平成31年(2019年)4月21日(日)、旅の宿浜よしを8時にチェックアウトした私とK井さんは、ロードバイクで千葉県館山市那古にある㉝那古寺に向かいました。
◇那古寺①
旅の宿浜よしを出発した私達は、最寄りのコンビニで水を購入してから、外房黒潮ライン(国道128号)をひたすら西に向かって走り、その後、安馬谷バイパス(国道410号)、千葉県道296号を通り、㉝那古寺へと向かいました。
途中、K井さんのロードバイクがパンクして修理をするハプニングもありましたが、旅の宿浜よしを出発してから約4時間で㉝那古寺に着くことができました。
(㉝那古寺/寺号碑)
㉝那古寺は、山号を補陀落山といい、坂東三十三観音の第33番札所となっていて、通称那古観音とも呼ばれています(那古寺の頭に冠してい㉝の数字は、いつもと同様、札所の番号を示しています。)。
補陀落は、このブログでも何度かご紹介していますが、サンスクリット語の ポータラカの音訳で、南方の海の彼方にあり、慈悲の仏である観音菩薩が住まう浄土のことを指します。
那古寺縁起には、「この山は是れ補陀落山と称すべし、而して観音影向の地なり」と記されています。
『坂東巡礼~三十三観音と心の法話』(坂東札所霊場会監修)によると、補陀落は、香気馥郁たる花が咲き、海港を眼下に見下ろす小高い山にあるとされているところ、元禄の大地震があるまでは、観音堂が山頂にあり、その風光が補陀落に近似していたことから、山号を補陀落山と称した旨が記されています。
『坂東巡礼~三十三観音と心の法話』(坂東札所霊場会監修)によると、草創は養老元年(717年)で、元正天皇の御悩平癒のため、行基が老翁の告げによりこの地に来錫し、海中から一本の香木を得て千手観音を彫り祈念したところ、直ちに効験があって天皇の病が快復したので、勅願により那古山の山頂に一宇が建てられたのが、この寺の始まりだと伝わるそうです。
その後、慈覚大師(円仁)が訪れて修行し、正治年間(1199年~1201年)に、秀圓上人が真言密教の道場として法燈を掲げたそうです。
源頼朝が石橋山の合戦で敗れ、伊豆の真鶴岬から安房の洲崎に逃れた際に、再起を祈願したのが㉝那古寺で、その後、鎌倉幕府を開いた報謝として、㉝那古寺に七堂伽藍を建立しました。
室町時代に入ると、安房里見氏の初代とされている里見義実が㉝那古寺に深く帰依し、その息子の里見義秀が㉝那古寺の第21代住職となり、第23代住職も里見氏の熊石丸が務めるなど、㉝那古寺は里見氏の庇護を受けて寺勢を維持しますが、江戸時代に入り、慶長18年(1613年)に安房国館山藩第2代藩主里見忠義が突如改易となりました。
里見忠義の妻は、老中大久保忠隣の孫娘であったことから、大久保忠隣の改易の連座であったともいわれていますが、その他に、無断での城郭修補や牢人召し抱えなども理由として挙げられています。
この里見忠義の改易により庇護者を失った㉝那古寺ですが、那古の地は江戸防備の重要拠点であったことから、㉝那古寺は徳川家によって庇護を受けることになりました。
しかし、元禄16年(1703年)の大地震により、当時那古山の頂上にあった観音堂は壊滅し、周囲の地形も大きく変わってしまいました。
そこで江戸幕府は、享保17年(1732年)に観音堂を現在の山腹に移し再建し、宝暦11年(1761年)には、住持の憲長らの勧進によって多宝塔が建立されました。
しかし、大正12年(1923年)の関東大震災で、観音堂は半壊してしまいますが、大正13年(1924年)に復元され、その後、仁王門や鐘楼堂が建立され、多宝塔、阿弥陀堂も復元され、現在に至っています。
㉝那古寺に着いた私達は、仁王門を潜って、観音堂へと向かいました。
(㉝那古寺/仁王門)
私とK井さんが観音堂に向かったところ、住職がヘルメットをかぶり、スクーターを引いて歩いてきたので、聞いたところ、12時から13時まで納経所はお昼休みとのことで、13時にまたお越しくださいとのことでした。
㉝那古寺に着いたのが、実は12時5分で、ほんのわずかの時間でしたが、住職も、どうやら昼食をとりに行くようですし、無理強いもできないので、私達は、近くで昼食をとり、13時に戻ってくることにしました。
(㉝那古寺/観音堂)
写真の左奥に見えるのが納経所で、正面が観音堂、右奥にあるのが多宝塔で、右の手前にあるのが、阿弥陀堂です。
◇とんかつ於加乃
㉝那古寺の近くにあるレストランを検索したところ、『とんかつ於加乃』が良さげだったので、そこで昼食をとることにしました。
トンテキや海老フライ、牡蠣フライなど、心惹かれる定食メニューが並んでいたのですが、『とんかつ於加乃』と看板を掲げているので、とんかつを食べない手はありません。
ヒレかつも迷いましたが、今回はロースかつ定食にしてみました。
(とんかつ於加乃/ロースかつ定食)
前日の旅の宿浜よしの新鮮な魚介の料理もとても美味しかったのですが、ロードバイクで4時間走り続け、お腹の減っていた私の口と胃が、揚げ物を求めていました。
肉はしっとりしていて、衣はサクサクで、揚げ物を求めていた私の胃に染み渡りました。
また、この地を訪れることがあれば、そのときもこの『とんかつ於加乃』を訪れたいと思います。
そのときは、トンテキも食べてみたいところです。
◇那古寺②
昼食を終えた私達は、㉝那古寺に戻り、観音堂で納経をしてから、観音堂に向かって左手にある納経所に向かいました。
(㉝那古寺/観音堂)
13時に納経所に入ったところ、既に4人の参拝者が座って、御朱印の順番を待っていました。
どこが最後尾かわからず、御朱印を書いている住職に話しかけるのも悪いので、立って待っていたところ、御朱印を書いている住職から「座ってお待ちください。待つのも修行と言われております。最後の方の次でお待ちください。」と言われ、間をあけて座っていた3番目の男性と4番目の女性が詰めてくれて、私達も最後尾に座ることができました。
㉝那古寺は、坂東三十三観音の第33番札所なので、全ての札所を巡ってから最後に訪れると、結願証(けちがんしょう)というのを頂くことができます。
3番目の男性が住職に「結願ですか?」と言われ、「いえ、まだです。」と答えたところ、結願になるK井さんが私に「残念だったね。」と言いました。
住職が、「何が残念だったんですか?」とおっしゃったので、私が、「私も実は1箇所残ってまして・・・。」と答えると、住職から「観音様がまたお顔が見たいとおっしゃっているということですよ。次は結願のお祝いで飲めるように、自転車や車以外でいらしてください。」とのことでした。
今回は、㉝那古寺の御朱印だけいただきましたが、最後に残った神奈川県小田原市の第5番札所の⑤勝福寺を訪れてから、また千葉県館山市の㉝那古寺を、結願証をいただくために、再び参拝したいと思います。
(㉝那古寺/御朱印)
納経帳に記された㉝那古寺の御詠歌は、次の歌です。
【補陀落は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ波を 見るにつけても】
◇次回予告
平成30年(2018年)9月15日(土)から9月17日(月・祝)の敬老の日連休に奈良を訪れたことを『婆娑羅日記Vol.47~奈良旅行記in2018①(法隆寺❶)』などでお話ししましたが、周り切れなかったところが多数あったので、平成31年(2019年)4月28日(日)~4月30日(火)の二泊三日で、再び奈良を訪れたので、次回から、そのお話をさせていただきます。
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