The Catcher in the Rye Movie.

 

■「The Catcher in the Rye」を読む。――

体と体が入れ替わる瞬間

きのう越谷に出かけ、重いリュックサックを背負って、駅のホームに降り立ってから、それを降ろそうとして、また少し腰を痛めました。そして、激しい雨に撃たれました。

越谷の図書館で10冊の本を借り受け、中の本を1冊取りだそうとして腰をひねったのです。ぼくはロバート・バーンズの本を読みたくなったのです。サリンジャーの小説「The catcher in the Pye(ライ麦畑でつかまえて)」に出てくるロバート・バーンズの詩なんかを。

電車のなかで、ぼくはバーンズの本を読みはじめました。

   

     ロバート・バーンズ。1759-1796年

 

少年が歌っている「ライ麦畑で会うならば(If a body meet a bodt coming through the rye)」という歌は、18世紀のスコットランドの詩人ロバート・バーンズ(Robert Burns, 1759-96年)が書いた詩(Comin Thro' the Rye )に曲がつけられて、長いあいだスコットランド民謡として歌われていたもので、日本でも、「夕空晴れて、秋風吹き……」と訳され、「故郷の空」と題されて明治時代、小学唱歌になっています。――ネットでしらべてみると、壺齋散人氏の訳があり、「小説の中では、主人公の少年が、If a body catch a body, comin’ through the rye と口すさび、それが題名にもなった」と書かれています。

その後、「誰かが誰かと」(伊藤武雄訳)というタイトルがつけられ、「誰かが誰かとむぎばたけで、こっそりキスした いいじゃないの 私にゃいい人いないけど 誰にも好かれる むぎばたけ」と訳され、渡辺修は「麦畑」というタイトルで、「ふたりが会うのは麦畑 しごとのやすみに話します 空にはまっ白な雲がゆく ふたりは楽しいこいびとです」と訳しました。

ぼくは、こういう小説が大好きです。

文芸作品の名作には、いろいろな謎があります。

「嵐が丘」もそうでしたね。そのなかでも、ぼくにとって、最もむずかしいのは「ライ麦畑でつかまえて」という作品です。名探偵シャーロック・ホームズはいいます。

「全体的な印象は気にせず、細部を考慮に入れるように、……」というセリフ。ミステリーの謎を解くカギが細部にひそんでいることをワトソン君にいうセリフです。なーるほど、彼は細部にこだわりつづけます。

この方法をぼくもやってみたいとおもったわけです。で、北海道にいたとき、いろいろやってみましたが失敗の連続でした。

その、具体的な例を見てみましょう。

ちょっと一読すれば、ぼくらがやるごくふつうの会話のように、とりたてて意味もなさそうに話しているホールデンと、ルームメイトのストラドレーター、そんなふたりに見えてしまう会話からはじまります。好きな女の子の噂話をしているシーンです。

――だれがタイプだの、だれがブタだのと盛り上がっておしゃべりするなかに、突如として出てくる女の子の名前。作品には、別段関係なさそうに見える女の子の名前なんですが、それこそ、ホームズが注目する「細部」の手がかりのひとつかもしれないと、ぼくはおもったわけです。

いみじくも当時、――1982年、――札幌で、20歳の看護学校へ行っている女の子が、ぼくにしゃべってくれたことがヒントでした。

ホールデンの好きなその女の子の名前とは、「フィッツジェラルド」といっています。ひとりの女の子として、さり気なく出てきます。作者ジェローム・サリンジャーは「The Catcher in the Rye」のなかに、ふしぎな感覚で登場させているのです。

さて、村上春樹さんによる訳は、野崎孝訳とおなじ白水社から、「The catcher in the Pye」というタイトルで出ています。それによると、この部分はこうなっています。

 

「今日のデートの相手は誰なんだ?」と僕は訊いた。「フィッツジェラルド?」

「よしてくれよ! あんなブス女とは手を切ったって言ったろうが」

「へえ、そうなんだ? じゃあ僕にまわしてくれよ。冗談抜きでさ。あの子は僕の好みなんだよ」

「お好きに……。あいつはお前より年上だけどな」

 

さて、この部分は、「ペンギン・ブックス」版ではこうなっています。

 

 ‘Who’s your date?’ I asked him. ‘Fitzgerald?’

 ‘Hell, no! I told ya, I’m through with that pig.’

 ‘Yeah? Give her to me, boy. No kidding. She’s my type.’

 ‘Take her. . .She’s too old for you.’

 

村上春樹訳は、さすがにいい訳になっていますね。

でもこのふたつの文章、ニュアンスがちょっと違っていますが、作者がここでいいたかったことは、原文を見ればわかるとおり、フィッツジェラルドっていう女の子は、「おまえには年上すぎる」という点でしょう。

こう読み流せば、たしかにこの引用は「ぼく」であるホールデンとストラドレーターがデートの相手について、おしゃべりしているだけのように見えます。しかし、星の数ほどある名前のなかで、どうして最高に有名な作家スコット・フィッツジェラルドとおなじ名前をサリンジャーは使っているのでしょうか。

これをふしぎにおもわないわけにはいきません。

フィッツジェラルドといえば、どのくらい有名か、彼が書いた「グレイト・ギャッツビー」が日本では、整髪料の銘柄「ギャツビー」にもなっているくらいのビッグネームだからです。

このふたりは高校生で、女の子の話をしているというのに、たとえばメアリーとかスーザンとか、中学の英語のテキストに出てきそうな典型的な女の子のファースト・ネームではなくて、名字を使っていることも、どうも胡散臭いとおもわないわけにはいかなくなりました。

ふつうは、ファースト・ネームで呼ばれるものです。ですから一見、女の子の話をしているように見せかけながら、じつは男の子の話をしているということも、可能かもしれませんね。女の子として登場したフィッツジェラルドは、ただの仮面で、作者サリンジャーは、その裏に作家のフィッツジェラルドを隠し持っていると想定してみます。

すると、ストラドレーターは、「フィッツジェラルド」は、「おまえには年上すぎる」といったことも納得がいくかもしれません。――なぜなら、じっさい、作家フィッツジェラルドが生きているのは、1940年まででしょうから、ホールデンの「タイプ」なフィッツジェラルドというのは、取り返しのつかないほどずっと「年上すぎる」わけですね。

もう彼は死んでいるのですから。

つづけて「The Catcher in the Rye」では、こういう文章がつづられています。

 

ぼくはリング・ラードナーと「グレイト・ギャッツビー」が好きだと兄にいったんだ。ほんと好きだった。「グレイト・ギャッツビー」に狂っていたし。ぼくのギャッツビー、やあ親友。もうやられちゃったけどな。

 

ホールデンは、「フィッツジェラルド」は、たんに好みだけでなく、「グレイト・ギャッツビー」にも狂っていたわけです。

ですから、さっきの女の子として登場したフィッツジェラルドは、やはり作家のフィッツジェラルドを指していると考えるのも、ムリなく理解できそうです。

 

 

ジェローム・サリンジャー「The Catcher in the Rye」の10分間解説。

 

そうなると、フィッツジェラルドは「The Catcher in the Rye」のなかで、ものすごい影響力を持っていることになります。おそらく、そう断言していいとぼくはおもいます。作家の名前とか、作品の名前とか、少し気をつけていけば、簡単に気づくようなあからさまなことだけじゃなく、そのうち「The Catcher in the Rye」の物語がギャッツビーの物語にぐんぐん迫っていき、やがて重なっていくことがわかってきます。

「The Catcher in the Rye」が終わりに近づいたころ、ホールデンのまえに「fuck you」という落書きがたびたび現われます。

野崎孝訳ではちゃんと訳せなかったとみえて、「コーマン決めるぞ」、あるいは、1984年に「新しい世界の文学」(白水社)に収められた改訂ヴァージョンによれば(のちに「白水Uブックス」版にもなります)、「オマンコショウ」などと訳されています。いまでは時代がすすみ、ここは「ファック・ユー」だけでいいでしょう。村上春樹版でもそうなっています。

ファック・ユー(fuck you)には、「おまえを犯すぞ、やっつけるぞ、くたばっちまえ」という意味がありますから、当然この落書の真価を認めるにはセックスの知識が不可欠です。さらに、fuck youは、神への誓いと表裏一体になった呪詛でもあります。

ホールデンは妹がいつまでも純真無垢な子どものままでいてほしいと願っているようだからと、子どもを大人の知識から守るために、fuck youの落書を消すんだ、というふうに考えたりする人が多いようです。

ホールデンが将来なりたいものは、「ライ麦畑でつかまえる役(キャッチャー)」で、そのキャッチャーの仕事は、彼が崖から落ちたりする子どもたちを守ることだということは問題なく理解することができます。

ですから、ホールデンは子どもを守る作業の一環として、fuck youの落書を消してしまおうとするのだ、そう考える人が多い。そういう読み方は間違いではないかもしれないけれど、それだけでは、ぼくにはすごいことを見落としているように見えてしまうのです。

ホールデンがfuck youを消す理由は、「グレイト・ギャッツビー」のせいなのだということを気づいたからです。

S・フィッツジェラルドの描くギャッツビーの物語、それを読者に話して聞かせてくれる人物、――それは、「嵐が丘」の語り手であるネリー・ディーンとおなじ、ニック・キャラウェイという男です。

ギャッツビーが死んだ後、ニックがギャッツビーの家にいってみると、そこにあったのは、あの卑猥な落書「fuck you」だったわけです。その文章を紹介しますと――

 

最後の晩、トランクに荷物を詰め終り、車も食料品店に売ってしまったあとで、ぼくは、あの巨大なままになんの意味をも生まずに終った家を、もう一度眺めに出かけていった。白い石段の上に、どこかの子どもが煉瓦(れんが)のかけらで書いた卑猥(ひわい)な言葉が、月光を浴びてくっきりと浮かんでいた。ぼくは石の上で靴をごしごしこすってそれを消した。それからぶらぶらと浜辺へ歩いて行って、砂浜の上にながながと寝そべった。(野崎孝訳)

 

ニックが「卑猥な言葉」を「靴でごしごしこすって」消している、だからホールデンは、ニックがfuck youを発見すると、それを消していたことを思い出すわけです。彼はちゃんと「グレイト・ギャッツビー」を読んで知っていたことになります。つまり、彼はニックの真似をしていることになります。

するとどうでしょう。

この後すぐに、ホールデンの姿が、ニックのいう、もう死んでしまって、この世にいないギャッツビーに異常接近していったことがわかります。fuck youをホールデンが最後に発見するのは、メトロポリタン美術博物館のミイラの展示室においてでした。

 

もしぼくが死んで、ぼくが墓場に埋められたりして、ぼくの墓石があったりしたら、そこには「ホールデン・コールフィールド」って書いてあって、それでぼくが何年に生まれて何年に死んだかが記してあって、それでそのすぐ下に「ファック・ユー」って書いてあるんだ。こいつは間違いないぜ、実際。

 

なぜホールデンの墓にfuck youの落書が書かれてしまうのでしょうか。

もうおわかりのように、ギャッツビーも死んだ後、自分の家にfuck youを書かれてしまったからという単純な理由なわけだとおもってしまいます。死ぬとfuck youを書かれてしまうという運命を、ホールデンはギャッツビーから学び、それを共有しようとしているように見えます。

ここでは、ホールデンが自分の墓を想像しているということが、大事なわけです。自分の墓というのは、自分が死ぬまでつくられないのがアメリカではふつうです。ということは、ホールデンが生きているのに、ここでは死んでしまっているわけです。ちょうどギャッツビーが死んでいたのとおなじように。

そこには、落書を消す自分(主体)があって、落書は自分の外側に存在(客体)していた。

けれども、ここではとつぜん、ホールデンは落書を自分のからだの上に書かれる側へとまわってしまっています。

落書と自分が一体化してしまいます。客体であったはずの落書が主体になって、向こうとこっちがいっしょになってしまった。敵対していたはずの2つがひとつになってしまった。でもこれは反転・一体化のほんのささいな例にすぎません。

たぶん、「The Catcher in the Rye」を読んですっかり知悉(ちしつ)しているとおもっている人でも、なかなか単純には読めない、奥のふかい作品だとおもいます。ぼくはたいへん苦労して読みました。――外国でもこの翻訳をめぐって、いろいろに訳されているようです。――「ライ麦畑でつかまえて」。このなんとも奇妙なタイトル。

「つかまえてくれ!」って叫んでいるのか、「つかまえてね」とお願いしているのかよくわかりませんね。

1952年、橋本福夫は「少年の反抗」と考え、タイトルを「危険な年齢」と訳しました。1964年に野崎孝の翻訳で「ライ麦畑でつかまえて」と訳されました。

ところが、イタリアでは「男の人生」、ノルウェーでは「みんなひとりで、早い者勝ち」、ドイツでは「ライ麦畑の男」、オランダでは「孤独な咆哮」(のちに「思春期」と改題)、ロシアでは「ライ麦畑の崖の上で」(田中啓史「サリンジャー研究」荒地出版、1979年)というふうに、さまざまに訳されてきたようです。冒頭のロバート・バーンズの詩をめぐっては、田中啓介氏の「《ライ麦畑のキャッチャー》の世界」(開文社出版、1994年)という本にくわしく書かれています。

――まあ、こんな詳しいことは、興味のある方は各種論文を読まれるといいとおもいます。ぼくに秘書はいませんが、まあいってみれば、妻が秘書ってとこ。米英にはセクレタリー・デー(秘書の日)というのがあって、秘書に感謝をあらわす日といわれ、4月の7日間そろった最終週の水曜日がセクレタリー・デー(Secretary Day)、またはセクレタリーズ・デー(Secretarys Day)というようです。今年の4月は、コロナウイルスでたいへんでしたね。英語でウイルスに感染していないことをvirus free ――「ヴァイラス-フリー」といっています。ではまた。