無知であることを認識した位置に立つ
おはようございます。昨日は知るとか解るとはどういうことだろうと考えていました。ちょうど知恵という言葉にフォーカスする機会があったので。知るとは理解することとすると、理を解する そうなることがわかる そう在ることがわかる、ということでしょうか。普段わたしの使う 知る は 聞いたことある程度の意味です。その状況、その物などがそう在る理を理解しているわけではない。知識というにもまだ浅い。知恵にはほど遠い位置に在る。とすると無知がデフォルトのはず。でも知ったかぶりをするのが「わたし」という人間です。百歩譲って今は理解できていなくてもいつか(そう遠くない未来)理解できると思っている。といっても全く「わからない」(知識や知恵がない)ということではなく今世たどり着くことはないかもしれないけど、理解に向かう道中に在る、みたいなイメージです。二元の言葉で分類するなら、知に辿り着いてはいないから無知に在る。この「無知」という言葉、書いていてモヤモヤします。考え始めた当初は無知という言葉も出てこず、「未知」という言葉を使ってました。でも「未知」だと聞こえはいいけど、意味が通らないのです。当たり前だけど。無知を否定に配置すると、わたしが無知である事は許されない事なので知らない状態は認められない となる。無知という言葉を使うことすら避けて通るとは。自我意識はいつもどんな時も、知ってる・わかったと錯覚を起こすよう設定されてるみたいです。けっこう重症です。真に理解していないことを認識する意識に創り換える必要がありますね。そもそも自我を通しての理解は共通の理解ではないことも多いですから。じゃあどうやって書き換えたらいいのだろうと疑問が湧きますが、理解していない、無知であるという前提に立った立ち居振る舞いをすることだと考えています。ガイドに「言い換えをしない」と言われていたことを思い出しました。「わかった」と言って聴き流し、今に至りますが、これも意識の中に「わかった・理解した」という「ゴール」を設定しないというような意味かもしれません。実際、言い換えた言葉は「わたしの理解できる限られた範囲」に収まってますから。知は永遠に無限に続くもの。「わかった」という言葉で「無限」を「有限」にしてしまうことは、もったいないというか、わからない→わかる→わからない→わかる…そんな発展していく循環の中に在るのだったと気づいたというか。気づくだけでは意識の設定は変わりませんので、体現して生きます。観察というか、これも小さな気づきですが、先日引いたおみくじに「一面的にならず 他の面を見ることも大切」とありました。さらっと自我で自我の観点で捉えず、観察者の観点を立てなさいという意味だな、と思考しました。これも自我の判断ですね。「これ」と決めつける事なく、決めつけ自体をやめる方向に舵取りする、真意は今のわたしにはみえるはずもないのだから。一面的にならず他の面を見るってどういうことだろう?と試行錯誤していく。そんな心持ちを大切にしようと思います。相当集中しないとすぐ持ってかれる自信あるわ。と楽に流れる意識を認識しつつ。今日もおつきあいいただきありがとうございます。読んでくださってありがとうございました。