る」という語になった。

幕末ともなれば、いっそう飛び道具の独壇場となる。

さらに、最新兵器として、当時、買いつけられたガトリング砲は、米国人ガトリングによって考案されたもので、機関銃とか、アームストロング砲などが出現すると、もはや刀などは形無しである。それでも、幕末にクローズアップされるのは、なんといっても刀だった。

それはなぜか?

池田屋事件で有名な新撰組、土佐藩の岡田以蔵(いぞう)、薩摩藩の田中新兵衛、中村半次郎、肥後藩の河上彦斎(げんさい)といった《人斬り》たちは、勤王と薩幕に分かれて敵対し、刀を交えた。

これはいったいどうしたことだろう。

刀が無用の存在になったことは、すでに歴然たる事実であるにもかかわらず、この幕末においては、これほど刀剣に重きをおいた時代もかつてなかったようにおもわれる。

外国の圧力に屈して開国後に吹き荒れた尊王攘夷の嵐は、徳川幕府と大名家の別なく、血で血を洗う派閥抗争を引き起こした。敵対する派閥の重要人物を暗殺して決着をつけるという、「暗殺の時代」を迎えたのである。

武士道に帰依(きえ)しているものの、今もって信じられていることばである。

これはどうして?

それはなぜ?

などとはけっして教えない。

なぜなら、これは論理ではないからである。それは自分で考えなさいといっている。

われわれの学問はほとんど論理だから、有無をいわさぬこのような教えをバカにする。私利私欲に満ちた現代のわれわれには、空論に思われて当然であろう。

それほど、現代日本人は、日本の教えを忘れてしまっているということである。もともと日本人は、子供たちにはものの道理を論理的に教えなかった。「それは自分で考えなさい」という教えだった。

すばらしい教えじゃないかとおもう。

■非対称の美は、つねに生成変化してやまない未完成の美。それが日本の美だ。――

昧力のある日本文化。善花氏の説

制作中のルーシー・リー

 

かつて、コロナウイルスが蔓延した時代、ヴィクトリアン・スタイルについてのニュースは聞かなくなったなとおもったものである。数年前、ぼくはイギリス在住の日本人女性とぐうぜん会ったことがある。ヴィクトリア朝時代のアンティークに惚れていて、カズオ・イシグロの小説を愛読している女性で、商社マンの夫とともにロンドンに住んでもう8年になるという人だった。

彼女の話のなかに、とつぜんスージー・クーパーの陶器の話が出てきた。

スージーのほんとうの名前は、スーザン・ヴェラ・クーパー(Susan Vera Cooper、1902年-1995年)というそうだが、アール・ヌーボー時代の影響を受け、見るだけでも、とてもすてきだわ、といっていた。

ヴィクトリア&アルバート・ミュージアムが発行している本のなかにも出てくる。きっかけは、ポートベローにあるスージー専門のアンティーク・ショップで見つけた陶器が、ことの他すてきだという話をしていた。

「ぼくには初耳で、ルーシー・リーみたいな陶器ですか?」ときいてみた。

「ちょっと違うのですが、ルーシー・リーの作品は、もっと高級よ。わたしたちには買えないけれど、スージーの作品は、たとえばカップ&ソーサーなんか、まあまあ手ごろな金額で買えますのよ」といっていた。 

「でも、彼女の作品には、希少価値があります。ポットとかアシュトレイとか、パウダーボウルなんか、可愛いアイテムがいっぱい」という。

彼女の話によれば、アンティークといえば、日本では「骨董品」という語を想い浮かべるけれど、もっと実用的なジャンクとか、フェイクとか呼ばれる部類の雑貨にちかいもので、値段も安価なものが多いそうだ。

「それでいて、たんなる雑貨とは違うのよ。芸術的なクオリティがあるのよ」といっていた。

それって、何だろうとおもった。

「もちろん、ガラクタもあるのよ」といっていた。

 

ルーシー・リーの作品

ちゃんとした「紳士(ジェントルマン)」ということばをつくったのもヴィクトリア時代だったなとおもう。ヴィクトリア女王は在位63年という長きにわたって大英帝国の時代をつくった。

デパートメントストアの草分け的なHarrodsというショッピングセンターもでき、外交も活発化したけれど、イギリス国民は、「家庭的」な小物や水彩画、刺繍もおこなわれ、家庭での語らいの場を重んじた茶の文化とともに花咲いた時代。

ヴィクトリア女王の夫であるアルバート公は、幸福な家庭生活の模範を示し、産業革命によって大英帝国の黄金期を迎え、さまざまな商人が活発に仕事をした時代に、家庭文化というものを提唱したという。中産階級ができたのもそのころ。

「中産階級っていっても、日本とはちがうのよ。子供たちは学校には行かせず、家庭教師をつけて勉強させるのよ。子供の世話や、食事はメイドがやり、主婦は、外に出てはたらくなんて、もってのほか!」

「じゃ、世の奥さまたちは、何をしてたんですか?」

この時代の刺繍がすばらしいのは、そういう主婦らの手によって念入りにつくられているため、「だれでもみんな芸術家だったわよ」という。

それも実用的で、それでいて芸術的なの、と彼女はいった。

「それらを総称して、ヴィクトリアン・スタイルっていっています」

「ルーシー・リーのボタン作品、見たことありますか?」と念のためにきいてみた。

「もちろん、見ました。とてもすてきですね」という。

イギリスには、格式というものがあるという。彼女はその話をした。

昭和天皇は、両国には不幸な時代があり、若いころ賜ったガーター勲章「ブルーリボン」を着用することをゆるされなかった。キリスト教国以外で、ガーター勲章「ブルーリボン」を賜っているのは日本だけである。

昭和天皇のバナーの復活を見たのは1971年5月22日だった。30年前の1941年12月に取り外された朱色の地に輝く菊の紋所をあしらったバナーだった。

昭和天皇のガーター勲位復活への道のりは、けっして平坦な道ではなかった。670年におよぶ歴史をもつ、「ブルーリボン」の愛称で知られるガーター勲章は、明治以降、日本の歴代天皇にも授与されてきた。イギリス最高の、誉れ高い勲章である。いまふたたび同勲章を佩く上皇殿下を見ることができる国民の幸せもまた大きいといえる。

 

呉善花さん

「ぼくはルーシー・リーの作品は、好きですね」といった。

「もちろん、彼女の作品はなんでも好きです」と彼女はいった。

人は何に美しさを感じるかは、西洋人においても、アジア人においても、それぞれ異なっているという説がある。なかでも、アジアでは、中国、韓国、日本とでは、また違うということが指摘されている。

それは、どういうことなのだろうとおもう。

たとえば、茶花のような一輪挿しのように、広い世界を暗示するのではなく、与えられた材料だけでそれ以外に広がらず、それで満ち足りた小世界を表現する――そこに、日本人が「わび・さび」を感じるというのは、「日本人がごくわずかな材料で、自分だけの世界をつくることのできる習慣があるからだ」ということを聞いたことがある。

日本以外のアジアで共通する美の基準が「鮮やかな色彩」、「きらきらした輝き」、「均一に整った美(左右対称の美)、「完成された不動の美」だとすれば、日本は、まるで正反対である。

日本人は、「中間の色や曖昧な色」、「鈍色(にびいろ)に沈んだ色」、「左右非対称(歪みの美)」、「つねに生成変化をやめない未完成の美」、「地肌()のままの美」こそ、美しいと感じるだろう。

この説を唱えたのは韓国人で文化人類学者の、呉善花(オ・ソンファ)という人である。――彼女の「曖昧力」(PHP新書、2009年)という本のなかに明解に書かれている。そういう日本人独特の美意識のあり方を、そんなふうにつきつめられていわれてみると、なるほどそうだと思うしかない。

ところが、ルーシー・リー(Dame Lucie Rie、1902年-1995年)の作品のすべては、その「中間の色や曖昧な色」、「鈍色(にびいろ)に沈んだ色」、「左右非対称(歪みの美)」、「つねに生成変化をやめない未完成の美」、「地肌()のままの美」を主張しているではないか!

これにはぼくは驚いた。

西洋にも、日本的なといえる美があった! ――というより、おそらく、ルーシー・リー自身がたどりついた究極の美の結晶なのだろうとおもわれる。

ルーシー・リーはいっている。

「窓を開けるとき、いつも驚きの連続だった」と。

このことばに象徴されるように、1995年、93歳でこの世を去ったルーシー・リーの生涯は、つねに、みずみずしい驚きと発見に満ちた毎日だったに違いない。

彼女はウィーンの裕福なユダヤ人家庭に生まれ、工業美術学校でろくろのおもしろさに魅了され、ほどなくして、その作品は国際的な展示会で数々の賞を受賞し、高い評価を受けた。

しかし、迫りくる戦火の跫音(あしおと)とともに亡命を余儀なくされ、1938年にロンドンに居を移した。それ以降、およそ半世紀にわたり、陶器制作に打ち込んでいる。

バーナード・リーチや、ウイリアム・ステート・マリーといったイギリス初期のスタジオ・ポタリーの作家たちがつくりあげていった、大陸とは違った陶芸環境で、ルーシーは、当時の先鋭的な建築やデザインの思潮ともひびきあう独自のスタイルを確立していったのだろう。専門的なことはわからないが、ろくろからあみだす色彩と装飾が一体になり、作風は静かでありながら、強い存在感を放つスタイルをつくったのは、たしかなようだ。

おそらく、こうした美は、ルーシーがろくろを動かすあいだに、ひとつひとつ驚きとともに発見していったものだろう。ぼくは20世紀を代表する陶芸の美を見たような気分になる。

師匠として仰いでいたバーナード・リーチではあったが、いつしか、彼女の考えとは異なるようになり、師匠の影響を打ち破る、

物静かで見るものを感動させずにはおかない歪んだ非対称の作品をかずかず発表し、ヨーロッパでも話題になったという。そういう陶芸は、それまでヨーロッパにはなかったのだ。作品を創造するためのコンポジションスケッチが、多数残されていた。それらは、小さなノートに描かれ、大ざっぱな図がいろいろと描かれていた。

コーヒーカップなら、カップのデザインと取っ手のデザインが別々に存在するように描かれ、それらのノートには、デッサンがさまざまなかたちで描かれていた。そのノートこそ、すばらしかった。

さっきのべた呉善花(オ・ソンファ)さんは、日本に留学して、長いあいだ日本の美の、ふしぎな問題を研究している学者である。――従来、日本文化の土台は、古代に朝鮮半島を経由した大陸文化の移入によって形作られたというのが定説であった。

しかし、たんに移入や模倣ということばでは説明のつかない「深さ」が、技術的にも美術的にも、日本文化にはあると彼女は主張する。

たとえば、現存する最古の木造建築、法隆寺(607年建立、670年炎上、8世紀までに暫次再建)の伽藍配置を見ると、ふしぎなことに再建するたびに、仏塔と金堂配置の形式を変えていったことなどを取り上げ、高さも容積も、不均等な左右非対称の配置になっている。このように配置した仏塔は、中国や韓国など朝鮮半島にはないという。

それはそれとして、ルーシー・リーの作品を見て、

「これは、日本の陶器じゃありませんか!」とおもったほど、その作風が、日本人の追求する陶芸作品と瓜ふたつなのだ。呉善花(オ・ソンファ)さんもびっくり!

ある日、呉善花さんはいう。

――日本語って、いかに多く「受け身」(受動態)が日本語で多用されてきたかがわかりますと。会話の中味が受け身形ですから人に優しいんです。とんがらない。ケンカにならないんですと。

「女房に逃げられました」

「泥棒に入られました」

「亭主に死なれた」など。そのことと、日本文化の形成と何か関係があるかもしれないといっている。

 

――ぼくは、ルーシー・リー展では、ボタンの陳列はなかったので、彼女のボタン作品は、写真でしか知らない。彼女はボタンを作品として展示することを拒んだらしい。ぼくは、ボタンをぜひ見たいとおもった。おそらく、日々の生活のために、それらをつくって戦時中の食糧難の時代、糊口(ここう)をしのいだのだろう。

ほんとうにルーシーの見てもらいたい作品は、ボタン作品をのぞくすべてだっただろうとおもう。90歳を超えても、彼女はろくろをまわしているのだ。釉薬を塗り、釜で陶器を焼き、それを運び出す。そのとき、彼女はいう。

「思った以上に、よくできました」と。

映像ではもうすっかり白髪の女性になったけれど、ルーシーの顔には喜びの表情が浮かんでいた。

「……すてきなお話ね。そのボタン、機会があったら、またぜひ、見てみたいわね」と、彼女はいった。そして、彼女はつけ足した。

「いい忘れましたが、田中さんは手紙をよく書かれるとか、そうですか?」

「ええ、書きます」

「でしたら、イギリスへ行きましたら、ホテルじゃなく、ぜひホリディ・フラットをご利用なさって!」

「ええ、もちろんです。イタリアへ行っても、ぼくはホテルには泊まりません。1週間ぐらい、部屋を借ります。鍋釜つきの、……」

「イギリスもそうよ。ライティング・デスクのあるお部屋がいいわね。イギリスの旅行者は、たくさん手紙を書きますから。物書きの方ならぜひ。……これ、トマス・クックの時代からそうなんですのよ」と彼女はいった。

■エミリー・ディキンソンの詩。――3

が親切にも、たしのために……

 

前回の説明も、ぼく自身はまだ完全ではないと考えています。

なぜなら、さらに補足をすれば、「in the Ring」の「Ring」が大文字になっているからです。彼女はなぜ大文字にしたのでしょうか? 

その答えが見つかるといいですね。――「車座になって」、「(手をつないで)輪になって」という意味もあり、それを吟味していくと、生徒が輪になって争っていたとは、ボクシング競技などがピーンとくるわけですが、専門家たちはいずれもこうした発想を持たないようです。

いまのところは、訳者の川本皓嗣氏の答えが正しいとしかいいようがありません。

ぼくは、別の考えも持っています。

蛇足になりますが、それをもう少し説明することをお許しください。

――もういちど、第3連の詩を振り返ってみてください。

「死」を乗せた「馬車は、子どもたちが休み時間に――競技の場で――争っている学校を通り過ぎ」とあります。

物語の情景が、小説を読むようにひろがってきます。

しかし、そこになぜ学校が出てくるのでしょうか? 

なぜ競技に熱中する子どもたちが出てくるのでしょうか? ――「わたし」はもう、墓場への最後の旅を「死」とともに楽しんでいる身分。道すがら、そこに見えてきた学校、その子どもたち。――みんな「死」とはまるで無縁な存在みたいに競技に熱中しているというわけです。

第1連の、「死が親切にも、わたしのために止まってくれた」という語り手は、死も恐れず、死の影も見せずに、無邪気に熱中している子どもたちを目撃します。素直な語り口でそれを表現しています。

しかしどうでしょう。

「in the Ring」とは闘う場で、そこが、いわば人間が生きていくために闘う世間、世の中という、もっとひろい世界をもし作者が意図していたとしたら、どうでしょうか。大文字の「Ring」の意味が見えてきそうです。

しかも「in the Ring」でなければならないとしたディキンソンの執拗な拘りがそこにあったのではないか、と。

ぼくはこのエミリー・ディキンソンという詩人の発想に迫るために、もっともっと深遠なところへ降りていかなくてはなりません。

墓場へいく途中で、遊び呆けている子どもたちの姿を「わたし」はそっとながめやります。

「わたしもつい昨日まで、そうだった」といっているような詩に見えてきませんか? 

「わたしが死のために立ち止まれなかったので――」というセンテンス。まさかこんなに急に死が訪れるとは知らなかったので、というふうに読めませんか? いかがでしょう。

長いあいだアメリカの編者たちを悩ませたのは分かるような気がします。

資料によれば、ヒギンソン編集の「改悪版」では、「strove」を「played遊んでいた」という陳腐な語に置き換えています。また、「At Recess ――in the Ring」を「Their lessons scarcely done授業が終わるのもそこそこに」というように、無邪気な表現に改めてしまっています。

これではディキンソンの魅力が損なわれてしまいますね。

さて、つぎに「わたしたち」は、「passed the Fields of Gazing Grainじっと見つめている穀物畑」を通り過ぎます。さっきの校庭の子どもたちは、遊びに夢中、生きることに夢中で、死者などには目もくれません。

ところがここで、おそらく黄金色に実った小麦畑でしょうか、その畑が、死出(しで)の旅に向かう馬車のほうをじっと見つめています。凝視といえば、関心のあらわれには違いありません。

ところがこの場合、ただの知らん顔よりも、かえってその視線のよそよそしい冷たさ、突き放すような視線が、もっと痛いように迫ってきます。他人の葬列を沿道の人びとが遠くからじっと見守っている、そういう感じでしょうか。

「わたし」も馬車から畑のほうを見ているわけですが、向こうから車内の「わたし」の姿が見えていないのかも知れません。

そして最後に馬車は「the Setting Sun沈む太陽」を通り過ぎ、ずいぶん遠くまできて、とうとう日が暮れてしまったけれど、さらに、その先へと旅をつづけます。

この第3連では、「We passedわたしたちは通り過ぎた」という行頭の語句の繰り返しが印象的です。死の馬車は、この世の縮図のような情景をつぎつぎと「通り過ぎ」、見捨てていきます。

馬車は「ゆっくりと」進んでいるのですが、その反面、「We passed」の反復と、つぎつぎに移り変わる風景によって、一種ふしぎな運動感覚を伝えています。それとともに、この宿命的なといえるドライブの不可逆性――前へ前へと進んで、ふたたび後戻りのできない旅の不可逆性を、強く印象づけています。

そうして、車窓から外の世界をながめる語り手の目に、すでにこの世の「勤めと余暇」を捨て去って、すっかり身を退いた者の視線、その静けさを感じさせます。

チャールズ・アンダーソンという、ディキンソン研究家の解釈がおもしろいので、ちょっとここで、参考までにご紹介しておきます。「子供の遊ぶ学校と穀物畑と落陽」は――

 

 ①人の一生の若年・壮年・老年を表わし、

 ②一日の朝・昼・夜を、

 ③ 四季の巡りによる自然の芽生え・成熟・凋落を暗示、

 ④ 人生の「労働と余暇」のあり方としての活動(子供)・受動性(自然)・動き

   の停止(落日)を、

 ⑤ 地上の存在すべてを蔽う人間・生物・無生物の別を、

 ⑥ 葬列の道筋としての村の学校・村外れの畑・遠くの埋葬地、

などを象徴しているといいます。

 

なかなか参考になっておもしろいと思いますが、ぼくの発想を支援してくれそうな解釈はなさそうです。

ここでおもしろいのは、「passed the Setting Sun沈みゆく太陽を通り過ぎた」という表現です。落日も通り過ぎたといっているのです。ここではそんなに早く進んでしまったことを暗示しています。そして第4連へとつづきます。

 というよりも――彼の方がわたしたちを通り過ぎた――

 すると霧たちが、身震いと寒気(さむけ)を誘った――

 何しろ、わたしのドレスは糸遊(いとゆう)の一重(ひとえ)――

 肩掛けは――薄絹(チュール)だから――

 Or rather ――He passed Us――

 The Dews drew quivering and chill――

 For only Gossamer, my Gown――

 My Tippet――only Tulle――

 

学校や麦畑につづいて、落日も通り過ぎたと思ったけれど、それは「わたし」の思いちがいで、じつは太陽のほうが、わたしたちを残して通り過ぎていった。ここはしかし地の果て。地の果てにいき暮れて、ぽつんとひとり置き去りにされてしまった。そういう孤独感、断絶感が強く感じられる連です。

とうとうくるところまできてしまったという感じでしょうか。

太陽にまで見捨てられてしまったという心細い感覚。

先へ先へと進んでいく馬車がじっと止まって見える風景をずっと通り過ごしてきたけれど、こんどは太陽が馬車を追いぬいて「わたしたち」をその場に置いてきぼりにしていったというのです。――まるで「わたしたち」がじっと静止しているかのように。

太陽は時の巡りであり、時間の進行の象徴です。

ですからこの1行には、「わたしたち」が、もはやこの世の時の流れからさえも見捨てられ、その「わたしたち」の圏外に出てしまったという自覚が働いているように見えます。

2行目の「The Dews drew quivering and chillすると霧たちが、身震いと寒気を誘った」が問題の箇所です。

これにはいろいろな解釈があるようで、「霧が寄り集まった、震えながら、寒々と」と解釈する説があり、さっきのアンダーソンもこの説を取っています。

「quivering震え」「chill寒気」を名詞と取らないで、形容詞的に「quivering」を叙述分詞、「chill」を叙述形容詞に取るという説です。

そして、この解釈の分かれ目となる「drew」を、他動詞(集める)と取るか、自動詞(集まる)と取るかです。

他動詞と取った場合は破滅や批評、笑い、涙を「生じる」「招く」「誘う」の意味になりそうです。また自動詞と取った場合は、霧が「寄り集まる」「凝集する」「身を寄せ合う」というイメージになりそうです。この英語の「drew」には、霧が「降りる」にたぐいする意味がまったくないのが難問なのです。

ところが、つぎの2行が「Forなぜなら」という語ではじまっています。なぜなら、わたしは薄着だったからというわけですね。

しかし、そうなると前行では、わたしはとても寒かった、というような文章がどこかになければなりませんが、たんに、「霧たちが震えながら、寒そうに寄り集まった」というだけでは、「わたし」との直接的な関わりが表に出ず、これでは筋道が通りません。

「霧たちが寒々と身を寄せ合った。なぜなら、わたしが薄着だったから」では、話がちぐはぐになりますね。いかがでしょう。

「びっしょりと霧が降りて、(わたしの)寒気と身震いを誘った。なぜならわたしが薄着だったから」という解釈がいちばんしっくりし、解釈せざるを得ません。「糸遊」と訳された「Gossamer」は、ウェブスター英語辞典(第3版)では、「蜘蛛の巣の切れ端やもつれてできた、ごく薄い目の細かい物質。風のない晴れた日に空中をただよったり、草むらや茂みに引っかかっているのをよく見かける」とあり、別のものには、「糸遊」は蜘蛛の糸ではなく、「かげろう」、つまり「春の晴れた日に地面からちらちらと立ちのぼる光」だとする見方もあります。

さて、どちらが正しいのでしょうか。

3行目の「Gown」は、女性用のガウン、ドレス。「Tippet」は「肩、または首と肩を蔽う毛皮かウールの服飾品。ふつう両端を前に垂らすことが多い」とあります。ここではかんたんに「肩掛け」と訳していいでしょう。

そして「Tulle」はヴェールやイヴニング・ドレス、バレエの衣裳などに使う「チュ―ル」、紗(しゃ)のように薄い網状の織物のことです。「Gossamer」の「Gown」と「Tulle」の「Tippet」――どちらも素材と衣裳の名が頭韻を踏んでいて、いかにもそれらしいひびきを伝えているのが注目されます。

ところで、薄い衣裳はそれでいいとして、蜘蛛の巣で織ったウェディング・ドレス、これはどう見ても異様です。なぜわざわざこんなにもろい、破れやすい素材を選ぶのでしょうか。これが難問なのです。

そこでいろいろ資料を読んでいましたら、おもしろい説を発見しました。

アラン・ダンタス編の「シンデレラ」です。川本皓嗣氏の文章のなかで紹介されているもので、それをちょっとご紹介しましょう。それには当然のことながら、ガラスの靴が登場します。

 

結婚式のために私は美しく装いました。蜘蛛の糸で織られたドレスを着、バターでできた帽子をかぶり、ガラスの靴を履きました。でも森を通り抜けるとドレスはやぶれ、野原を過ぎると帽子はお日様でとろけてしまい、そして氷の上を歩くと靴はガシャガシャと壊れてしまいましたとさ。それで私の話はおしまい。

 

「シンデレラ」は、通説では古いフランス語で「vair毛皮」の靴だったものが、どこかで「verreガラス」の靴とすり替わってしまったというお話です。どちらも発音が同じなのです。――「糸遊」の話も、ガラスの靴同様、民話の結末の決り文句にあるようにメルヘンの世界なのだという説です。

――なるほど。ディキンソンはここでも近代詩の論理の世界を突き破って、近代人をびっくりさせてくれています。いかがでしょうか。これがディキンソンの狙いだったのでしょうか。

この第4連の詩はこれまで難問とされ、ずっと省略されていたようです。

「われわれが沈む日を通り過ぎたのではない。あちらがわれわれを通り過ぎたのだ」とか、蜘蛛の巣でできた花嫁衣裳だとか、この連には一読して忘れがたいイメージがぎっしり詰まっているわけですが、編者たちは、この詩をあっさりと削ってしまっていたのです。なかでも「糸遊のドレス」ひとつが、どれほど過去の編者たちを悩ませたか、その当惑ぶりが分かって、とてもおもしろいとおもいます。

■エミリー・ディキンソンの詩 2――

「沈みゆく陽を通りぎた」

 

さて、エミリー・ディキンソンは、讃美歌の歌詞で、だれにも馴染みぶかいバラッドの韻律を、ごく自然に取り入れたわけです。もちろんメロディーのほうもさかんに借用しています。

――ディキンソンのこの詩、「わたしが《死》のために立ち止まれなかったので」は、その代表的な普通律で書かれたものです。

ちょっと見方を変えると、その素朴な物語性や、不気味な雰囲気、ショッキングな展開といった点でいえば、まあ、讃美歌よりもずっとバラッドに近い感じです。これが旧訳では、「馬車」と題された問題の詩なのです。

 

  わたしが「死」のために立ち止まれなかったので――

  「死」が親切にも、わたしのために止まってくれた――

  馬車にはわたしたち二人きり――

  そして「永遠の命」だけ。

  Because I could not stop for Death――

  He kindly stopped for me――

  The Carriage held but just Ourselves――

  And Immortality.

 

第2行末尾の「for meわたしのために」と第4行末尾の「Immortality永遠の命」は、強勢のある最後の母音(me と‐tyの母音)は似た音ですが、このふたつは長音と短音の違いがあって、そっくり同じではありません。

いっぽう、第1行と第3行の末尾はまったく音が揃っていません。

音は揃っていないけれど、この詩はいちおう、各連の偶数行どうしが押韻する形になっています。厳密にいえば、「me」と「‐ty」は脚韻としては不完全です。これを不完全韻というわけですが、察するところディキンソンは、正しい脚韻を踏むために不本意な表現をすることを嫌っていたらしく、こうした不完全な押韻だけれど、それを別のことばに置き換えたり、修正したりしていません。

これが、のちの編者たちを大いに悩ませた部分です。

さて、「わたしが《死》のために立ち止まることができなかったので、《死》が親切にも、わたしのために止まってくれた」。――これはちょっと具体的なシーンをなかなか想像しにくい表現ですね。

とりあえず、第3行に「Carriage自家用馬車」が出てきますので、馬車でやってきた「死」が、わざわざ立ち寄って馬車を止め、「わたし」を乗せてくれたことが分かります。だとすると、「わたしが《死》のために立ち止まれなかった」というのも、本来ならば「わたし」のほうから自分の馬車を止めて、丁重に「死」を迎え入れるべきだったのに、という意味に受け取れそうです。

――とはいえ、「stop for me」が「わたしを乗せるために止まる」を意味するのに対して、「stop for Death」のほうは、つぎの連の内容からも明らかなように、むしろ、「死のために(ふだんの)活動を止める」という意味に解することができるでしょう。

つまり、同じ「stop for」という表現でも、意味がすこし「ずれ」ています。

この「ずれ」を利用して、ささやかな洒落を試みているようです。彼女の詩の味わいがこんなところにもあったわけです。

かんたんにいえば、「わたし」は、日々の生活に忙しく、生きることばかりに気を取られていて、自分のほうから立ち止まって落ちついて「死」を迎え入れる心の準備をしてこなかった。――だから、「死」のほうが親切にも、りっぱな馬車で「わたし」を迎えにきてくれた、となりそうです。

ディキンソンの詩のむずかしいところは、ここでも触れているように「死」の捉え方です。ここであるはっきりした考えが表明されています。

われわれは「死」が不意に訪れるまで、ただ受身の姿勢のまま、おびえながら待っていればいいというわけじゃない。「死」はむしろ、こちらがしっかりと心構えをととのえて、出迎えるべきなのだといっているようにも読めるのです。「わたし」は残念ながら、それができなかった、というわけですね。

――これは特に「わたし」だけに限らず、たいていの人はそうならざるを得ない、という意味なのでしょう。

そこで「死」のほうからわざわざ誘いにきてくれたのだと。しかも「kindly親切にも」というのがおもしろいですね。――死のイメージはふつう、暗くて冷たくて、不吉で恐ろしいものですが、ここではレディを午後のドライブに誘うような、上品な紳士の振る舞いを語っています。

といっても、「死」のドライブというのは、もちろん霊柩車のことですから、まっすぐに墓場に向かいます。

この世での最後の旅。――馬車には馭車の「死」と「わたし」の2人きり。これもデートを思わせますね。「held」は、「(乗り物や建物、容器などの)収容した、入れた」という意味で、「but」は「only」の意です。ところがこのデートにもう1人、ふしぎな同乗者がいるのです。「Immortality永遠の命」です。この「人物」については、これっきりで、以降なんの説明もありません。

でも、意味するところは、はっきりしています。

肉体は墓場で朽ち果ててしまいますが、魂は「immortal不滅」です。だから「死」に導かれた墓地への旅に、そっと「永遠の命」が付き添っているというわけでしょう。

この連はここまで一貫して、例のありふれた単音節語ばかりです。この最終行まできてはじめてラテン語に由来する長々しくていかめしい「Immortality」という語がどっかと、ほぼ1行全体を占める形で鎮座しています。

そして第2連。

 

  馬車はゆっくり駆けていった――彼は急ぐことを知らなかったし、

  わたしはわたしで、彼の丁重さに応えるため、

  自分の勤めも、また余暇も

  捨ててしまっていた――

  We solely drove――He knew no haste

  And I had put away

  My labor and my leisure Too,

  For His Civility――

 

「We solely droveわたしたちはゆっくりと馬車を進めていた」。

このあとの3行半は、なぜ「わたしたち」――「死」と「わたし」の2人が、そんなにのんびりとしていたのか、その説明に当てられています。

まず、「死」のほうは、そもそも「knew no haste急ぐということを知らなかった」といういい方は、たとえば「knew no fear恐れを知らない」などというのと同じです。つまり、急いだり恐れたりしたことがいちどもなく、そうしたことにはまったく頓着しない、無縁だというわけですね。

それでは、「死」が慌てたり急いだりしないのは、どうしてなのでしょうか?

いうまでもなく、「死」はこれと目をつけた相手を取り逃がすことがけっしてないからです。

遅かれ早かれ、相手はかならず「死」の手に落ちるからです。無理をする必要が少しもないというわけです。また、だからこそ、「死」がこれほどおおようで慇懃な態度でいられるわけですね。

それではなぜ「わたし」が急がないかといえば、「わたし」はもうこの世の用事をきれいさっぱりと片づけてしまって、「死」という紳士に身を任せきっているからです。

「put away」は「(自分から)捨てる、止める、絶つ」という意味。

「My labor and my leisureわたしの労働とわたしの余暇」は、どちらも「I」の音ではじまる2つの語を組み合わせて、「彼の丁重さ、礼儀正しさを得るために、わたしは自分の労働と余暇を捨ててしまっていた」ということになります。

この連でも脚韻は、「away」の末尾と「Civility」の末尾の不完全な組み合わせです。

で、第3連。

 

  馬車は、子どもたちが休み時間に

  競技の場で――争っている学校を通り過ぎ――

  じっと見つめる穀物畑を通り過ぎ――

  沈みゆく太陽を通り過ぎた――

  We passed the School, where Children strove

  At Recess ――in the Ring――

  We passed the Fields of Gazing Grain――

  We passed the Setting Sun――

 

馬車はゆっくりと村から外の畑へ、墓場に向かう道をたどっていきます。

まず学校を通り過ぎました。

学校は昼休みでしょうか。子どもたちが元気に何かの試合かゲーム遊びをしています。

「recess」は一般的に「休み時間」という意味ですが、アメリカでは学校の「遊び時間」を指す場合があるのだそうです。川本皓嗣氏の「アメリカの詩を読む」(岩波書店・セミナーブックス、1998年)の「エミリー・ディキンソン」編には、もっともっとくわしく書かれています。

さて、1行目の「strove」は、「strive争う、競う、闘う」の過去分詞形ですが、ここではちょっと、ちぐはぐな感じがしませんか? 

なぜなら直訳すれば、

「学校で子どもたちが争っていた」

では、何のことかさっぱり分かりません。なんだか喧嘩でもしているみたいです。そして、これにつづく「in the Ring」は、たいへん厄介です。

「輪のなかで」とはいったい何でしょうか? ここは何となく「in a Ring」とすると、「輪になって」となり、子どもたちの姿が見えてきます。それが「a」ではなく、なぜ「the」になっているのでしょうか?

定冠詞つきの「in the Ring」と書くと、ふつうサーカスのように、「演技を見せる円形の空間」のなかで何かやっている情景を想像したりします。

またはボクシングやレスリングの枠はもともとは動く人垣だったので、現在、四角い形に変わっても競い合う場を「Ring」と呼んでいます。日本語でも「リング」といっていますね。

もともとゲームというのは、フィールドfieldでおこなわれていました。

フィールドのことを英語では「競技場」という意味と、「畑」という意味を持っています。

ですから、はじめは、フレームや枠などはなくて、畑や海岸べりの砂場あたりで、みんな手をつないで輪になってやっていたのでしょう。せいぜい動く人垣だったわけです。

相手が逃げまわっても輪ごと動くので、完全にギブアップするまで戦っていたのかもしれません。「in the Ring」とおきますと、また別の意味にもなります。

選挙や政治などの「競争の場」に打って出る、闘いの「土俵」に上がるという意味にもなりそうです。

ですから「in the Ring」という成句はここでは言葉足らずの意味をちゃんと補足しているように思われるのです。

つまり、子どもたちは「競技の場に上がって争っていた」、つまり何かの競技をしていたということになりそうです。――ことによると、遊び時間らしいので、実際にボクシングかレスリングをしていたのかも知れません。しかし、けっして喧嘩ではないでしょう。

いい換えると、「in the Ring」という補足があるからこそ、「strove争っていた」の意味がはっきりするわけです。

これを仮に「on the Ring」とすれば、彼らは「舞台に立って」というような具体的なイメージを与えますが、「競技」という肝心のイメージから離れてしまいます。これではあまりに説明的すぎるでしょう。

ディキンソンは使い古された「in the Ring」という成句を、見事なまでに、型破りな表現でまとめてみたかったわけです。じつに巧妙にイメージを重ねたやり方ですね。ディキンソンのむずかしさは、こうしたところにあるようです。

1840年から50年の10年間に、マサチューセッツ西部を席巻した信仰復興のただ中に、エミリーは詩人という天職を見出したのです。彼女の詩の多くが、日常の小さな出来事の反映であったり、社会の大きい事件であったりして、その大半は、南北戦争中につくられました。

南北戦争が、詩に緊張した感じを与えていると考える人もいます。

エミリーは、一時的にではありますが、自分の詩を出版しようと考えたことがあり、文学批評家であるトーマス・ウェントワース・ヒギンソン(Thomas Wentworth Higginson)にアドバイスを求めたりしました。

ヒギンソンはただちに彼女の詩人としての才能を認めましたが、彼がエミリーの詩を、当時人気のあったロマン主義的なスタイルに倣い、より華麗な文体に「改善」しようとすると、エミリーはすぐに出版計画への興味を失ったと伝えられています。この一事を見ても、エミリーはじぶんの詩にどんな期待を込め書いていたかが分かります。エミリーの詩は、「華麗な文体」とは遥か無縁の詩文であることがお分かりいただけるでしょう。

 

【追記】※記事は、多くは川本皓嗣氏関連の本を参考にさせていただきました。川本皓嗣氏の著書には「アメリカの詩を読む」岩波書店・セミナーブックス版、1998年。「俳諧の詩学」岩波書店 2019年などがあります。訳書には、「アメリカ名詩選」亀井俊介共編訳 岩波文庫 1993年。テリー・イーグルトン「詩をどう読むか」岩波書店、2011年。ロバート・フロスト「対訳 フロスト詩集 アメリカ詩人選4」編訳 岩波文庫、2018年などがあります。

■エミリー・ディキンソンの詩。――1

エミリー・ィキンソン黙の生涯

エミリー・ディキンソン16歳ごろ

 

さいきん、「沈黙の時代に書くということ」(Writing in an Age of Silence)――というサラ・パレツキー氏のエッセイなどを読んで魅せられています。翻訳本が出たのは2010年なのですが、アメリカという国は、いまだに19世紀末葉の熱いエネルギーを引きずっているのだなあと思わせます。

いま、エミリー・ディキンソン詩をまっとうな形で自由に読むことのできる日本という国にいられることを、ぼくは改めて感謝しています。日々の寧日(ねいじつ)は、一朝一夕になるものではありません。戦争の当事国が迎える新しい年とはどのようなものかを想像し、1日も早く停戦の日が訪れることを祈るばかりです。

じぶんのことをだれにも悟られずに、無名に甘んじつつも、米ニューイングランドで、じぶんの生涯をこっそりと、輝かしくじぶん自身を静かに彩った詩人がいたことを想い出します。いま、彼女が書いた詩の草稿を、彼女自身がしまい込んだ机の引き出しを開けてこっそり覗いてみると、何が見えてくるでしょうか。

 

(サラ・パレツキー「沈黙の時代に書くということ」、早川書房、2010年)

 

エミリー・ディキンソンのポートレート写真は、あるのはこれ一枚きりです。まず、詩人エミリー・ディキンソンのその写真について一言。

生前はほとんど無名の19世紀米ニューイングランドの詩人なのですが、上の写真は、彼女がマウント・ホリオーク大学の学生だったときのもので、――彼女が在籍したころは大学にはなっていませんでしたが、そのころ知られていたらしいアメリカの写真家がやってきて、110枚の銀板写真の写真展に出品されたという話が伝わっています。

エミリーの写真が、そのなかの一枚になっていたというわけです。

後世、彼女が世に知られるアメリカを代表する詩人になろうとは、大学にごく短いあいだ滞在した写真家は知るよしもなかったでしょう。資料によれば、「巡回写真家」と書かれていて、写真家の名前は書かれていません。

ところが学長は、勉学中の生徒をまどわすことを恐れ、写真家を大学から立ち去らせたというのです。そのときのエミリーの写真がいま存在し、ワシントンD.C.のナショナル・ポートレイト・ギャラリーに収蔵されています。

 

さて、エミリー・ディキンソンの目は、7度ほど斜視だったといわれているのですが、この写真を見ただけではよくわかりません。彼女がもし、じぶんが斜視であることを恐れていたなら、カメラのまえに平気で座ったとはおもえません。写真家はどうやってエミリーを口説いたのでしょうか? 幾人かの研究者は、写真を修整しているといいます。

もしもそういう技術があったにしろ、エミリー・ディキンソンの詩を読んだ人ならわかるように、けっして容易には承諾しなかったにちがいありません。それを口説いた写真家の情熱に、ぼくは脱帽するしかありません。

 わたしが死んだとき 一匹の蝿がうなるのを聞いた

 その部屋の静けさは

 うねり高まる嵐の合間の

 あの大気の静けさに似て

 I heard a Fly buzz――when I died ――

 The Stillness in the Room

 Was like the Stillness in the Air ――

 Between the Heaves of Storm――

 

ぼくがエミリー・ディキンソン(Emily Dickinson 1830~1886年)の詩に魅せられたのは、大学生のころでした。なかでも、「わたしが《死》のために立ち止まれなかったので」は、ぎょっとするような、おどろきの詩文でした。

その詩については、あとで書きますが、彼女自身、1886年5月15日、腎炎がもとで亡くなり、生涯を独身で過ごしました。でも、この詩は、亡くなるときに詠んだのではありません。ずっと若いころにつくったものです。

いつつくられたのか、くわしいことはぼくには分かりません。

なにしろ生前に発表された詩集は一冊もありませんでした。生前、彼女は手紙のなかにいくつかの詩を書いているに過ぎません。多くの人は、エミリーが詩を書いていたことなど、だれも知りませんでした。家族でさえも、知りませんでした。

エミリー・ディキンソンについての記事は、いくつか書いていますが、きょうは、彼女が描こうとした詩の世界、詩のような彼女の人生について何か書いてみたいとおもいます。

ぼくが死んだら、何が聞こえるだろうか? ――本気でそんなことを考えているわけじゃありませんが、詩人って、すごいなとおもいます。「わたしが死んだとき 一匹の蝿がうなるのを聞いた」といい切っているのですから。

あとの3行は、その説明にあてられています。

この詩のタイトルはありません。彼女は多くの詩を書きましたが、すべてタイトルというのがありません。そういうときは、はじめの1行が、タイトルになります。

こう読んでみると、タイトルだけで、作品としてもう完成していますね。

エミリーは、詩として後に発表されることを、ほとんど想定していなかったようです。なぜなら、おなじ詩が、2通りに書かれているものもあって、エミリーには決定稿と呼ばれるものがない詩があります。それでも迷っているふうにも見えず、とりあえずデスクの中に仕舞いこんでいる、といった感じです。

 

(エミリー・ディキンソン「わたしは誰でもない」編訳・川名澄)

 

彼女が亡くなって、妹が姉のデスクの引き出しを開けてみると、詩の原稿がいっぱい出てきました。800以上の詩が記された手とじの本40冊が出てきたのです。

そのなかには、詩の原稿を人に見せて、意見を聞いていたらしい詩があるといいます。その人の意見を素直にきいて、修正したというふうにも見えません。指摘されたのは、文法的におかしいところだったでしょう。彼女の詩には、文法的にムリなとおもわれる個所がいくつか目立ちます。

それは先刻、彼女自身がよく気づいている部分であり、直したいのだけれど、直せないとおもったのでしょう。詩としては、じゅうぶんに完成度の高い詩に見えて、ある個所は、文法的にへんだ、とおもうところが目につきます。

その例は、いつかすでに書いているので、ここでは繰り返しませんが、ここ数年、エミリー・ディキンソンに関する研究がすすみ、なかには、エミリーが性愛の冒険者だった可能性について語る本などが出ています。真偽のほどはわかりませんが、そういう話は、むかしからありました。

伝記作家や批評家たちの間で、大きな論争となっているというのですが、ぼくの耳には聞こえてきません。

いうまでもなく、エミリーの詩は、恋人にささげられた詩が多いようです。恋人とはいっても、相思相愛の恋人というのではなく、エミリーひとりが、相手にも気づかれずに、密かな思慕を抱いているというわけで、意中の人宛てに書かれた手紙などに残された詩です。

――ということは、手紙は投函されなかった? かもしれません。

そういうことは、ぼくにも経験があります。手紙を書くのですが、手紙ができあがったときは、もう投函してしまったかのような感じになるからでしょうか。投函されない手紙がけっこうあります。

エミリーもまた、それが精一杯の愛情表現だったらしく、手紙を書いてしまえば、あとは、そっと引き出しのなかに仕舞いこんでおく。

そういう日々だったようです。

さいきんの研究では、マスター・レター(Master letters)と呼ばれているもので、マスターと名乗る人物宛てに書かれた手紙のことらしいのですが、のちにその手紙は出版されました。

とうぜんのことながら、彼女の書く詩は、対象となる異性宛てに書かれた詩、ということになりそうです。シェイクスピアのソネットもそうですね。「ダークレディ」宛てに書かれた詩がいっぱいあります。

その「ダークレディ」というのはいったいだれなのか、何も分かっていません。評家の憶測はいろいろありますが、かたくなに秘密のトビラが閉じられていて、後世の人びとには墓碑銘のように、「この墓をあばく者に、災いあれ」と書いたシェイクスピアのように、エミリーもまた、禁忌の恋を永遠に打ち明けようとはしません。

しかし、彼女の詩は、「嵐が丘」のエミリー・ブロンテとおなじく、性愛の詩が少なからずあります。エミリー・ブロンテは、ただの一度も男性との肉体関係を持ったことがなく、ただ、家が火事に見舞われそうになったとき、エミリーひとりが水で火を消すのですが、その晩、彼女は自分の部屋で眠りませんでした。

どこで眠ったのでしょうか。――弟ブランウェルの部屋で眠っただろうとして、近親相姦の話を持ちだす伝記作者や批評家が多いのですが、これなども、確かな証拠があるわけではなく、憶測にすぎません。

しかし彼女は、「嵐が丘」という、とんでもない三世代にわたる恋愛物語を書きました。彼女の性欲が、名作を書かせたというのが、これまでの定説ですが、ここにきて、弟のブランウェル・ブロンテが、「嵐が丘」の構想に何らかの深いかかわりを持っていて、「嵐が丘」の作者ではないとしながらも、エミリーとの共同作業で成し遂げたものではないか、という論文が出てきました。

ブランウェルはエミリーほどの文章は書けませんでしたが、ただひとり、ブランウェル思いのエミリーであってみれば、そういうことがなかったとはいい切れないかもしれません。

エミリー・ディキンソンも、想像上の性愛を描いているといえば、たしかにそうもとれます。しかしふしぎです。彼女は、ほとんど海を見たことがないというのに、海を描き、性愛体験がないというのに、性愛を描きました。

そういう意味では、エミリーは、ずばぬけた想像力の旺盛な女性だったといえるかもしれません。エミリーの詩や手紙の多くは、たいへん熱のこもった、エロチックなものです。空想的な恋愛にあこがれる文学少女の域をはるかに超えています。

エミリー・ディキンソンとエミリー・ブロンテ。――このふたりには何か共通するものがありそうです。

「わたしが死んだとき 一匹の蝿がうなるのを聞いた」。

こういう発想は、なみの詩才では書けませんね。きょうは、そんなことを考えたいとおもいます。

エミリー・ディキンソンは、1830年、ホイットマンより10年ほどあとに生まれて、1886年に亡くなった女性です。この人は20世紀に入ってからホイットマンとならんで急速に評判があがって、アメリカ最大の女流詩人という声価が定まりました。

くわしくは、以前書いた「エミリー・ディキンソン」を開いてみてください。

ディキンソンの詩のなかで、最も有名な、かつてのヒギンソンが出した「詩集」では「馬車(The Chariot)」と題されていて、その最も親しまれた詩を取りあげてみようと思います。

1863年の作品です。

これはなかなかむずかしい詩です。うまく説明できるといいのですが……。

以前書いた「小鳥が小道にやってきた」は、自然のスケッチとでもいえるようなディキンソンの鋭い機知や隠し味のようなユーモアあふれる小品でしたが、こんどの「わたしが《死》のために立ち止まれなかったので(Because I could not stop for Death)」という詩は、もっともっと深刻なテーマを扱ったもので、ディキンソンの全作品中で、屈指の傑作といえるでしょう。

ながいあいだ、この詩のちゃんとした翻訳文が、なかなかお目見えしませんでした。というのは、ずいぶんむずかしい箇所があるからです。ディキンソンの近刊本の訳文詩集でも、はぶかれることがあります。例によって、この詩にもタイトルがありませんので、第1行目が題名の代わりになります。

 

 わたしが「死」のために立ち止まれなかったので――

 「死」が親切にも、わたしのために止まってくれた――

 馬車にはわたしたち二人きり――

 そして「永遠の命」だけ。

 Because I could not stop for Death――

 He kindly stopped for me――

 The Carriage held but just Ourselves――

 And Immortality.

 

この詩は弱強4歩格でいうと8‐6‐8‐6になっていて、これは讃美歌でいう「普通律」といわれるものです。最も一般的な律です。

いっぽう8‐8‐8‐8という形式の「長韻律」もひろく親しまれています。こうした讃美歌の代表的な韻律は、「バラッド(ballad)」の形式を借りたものです。バラッドというのは、もともとフランス語の「ballade」からきているもので、物語詩の内容を持った声楽曲を指します。

民衆のあいだで口移しに伝えられた短い物語詩。ロシアからヨーロッパ、さらにはアメリカのいたるところに残っています。

英語のバラッドには、宗教的なテーマを扱うものから、怪奇事件をうたう血みどろな愛の惨劇を語るものまで、じつにさまざまです。

それらは一説によると、15世紀から16世紀にかけて、イングランドとスコットランドの境界地方に起こった紛争から材を得た血なまぐさい英雄伝説をうたった詩に由来しているといわれています。

 

あの小澤征爾さんのを、もう一度きたい


 

新潮社、2013年

ぼくはよくよく考えてみれば、小澤征爾さんに巡り合えたこと、その音楽に巡り合えたことに、たいへん大きな喜びを感じている。

「俺これまで、こういう話をきちんとしたことなかったねえ」と語る小澤征爾さん。ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番、復活のカーネギー・ホール、60年代の軌跡へとつづく。

作家の村上春樹さんの問いに答えて語る小澤征爾さんの音楽について語るこの絶妙な取り合わせが、なんと1年におよぶロング・インタビューとなり、1冊の本になった。

この本で小林秀雄賞を受賞なさった。――あれから10年が過ぎた。

街の珈琲店で珈琲を飲み、冬枯れの戸外の寒々しい風景を見つめたとき、ふと、意表を突くような音楽が流れてきた。まさにベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番だった。

ぼくはピアニストのことを想わないで、そのときなぜか、小澤征爾さんのことをおもい出した。そういうことはめったにない。

さっきユニクロでシャツを買い、帽子を買った。帽子はユニクロのとなりの店で。ほんとうは女性用の帽子なのだが、かまうもんかとおもって、4000円のシルクっぽい肌触りの、というか、PP加工をほどこしたみたいな艶消しの、ちょっと粋な帽子なのだ。

気に入れば買ってしまい、ヨーコに何かいわれるのを覚悟してこっそり買ってしまった。

その楽しいこと。――まるで耳が、心地よい音楽に触れるときのようだ。

耳が耳なら指も指で、ピアノの黒い鍵盤に触れるような心地よいタッチ。果たしてどんな音が奏でられるだろうか、それはその帽子をかぶる人によるだろう。80代はもっと輝きたい。もっと溌剌として、街を歩きたい。猫背は嫌だぜ。きゅっと背筋をのばして、……。

 

 

小澤征爾さん

 

2024年は、新年を迎えてから、時の流れが一段と加速した感じがする。

そこには忘れがたい音楽がある。

ぼくはがんをわずらって、たいへん落ち込んでいたときに聴いたキングクリムゾンの甘いロック・ミュージック。初代のレット・ツェッペリンだってそうだ。あの時代の音楽は、もうどこにもないかのように、無性に愛おしく想いだされる。

「ただ僕が春樹さんとこうして話していて、面白いなと思うのは、もちろん僕の見る目とは見方があちこちで違うんだけど、その違いのあり方なんです」(小澤征爾)

「そう言っていただけるとありがたいです。僕はレコードで音楽を聴くことを大きな喜びとして生きてきた人間なので」(村上春樹)

「僕はそれで、そのレコード屋さんにいる間に思ったんだけど、この対話というのはマニアのためにはやりたくないんですね。マニアの人には面白くないけど、本当に音楽の好きな人たちにとって、読んでいて面白いというものにしたい」

「わかりました。マニアが読んで、なるべく面白くないものにしていきましょう」

 で、ぼくはマニアにはおもしろくないという本、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社、2013年)という本を37ページさっき再読したばかりだ。目くるめくような、音楽の好きな読書家の魂に触れる話だった。

作家のことばによる表現力と稀代のマエストロのことばは、掛け算しても得られない音楽の感情からはみ出てしまう膨らみがある。

「俺、これまで、こういう話をきちんとしたことなかったねえ」とマエストロがいった。

インタビューのはじまりは、ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番。

復活のカーネギー・ホール。

60年代の軌跡、そして次代の演奏家たちへとつづく。「良き音楽」を求め、耳を澄ます小説家に、マエストロは率直に自らのことばを語る。東京、ハワイ、そしてスイスで、村上春樹が問うとマエストロが答える。あるときはヨーロッパの風景のなかを走る列車のなかで――。

「思うんだけど、この最初のオーケストラの出だしって、すごくベートーヴェン的というか、しっかりドイツ的な音ですよね。でも若いグールドにしてみれば、そういうのをちょっとずつずらしていって、ほぐしていって、自分の音楽を構築していきたいという気持ちはありますよね。そういう両者の姿勢がもうひとつ噛み合わないというか、端々でちょっとずつずれていくというか。かといって、ときに悪い感じはしないんですけど」(村上春樹)

「グールドの音楽って、結局のところ自由な音楽なんですよ。それともうひとつ、彼はカナダ人というか、北アメリカに住む非ヨーロッパ人だから、そういうところの違いは大きいかもしれないね。ドイツ語圏に住んでないってことが。それに比べてカラヤン先生の場合は、ベートーヴェンの音楽というのがもう揺るがしがたく自分の中に根付いていて、だからもう出だしからドイツ的というか、かっちりしたシンフォニーなんですよね。それにカラヤン先生の方には、グールドの音楽に器用に合わせようというつもりは、まったくない」(小澤征爾)

そんな語りの端々に、西洋音楽の古き時代の息吹が音楽のように流れるのだ。

人は何かを語る。語らずにおられないのだ。

このふたりは、ずーっと語ってきた。マエストロはタクトを振って、作家は自分の描くイメージを追って。

「(カルロス)クライバーの《ラ・ボエーム》はそんなに素晴らしかったんですね」(村上春樹)

「あのね、指揮者がもう、あの芝居の中にずっぽり入り込んでしまっているんです。指揮のテクニックなんてものはもうどっかに吹き飛んじゃってる。僕はあとで訊いたんです。どうしてそんなことができるのかって。そしたら彼はね、《おいおい、何を言っているんだ、セイジ。俺はね、《ラ・ボエーム》なんて眠ってたって指揮できるんだ》って言った」(小澤征爾)

「ははは、すごいなあ」

この話、――そう、ずっと前、小澤征爾さんがどこかで書いていたかしゃべっていたのを知っている。その「ラ・ボエーム」っていう響きが、ぼくにはとっても心地よいのだ。

青柳いづみこさんの「どこまでがドビュッシー? 楽譜の向こう側」(岩波書店、2014年)という本を読んでいたら、巻末に差し掛かるころに出てくる「村上春樹さんと小澤征爾さん」の項がおもしろかった。

「小澤征爾さんのお父さまの小澤開作さんが家にいらしたことがある」と書かれていたからだった。青柳いづみこさんの祖父と開作さんは山梨県のおなじ村の出身、おなじ小学校に通ったそうだ。正確にいえば、「地つづきに住んでいた亡祖父でフランス文学者の青柳瑞穂を訪問するため」であるという。

2009年12月、小澤征爾さんが食道がんを宣告されてから、さかんに指揮活動をしているころの小澤征爾さんが、音楽以外の話をすることも多かったという。

手術を受け、療養生活にはいると、音楽を語るだけでも「なんとなく生き生きした顔つきになった」そうだ。

ある日、小澤征爾さんを、村上春樹さんのご自宅に招待したとき、グレン・グールド、バーンスタインとブラームスの「ピアノ協奏曲第一番」を共演したときの想い出話をきき、それがあまりにおもしろかったので、ぜひとも文章として残したい、それができるのは自分(村上春樹)しかいないと感じたという。

オーケストラがピアノのバックで3つの上昇音を奏でるシーンで、小澤征爾さんは、「ほら、《らあ、らあ、らあ》っていうやつ。そういうのを作っていける人もいるし、作れない人もいる」と語る。

 

 

小澤征爾、79歳

 

 

ぼくが学生だったころは、ベトナム戦争前期で、米海兵隊員来日の日々がつづく時代だった。

1960年代の銀座2丁目の銀座通りに、ピアノの生演奏を聴かせてくれる、とってもいい名曲喫茶があった。その名も「ラ・ボエーム」っていうんだけど、その店にミミみたいな女の子がいて、ぼくの伝票に赤鉛筆で「友人」と書いてくれて、半額の30円で珈琲を飲ましてくれたのだ。

昼間行っても、夜行っても「30円」だった。

「24日のクリスマス・イブの夜、きてくれるなら、お席とっておきます」といってくれたっけ。

で、ぼくは可愛い女の子をむりやり連れていった。

その夜は珈琲代は特別高かったけれど、ぼくだけ「30円」で飲ませてくれた。

ぼくは悪いな、とおもって、ミミに、有楽町のピカデリーのロードショー映画のチケットを数枚プレゼントしたっけ。そしたらミミは恐縮してキスをしてくれた。

彼女はたぶん、ぼくよりもずっと年上で、ぼくのことを弟みたいにおもっていたのか、ぼくの銀座時代は「ラ・ボエーム」が、ぼくのお気に入りの独学室になった。

教文館で本を買うと、きまってその店で本を読む。

ユージン・オーマンディなんていう指揮者も、そこで知った。ぼくは村上春樹さんみたいに、コンサートではなく、レコード音楽を通して、さまざまな曲を聴いてきた。

「おお、マンディ」なんていって、ぼくをからかった先輩がいて、登山家みたいな人だったが、その人はカラヤンが好きで、多くのカラヤンのエピソードを聴いていた。野村あらえびすの「楽聖物語」をはじめ、いろいろな西洋音楽の本を読んで、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」の話も読んだが、本をいくら読んでも音楽はわからない。その彼らの音楽を聴かなくては。

野村あらえびすというのは、作家・野村胡堂の音楽関係のペンネームである。

 

樫本大進

世に「N響事件」というものがある。

NHK交響楽団は1964年に小澤征爾さんと「客演指揮者」の契約を交わした。これからの日本のクラシック界を盛り上げようがために、この若き指揮者を迎え入れて、最初はメシアンの「トゥーランガリア交響曲」の日本初演をするなど順調な船出となった。

しかしNHK交響楽団の東南アジア演奏旅行中、両者の間に修復不可能な軋轢(あつれき)が生まれた。

この演奏旅行から帰国後、NHK交響楽団の演奏委員会側から今後、小澤征爾とは二度と演奏・録音はしないとの発表がなされた。この騒動を称して「N響事件」と呼ばれている。

小澤征爾さんは27歳だった。生意気なやつ! というわけである。

樫本大進さんの場合はどうか。2009年9月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団第1コンサートマスターに樫本大進さんを内定したのは、30歳のときだった。生意気だったかどうかは知らないけれど、それは凄いことだとおもった。いま橋本大進さんは45歳で、ベルリン・フィルの顔である。

ぼくにとって音楽は、想い出とともにあった。

タングルウッドもザルツブルクもこの目で見ていないのに、ぼくはじゅうぶん知り尽くすほどの知識を持つと、グールドっていうピアニストは、どうやって巨匠カラヤンとの共演をこなすようになったかがわかる。その確かな証言が、小澤征爾さんの語りのなかで聴かされて、やっぱりそうだったのか、とおもう。

グールドは、ちっともカラヤンのことを恐れていないのだ!

若造のピアノに合わせないマエストロは、わが道をいくというように、あくまでもドイツ音楽式にベートーヴェンを振るのだ。

グールドは、きっと鍵盤に突っ伏すように、斜めになったピアノベンチに座って、彼のスタイルで演奏したに違いない。その映像は、おそらく若き日の小澤征爾さんとは違ったスタイルだったに違いない。

ふたりとも、けっして優雅とはいえないスタイル。ヤン・パデレフスキーの振る舞いとは天と地ほどの違いがあって、それでいて、ホロヴィッツやルービンシュタインに飽きた聴衆は、そんなグールドに熱狂したのだ。だが、小澤征爾さんの語る1950年代の話は、まさに20世紀は音楽の世紀だったことを物語っている。

ぼくにはぼくのスタイルというものがあるらしい。それは、どういうものだろう。

村上春樹さんの時代に近いせいか、ぼくはレコード音楽に慣れ親しんだ世代で、あとの世代が怒濤にように押し寄せてくる戦後の団塊の世代に追われるようにして聴きまくった世代かもしれない。村上春樹さんの小説「風の歌を聴け」は、そういう世代の歌なのだ。それが英訳されたはじめての処女長編「Hear the Wind Sing」で、世界でも多く読まれたが、そのシーンはそっくりぼく自身のシーンでもある。

きょう、この本を再読して、頭の芯がじーんと痺れた。この本を企画したのは、もしかして、村上春樹さん?  どうもそうらしいとおもい直したとたんに、寂しげな小澤征爾さんの横顔が目のふちを掠める。「ああ、小澤征爾さんは亡くなったのだ!」というおもいで。

ぼくは、井上靖の詩「スを飲んで」リの地を踏んだ

 

こんばんは。

ちょっとまえ、ぼくは評論家の小林秀雄さんの話を書いていました。

そこは稀代の文芸評論家のやることです。何を話したのかそれは書かれていませんが、しばらくして、3人のうちのひとりが、おいおい涙を流して泣きはじめたのだそうです。

小林秀雄さんは、小柄でもなく、大柄でもなく中背で、極端にスリムで、胆のすわった男です。この話は、文士仲間たちにも知られるところとなり、それを読むぼくら読者の知るところとなりましたが、三島由紀夫は、のちに「群像」にとても短い小説を一編書きました。

「荒野より」というタイトルがついた短編小説で、物語の主人公は作家の「わたし」です。

そのまま読めば、三島由紀夫さん宅の書斎に押し入った泥棒の話かと勘違いされてしまいそうです。これは人気作家が書いた小説なのですから、ひょっとすると、小林秀雄さん宅に押し入った強盗の話をヒントに書かれたものかも知れません。

ぼくは若いころ、同名の小説「荒野より」と名付けられた作品を書いたことがあります。ブログには載せていないかも知れませんが、三島由紀夫さんの書かれた「荒野より」は、とてもすぐれていて、記憶のなかでも、今も鮮明にきらきら輝いて見えます。

くわしい筋立ては忘れましたが、微に入り細を穿った鬼気せまる描写が見事でした。それにしても、この話はずいぶんむかしのことです。

石津謙介さんといえば、ぼくの先輩にあたる人で、明治大学の商学部を出られました。ぼくは石津謙介さんと会い、就職先にファッション雑誌を出している出版社を紹介してくださったのです。

当時、石津謙介さんはテレビ・メディアの露出もたいへん多く、あまりにも有名な方で、大阪市南区で創業したVANジャケットですが、やがて東京を拠点にして販路を拡大しようという矢先でしたから、ひっぱりダコで、なかなか会えませんでした。

1960年代、アメリカ東海岸名門大学8校のグループ「アイビーリーグ」に因(ちな)んで「アイビー」と呼びましたが、このアイビー・ファッションをVANブランドとして打ちだし、それが若者に受けて急成長を遂げたのです。

まあ、東京6大学のような感覚でしょうね。

ちょっと違うのは、学生が8校に入学手続きをするとき、かならず8校共通「Facebook」が手渡されます。創業者のマーク・ザッカーバーグが立ち上げた「Facebook」は、それを利用して、ハーバード大学の学生がより交流を図るための「Thefacebook」というサービスを開始したのがはじまりです。(本人の登録制による)。

ひと口にいって、これをアイビースタイル(Ivy League style)というわけですが、若い男性向きの服の型として、あくまでも直線的なシルエットのスーツでウエストは絞らず、肩当ても入れないという狭い襟で、3ボタンの2つ懸け(ときに両前4つボタン)、パンツもぐーんとほそくして、これをアイビールックと呼んでいました。

男性のファッション雑誌社に勤務して間もなく、ぼくはふたたび石津謙介さんに会いに出かけました。こんどは連載記事の依頼です。

「ぼくは多忙のため、この人にやってもらいます」といって、くろすとしゆきさんを紹介されました。それから、ぼくらはくろすとしゆきさんとの長いおつきあいがはじまったのです。

スタイル画やイラストは、ジャパンタイムズ図案室の出竹孝二さんにやってもらいました。当時、ジャパンタイムズ社の社長は、平澤和重さんでした。ぼくも、何度かお目にかかっています。この方は、昭和20年代の東京オリンピック誘致のためのプレゼンテーションをひとり行なって成功させた方です。

そういう方です。VANジャケットは、1978年4月6日に約500億円の負債を抱えて経営破綻しました。その後再建。会社更生法を申請した後の記者会見では

「ファッションとは流れうつるもの。最近はひとりひとりの価値観が多様化してきているのに、それを商品化することができなかった」として消費者と取引先に謝罪の弁を述べました。

その後はフリーのファッションデザイナーとして活動する傍ら、衣・食・住のライフスタイルを積極的に提案していました。岡山県出身、1911-2005年、94歳没。

学生時代に出会った先生方で、こころに残る教授といえば、英米文学の翻訳家でもある西村孝次さんと、中田耕治さんです。その話をしてみたいとおもいます。

大学で、教授といっしょに、外でコーヒーを飲んで談笑するなどというのは、ごくまれなことでした。そのまれなことをさせてくれたのが中田耕治先生でした。昭和30年代のおわりのころです。

 

左から田中幸光、村川新次、中田耕治教授。

 

中田耕治先生は、翻訳はもちろんのこと、演劇の演出もやっておられ、「これからちょっと、ニューヨークへ行くので、……」という時間帯でも、気さくにぼくらと付き合ってくださる方でした。

「マリリン・モンローを書くのでね」とおっしゃいます。

というのは、先生の講義というのはたいへん変わっていて、「きょうは、どんな話を聴きたいですか?」と質問します。学生の希望にそって、いろいろおしゃべりすることが講義でした。

ですから、ぼくらは講義という堅苦しいかまえは少しもなくて、きょうはどんな話が聴けるだろうと期待していたわけです。

先生は教室で、たばこを吸われます。そこにコーヒーがあれば、なおけっこうというような雰囲気です。当時、先生は尋常でないほど多忙をきわめておられたはずですが、学生相手に、めったに聴けない文壇の話などもなさいます。学生の提案に快く乗る方という印象を受けました。ぼくは何か質問をしました。

すると、

「それじゃきみ、来週、うちに来なさい。くわしく教えましょう」とおっしゃいます。うかがっても、いいのかなと思いました。先生は千葉市弁天町に住んでおられ、友人のMさんと連れだって訪れました。それ以来、先生のお宅には何度も訪れました。

そして大学を卒業し、ぼくは都内の広告代理店に勤務しましたが、ある家電メーカーのカタログに、先生の談話を載せる企画を立てました。そのときのスナップ写真がこれです。

「でしたら、こんどニューヨークへ、いっしょに行きましょうか?」とおっしゃいます。ヘミングウェイがよく訪れたというレストラン「21」へ、一度行ってみたいといったものですから、中田耕治先生は、賛成してくれましたが、とうとう行く機会を逸してしまい、実現しませんでした。

「ぼくはニューヨークへ行くときは、このかっこうで、ジーパン姿で行きますよ」といいます。いかにも旅慣れた方なのだなと思いました。

「ほう、詩ですか。……こんど見せてください」というものですから、ぼくは本気で詩を見ていただこうと考え、先生に送りました。

すると、先生から手紙が来て、それには「この詩を読んで、感想を送ってください」と書かれています。「この詩」というのは井上靖の「梅ひらく」という詩でした。

 

北海道で不幸な姉は凍死したと言う。その報せが今宵私の所へやって来た。私は ドスをのんで灯のついた坂街を降りた。街区は森閑として人影なく、どこか遠くから微かに饗宴のさざめきが花の如く匂っていた。復讐すべき仇敵は誰であろうか。私は冷たい地べたに坐って星空を窺った。私は16歳の少年であった。

 

――という詩でした。

ぼくはひどく驚きました。

井上靖の詩にはじめて触れた瞬間でした。すごく胆(きも)の坐った少年の、恐ろしいほどの男の決意を見る思いがしました。

「ドスをのんで……」という語感が、詩の全編にひびきわたります。それは、持っていきようのない、男になろうとする少年の怒りでしょうか。

                     ♪

ぼくがパリの地を踏んだのは、その年の9月でした。32日間かけて、貨物船の船底暮らしをして、ようやっと軍港であるオラン港に着きました。考えてみれば、17年前、ニッポンは彼らと戦争していたのです。国際的に出遅れたニッポンは、ようやく「渡航の自由化」を経て、じぶんも急に飛び出してしまったように旅をはじめました。

 

ラーク博士とッポンの夜明け

 

近代文学 「クラーク博士」➀

 

近代文学 「クラーク博士」②

 

 クラーク博士。51歳のころ。

 

近代日本の劈頭を飾る人物、そして北海道開拓の中心人物、そのW・クラークとは、いったいどういう人物だったのだろう? さいきん、なんとなく、クラーク博士についてもっと知りたいと思った。ちょっとしらべたことを、以下、かんたんにまとめてみると。

現在は、どこでも4月から新学期を迎えるけれど、とうじ、学校はどこも、9月から新学期を迎えた。卒業式のすこし前の7月のある日、――日付はわからないが、――東京英語学校の教室に、3人の外国人が参観にやってきた。

これは異例のことだった。

ウィリアム・クラークとその弟子のペンハロー、ホィラーの3人だった。

クラークは、その教室で演説した。

それは、北海道開拓を目的とした、アメリカのマサチューセッツ州にあるアマースト大学とおなじ講義カリキュラムを編成した官立の農科大学を札幌につくるという構想をのべる演説だった。

日本がこれから発展するためには、北海道の開発が急務であり、未開地を開拓し、拓殖思想を実現させる必要がある。これに参加したいとおもう若者がおれば、ぜひ、参加してほしい。

――そういう内容の演説だった。

そこを卒業する予定者のなかに、南部藩士の佐藤昌蔵の息子・佐藤昌介、田中館愛橘、藤沢利太郎、土方寧、高田早苗、市島謙吉らがいた。クラークの話を聞いて、東京の開成学校をやめて未開の北海道で新設の農科大学に入ることを希望する人があらわれた。

佐藤昌介、大島正健、渡瀬寅次郎がクラークの学校に入ることをそうそうに決心する。その1年後輩の佐藤昌介の友人・新渡戸稲造は、その話を聞くと、自分も来年卒業したら、札幌農学校に入りたいといった。

その同級生に、内村鑑三らがいた。内村もこれに同調した。

このとき、佐藤昌介は19歳。

内村鑑三は15歳だった。

アメリカ人が校長や教師になって、アメリカの大学とおなじ教育をするということにまずみんなは驚いた。青年たちは、まだ見ぬ北海道での勉学の夢に燃えた。――ここに名前のでてくる人物は、のちに歴史をつくった人びとである。

とうじの開成学校は予科3年、本科3年の6年間の修業年限だったが、札幌農学校は4年制で、現在の大学とおなじ年限だった。学費がなくて困っていた大島正健や新渡戸稲造、内村鑑三らは、よろこんでこれに応じた。

薩摩藩士の黒田清隆は、明治初年から、この北海道開拓という偉業に立ち向かっていた。北海道開拓の主な目的は、北のロシアからの侵攻をふせぐことにあった。黒田清隆はそういう目的で、明治3年に北米を視察し、グラント大統領にも会い、開拓の支援を要請した。

そして、グラント政権の農相だったケプロンを引き連れて、明治4年に黒田とともに横浜に着いた。

一行は、芝の増上寺に落ち着き、農事試験場などをつくり、青山、渋谷に3万坪の土地をもうけて農事関係の施設をつくった。北海道開発のために招いた諸外国の専門家は、アメリカ46人、ロシア5人、イギリス4人、ドイツ4人、オランダ3人、フランス1人、中国13人の計76人にのぼった。

 

ユリシーズ・S・グラント米合衆国大統領。

来日したグラントの興味は、北海道開拓であった。――1879年(明治12年)7月3日から同年9月3日まで国賓として日本に滞在し、浜離宮で明治天皇と会見し歓待を受けた。グラントはアメリカ合衆国の元大統領であり、訪日を果たした最初の人物である。

 

専門家は多岐にわたり、地質学者、測量師、園芸家、土木建築士、船員、建築士、鞣工人、缶詰技師、教師、大工、鉄道技師、暖房技師など、じつにさまざまな人たちで構成された。

しかし、国づくりにおいて何よりも必要なのは、ものをつくることよりも、教育だった。

黒田は在米日本公使館を通じて、グラント大統領に農事教育者の招聘を要請した。それで、アマースト農科大学の学長だったクラークが選ばれたのである。クラークはこのとき、51歳だった。

アメリカ合衆国の大学の学長が、アジアの国の大学の学長になるなどということは、聴いたこともない、稀有のことだった。クラークは、もともと北海道開拓の立案者でもあった。

とうじアメリカ政府内では、「ジャパン」とおなじぐらい「ホッカイドーHokkaido」という名前が知れわたるようになっていった。ヨーロッパでは、現在でも「ホッカイドー」という地名がそのまま通じている。日本とは、べつの国のように思われているらしい(司馬遼太郎「街道をゆく(オランダ編)」、北海道は自給率2000パーセント/2008年)。

明治8年7月はじめごろ、クラークは佐藤昌介、大島正健、渡瀬寅次郎の3人とともに学生8人を引き連れて、北海道開拓使長になった黒田清隆や、オイラー、ペンハローらと横浜港を出港し、函館・小樽をへて7月31日に札幌に着いた。

その船中で学生らが俗歌をうたったり、酒によってあばれ、乱暴したりした。黒田は怒り、「函館から彼らを追い返せ」と迫った。

「おまえら、何を考えているんだ! 遠足にいくんじゃないんだぞ。おまえは、リーダーだというのに、このザマはナンだ!」と行って怒鳴りつけた。叱られたのは佐藤昌介だった。佐藤は何も悪いことはしなかったが、黙って見過ごしていた責任を問われた。

「おまえら、3名は、函館に着いたら、帰れ! 先が思いやられる」

それをとりなしたのは、クラークだった。船中で黒田清隆はクラークに、ある頼みごとをした。

「どうも、さいきんの若者の道徳はなっておらん。あなたの力で、最高の道徳を仕込んでいただきたい」外国人にとって、「道徳」ということばは、「信仰のこと」だろうと思われた。クラークはいった。

「あなたのいわれる最高の道徳というのは、キリスト教以外に考えられない」

すると、黒田清隆は腕を組み、

「それは違うでしょう。キリスト教とはまったく異なる。宗教は、ヘタをすると国を滅ぼす」とまでいった。

「そうではありません。こころの糧になります」とクラークはいった。

「しかし、聖戦と称して、ヨーロッパの列強は宗教戦争をしたではありませんか。そういう戦争教育は、やってほしくありません」

黒田清隆は無宗教。クラークは敬虔なクリスチャン。ふたりのかみ合う余地はまったくなかった。

「キリスト教を奉ずる学校にはしたくありません。それをもって、学校の教育方針にすることはできません」といって突っぱねた。その後ふたりとも、何日も、口をきかなかった。

この問題にケリをつけたのは、まるで無関係な九州・熊本で起きたある騒動事件だった。――熊本洋学校問題と、京都の同志社問題がひとつの気運となって後押しした。

明治9年、18歳の坪内雄蔵が開成学校に入学し、内村鑑三が東京英語学校で最上級生になったとき、14歳の徳富猪一郎という熊本から出てきたばかりの少年が、東京英語学校へ入学してきた。猪一郎は、漢学教育と、熊本洋学校で英語を学んだ。

そこへヘール・エル・ジェーンズというアメリカ人教師がやってきた。教師は熱心なクリスチャンで、猪一郎より6、7歳ほど年上の先輩学生は、その影響を強く受け、キリスト教精神なるものに染まっていった。やがて、キリスト教を嫌う両親の知るところとなり、通学を拒否されたけれど、猪一郎は信仰を棄てなかった。

いっぽう、明治9年には廃刀令が出て、刀を佩()くことはもとより、持ち歩くことを禁じられた。だが、これを無視した国粋主義を奉ずる若者たちが、刀を袋に入れて隠し持ち、ちょん髷も切らず、旧藩士気取りで町をねり歩いたりした。

熊本洋学校は、そういう輩にたいする対応に手こずり、そうそうに文部庁の知るところとなって、いきなり廃校になってしまったのである。

さて困ったのは猪一郎たちだった。

もう行くところがなくなった。それから間もなく、京都にキリスト教の学校「同志社」を開校したばかりの新島襄のもとに、青年たちの一群が大挙して押し寄せた。

「われわれを入学させてください」と訴えたのである。新島襄は事情を理解して入学を許可した。坪内雄蔵は、のちの坪内逍遥である。徳富猪一郎は、のちの徳富蘇峰である。札幌農学校も例外ではない。まして、クラーク教頭、――教頭とはいえ、事実上の学長である。――彼の教育理念を受け入れた政府は、北海道開発使長の黒田清隆の反対意見を受け入れることはできなかった。それを承知でクラークを招聘したのだから。                                                                                  ♪

明治9年9月、ウィリアム・クラークとその後輩のペンハロー、ホィラーの3人は佐藤昌介、大島正健ら11名の学生とともに札幌に農学校を開いた。クラークは開校式に登壇し、こう演説した。

「諸君!」 

諸君はこの学校に入って、やがて国家のために重要な地位と厚い信用を、また、それらにふさわしい名誉を受けるように準備し、努力しなければならぬ! それがために健康なる肉体をつくり、貪欲をつつしみ、また性欲を制する力をやしない、従順と勤勉への修練にはげみ、かつ、習わんとする学課については、できるかぎりこれを研究し、練磨すべきである。――と。

 

開拓使長となった黒田清隆は、学生たちの飲酒や乱暴をやめさせるよう強く要請した。

クラークは酒が好きだったので、1年分のじぶんの酒瓶はすでに用意していた。彼の赴任は1年という期限付きで設定されていたので、北海道滞在は、1年をすぎることはない。

ある日クラークは、しまっておいた酒をすべて、学生らに教室に運び込ませ、学生たちに向かってこういった。

「諸君らに酒を飲むなといいながら、教頭であるじぶんが飲んでいたのでは、申し訳が立たない。学習中は禁酒すべきであり、酒の好きなわたしも禁酒するので、諸君もわたしに倣い、禁酒を実行してほしい」

そういって、学生たちに禁酒誓約書を書かせた。

そしてクラークは、学生たちにバイブルを1冊ずつ手渡し、日曜日には全員教室にあつめ、聖書研究と称してイエスの教えを講義した。祈祷書は熱心に教え、礼拝をおこなった。

開校と同時に、札幌農学校は堂々たるキリスト教理念のもとに教育がすすめられた。クラークは科学者でもあったので、学問は多岐にわたった。

「枯れ草は、飼料としてなぜ栄養に富むか?」と質問する。

だれも答えられない。そのうちに学生のひとりが、おそるおそる立ち上がり、

「水分が、蒸発してしまっているからであります」と答えると、クラークは満面に笑みを浮かべた。

「そうだ! 水分が蒸発しているからです。……ならば、水より軽いものの比重は、どうして量るか?」と質問する。

「水より重いものに結びつけて水中にぶら下げて量ります。水より重い分をのぞいて計算すればいいと思います」と答えた。クラークはますます喜色満面になり、

「名答!」と叫んだ。

ある日、野外で授業がおこなわれた。途中の道で、小川を渡るとき、1本の木の橋の上を歩く。ちょうど7歳ぐらいの少女がひとりで渡っていた。学生のひとりが手を差し伸べて、彼女の手を取って渡らせようとした。それを見ていたクラークは制した。

少女が渡り終わってから、

「よくやったね!」といって、頭を撫でた。

クラークは郷里のマサチューセッツの州立農科大学の学長だったので、札幌へは1年間だけの赴任となっていた。明治10年4月、彼の帰る日が近づいた。

そのちょっと前の3月5日、クラークは「イエスを信ずる者の契約」という文章を書いた。

学生ら全員が、これに署名した。学生のひとり、21歳の佐藤昌介は最年長であり、寡黙で、物静かで、思慮深い男だった。彼は自然に仲間たちに重んじられた。のちに北海道帝国大学ができたとき、彼は初代の学長になった男である。

大島正健はもっとも熱心なクリスチャンになった。

クラークは、1877年のこのころ、欧米の紳士に引けを取らない長い口ひげをのばし、短い顎ひげも生やしていた。

面長で、威厳があって、目はやさしかった。

マサチューセッツにかぎらず、むかしの北米ニューイングランドの人たちは、ほとんど敬虔なクリスチャンである。詩人エミリー・ディキンソンも彼と同郷である。クラークが博士号を取得したのは、ドイツの大学だった。化学と隕石成分の論文で学位を取った。

明治10年4月16日、クラークは札幌を出発した。学生やほかの教員も、札幌郊外24キロ先にある島松まで見送り、別れの昼食をとった。ひとりひとりと握手を交わし、別れを惜しんだ。そのとき残したことばが、「Boys, be ambitious!」ということばだった。函館まで馬に乗って向かった。

とうじ、鉄道などはなかった。――やがて、後輩に内村鑑三や新渡戸稲造という天才たちがやってくる。また、作家として成功する有島武郎もやってくる。――この話を記せば、キリがない。――ただひとこと。

内村鑑三は、目がきつく、性格が激しく、負けず嫌いで成績は新渡戸稲造と1位、2位を争った。新渡戸稲造は美しい青年で、頭がよく、性格は柔軟・明敏で、英語力は抜群だった。当時、彼だけはノートはすべて英語でつづっている。

クラークのほうは、もとより日本語はさっぱりダメなので、すべての講義は英語でおこなわれた。新渡戸稲造の書いた「武士道」は英語で書かれた。岡倉天心の「茶の本」も英語で書かれた。徳富猪一郎、のちの徳富蘇峰はロシアへ行き、トルストイに会っている。

内村鑑三、新渡戸稲造は、ともに著名な人物なので、あらためて書く必要もない。――そんなことをつらつら思い出していた。米国に帰還してからのクラーク博士については、何も話したくない。あまりにもみじめな生涯を送ったからである。