奈良旅行三日目の平成31年(2019年)4月30日(火・祝)は、石上神宮を参拝したのですが、前回、出雲口伝⑦までお話しさせていただいたので、今回も、基本的に斎木雲州氏の著書『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)を引用させていただく形で、出雲口伝の続きをお話しさせていただいた上で、石上神宮について考察してみたいと思います。
◇出雲口伝⑦~第一次物部東征
(『出雲と大和のあけぼの』斎木雲州著/大元出版)
出雲口伝④でお話ししたように、二度目に渡来し、饒速日(にぎはやひ)と名乗った徐福が宗像三姉妹の三女の市杵島姫(いちきしまひめ)との間にもうけた彦火火出見(ひこほほでみ)の頃に、その勢力は筑前、筑後にまで及んでいました。この彦火火出見の子孫が、物部氏となっていくので、斎木雲州氏の著書『出雲と大和のあけぼの』では、この勢力のことを便宜上「物部王国」と呼んでいることから、このブログでもそれに従います。
物部王国では、彦火火出見から数代後の日子波限建(ひこなぎさたけ)の御子の五瀬(いつせ)が、弟の宇摩志麻遅(うましまじ)と協議し、物部王国の遷都の計画を立て、好機を狙っていたところ、出雲口伝⑥でお話ししたように、葛城王国が内乱状態になったとの知らせを受け、進軍することを決め、作戦を練りました。
ちなみに、日子波限建は、『古事記』では、正式な名は天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、『日本書紀』では、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)となっております。この鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)は、記紀では後に漢風諡号で神武天皇と呼ばれる神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)と、その兄とされている五瀬の父とされています。
記紀の神武東征では、五瀬と神倭伊波礼毘古の軍勢は、瀬戸内海を通ったと記されていますが、それは、後に息長帯姫(おきながたらしひめ。神功皇后のこと)が東征した戦記が借用されたものだと出雲口伝では伝えられています。
五瀬と宇摩志麻遅が進軍した当時、瀬戸内海は吉備王国の領海でしたので、そこに侵入すると損害が出ることから、四国の南海を通ることにしました。
有明海を出航した船団は、肥後国の球磨川(くまがわ)の河口に停泊し、若い兵士を集め、薩摩半島の笠沙の入江に停泊し、さらに薩摩隼人を兵士として集めました。
そして、笠沙の湾に軍勢を集結させた五瀬の軍勢は、佐多岬と足摺岬を過ぎ、土佐国の南岸を進み、土佐湾で一休みしました。大波を避けるために川を遡り、大船団が川岸で数日を過ごしたことから、その上流には、物部の地名がつき、川の名前になりました。
その後、阿波国の東岸沖を北上し、淡路島の南岸沿いに、紀ノ川河口に向かい、紀ノ川を遡り、南から大和へ入ろうとしました。
先に進んだ五瀬の軍勢が上陸し、守りに有利な名草山に上ることにしたところ、名草村の戸畔(とべ。女村長のこと。)率いる軍勢が現れ、毒矢を射かけました。
その矢が五瀬の肘と脛に当たり、その毒により、五瀬は亡くなり、その遺体は近くの竈山に葬られました。
数日後、紀ノ川の対岸には、夥しい数の葛城王国の軍勢が現れました。
五瀬に代わって指揮官となった弟の宇摩志麻遅は、上陸軍に船に戻るよう命じ、南の潮岬をまわり、熊野浦付近に上陸しました。
この地方には、物部氏の祖先の徐福(饒速日)に関する伝承が数多く残っています。
物部王国の軍勢の中心船団は熊野川を遡って、その沿岸に上陸しましたが、夜討ち朝攻めのゲリラ攻撃を受けたため、物部氏の親族と豪族は、熊野川の中州に住み、そこに社が作られ、名草で亡くなった五瀬が祀られました。
このとき、物部勢と徹底抗戦したのが、大和の初代大王で、神武天皇のモデルとなった天村雲を祖とする尾張家の血を引く御子の大彦(おおひこ)でした。
大彦は笛吹の東北の曽大根(現在の奈良県大和高田市)で育ったため、別名を中曽大根彦(なかそおねひこ)といいます。記紀では、「長脛彦」(ながすねひこ)の字が当てられ、神武東征に対して徹底抗戦した大和の豪族として描かれています。
ちなみに、記紀では、大彦は漢風諡号で孝元天皇と呼ばれる第8代国玖琉大王(くにくるおおきみ)の子とされていますが、出雲口伝によると、国玖琉大王の父で、漢風諡号で孝霊天皇と呼ばれる第7代賦斗邇大王(ふとにおおきみ)の子と伝えられています。
なお、大彦とは、固有名ではなく、次の大王となる皇太子を意味する一般名詞だそうですが、中曽大根彦のことを、引き続き大彦と呼ぶことにします。
さて、熊野川の中州にあった社は、明治22年(1889年)の洪水の後、山中に移されました。
それが、現在の熊野本宮大社で、旧跡地は、大斎原(おおゆのはら)と呼ばれています。
物部氏の勢力は、熊野各地にひろがって住み、紀伊国だけでなく、志摩国にも住み、後に、熊野国造に任命されたのは物部氏の一族でした。
◇出雲口伝⑧~熊野勢の北進と八咫烏の道案内
出雲王家の親族である大和の登美家は、出雲王国が吉備王国に攻撃されるのを残念に思いましたが、登美家には、出雲王家を助けるだけの武力はありませんでした。
大和では、葛城政権が分裂した後、統一できそうな勢力はなく、次に大和を統一できるのは、第一次物部東征によって熊野川の中州に住んだ熊野勢以外にないと、登美家は見抜いていました。
そこで、登美家は、熊野勢を大和地方に導き入れ、共同の政権を作ることを考え、熊野勢もこれに応じ、熊野川支流の北上川に沿って北進することにしました。
途中から一人ずつしか通れない狭い道になり、進むのは難儀でしたが、目立たずに戦闘なしに、大和に向かうには、この道が最良でした。大峰山脈の東を抜け、井光の近くの吉野川上流を通りました。
熊野勢の指揮官の宇摩志麻遅の前を道案内したのは、『大和と出雲のあけぼの』によると、登美家の大鴨建津乃身だとしていますが、登美家の別の人物であったとの説もあるので、これについては、さらに大元出版の他の書籍なども読ませていただき、別の機会にお話しさせていただきたいと思います。
物部氏の関係者は、この道案内のことを、「鳶の道案内」、「八咫烏の道案内」と称しました。
斎木雲州氏は、『出雲と大和のあけぼの』の中で、そのように称した理由を、道案内したのが大鴨建津乃身であることを前提に、「その名前が鳥に似ていたから」としていますが、登美家(とびけ)の名前が、鳥の「鳶」を連想させたとの説もあります。
また、八咫烏信仰は、斎木雲州氏も指摘しているように、中国に由来する信仰です。
中国の神話では、扶桑の木の梢に烏(からす)がいて、太陽のシンボルだとされ、それは、月の中にいる蛙と相対するものと考えられたそうです。
これまでお話ししているとおり、物部王国は、中国の斉の王族であった徐福が、二度目に渡来し、饒速日と名乗り、筑紫で勢力を拡大したことに始まる王国なので、中国の神話の八咫烏信仰から、「登美の道案内」が「鳶の道案内」を連想させ、八咫烏信仰と繋がったというのは、ありうる話だと思います。
宇摩志麻遅率いる熊野勢は、国栖(現在の奈良県吉野町)からは高見川に沿って上流に進み、宇賀志を過ぎて宇陀に達してから、全員の到着を待ちました。熊野勢の当座の食料は、登美家が用意してありました。
旧葛城軍の多くは吉備に移住していて不在で、残った王族も離れ離れになっていて、兵力も弱体であったため、夥しい数の物部の軍勢が宇陀に集結したことを知った旧葛城勢力の各集団は、恐れをなして移動を開始し始め、一部は生駒山地で防備を固め、一部は山城国の南部に移住したと言われています。
物部の軍勢は、墨坂を通って、登美家が示した磐余(いわれ。現在の奈良県桜井市南部)付近の地に落ち着きました。
記紀で初代神武天皇の名とされる「かむやまといわれびこのみこと」(神倭磐余彦命または神倭伊波礼毘古命などと表記)は、この地名に基づいて後で作られたと『大和と出雲のあけぼの』は指摘しています。
熊野勢が大和に入り、強力になったことを知った吉備軍は、出雲王国攻撃を中止しました。吉備王国の防備を固める必要性を感じたためであろうと斎木雲州氏は指摘しています。
東出雲王国と吉備王国は、講和はしませんでしたが、休戦状態となり、東出雲兵は南の鷹入山から東の母塚山の線まで退き、東出雲と伯耆の国境を厳守しました。
これ以降、出雲王国は、東出雲王国と西出雲王国の連立時代となり、その東から近畿にかけては、吉備王国と物部王国の二国が対立する時代になりました。
◇出雲口伝~その後
出雲口伝の伝える歴史は、この後も続いて行くのですが、『出雲と大和のあけぼの』(斎木雲州著/大元出版)では、東出雲王国と吉備王国が休戦状態となったところで、終わっています。
また、『出雲と蘇我王国』(斎木雲州著/大元出版)では、その後の出雲口伝の伝える歴史も出てくるのですが、蘇我王国に関係する部分を中心に書かれているため、大元出版の他の書籍なども入手して、改めて時系列を整理した上で、別の機会に、出雲口伝の続きをお話しさせていただきたいと思います。
◇石上神宮~再考
さて、これまでお話しした出雲口伝を前提に、石上神宮について、再考してみたいと思います。
(石上神宮/社号碑)
まず、石上神宮の社伝によると、建御雷神(たけみかづちのかみ)と経津主神(ふっつぬしのかみ)が、葦原中国(あしはらのなかつくに。日本のこと。)を平定する際に使った布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)が、神武東征の際に、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと。漢風諡号で神武天皇と呼ばれた初代天皇)が熊野で危機に陥った際、高倉下命(たかくらじのみこと)を通して神倭伊波礼毘古命の手元に送られ、それによって危機を脱することができたこと、そして、この布都御魂剣は、物部氏の祖である宇摩志麻治命(うましまじのみこと)によって宮中で祀られていましたが、崇神天皇7年に、崇神天皇の勅命で石上布留(いそのかみのふる)の高庭(たかにわ)に物部氏の一族である伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が遷して、その御神体の布都御魂剣に宿る布都御魂大神を主祭神として祀ったのが、石上神宮の始まりであることなどが伝えられています。
出雲口伝によると、神武東征は史実ではなく、第一次物部東征と、息長帯姫(おきながたらしひめ。神功皇后)の東征など、いくつかの史実を組み合わせて作られた物語で、第一次物部東征で、登美家の道案内によって大和入りしたのが、宇摩志麻遅(宇摩志麻治とも表記)で、物部氏の祖とされています。
記紀では、宇摩志麻遅は、饒速日の息子とされていますが、出雲口伝では、饒速日こと徐福から数代後の子孫です。
ちなみに、記紀で神倭磐余彦(「神倭伊波礼毘古」とも表記)に布都御魂剣を送り、危機を救ったとされている高倉下(たかくらじ)は、出雲口伝では、徐福が最初に渡来した時に名乗った火明(ほあかり)と、出雲王国第8代大穴持(主王)の八千矛の娘の高照姫との間の子である香語山と、大屋姫との間の子です。
出雲口伝で、大和の初代大王となったと伝えられている天村雲は、香語山と穂屋姫(徐福が二度目に渡来し、饒速日と名乗り、宗像家の市来島姫との間にもうけた姫)との間の子なので、天村雲と高倉下は、異母兄弟になるのですが、出雲口伝は、この高倉下が第一次物部東征に際し、物部勢に手を貸したとは、伝えていません。
(石上神宮/楼門)
石上神宮の楼門の手前には、天神社、七座社、猿田彦神社、出雲建雄神社などの摂社があるのですが、この中で、猿田彦神社の主祭神は、出雲王家が祀っていたクナト三神のうちの子神である猿田彦神で、配祀神は、底筒男神(そこつつのおのかみ)、 中筒男神(なかつつのおのかみ)、 上筒男神(うわつつのおのかみ)、 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、 高靇神(たかおかみのかみ)です。
配祀神のうち、底筒男神、中筒男神、上筒男神は、住吉神社の祀る海神三神のことですが、物部氏が記したとされる『先代旧事本紀』には、底津少童命、中津少童命、表津少童命の三神は、安曇連(あずみのむらじ)らが斎いまつる筑紫・斯香神であると記しています。ここにおける少童命とは、徐福と共に来日した海童たちの霊のことをを指していると、『出雲と大和のあけぼの』では指摘しています。
安曇の姓は、「海住み」(あまずみ)の発音が縮まったもので、安曇氏は海部家の親族だとされています。
また、息長帯姫命は、後に漢風諡号で神功皇后と呼ばれる人ですが、この息長帯姫が、出雲口伝の続きでは、キーパーソンの1人となりますので、これについては、別の機会に、出雲口伝の続きをお話しさせていただいた後で、改めて考察させていただきたいと思います。
次に、出雲建雄神社の御祭神は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である 出雲建雄神(いずもたけおのかみ)とされていますが、これまでお話ししているように、草薙剣の正式名称は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で、出雲口伝で大和の初代大王となったと伝えられる天村雲(「天叢雲」とも表記)の名が冠された剣です。
現在、草薙剣の本体は熱田神宮に祀られているとされていますが、熱田神宮の大宮司は、平安時代後期まで、尾張国造家である尾張氏が代々務めてきました。天村雲が大和の葛城に移住した地が高尾張邑(たかおわりむら)だったことから、天村雲を祖とする一族は、尾張氏とも呼ばれました。
第一次物部東征によって、吉備王国と分離する形で大和に残存していた旧葛城王国の勢力は、大和から追い出されたので、その葛城王国の祖となった天村雲に関連する草薙剣の荒魂である出雲建雄神を、物部氏の総氏神である石上神宮の摂社で祀っているのは、不思議に思うのですが、私見では、鎮魂の意味が強いように思います。
ところで、平成30年(2018年)9月17日(月・祝)に石上神宮を訪れたときのブログ(『婆娑羅日記Vol.47~奈良旅行記in2018⑯(石上神宮~後編)』)で、石上神宮の社宝である七支刀の真相について考察しました。
斎木雲州氏の著者などで出雲口伝と巡り合い、改めて七支刀について考察したところ、このときの考察も大きく外れていなかったと思うのですが、出雲口伝によると、石上神宮に七支刀がある理由の詳細がより鮮明に見えてきました。
それについても、神功皇后が大きく関わってくるので、出雲口伝の続きを時系列で整理した上で、改めて考察させていただきたいと思います。
◇次回予告
石上神宮を後にした私は、新薬師寺に向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。
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