川長治さんの

画家の太田英博さんと田中幸光(右)

 

 むかし、淀川長治さんという映画評論家がいましたね。

 その話をしてみたいと思います。

 テレビ朝日系列の「日曜洋画劇場」という番組を、ずいぶんながいあいだ持っておられた方です。彼は、番組のおしまいに「さよなら、さよなら、さよなら」と3回もあいさつをする人でした。妻が札幌で交通事故にあったおなじ日、――平成10年11月11日(水曜日)に老衰のために亡くなられました。「みなさん、わたしは明日死にますからね」を繰り返し繰り返しいっていた人です。 このことばをいいはじめてから、5、6年後に亡くなられたわけです。そりゃあ楽しい人生だったに違いありませんね。

 淀川長治さんとは、テレビ朝日の館内でたびたび会っていました。彼は隣りの全日空ホテルに住んでいました。テレビ朝日のすぐ隣りですから、歩いてこられる距離です。歩数にして200歩ぐらいでしょうか。すっかり曲がってしまった腰をかがめて、風の日も、雨の日も、カラヤン広場をのろのろひとり杖をついてやってきます。

 それが、テレビカメラのまえに座ると、しゃんとして、生き返るというふしぎなエネルギーを持っている人でした。

 画面で見ると、顔色も色つやもいいのは、メイクのせいです。出演するときは、スタジオのまえにあるメイク室に入り、だれでもいろいろお化粧するわけですが、きのうまでテレビに出ていた人が、老衰で亡くなった! と聞いて、世間はびっくりしただろうと思います。タレントの菅野美穂ちゃん(TVドラマ「イグアナの娘」に出ていた女性)と淀川長治さんがアークヒルズの受付あたりで鉢合わせになると、美穂ちゃんに向かって「大きくなったね」といって、淀川長治さんは自分の子どもみたいに喜ぶんです。彼女にはいつ会っても、大きくなったね、というんです。150センチすこしぐらいですから、ちょうど淀川長治さんくらい。淀川長治さんは、たいがい車椅子に座っていますから、大きく見えただけかも知れません。

「ええ、おかげさまで大きくなりました」なんて彼女はいうんです。

 美穂ちゃんは、可愛い顔をしているけど、ちっとも大きくならない。もう二十五、六歳になっているでしょうか。淀川長治さんは、美穂ちゃんがお気に入りだったようです。

 「日曜洋画劇場」がはじまったのは、昭和42年4月。そして平成10年10月まで淀川長治さんが解説者としてテレビに毎週登場していましたから、なんと36年間(来年降板するニュースキャスター久米宏さんの18年間のちょうど2倍)もテレビ朝日系のブラウン管に出ていた計算になります。おどろくべき長寿番組です。すべて洋画にしぼり、しかもゴールデンタイム二時間枠のレギュラー番組として定着。テレビ朝日のカンバン番組になっていました。

「チャンピオン」「子鹿物語」「裸足の伯爵夫人」「帰郷」など話題の洋画をどんどん放映し、《淀川長治》の番組として亡くなるまで話題をさらっていましたね。晩年になればなるほど、この番組の視聴率がアップしました。視聴者の多くは、淀川長治さんのお元気な姿を見たかったからでしょうか。

 彼の「さよなら、さよなら、さよなら」がお経のように聞こえたものです。――ぼくの顔を見ると、淀川長治さんは片手をあげて、「やー」といってくださる。

 亡くなられるころには、すっかり総白髪になり、目もはっきり見えなくなって、苦労されていたようですが、テレビ朝日の編制局には淀川長治さん担当の女性がいて、館内を車椅子に乗って彼女に押されていました。だいたいは、試写室という小部屋にいくのですが、淀川長治さんは夜遅く、11時すぎまでそこで仕事をしていました。映画をモニターしているんです。小部屋に入ると、次週の予告映画も観ますから、時間は四、五時間くらいかかります。そして、ちゃんとメモを取る。映画が好きという程度の人間ならざらにいますが、淀川長治さんは、映画がなければ生きられないほど狂っているんですね。こういう人間は、凄いと思います。

 カラー放送を開始したのは、資料によれば昭和41年の第1回目からで、そのときの放送作品は、ユナイト映画の「誇りと情熱」というアメリカ映画でした。ケーリー・グラント、フランク・シナトラ、ソフィア・ローレンといった大型俳優による自信作。ぼくは後年ビデオでそれを観ました。イタリアの女優ソフィア・ローレンの全盛時代で、いちばん美しいころの映画。いらなくなった映画ビデオを大量にもらい受けました。

 ただ、当時はどこもまだ音声吹き替えはやっていなくて、スーパーインポーズという字幕方式で放映されます。テレビ朝日では、これを大胆にも音声吹き替えを決断した最初の放送局となります。劇場映画の名作を、吹き替えで放送するということで、編制局内では意見が真っ二つに割れ、洋画ファンにとって、名優の演じる声が替えられていたら、がっかりするだろうという意見が根強くあったようです。字幕方式はもう古いと考える若手の意見とぶつかり、最初から揉めたという記録が残っています。この記録は、30周年記念社史とともにテレビ朝日からいただいたものです。

 で、それまで「土曜洋画劇場」で放映した「ローハイド」「ララミー牧場」で得た視聴データを参考に決断を下します。この映画もなつかしいですね。声優を使って全編吹き替えるという方針にしたわけです。これがあたって、視聴率がいきなりぐーんとアップします。

 たとえば、アラン・ドロンならば野澤那智、フランク・シナトラならば家弓家正、オードリー・ヘップバーンならば池田昌子、マリリン・モンローならば向井真理子という具合に、俳優と役柄にあった声優たちの厳選がおこなわれます。これが、現在のテレビ映画の吹き替えを決定づけていったわけで、ほかの局でも、テレビ朝日が使った声優キャストがだいたいの基本になって、海外の俳優たちの専属声優システムというものができあがっていったわけです。これに最初から貢献したのは、じつは淀川長治さんだったわけで、この検討委員会の主要なメンバーでした。こんなウラ話は、一般には知られていないと思いますが、すばらしい仕事をされました。彼は映画とともに生き、映画の未来を信じた人だったと思います。

 なにしろ映画については経験ゆたかで、なんの気取りもなく、視聴者の知りたいツボをぴしゃりと射抜く、あのしゃべり方はちょっとありません。映画が終わって、ふたたび淀川長治さんが登場し、そして次週の予告につづくエンディング部分で、「今週はこのへんで。来週またお目にかかりましょうね。それではさよなら、さよなら、さよなら」と、余韻を残して終わります。

 このワンパターンとなるエンディングは、淀川長治さんご自身が決めたのだろうと思います。たいへんいい番組になっていると思うのは、そのエンディングです。テレビ朝日には、質問の電話がたくさん寄せられたらしいのです。

「さよなら、さよなら、さよなら」と三回も繰り返すのは、何か理由があるのか、という質問で、ずっとたってから、ある日番組のなかで、ほんとうは30回くらいいいたいのだけれど、テレビ局から下ろされたくないので、3回にとどめているのだというのです。

――これを観ていらっしゃる方々はたいへん大勢で、1000万人か、1500万人かわからないけれど、それぞれの人にお別れするんですから、「さよさら」一回だけじゃ、どうしても足りません。で、そういう理由でぼくは3回やっているんですね。3回しかやっていないんですといったほうが、ぼくの気持ちに近いんです。おわかりいただけたでしようか? では、また来週お目にかかりましょうね。さよなら、さよなら、さよなら。――という具合。

 91歳で亡くなられるまで、現役でとおした偉大な映画人でした。

 民放テレビ局というのは、ほとんどCM収入でまかなっています。ですから、CMと映画との関係は切っても切れない関係にあります。といいますのは、航空機事故にあう映画には航空会社のCMは入れない、自動車事故をあつかう映画に自動車メーカーのCMを入れない、というような考えがとうぜん出てきます。

 これには淀川長治さんはたいへん意を用いておられ、映画がCMによって中断されることの、感覚的な落差とギャップについて、深く考えた人だったと思います。このあいだ、ぼくは小説のなかで、もう亡くなった人をしずかに思い出すというシーンを書いていたとき、偶然にも、テレビのコマーシャルで「やっぱりお墓のなかがいちばんのようです」というナレーションが聞こえてきました。やれやれ、思わず噴き出してしまった! さっそく忘れないためにメモを執りました。殺人事件が出てくる映画で「やっぱりお墓のなかがいちばんのようです」なんていうコマーシャルがやられたら、とてもおかしいにきまっています。それだけじゃなく、視聴者の気分が殺がれてしまうでしょうね。

 これと似たようなことにならないために、テレビ番組は考えるべきだと彼はいったわけです。

 淀川長治さんと会っていると、ほっとします。

 ぼくは事業に失敗しましたが、それでもへこたれず、負けても、こんど勝てばいいと思わせる勇気を与えてくれた人、――それは淀川長治さんでした。彼の「さよなら、さよなら、さよなら」は、ほんとうに「さよなら」なんだと思います。そして、「ぼくは明日死にますからね」というあいさつ。なんていうほがらかなことばだろうと思います。明日死ぬ、そうであってもいいとする達観。エンターテインメントの極地。これ以上のことばはないと思えるくらいすばらしいんです。

 人生を擲なげうつこともしない、そういう度胸を教えてくれたのは、ぼくの敬愛してやまないヘミングウェイでした。「人生は  戦いぬくだけの値打ちがあるのだ(The world is a fine place and worth fighting for.)」といったのもヘミングウェイでしたが、何も歯を食いしばって、何十年もクソ度胸を試しつづける必要なんかない。あればあったで、なければないで飄々ひょうひょうと生きる人生こそ、楽しいじゃないか、そうおっしゃる淀川長治さんの声が聞こえてくるようです。彼は人生を精一杯に楽しんだ人だと思います。

 ぼくは、淀川長治さんの人生を見倣って、飄々と生きてみたいなと思っています。そのように思う主人公をペーパーの上に書き込んでいます。

 で、高校生のとき、父親から漢和辞典というのをゆずってもらい、とにかく日本語が読めるようになりたいと思いました。まず新聞が読めるようになりたいと。これがなかなか読めませんでした。で、みんなに追いつくには、辞典を読むにかぎると短絡的に思いました。漢和辞典には、漢の時代の元の文字の興りから、どのように変遷し、また意味がどのように変化していったのかということが、ちゃんと書かれていました。

 漢和辞典を読むといいましても、もともと読めないのですから、最初はちんぷんかんぷんでしたね。次第になんとなくわかるようになってきます。そのなんとなくというところが、だんだんとはっきりしてきます。ついに「ははーん」と思います。「だからなんだ!」と合点するものが見えてきます。ぼくは、その「ははーん」をまず勉強したいと思いました。つまり、扁と旁つくりの組み合わせです。

 その方法で英語も独学しました。高校生ではあっても、ぼくの場合は全部が全部、独学でした。仲間といえば森茂さんぐらいでしたね。彼はぼくと違って優秀でした。ぼくは何回も勉強しなければわかりませんでしたから。

 英語、――というよりも、ひろくヨーロピアン言語全体が、扁と旁でできている、ということなんです。そのようにいう学者なんかいないと思いますが。ぼくは、あきらかに単語は扁と旁でできている、と思います。テレビは「tele‐vision」というように、「tele=遠い」と「vision=映像」というギリシャ語が語源になったことばがくっついたものですし、電話なら「tele‐phone」というように、「tele=遠い」と「phone=音」ということばがくっついたものです。妊娠はconceptionといいますが、「con-=共に」「ception=生殖器官」の合成語なわけです。妊娠だって、相手がいなければできませんので、単語にはご丁寧にも「con-=共に」がくっついているわけです。「con-」が頭にある単語はすべてそういう意味を含んでいます。Conceptionはのちに「概念」という意味に発展していきます。産み落とされるまえの胎児の状態をいい、名前もなくて、この世にまだ存在していないもの、つまり、さまざまな想念を胎盤に守られてすくすくと育つ「概念」という意味になっていくわけです。

 すると、英語も意外に楽に知ることができるというわけです。

 はじめて見る単語でも、あたらずといえども遠からずで、どんなことばなのか、予知することができるようになります。英語の80パーセントはすべて外来語ですが、ギリシャ語がローマの船に乗ってやってきたことばは、大陸からきたことばとは違います。たとえばアップルは林檎ですが、ギリシャ語では木の実という意味になります。モノクロのモノは、ギリシャ語で、古代ギリシャ時代の数字の「1」です。単一のという意味になり、クロは、クロームの略で、乳剤です。単一の乳剤ということになり、カラーじゃないというわけ。モノトーン、モノレールなど。

 こういうことは、中学生のときに少しでも教えてくれたなら、よかったなと思います。それに、楽しいし。ぼくでもわかっただろうと思います。辞典を読みますと、そのことばは、どこからやってきたことばなのか、海を越えてやってきたのか、陸づたいに――つまりヨーロッパ大陸を歩いてやってきたのかなどまでわかります。単語のルーツがそれぞれわかってきます。漢字も英語も、構文までおなじですから、白文のままで漢詩も読めます。つまり、空海が読めるというわけです。

 今回、アメリカの詩について書いたのですが、たとえば、このように鑑賞しますと、いくらかはおもしろく鑑賞できるのじゃないか、そう思って書きました。これは、ぼくの27歳になる娘のために書いたものです。

 川田さんにせっかく手紙を書くのですから、何か近作をお贈りしたいと思いましたので、これをお送りいたします。ともかく、元気でやっております。ぼくのマンションは港区内の外務省のすぐそばです。生活圏じゃありませんが、こういう仕事をするには便利なところです。眠たくなれば寝て、書きたくなれば書き、時間はまったく気にしません。

 宮部みゆきさんの推理小説、『模倣犯』は130万部も売れているそうです。数億円の印税収入。ヒット作をつくりたいというのが、ぼくの目下の志。フランスのバルザックという作家は、たいへんな浪費家で、借金まみれのなかで創作し、大作をつぎつぎに書きまくっています。

 あのエネルギーはなんということでしょうか。ぼくなどは、いくら望んでみても、とうてい叶いません。

 イタリアには、「やぶれて英雄になる」ということばがあります。

 ダ・ヴィンチとマキャヴェッリの話をいうことばです。このふたりは、つるんで人生最大の失態を演じています。マキャヴェッリは逮捕され、ダ・ヴィンチは5年間もままならない暮らしに追い込まれます。借金があるなどという生易しいものじゃなかったようです。

 ですから、彼らは偉大な仕事ができたわけです。つまり、ありあまるほどの時間が、ある日、ぽっとできてしまったということです。おかげで、後世に残る傑作がつくられます。ダ・ヴィンチは人体解剖図や機械工作図をつくり、近代医学に貢献し、マキャヴェッリのほうは『君主論』やさまざまな論文を書きました。フィレンツェ政府の一介の行政書記官とは思われない業績です。ダ・ヴィンチのほうは、もともと土木工学師です。

 「男子3日会わざれば剋目かつもくして待つべし」ということばが『三国志』のなかに出てきます。

 3日も会わないでいると、それぞれの相手がずいぶん変わってしまっているから、剋目せよ、というわけでしょう。おもしろい表現です。川田さんと会わなくなっていったいどのくらいたつでしょうか。それはそれはお互いに大きく変わっているでしょうね。このぼく自身も変わってしまいました。自分でもわかります。冒頭に申し上げたように、イタリアに住んでみたいなんて! 自分でも驚いています。

「やめとけ!」といって忠告してくださる人もいますが、ぼくは、39歳のときに、ガンを患い、いちどは拾ったいのちだと思いますと、怖いとはちっとも思わなくなりました。それ以来、ぼくは母親の血筋を引いてしまったのか、大胆さがおもてに飛び出してきた感じです。今回のダイナミックな事業失敗といい、現在、ぼくの個人的な借金は額にして9000万円もありました。資本金の9割はぼくのお金ですし、あと借り受けた額がたくさんあります。ほんの少しずつ、1000万円借りた銀行には、月々5000円ずつ支払っているような程度です。あとは待っていただいています。

 100億円もの借金がある人が先日TVに出ていました。彼は、月々2万円ずつ支払っているといっていました。その調子でいくと、いったい彼は、何年払いつづけることになるんでしょうか。100億円の借金があっても、ちゃんと生きられる社会にはなっているようです。げんざい、ぼくは事業を廃業していますが、じっさいは、会社は完全にまだ死んでいるわけじゃないんです。

 つまらない話なので止めますが、ぼくは、人生はなかなかおもしろいと思っています。何があるかわからないストーリー。マキャヴェッリだって、逮捕監禁されてこそ、いい仕事ができたのですから。人はやぶれて英雄になる。――まさしくそう思います。

 ついでですが、9月号の文藝春秋を見ていましたら、直木賞作家の藤堂志津子さんの写真が載っていました。札幌の「芸術の森」で撮られているものでした。ちょっと失礼ないい方ですが、もうおばさんになっています。

 ぼくが彼女に会ったのは、昭和五十七、八年ごろだったと思います。東京から札幌に引っ越して間がないころで、長い入院生活を終えたころ。彼女はパブリックセンター(札幌の広告代理店)で仕事をする前のころだったと思います。ぼくは何かの用事で、彼女に原稿依頼をしました。

「ああ、残念だわね。ヒマなんですけど、ちょっと忙しくしてて」といいます。

「何してるんですか?」

「じつは、小説を書いているんです」

「ほう、小説ですか……」といって、ぼくは相手にもしませんでした。それで食べていけるはずもないだろうと、心のなかでひそかに思いながら、彼女のブンガクの話を聞き流していました。それからふたたび会ったとき、偶然にもパブリックセンターのなかでした。沖田部長(現専務)から彼女を紹介されました。なーんだ、ここにいらしたんですか? といいましたら、入ったばかりだといっていました。彼女はホクレンの仕事に取りかかったばかりで忙しく、しばらく一階の喫茶店で話し込みました。

「小説は、いかがですか?」と尋ねますと、「書いたわ」といいます。

「ほう、そうですか」といいながら、ぼくは彼女にどんな小説を書いたのか訊きもしませんでした。

       エンターテイメント系の小説には、まったく関心がなかったからです。自分はひそかに書いていることなんて、まったくいいませんでしたが、当時ぼくは、もっとも関心のあったイギリスの小説の話を、他人事のようにおしゃべりしただけだったと思います。彼女はぼくの話もちゃんと聞いてくれました。

 そのうちに、暑い八月になり、彼女の『マドンナの如く』という作品がいきなり直木賞にノミネートされていることを知りました。そして、次作の『熟れてゆく夏』で第100回直木賞を受賞しました。ぼくはもうびっくりしました。

 彼女の周辺は急に慌しくなったみたいです。

 彼女の本名は熊谷政江さんといいます。北海道の熊谷、――その「熊」というネーミングが悪いと思ったのでしょう、編集者の意向に添って、現在の名前、藤堂志津子に切り換えたのだそうです。そういうことってありますよね。で、ぼくもかたちが悪いのですが「田中ゆきみつ」としています。ともに30代。いや、ぼくはもう40歳になっていましたね。39歳で亡くなったショパンの年令を過ぎていたと思っていたころでした。ある若い女性といっしょに札幌の厚生年金会館でショパンを聴いていたころでしたから。

それからというもの、ぼくは隠れて小説原稿を書きました。

隠れてとはいっても、他人さまだけに隠れてです。なにしろワープロは業務用のでっかいもので、キヤノンから出ていた「キヤノワード60」を一階のリビングルームに設置して、家族のまえで夜となく昼となく書斎の鬼になって打ち込んでいました。1台が162万円もする、車なみに高価なワープロでした。

 現在、藤堂さん54歳と雑誌には書かれています。まだまだ若い。札幌でいつかふたたびお目にかかったとき、「田中さんも書けば……」といわれてしまいました。 はげしい嫉妬をおぼえました。ぼくはむかしから嫉妬深い人間でした。

 人のやれることは自分もやれると思い込んでいる人間でした。逆に、自分にできることは、人もできると思い込んでいました。

 ぼくのガンは、第4腰椎で、そこに3つのガンができていました。入院先で考えていたことといえば、小説を書くことでした。かりに五年生きられるとすれば、小説の一編ぐらいは書けるかもしれない、そう思っていました。――この体験をもとにして書いた小説『ひまわり』の一部を写してみます。

「田原さん。わたしはね、男の人には夢を捨ててほしくないんです」

 17年まえ、そういってくれたのは、20歳の学生さんだった。田原が39九歳のときだ。田原がガンの手術を受けたときに出会った看護学校に通う学生だった。彼はその女性に見せたのである。ベッドのうえで即興でふざけて書いた小説だった。

 名前を佐原美佐子といった。

 彼女は膝の靭帯じんたいを切って、おなじ病院に入院していた。期末試験がちかいというので、美佐子はベッドなかで英語の勉強をしていたらしい。ある日、英和辞典を借りにやってきて、田原が手術を受けた日の朝、美佐子は退院した。退院する彼女は、辞典を返しにやってきて、つぶやくようにいったことばが「男の夢」の話だった。麻酔からさめて、田原は美佐子がいい残していった「男の夢」の話をつらつら思い出し、痛く感じ入った。田原はいつか小説を書きたい、ともらしていたから、ここでいう夢とは「小説」のことだ。かりに5年生きられれば、小説の一編ぐらいは書けるだろう。

 田原は、そのときちょうど術後の麻酔をぬくために、酸素室に入っていた。なんとも妙な気分だった。まるで、排便の真っ最中に彼女がとつぜんあらわれたような、落ちつかない気分だった。まだ麻酔が抜けきっていなかったから夢うつつの感じで、彼女の顔を真下から仰ぎ見るあのアングルは、なにしろ強烈だったことを覚えている。

 だから、美佐子の話はぼんやりとした感じで受けとめるしかなかった。耳から入る話よりも、彼は目から入る彼女の視覚的な情報を精一杯つかみ取ろうとしていたらしい。田原の病気がなんであるか、彼女は知っていたし、たぶん、そのときのさよならは、永遠のさよならになるだろうなと、彼は思った。

 病院で聴いた音楽はぜんぶ、美佐子のウォークマンで聴いた。そして、何週間かたち、ベッドの背面が四十五度角まで立てられ、座ることができるようになると、食事もほとんど自分でとることができた。配膳用のカウンターを手まえに引っぱってくれば、本も読める。やがて日記や手紙も書けるようになる。田原は、ほとんどなんの期待もせず、つらつらと佐原美佐子あての手紙を一通書いた。そして患者仲間の手で、投函。はんぶんは、悪ふざけだった。

 すると、一週間もしないうちに、彼女からまじめな返事がとどいた。

 なかに、エドワード・ジェンナーに関する分厚いコピーが同封されている。なぜか、彼はエドワード・ジェンナーの種痘法について知りたいと思っていたし、事実、そのとおりのことを手紙に託したのだ。たぶん、看護学校にはその種の資料もたくさんあるだろうと勝手に希望をつづっていた。しかし、それは彼の口実だった。種痘法など、どうでもよかったのだ。その手紙はたぶん、いまも家のどこかにあるはずだ。

 で、病院と彼女の寮とのあいだで、何通かのやりとりがあって、3月21日、ちょうど日曜日の晴れた日の朝、田原は退院した。――おれは退院したぞ! と、叫びたい気分だった。退院したその足で、彼は自分の車で、豊平区の看護学校にいってしまった。

ユキ子は、家で退院する夫を迎える準備をしていたかもしれない。

美佐子は、玄関先で、田原がやってくるのを立って待っていた。

 田原たちは、近くのレストランで食事をし、それがおわると、彼女を乗せて札幌駅へとむかった。美佐子は春休みを利用して、その日、彼女の実家のある室蘭へ帰省することになっていた。だから札幌駅についたら、お別れする、そういう予定だった。ところがその日、大きな地震があった。午前11時32分、浦河沖地震が発生したのである。マグニチュード7・2。最大震度は浦河で6、140万都市札幌では4を記録した。田原はちょうど車を運転していて、よくわからなかった。

北海道の長距離列車は全線ストップした。しかたなく、ふたりは駅の喫茶店に入って運転再開の時間がやってくるまで、つき合うしかなかった。そこにいたのは、なんと九時間もいたことになる。そのとき店内に流れていたのは、ビートルズの「抱きしめたい」とか「プリーズ・プリーズ・ミー」とか、名前の忘れたグループサウンドだったりした。

「それで、いまはだいじょうぶなんですか?」と、美佐子はきいた。

「まったくダメです。病院のなかじゃ、そんな気分にはなりませんからね」と、田原はいって、笑ってごまかした。実際は深刻な問題だった。勃起不全の話である。男性にはそのような症状があるということは、すでに彼女は知っていたらしい。が、美佐子は多少興味を持ったらしく、興味ある質問を彼に浴びせる。

「かわいそう! ダメなんですか? いろいろためしてみました?」

「やってみたけど、ダメなんです。若くても腰椎の手術にはつきものの問題で、だいじな神経を切られてしまえば、ドクターがいうほどかんたんじゃなさそうな気がする。……」

「腰椎の場合は、しばしばあると聞いていますが、どうでしょう」と、美佐子はいった。もしかしたら、一種の神経過敏症なのかもしれない。デリケートな問題だった。

「もし、このままだと、どうなさるんですか?」

彼女の唇のあいだから放たれることばは、田原のおかれた立場の核心を衝いていた。それにその動きが、彼に未来を予感させた。

「わたしを誘ってくださったのは、なぜですか?」

「いい質問。しかし、なぜかな……」

田原はたばこに火をつけ、相手の黒い目をのぞきこんだ。ぞっとする人生だろうなと、彼は思った。同情すべきクリフォード卿の悲劇が、彼の目の前にたちあらわれた。――慈悲というものは、神の遣つかわすものだ。慈雨が空から降って大地をうるおすように、まさにそうあるべきものとして、彼は受け入れようと思いはじめた。

「田原さん、なぞなぞは、止しません?」

田原は彼自身の心を苛さいなんだ。美佐子は彼の申し出をどんなふうにきいたのか知らない。――そのときの田原の格好は、院内で使っていた厚手の冬もののガウンを着ただけだったから、どんなにことばを着飾っても、はじまらない。おまけに松葉杖を使っていたのだから。

「ご自分をいじめるのは、もう止しません? 田原さんには、将来があるんですし、もっとまじめに生きてください。人間としてです。そうじゃありません? きっと治ります」と、美佐子はいい切った。

それが田原にたまらない慰藉を与えた。「このあいだから、目がかすんだ感じで、辞典の小さな文字が読みにくくなってね……」

「手術するとそうみたい。――わたしの顔、ちゃんと見えてますか?」

「そりゃあ、ちゃんと見えてますよ。きれいにね」

「まあ、きれいは余計です」

といって、美佐子はストレートのコーヒーを少し飲んだ。そのうちに冬の太陽がひとまわり小さくなり、やがて夜になり、窓ガラスに自分たちの顔が大写しになって見えると、店内が騒がしくなった。

「まだかしら。ちょっとわたし見てきます」といって、美佐子は改札口のようすを見に出ていった。じきに戻ってきて、「まだダメみたい」といい、室蘭方面の長距離列車は静内大橋の橋脚が破壊されたり、鉄道に土砂くずれが発生して、ストップしたままだといった。

「今夜は、ダメかもしれないな」と田原はいった。

「そんな! そんなこといわないでください」と、美佐子はいった。

「だいじょうぶだよ、きっと動くよ」田原は、気休めをいった。

「田原さんになぐさめていただかなくてもいいんです」と、美佐子はいった。

彼女の小さな手に、ワインレッドの花柄のハンカチが握られていた。彼女の手は、からだに似合わず小さかった。美佐子の眉毛の数本が、つんと立っているのが気になった彼は、美佐子をいつか写真に撮ってみたいと思いはじめた。

 そのうちにレコード曲が変わり、マスカーニのオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の前奏曲がかかって、ボリュームが一段アップする。なにか芝居めいた店内が、舞台装置のような雰囲気になる。

いろいろな人間がいた。

 列車を乗り継いできた者もいただろうし、どこか名のある料亭の女将おかみといった感じの、和服姿の女もいた。地方の農協の関係者らしい男たち、漁師の浜ことばをあやつる男女や、寝具販売かなにか商売の話に熱中している男たちもいる。みんな、この舞台のうえで、それぞれの役割を演じる俳優のようだった。しかし、ビジネスマンらしい姿は見えない。彼らは、列車をめったに使わない。

 やがて、閉店時間がやってきて、田原たちはそこを追いだされた。

 外は真冬だった。

 外に出たのはいいが、駐車場はすでに閉まっている。足の便がうばわれて、彼は寒さにふるえながら松葉杖をたよりに、雪道を歩いた。しかたなくふたりは近くのホテルに泊まることになった。なにしろガウンしか着ていなかったのだから、ホテルの人間もびっくりしただろう。ガウンに松葉杖。田原たちの事情など、彼らの知ったことじゃない。

 ベッドは硬くて、寝心地はよくなかった。いかがわしい安ホテルだった。スチーム暖房はあまり効かず、落ちつかないけばけばしいつくりだった。ベッドわきの壁はすべてミラー張りになっていて、よく見ると天井までミラー仕掛けになっている。美佐子は黙って、シャワーを浴びるために浴室を使った。

 田原はコルセットで上半身をきつく締めつけていたから、ベッドのうえで寝転がってコルセットをはずすと、ほっとした。やがて美佐子がやってきて、「お願いがあります」といった。

清拭(せいしき)をやらせていただきたいんです。お願いします」というのだ。いかにもお願いします、といって頭をさげた。

小国ランダ500年の衰を見る 1

 

まあこんな本があるというのは実におもしろいと思いました。オランダが小国であるか否かは今は問いませんけれど、低地諸州(ネーデルランデン)の大航海時代から現代まで人物本位の政治・外交・経済・絵画を見て行いくと、オランダという国は、いかにも小粒ながら、発想は歴史的には実に巨大な国なのです。その真実を知りたくて、オランダの地を歩いてみました。

きょうも寒い朝がやってきました。どんよりとした天気で、まだ闇につつまれた家々のそばを通り、自分の歩く靴音だけが聞こえるアスファルトの道を歩きます。遠くに人の影が見えます。犬を連れています。

そして、近くで人の声が聴こえてきます。女の声に、ときどき男の声がまじります。

綾瀬川にそったマンションの2階あたりから聴こえてきます。人の声がこんなに澄んだ音で聴こえるのは、ちょっとめずらしいことです。ふだん、この道はクルマが通り、人のささやくような声は騒音でかき消され、まったく聴こえてきません。

朝の風景は昼間の風景とがらりと変わり、まったく別の顔を見せます。

ぼくは歩きながら、ちょっとトリッキーなプロットを考えていました。

やくざな男が、目もさめるような女を手に入れていうセリフ。

「欲望をぬきにして、あんたのためを思う人間なんて、おれ以外にいないんだぜ!」

2階から聴こえてくるその声は、はたしてそんなことをいったかどうか、それはわかりません。

それにしても、マンションというのは、人の声を反響させ、まだ醒めやらぬ朝の慈悲深い声になって聴こえてきます。彼らは、これからマンションを出ていこうとしているのではなく、どこかから帰ってきたようです。

若い人は、朝まで飲み過ごし、人生を楽しむだけの体力を持っています。この時間まで、どこかの店で飲みながら歌でも歌っていたのでしょうか。

ぼくは川のほとりの小道にたたずみ、ちょっと休憩します。

何か白い大きな鳥が羽ばたいて飛んでいくのが見えました。いつもこのあたりにうろついているあの鳥だ。水辺を唯一の塒(ねぐら)にしている一羽の鳥。この子には相棒がいなくて、さびしそうです。

しばらくして、彼らの声が聞こえなくなって、ヘッドライトをつけたクルマが通り、ほのかに朝が明けていきます。

小道のベンチのわきに生えているコスモスの花びらが、ちょっとしおれて咲いていました。そのあたりはチモシーのほうが勢いよく繁茂し、太陽のめぐみを受ける雑草たちの世界だ。コスモスはたぶん、人が植えたものでしょう。

ぼくは、花を愛でることに格別の思い入れはありません。

美しいものを見て、ああきれいだなとおもうだけです。

チューリップという花は、司馬遼太郎さんの本を読むと、もともとはトルコが原産地であると書かれています。「チューリップ」という語は、ターバンを意味するトルコ語からきているとも書かれています。

ぼくは、チューリップがオランダの歴史を変えてきたということぐらいしか、考えませんが、オランダの人びとが、かつて実直な生き方をして、途方もない実利経済を築きあげた歴史のほとばしりは、オランダのハーレムの風景を変えたとさえいわれました。そこには白い跳ね橋がかかり、水分をふくんだ土地が多く、チューリップの栽培に適した地といわれてきたそうです。

17世紀には、どこの町にも花屋がいっぱいできたと書かれています。

そのチューリップの卸元になったのがハーレムという町の園芸業者だったそうです。アムステルダムから西へ18キロ、クルマで30分ほどの距離にあり、アムステルダム近郊の高級住宅地として発展していきます。

そういえば、ニューヨークにもハーレムという地がありますね。むかしはニューアムステルダムといわれ、オランダの町でしたから。そこがオランダ領であったときに、本国のハーレムになぞらえて建設されたものです。

いまではそこはスラム街になってしまいました。

そのチューリップが、1636年に、バブルの頂点に達し、チューリップの球根が4400ギルダーの値がつきます。そして、ある種のチューリップは、5500ギルダーに跳ね上がり、一説には1万ギルダーにもなって、バブルがはじけます。

1万ギルダーといえば、日本円に換算すると約3億円にもなります。

悪夢のチューリップ経済がはじけます。

1個のチューリップと交換して手に入れた人の家が、現在も残っていると書かれています。チューリップ一本が、家と交換できるほどの高値をつけたというのですから、それはどのような経済だったのか、およそ見当がつきます。

そのころの家は、およそ3000ギルダーから1万ギルダーまであり、それに似合うチューリップの球根を育てることに人びとは熱狂し、全精力をそそぎこみます。オランダで育てたチューリップが、フランスの宮廷で優美な花としてもてはやされ、礼儀正しい花としての象徴になり、この傾向は、オランダではなく、パリの宮廷を彩る花として買われるようになってから、ヨーロッパの花の象徴であるバラを追い抜いて、チューリップ一色になったそうです。

そうして育てたオランダの園芸家たちは、もっと高値で売れる珍種の品種改良に精をだし、見たこともないチューリップをつくりました。

ある日、とつぜんにして珍種が生まれます。

斑()入りのチューリップがそうです。

それが人びとをふしぎがらせます。いままで見たこともない花でした。ところが、これは病気でした。

じつはウィルスに感染した花でした。人びとはそんなとこは知りませんから、これを珍種として喧伝しました。ウィルス感染したチューリップを交配することによって斑入りの花を咲かせ、ある提督の名にちなんで「ファン・アイク将軍」という名で売られ、人気を博します。

そのような珍種は100種以上つくられたと書かれています。

いま、フランスのハルス美術館へいけば、そのときの斑入りのチューリップの絵が見られるそうです。

――チューリップか、……とおもいます。
  チューリップ・バブルの正体は、これだったわけです。「欲望をぬきにして、あんたのためを思う人間なんて、おれ以外にいないんだぜ」というさっきのセリフが甦ってきます。チャンドラーの「ロング・グッドバイ」には、こう書かれています。

 

「最初のキスは魔法のようだ。二度目で心を通わせ、そして三度目は決まりごとになる。あとはただ相手の服を脱がせるだけだ」(村上春樹訳)と。

 

こんなふうにしてチューリップも売られていったのかとおもうと、愉快というか、おもしろいというか、人間とそっくりだなとおもいます。人びとのこころを通わせたという点では、チューリップはまぎれもなく人間以上です。

ぼくの散歩は、こんな他愛もないことを考えて、気持ちにはずみをつけます。 いつもそうです。――さあ、きょうは新しいきょうになるぞ、と!

「お父さん、そろそろ食事よ」と展子がいった。

午餐の時間がきて、1時間という短い飛行だが、食べようとおもった。

前菜はフォアグラ、スープはコンソメ・マルキーズ、アントレは合鴨蒸煮ナント風、ガレット・ポテトなど……。サラダはレタス、果物はチーズと録茶、ワインはボルドー・オリヴィエ。食後酒にはコニャックが出た。和食コースもあったが、展子が選んだものといっしょにした。

腕時計は、成田を飛び立ったままの時間になっていて、午前0時半になっていたが、現地時間の午後5時半に針を合わせた。

フランクフルト空港で乗り換え、そこからアムステルダムまでほんの1時間の飛行。午後9時20分に、アムステルダムのスキポール空港に降りた。

アムステルダムの運河に面したホテルに着くと、展子は、秋の運河の風景を見つめ、

「お父さん、あしたゴッホを先に見るの? それとも、フェルメール?」ときいた。

ぼくはフェルメールを先に見たいといった。美術館が違うのだ。

「あしたの天気、わかるかしら?」といいながら、展子は部屋着に着替えた。そして、ホテルの個室のバルコニーの見えるところで椅子に腰かけ、展子は英語で書かれたホテルの案内とアムステルダムの地図を広げた。

「お父さん、何か食べたい?」と、展子はきいた。

「お父さんはいいよ。I'm eating like a bird」といった。

ぼくは、いまでも小鳥の餌みたいに小食なのだといった。ふふふっと彼女は笑っている。

その夜、ぼくらは風呂に入ると、おなじ5階の部屋でおとなしく眠った。長旅だったが、格別疲れたとはおもえない。

翌朝、ルームサービスで朝食を摂ると、展子は念入りにお化粧して、茶系のスラックスに濃い褐色のカシミヤのハーフコート姿に変身した。外は寒そうだ。黄色いショールを羽織ってオレンジのオランダ色にした。オランダの国旗は、赤白青なのに、オランダのメインカラーといえば「オレンジ色」だ。

「展子はなぜか、わかる?」ときいてみた。

知らないという。

だったら教えようとぼくはいった。――オランダのオレンジ色の起源は、建国の父「オラニエ公ヴィレム」の名前にあるんだといった。オラニエ(Oranje)を英語でいうとオレンジ色(Orange)になる。オランダ人の発音は、「オランイェ」というらしいよ、といった。

それから運河に沿った道を歩き、タクシーをつかまえて、クルマの車窓からアムステルダムの大きな中央駅を見たとき、なぜか、既視感があると展子はいった。

「そりゃあそうさ。東京駅の原型なんだから」とぼくはいった。

そして、美術館の前で降りた。オランダの街って、流しのタクシーはほとんど見つからない。だからちょっと苦労した。

むかしの18世紀のアムステルダムのことを想いだした。パン職人が70人ほどいたとき、画家は300人もいたらしい。その話はすでに書いた。なぜオランダには画家がたくさんいたのか? 商売になるからだろう。

パリの画家たちが画商を通じて絵を売る200年もまえに、オランダにはすでに画商がいたのだ。

農具のある風景が、絵になるということを発見したのもオランダの画家たちだったし、イギリスに真似て、水彩絵の具を開発したのもオランダ人だった。

だから、ボヘミアンやオランダの人びとには、だれでも買える小さな絵が好まれたらしい。描けば売れた時代があったようだ。みんな小さな絵だ。

「やっぱり降ってきたわね」と展子がいった。

それと同時に、ぼくはオランダの空を見上げた。

オランダの風景画は、その7割は空が占める。彼らは巨大な空を描く。150号以上の巨大な絵にも、空が大きく描かれている。

国立博物館は、階段をのぼった先の突き当りの壁に、巨大な絵が1枚かかっている。それがレンブラントの「夜警」だ。堂々たる絵に見える。

オランダはこの「夜警」に自分たちの矜持をかけている。

「その意味、わかる?」ときいてみた。

「わからないわ、お父さん、教えて」と展子はいった。

その証拠に現在までの350年間、ただのいちども国外に持ち出されたことがない。原題は「The Nightwach」となっている。だから「夜警」にしたのだろう。

「これ、実はへんなんだ! レンブラントの絵は、もともと昼間を描いた絵なんだよ。経年劣化で夜みたいに周囲が暗くなった。それでだれかが《夜警》というタイトルにしたっていうわけ」

「ふーん」

「けっこう絵のタイトルっていいかげんなんだ」

「《夜警》はレンブラントが火縄銃組合から依頼を受けて描いた絵だ。注目してほしいのは、宗教っぽくないってこと」

「それはそうね」「もともとレンブラントが人間を描いただけの絵だからね。聖書や神話に関係なく描いた絵なんだ。これを集団肖像画っていってる」

「集団肖像画? それにしても、ますます《夜警》にふさわしい絵に見えてきたわ」

《夜警》という意味は、たんに夜の歩哨というような意味だろう。歩哨は動哨もし、立哨もする。だから絵に描かれたふたりは歩いている。この絵のふたりの人物は、もともとはもっと右側にいた。カンヴァスの左はしを切ったので、歩きはじめたというより、歩いているところとなってしまった。

「なぜ、切ったの?」

「額が狭かったという話が伝わっているけど、お父さんにはわからない」

「お父さん、摸写したくなりません?」と展子がいった。

「したいね」とぼくはいった。

「美術館で摸写するっていうけど、していいのかしら?」

「いいんだよ。ただし、日本ではご法度。けっして許可されない。ヨーロッパもアメリカも、好きに摸写させてくれる、よほどのことがないかぎりね」とぼくはいった。

「ふーん。後ろの人、置き物みたいに、さっきから立っている人、もしかしてここの夜警かしら?」ときいた。

「まさか!」

振り返ると、背の高い、いかめしい顔をした髭づらの男がスーツの前ボタンを締めずに、じーっと前方の「夜警」を睨みつけている。そういう男が、5、6人いて、「夜警」を夜警しているみたいに見えた。

それからフェルメールの絵を見た。

彼の「牛乳をそそぐ女」だ。

17世紀ごろの農婦が腕まくりをして、ミルクを土鍋にそそいでいる。

じつにリアルに描かれている。よーく見ると、絵具のヒビ割れが見えるが、その細密技術は、レンブラントを超えるだろう。

見るからにいなかくさい野暮ったい衣裳だが、その肉感の描き方は、人びとをうっとりさせる。名画を鑑賞する時間はたっぷりあるが、ひじょうに緊張する時間帯で、2時間もそこに突っ立っていると、くたくたになる。あとの絵を見だすと、もう2時間はいることになる。

「展子、お父さんは疲れた」とぼくはいった。

「わたしもよ、……」といって、「どこかで休憩する?」ときいた。

「あとは、あすにしようよ」というと、

「そうね。あすにしましょうか」と彼女はいった。

ホテルにもどって入浴し、きょうの出来事を手帳に書いていると、ベランダの窓ガラスにコツンと何かが当たる大きな音が聞こえた。ベランダの戸を開けてみると、床に小鳥がばたばたしながらうずくまっている。手のひらに載るほどの可愛い鳥だ。頭が黒くて、からだがグレー。こんな鳥は、ぼくは見たことがない。ぼくはつかまえて、部屋に入れた。

「展子、つかまえたよ!」

「お父さん、どうしたの? 可愛いわね」

「キジの仲間かな、……」

「どうするの? 小鳥なんて持って帰れないわ」

「ホテルの人に、どうしたらいいか、きいてみよう」

ぼくは部屋着を脱いで、真っ赤なハーフパンツに履き替え、セーターを羽織ってエレベーターで1階に降りた。そしてフロントで小鳥の話をし、「この鳥は、ぼくらの部屋に舞い降りたんだ」といった。可哀そうだから、手当してフリーにして欲しいといった。

すると、わきにいたコンシェルズとおぼしき背の高い髭を生やした男性がやってきて、「おう、おめでとう! Fazant、コウライキジだ!」といった。

英語ではKoliquijiというらしい。

そういえば、むかし北海道の庭先で、ニワトリの餌を求めておこぼれを食べにくる野鳥のことを想いだした。むろんカケスとは違う。やっぱりコウライキジだった。まだやつは子どもだ。

やがて、きれいな色の羽をもつようになる。「雉の眸のかうかうとして売られけり」という加藤楸邨の句がある。

そして一息入れるために、ふたり分の温かいコーヒーをオーダーすると、ぼくは部屋にもどった。展子はベッドにいて、上を向いて目をつぶっていた。

「お父さん、今夜、わたし食べ過ぎ。リバースしたい気分なの。でもできそうにないわ」といって、ベッドで寝返りをうってこっちを見た。その目は、母親に似てきたとぼくはおもった。展子はiPhoneで何か聴いている。

「何、聴いてるんだい?」

「え? わたし、展子はこればっかりよ。さっきからずっとヘビーローテーションしてるの。ビートルズナンバー。お父さん、何が好き?」

「ビートルズ? ビートルズの何?」

「イマジン、展子はこれが好き。――お父さん、さっきの小鳥、どうだったの?」ときいた。「ぼくたちの上には ただ空があるだけ。さあ想像してごらん」とぼくはいった。展子は、はははっと笑った。そして展子は起き上がった。

 

  Imagine there's no Heaven

  It's easy if you try

  No Hell below us

  Above us only sky

  Imagine all the people

  Living for today……

  想像してごらん 天国なんてないんだと

  ほら、簡単でしょう?

  地面の下に地獄なんてないし

  ぼくたちの上には ただ空があるだけ

  さあ想像してごらん みんなが

  ただ今を生きているって……

 

ぼくは展子からイヤホーンを取り上げて、「イマジン」を聴いた。

「――どう?」

ぼくは、ビートルズナンバーの「ノルウェイの森」を想いだした。もともとは「この鳥は飛び立ってしまった」というタイトルだったからだ。

「そうなの? 展子、知らなかったわ。《この鳥は飛び立ってしまった》! いいわね」といった。

オランダにきて、コウライキジを抱くとはおもってもいなかった。そして想いだした。コンシェルジュのいった「おめでとう」っていう言葉だ。意味はわからない。わからないが、何かめでたいことなのだろうとおもい、にやにやしていた。

やがてノックの音が聞こえ、ワゴンを押してコーヒーが運ばれてきた。水も運ばれてきた。

「お父さん、ちょうど飲みたかったわ」と展子がいった。運河の街アムステルダムは、どこも雀色に染まって、木の葉が散っている。外は雨が降りつづいている。

「かいつぶりっていう鳥、展子、知ってる? 漢字で鳰と書く。ホテルにもどるとき、運河にぷかぷか浮かんでたやつさ」

「かいつぶり? 鳥?」

「そう。古くは《にお》ともいう。ほら、村上春樹の小説にも《かいつぶり》があっただろう」

「それ、知らない。ほんと! それってオランダと関係があるの?」

「ないよ。ないけど、お父さんは想いだすんだ」

「カルガモなら知ってます、可愛いいわ」と展子はいった。

展子はコーヒーカップを持ち上げたとき、展子の小指の爪が、剥がれているのが見えた。

「剥がれてる!」というと、

「うわー、ほんと! ストーンがない! うわー、自爪だけになっちゃった。どうしよう?」といっている。展子にとって、コーヒーを飲むどころでなくなったみたいだ。

「お父さん、いつから気づいてたの?」

「いまだよ、たったいま!」

「さっき、小鳥騒動があったときは?」

「そんなの、ムリだよ、見ていなし、……」

「そうよね」

展子は顔をしかめ、ぼくのほうを意地悪そうに見つめた。ムリ、ムリとこころのなかでぼくはいった。女の子の爪は、いちばんおしゃれをするところ。手入れをする時間が楽しいらしい。きょうはなんと、その1本のお気に入りの爪のデザインが負傷し、展子にとって、取り返しのつかない結末になったらしい。絵画芸術どころでないみたいな騒ぎだ。

「展子、あした店でやってもらったら?」といって、ぼくはコーヒーを飲みながら手帳と向き合った。

展子の悲しむ顔を見ていたら、展子の母親のことを想いだした。亡くなってもう4年半になる。まだ若く、44歳だった。それ以来、ぼくは展子の喜ぶことに付き合ってきた。

オランダは、展子ははじめてだったが、ニューヨークにも連れて行った。ニューヨークでは、日本画家の先生の個展を見せるために。

もっと若い展子は、子どものように喜んだ。

彼女は、外語大でオランダ語を学んでいるのに、オランダには一度も行ったことがないという。だったら、連れて行こうということになった。けれども、彼女のオランダ語は、一度も使うチャンスがなかった。展子の父親は早くに離婚して、もう会うこともなくなった。

「だったら、ぼくが展子のお父さんになってもいいよ」といったのがはじまりだった。

と戦争は、手段を選ばず」といったのは元フィレンツ行政書記官のキャベッリだ

 

 

おはようございます。――さいきんぼくは、ダイアナ妃のことをしきりに想い出します。

ダイアナ妃は伯爵家に生まれ、上流階級の望み得る最高の学問をした人ですが、大学を出て、はじめて職探しをしますが、保母の口が見つかるとたいへん喜んで仕事をした人です。たとえば、Let’s take a break.「ちょっと休憩しましよう」とか、Believe in yourself.「自分を信じて」、Do your best.「最善を尽くそう」ということばを美しく話した人です。

上流階級と保母の口というのは、ちょっと結びつきそうにありませんが、それがダイアナ妃のやり方なんでしょう。上流の出であることを鼻にかけない人柄が、イギリス国民に好かれました。

いっぽう、その彼女もイギリス人らしい毅然としたところがあったようです。

さて、ぼくの若いころに学んだことばの勉強は、たとえば、こんなふうにしてやりました。ここにヒラリー・クリントンさんの534ページの分厚い「Living History」(原文、2003年刊)という本がありますが、そこにはたとえば、

 

一九八五年の九月の半ばごろ、わたしはある人に偶然巡り会った。その日は、秋のアフタヌーン・ティーがおいしく感じられる、とてもあたたかい日だった。わたしのこのストーリーにはどうしても必要な人物、それはクインシー・マコーバーという上院議員の秘書だったマック・ロイという男と巡り会ったのだった。

 

――という文章が見られます。

すると、ぼくの場合、それを自分の文章に書き直します。

名前も、年号も、秋も、好きな季節に書き直し、アフタフ―ン・ティーというところを、あたたかいコーヒーか何かに書き直してしまう。ボディ・コピーを崩さずに、ヒラリー・クリントン女史の文章に添って、まったく別の自分のストーリーをつくり上げてしまうことでした。

そればかりじゃなく、出てくる文章の気に入った部分を、そっくり自分のストーリーに書き換えてみます。すると、とてもいい英文ができあがりそうな気がしてきます。そうして書いた文章は、誠に都合よく、すっかり覚えてしまいます。覚えてしまえばこっちのもので、いろいろと中身は変えらるし、バリエーションもいくつかつくることもでき、とても生き生きした英文が自然とできあがります。

全方位独学でおぼえた、ぼく流のやり方です。

むかしぼくは、そうやって人の書いた文章を自分のものにしてきました。

「その道は探すか、つくるかしかない」という、だれかの文章を想い出します。「やり方は、探すか、つくるかしかない」とアレンジすることもできます。

ぼくの学生時代は、そうやって手紙文をたくさん書きました。

そしてまた別のページで、感動した部分があるとしたら、それは使わない手はありません。

 

 

ヒラリー・クリントン「Living History」(2003年)

ヒラリー・クリントン「Living History」(CD版。2014年)

 

I wasn’t born a first lady or a senator. I wasn’t born a Democrat. I wasn’t born a lawyer or an advocate for women’s rights and human rights. I wasn’t born a wife or mother. I was born an American in the middle of the twentieth century, a fortunate time and place.

わたしは、ファースト・レディあるいは上院議員として生まれたのでもなければ、民主党議員として生まれたのでもない。わたしは、妻あるいは子どもの母親として生まれたのでもないし、二十世紀半ばの、まことに運のよい平和な時代に、ひとりのアメリカ人として生まれた。 

 

いい文章ですね。まねしたくなります。

彼女の気に入った文章を、どんどん黙ってくすねます。

だれも文句はいいません。それをもし読んだアメリカ人がいたとすれば、びっくりするでしょうね。「すばらしい!」とね。

営業に使ってしまっては著作権法に抵触しますが、そうでないかぎり、くすねるにかぎります。

そうして書かれた文章は、すばらしいに決まっています。人が苦労して書かれた文章を、黙ってくすねてくるのですから。

これは、ぼくの若いころからのやり方で、密かな愉しみでした。学校の先生というのは、けっしてそこまでは教えません。先生だってやっていないからでしょう。

そればかりじゃなく、ぼくは、日本の有名な作家たちが書いた感動的な文章をなぞって、日本語というものを勉強し、日本語をたくさんたくさん書きました。そして覚えると、どんどん使ったものです。

 

 

「マイフェア・レディ」より。花売り娘のイライザがイギリス英語の発音の矯正にいどむ

 

多くは森鴎外、石川啄木、有島武郎、長谷川如是閑、高山樗牛、夏目漱石などの文章を大いにまねたものです。

そしてゴッホの手紙の訳文などもまねました。ぼくの手紙を受け取った人は、もしかしたら感動したかもしれません。

いいところは全部くすねてきたものばかりだからです。

「……これって、ウソ!」と見ぬいた人が、なかにはいたかもしれません。

そのおかげで自分でも、いい文章が勝手にどんどん書けるようになったか、といえば、いまもって自信がないのです。

ぼくの場合、英語だってそうです。英文には英文独得のものがあり、読めばわかります。

どこに特徴があるのか、それをまねることだとおもったわけです。日本語で英文はけっしてつくれないとおもいました。英語で英文を考える。すると書けそうな気がしてきます。ただし、ぼくの手紙というのは、ふしぎなことに、個人的な話はめったに出てきません。

――この手紙は珍しいほうです。

なぜなら、最初からテキストがあってそれをくすねて書くクセがついていましたから、ぼくの個人的なストーリーがまったくないという奇妙な長い文章ができあがるわけです。

まるで、書店で売っている本かなにかのような文章です。

ときには、論文みたいな文章、あるいは小説みたいな文章ができあがるわけです。さらには、好きな詩文みたいな文章なんかです。ほんとうはぼくは小説を書きたかったからでしょう。

理由は、それです。それじゃまずいとおもい、たまにですが、数行だけ個人的な文章を挿入するという奇妙な手紙ができあがるわけです。

考えてみますと、ことばというのは、子々孫々にわたってくすねてきたものばかりです。黙ってこっそりくすねてきたわけです。

日本は多くは中国からことばをくすねました。くすね方によっては詩人にも作家にもなります。

つまりそういうことです。で、漢和辞典からくすね、英語辞典からもくすね、いろいろな本からぼくはくすねました。くすねたらおぼえ、そして使ってみたくなり、おもいっきり飽きれるくらい使いました。

年はとっても、もう遅いという感じは、ぼくにはありません。これからイタリア語を勉強したいなんておもう仲間は、ぼくのまわりにはひとりもいません。それでもいいとおもいます。

だって、ぼくはもともと独学者で、全方位独学者なのですから……。

「遅くとも、しないよりまし(Better later than never.)」ということばがあります。勉強は年令でやるものじゃないとおもっています。むかし、イタリアのフィレンツェの行政書記官だったマキャベッリが「君主論」という本を書きました。そのなかの一節、「恋と戦争は、手段を選ばず(All is fair in love.)」ということばが書かれています。そのとおり、なりふりかまわず突進してしまうのは、たぶん母の血統です。

ヒラリー・クリントンさんは、ご自分の文章を全ページ朗読なさっています。その朗読がとても美しいのです。ぼくの英語の勉強はそんなふうにしてやりました。大学時代にお世話になったベンジャミン・F・シスク教授のおかげです。先生は日本語を話せませんでしたから、すべて英語で講義をなさいました。

 

映画「マイフェア・レディ」では、「スペインの雨」がよく出てきます。

「The rain in Spain stays mainly in the plain」(スペインの雨は主に平野に降る)と歌うように話すわけですが、クイーンズ・イングリッシュで(エイ)と発音する二重母音が5つ含まれていて、コックニーでは[æɪ]または[aɪ](アイ)と発音してしまうため、イライザはなかなか発音することができずにいました。しかしついに、イライザがじょうずに習得することに成功するという話です。

これとおなじことを、ぼくらはケンブリッジ大出のベンジョミン・F・シスク先生から教えられました。

今朝は、ほんとうは、マーガレット・サッチャー氏の話を書きたかったのですが、「文章」の話になってしまいました。

 

 

ヒラリー・クリントン「State of Terror(ステイト・オブ・テラー)」Kindle版、2022年

 

 

ヒラリー・クリントン女史には、最近出版された彼女初の小説があります。その名も「State of Terror(ステイト・オブ・テラー)」と名付けられた小説。筆者もまだ読んではいません。驚きの一冊です。

ヒラリー・クリントン氏が書いた小説というキャッチフレーズは強烈だ。それだけで注目を集めるでしょう。ヒラリー・クリントン氏の小説の主人公もなんと、女性の米政府の国務長官という設定。

彼女は世界連続テロの意図を探るうちに、その背後にさらに巨大な恐怖が迫っていることに気づきます。背景にはアメリカのイラン核合意離脱とアフガン撤退ですが、実在のヒラリー・クリントン氏は、かねてより、核拡散のリスクを高めてしまうことをずっと指摘していました。

撤退後の空白帯――ぜひ、読んでみたいと思います。

クリントン女史は「Living History」を書かれた実力があり、問題のヒラリー・クリントン氏の「リビング・ヒストリー」には何が書いてあるだろうかと思います。1998年1月26日、ナショナル・パブリック・ラジオとPBSテレビのインタビューを受け、アル・ゴア副大統領とヒラリー氏の前で、クリントン大統領は、キャスターの、

「大統領、ルウィンスキーさんとの性交渉はありましたか?」という質問に答え、

「性交渉はありません」と断言しています。

これは真っ赤なウソでした。

のちにウソがバレて、大統領の弾劾裁判となります。米大統領として弾劾裁判を受けるのはクリントンでふたり目です。

そして、ヒラリー氏には「国民は、ここのところずっとひとつのことを疑問に思っています。クリントン夫人。それはあなたのご主人とモニカ・ルウィンスキーさんは実のところ、いったいどういう関係だったのか、という疑問です。ご主人はあなたにその関係について詳しく話しましたか?」と訊(たず)ねます。

「ええ、ふたりでずいぶんいろいろ話しました」と答え、目下FBI捜査官ケネス・スターと大統領との戦争という表現を使って、いろいろ取り沙汰され、報道されている内容を確かめます。

「あなたは親しい友人に、こうおっしゃったそうですね。これは最後の大戦だと」放送終了後、局から出てくると、テレビ・インタビューで質問した相手に電話をします。

「あなたの智恵のことばが、聞こえたような気がしたの」とヒラリー氏がいいます。

「で、聞こえたのは、どの驚くべきことばかね?」

「くそったれ! って(Screw`em !)」

これがいえるヒラリー女史だから、小説も書けるのですね。夫のビルを守るために、そういったのです。このシーンを乗り越えることのできたヒラリー・クリントン氏なら、小説執筆だって厭(いと)わないに違いありません。

■辞書に載っていない漢文。――

加爾多デカールト」と「歇兒ヘイゲル」

 

おはようございます。朝からいきなりですが、漢文の話を書きます。

 

「――そうかい。楽しいかい。ついでに、辞書には載っていない話をするよ」といって、ぼくはこんなことをいいました。

漢学の伝統がしっかり根をおろしていた明治のころは、ヨーロッパ哲学の翻訳もなかなか容易ではなかったようです。人名もすべて漢字に翻訳されています。北インドに生まれた仏教のことばが、中国にわたってすべて漢字に翻訳されていったのとおなじです。人の名前まで漢訳されたのです。

たとえば、哲学者カントは「韓圖カント」と書き、ソクラテスを「所哥羅垤斯シオコラテス」と表記しました。

それらの論文の中身も漢文が主流だったので、すべて漢字に頼らざるを得ませんでした。

そこで、アリストテレスは「亞利斯多拉アリストツトル」、デカルトは「垤加爾多デカールト」、プラトンは「伯拉多プラト」、ヘーゲルは「俾歇兒ヘイゲル」と記されました。

 

 

田中幸光

 

「おもしろい! お父さんはどうしておぼえたの?」

むかしの本を読んで覚えました。

当時のエリートたちは、というより、女学校を出るほどの女性たちも漢文が読めることがあたりまえだったわけです。

まずもって漢文が読めなければ、勉強もできなかったわけですね。テキストはすべて漢文で書かれていたからです。

ちなみに「フィロソフィ」は、「専ラ理ヲ講ズル学」というわけで、「理学理論」と訳されました。ギリシャ語の由来は、「ソフィア(知識)」を「フィロ(愛)する」という意味です。知識を愛する学問。これを、のちに「哲学」という字に翻訳したのは、西周(あまね)という人です。

 

2023年、顕正会の本部を出て。

 

もしも外来語そのままにカタカナ表記になっていたとしたら、こんなふうになっていたでしょうね。

「理性」はヘアヌンフト、「意識」はベヴストザイン、「現象」はフェノーメン、「主観」はズプエクト、「客観」はオプエクト、「概念は」ベグリフ……というぐあいに。哲学論文の邦訳は、およそ呪文のようになっていたでしょう。

「へぇ、そうなんだ! そっちのほうがずっとむずかしい」

「漢文といっても、ついこのあいだまで漢文だったんだよ。漢文の読み方を勉強したいと思ったら、漢文を読むことですよ」といいました。

じっさい、読めば読むほど自然に分かってきます。

この「自然に」というのがコツです。

むずかしい本を読んで分かろうとするよりも、ほんものを読んで分かろうとしたほうがいいようです。英語を分かろうとするとき、英文法の本とにらめっこすると思いますが、肝心のことが分からなくなります。つまり、英語の語感です。英語の語感は文章を読まないことには分かりませんね。

この世に生まれて3年しかたっていない女の子でも、おしゃべりがじょうずです。お母さんのことばを覚えるからです。3歳の女の子が、「どうもどうも」なんていうのを聞くと、笑ってしまいます。でも、彼女にはちゃんと語感が備わっていて、びっくりするくらい大人っぽいおしゃべりができるわけです。

そんなきのう、ふたたび五十嵐さんからお電話を頂戴し、「三国志」の世界から「かおり」の世界へと引き戻されました。ぼくは、ちょうど漢文を読んでいたところです。かおりさんの世界も悪くないなと思いながら――。


さて、先日は「三国志」についておしゃべりしました。

そのなかで、曹操は宦官(かんがん)の家系に生まれたと書きましたが、これにはちょっと説明が要るかと思われますので、ふたたびペンを執ります。

「宦官の家系に生まれた」ということ自体、とても奇妙に思われると思います。なぜなら、宦官というのは、宮廷の後宮(こうきゅう)、つまり奥御殿、――皇帝の妃(きさき)や女官たちが住まうその場所に勤務する男性役人のことをいいます。この役人になるためには、睾丸を切り落とす必要がありました。もちろん大人になるまえ、10代の若いころに切り落とします。

曹操は、代々宦官の家系に生まれたというからには、睾丸を切り落とさなかった役人がいたということになりますか? 少なくとも、彼の父親は切り落とさなかったのではないか、そう思ってもふしぎではありません。睾丸を切り落としてしまうと、子孫は生まれないわけで、ちゃんと子孫を残しているということは、そこに何か事情があると思っていいでしょうね。

宦官はなぜ睾丸を切り落とす必要があったかといいますと、奥御殿の、女性だけが住む場所に勤務するわけですから、間違いがあってはならないわけです。皇帝以外の男が、もしも女官に子種を残すようなことがあっては絶対にならないからです。女官たちは、皇帝の子種を宿すことが使命です。

そういう場所に、りっぱに男性機能を有する成人男性が勤務すること自体、奇妙な話です。

で、調べてみますと、即位した皇帝がまだ子供のときは、宦官のなかに一般役人も、特に命を受けて宦官の職に就いていたことがありました。曹操の父親もそのひとりであった可能性がありますが、いましばらく調べてみる必要があります。詳しいことは分かりませんが、そうでなければ、曹操が生まれるはずがありません。

そのことを蛇足ながら、ここに申し添えておきたいと思います。

このような宦官制度は、中国はもとよりのこと、オスマン帝国、インドのムガール帝国にもかつてありました。

皇帝や後宮に接近して政治の実験をにぎるなど、宦官の政治的な影響力には大きなものがありました。曹操の時代にも宦官という役職は、そういう意味では名誉ある役職だったようです。

そうはいっても、子供を産まない女官は、皇帝が亡くなると、殉死させられます。それほどきびしい世界だったようです。

ところが、宦官は、若いころに睾丸を喪失するので、第2次性徴が止まり、男性機能が衰えたり、髭も生えず、声変わりもしない男となって、特有の「宦官症」という病気を発症するといわれます。それはどういうものか、想像の域を出ませんが、かつての中国にそのような制度があったといいます。

当時の政治的な勢力には、外戚、宦官、清流の3つがあったようです。

外戚(がいせき)というのは、母方の親戚です。

清流というのは、名門というほどの意味です。

これは後漢の時代のことですが、竇武(とうぶ)と太傅(たいふ)の位置にあった陳蕃(ちんばん)が、宦官の曹節(そうせつ)、王甫(おうほら)の専横をうらみ、これを取り除こうと謀りますが、機密がもれて、ぎゃくに曹節(そうせつ)、王甫(おうほら)によって殺されるという事件が起こりました。

これが起こったのは、皇帝がわずか13歳で即位したばかりのころです。

大将軍の竇武は、霊帝(れいてい)の前の皇帝、つまり桓帝(かんてい)の皇后の父でした。桓帝には子がなく、霊帝は傍系から入って帝位についた人で、桓帝の竇とう皇后はなお皇太后として、朝廷内に重きをなしています。その背後にいたのがすなわち皇太后の父、竇武です。

一般にこのような皇后、皇太后の里方の一族を外戚というわけですが、後漢の時代には、竇武のように外戚の大物が、軍事面の最高権力者である大将軍の地位につくのが、ふつうでした。

太傅(たいふ)の陳蕃(ちんばん)は、この時代、清流と呼ばれた儒教的な知識人であったようです。太傅というのは、いわゆる皇帝の指南役というような名誉職で、官僚集団の最高位にありました。

当初、桓帝は出身のいやしい田(でん)貴人を寵愛し、皇后に立てようとしますが、陳蕃に反対されて、家柄のいい竇武の娘をやむをえず皇后にしたという経緯があり、陳蕃と竇武はそのときから協力関係を築きます。この両者が打倒しようとした曹節や王甫ら宦官は、いうまでもなく皇帝の奥向きの用をつとめる去勢された男たちのことで、いわば皇帝の私的なネゴシェーターでした。

そういうことで、この事件は、外戚勢力と知識人、官僚勢力が結託して、皇帝の権威をかさに着る宦官勢力を追い払おうとして失敗した事件でした。

このように、正義の味方であったはずの清流派が勢力を失い、濁流のような宦官が実権を握るという時代になり、それが原因で、後漢王朝がだんだんと滅亡していったという象徴的な事件です

ひと口に宦官といっても、このように権力の強い集団になっていったわけです。――中国には、正義が滅び、悪が栄えるという時代がいくども訪れます。「三国志」をいっそうおもしろく読み解く歴史がそこにあり、それらを下敷きにして読んでいきますと、とてもわくわくします。
黄巾(こうきん)の乱が起こった年、曹操と孫堅はともに数え年で30歳。劉備は24歳。

この3人は、黄巾の乱によって物語の舞台に登場します。この年、孫堅の長子の孫策(そんさく)は10歳、次子の孫権はわずか3歳。諸葛亮孔明は4歳です。

若いころ、「乱世の姦雄(かんゆう)」と評されてにんまりしたという曹操は、宦官曹騰(そうとう)の養子、曹崇(そうすう)の長男として生まれています。――これで謎が解けました。曹崇(そうすう)の息子として生まれていたわけです。つまり、養子の子でした。

宦官曹騰が亡くなったとき、魏の明帝は、「高皇帝」の尊号を贈ります。

死後の追贈ではありますが、中国史上、ただいちどの宦官出身の皇帝となりました。

その養子となった曹崇(そうすう)は、もと夏侯(かこう)氏の出であったといわれますが、養父がためこんだ莫大な財産によって官職を買い、太尉にまでなりました。このことは、清流派からみれば、唾棄すべき濁流です。曹操は、そういう自分の出自におそらくコンプレックスをもっていたのではないでしょうか

さて、その曹操には謎めいたことばが残っています。

劉備が漢中を手に入れたのち、曹操の魏王の向こうを張って漢中王となります。漢中はかつて漢の劉邦が項羽に追い込まれたのち、この地を根拠に天下統一を成し遂げ、漢という国号の由来になっている土地です。

そのめでたい漢中を手に入れた劉備は、きっと漢王朝の復活の夢に燃えていたことでしょう。このときが劉備の生涯のなかで最良の日々であったと思われます。

 そのとき、劉備に負けてやむなく撤退した曹操は、「鶏肋(けいろく)」、つまり、鶏のあばら骨という謎めいた命令を出しています。この「鶏肋」ということばの意味は緒家によっていろいろに解釈されているようですが、ぼくは、ある専門家のいうことばに真実味があるのではないかと思い、以下、それについてすこし述べます。それまでは、曹操が狙った漢中を、いま一歩のところで獲得できなかったことに、負け惜しみをいったらしいという解釈が一般的でした。

 曹操は、張魯が降伏したのち、漢中の住民数万を長安にただちに移住させています。また漢中軍事の統治に当たっていた杜襲(としゅう)もまた、住民をうまく手なづけ、八万あまりの住民を洛陽と鄴都(ぎょうと)に自主的に移住させています。

 劉備がせっかく手に入れた漢中は、人のほとんどいない空の土地でした。劉備は、曹操との戦いに際して、蜀の学者、周羣(しゅうぐん)に戦いの成否を占ってもらったところ、彼は「その土地を得べきも、その民を得ず」と答えたといいます。はたしてそのとおりになっていることから、ぼくは先の「鶏肋」の意味を、つぎのように読みました。

 人口の激減したこの時代、人間はある意味では土地よりもずっと値打ちがあったはずです。土地の占領がむずかしいと知った曹操は、その土地の人間を連れ去ったと思われます。残った土地は、なるほど食べるところのない鶏肋のようなもので、「取るに足りず」です。曹操の負け惜しみなどではなかったとぼくは見ます。

いかがでしょうか?

曹操のほうが、1枚も2枚も上手です。

そのまえに、曹操は、長江沿岸の地域が、孫権の攻撃を受けるのを心配して、住民を北に移住させようとしたことがあります。ところが、これに驚いた住民10万は、長江を渡って東に逃げてしまいます。そのため長江の西の曹操側の地域は、合肥(ごうひ)の南の晥城(かんじょう)をのぞいて無人地帯となります。

住民は、どうやら孫権の支配地域のほうが暮らしやすかったとみえます。のちに曹操が漢中の住民を内地に移住させたのは、このときの経験に学んだらしいといわれています。

ある日、孫権は曹操に手紙を送ります。

「春水まさに生ず、公よろしく速やかに去るべし」と。春になって川の水かさも増えたので、一刻も早く帰りなさいといいます。さらに別紙に「足下死なざれば、狐は安らかならず」と書き記します。そなたが生きているかぎり、拙者は安心できないのですといいます。

これを見た曹操は、「孫権はわしを馬鹿にしてはおらぬな」といって、なんと素直に撤退しているんですね。若いけれど、孫権の力を見くびらず、正統に評価していたと見る人もいます。

このとき、孫権は大きな船をしつらえて、大胆にも曹操の軍営を偵察に出かけます。曹操側は船めがけてさかんに矢を放ち、片側に矢を受けた船は大きく傾きます。すると孫権は船の向きをくるりと変え、反対側にも矢を受けてバランスを取り戻し、悠々と引き上げていったといわれます。このとき、曹操は59歳。孫権は32歳だったそうです。

親子ほども年がちがう孫権に、曹操は好敵手を見出したようです。

ふしぎなことに、このふたりは一度も会ったことがありません。

ふたりが最も接近したのは、この戦いのときでした。劉備と曹操、劉備と孫権はそれぞれ面識がありましたが、孫権と曹操はいちども出会っていません。いつも手紙です。

関羽(かんう)を討つにあたって、孫権は曹操に手紙を送ります。このとき、曹操は魏王になっていて、孫権よりも格が上です。そのため、同盟を結ぶには臣従というかたちを取らなければならなかったようです。この手紙で孫権は、さらに曹操には天命があると説いています。天命を受け、皇帝となるよう暗にうながしたもので、要はご機嫌とりです。

受け取った曹操はその手紙を臣下に見せ、

「この児()は吾(われ)を炉火(ろか)の上に著(ちゃく)せしめんと欲するや」といったそうです。こやつめ、わしをストーブの上に座らせようとしているな、と。

 この解釈は、ちょっとむずかしい。

 曹操は、著名な詩人でもあります。そういう詩人のいうことばは、文字通りのことではないように思われます。

というのは、中国の五行説でいえば、漢は火徳をもって王朝を開いたということになっています。火の上に座るとは、漢王朝を乗っ取ることを意味します。

もうひとつの意味は、文字通りストーブの上に座れば、やけどするという意味ですね。

このふたつを引っ掛けたことばだとしますと、たいへんユーモアがあり、たいへん意味深長なことばです。どっちとも取れるような文言になっています。もし天命とする漢の皇帝になれば、ただし、やけどもするとも読めます。

いま述べましたことは、「三国志」には書かれていませんが、「史記」に書かれています。「史記」は物語ではありませんが、事実を書いて「三国志」なみにおもしろい書物です。

漢字には、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、行書、草書、楷書(かいしょ)などさまざまな文字があります。そのうち篆書は戦国時代に用いられ、漢代の通用字体は隷書(れいしょ)でした。ところが後漢末期に隷書から行書体が生まれます。

ついで行書体から楷書体が生まれます。

楷書というのは、現在ふつうに使われている正字体です。

曹丕(そうひ)が皇帝に即位したころ、いくぶん楷書化した文字になっていたといわれます。亳(はく)県の曹操一族の墓から出てきた墓磚(ぼせん)の文字は、初期の行書体だったと書かれています。

現在のわれわれの感覚からしますと、楷書がもっとも整った字体で、それをややくずしたものが行書体、さらにくずしたものが草書体と思いがちですが、事実はその逆で、草書体は行書体よりもさらに早く、初期の隷書体から生まれたといわれています。たたじ、漢代には章草(しょうそう)体といわれ、現在の草書体とは多少ちがうようです。

この時代にもうすでに書家と称する人がいました。その拓本を見てみますと、ほとんど楷書体です。行書から楷書に移る過渡期の文字のようです。それまであった篆書、隷書は、印章文字や石碑、建物の額など特殊な用途に使われるだけで、実用の字体としては淘汰されていきました。

わが国でも、江戸時代には草書で書かれた文字が中心だったようです。毛筆で和紙の上にすらすら文字をつづけて書きますから、草書体がもっとも適したようです。庶民も、草書で書かれた文字は読めますが、楷書で書かれた文字はむずかしくてほとんど読めませんでした。

これは古代中国でもおなじで、のちにできた楷書体文字は、ほとんどだれも読めなかったといわれています。

そのかわり、隷書や篆書は読めるというふしぎな現象が起こっています。

篆書体は、印鑑に使われる文字のことで、現在でもふつうに使われていますが、それを読めといわれると、はたしてどうでしょうか。一画一画、篆刻(てんこく)された文字は、ふつうの楷書体と違って、いまではたいへん読みにくい部類の文字です。

――やがて本格的な炎天の夏がやってきて、北海道の澄んだ青色の季節も燃える日々とおなじ色に染まるでしょう。どなたさまもお元気にお暮らしください。今朝はこのへんで。

ンドラーのリスト》、ました? 2

 

 

さいきん、映画「日の名残り」の感想を、いくぶんヨーロッパ寄りに書いてみました。映画って、おもしろいですね。見ているだけでもおもしろい。

ぼくも、この「シンドラーのリスト」という映画は、何回も見ました。すくなからず衝撃を受け、映画による「ホロコースト」は失敗であるという考えをのべてきました。でも、そこに書かれていたのは、それとはぜんぜん違う話でした。

で、まず、その話を少ししてみたいと思います。

 

  映画「シンドラーのリスト」より

 

 【ホロコースト】holocaustとは? 

 大虐殺、[現]、原義はユダヤ教で神への供え物の獣の丸焼き。

 転じて全員を焼き殺すこと。

 Holocaust denialホロコースト否定《ナチスのユダヤ人大虐殺は存在しない、

 あるいは誇張であるとする信念・主張》。 

 

 

 

スティーヴン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」は、1993年に公開され、世界の話題になったことは、まだ記憶に新しいでしょう。この作家が娯楽映画ではなく、ホロコースト、――第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺――をテーマに真正面から取り組んだというだけあって、この作品は、莫大な私財をなげうって1200人のユダヤ人の命を救ったナチ党員オスカー・シンドラーの物語は、暁天の映画です。

それだけならいいのですが、ホロコーストに焦点を当てて描いたところに、映画としての問題があったという説です。

なかでも、「ル・モンド」紙に掲載されたクロード・ランズマンという人の批評文は、辛辣です。「ホロコーストは、何であったかを同時にいうことなしに、シンドラーの物語を語ることはできない」というものです。

「なぜなら、圧倒的なユダヤ人は救われなかったのだからだ」といっています。

こういう考えのあることを、ぼくは知っていましたが、この世界大戦を理解しようというとき、映画はどう描いてきたかを問題にした文章として、ぼくは注目しました。

映画「プライベート・ライアン」

 

スピルバーグ監督には、「プライベート・ライアン」という歴史に名高いノルマンディ上陸作戦を描いた映画があります。これはあきらかに、「史上最大の作戦」(1962年)にたいするアンチテーゼであり、「史上最大の作戦」は、いわば歴史の表舞台に登場する、上官らの立場から描いた公式記録のような映画です。スピルバーグは、これを否定しました。

戦争は、そんな悠長なものじゃない。もっと過酷で、もっと残忍なものだ、という視点で描かれたのです。

そのため、上陸する兵士らは、腕をもぎ取られたり、からだ半分を失ったりと、リアルなシロクロ映像がぶれながら動きまわります。カメラも手持ちカメラを使って、臨場感たっぷりに描かれました。この映画もまた、順光で、ノーマルに写した映画とはぜんぜん違い、とんでもなく歴史に挑戦した映画、そんなふうにも見えます。

時代の知性は、のちの時代になって評価される。――むかし、ピーター・ドラッカーによって「知識社会への移行」と呼ばれた世界の大転換をうながす著作は、たいへん映画のように劇的だったなとおもいます。情報戦略の話です。それは、意味のある情報、――そしてそれは「人が社会との関係性のなかでつくられる資源」という人もいます。そのなかには、浮いた話もあれば、真実性に富んだ話もあります。

ぼくは先日、絵の会合に出ていて、みんなの戦争の話を聞きながら、ひとりオスカー・シンドラーという男をおもい浮かべていました。

大事なのは、ホワイトヘッドのいう「モノ」ではなく、生成消滅する「コト」、――つまり出来事によって情報が進化を遂げるということ。ある人は「それは川ではなく、絶え間ない流れである」といいましたが、「いかにも」と、ぼくはおもったものです。

で、ぼくはシンドラーの話を切り出しました。

「これは、スティーブン・スピルバーグの映画ですね。彼自身、ユダヤ人ですから、この映画をつくる気になったんでしょうね」と、ぼくはいいました。

「スピルバーグはユダヤ人ですか。それは知らなかったな。《シンドラーのリスト》は、衝撃的な映画でしたね。……」と、ひとりがいった。

「……この映画は、1993年じゃなかったかな。ぼくが六本木の会社にいたころ、女の子といっしょに見ました。いい映画だったですよ。これで、アカデミー賞7部門を獲得しましたね」

 

 

「シンドラーのリスト」、パールマン。ニューヨークフィル

 

するとТ画伯は、身をのりだして、「もっとくわしく」といったので、コーヒーを飲んで、ぼくはいつもより熱を入れておしゃべりしました。

「シンドラーって、――まあ、話せば長くなりますが、かんたんにいうと、オスカー・シンドラーは、1908年、オーストリア・ハンガリー帝国時代のレーメンという町で生まれていますね。彼はズデーテン・ドイツ人なんですよ。――ドイツの実業家として名を上げた人で、第2次世界大戦中、ナチスドイツによって強制収容所にいた1200人ものユダヤ人を彼の工場で働かせ、ナチスの虐殺から救った、その人物です」

「そうですってね」と、女性がいった。

「これには、もともと小説がありましてね、シンドラーを主人公にした小説なんですが、新潮文庫にその翻訳本がありました。作家の名前は、トーマス・キニーリーという人なんですが、……これはすごい物語ですよ」

すると、画伯はいいます。

「ポーランドは、ドイツ軍の侵攻で占領されましたからねぇ。ナチスの党員であり、実業家だったオスカー・シンドラーは、大儲けをたくらんで、占領下のポーランドにやってくる。金にものをいわせて、軍の幹部らを垂らしこんでゆく。……」

「ほう。……ナチスの党員が?」

「そうですよ。これは歴史上じっさいに実在した人物で、シンドラーは、シュテルンというユダヤ人を部下に持ち、彼とパートナーを組んで事業にあたらせるんですよ。この男はなかなか才能ゆたかな人物で、その男に工場の経営をまかせる。シンドラーの工場にゲットーから狩り出されたユダヤ人労働者を囲い込み、工場で働かせる。それがどんどん増えていって、しまいには1200人のユダヤ人であふれるんです。……1943年、つまり、ドイツ軍の末期状態になったころ、ゲットーが解体され、ナチスの恐るべき虐殺が行なわれる。……」

「ゲットーって、つまり、何なの?」と、ひとりがきく。

「まあ、……強制収容所ではなく、ある程度自由のきくといいますか、ユダヤ人村、といっていいでしょうね。ユダヤ人は腕に腕章をつけられて、その一画に押し込められます。それをゲットーといってるんですが、そこで大虐殺が行なわれるんですよ。彼らは、床下に隠れたり、壁や天井に隠れたりするんですが、みんな見つかり、銃殺される」

「まるで、映画だね。……」

「そう、まさにこれは映画なんですよ。映画では、この銃殺と悲鳴のごった返すゲットーの再現が圧巻です。銃声は深夜になっても鳴りやまず、ことばに絶する光景が繰り広げられます。それを丘の上で見たシンドラーは、ナチスのやり方に怒りを覚える、という筋書きです。事実、実在したシンドラーは、そこで彼らを救う道はないものかと考えたんでしょうね?」

「ふーむ。……」

「まず、このユダヤ人虐殺を説明するには、ユダヤ人という民族の歴史を話さなければならないんですが。――これは重い映画ですね。紀元1世紀ごろに起こった、ローマ帝国によるエルサレムへの攻撃からはじまります。ユダヤ人は、これ以来2000年にわたる放浪、迫害の歴史をたどることになります」

「2000年にわたる放浪? ……」

「そうです、まさに彼らは、2000年にわたる放浪・迫害の歴史をたどります。イエスを磔刑にして、亡き者にしたのもユダヤ人だった。ユダヤ人こそ、悪の根源、というわけです」

「なるほど、……」

「この反ユダヤ主義は、オーストリア・ハンガリー帝国にまで広がり、ウィーンはその中心でしたからね。ヒトラーが青年のころ、そこで過ごします。ヒトラーの考えは、アーリア人種を人類の文化の創始者、ユダヤ人は文化の破壊者と位置づけ、その人種理論を先鋭化していった人物ですね。……ユダヤ人の学者で、ベン=アミー・シロニーという元ヘブライ大学教授の本を読むと、ユダヤ人のことがよくわかります」

「むずかしいことばが出ますねえ。……そのオーストリア・ハンガリー帝国って、何なの?」と、若い彼女はききます。

「それを話すと、ちょっと横道にそれるので、後で話すとして、まず、そういうことで、《すべてのドイツ市民は、アーリア人でなければならない》というニュールンベルク法というのができます。第2次世界大戦がはじまる数年前ですよ。そして、ドイツ市内で、100人近いユダヤ人たちがとつぜん惨殺される。これは、見せしめです。俗に《水晶の夜》と呼ばれる事件です」

「《水晶の夜》?」彼女は驚いたような顔を見せます。

「ええ。ドイツの各地で発生した反ユダヤ主義の暴動です。ナチスによるポーランド系ユダヤ人の追放がはじまったんです。――でも、そんなことは覚えなくてもいいとおもいます。……肝心なのは、そうしてユダヤ人の殺戮が平然と行なわれるようになったという事実です。そういう事実をふまえて、この映画の見どころを整理すると、いかに真実に近い、20世紀の恐怖が描かれているかが分かりますね」

ニーチェの思想や、ダーウィンの進化論思想は、この間違った人種思想を正当化するために利用されました。この考えはドイツではなく、アメリカで花咲いた考えでした。

映画「シンドラーのリスト」は、オーストリアの作家トーマス・キニーリーの原作をもとに、脚本の構想を含めて7年ほどの歳月をかけてつくられたそうです。最初の脚本は、原作者のトーマス・キニーリーが執筆しましたが、スピルバーグは満足しませんでした。

その後脚本は二転三転し、最終的にはマイケル・クライトンという人が書きます。彼は1990年の映画、「レナードの朝」の脚本家としても知られています。スピルバーグは、ほんもののアウシュビッツで撮影したいと考えていたらしいのですが、ポーランド政府の許可が下りず、セットを組んで撮影が行なわれました。

そして、この映画には、モノクロ画面とパートカラー画面がいろいろ組み合わさったシーンが出てきます。

歴史的なシーンはモノクロで、そうでないシーンはパートカラーでというふうに。――これは、スピルバーグが尊敬する黒澤明監督の映画「天国と地獄」を真似たもので、劇中に赤い服を着たひとりの少女に使用されます。少女だけがパートカラーで撮影され、バックの風景は、すべてモノクロのシーンです。

これは、スティーブン・スピルバーグが初のオスカーに輝いた映画です。

ンドラーのリスト》をました? 1

映画「シンドラーのリスト」より

 

 

昨夜のTVで、スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」を観ました。圧倒されました。

映画って、おもしろいですね。見ているだけでもおもしろい。

これまで観た映画で、もっとも忘れられない映画は? とたずねられ、じぶんが映画をつくろうと勉強したことを想い出しました。

映画をつくろうなんて、そんな簡単にできるはずもないと考えるのは自由ですが、やってみる価値はありそうです。つくるのは、観る以上にわくわくします。

さ~て、――先年、自分で「映画をつくろう」という企画講座を受講して、ますます映画のおもしろさに取り憑かれてしまいました。というのは、ぼくはときどき短編小説を書くので、映画もつくれそうだと軽く考えてしまったのです。

で、つくってみました。そのくわしい話は、先年書きました。けれども、先日、ある本を読んでいて、とても考えさせられました。

というのは、「知の論理」(小林康夫/船曳建夫編、東京大学出版会、1995年)という本を読んでいて、そのなかの高橋哲哉氏の「見ることの限界を見る」という文章を読み、彼の現象学をのべる一節に、「きみは《シンドラーのリスト》を見たか?」という文章があり、それを読んで、とっても刺激を受けたからです。

ぼくも、この「シンドラーのリスト」という映画は何回も見ました。すくなからず衝撃を受け、映画による「ホロコースト」は失敗であるという考えをのべてきました。でも、そこに書かれていたのは、それとはぜんぜん違う話です。

で、その話をすこししてみたいと思います。

スティーヴン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」が公開され、世界の話題になったことは、まだ記憶に新しいでしょう。この作家が娯楽映画ではなく、ホロコースト、――第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺――をテーマに真正面から取り組んだこの作品は、莫大な私財をなげうって1200人のユダヤ人の命を救ったナチ党員オスカー・シンドラーの物語を巧みに描いているからです。

それだけならいいのですが、ホロコーストに焦点を当てて描いたところに、映画としての問題があったという説です。

 

「ル・モンド」紙に掲載されたクロード・ランズマンという人の批評文は、辛辣です。「ホロコーストは、何であったかを同時にいうことなしには、シンドラーの物語を語ることはできない」というものです。「なぜなら、圧倒的なユダヤ人は救われなかったのだからだ」といっています。

彼のいい分は、「ホロコーストは何であったか?」、それを抜きにして、この映画は語れないというのです。

そういう意味では「シンドラーのリスト」は失敗作であるというのです。

現に、この映画を見た多くの救われなかったほうのユダヤ人は、この映画に反発しました。1200人のユダヤ人の救出と、全ヨーロッパで、600万人といわれる圧倒的多数のユダヤ人の死を比べるとき、絶対的多数である600万人のユダヤ人の死は、永遠になぐさめられないというのです。ひとりの英雄的なシンドラーを引き立てる、映画の中の「書き割り」にすぎない。そんなことが書かれています。

こういう考えのあることを、ぼくは知っていましたが、この世界大戦を理解しようというとき、映画はどう描いてきたかを問題にした文章として、ぼくは注目しました。

スピルバーグ監督には、「プライベート・ライアン」という歴史に名高いノルマンディ上陸作戦を描いた映画があります。これはあきらかに、「史上最大の作戦」(1962年)にたいするアンチテーゼであり、「史上最大の作戦」は、いわば歴史の表舞台に登場する、上官らの立場から描いた公式記録のような映画でしたが、スピルバーグは、これを否定しました。

戦争は、そんな悠長なものじゃない。もっと過酷で、もっと残忍なものだ、という視点で描かれました。

そのため、上陸する兵士らは、腕をもぎ取られたり、からだ半分を失ったりと、リアルなシロクロ映像がぶれながら動きます。カメラも手持ちカメラを使って、臨場感たっぷりに描かれました。この映画もまた、順光で、ノーマルに写した映画とはぜんぜん違い、とんでもなく歴史に挑戦した映画、そんなふうにも見えます。

時代の知性は、のちの時代になって評価される。――むかし、ピーター・ドラッカーによって「知識社会への移行」と呼ばれた世界の大転換をうながす著作は、たいへん劇的だったなとおもいます。情報戦略の話です。それは、意味のある情報、――そしてそれは「人が社会との関係性のなかでつくられる資源」という人もいます。そのなかには、浮いた話もあれば、真実性に富んだ話もあります。

 

ぼくは先日、絵の会合に出ていて、みんなの戦争の話を聞きながら、ひとりオスカー・シンドラーという男をおもい浮かべていました。

大事なのは、ホワイトヘッドのいう「モノ」ではなく、生成消滅する「コト」、――つまり出来事によって情報が進化を遂げるというもの。ある人は「それは川ではなく、絶え間ない流れである」といいましたが、「いかにも」と、ぼくはおもったものです。

で、ぼくはシンドラーの話を切り出しました。

「これは、スティーブン・スピルバーグの映画ですね。彼自身、ユダヤ人ですから、この映画をつくる気になったんでしょうね」と、ぼくはいった。「スピルバーグはユダヤ人ですか。それは知らなかったな。《シンドラーのリスト》は、衝撃的な映画でしたね。……」と、ひとりがいった。

「……この映画は、1995年ごろじゃなかったかな。ぼくが六本木の会社にいたころ、女の子といっしょに見た。いい映画だったですよ。これで、アカデミー賞7部門を獲得しましたね」

するとТ先生は、身をのりだして、「もっとくわしく」といったので、コーヒーを飲んでぼくはおしゃべりしました。

「シンドラーって、――まあ、話せば長くなりますが、かんたんにいうと、オスカー・シンドラーは、1908年、オーストリア・ハンガリー帝国時代のレーメンという町で生まれています。ズデーテン・ドイツ人なんです。――ドイツの実業家として名を上げた人で、第2次世界大戦中、ナチスドイツによって強制収容所にいた1200人ものユダヤ人を彼の工場で働かせ、ナチスの虐殺から救った、その人物です」

「そうですってね」と、女性がいった。

「これには、もともと小説がありましてね、シンドラーを主人公にした小説なんですが、新潮文庫にその翻訳本があります。作家の名前は、トーマス・キニーリーという人なんですが、……これはすごい物語ですよ」

すると、Тさんがいった。

「ポーランドは、ドイツ軍の侵攻で占領されたしね。ナチスの党員であり、実業家だったオスカー・シンドラーは、大儲けをたくらんで、占領下のポーランドにやってくる。金にものをいわせて、軍の幹部らを垂らしこんでゆく。……」

「ほう。……ナチスの党員が?」

「そうですよ。これは歴史上じっさいに実在した人物で、シンドラーは、シュテルンというユダヤ人を部下に持ち、彼とパートナーを組んで事業にあたらせるんですよ。この男はなかなか才能ゆたかな人物で、その男に工場の経営をまかせる。シンドラーの工場にゲットーから狩り出されたユダヤ人労働者を囲い込み、工場で働かせる。それがどんどん増えていって、しまいには1200人のユダヤ人であふれるんです。……1943年、つまり、ドイツ軍の末期状態になったころ、ゲットーが解体され、ナチスの恐るべき虐殺が行なわれる。……」

「ゲットーって、つまり、何なの?」と、ひとりがきく。

「まあ、……強制収容所ではなく、ある程度自由のきくといいますか、ユダヤ人村、といっていいでしょうね。ユダヤ人は腕に腕章をつけられて、その一画に押し込められます。それをゲットーといってるんですが、そこで大虐殺が行なわれるんですよ。彼らは、床下に隠れたり、壁や天井に隠れたりするんですが、みんな見つかり、銃殺される」

「まるで、映画だね。……」

「そう、まさにこれは映画ですよ。映画では、この銃殺と悲鳴のごった返すゲットーの再現が圧巻です。銃声は夜になっても鳴りやまず、ことばに絶する光景が繰り広げられます。それを見たシンドラーは、ナチスのやり方に怒りを覚える、という筋書きです。事実、実在したシンドラーは、そこで彼らを救う道はないものかと考えたんでしょうね?」

「ふーむ。……」

「まず、このユダヤ人虐殺を説明するには、ユダヤ人という民族の歴史を話さなければならないんですが。――これは重い映画ですね。紀元1世紀ごろに起こった、ローマ帝国によるエルサレムへの攻撃からはじまります。ユダヤ人は、これ以来2000年にわたる放浪、迫害の歴史をたどることになります。この反ユダヤ主義は、オーストリア・ハンガリー帝国にまで広がり、ウィーンはその中心でしたからね。ヒトラーが青年のころ、そこで過ごします。ヒトラーの考えは、アーリア人種を人類の文化の創始者、ユダヤ人は文化の破壊者と位置づけ、その人種理論を先鋭化していった人物ですね……。ユダヤ人の学者で、ベン=アミー・シロニーという元ヘブライ大学教授の本を読むと、ユダヤ人のことがよくわかります」

「むずかしいことばが出ますねえ。……そのオーストリア・ハンガリー帝国って、何なの?」と、若い彼女はきいた。

「それを話すと、ちょっと横道にそれるので、後で話すとして、まず、そういうことで、《すべてのドイツ市民は、アーリア人でなければならない》というニュールンベルク法というのができます。第2次世界大戦がはじまる数年前ですよ。そして、ドイツ市内で、100人近いユダヤ人たちがとつぜん惨殺される。これは、見せしめです。俗に《水晶の夜》と呼ばれる事件です」

「《水晶の夜》?」彼女は驚いたような顔を見せます。

「ええ。ドイツの各地で発生した反ユダヤ主義の暴動です。ナチスによるポーランド系ユダヤ人の追放がはじまったんです。――でも、そんなことは覚えなくてもいいとおもいます。……肝心なのは、そうしてユダヤ人の殺戮が平然と行なわれるようになったという事実です。そういう事実をふまえて、この映画の見どころを整理すると、いかに真実に近い、20世紀の恐怖が描かれているかが分かりますね」

ニーチェの思想や、ダーウィンの進化論思想は、この間違った人種思想を正当化するために利用されました。この考えはドイツではなく、アメリカで花咲いた考えでした。

映画「シンドラーのリスト」は、オーストリアの作家トーマス・キニーリーの原作をもとに、脚本の構想を含めて7年ほどの歳月をかけてつくられたそうです。最初の脚本は、原作者のトーマス・キニーリーが執筆しましたが、スピルバーグは満足しませんでした。

その後脚本は二転三転し、最終的にはマイケル・クライトンという人が書きます。彼は1990年の映画、「レナードの朝」の脚本家としても知られています。スピルバーグは、ほんもののアウシュビッツで撮影したいと考えていたらしいのですが、ポーランド政府の許可が下りず、セットを組んで撮影が行なわれました。

そして、この映画には、モノクロ画面とパートカラー画面がいろいろ組み合わさったシーンが出てきます。歴史的なシーンはモノクロで、そうでないシーンはパートカラーでというふうに。――これは、スピルバーグが尊敬する黒澤明監督の映画「天国と地獄」を真似たもので、劇中に赤い服を着たひとりの少女に使用されます。少女だけがパートカラーで撮影され、バックの風景は、すべてモノクロのシーンです。

さまのばで(改定)

 

ぼくは地下鉄すすきの駅まえのグリーンビルの入口にきていた。風がやんで、雪だけが降っていた。

タクシー同士が、出会いがしらに衝突事故を起こしたらしかった。これからは雪で車がスリップする事故が多発する。数人の警察官が降る雪のなかでうろうろしている。

美佐子はじきにやってきた。

マフラーで顔が半分しか出していなかった。

そこからすこし歩いたところにあるショット・バーに入った。客は少なかった。

こうした店を利用しようと思えば、大雪の日にかぎる。ここは、朝の5時まで営業している。

美佐子はカウンターの奥の席を選んだ。

新鮮なフルーツと良質のリキュールが売りの店だった。

「ここは、ぼくのなじみじゃないけど、広告代理店をやっている佐藤社長というぼくの友人に紹介されたんです。美佐子さんは、何を飲みます?」

美佐子はやはり、むかしよりすこし痩せたなとぼくは思った。顔が細くなったようだった。

彼女はメニューをながめてから、

「ゆきみつさんが決めてください」といった。

パイナップルやグレープフルーツ、いちご、ぶどうといったありふれた感じのカクテルを飲ませてくれる店らしかった。あったかそうなココアやミルクをベースにしたホットカクテルなどもあった。

ぼくは、吟味するほどのものは見当たらなかった。どれでもいいと思った。

「それじゃ、ミルクのホットカクテルはどう?」

「それにしますか」といって、美佐子はメニューをカウンターのわきに畳んだ。

「今夜のイベント、どうでした?」

「恥ずかしかったけれど、歌いました」といって、美佐子ははにかむように笑った。

「何をうたったんですか?」

「ゆきみつさん、きかないでください。ゆきみつさんが期待するようなもの、わたしはうたっていませんから」といった。

美佐子は、だれかのレッスンをうけたわけでもないけれど、聴いていると、むかしから本場イタリア風のベルカント唱法に似ていた。

「パヴァロッティというスーパースターがいるでしょう? このあいだもサントリーホールで歌っていました。彼の歌い方こそ典型的なベルカント唱法なんですよ」

ぼくはこの日、勤務がどうしてもはずせなくて予約できなかった。

「わたしの歌、ベルカント風なんですか? 『イタリア・ベルカント・ムロラン風味添え』なんていうと、ちょっとおかしいわね」と、いった。

美佐子はジョークをめったにいわないタイプだったけれど、そこがすこし変わったかもしれない。「ムロラン風味」というのがいいと思った。

ミルクのホットカクテルが出てきた。

 

34、5歳の自分

 

「イタリア・ルネサンス後、バロック、古典主義、ロマン派へと時代が移り変わっていくごとに、それぞれのオペラ芸術としてのパフォーマンスも変わっていきましたよね。バロック時代には歌い方の技巧をきわめたカストラートが大活躍したんですよ。カストラートというのは、男性歌手のあれを去勢して、美声をたもったといわれています。ぼくなら、ぜったいに去勢なんかしませんけどね」

「去勢させられたんですか?」

「させられたというより、自分からすすんで去勢したんだと思います。かなりの覚悟が必要だったと思いますよ。そうしないと、少年期の声域を保つことができないんですから。……でも、ちょっと可哀そうだね。――ぼくが話すと、どうしてこんな下品な話になってしまうのかね」ぼくは、自分でもあきれていった。

「いえ、そんなこと、ありませんよ」

「そうですか? ――ところで、これ、いけるね」カクテルは、美味しかった。

「美味しいわ」

美佐子の小さな手がグラスを持ちあげるしぐさを写真に撮って、ホリゾントいっぱいに引き伸ばして、じっくりとながめてみたいと思った。

彼女の写真は風景の大きさにしてみないと、つたわらないだろうとぼくは思った。一年間のつき合いで、たったいちどだけ、写真を撮るチャンスがあった。3カットだけで、それ以上は写させてもらえなかった。

「写真を撮らせてください。こんど」

「わたしですか。もう若くないし、ダメです」

「写真好きのぼくがいうんですから、だいじょうぶですよ」

「どんな写真、想像しているんですか?」

「想像なら、いろいろしますが、それはいえませんよ。そんなこと!」

「田中さんは、ほんとに変わりませんね。すこしいやらしくって」

「ぼくは変わりました。あなたのそばで」

「えっ、わたしのそば?」

「ええ、そうです。《男の人には、夢を捨てて欲しくないんです》。そういってくれたんですよね。おぼえていますか? あのとき、まだ麻酔が切れていなかった」

「ああ、そうでしたの? でも、もう忘れました。ごめんなさい」

「そういうものですよね。ぼくも、ときどきおなじことをいわれることがあります。でも、ぼくがいったことばなんて、いちいちおぼえてなんかいませんよ」

「わたしの年令、おわかりでしょう? 37歳になりましたのよ」

「ええ、ぼくは56歳になりました。階段の手すり、途中で切れていることがあってね、どうして最後までつけてくれなかったんだろうって思うことがありますよ。手すりを当てにする年代になったといいますか……」

「でも、ゆきみつさんは、ご自分の手すりをちゃんと持ってらっしゃるんじゃないですか?」

「それでね、あなたから頂戴した《男の夢》を実現するために、いまごろやっているところなんですよ」

「ああ、おぼえています。病院で、酸素室に入っていらしたときの話ですね。ゆきみつさんからのお手紙にも、たびたび書かれていた話で、思い出しました」

「それはよかった。ぼくの励みになりました。ありがとう」

「ゆきみつさんが情熱的なのは、むかしからですが、いまもちっともお変わりなくて、嬉しいです」

「先日、キャサリンにひやかされましたよ」

「なんですの?」

「『星空のかなたに嫁ぐ』というエッセーを読んだキャサリンの話なんですよ。どこかの湿原で鳥の生態を観察している人のところへお嫁にいった世間知らずなお譲さんの話が綴られているそうです。時間をプレゼントしたいわ。もしそういったら、ゆきみつさんなら、きっと喜んでカメラを持って湿原に出かけるでしょうね。星空のかなたまで。――そういわれちゃった」

「56歳で、星空の話ができる人って、羨ましいわ。わたしには、星や空みたいな大きな夢はないんですもの」

「大人は、これを大ぶろしきっていいますね。あきれたようにいいます」

「あきれません、わたしは、決して!」

「どこかずれていて、本人はいたってまじめ。だからかえって、おかしいんでしょうね」

「それが夢なんじゃないですか?」

「大空にもし投げ出されるなら、……」

「星として輝かねばならぬ。――ですね」美佐子は嬉しそうに唱和した。

「嬉しいな。おぼえていてくれたんですね、シェイクスピアを」

「だって、おなじセリフ、何回も手紙に書いてくださったから、……」

「恥ずかしいな。おなじセリフでしたか。……さて、べつのカクテル飲みますか。ぼくは、パイナップルジュースにライチリキュールを加えたやつ」

「わたしは、ココア・ベースのホットカクテルにします」

そのとき、男女のふたり客が入ってきて、BGMが変わった。

雪がまだ降っているらしい。

ぼくの隣りの席がふさがった。BGMは珍しいフォーク系の音楽だった。バグ・パイプの低音部がきこえてくる。スコットランドの、もっともトラディショナル調といえるフォーク・ミュージックが流れはじめた。

「若者にとって、ミュージシャンの20世紀というのは、60年代からはじまった、そう思います。ビートルズが切り開いた文化。ぼくも、ザ・ビートルズから逃げられなかったし、それがぼくたちの世界だったしね」

美佐子は、じっと音楽に耳を傾けているようだった。

「美佐子は、1962年に生まれた。ちょうどぼくが東京へ出てきた年です。あなたの誕生石はサードニックス。ぼくはダイヤモンド。そんなことはどうでもいいんだけれど。――ぼくはちょっと酔ったみたいです。ああ、何をいうんだったか、忘れちゃった。ごめん」

「だいじょうぶですか?」

「だいじょうぶです。このところちょっと疲れぎみで……」

ぼくはカウンターに肘をついて、額を手のうえに乗せ、目を閉じた。運ばれてきたばかりのリキュールを、そっと美佐子のほうに押しやった。

「美佐子、ちょっとだけ、ごめんな」

美佐子は、黙って眠らせてくれそうだった。

BGMを聴いていたら、美佐子といった小樽の夜の風景が浮かんできた。夜の小樽は潮の匂いが消えるのだ。美佐子の匂いで満たされて、その匂いをぼくはずっと忘れない。美佐子といると、孤独感に襲われた。

それはとてもさわやかな孤独感だった。

いまそばにいる彼女が、もし16年まえの美佐子だとしたら、牧師先生のいうとおり、感謝と謝罪のふたつの面(おもて)を持つ自分を、彼女のまえにさらけ出すことになるだろう。そして、またべつの罪を背負うことになるだろう。

しかし16年の時間は、これらの記憶をすっかり優しいものに変えてくれていた。ぼくはまず美佐子を苦しめたことを詫びなければならないと思った。そして精一杯の感謝を述べなければならない。そのための今夜の再会だった。

「美佐子、ぼくはあなたにお詫びしなければなりません。まず、こころからお詫びします。美佐子の大事な時間を、ぼくがすっかり使ってしまった。ごめん。すまない」

ゆきみつさん、どうなさったんですか?」

「もうだいじょうぶですから」

「だいじょうぶじゃないわ。お酒がまずかったかしら」

「そんなことはありませんよ。それから、きょうお会いできて嬉しかった」

「わたしこそ」

「美佐子、ほんとうのこといって欲しい。あの日、詩人から、もう教会にはこないでくださいといわれました。教会の方針ですともいわれました。ぼくは、罪を犯したんだろうか」

「いいえ、ちがいます。彼がしたことです。ゆきみつさん、彼をゆるしてやってください。牧師先生もよくわかってらっしゃいます」

「ほんとうですか?」

「わたしは、ゆきみつさんに、辛いことをしてしまったと後悔していました」

「しかし、ぼくらは、神に背いた」

「神は、ゆきみつさんをおゆるしになります。真実は神がよくご存知だからです。でも、わたしは神の義を裏切りました」

「ぼくもです」

「いいえゆきみつさん、わたしがしたことですから。もうお顔をあげてください。お願いします」

「美佐子の顔を見れません、恥ずかしくて」

「そんなことない!」

「ぼくは、恥ずかしい」

「ちがいます。――わたしは、ずっと年上の人と結婚し、別れました。交通事故にあった夫を見捨ててしまったんです。わたしはゆきみつさんよりもずっとずっと恥知らずで、……」

……

「それは、わたしのせいではありませんが、わたしは神に背きました」

「え?」

「わたしは生涯罪人です。わたしを理解して欲しいなんて、すこしも考えていません。ただ、キリスト者が罪をつくることは、たいへん厳しい審判を受けることになります。ゆきみつさんは、神の審判を受けることはありません。神の慈悲は深い方です」

「神は、どこにおられるんですか?」

「ここに、この場所に、おられますよ。わたしたちはいま、神さまのそばにいます」

ぼくは、顔をあげて美佐子のほうを見た。美佐子の手がぼくの背中をなでていた。

「美佐子、素晴らしい人生をつくろうよ。お互いに」

「わたしはもう37よ。ゆきみつさんとはじめてお会いしたとき、ゆきみつさんは39歳でしたね。わたしが20歳。世間知らずでした。これからわたしは、神とともに生きていくしかありません」

「ぼくは、どうしたらいいんですか?」

「奥さまが、いらっしゃるじゃありませんか!」

「そうです、ぼくには妻がいる。妻は、ひっしになって生きようとしているんだとおもいます、病院のなかで」

「そのとおりです。そのとおりですよ。奥さまの手術が、成功なさるよう、お祈りしましょう」

そこを出てからのことは、もう覚えていない。どうやって帰ったのかも。

(くるみ)割るさかりのごとく生き抜いて

 

■文学――

金子みすゞの詩。――

「みんなちがつて、みんないい」。

さっき、デスクを整理していたら、毎日新聞のYさんの写真が出てきた。ああ、懐かしいな、とおもった。

「みんなちがって、みんないい」ていっていた人だ。その話を想い出した。この人とサッカー観戦しながらワインを飲んだ夜のことを、忘れていない。

 

金子みすゞ

 

毎日新聞のYさんが、またやってきた。

「しばらくでーす」といって、Yさんが挨拶する。

「ほんとね。……しばらくですね。集金ですか?」

「いえいえ、今月からサービスです」

「ありがとう。……いま、本紙とスポーツ紙の2部が入っています。あれ、サービスでいいんですか?」

「そうです。田中さんご夫妻には、とてもよくしてもらっているので、これは、ぼくの一存で入れさせていただいております。きょうは、これを差し上げたくて、……」といって、チケット2種類をカバンのなかから取り出した。――「平山郁夫展」と「ニューオータニ美術館」の招待券だ。

Yさんを呼んだのは、こうしたチケットをもらうためではなくて、ワインを差し上げる目的で呼んだ。もう1週間も前に電話している。

「ありがとう。……ヨーコは喜びます。ほんと、ありがとう」といって礼をいった。

「コーヒーでも? ……」

「ああ、いいですか?」といってヘルメットを脱いだ。ぼさぼさの髪の毛があちこち立っている。

「いいとも。さっきMさんがきてくれて、香味焙煎(こうみばいせん)のコーヒーを差し入れてくれました。これです」といって瓶ごと持ち上げた。

「じゃあ、ぼくも、何か持ってこなくちゃいけないかなあ、……」といっている。

「いいんですよ。いろいろサービスしてもらっていますから、……。うちのヨーコは、美術館へ行くのが大好きで、出歩くと、彼女は喜びます」

「女は、そうらしいですね」

「Yさんは、奥さんを連れて出かけないんですか?」

「そうね、出かけるといえば、パチンコぐらいなもんで。……ヘェ!」といった。

「パチンコですか。……うちのヨーコは、そういうところには行きませんね。ぼくも行きませんし、せいぜい映画か、美術館か、公園か、喫茶店か、……そうそう、図書館へは行きますよ!」

「図書館! こちとら、行ったこともない。だいいち、本とはまるっきり縁がなくて。中学しか出ていないもんで、……日本語が、読めなくてさ」とかいっている。《胡桃(くるみ)割る競馬年鑑開きつつ》という句を思い出した。鎌田俊という人の句だ。

「競馬は、どうですか?」

「ああ、やりますよ」

「おもしろいですか?」

 

 

西條八十

 

「まあ、おもしろいときもあれば、がっかりするときもあります。……まあ、がっかりのほうが多いですけどね」といっている。

「競馬年鑑とかいうものが、あるんだそうですね」

「ねんかん? 知らないけど、……」

「《胡桃(くるみ)割る競馬年鑑開きつつ》という俳句がありますけど。……」

「ふーん、こちとら、ぜんぜん分かりません。胡桃は分かりますよ。それを割るんですね。胡桃は、好きですよ」といっている。

「ぼくはいま、考えました。《胡桃割る女の脚を描きつつ》っていうのはどうですか?」

「ははははっ。……それは分かる。《桃食う女の脚を開きつつ》っていうのは? ……ははははっ」と彼はいった。

「Yさんもいいますね。シェイクスピアみたいだ。……そいつはおもしろい。水もしたたる、……。イメージがぴったり。桃というイメージが、また、いいですよねぇぇ」

「――俳句ですか。考えたこともない。それが、俳句なんですか」

「さっきの、もう一度いってくれません? 《桃食う女の脚を開きつつ》ですね」といって、ぼくはおおまじめになってメモを執った。

 

 桃食う炬燵(こたつ)のなかの映画館

 桃食う指先濡れて人恋し

 桃食うふたりの距離が重なりて

 桃食う唇さむし冬の床

 胡桃(くるみ)割るまさかりのごとく生き抜いて

 胡桃(くるみ)割る一瞬を生きる冬の夜

 ――みんな、くだらない句だ。

 

 

「ほう、おもしろいですね。……さいきんは、なんですか、性交渉をしない若者が増えたそうですね。田中さんは、そういうの、興味ないですか?」と彼はいった。興味はある。

そういえば、新聞には「男女の草食化がすすんでいる」という記事があった。性交渉しない派が男18%。女48%。――性交渉に嫌悪しているというではないか。女性では2008年の調査より10ポイント以上増加したという。

いっぽう、1ヶ月以上「セックスレス」の夫婦は4・3ポイント増えて40%を超えたという報道だ。「出産後、なんとなく」とか、「めんどうくさい」が多いという記事だった。人とのかかわりが厄介に感じる人が増え、人間関係が希薄になっているのでは、という分析もある。

「Yさん宅は、どうですか?」

「うちは、まあまあですね」

「ほう。まあまあっていうのは?」

「自分はお酒を飲むと、……あまり飲めないけど、飲むと、したくなりますよ」といっている。

「えッ、したくなるんですか?」

民間のあるコンドームメーカーが発表しているデータによれば、フランス人、スペイン人は、年間、驚異的な143回とか、145回とか書いてあった。

日本人の平均回数は63回? とか書かれている。「男はおしりで選びなさい」という本に書いてあったと思う。これは、どういう調査なのかわからないけれど、おもしろい数字である。たしか、「男はおしりで選びなさい」という本は、石原結実さんの書いた本である。

70歳にもなると、そんなことは、どうでもいいと思うようになる。人がいうほど、「自分力」をあげたいなんて思わなくなる。

「その本を買ったのは、もう10年もまえです。……買ったその日に、ある藝大生の女性に見せたら、へぇぇ、田中さんは、こういう本、読んでらっしやるんですか? ときかれましたね。誤解されたかもしれない」

「わざわざ見せたんですか?」

「彼女と銀座で会って、会うまえに、それを教文館で買って、……。彼女の描く絵は100号ぐらいの絵で、銀座で個展をやったときだったと思いますよ。大学院生ですが、……。天竜の餃子をご馳走してあげました」

「田中さんは、そういう学生さんとも付き合っているんですか?」

「そうですね。……大門のルノワールで、バイトをしていた学生さんと同期の女性でしたね。いま彼女は、所沢に住んでいる。おかけで、彼女の誘いで藝大に行く機会がいろいろありましてね、……」

「だったら、こんど、チケット3枚持ってきましょうか?」という。

「その人のぶんも、……? うれしいですね。金子みすゞという人のチケットなら、あります。この人も絵ですか?」という。

「ああ、金子みすゞ? 彼女は詩人ですね。絵じゃありませんけど、先日、日本橋の三越で見てきました。お金を支払って。……ヨーコが見たいというもので」

「じゃあ、いりませんね」

「いえ、いただけるんでしたら、ほしいです。時間がなくて、ぎりぎりに駆け込んだので、もういちどじっくり見てみたいです」といって、2枚を受け取った。さーて、だれと行こうか?

金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」と題された詩がある。

 

       

 

 私が両手をひろげても、

 お空はちつとも飛べないが、

 飛べる小鳥は私のやうに、

 地面(ぢべた)を速く走れない。

 

 私がからだをゆすつても、

 きれいな音は出ないけど、

 あの鳴る鈴は私のやうに

 たくさんな唄は知らないよ。

 

 鈴と小鳥と、それから私、

 みんなちがつて、みんないい。

 

 金子みすゞ没後82年。――1903年-1930年、享年27。

 

瀬戸内海の夕べ、西條八十を読みながら

 

 

この年は、日本橋でも、いろいろなイベントがおなわれた。

彼女は西條八十に認められ、詩人としてデビューした。会場で遺稿が記されている手帳を見た。「みんなちがつて、みんないい」は、優しさのあふれる詩だった。

「これは、2月14日までですよ。時間がありませんね」という。

「11日の祭日に行きますよ」

たまたまいま、「西條八十」(筒井清忠、中公叢書、2005年)を読んでいるところだった。

西條八十の晩年に刊行された分厚い論文「アルチュール・ランボオ研究」(706ページ)を、先日、読んだばかりだった。

むかし、西條八十の名前は、自分が中学生だったころ、NHKの番組「私の秘密」に出演していたときに知った。渡辺紳一郎さん、藤原あきさん、藤浦洸さん、徳川夢声さんらと出ていたので、西條八十さんの肉声までちゃんとおぼえている。

西條八十は、昭和2年の夏、金子みすゞと1回だけ対面している。

九州方面に行く途中で彼は下関で下車し、連絡線に乗る。そのとき彼女と会っている。

ホームに降り立ったが、彼女の姿がなく、「やうやくほの暗い一隅に、人目を避けるやうに佇んでゐる彼女を見出した。2歳ばかりの赤児を背負ひ、……いかにも若くて、世の中の苦労にやつれたといつたやうな、あきんどの妻らしい人でした」と書かれている。

「連絡線へと乗り移るわづか五分間、それきり、私たちは永久に逢へずじまひになりました」と書かれている。下関の書店に勤めていた金子みすゞが、はじめて自作の詩を雑誌に投稿したのが大正12年6月からで、投稿した雑誌3誌の選者が、いずれも西條八十だった。最初に入選した詩は、「お魚」だった。

西條八十は、「イギリスのクリスティナ・ロゼッティ女史のそれと同じだ」といって激賞している。

そして、つぎに投稿されたのが「大漁」だった。大正15年1月号の雑誌「童謡」に、投稿作家の順位が発表されている。1位が金子みすゞ、2位が島田忠夫となっている。そして、西條八十のフランス留学がせまるとともに選者が変わり、彼女の詩の入選はたちまち激減する。

そして昭和5年、みすゞは自殺する。……そして、このときからずーっと金子みすゞの詩は忘れられた。そして、平成5年になって、「童謡詩人、金子みすゞの生涯」(JULA出版局)が出ると、たちまち彼女は甦るのである。

会場には多くの人たちのコメントとともに、金子みすゞの詩がかかっていた。

どれもいい。記念に、彼女自筆の原稿を絵葉書にしたものを手に入れた。彼女がはじめて原稿料を手にしたとき、西條八十に、そっくり返金している。それには手紙が添えられていて、先生に何かお礼の品を送りたいのだけれど、下関では気に入ったものがないので、これで先生何か買ってくださいと書かれている。まるで、彼女の詩のような文面だった。

 

       

       「裸足が気持ちいいね」

 

「いいですね、この、みんな違って、みんないいっていうところが。……」それで、Yさんは即興で詩を歌った。

「パチンコの、玉よ、玉。一周すれば、みんな底。みんな違って、みんないい。――こういうのは、ダメですか?」という。

はははははっ! ……みんな違って、みんな、いい。

「Yさん、日本は強豪ドイツに勝ったよ!」といって、Yさんの好きな缶チューハイを飲みながら、報告した。

平成26年秋、彼は天に召された。享年33。糖尿病だった。

ラーク博士と現代ッポンの夜明け

 

近代文学 「クラーク博士」➀

 

近代文学 「クラーク博士」②

 

 クラーク博士。51歳のころ

 

 

おはようございます。

近代日本の劈頭を飾る人物、そして北海道開拓の中心人物、そのW・クラークとは、いったいどういう人物だったのだろうか? さいきん、なんとなく、クラーク博士についてもっと知りたいと思った。ちょっとしらべたことを、以下、かんたんにまとめてみると。

現在は、どこでも4月から新学期を迎えるけれど、とうじ、学校はどこも、9月から新学期を迎えた。卒業式のすこし前の7月のある日、――日付はわからないが、――東京英語学校の教室に、3人の外国人が参観にやってきた。参観とはいうものの、何はなくとも真っ先に新大陸の大らかな文化を築いた消費社会と寛容の精神を尊ぶ先進国という、勿体ぶった矜持をかけた3人なのだ。

これは異例のことだった。

ウィリアム・クラークとその弟子のペンハロー、ホィラーの3人だった。

クラークは、その教室で演説した。

それは、北海道開拓を目的とした、アメリカのマサチューセッツ州にあるアマースト大学とおなじ講義カリキュラムを編成した官立の農科大学を札幌につくるという構想をのべる演説だった。発見と開拓が並行してすすむ近代の消費社会に隷従(れいじゅう)した日本がこれから発展するためには、北海道の開発が急務であり、未開地を開拓し、拓殖思想を実現させる必要がある。これに参加したいとおもう若者がおれば、ぜひ、参加してほしい。

――まあ、そういう内容の演説だった。

そこを卒業する予定者のなかに、南部藩士の佐藤昌蔵の息子・佐藤昌介、田中館愛橘、藤沢利太郎、土方寧、高田早苗、市島謙吉らがいた。クラークの話を聞いて、東京の開成学校をやめて未開の北海道で新設の農科大学に入ることを希望する人があらわれた。佐藤昌介、大島正健、渡瀬寅次郎がクラークの学校に入ることをそうそうに決心する。

その1年後輩の佐藤昌介の友人・新渡戸稲造は、その話を聞くと、自分も来年卒業したら、札幌農学校に入りたいといった。

その同級生に、内村鑑三らがいた。内村もこれに同調した。

このとき、佐藤昌介は19歳。

内村鑑三は15歳だった。

アメリカ人が校長や教師になって、アメリカの大学とおなじ教育をするということにまずみんなは驚いた。青年たちは、まだ見ぬ北海道での勉学の夢に燃えた。――ここに名前のでてくる人物は、のちに歴史をつくった人びとである。

とうじの開成学校は予科3年、本科3年の6年間の修業年限だったが、札幌農学校は4年制で、現在の大学とおなじ年限だった。学費がなくて困っていた大島正健や新渡戸稲造、内村鑑三らは、よろこんでこれに応じた。

薩摩藩士の黒田清隆は、明治初年から、この北海道開拓という偉業に立ち向かっていた。北海道開拓の主な目的は、北のロシアからの侵攻をふせぐことにあった。黒田清隆はそういう目的で、明治3年に北米を視察し、グラント大統領にも会い、開拓の支援を要請した。

そして、グラント政権の農相だったケプロンを引き連れて、明治4年に黒田とともに横浜に着いた。

一行は、芝の増上寺に落ち着き、農事試験場などをつくり、青山、渋谷に3万坪の土地をもうけて農事関係の施設をつくった。

北海道開発のために招いた諸外国の専門家は、アメリカ46人、ロシア5人、イギリス4人、ドイツ4人、オランダ3人、フランス1人、中国13人の計76人にのぼった。

 

ユリシーズ・S・グラント米合衆国大統領。

来日したグラントの興味は、北海道開拓であった。――1879年(明治12年)7月3日から同年9月3日まで国賓として日本に滞在し、浜離宮で明治天皇と会見し歓待を受けた。グラントはアメリカ合衆国の元大統領であり、訪日を果たした最初の人物である。

 

専門家は多岐にわたり、地質学者、測量師、園芸家、土木建築士、船員、建築士、鞣工人、缶詰技師、教師、大工、鉄道技師、暖房技師など、じつにさまざまな人たちで構成された。しかし、国づくりにおいて何よりも必要なのは、ものをつくることよりも、教育だった。

黒田は在米日本公使館を通じて、グラント大統領に農事教育者の招聘を要請した。それで、アマースト農科大学の学長だったクラークが選ばれたのである。クラークはこのとき、51歳だった。

アメリカ合衆国の大学の学長が、アジアの国の大学の学長になるなどということは、聴いたこともない、稀有のことだった。クラークは、もともと北海道開拓の立案者でもあった。

とうじアメリカ政府内では、「ジャパン」とおなじぐらい「ホッカイドーHokkaido」という名前が知れわたるようになっていった。ヨーロッパでは、現在でも「ホッカイドー」という地名がそのまま通じている。日本とは、べつの国のように思われているらしい(司馬遼太郎「街道をゆく(オランダ編)」、北海道は自給率2000パーセント/2008年)。

明治8年7月はじめごろ、クラークは佐藤昌介、大島正健、渡瀬寅次郎の3人とともに学生8人を引き連れて、北海道開拓使長になった黒田清隆や、オイラー、ペンハローらと横浜港を出港し、函館・小樽をへて7月31日に札幌に着いた。

その船中で学生らが俗歌をうたったり、酒によってあばれ、乱暴したりした。黒田は怒り、「函館から彼らを追い返せ」と迫った。

「おまえら、何を考えているんだ! 遠足にいくんじゃないんだぞ。おまえは、リーダーだというのに、このザマはナンだ!」と行って怒鳴りつけた。

叱られたのは佐藤昌介だった。

佐藤は何も悪いことはしなかったが、黙って見過ごしていた責任を問われた。

「おまえら、3名は、函館に着いたら、帰れ! 先が思いやられる」

それをとりなしたのは、クラークだった。

船中で黒田清隆はクラークに、ある頼みごとをした。

「どうも、さいきんの若者の道徳はなっておらん。あなたの力で、最高の道徳を仕込んでいただきたい」外国人にとって、「道徳」ということばは、「信仰のこと」だろうと思われた。クラークはいった。

「あなたのいわれる最高の道徳というのは、キリスト教以外に考えられない」

すると、黒田清隆は腕を組み、

「それは違うでしょう。キリスト教とはまったく異なる。宗教は、ヘタをすると国を滅ぼす」とまでいった。

「そうではありません。こころの糧になります」とクラークはいった。

「しかし、聖戦と称して、ヨーロッパの列強は宗教戦争をしたではありませんか。そういう戦争教育は、やってほしくありません」

黒田清隆は無宗教。クラークは敬虔なクリスチャン。ふたりのかみ合う余地はまったくなかった。

「キリスト教を奉ずる学校にはしたくありません。それをもって、学校の教育方針にすることはできません」といって突っぱねた。その後ふたりとも、何日も、口をきかなかった。

この問題にケリをつけたのは、まるで無関係な九州・熊本で起きたある騒動事件だった。――熊本洋学校問題と、京都の同志社問題がひとつの気運となって後押しした。

明治9年、18歳の坪内雄蔵が開成学校に入学し、内村鑑三が東京英語学校で最上級生になったとき、14歳の徳富猪一郎という熊本から出てきたばかりの少年が、東京英語学校へ入学してきた。猪一郎は、漢学教育と、熊本洋学校で英語を学んだ。

そこへヘール・エル・ジェーンズというアメリカ人教師がやってきた。教師は熱心なクリスチャンで、猪一郎より6、7歳ほど年上の先輩学生は、その影響を強く受け、キリスト教精神なるものに染まっていった。やがて、キリスト教を嫌う両親の知るところとなり、通学を拒否されたけれど、猪一郎は信仰を棄てなかった。

いっぽう、明治9年には廃刀令が出て、刀を佩(は)くことはもとより、持ち歩くことを禁じられた。だが、これを無視した国粋主義を奉ずる若者たちが、刀を袋に入れて隠し持ち、ちょん髷も切らず、旧藩士気取りで町をねり歩いたりした。

熊本洋学校は、そういう輩にたいする対応に手こずり、そうそうに文部庁の知るところとなって、いきなり廃校になってしまったのである。

さて困ったのは猪一郎たちだった。

もう行くところがなくなった。それから間もなく、京都にキリスト教の学校「同志社」を開校したばかりの新島襄のもとに、青年たちの一群が大挙して押し寄せた。

「われわれを入学させてください」と訴えたのである。新島襄は事情を理解して入学を許可した。坪内雄蔵は、のちの坪内逍遥である。徳富猪一郎は、のちの徳富蘇峰である。札幌農学校も例外ではない。まして、クラーク教頭、――教頭とはいえ、事実上の学長である。――彼の教育理念を受け入れた政府は、北海道開発使長の黒田清隆の反対意見を受け入れることはできなかった。それを承知でクラークを招聘したのだから。                                                                                  ♪

明治9年9月、ウィリアム・クラークとその後輩のペンハロー、ホィラーの3人は佐藤昌介、大島正健ら11名の学生とともに札幌に農学校を開いた。クラークは開校式に登壇し、こう演説した。

「諸君!」 

諸君はこの学校に入って、やがて国家のために重要な地位と厚い信用を、また、それらにふさわしい名誉を受けるように準備し、努力しなければならぬ! それがために健康なる肉体をつくり、貪欲をつつしみ、また性欲を制する力をやしない、従順と勤勉への修練にはげみ、かつ、習わんとする学課については、できるかぎりこれを研究し、練磨すべきである。――と。

 

開拓使長となった黒田清隆は、学生たちの飲酒や乱暴をやめさせるよう強く要請した。

クラークは酒が好きだったので、1年分のじぶんの酒瓶はすでに用意していた。彼の赴任は1年という期限付きで設定されていたので、北海道滞在は、1年をすぎることはない。

ある日クラークは、しまっておいた酒をすべて、学生らに教室に運び込ませ、学生たちに向かってこういった。

「諸君らに酒を飲むなといいながら、教頭であるじぶんが飲んでいたのでは、申し訳が立たない。学習中は禁酒すべきであり、酒の好きなわたしも禁酒するので、諸君もわたしに倣い、禁酒を実行してほしい」

そういって、学生たちに禁酒誓約書を書かせた。

そしてクラークは、学生たちにバイブルを1冊ずつ手渡し、日曜日には全員教室にあつめ、聖書研究と称してイエスの教えを講義した。祈祷書は熱心に教え、礼拝をおこなった。

開校と同時に、札幌農学校は堂々たるキリスト教理念のもとに教育がすすめられた。クラークは科学者でもあったので、学問は多岐にわたった。

「枯れ草は、飼料としてなぜ栄養に富むか?」と質問する。

だれも答えられない。そのうちに学生のひとりが、おそるおそる立ち上がり、

「水分が、蒸発してしまっているからであります」と答えると、クラークは満面に笑みを浮かべた。

「そうだ! 水分が蒸発しているからです。……ならば、水より軽いものの比重は、どうして量るか?」と質問する。

「水より重いものに結びつけて水中にぶら下げて量ります。水より重い分をのぞいて計算すればいいと思います」と答えた。クラークはますます喜色満面になり、

「名答!」と叫んだ。

ある日、野外で授業がおこなわれた。途中の道で、小川を渡るとき、1本の木の橋の上を歩く。ちょうど7歳ぐらいの少女がひとりで渡っていた。学生のひとりが手を差し伸べて、彼女の手を取って渡らせようとした。それを見ていたクラークは制した。

少女が渡り終わってから、

「よくやったね!」といって、頭を撫でた。

クラークは郷里のマサチューセッツの州立農科大学の学長だったので、札幌へは1年間だけの赴任となっていた。明治10年4月、彼の帰る日が近づいた。

そのちょっと前の3月5日、クラークは「イエスを信ずる者の契約」という文章を書いた。

学生ら全員が、これに署名した。学生のひとり、21歳の佐藤昌介は最年長であり、寡黙で、物静かで、思慮深い男だった。彼は自然に仲間たちに重んじられた。のちに北海道帝国大学ができたとき、彼は初代の学長になった男である。

大島正健はもっとも熱心なクリスチャンになった。

クラークは、1877年のこのころ、欧米の紳士に引けを取らない長い口ひげをのばし、短い顎ひげも生やしていた。

面長で、威厳があって、目はやさしかった。

マサチューセッツにかぎらず、むかしの北米ニューイングランドの人たちは、ほとんど敬虔なクリスチャンである。詩人エミリー・ディキンソンも彼と同郷である。クラークが博士号を取得したのは、ドイツの大学だった。化学と隕石成分の論文で学位を取った。

明治10年4月16日、クラークは札幌を出発した。学生やほかの教員も、札幌郊外24キロ先にある島松まで見送り、別れの昼食をとった。ひとりひとりと握手を交わし、別れを惜しんだ。そのとき残したことばが、「Boys, be ambitious!」ということばだった。函館まで馬に乗って向かった。

とうじ、鉄道などはなかった。――やがて、後輩に内村鑑三や新渡戸稲造という天才たちがやってくる。また、作家として成功する有島武郎もやってくる。――この話を記せば、キリがない。――ただひとこと。

内村鑑三は、目がきつく、性格が激しく、負けず嫌いで成績は新渡戸稲造と1位、2位を争った。新渡戸稲造は美しい青年で、頭がよく、性格は柔軟・明敏で、英語力は抜群だった。当時、彼だけはノートはすべて英語でつづっている。

クラークのほうは、もとより日本語はさっぱりダメなので、すべての講義は英語でおこなわれた。新渡戸稲造の書いた「武士道」は英語で書かれた。岡倉天心の「茶の本」も英語で書かれた。徳富猪一郎、のちの徳富蘇峰はロシアへ行き、トルストイに会っている。

内村鑑三、新渡戸稲造は、ともに著名な人物なので、あらためて書く必要もない。――そんなことをつらつら思い出していた。米国に帰還してからのクラーク博士については、何も話したくない。あまりにもみじめな生涯を送ったからである。

ターシャの

 

――さて、散歩から帰って洗顔し、たばこを1本吸い、コーヒーを淹れ、それからパソコンに向かった。

きょうはどんよりとした天気で、北海道の田舎の丘の農道から見る風景に、大きくかかる夕虹のように、ところどころ街が光って見えた。

父が、母を連れて帰ってきた。――そのときの光景が目にうかぶ。

やっぱり帰ってきたぞ! とおもった。

ぼくは中学生になったばかりで、母が父とケンカして、家を出て行ったのは3日まえだった。何が原因なのか、子供にはよくわからない。ケンカはいまはじまったわけじゃない。母はペニシリンを打って、きゅうに元気を取り戻し、ベッドから起き上がると、和服を着はじめた。

「ナターシャ、爪切り知らない? わたしの爪切り」

「爪切りですか?」ナターシャは背が高いのに、腰の引けたものいいだった。ナターシャが信心しているキリスト教の大事な日、サクラメントの日に秘事を行なうことを許しているのたから、という思いから出たことばかもしれない。

「ロシアの爪切りじゃなくてさ、分かるでしょ! わたしのよ!」と母はいっている。ナターシャが黙っているので、

「あなた、知りませんか? わたしの爪切り!」といって、父に向き直った。

父は、威勢よく「おまえの爪切りなんか知るもんか! 勝手にしろ!」といった。

「わたし、出ていきますから」と母はいった。

夏の暑い盛りのころだった。

子守りのナターシャはまだ20歳。哺乳瓶を持って、不安そうな面持ちで大人しくしている。母は靴箱のなかをあれこれ探し、

「わたしの下駄も、どこへ行ったかしら?」といっている。

ナターシャがやってきて、

「だったら、これかしら?」といって、下駄箱の上に置いていた真新しい下駄を降ろした。

「ナターシャ! あなた、これ履いたの? わたしの下駄、履かないでって、いってたのに!」

「お母さん、ごめんなさい」といって彼女は頭を下げた。

「ダメな子ねぇ、……戦争はもう終わりよ。ロシア人は、ロシアにもう帰りなさい!」と、目を吊り上げていっている。居間で、盆の上に湯のみを置いて、あぐらをかいて一服している父の耳にも聞こえたようだった。父は、朝から機嫌がわるく、むすっとしている。炉端で丸くなっていたネコが背伸びをし、父の膝の上に乗ってきた。

父は、「いい加減にしろ!」といって、ネコを放り投げた。

さっきまで寝ていたネコが目を丸くしてぼくのほうを見た。「おいで」というと、ネコはやってきた。

 

      

         ナターシャ

 

それから母は、大きな荷物を運び出し、「さよなら」もいわないで、馬車に乗って、駅のほうに行ってしまった。

父はしかたなく、馬橇に載せて、母をやわらの駅まで見送るはめになったのだ。そのとき、カイゼルひげの映画館の亭主が父に笑顔を送り、にこっと笑った。

母が家出をするというのに、父は母を駅まで送ったのだ。どこへ行くのだろう? 

それは決まっている。

江部乙(えべおつ)の母の実家に決まっている。

母には行くところがないのだ。その日の家出はこれで13度目だった。

ぼくは、ああ、またはじまったという気持ちでながめていた。

それから3日目の朝になるまで、父は、何もいわなかったが、ナターシャに何事かいい、「すまんな」といっているのを聞いた。

ナターシャは何もいわなかったが、ぼくらが眠ってから、彼女は父に何事か相談したかもしれない。父はナターシャの機嫌をとって、農協からきれいな花柄の鼻緒をしたかわいらしい下駄を買ってきて、彼女に与えた。

彼女は「うわーっ、すてき!」といって歓んで懐(ふとひろ)に入れた。

父はそれを見て、「また泳ぎに行こうな」といったら、ナターシャは

「嬉しい……」といった。

父とナターシャができていたなんて、ほんとうにぼくは知らなかった。

ながいあいだ、母は病気で寝室のベッドで寝ていた。ベッドの上で窓を開けると、とうもろこし畑が見える。そこに花壇をつくるよう母はいっていた。父は重い腰をあげて、畑をつぶして大きな花壇をつくった。丸太を野積みしているところまで、花壇になった。ちょっと やり過ぎではないか、とぼくはおもった。

父は42歳。母は39歳ぐらい。ナターシャは20歳だった。

彼女の仕事は子守りのほかに、食事の世話をしたり、子どもたち3人のめんどうをみたり、母の世話をしたりで、一家の中心だった。ぼくらが小遣いをもらうのも、ナターシャからもらっていた。

「あなたはお兄ちゃんなんだから、じぶんでできるでしょ?」と、またいっている。

彼女はふたりの弟たちのめんどうをみていた。彼女の息抜きは、夏は泳ぐこと、それ以外になかった。恵岱別川に行き、村の子どもたちも泳いでいる場所で、みんなといっしょになって泳いだ。ナターシャの泳ぎはだれよりもじょうずだった。ナターシャが父に雇われるまで、カラフトでオリンピック強化選手の一人に選ばれていた。父もそういうナターシャを見たにちがいない。父は、機嫌のいい日は、そういうナターシャを誘って泳ぎに出かけた。

ぼくも行こうとしたら、

「おまえは、ついてくるな!」と父はいった。

そういう日にかぎって、ナターシャは帰ってくるなり、父のふんどしを洗って丁寧に乾していた。

「父さんと、どこで泳いだの?」ときくと、

「内緒よ。きいてもいいませんから!」といった。ぼくは密かに心のなかで、「お姉ちゃんのバカ」といって、ポケットの中で鉄槌(てっつい)を作っていた。だが、じぶんにはいい相棒がいた。世界一駿足(しゅんそく)なボルゾイ犬が知っていたからだ。「彼に聴くまでよ」とおもっていた。

「ゆきちゃん、お洗濯するものあったら、出してね」とナターシャは優しくいった。父に口止めされているみたいだった。そういうときは、とてもきれいで、とても素直だった。何かいいことがあったみたいにいつまでも優しかった。口やかましいナターシャが、父の話をするときは、いつもそうだった。

父はナターシャにいった。

「江部乙まで行ってくる。あとは、頼んだぞ!」

「行ってらっしゃい」といって、馬にまたがる父を見送った。

それから夕方になり、寝室にいたナターシャが、「お父さんが、帰ってきた!」といって、寝ていたネコを踏んづけないようにぴょんと跨いで、玄関に飛び出していった。

父が、母といっしょに馬に乗って帰ってきた。パドックに着いて母を降ろすと、父は上機嫌で、にこにこしながら馬の背にくくりつけた荷物を降ろし、猛烈にしゃべった。母も上機嫌だった。

居間で荷物を広げると、なかから真新しい帯がひろがった。母の欲しかった帯だった。父は母のために奮発したのだ。

「お姉ちゃんには、これ」といって取り出したのは、鼈甲櫛(べっこうぐし)だった。ぼくらには鉛筆1ダースと赤い色鉛筆一本をくれた。

それから冬になり、年が明けると、家族全員で神さまにお祈りをし、お年玉をもらった。

そして、ナターシャには、

「ながいあいだ、ご苦労だった」といって、父は彼女にちょっと分厚い封筒を手渡した。それは給金だったのか、そうでなかったのか、ぼくにはわからなかったが、その2日後、ナターシャは荷物をまとめて家を去った。

ナターシャは、わが家の神さまだった。

ぼくら兄弟3人は彼女に育てられた。

《ふるさとは夕虹の先馬走る》、田中北斗作。

ぼくは北海道の農場を駆ける馬を想像していた。何がうれしいのか、やつは仔馬のように駆けだす。

――レイモンド・チャンドラーの小説「さよなら、愛しい人」のページをひろげ、久しぶりにナターシャのことを想った。