おはようございます。

昨日の振り返りです。


昨日は両親がきて、

お野菜などを持ってきてくれました。

ズッキーニが多くなりだしたそうで、

夏を感じながら、夕食にいただきました。


母はひと月ほど前から腰が痛いといっており、

しばらく寝込みがちだったようです。

接骨院に行ったといっていましたが、

多少改善はしたものの、

まだずいぶんと痛いような様子です。


それは机に寄りかかるように座る姿勢や、

歩く速さ、買い物に行くところ、

すぐ終わるなら車で休んでいる、という

言葉からも窺えます。


母には整体に行ってみるかと提案しましたが

嫌だと言うので、

「無理しないで、大事にしてね」と伝え、

父には「一度整形外科で診てもらったほうが

いいんじゃない?背骨が潰れてるかもしれないよ」

と提案して、別れました。

父は接骨院で診てもらった。少しはよくなっている

と言います。

そっか、と答え、別れました。


家に戻り、その事象を振り返り、

どうして外科受診を勧めたんだろ?と思考し、

でも骨が潰れる(背骨と背骨の間が狭くなり、

痛みが出る)というのは可能性があるし、

骨粗鬆症などから骨折の可能性もあるな、

とさらに思考。

レントゲンなどの明確な診断がなければ、

両親は納得しないだろうから、

提案としての方向性はよかったかも。

でも、それを父に丸投げでよかったの?

それは祖母の時の繰り返しになるのではないの?

と思考します。


背骨が潰れるとか整形外科受診はたぶん

過去に見聞きしたことから出てきたイメージです。

腰が痛い という情報を

わたしの記憶データの中で検索した結果

思いついた可能性のひとつ。


家族という場に立ち、

母の腰痛を観る時、

できるだけ健康で過ごして欲しい、

好きな畑仕事ができる状態てあって欲しい

という望みがあります。

それ自体は、母が自分で自分の身体と向き合い、

身体を調えることで、

わたしが直接できることはないのですが、

向き合うという 場 を創る手助けはできる。


「病院行った方がいいんじゃない?」

と丸投げする(他人事として放置)のではなく、

一緒に診察を受けるよう手配する。

そのように行動してみることにします。


今回の母の腰痛は、

無関心になればどこまでも「他人事」を

貫き通すことができる事象でした。

わたし都合でお見舞いをしたり、気遣ったり、

上辺だけの提案をすることで、

関わっている体をとっていましたが、

実際は全くの放置状態です。

見舞いや労りの言葉掛けをすることと、

母の身体が調うことは別の創造だという認識が

できていなかったことに気づきました。


まずは現状把握のための行動をします。


今日もおつきあいいただきありがとうございます。

読んでくださってありがとうございました。