全部自分で創るんだったわ と気づく朝
おはようございます。昨日の振り返りです。お客様より発注不備の指摘を受け、調べたところ、3件の発注のうち、1件は発注していましたが残りの2件が発注できていないことがわかりました。発注できていない2件のうち1件はメールの読み間違えです。もう1件は発注メールが紛れていたようで全く把握できていませんでした。メールの読み間違えについては自我の思い込みで、読みたいように読んだ結果が還ってきた事になります。気が緩むと当たり前の事のように自我が出張る。丁寧に、を心がけます。また、発注不備がわかり急ぎ手配したのですが、通常とは別ルートで仕入れた方が納品が早くなる可能性があるという考えが浮かびました。結果、上司に相談して、手配のし直しを依頼することになりました。慌てて「いつも通りの手配をしている」状況は目先のことしか見えていない意識の表れです。ゆとりがなく視野が狭いのがお自我様だなと観て取れます。現実に呑まれていました。この観点を適用すると、わたしはいつもたいていほぼ100%目先のことしかみえていません。一歩引く、視野を広げる、全体を観る、これも自我を下げるということですね。全体を観るとき、その「全体」は現実のなるべく広い範囲の状況把握もそうですが、選択肢を限定しないことも全体を観ると言えるのでは、と思いました。選択肢の全体をみるというか…。「発注不備があったなるべく早く依頼品を手配してお届けしたい」この時、依頼品を手配するルートは無限にある。ルートがひとつしか浮かばないのは、「通常」や「過去」に囚われているから。無限と言ってもその無限を使える選択肢にするのは営業所の務めです。日頃からそのルートを作っていれば、その分選択肢は増える。いつも目の前には無限の可能性がある。その無限を物質界で使えるようにするのは創造主のわたしなのだということが盲目となっていました。例えば仕入れルート、メジャーでない取り引き先から取り扱い商品の案内メールが来る。不用と判断し、目を通さず案内メールボックスに入れるか、目を通すか、その違いでもいざとい時の選択肢の幅は変わってきます。世界はわたしが創っているのだ。その幅も厚みも創造主の器により変わるのだ、そしてその幅と厚みを創造していくのが創造者「わたし」なのだと、うっすらと気づく朝です。昨日から風邪っ引きです。仕事や約束をどうするか問題も課題だな〜、とうっすら思考しつつ。今日もおつきあいいただきありがとうございます。読んでくださってありがとうございました。