第11問:わたしは何故いつまで経っても大人になれないのか
今回も結果的に番外編「シリアス」な疑問になってしまいました。疑問を感じた当初はフンと鼻で飛ばせる程度のものと思っていたのですが、途中からマジになってしまいました(^ ^;
「大人になる」っていったいどういうことなのでしょうか。わたしは未だ答えを見出せないまま毎日を過ごしています。
【体験】
わたしは学校を卒業し社会人になって初めて一人暮らしを経験しました。その際家を出る時になり、自由になれるという期待感と面倒なことも全て自分で行わなければならないという不安感とがない交ぜになり、これが大人になる第一歩ってことなのかと勝手に感じていました。
しかし、いざ一人暮らしに慣れてしまうとそれが日常のこととなり、自分が大人になったという実感はまるっきり湧いてきませんでした。日中は仕事をしているので学生時代とは違う環境ですが、家に帰ればTVを見、PCに向かい、ゲームに興じる自分は実家に居る頃の自分とまるで変わらない気がしました。
そういった私的時間の使い方もそうですが、自分が生きてく上での心構えであるとか、目標とする将来像(夢)であるとかが、社会で揉まれていくうちに、ある意味現実的なもの-逆に言えば人並みの平凡なもの-になっていくんだろうと思っていました。
しかし実際のところ、そういう部分もあまり変わっていません。日常生活に埋没している時に考えていることは今日明日のことで精一杯。時折数日の休暇が取れた時に改めて自分の将来を考えてみたりもするのですが、現実とのギャップがあり過ぎて「こんなこと考えてても何も変わらない」と自虐的な心境に陥ったことも一度や二度ではありません。
子供のような現実離れした、でも期待膨らむような夢も描けない。一方で現実を見た堅実な将来像も持てない。そんな暮らしの中には大人とか子供とかいう概念も存在していないような気がします。
いったいわたしは何を考えて生きていくべきなのでしょうか?
【検証】
大人とはどういうことなのでしょうか。子供でないことが大人である、とは言えません。また逆に、フリーターやニートであっても彼らが大人ではない、とも言えません。人それぞれの現在の客観的、社会的位置付けで、大人か子供かと二者択一で選別することは不可能です。
一般的には、収入を得ることをせず、親やそれに代わる人達に衣食住の面倒を見てもらっており、独立しての生活を営んではいない人を「子供である」と呼んでいるかと思います。しかし客観的はそういった状況にあるとしても、精神面では扶養されている者の方が扶養している者を支えている場合や、物事の道筋や考え方、自らの将来への展望などを確実に見据え、そのための準備段階にいることもあり得ます。従ってそれらを一概に「子供」という枠の中にはめることはできないということです。
一方自らの労働で生計を立て、独立して社会の中で生活を営んでいる人を「大人である」と一般的には言われています。ただその内実を見た時、何事につけ自分だけでは決断の付かない人(わたしがその一人です)、また全く逆に他人の迷惑をかえりみず独断で物事を進めようとする人、人の心の機微を感じ取る神経の欠けた人など、とても「大人」とは呼べないような思考、行動を取る人もいます。
「子供」と「大人」との分け目は、きっちりとした線ではなく、非常に曖昧かつ不安定な部分、例えて言うならばなだらかな山の頂上付近にある分水嶺のようなものだと考えられます。その時々の回りの状況、時間の経過の中で常に変化しているものではないでしょうか。
ただ、1つだけ明らかなことがあります。大人であろうと子供であろうと、人は本来社会的な生き物であって、一人では決して生き長らえては行けません。その意味で人とは、様々な人が入り混じる社会という、時には激しく波立つこともある流れの中で、周囲と馴染みまた周囲に自分の存在を認めてもらうということで、生きていく実感を感じ取っている存在であるということです。ただ何となく生きているだけと思っていても自らの回りをよく見渡してみると、自分を支えてくれている人、また自分が支えている人のいることに気付くこととと思います。
その気付き方、気付いている度合いが大人と子供を分ける分水嶺になるように思われます。
このように様々な観点から人というものを見つめた時、「大人」と「子供」という分け方に境界線を引くのは非常に難しいものがあります。もしかすると、その境界線の左右を常に行き来しているのが人という存在なのかもしれません。またはその境界線は自分で引くものであって、ある時は自分の右に書いて「子供」になろうとし、またある時は左に書いて「大人」になるなどし、自分の都合の良いように使い分けているのかもしれません。
【結論】
簡単に言えば、姿形、社会的位置がどうであろうと、自分のことを周囲という環境の中で1つの確立した存在として自覚できていること。それが「大人である」ということです。
だから、その時々で都合のいいように自分に言い訳をしつつ生きているわたしなぞは、まだまだ「大人」ではないということなのです。
【追記】
あらゆるジャンルの情報が、大海の波のように押し寄せてくる現代社会では、多くの人が自分の存在をちゃんと確認することさえ難しくなっている気がします。気の休まる空間、時間を社会があまり与えてくれない思いがします。
「癒し」がいっときのブームではなく、必要なものとして定着したのも、そんな社会環境のせいでしょうね。
「大人になる」っていったいどういうことなのでしょうか。わたしは未だ答えを見出せないまま毎日を過ごしています。
【体験】
わたしは学校を卒業し社会人になって初めて一人暮らしを経験しました。その際家を出る時になり、自由になれるという期待感と面倒なことも全て自分で行わなければならないという不安感とがない交ぜになり、これが大人になる第一歩ってことなのかと勝手に感じていました。
しかし、いざ一人暮らしに慣れてしまうとそれが日常のこととなり、自分が大人になったという実感はまるっきり湧いてきませんでした。日中は仕事をしているので学生時代とは違う環境ですが、家に帰ればTVを見、PCに向かい、ゲームに興じる自分は実家に居る頃の自分とまるで変わらない気がしました。
そういった私的時間の使い方もそうですが、自分が生きてく上での心構えであるとか、目標とする将来像(夢)であるとかが、社会で揉まれていくうちに、ある意味現実的なもの-逆に言えば人並みの平凡なもの-になっていくんだろうと思っていました。
しかし実際のところ、そういう部分もあまり変わっていません。日常生活に埋没している時に考えていることは今日明日のことで精一杯。時折数日の休暇が取れた時に改めて自分の将来を考えてみたりもするのですが、現実とのギャップがあり過ぎて「こんなこと考えてても何も変わらない」と自虐的な心境に陥ったことも一度や二度ではありません。
子供のような現実離れした、でも期待膨らむような夢も描けない。一方で現実を見た堅実な将来像も持てない。そんな暮らしの中には大人とか子供とかいう概念も存在していないような気がします。
いったいわたしは何を考えて生きていくべきなのでしょうか?
【検証】
大人とはどういうことなのでしょうか。子供でないことが大人である、とは言えません。また逆に、フリーターやニートであっても彼らが大人ではない、とも言えません。人それぞれの現在の客観的、社会的位置付けで、大人か子供かと二者択一で選別することは不可能です。
一般的には、収入を得ることをせず、親やそれに代わる人達に衣食住の面倒を見てもらっており、独立しての生活を営んではいない人を「子供である」と呼んでいるかと思います。しかし客観的はそういった状況にあるとしても、精神面では扶養されている者の方が扶養している者を支えている場合や、物事の道筋や考え方、自らの将来への展望などを確実に見据え、そのための準備段階にいることもあり得ます。従ってそれらを一概に「子供」という枠の中にはめることはできないということです。
一方自らの労働で生計を立て、独立して社会の中で生活を営んでいる人を「大人である」と一般的には言われています。ただその内実を見た時、何事につけ自分だけでは決断の付かない人(わたしがその一人です)、また全く逆に他人の迷惑をかえりみず独断で物事を進めようとする人、人の心の機微を感じ取る神経の欠けた人など、とても「大人」とは呼べないような思考、行動を取る人もいます。
「子供」と「大人」との分け目は、きっちりとした線ではなく、非常に曖昧かつ不安定な部分、例えて言うならばなだらかな山の頂上付近にある分水嶺のようなものだと考えられます。その時々の回りの状況、時間の経過の中で常に変化しているものではないでしょうか。
ただ、1つだけ明らかなことがあります。大人であろうと子供であろうと、人は本来社会的な生き物であって、一人では決して生き長らえては行けません。その意味で人とは、様々な人が入り混じる社会という、時には激しく波立つこともある流れの中で、周囲と馴染みまた周囲に自分の存在を認めてもらうということで、生きていく実感を感じ取っている存在であるということです。ただ何となく生きているだけと思っていても自らの回りをよく見渡してみると、自分を支えてくれている人、また自分が支えている人のいることに気付くこととと思います。
その気付き方、気付いている度合いが大人と子供を分ける分水嶺になるように思われます。
このように様々な観点から人というものを見つめた時、「大人」と「子供」という分け方に境界線を引くのは非常に難しいものがあります。もしかすると、その境界線の左右を常に行き来しているのが人という存在なのかもしれません。またはその境界線は自分で引くものであって、ある時は自分の右に書いて「子供」になろうとし、またある時は左に書いて「大人」になるなどし、自分の都合の良いように使い分けているのかもしれません。
【結論】
簡単に言えば、姿形、社会的位置がどうであろうと、自分のことを周囲という環境の中で1つの確立した存在として自覚できていること。それが「大人である」ということです。
だから、その時々で都合のいいように自分に言い訳をしつつ生きているわたしなぞは、まだまだ「大人」ではないということなのです。
【追記】
あらゆるジャンルの情報が、大海の波のように押し寄せてくる現代社会では、多くの人が自分の存在をちゃんと確認することさえ難しくなっている気がします。気の休まる空間、時間を社会があまり与えてくれない思いがします。
「癒し」がいっときのブームではなく、必要なものとして定着したのも、そんな社会環境のせいでしょうね。