モリタのトリビア的疑問100の考察 -3ページ目

今後のトリビア的疑問の予定

 この後、どんな“どうでもいい”疑問を取り上げるかUPしておきます。お楽しみに。

・自分の写真を見て「こんな顔だったっけ?」と何故思うのか

・あの人と2人だけになると何故居心地が悪いのか

・わたしは何故「セカチュウ」や「電車男」にうさん臭さを感じるのか

・自分は何故なかなか大人になれないのか

・ポテチを食べだすと何故やめられなくなってしまうのか

・蕎麦はズルズルっと啜り上げるのが何故おいしいのか

まだまだわたしのトリビア的疑問は尽きません。

第3問:一昨日何を食べたか何故思い出せないのだろう

ちょっと長い文ですが「なるほどねぇ」と思ってもらえると思いますので、読みきって頂ければ嬉しいです。

【体験】
 わたしは今の所病人でも老人でもありませんが、けっこう健康状態を気にする方です。体重計に毎週1回は乗りますし、スポーツも最低週1回はしています。病院に行くのがどちらかと言えば好きな方です。またサプリヲタクとまではいきませんが食べ物にも気を使っているつもりです。朝食も欠かしませんし、赤、黄、緑など色取りに工夫をすると自然に栄養的にもバランスが取れるとか、肉を食べる時は野菜も一緒に取るようにしたり、腹八分目で止めとくなどに注意しています。グルメではありません。どちらかと言えば粗食派でしょう。

 わたしの職場は繁華街に近く、食事をする選択肢には困りません。ある日の昼時、いつもなら職場の仲間と昼食に行くのですが、皆忙しい様子で「お先に~」と一人で外に出ました。一人になると意外に行く場所に困るものです。あそこは一人用の席がないからなあとか、ここは週に最低1回は来てるから今日も行ったら「あらっ今日は一人?」って目をされるしなとか。迷い道に入り込んだわたしは、最近食べたものを思い浮かべ、それら以外の食事をしようと思います。

 昨日は昼はコンビニの鮭弁当、夜は家で全部載せラーメン。で一昨日は・・はたと思考が止まる、何故か思い出せない。昼はいつもの常連店だったのかな、だとすれば多分わたしの定番である焼きor煮魚定食だったはず。などと想像をするも確信が無い。あれこれ考えるうちに面倒臭くなり、なんとなく準常連の中華店に入りチャンポン麺を頼む。これだと野菜も肉も魚系(蛸とか蛎だが)も満遍なく使われているので「セーフ!」という気になれる。でもお腹は満たされるものの、これが食べたいと思って入った訳ではないので心の満足感に欠けてしまいました。

 食べ物に気を使っているはずなのにこんな有り様です。

 1ヶ月も経つとそんな健忘症状があったことなど忘れ去っています。ある日また昼食お一人様の日が訪れます。そして同じ症状を繰り返します。そんな日は例えば準常連店である回転寿司屋に入り7皿程度食し昼食時間が終了します。その日の午後も1ヶ月前のその時同様、芯のないキャベツのように腑抜けた時間になったのでした。たった2日前のことなのに何故思い出せないのか?釈然としないまま、また中途半端な昼食を取り、中途半端な気持ちで職場に戻るわたしがいるのです。

 顔は思い出せるのに名前が出て来ないピークの過ぎた芸能人や、サビは歌えるのに歌い出しの分からない曲などを思い出そうとする、あのモヤモヤした気分と似ています。

【検証】
 職場が繁華街に近く食事の選択肢には困らないと書きましたが、常連店(週1回以上)、準常連店(2週に1回程度)が各々複数あるのが実態です。つまり週5回の昼食のうち、最低3日は馴染みの飲食店に行っていることになります。食事の味と量、店と店員の雰囲気、そして値段という点で、馴染み店は仲間内では隠語で呼ばれるほど定番化しています。例えば鳥料理が売りである「鳥平」に行く時は「トリ?」で皆に通じます。これを昼食のレギュラー化現象と呼びます。レギュラー化した店に入るのは店員との間の緊張感もなく、出てくる料理も常に合格点であるため、安心して昼休みを過ごすことができます。

 一方残りの2日ほどはたまに思い出して行く店、あるいは新規開拓店です。思い出し店は行くのは場所が少し遠い、または出遅れると混雑ですぐに入れない店であるか、味、量、雰囲気はいいのだが値段が高めである場合になります。こういう場合、出かける前の仲間との事前了解が必要となります。了解なしに路上で行く場所の会話をすると余程強い主張を誰かがしない限り、手近の常連店になります。歩いていく時間、待つ時間、また財布の中身についてある覚悟を決める必要があるからです。

 新規開拓店は、余程天候が良いとか、給料が入った直後であるか、また新規オープンされた店のチラシを街頭で受け取った場合などになります。気晴らしに行く感じです。ちなみに新規でも、店、店員の雰囲気が気に入らない店には2度と行きません。僅かな時間の昼休み中ですが、くつろげない店は困りものです。

【結論】
 こう見てくると、わたしの場合昼食時に入る店の最も大事な基準は、その店でくつろげる時間を過ごせるかどうかだということになります。くつろげるということはつまり、空腹を満たすという目的以上に、仕事から解放される、仲間との会話を楽しむということに昼休みの価値を見出しているというわけです。気分良く昼食が取れたという満足感が先で、食事の内容そのものはあまり記憶に残っていないということです。
 またレギュラー店が多いとは言え、料理の傾向がそれぞれ違う所であることから、自然と健康志向の食の取り方をしているということで、食事内容をいちいち記憶に残さなくてもいいということになっているのだと思います。
 
 健忘症状であることは確かですが、それだけくつろぎ時間も得られていると、前向きに考えるべきことでしょう。

 「食とは、これ人を作ることなり」という格言があるそうです。おそらくただ食欲を満たし栄養分を取るということだけでなく、人と会話をするなどしてリラックスし、ストレス、不満などを解消させる時を過ごすということにも食事の目的があるよ、ということなのでしょう。

 一人で昼食に出掛ける時に行き場所に困るのは、その食のもう1つの目的が達成されにくいという理由によるのだとも言えるでしょう。

【追記】
 昼食時間というものは、男性の場合もそうですが、女性の場合は特に「誰と行くか」ということが非常に大切なことなんですよね。職場では話せないことが話せる場所、時間て、仕事してると結構限られますから。

第2問:うちの犬は何故自分になつかないのか

【体験】
 これは子供の頃の話です。ある日父親が泥棒除けにしようと雑種の犬を連れてきました。一応知人の家で産まれたと言ってましたが、ほんとのところは今も分かりません。もう既に成犬でした。野良犬がまだあちこち徘徊している時代でしたから、適当な犬を拾って来たのかもしれません。スピッツ系で白いふさふさの毛でしたが顔はちょっと不細工でした。妹は大喜びしてました。わたしは激しく犬に吠えられ追い駆けられた経験があったのでイマイチでした。名前はシロという捻りの欠片もないものになりました。

 妹がすぐに餌あげ係になりました。散歩は家族交代で行うことになったのだと思います。1週間に1~2回わたしの当番が回ってきました。どういう親から産まれたのか知りませんがやたらと身勝手な性格の犬で、突然公園の茂みに潜りこもうとしたり、落ちているパンか何かの袋を噛んだり、座り込んで一歩も動こうとしなかったり。わたしの思う通りに歩いてくれたことは一度もありませんでした。

 妹が学校から帰ってくると猛烈にはしゃいで喜んでました。喜び過ぎておしっこをしてしまう位のはしゃぎぶりでした。でもわたしの場合は多少尻尾をパラッと一振りする位のお出迎えぶりでした。妹が餌をあげられない時わたしがあげたことがあります。メニューは大抵味噌汁掛けご飯でした。器に餌を入れてあげてもすぐには近づこうとせずわたしがその場を離れるとおずおずと食らい始めます。妹があげる時と随分態度が違っていたようです。

 今でも犬はやや苦手です。

【検証】
 初めに考えつくのがわたしのシロに対するイマイチ歓迎していない気持ちを、彼は悟ったということでしょう。そのあたり動物は敏感です。人間関係も同じかもしれません。なんか苦手だなあと思う人から親しげに話し掛けられたことがありません。もしそうされたら却って狼狽えてしまうでしょう。向こうも絡みにくいなと思っているかもしれません。こういうのを反りが合わないというのでしょうか。第一印象とは恐いものです。

 次に餌をあげる係が妹であったことも関係があります。動物は正直です。自分の欲求を満たしてくれる人に一番なつくのは当たり前でしょう。妹におしっこを撒き散らすほどの歓迎ぶりを示すのも宜なるかなと思います。散歩だって一緒です。自分がやりたいことをシロはやっていただけなのです。たぶん妹は好きなように遊ばせていたのでしょう。それを身勝手だと思っていたわたしが狭量なのです。

 そして一番大きな理由は、わたしの干支にあるのでないかと考えています。そう、所謂犬猿の仲というやつです。わたしと同じ“猿”が干支の知り合いに犬を飼っている人はいません。また言い伝えられるところに寄れば、そもそも犬が十二支に加わるのを猿が邪魔をしたとか、犬の仲間である狼が猿を襲うことがよくあったそうです。
 ちなみにわたしが苦手な人が犬年生まれかどうかは分かりません。恐くて聞けません。

【結論】
 うちの犬が自分になつかなかったのは、犬の方がなつかなかったのではなく、わたしの方が犬になつかなかったのだということになります。主従逆転です。仕方ありません。今になってあえてなつこうとも思いませんが、シロにはすまなかったなあとも感じます。

【追記】
 可哀相なことにシロは車に轢かれて重い傷を負い、数ヶ月後に天に召されました。さすがのわたしも涙がこぼれました。
 今は、しっぽは振りませんがそれなりになつく動物、亀を飼っています。散歩は行けませんが可愛いです。

ブログ主"trivialquestion" 敬白

お詫び コメント許可に修正

昨日UP致しました「第1問-耳の掃除~」ですが
間違ってコメント受付しないという状態になって
おりました。

先程コメント受付可にしましたので、ご案内致します。
ほんとに失礼しました。

第1問-耳の掃除をして大きな垢が取れると何故感動するのか

(体験)                      
 あなたはカサカサ垢ですか、ベトベト垢ですか。日本人での割合は9:1だそうです。わたしは少数派の方です。
 ベトベト垢は耳かきでは取りにくいので綿棒を使います。綿棒の先から1センチちょっとのところを握って、耳の中をホジホジします。大抵はたいした手応えもなく綿棒が少し黄色くなるだけ。でも収穫を求めて2週間以上掃除をサボり勝負をかけます。うまく溜まってくれるとしっかりとした手応えが指先に伝わります。少しだけ痛みが伴うこともありますが、そんなことはおかまい無しで作業を続行します。
 すると茶色がかった黄色い固まりが綿棒にくっついてボロンと出て来ます。大きさ1~2mm。そんな時はおぉーっと小歓声を上げてしまい、ついでに家族に見せて回ります(まずほとんど嫌がられますが)。
 しばし固まりを眺め色を確かめ、綿棒の先でツンツンして粘り具合を確かめます。ええ感じの弾力です。感動です。
 カサカサ派の方はどう掃除してるんでしょうか。コメントでどうぞ。ちなみに我が家ではわたし以外皆カサカサ派ですが、いい大人が互いに掃除し合ってます。わたしはその仲間には入れてもらえません。

(検証)
 まず耳掃除前の心構えが他の部位(鼻、へそなど)の場合と違います。自分で垢が溜まってる様子が分かりません。鏡を使ってもまず見えることはないですね。耳鼻科にあるようなファイバースコープを耳掃除の為に買ったなんて人はまさか居ないでしょう。“体験”で記したようにうまく溜まってくれてるかどうかは掃除してみないと分かりません。そこに見えざるものを探すという冒険心探究心が生じます。この気持ちは、人間の動物としての本能です。
 次に掃除のテクニック習得に妙味があります。見えないところを掃除するわけですから、手先ならぬ指先の繊細なテクニックが必要とされます。ベト派の場合指先で握っている綿棒の部分を中心にグルッと棒先を耳奥の壁に沿うように回転させます。ここでわずかなグニョとした感触をピピッと感じ取れるような指先の修練が必要です。そのテクニックを身に付けていくと収穫時の達成感が増します。さらに技術向上への意欲も湧くことでしょう。
 そして収穫物を眺めたり突付いてみたりして鑑賞する、まったりしたひと時を味わいます。ティッシュペーパーの上にころがっている茶黄色い物体を、ただのカスだとは思えません。今さっきまで自分の体の一部だったのですから。別にほっといても悪さをするものでもなく、ただ耳奥に一生懸命へばり付いてただけの健気なやつです。我が身から産み出されたのだと思うと愛着も湧きますし、この後はゴミ箱に捨てるしかないと気付けば一抹の寂しさも感じざるを得ない。そんな心境になります。

(結論)
 耳掃除で大きな垢が取れると感動するのは、人が生まれながら持っている冒険心・探究心をかき立てられ、また経験と工夫により習得した技術により、自分の可愛い分身を産み出すことに達成感が得られること。一方すぐに別れなければならない定められた運命を寂しがることによるものだと、本考察では結論付けます。

(追記)
 ここまで読んで頂いて、あぁなるほどと感じた方、あなたベトベト派ですね?
 何言ってんのと感じた方、主流のカサカサ派でしょう。
 どうお感じなっても結構です。なにせここに書いたことは所詮“どうでもいいこと”なんですから。

ブログ主"trivialquestion" 敬白