奈良旅行三日目の平成31年(2019年)4月30日(火・祝)は、石上神宮を参拝したのですが、今回は、『婆娑羅日記Vol.52~奈良旅行記in2019⑪(大神神社~後編)』でお話しした出雲口伝①~⑤の続きをお話しさせていただきます。
これまでと同様、出雲口伝の内容は、主に斎木雲州氏の著書『大和と出雲のあけぼの』(大元出版)や『出雲と蘇我王国』(大元出版)を引用させていただきます。
◇出雲口伝⑥~日矛勢の渡来及び播磨侵攻
筑紫に再度渡来し、饒速日(にぎはやひ)と名乗って、物部王国の基礎を築いた徐福は、筑紫平野で亡くなったと出雲口伝は伝えていますが、その後、日矛王子(ひぼこおうじ)と従者たちの船団が、出雲の園の長浜に着きました。
『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」との表記で登場していますが、記紀では日矛は新羅の王子だと記しています。しかし、饒速日こと徐福が亡くなり、日矛が渡来したこの時期は、新羅は成立していなかったので、正確には辰韓の時代です。
園の長浜に着いた日矛は、通訳と共に、出雲兵に導かれて、出雲王国の主王(大穴持)と面会しました。
大穴持は、出雲への移住の条件として、先住民の土地を奪わないことと、出雲王国の八重書き(法律)を守ることを求めましたが、日矛は高慢な気質を持っていて、これを拒否しました。
そこで大穴持は、日矛勢が出雲、石見、伯耆の地に住むことを禁じ、遠方の適当な移住地を世話することもやめました。
日矛勢はそのまま東へ進み、但馬国の円山川を遡り、その沿岸に上陸しようとしましたが、出雲兵に追い払われました。やむなく上流の大磯(現在の兵庫県豊岡市)付近の広い沼地に舟を停泊させ、舟上生活を続けることになりました。
この付近は、当時は川幅が狭くて浅かったので、左岸の津居山を削り、瀬戸の岩石を取り除く工事を行ったことで、広い沼の水が海に出て、肥沃な豊岡盆地が出現したと伝えられています。日矛勢は、新たに陸地となった円山川上流の土地に、家や田を作りました。
日矛はこの豊岡の地で亡くなり、その地には出石神社(いずしじんじゃ)が建てられ、日矛が御祭神として祀られています。
この出石神社の案内板にも、上記の日矛勢が円山川を開削した話が記されているそうですが、その他、『播磨国風土記』にも、似た話が記されています。
日矛の子孫は、葛城王国に同調し、葛城王国と同じように、銅鐸の祭りを行いました。日矛の子孫の勢力のことも、引き続き「日矛勢」と表記します。
ところで、出雲に渡来して火明(ほあかり)と名乗った徐福と、出雲王国第8代大穴持の八千矛の娘である高照姫との間の子が五十猛(いそたけ)で、丹波に移住し、後に香語山(かごやま)と名乗りました。この香語山の子孫が、海部氏(あまべし)となります。
日矛勢が渡来した当時、越後から北九州の宗像地方まで、日本海沿岸に展開していた出雲王国は、海部氏の丹波勢力が強力化すると分断されかかりました。
しかし、出雲と丹波の両勢力が大和に移住して、香語山の子の天村雲(あめのむらくも。「天叢雲」とも表記。)が葛城王国の初代大王となり、葛城王国が成立すると、出雲葛城連合王国となりました。出雲口伝を前提とすると、この天村雲が、記紀における初代神武天皇のモデルとなったと考えられることになります。
連合王国を築いた出雲、葛城の両王国のシンボルは、同じく銅鐸でした。
補足ですが、古代日本は、祭政一致の時代で、そのため、「政」は「まつりごと」と読みました。国のシンボルが違うと、祭祀の形式も異なることになります。この後、出雲口伝では、銅鐸以外をシンボルとする国も現れ、国のシンボルを変更する国も現れますが、この国同士の争いは、宗教戦争としての意味も有しているため、今後、出雲口伝をご紹介する際も、各勢力のシンボルが何かにも着目して、お伝えしていきたいと思います。
さて、上記のような力関係の中で、日矛勢も、初めは銅鐸の祭りを行い、出雲葛城連合王国に同調するかに見えましたが、勢力が増強すると、日矛勢は独立化し、但馬王国のような様相となりました。そのため、出雲王国の東部が但馬で分断され、出雲王国の勢力が弱まる結果となりました。ここから、但馬王国と化した日矛勢のことは、場面に応じて、「但馬王国」、「但馬勢」などとも呼ぶことにします。
ところで、出雲葛城連合王国時代は、播磨の地は出雲王国の一部として、重要な地域で、葛城王国と出雲王国の政治と文化の中継地でもありました。
そのような中で、日矛の子孫が率いる但馬勢が、播磨に侵攻を開始しました。
現在の兵庫県神崎郡福崎町に八千種(やちぐさ)という地名があります(「八千草」と表記された時代もあったようです。)が、ここは元々、「八千軍」と書いて、「やちぐさ」と読んでいました。この由来について、『播磨国風土記』は、「八千軍というのは、ヒボコ命の軍勢が八千人いた。それで八千軍野という。」と記しています。
当時の日本列島は、人口が少なかったので、八千というのは、かなりの大軍です。
播磨の至る所で激しい戦闘が繰り広げられたことが、『播磨国風土記』にも記されていますが、ほとんど戦のない平和な日本列島に住んでいた出雲兵と、戦乱の多かった朝鮮半島から渡来した日矛勢とでは、実戦経験の差などもあったことから、播磨は日矛勢に奪われてしまいました。
それにより、葛城王国と出雲王国の交流がなくなりました。
この当時、葛城王国と出雲王国のシンボルは同じ銅鐸でしたが、銅鐸を神器として使ったのは、出雲の方が古かったようです。しかし、後には、近畿産の銅鐸を出雲産の鉄器と交換するようになりました。
出雲で取れる良質の砂鉄と鉄製品は各地から求められたのですが、豪族たちが最も欲しがった鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀で、それをウメガイと呼びました。このウメガイは貴重なので、神器にもなりました。
そこで、出雲王国では、ウメガイと似ている銅剣を、出雲王国の新たなシンボルとすることに決めました。
前述のとおり、祭政一致の時代ですので、別のシンボルを祀るようになった出雲王国と葛城王国の連合は、ここで解消することになりました。
◇出雲口伝⑦~吉備王国の成立
但馬勢力の播磨進出に刺激されたのは、出雲だけではありませんでした。
出雲王国が葛城王国との連合を解消し、国のシンボルを銅剣にしたことを、葛城王国の賦斗邇大王(ふとにおおきみ)は不快に感じたようです(賦斗邇大王は、後に漢風諡号で孝霊天皇と呼ばれる第7代天皇ですが、ここでは、引き続き賦斗邇大王と呼びます。)。
また、播磨地方を日矛勢に取られたままにしておくのも惜しいと思ったようで、賦斗邇大王は、播磨攻略を御子の伊佐勢理彦(いさせりひこ)と若建彦(わかたけひこ)に命じました。
葛城王国は、火明(ほあかり)こと徐福の子の香語山の子である天村雲が初代大王となって成立した王国ですが、丹後国の海部氏も、同じ香語山の子孫で、同族でしたので、その丹後の海部氏の勢力も、丹後方面から但馬北部を攻めて、日矛勢を圧倒しました。
これにより、但馬の新羅系の渡来人の中には、船で日本海に逃れ、筑前の糸島半島(伊都)に移住した人もいました。
また、播磨に住んでいた日矛系の人々の多くは、伊佐勢理彦と若建彦の大軍に攻められて、まだ住民が少なかった淡路島に逃げたと伝えられています。
播磨にいた日矛勢の残りの一部は、船で淀川を遡り、琵琶湖東岸の坂田に住み、また、他の一部は、吉備に逃げたそうです。
日矛勢を追い払った葛城王国の軍勢は、こともあろうに、出雲王国領の吉備地方に侵入しました(補足ですが、「こともあろうに」との表現は、『出雲と大和のあけぼの』からそのままの引用です。著者である斎木雲州氏は、出雲王国の東王家の富家の末裔なので、感情がこもったのか、あるいは、富家に代々、その感情的な部分も含めて伝えられたのかもしれません。)。
葛城王家を親戚と考えていた出雲王家は、衝撃を受けました。予想もしないことで、その防戦の準備が遅れました。
葛城王国の圧倒的多数の軍勢のために、吉備の中山まで占領されました。出雲王国は吉備地方西部を守る方針を諦め、軍を引いて出雲の国境だけを防備するとにしました。
吉備に逃れていた日矛勢はさらに西部に逃げ、品治(ほむち)の郡の府中付近に住んだと伝わります。そこの日矛勢は分かれて、さらに瀬戸内海に出て、日向に移住したそうです。
葛城王国の軍勢は、吉備の全土と、美作地方を占領し、その軍勢を各地に分散して住み着くことになりました。
伊佐勢理彦と若建彦は、吉備の中心部に当たる吉備の中山に定住し、名前を変えました。
伊佐勢理彦は大吉備津彦(おおきびつひこ)、若建彦は、若建吉備津彦(わかたけきびつひこ)と呼ばれるようになりました。
この頃、葛城王国内で勢力争いが起こり、賦斗邇は、大王の地位を追われ、吉備に移ってきました。
その後、大和国内は内乱状態が続き、大王と呼べる人はいませんでした。
『後漢書』の「東夷伝」では、「桓帝、霊帝の在位期間には、倭国はおおきく乱れ、代わる代わる互いに攻めて、長年にわたり国主がいなかった。」という趣旨のことが記されています。
後漢の桓帝、霊帝の在位期間は、西暦147年から188年に当たります。
『出雲と大和のあけぼの』では、次のように解説しています。
~この期間については、記紀には王族の血縁関係を中心に記述している。無政府状態であるので、目立った事件はほとんど書かれていないという不自然な記述になっている。~
(『出雲と大和のあけぼの』斎木雲州著/大元出版より引用)
このような中で、賦斗邇は、葛城王国から分離独立した状態となり、その政権は吉備王国となりました。
吉備王国の領地となった美作(みまさか)は、砂鉄が良く採れたことから、吉備王国は葛城王国に匹敵するほどの強国となりました。
そして、出雲王国を真似て、銅剣をシンボルとするようになりました。その形は、出雲の中細型C類の銅剣ではなく、先が銅矛のように幅広く、両脇に突起の付いたもので、平型銅剣と呼ばれています。
大吉備津彦と若建吉備津彦が亡くなった後、吉備の中山に社が建てられました。
中山の西にあるのが、大吉備津彦を祀る吉備津神社、東には若建吉備津彦を祀る吉備津彦神社です。
平成29年(2017年)11月18日(土)に、私も吉備津神社と吉備津彦神社を参拝しているのですが、そのときは、まだ『出雲と大和のあけぼの』などの斎木雲州氏の著書に記された出雲口伝には出会っていなかったので、吉備津神社と吉備津彦神社については、改めて訪れた時に、出雲口伝から、再考察をしてみたいと思います。
(吉備津神社in2017.11.18)
(吉備津彦神社in2017.11.18)
◇次回予告
石上神宮を紐解くために必要な出雲口伝の伝える歴史は、まだ終わりません。
次回は、出雲口伝により伝えられた、倭国大乱に乗じて動き出した筑紫の物部王国のお話から、させていただきます。
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