第7問:ポテチを食べだすと何故やめられなくなってしまうのか
スナックフード、ジャンクフード。お好きな方、多いですよね。わたしも小学校時代に学校近くの駄菓子屋で、初めて自分の小遣いで揚げ煎餅を買ってから、様々なスナックフードを食べてきました。体の1/5位はそれらで出来上がったのかもしれません。
今回はその中でも皆に一番愛されてると思われるポテトチップス(通称ポテチ)に関しての疑問です。
(今回は“チップスター”“プリングルス”等の整形されたものは考察の対象外とさせて頂きます)
【体験】
わたしは湖池屋のポテチをよく買います。カルビーやスーパー等のオリジナル商品でもさほど違わないのですが、何故か湖池屋ブランドに惹かれてしまいます。漢字の会社名が老舗の雰囲気を持つからでしょうか。
キッチンの戸棚の1つにほとんどいつも新品が一袋入っていて、家でくつろぐ休日の午後に、DVDを見ながら、本を読みながら、PCに向かいながらパリパリと食します。
うまいです。それ以外の言葉、浮かびません。
でも近頃だいぶ波立ってきたお腹周りの肉付きを気にしていますので、袋半分までと心に決め、手元にはパチンの袋留めを既に用意しています。
DVDの1チャプター、本の一章を終える頃、時間にして30分程度経過後には、ポテチも袋半分になりました。
最初から決めていたので一旦袋にパチンを掛けます。
しかしふと右手を見ると、塩と油の絡みついた指がええ感じに光っています。そして残り味を、愛おしむように親指から順に舐って行きます。もう堪りません。初めてのデートの後、彼女の細いすべすべした手を握った自分の手を鼻に近づけ、ほんのりとした残り香を嗅いだ時のような気分です。記憶中枢がバリバリと刺激されます。
あと1枚だけと思い、パチンを開けます。しかしそこでもう勝負は決しています。1枚で終わるわけがありません。「次に大きい一片をつかみ上げたら終わり」と思いつつ、気付いた時には、袋の底にカスが残っているだけです。そして袋の淵を大きく開けた口につけ逆さにし、流し込んで終了です。
あぁまたやってしまった、完食。
【検証】
まずは味、食感について考えます。
ポテチには、のり塩やバーベキュー、ガーリックなど色々な味の種類がありますが、ベーシックは全て塩味です。ベースとなるチップスの原料はじゃがいもですのででん粉質です。でん粉質は唾液に含まれる消化酵素アミラーゼによって加水分解され糖質に変わります。大雑把に言えば甘味になるのです。先に感じた塩気はこの甘さで中和され、次にポテチを受け入れる準備が出来ていると考えられます。しょっぱさが寄せる波なら甘さは引く波、海辺のようです。これは飽きないはずですね。
第一の理由は食べ続けることを促す絶妙な味のタッグマッチにあると言えるでしょう。
そして勿論その食感にも大きな理由があります。あのパリパリ感は煎餅のそれとも違いますし、カールなどの整形されたスナック菓子とも違います。硬すぎず柔らかすぎず、口の中に入れてもすぐにと溶けてしまうわけでもなく、一時(いっとき)の間パリパリ感が味わえます。その感じって何かに似ていると思われませんか?わたしはこう感じます。荷物梱包用の緩衝材、そう「プチプチ」と言われているあれを潰す感じにとても良く似ていると。あれも潰れれにくくもなく、また潰れ易くもないですよね。その必要な力加減が気持ちいい所をついているのです。
そして最後に-おそらくこれが今回の疑問検証にとって一番重要なことと思われるのですが-袋に入っているポテチの一片一片どれを取っても、どれ1つとして同じ形のものは2つとないということです。
一片一片ずつ丁寧に袋から出して食べる方、片方の手でガサッとまとめて出しもう一方の手でそこからつまむ方。方法は人それぞれでしょうが、見た目も食べ応えも満足行くポテチばかり入っているわけはありません。半分やそれ以下に割れたもの、著しく反り上がっているもの、端が揚がり過ぎてこげ茶色になっているもの等々。袋から取り出す度に新しい形との出会いがあります。そしてもっとセクシーな、もっとダイナミックな形があるだろうという期待感、好奇心が呼び起こされます。
このポテチ一片毎の大きさと形のランダムさがわたしを完食にまで至らす大きな理由なのです。
【結論】
ポテチは、その味、食感、形という3つの側面において、舌と心を潤し惑わし、結果として完食を促す絶妙な作りになっているということです。
それが恣意的なものなのかそうでないのかは不明です。
【追記】
この考察をするため、この1週間毎日1袋ずつポテチを完食してしまいました。
うぷっ!
さすがにもうあと1ヶ月位は食べる気になりそうもありません。
今回はその中でも皆に一番愛されてると思われるポテトチップス(通称ポテチ)に関しての疑問です。
(今回は“チップスター”“プリングルス”等の整形されたものは考察の対象外とさせて頂きます)
【体験】
わたしは湖池屋のポテチをよく買います。カルビーやスーパー等のオリジナル商品でもさほど違わないのですが、何故か湖池屋ブランドに惹かれてしまいます。漢字の会社名が老舗の雰囲気を持つからでしょうか。
キッチンの戸棚の1つにほとんどいつも新品が一袋入っていて、家でくつろぐ休日の午後に、DVDを見ながら、本を読みながら、PCに向かいながらパリパリと食します。
うまいです。それ以外の言葉、浮かびません。
でも近頃だいぶ波立ってきたお腹周りの肉付きを気にしていますので、袋半分までと心に決め、手元にはパチンの袋留めを既に用意しています。
DVDの1チャプター、本の一章を終える頃、時間にして30分程度経過後には、ポテチも袋半分になりました。
最初から決めていたので一旦袋にパチンを掛けます。
しかしふと右手を見ると、塩と油の絡みついた指がええ感じに光っています。そして残り味を、愛おしむように親指から順に舐って行きます。もう堪りません。初めてのデートの後、彼女の細いすべすべした手を握った自分の手を鼻に近づけ、ほんのりとした残り香を嗅いだ時のような気分です。記憶中枢がバリバリと刺激されます。
あと1枚だけと思い、パチンを開けます。しかしそこでもう勝負は決しています。1枚で終わるわけがありません。「次に大きい一片をつかみ上げたら終わり」と思いつつ、気付いた時には、袋の底にカスが残っているだけです。そして袋の淵を大きく開けた口につけ逆さにし、流し込んで終了です。
あぁまたやってしまった、完食。
【検証】
まずは味、食感について考えます。
ポテチには、のり塩やバーベキュー、ガーリックなど色々な味の種類がありますが、ベーシックは全て塩味です。ベースとなるチップスの原料はじゃがいもですのででん粉質です。でん粉質は唾液に含まれる消化酵素アミラーゼによって加水分解され糖質に変わります。大雑把に言えば甘味になるのです。先に感じた塩気はこの甘さで中和され、次にポテチを受け入れる準備が出来ていると考えられます。しょっぱさが寄せる波なら甘さは引く波、海辺のようです。これは飽きないはずですね。
第一の理由は食べ続けることを促す絶妙な味のタッグマッチにあると言えるでしょう。
そして勿論その食感にも大きな理由があります。あのパリパリ感は煎餅のそれとも違いますし、カールなどの整形されたスナック菓子とも違います。硬すぎず柔らかすぎず、口の中に入れてもすぐにと溶けてしまうわけでもなく、一時(いっとき)の間パリパリ感が味わえます。その感じって何かに似ていると思われませんか?わたしはこう感じます。荷物梱包用の緩衝材、そう「プチプチ」と言われているあれを潰す感じにとても良く似ていると。あれも潰れれにくくもなく、また潰れ易くもないですよね。その必要な力加減が気持ちいい所をついているのです。
そして最後に-おそらくこれが今回の疑問検証にとって一番重要なことと思われるのですが-袋に入っているポテチの一片一片どれを取っても、どれ1つとして同じ形のものは2つとないということです。
一片一片ずつ丁寧に袋から出して食べる方、片方の手でガサッとまとめて出しもう一方の手でそこからつまむ方。方法は人それぞれでしょうが、見た目も食べ応えも満足行くポテチばかり入っているわけはありません。半分やそれ以下に割れたもの、著しく反り上がっているもの、端が揚がり過ぎてこげ茶色になっているもの等々。袋から取り出す度に新しい形との出会いがあります。そしてもっとセクシーな、もっとダイナミックな形があるだろうという期待感、好奇心が呼び起こされます。
このポテチ一片毎の大きさと形のランダムさがわたしを完食にまで至らす大きな理由なのです。
【結論】
ポテチは、その味、食感、形という3つの側面において、舌と心を潤し惑わし、結果として完食を促す絶妙な作りになっているということです。
それが恣意的なものなのかそうでないのかは不明です。
【追記】
この考察をするため、この1週間毎日1袋ずつポテチを完食してしまいました。
うぷっ!
さすがにもうあと1ヶ月位は食べる気になりそうもありません。
第6問:自分の写真を見て「こんな顔だったっけ?」と何故思うのか
【体験】
人は1日のうちにどの位自分の顔を見ているのでしょう。鏡で見る場合、延べ時間としては普段お化粧をする女性の方が圧倒的に長いでしょうが、回数としては男性もそれ程少なくはないと思われます。このように人は多くの場合、鏡を使って自分というものを認識しています。
かく言うわたしも1日に10回近く鏡で自分の顔を見てると思います。ナルシストではありませんが、顔色とか髪型とかを見たり、なんとなくパシパシと頬を叩いて気合を入れたりしています。そんな具合に自分の顔がどんなものか毎日確認しています。次第に老けていくことだけは分かりますが、あまり変わり映えしないものです。
ある時友人が写メールを送ってきました。いつの間に撮られたのか分かりませんが、わたしがPCに向かっている様子を左斜め前から写したものでした。「こっそり撮ってゴメンネ」みたいな文が付いてました。友人は遊び心で撮ったものでしたが、わたしには少々衝撃的でした。いつも鏡で見る自分とはかなり違うのです。良いとか悪いとかではなく、単純に「自分てこんな顔だったっけ?」と思わず顔をさすりました。確かにそんな顔だったようには思うのですが、目とか鼻とかのパーツは同じでもレイアウトに少々違和感があったように思います。無理やり例えれば、もし自分に双子の兄弟がいたらこんな感じなんだろうなと。
家に帰り、比較的最近の記念写真や、パスポート、運転免許証の写真を改めて見てみました。うーん、それぞれ微妙に違うのですが、鏡の中の自分よりも送られてきた写メールの方に近いような気がします。
鏡の中の自分、写真の中の自分。どちらがより正しい自分を映し出しているのでしょうか?いや、両方とも違うのかもしれません。本当の自分とは..妙に気になります。
【検証】
まず前提として確認しておきたい大事なことがあります。それは、自分の生身の姿を自分の目で見ることは永遠に不可能だということです。鏡にしろ、写真にしろ、映像にしろ、何らかの媒体を通した状態で見ることになります。臨死体験をし自分の姿を外から見たという方がいるそうですが、現実的には意識不明の状態であったはずなので一先ず除外させて頂きます。
では通常自分だと思っている顔とはどういうものかというと、一番回数の多い鏡の中に映った自分だと思われます。
何故かと言いますと、ただ回数が多いということ以上に、自分を認識しようとする意識が一番高い時であり、また自分が他人からどう見えているかに注意が行く場面だからなのです。顔形にダメ出しをし、もうちょっと笑顔にしようとか髪の乱れなどを直し、「これで良し!」と自らOKを出している状態です。
しかしそれが虚像であることはすぐにお分かりになるでしょう。鏡に映った時点で既に左右逆転しているのです。
パーツは一緒でもレイアウトは違うのです。人の顔は正確な左右対称には出来ていません。前髪を左右どちらかに流している場合はさらに違う印象になるでしょう。鏡の中のあなたは、もう既にあなたそのものではないのです。
話を鏡から離しましょう。
人は社会的な生き物です。他人の目を気にするのは当然のことです。しかしそれ以上に気にしているのは、他の人の姿形、言動です。人は社会の輪の中にいる以上、自分が一番快適に感じるよう、常に周囲に気を配り自分がどう振舞うべきかをコントロールしています。社会の輪の中におかれた人は、輪の変動により動かされます。これを自意識の他律化現象と呼びます。
この状態で取られたわたしの姿が、【体験】で記した写メールの中のわたしなのです。旅の記念写真、パスポート、免許証などのいずれもが、この他律化された状態でのわたしだったのです。
【結論】
自分の写真を見て違和感を覚えるのは、自分だと思っている鏡の中の人物、つまり自律状態の自分を本物だと認識しているためです。それも左右逆転してる自分です。
しかしより客観的なのは、他律化した時の人物、つまり写メールされた自分の方です。
どちらを本当の自分とするかは、難問です。答えは十人十色でしょう。皆さんご自身の判断にお任せするしかありません。
【追記】
「人の振り見て我が振り直せ」
とはよく言ったもんです。
あなたが見ているその人の姿は、その人自身には見えていないのです。そしてその逆もまた真なのです。
まぁどんな姿を見られたっていいじゃないですか。あなたを見ているその人だって、自分のことが分かっていないのですから。わたしそうは思います。
人は1日のうちにどの位自分の顔を見ているのでしょう。鏡で見る場合、延べ時間としては普段お化粧をする女性の方が圧倒的に長いでしょうが、回数としては男性もそれ程少なくはないと思われます。このように人は多くの場合、鏡を使って自分というものを認識しています。
かく言うわたしも1日に10回近く鏡で自分の顔を見てると思います。ナルシストではありませんが、顔色とか髪型とかを見たり、なんとなくパシパシと頬を叩いて気合を入れたりしています。そんな具合に自分の顔がどんなものか毎日確認しています。次第に老けていくことだけは分かりますが、あまり変わり映えしないものです。
ある時友人が写メールを送ってきました。いつの間に撮られたのか分かりませんが、わたしがPCに向かっている様子を左斜め前から写したものでした。「こっそり撮ってゴメンネ」みたいな文が付いてました。友人は遊び心で撮ったものでしたが、わたしには少々衝撃的でした。いつも鏡で見る自分とはかなり違うのです。良いとか悪いとかではなく、単純に「自分てこんな顔だったっけ?」と思わず顔をさすりました。確かにそんな顔だったようには思うのですが、目とか鼻とかのパーツは同じでもレイアウトに少々違和感があったように思います。無理やり例えれば、もし自分に双子の兄弟がいたらこんな感じなんだろうなと。
家に帰り、比較的最近の記念写真や、パスポート、運転免許証の写真を改めて見てみました。うーん、それぞれ微妙に違うのですが、鏡の中の自分よりも送られてきた写メールの方に近いような気がします。
鏡の中の自分、写真の中の自分。どちらがより正しい自分を映し出しているのでしょうか?いや、両方とも違うのかもしれません。本当の自分とは..妙に気になります。
【検証】
まず前提として確認しておきたい大事なことがあります。それは、自分の生身の姿を自分の目で見ることは永遠に不可能だということです。鏡にしろ、写真にしろ、映像にしろ、何らかの媒体を通した状態で見ることになります。臨死体験をし自分の姿を外から見たという方がいるそうですが、現実的には意識不明の状態であったはずなので一先ず除外させて頂きます。
では通常自分だと思っている顔とはどういうものかというと、一番回数の多い鏡の中に映った自分だと思われます。
何故かと言いますと、ただ回数が多いということ以上に、自分を認識しようとする意識が一番高い時であり、また自分が他人からどう見えているかに注意が行く場面だからなのです。顔形にダメ出しをし、もうちょっと笑顔にしようとか髪の乱れなどを直し、「これで良し!」と自らOKを出している状態です。
しかしそれが虚像であることはすぐにお分かりになるでしょう。鏡に映った時点で既に左右逆転しているのです。
パーツは一緒でもレイアウトは違うのです。人の顔は正確な左右対称には出来ていません。前髪を左右どちらかに流している場合はさらに違う印象になるでしょう。鏡の中のあなたは、もう既にあなたそのものではないのです。
話を鏡から離しましょう。
人は社会的な生き物です。他人の目を気にするのは当然のことです。しかしそれ以上に気にしているのは、他の人の姿形、言動です。人は社会の輪の中にいる以上、自分が一番快適に感じるよう、常に周囲に気を配り自分がどう振舞うべきかをコントロールしています。社会の輪の中におかれた人は、輪の変動により動かされます。これを自意識の他律化現象と呼びます。
この状態で取られたわたしの姿が、【体験】で記した写メールの中のわたしなのです。旅の記念写真、パスポート、免許証などのいずれもが、この他律化された状態でのわたしだったのです。
【結論】
自分の写真を見て違和感を覚えるのは、自分だと思っている鏡の中の人物、つまり自律状態の自分を本物だと認識しているためです。それも左右逆転してる自分です。
しかしより客観的なのは、他律化した時の人物、つまり写メールされた自分の方です。
どちらを本当の自分とするかは、難問です。答えは十人十色でしょう。皆さんご自身の判断にお任せするしかありません。
【追記】
「人の振り見て我が振り直せ」
とはよく言ったもんです。
あなたが見ているその人の姿は、その人自身には見えていないのです。そしてその逆もまた真なのです。
まぁどんな姿を見られたっていいじゃないですか。あなたを見ているその人だって、自分のことが分かっていないのですから。わたしそうは思います。
第5問:初詣で、前の人が拝んでいる時間が何故あんなに長く感じるのか
明けましておめでとうございます。
新春にちなみまして、お正月にまつわる疑問を取り上げました。
【体験】
わたしはこの数年正月3が日には神社にお参りに行っていません。あの人込み、そして賽銭箱まで延々と続く行列に耐え切れません。そして一番の理由は毎年繰り返し同じように感じていた、今からお話しする体験にあります。
わたしの正月は、帰省をし元旦に家族で近くの神社に行くことが恒例でした。その神社というのが10年程前に新築された紅白の色も鮮やかな社殿で、また何十台という駐車スペースを持つ地元で一番大きな神社です。こと正月においては人口密度のとても高い境内でした。
人込み、行列はまだ気の紛らわしようがあります。参道の両側に並ぶ正月にしか見ない屋台(飴細工、カルメ焼き、生産国不明のあやしげなおもちゃ屋など)を冷やかしたり、晴着姿の女性に目を見はったり。ちょっと遠くで古いお守りやお札を焼いている煙が上がっているのを見るのもお正月ならではです。そこにいる人達皆が善人に見える、とても貴重な時間です。
屋台の軒並みを過ぎ、さらに進んで大きな鈴を2、3度鳴らした後は、2メートル程でいよいよ最前列です。財布から大きめの銀色硬貨を1つ取り出し、いつ最前列に出てもよいように備えます。後1人。前には、明らかにフェイクと分かるファーを巻き付け、多分ソフトラムの赤いレザーコートを着た中年女性が、最前列に来てようやく小銭入れをまさぐっています。しばし迷いそして意を決したように硬貨を1つ取りポイッと投げ拝み始めました。それに合わせわたしも硬貨を投げる体勢に入ります。しかし...
な、長ーいッ、このひと 拝む一連の時間が!
同じように待ち切れない人がいるらしく、わたしと女性の頭を超えて硬貨が宙を飛んで行きます。
待つこと体感時間30秒。ようやく女性がお辞儀から直りフェイクファーをなびかせて左へと抜けてくれました。やっとわたしの番です。が、もう既に一仕事終えたような気分です。わたしは硬貨をゆっくり下手投げで放り、心に決めていた願い事の中の1つだけを頭の中で神様にお伝えし、さっさと左へと抜けました。
【検証】
まず実際に女性が拝むために掛けた一連の行動時間を記憶をたどって推測してみましょう。バッグから小銭入れを取り出しチャックを開けるまでが4~5秒、適当な硬貨を探すのに3~4秒、小銭入れをバッグにしまうまで3~4秒。ここまでで既に10~13秒、最短と考えて10秒とします。
次に硬貨を投げる時間は誤差範囲なので無視して、拝む時間を考えます。一般的に他人の動作をじっと見て待つ体感時間は、実時間の3倍程度のようです。このことを体感時間のスリップ現象と呼びます。自分で行動している時間とそれを傍から第3者的に待つ時間には、それほど大きな差があるのです。体感時間30秒と書きましたので実時間は10秒と考えましょう。
小銭を取り出すのと拝むのと両方合わせて実時間20秒と推測されます。20秒を分かり易い例に例えると、新聞の文字を普通の速度で読んで約200字読めます。20行程度です。小学校低学年生徒の国語の朗読なら、50文字位は元気よく読んでくれるでしょう。
お暇でしたらご自分で20秒のうちに何が出来るか計ってみてください。長いような短いような微妙な秒数であることが実感できるでしょう。初詣の際には、その秒数を硬貨を握ったままじっと待ってなくてはならないのです。
もう1つ明らかにしておく必要のある事柄があります。むしろこちらの方が重要かと思われます。それは、その女性の放った硬貨の色と拝む時間が適正なバランスになっていないということです。
わたしの目に狂いがなければ、くすんだ茶色の硬貨、つまり10円玉だったはずです。お賽銭の多少で神様がご利益に差を付けることはないのでしょうが、果たして10秒の間にいったいいくつの願い事をしたのでしょうか?
「1年間家族皆健康でありますように」
「娘がちゃんと就職できますように」
「・・・」
「・・」
「・」
声に出さないお願いなので10秒で5つは可能ではないでしょうか。それはちょっと多すぎませんか?神様にもさすがにキャパシティってものがあると思うのですが。
いやでも、ひょっとするとわたしと同じようにたった1つの願い事だったのだが、どうしても成就したく5回繰り返したのかもしれません。そこんとこはご本人にしか分かりません。
【結論】
初詣で前の人が拝んでいる時間があんなに長く感じるのは、その方の願い事の数、重さが他人のわたしには分からないからなのです。もしわたしが超能力者で、これと思った人の心のうちを悟ることができたなら、長ーいとか欲張りだとかは思わなかったでしょう。知らぬ人とはいえ、ちょっとイラついたわたしの度量が狭かったのでしょう。
「袖振り合うも多少の縁」と申します。これから初詣にお出かけになる方、もうおしくら饅頭のような混雑はないでしょうが、前の方の参拝が長いなと思われても、我慢しましょう。そこでは皆が善人になっているのですから。
【追記】
正しいお参りの仕方が神社オンラインネットワークに説明がありましたので、一部引用させて頂きます。
賽銭箱に賽銭を入れたあとに、二拝二拍手一拝の作法にて拝礼します。ちなみに二拝とは、拝(深いおじぎ)を二回することをいい、二拍手とは拍手を二回することをいいます。 これが参拝の基本作法ですが、二拝二拍手一拝の前後に軽い礼を加えていただくと、いっそう丁重な作法になります
この作法で行うともっと時間掛かるかもしれません。お試しになる際は、参拝ピークの過ぎた1月中旬以降がよろしいかと存じます。
新春にちなみまして、お正月にまつわる疑問を取り上げました。
【体験】
わたしはこの数年正月3が日には神社にお参りに行っていません。あの人込み、そして賽銭箱まで延々と続く行列に耐え切れません。そして一番の理由は毎年繰り返し同じように感じていた、今からお話しする体験にあります。
わたしの正月は、帰省をし元旦に家族で近くの神社に行くことが恒例でした。その神社というのが10年程前に新築された紅白の色も鮮やかな社殿で、また何十台という駐車スペースを持つ地元で一番大きな神社です。こと正月においては人口密度のとても高い境内でした。
人込み、行列はまだ気の紛らわしようがあります。参道の両側に並ぶ正月にしか見ない屋台(飴細工、カルメ焼き、生産国不明のあやしげなおもちゃ屋など)を冷やかしたり、晴着姿の女性に目を見はったり。ちょっと遠くで古いお守りやお札を焼いている煙が上がっているのを見るのもお正月ならではです。そこにいる人達皆が善人に見える、とても貴重な時間です。
屋台の軒並みを過ぎ、さらに進んで大きな鈴を2、3度鳴らした後は、2メートル程でいよいよ最前列です。財布から大きめの銀色硬貨を1つ取り出し、いつ最前列に出てもよいように備えます。後1人。前には、明らかにフェイクと分かるファーを巻き付け、多分ソフトラムの赤いレザーコートを着た中年女性が、最前列に来てようやく小銭入れをまさぐっています。しばし迷いそして意を決したように硬貨を1つ取りポイッと投げ拝み始めました。それに合わせわたしも硬貨を投げる体勢に入ります。しかし...
な、長ーいッ、このひと 拝む一連の時間が!
同じように待ち切れない人がいるらしく、わたしと女性の頭を超えて硬貨が宙を飛んで行きます。
待つこと体感時間30秒。ようやく女性がお辞儀から直りフェイクファーをなびかせて左へと抜けてくれました。やっとわたしの番です。が、もう既に一仕事終えたような気分です。わたしは硬貨をゆっくり下手投げで放り、心に決めていた願い事の中の1つだけを頭の中で神様にお伝えし、さっさと左へと抜けました。
【検証】
まず実際に女性が拝むために掛けた一連の行動時間を記憶をたどって推測してみましょう。バッグから小銭入れを取り出しチャックを開けるまでが4~5秒、適当な硬貨を探すのに3~4秒、小銭入れをバッグにしまうまで3~4秒。ここまでで既に10~13秒、最短と考えて10秒とします。
次に硬貨を投げる時間は誤差範囲なので無視して、拝む時間を考えます。一般的に他人の動作をじっと見て待つ体感時間は、実時間の3倍程度のようです。このことを体感時間のスリップ現象と呼びます。自分で行動している時間とそれを傍から第3者的に待つ時間には、それほど大きな差があるのです。体感時間30秒と書きましたので実時間は10秒と考えましょう。
小銭を取り出すのと拝むのと両方合わせて実時間20秒と推測されます。20秒を分かり易い例に例えると、新聞の文字を普通の速度で読んで約200字読めます。20行程度です。小学校低学年生徒の国語の朗読なら、50文字位は元気よく読んでくれるでしょう。
お暇でしたらご自分で20秒のうちに何が出来るか計ってみてください。長いような短いような微妙な秒数であることが実感できるでしょう。初詣の際には、その秒数を硬貨を握ったままじっと待ってなくてはならないのです。
もう1つ明らかにしておく必要のある事柄があります。むしろこちらの方が重要かと思われます。それは、その女性の放った硬貨の色と拝む時間が適正なバランスになっていないということです。
わたしの目に狂いがなければ、くすんだ茶色の硬貨、つまり10円玉だったはずです。お賽銭の多少で神様がご利益に差を付けることはないのでしょうが、果たして10秒の間にいったいいくつの願い事をしたのでしょうか?
「1年間家族皆健康でありますように」
「娘がちゃんと就職できますように」
「・・・」
「・・」
「・」
声に出さないお願いなので10秒で5つは可能ではないでしょうか。それはちょっと多すぎませんか?神様にもさすがにキャパシティってものがあると思うのですが。
いやでも、ひょっとするとわたしと同じようにたった1つの願い事だったのだが、どうしても成就したく5回繰り返したのかもしれません。そこんとこはご本人にしか分かりません。
【結論】
初詣で前の人が拝んでいる時間があんなに長く感じるのは、その方の願い事の数、重さが他人のわたしには分からないからなのです。もしわたしが超能力者で、これと思った人の心のうちを悟ることができたなら、長ーいとか欲張りだとかは思わなかったでしょう。知らぬ人とはいえ、ちょっとイラついたわたしの度量が狭かったのでしょう。
「袖振り合うも多少の縁」と申します。これから初詣にお出かけになる方、もうおしくら饅頭のような混雑はないでしょうが、前の方の参拝が長いなと思われても、我慢しましょう。そこでは皆が善人になっているのですから。
【追記】
正しいお参りの仕方が神社オンラインネットワークに説明がありましたので、一部引用させて頂きます。
賽銭箱に賽銭を入れたあとに、二拝二拍手一拝の作法にて拝礼します。ちなみに二拝とは、拝(深いおじぎ)を二回することをいい、二拍手とは拍手を二回することをいいます。 これが参拝の基本作法ですが、二拝二拍手一拝の前後に軽い礼を加えていただくと、いっそう丁重な作法になります
この作法で行うともっと時間掛かるかもしれません。お試しになる際は、参拝ピークの過ぎた1月中旬以降がよろしいかと存じます。
年末のご挨拶
読者登録をして頂いた"airccさん" "blog-y-yさん"を始め、“モリタのトリビア的疑問100の考察”を訪れて頂いた方々、いつもありがとうございます。
勝手な論理を振り回して書いているように見える当ブログですが、始める当初は手探り状態でした。
始めるからには多くの方に見て頂きたいし、かと言って面白可笑しいでっち上げ作文を載せても自分の気分が悪くなるだけなので、実体験を元にわたしの稚拙な考察をお見せしているつもりです。
まだたった4問しか取り上げていませんが、皆さんの中のお一人でもいいので共感して頂ける“どうでもいい、けど気に成り出すと気になって仕方がない”疑問をこれからも取り上げていこうと考えています。
来年の皆さんのご健康とご活躍を記念いたしまして、最後に一句捻りましてご挨拶に代えさせて頂きます。
「一時(いっとき)の心の凝りをトリビアる」
よい年をお迎え下さい。
勝手な論理を振り回して書いているように見える当ブログですが、始める当初は手探り状態でした。
始めるからには多くの方に見て頂きたいし、かと言って面白可笑しいでっち上げ作文を載せても自分の気分が悪くなるだけなので、実体験を元にわたしの稚拙な考察をお見せしているつもりです。
まだたった4問しか取り上げていませんが、皆さんの中のお一人でもいいので共感して頂ける“どうでもいい、けど気に成り出すと気になって仕方がない”疑問をこれからも取り上げていこうと考えています。
来年の皆さんのご健康とご活躍を記念いたしまして、最後に一句捻りましてご挨拶に代えさせて頂きます。
「一時(いっとき)の心の凝りをトリビアる」
よい年をお迎え下さい。
第4問:あの人と2人だけになると何故居心地が悪いのか
【体験】
わたしたちは毎日職場や学校で同じ人たちと顔を突き合わせ、会話をしています。家で家事や自営で仕事をしている場合も他人との接触なしでは暮らしは成り立っていないでしょう。毎日顔を見る人たちが多くても少なくても、その中には気軽に接せられる人もいればそうでない人もいます。今回はその人への好感度の高低とはちょっと違う次元での実体験の話です。
わたしの職場は部署総員14名の中規模なところです。わたしは幾度かの異動を繰り返しながらもこの部署に舞い戻り、通算すると10年程ここに勤務しています。
その10年間変わらずにここに居続けている方がいます。仮にKさんと呼ぶことにします。Kさんは15年間職場を変わっていません。特殊な技能を持っているので異動させると業務が成り立ちにくいためで、他に引き取り手がいないのではありません。悪態をついたりネガティヴなことばかり言うなどの嫌われやすいタイプでもないとお断りしておきます。
Kさんと一緒の職場にいれば、昼食時や飲み会の帰りなどに2人だけという機会がまま訪れます。長年の付き合いでKさんの趣味や話の志向はほぼ把握しているつもりです。最近のニュースやKさんの志向に沿った話題を振るようにしています。普通そういう場合、互いの発言が糸を織り成すように交わされ編み上げられ、例えくだらない内容であっても一つの心地良い空間が形成されるものです。
しかしKさんとの場合はそういったものが形成されることが極めて少ないのです。話題は中途半端に途切れ、また全く脈絡のない発言がKさんから放射されたりします。となると黙っているのも、発言するのも躊躇われるこう着状態に陥り「早く時間が過ぎて欲しい」という居たたまれない気分になります。非常に居心地が悪いです。
Kさんからの放射あるいは反応は、当初わたしが想定していた範囲を超えてしまっているのです。
例えばこんなやり取りです。まずわたしが振ります。
「最近、簡単に人を殺す奴がいて恐いよねぇ」
「そう、キレる人多いんですよ。うちの近くのコンビニの前にすぐキレそうなのがたむろしてるから困る」
「小学校とかで不審者情報をメールで親に送ってるところもあるらしいよ」
「へぇー、小さい子を持っている人は大変ですね」
などと話をした直後に、突如
「あれってどう思います?」
という質問がKさんから発せられます。どれを指して「あれ」と言っているのか分かりません。不審者のことではないらしく、戸惑いを隠しそのまま話を聞きます。すると「あれ」とはAppleのiPodminiのことだったりします。確かにKさん好みの話題ではありますが、殺人事件とのつながりは全く見えません。居心地悪さレベル1です。
その後iPodminiのKさんなりの評価、動向などが語られます。自分のテリトリーですから情報量には事欠きません。こちらは適宜相槌を打ちながら聞き続けます。そしてその会話はKさんが予め用意していたと思われる結論(オチ)で終了します。「まだ“買い”の時期じゃない」と。ただ苦笑い..居心地悪さレベル2です。
固まり掛けた空気の中、わたしが思い付く話題はもう明日の天気とか相変わらずこの街は人が多いねとか、いつどんな方向にKさんが放射を始めても困らないように気を使います。もしくはダンマリを決め込みます。人との交錯、融和に身を置きたいわたしには最悪の状況です。しかしKさんは表情も変えずお絞りを使って折紙の真似などしています。ハァ-ッ、居心地悪さレベル3です。MAXです。
悪い人ではありませんし、一般常識も備えている方です。多人数でいる時はその場に馴染み、融合の輪の中にいるように思われます。しかし2人になると状況が変わるのです。
ちなみに同じ職場にいて気心の知れている同僚2名にこの状況につき聴取を行いました。程度の差こそあれ、2人とも同じように感じていることが判明しました。
【検証】
まずKさんの職場における仕事のスタイルについて触れる必要があるでしょう。先程Kさんが特殊な技能を持っていると記しましたが、その仕事は一人で黙々とあるものの製作(編集だとも言えます)に勤しむものです。知識と技術、そして感性と根気の要る仕事。Kさんは仕事の結果に対し評価を受けることこそあれ、プロセスについては評価は勿論、助言を得ることなど殆どありません。自らのみで高みに昇っていく努力を費やしています。仕事においては孤高の位置にいると言えます。
一方プライベートでは、だいぶ前のことになりますが異性との関係で深い痛手をおったことがあります。わたしは周囲から断片的に聞いただけなのですが、確かにKさんはトレードマークだった眼鏡を外してコンタクトにし、高価ではないにしても多少お洒落なファッションに身を包んだ時期がありました。わたしも他人事ながら変化を感じていました。傍目にも表情に明るさが光っていました。
しかし、わたしが他部署に異動になっている間に悲しい結果に終わったようです。詳しい事情は誰も知らない様子で(知っていても無闇に人に話すべきことではないですが)、Kさん本人も眼鏡に戻すことこそありませんでしたが光るものが消えていたように思えます。
最後に職場での宴会でのKさんの様子を見てみます。わたしはKさんばかり気にしている訳ではありませんが、Kさんの様子は次の2つに大別されます。1つは隣りの人と熱心に話し込んでいる様子です。時折オーバーとも思えるアクションを交えながら持論を展開しているように見えます。目が輝いています。もう1つは周りから孤立しているのかと思われる様子です。その時は一人杯を傾けているか、黙々と目の前の料理に取り組んでいます。特に周りの談笑に耳を傾けている様子ではありません。それでもそれなりに満足気に座っています。落ち着いています。
【結論】
どんな人でも自分の関心、知識、経験などに基づいた、見えざる居心地の良いテリトリーを持っています。それは物理的な範囲ではなく、一言で言えば「好奇心の輪」というようなことです。そしてその輪は弾力性を持っており、それまでテリトリーに無かった事柄でもうまくその中に取り込み、居心地の良い空間が周囲から孤立しないように常に自律活動しています。
子供の頃は誰でも好奇心の固まりです。固まりと言ってもそれは非常に弾力性の高いもので、まだ形らしい形は形成されていません。自分に触れるあらゆるものを吸収しつつも、繰り返し触れるものが増えるに従い徐々にテリトリーが柔らかい形をなし、それが「好奇心の輪」と成長していきます。
Kさんの場合その輪が、検証で記した体験などを経て、やや弾力性を失っているのだと思われます。大人になるにつれ誰でも弾力性を失っていくのですが、Kさんの場合その進み具合がやや早いのかもしれません。
Kさんは多人数を相手にすると、その輪を自分の中に抱え、守る姿勢になりがちなのでしょう。むしろそうすることの方が心地良いのかもしれません。
そして1人を相手にする時には、自分の輪の中のものを相手に理解して欲しい、自分の心地良さを分けてあげたいと思っているのかもしれません。Kさんの「好奇心の輪」は吸収することよりも、放射することにその弾力性を使っていると思われます。
【追記】
残念ながらKさんと休日を共にしたことはないのでプライベートでの顔をわたしは見たことがありません。Kさん本人から聞く話では、毎年夏の休暇では職場外での友人たちと北海道を自転車で走り回ることを非常に楽しんでいる様子です。それがKさんを支えている最も居心地の良い空間を持てる時間なのでしょう。
わたしたちは毎日職場や学校で同じ人たちと顔を突き合わせ、会話をしています。家で家事や自営で仕事をしている場合も他人との接触なしでは暮らしは成り立っていないでしょう。毎日顔を見る人たちが多くても少なくても、その中には気軽に接せられる人もいればそうでない人もいます。今回はその人への好感度の高低とはちょっと違う次元での実体験の話です。
わたしの職場は部署総員14名の中規模なところです。わたしは幾度かの異動を繰り返しながらもこの部署に舞い戻り、通算すると10年程ここに勤務しています。
その10年間変わらずにここに居続けている方がいます。仮にKさんと呼ぶことにします。Kさんは15年間職場を変わっていません。特殊な技能を持っているので異動させると業務が成り立ちにくいためで、他に引き取り手がいないのではありません。悪態をついたりネガティヴなことばかり言うなどの嫌われやすいタイプでもないとお断りしておきます。
Kさんと一緒の職場にいれば、昼食時や飲み会の帰りなどに2人だけという機会がまま訪れます。長年の付き合いでKさんの趣味や話の志向はほぼ把握しているつもりです。最近のニュースやKさんの志向に沿った話題を振るようにしています。普通そういう場合、互いの発言が糸を織り成すように交わされ編み上げられ、例えくだらない内容であっても一つの心地良い空間が形成されるものです。
しかしKさんとの場合はそういったものが形成されることが極めて少ないのです。話題は中途半端に途切れ、また全く脈絡のない発言がKさんから放射されたりします。となると黙っているのも、発言するのも躊躇われるこう着状態に陥り「早く時間が過ぎて欲しい」という居たたまれない気分になります。非常に居心地が悪いです。
Kさんからの放射あるいは反応は、当初わたしが想定していた範囲を超えてしまっているのです。
例えばこんなやり取りです。まずわたしが振ります。
「最近、簡単に人を殺す奴がいて恐いよねぇ」
「そう、キレる人多いんですよ。うちの近くのコンビニの前にすぐキレそうなのがたむろしてるから困る」
「小学校とかで不審者情報をメールで親に送ってるところもあるらしいよ」
「へぇー、小さい子を持っている人は大変ですね」
などと話をした直後に、突如
「あれってどう思います?」
という質問がKさんから発せられます。どれを指して「あれ」と言っているのか分かりません。不審者のことではないらしく、戸惑いを隠しそのまま話を聞きます。すると「あれ」とはAppleのiPodminiのことだったりします。確かにKさん好みの話題ではありますが、殺人事件とのつながりは全く見えません。居心地悪さレベル1です。
その後iPodminiのKさんなりの評価、動向などが語られます。自分のテリトリーですから情報量には事欠きません。こちらは適宜相槌を打ちながら聞き続けます。そしてその会話はKさんが予め用意していたと思われる結論(オチ)で終了します。「まだ“買い”の時期じゃない」と。ただ苦笑い..居心地悪さレベル2です。
固まり掛けた空気の中、わたしが思い付く話題はもう明日の天気とか相変わらずこの街は人が多いねとか、いつどんな方向にKさんが放射を始めても困らないように気を使います。もしくはダンマリを決め込みます。人との交錯、融和に身を置きたいわたしには最悪の状況です。しかしKさんは表情も変えずお絞りを使って折紙の真似などしています。ハァ-ッ、居心地悪さレベル3です。MAXです。
悪い人ではありませんし、一般常識も備えている方です。多人数でいる時はその場に馴染み、融合の輪の中にいるように思われます。しかし2人になると状況が変わるのです。
ちなみに同じ職場にいて気心の知れている同僚2名にこの状況につき聴取を行いました。程度の差こそあれ、2人とも同じように感じていることが判明しました。
【検証】
まずKさんの職場における仕事のスタイルについて触れる必要があるでしょう。先程Kさんが特殊な技能を持っていると記しましたが、その仕事は一人で黙々とあるものの製作(編集だとも言えます)に勤しむものです。知識と技術、そして感性と根気の要る仕事。Kさんは仕事の結果に対し評価を受けることこそあれ、プロセスについては評価は勿論、助言を得ることなど殆どありません。自らのみで高みに昇っていく努力を費やしています。仕事においては孤高の位置にいると言えます。
一方プライベートでは、だいぶ前のことになりますが異性との関係で深い痛手をおったことがあります。わたしは周囲から断片的に聞いただけなのですが、確かにKさんはトレードマークだった眼鏡を外してコンタクトにし、高価ではないにしても多少お洒落なファッションに身を包んだ時期がありました。わたしも他人事ながら変化を感じていました。傍目にも表情に明るさが光っていました。
しかし、わたしが他部署に異動になっている間に悲しい結果に終わったようです。詳しい事情は誰も知らない様子で(知っていても無闇に人に話すべきことではないですが)、Kさん本人も眼鏡に戻すことこそありませんでしたが光るものが消えていたように思えます。
最後に職場での宴会でのKさんの様子を見てみます。わたしはKさんばかり気にしている訳ではありませんが、Kさんの様子は次の2つに大別されます。1つは隣りの人と熱心に話し込んでいる様子です。時折オーバーとも思えるアクションを交えながら持論を展開しているように見えます。目が輝いています。もう1つは周りから孤立しているのかと思われる様子です。その時は一人杯を傾けているか、黙々と目の前の料理に取り組んでいます。特に周りの談笑に耳を傾けている様子ではありません。それでもそれなりに満足気に座っています。落ち着いています。
【結論】
どんな人でも自分の関心、知識、経験などに基づいた、見えざる居心地の良いテリトリーを持っています。それは物理的な範囲ではなく、一言で言えば「好奇心の輪」というようなことです。そしてその輪は弾力性を持っており、それまでテリトリーに無かった事柄でもうまくその中に取り込み、居心地の良い空間が周囲から孤立しないように常に自律活動しています。
子供の頃は誰でも好奇心の固まりです。固まりと言ってもそれは非常に弾力性の高いもので、まだ形らしい形は形成されていません。自分に触れるあらゆるものを吸収しつつも、繰り返し触れるものが増えるに従い徐々にテリトリーが柔らかい形をなし、それが「好奇心の輪」と成長していきます。
Kさんの場合その輪が、検証で記した体験などを経て、やや弾力性を失っているのだと思われます。大人になるにつれ誰でも弾力性を失っていくのですが、Kさんの場合その進み具合がやや早いのかもしれません。
Kさんは多人数を相手にすると、その輪を自分の中に抱え、守る姿勢になりがちなのでしょう。むしろそうすることの方が心地良いのかもしれません。
そして1人を相手にする時には、自分の輪の中のものを相手に理解して欲しい、自分の心地良さを分けてあげたいと思っているのかもしれません。Kさんの「好奇心の輪」は吸収することよりも、放射することにその弾力性を使っていると思われます。
【追記】
残念ながらKさんと休日を共にしたことはないのでプライベートでの顔をわたしは見たことがありません。Kさん本人から聞く話では、毎年夏の休暇では職場外での友人たちと北海道を自転車で走り回ることを非常に楽しんでいる様子です。それがKさんを支えている最も居心地の良い空間を持てる時間なのでしょう。