平成30年(2018年)9月15日(土)から9月17日(月・祝)の敬老の日連休に、奈良を訪れました。

 

◇序章

 

 今年(平成30年)7月14日(土)から7月16日(月・祝)の海の日連休は、会津若松を訪れました。

 

 会津戦争会津藩が明治新政府軍に降伏した後、旧幕府軍は函館五稜郭に立て籠もり、最後の決戦へと挑みました。

 私は、その足跡を追うべく、敬老の日連休は函館を訪れる計画でした。

 

 しかし、8月に入って、いろいろな出来事が起こりました。

 

 そして、この時期に無性に読みたくなって、『蘇我氏の正義~真説・大化の改新』(関裕二著/ワニ文庫)を一気に読み切りました。

 

 

 『蘇我氏の正義~真説・大化の改新』は、関裕二氏の「異端の古代史」シリーズの7作目で、その他に、『古代神道と神社~天皇家の謎』(1作目)、『聖徳太子は誰に殺された』(3作目)、『もうひとつの日本史~闇の修験道』(5作目)などがあり、関裕二氏の著書を愛読している私は、当然、6作目まで全て読んでおり、その他にも、『蘇我氏の正体』(新潮文庫)、『物部氏の正体』(新潮文庫)、『藤原氏の正体』(新潮文庫)、『古事記の禁忌~天皇の正体』(新潮文庫)を始め、関裕二氏の本はかなり読んでいます。

 

 一度読み終えた本だったのですが、この時期、さらに、無性に読みたくなって読み直したのが、仕事の関係で面識のある落合莞爾氏の著書『南北朝こそ日本の機密~現皇室は南朝の末裔だ』でした。

 

 

 

 これらの本を読み、8月上旬に私の身の回りで起こった様々な出来事を思い返すと、なぜか、斑鳩明日香村橿原市に呼ばれている気がしました。

 そのため、函館を訪れるのをやめて、急遽行き先を奈良に変更しました。

 

 その目的は、蘇我氏物部氏聖徳太子、初代神武天皇、第15代応神天皇の母である神功皇后(じんぐうこうごう)などの足跡を辿ることです。

 そして、せっかくなので、大和郡山市にも足を延ばし、私が大好きな武将の一人である豊臣秀長豊臣秀吉の実弟)所縁の地も訪れることにしました。

 

 なぜ、蘇我氏物部氏聖徳太子の足跡を辿りたいと思ったのかというと、義務教育の時代に学んだ大化の改新に、ずっと違和感を感じていたからです。そして、関裕二氏の著書は、その私の感じていた違和感の理由を、明確に解き明かしてくれました。

 

 天皇家を蔑ろにし、聖徳太子の子とされている山背大兄王(やましろおおえのおう)の一族を滅亡させた蘇我入鹿(そがのいるか)を、中大兄皇子(なかのおおえのみこ。後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり。後の藤原鎌足)が誅殺した事件を乙巳の変(いっしのへん)といい、それに続く改革事業を大化の改新といいます。

 日本史の教科書は、中大兄皇子中臣鎌足は、この古代史の一大事件である乙巳の変における英雄として記しています。

 これは、正史『日本書紀』にそう書かれているからです。

 

 しかし、正史とは、必ずしも史実が書かれた歴史書という意味ではなく、それを編纂した当時の朝廷の公式見解を記したという意味に過ぎません。

 したがって、正史には、それを編纂した当時の権力者にとって不都合な真実は隠されており、逆に、それを編纂した当時の権力者やその先祖のことは、美化して書かれることは多々あるわけです。

 

 これに対し、正史とは異なる事実を記した歴史書は、権力者によって焚書などによって抹殺されるか、「偽書」とレッテルを貼られて史実を反映していないと看做されるなどの憂き目に遭います。

 

 例えば、『日本書紀』と重なる時代について書かれている歴史書の中に、物部氏によって記されたとされる『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)という書物がありますが、これは神道の神典とされていますが、歴史書としては、「偽書」という扱いを受けていました。

 これは、『先代旧事本紀』が成立したとされる年には既に亡くなっていた蘇我馬子が序文を書いていることが1つの理由とされており、江戸時代の著名な国学者である多田義俊伊勢貞丈本居宣長(もとおりのりなが)らも偽書だと指摘していました。

 

 そして、第二次世界大戦後、多くの著名な歴史学者も、『先代旧事本紀』を偽書として扱いました(この理由については、別の機会にお話しします。)。

 

 しかし、『日本書紀』よりも、『先代旧事本紀』の方が史実を忠実に書いている部分も、ないとは言い切れません。それは、前述のとおり、正史がそれを編纂した当時の朝廷の「公式見解」に過ぎないからです。

 そして、近年では『先代旧事本紀』は序文のみが後から足されたもので、それ以外は資料的価値があると考えられるようになりました。

 

 

 朝廷の公式見解である『日本書紀』では、蘇我馬子(そがのうまこ)は聖徳太子の助力を得て物部守屋を滅ぼしたとしており、聖徳太子は『日本書紀』の記す公式見解でも、蘇我氏の血筋の皇族となっているのに、『日本書紀』では、その蘇我入鹿が、聖徳太子の子とされる山背大兄王の一族を滅亡に追いやったこと、まるで自らが天皇であるかのように振舞って天皇となろうとしたことなどを糾弾し、天皇家を守るために、中大兄皇子中臣鎌足乙巳の変蘇我入鹿誅殺したと書かれているのです。

 

 

 物部守屋を滅ぼされた物部氏からすれば、本当に蘇我入鹿が悪人であったのであれば、物部氏が書いたとされる『先代旧事本紀』では、蘇我氏に対する恨みや、蘇我氏を糾弾することが書かれてもおかしくないはずです。

 

 しかし、物部氏が書いたとされる『先代旧事本紀』では、物部氏蘇我氏のことを糾弾しておりません。実は、物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼした蘇我馬子の妻は、『日本書紀』では物部守屋の妹と記されており、『先代旧事本紀』では物部守屋の弟の娘と記されています。したがって、蘇我入鹿は、物部氏の血も引いているわけです。


 また、蘇我入鹿を滅ぼした乙巳の変を正当化するため、蘇我入鹿を悪く書かざるをえない『日本書紀』ですら、蘇我入鹿は優秀であったと記されているのですが、『先代旧事本紀』では、その蘇我入鹿物部氏の血筋でもあることを誇らしげに記しているのです。そして、蘇我馬子の子とされている蘇我蝦夷(そがのえみし)は、その子とされている蘇我入鹿またはその弟を、「物部大臣」(もののべのおおおみ)と呼んで、物部の血を引いていることを明言しています。

 

 さらに、蘇我氏血筋で、蘇我氏に助力して物部守屋を滅ぼした聖徳太子は、蘇我氏と仲違いする理由がないので、その子とされる山背大兄王の一族を蘇我氏が滅亡に追い込む動機も乏しいように思えるのです。

 

 ただ、『日本書紀』は、編纂を命じた当時の権力者ではなく、実際に執筆を担当した人たちに良心があったのか、古人大兄皇子舒明天皇の子で、母は蘇我馬子の娘の法提郎女)が、「韓人、鞍作を殺しつ。吾が心痛し。」と叫んだと記しています。

 

  「鞍作」は蘇我入鹿のことですが、通説では、この暗殺の現場に「韓人」(からひと。朝鮮半島出身者)はいなかったとされているので、「韓人」が殺したのではなく、三韓の外交問題が原因で殺されたという解釈をしている学者が多いようです。

 

 どういうことかというと、当時朝鮮半島は、高句麗新羅(しらぎ)、百済(くだら)の三国(これらの三国を併せて「三韓」といいます。)があり、三韓は、それぞれ中国の王朝に朝貢しながらも、日本とも親しくし、自国の勢力拡大を図ろうとしている中で、中大兄皇子中臣鎌足親百済派だったのに対し、蘇我氏親新羅派で、ただし、新羅とのみ親しくするわけではなく、三国に対して全方位外交をすることを主張していました。

 親百済派だった中大兄皇子中臣鎌足は、そのままでは百済が滅亡すると危機感を募らせたことが、暗殺の動機の1つになったというわけです(ただし、このブログの中でお話ししていきますが、蘇我入鹿暗殺の動機の真相は、それ以外にもあります。)。

 

 

 このように、『日本書紀』も、編纂当時の朝廷に不都合な真実を隠しつつも、所々に、真実を垣間見せています。

 

 編纂時の権力者の意向に沿わないことは書けないが、正史を綴る者として、後の世の人が真実に辿り着けるように、わざと矛盾したことを書いたり、真実を匂わせるようなことを書いたりしたということは、大いに有り得ることだと思います。

 

 

 関裕二氏の著書を読み進めるにつれ、上記のような様々な考察に触れ、日本史の授業で習ったことに対する違和感が、確信へと変わり、正史『日本書紀』に対する疑問点が、一気に氷解していきました。

 

 

 ところで、熊野古道紀伊路を歩いた際に訪れた藤白神社(和歌山県海南市所在)は、全国の鈴木氏の発祥の地とされているのですが、その藤白鈴木氏の祖は物部氏の正統である穂積氏とされています。

 私の血筋が、その藤白神社藤白鈴木氏と繋がっているかは不明ですが、少なくとも全国の鈴木氏の発祥とされる藤代鈴木氏の祖が物部氏であることを知ってから、物部氏にもシンパシーを感じるようになっていきました。

 

 そのようなことから、蘇我氏物部氏聖徳太子所縁の地を訪れたいと強く渇望するようになっていった中で、8月にいろいろな出来事があり、中学の修学旅行以来訪れたことのなかった奈良に強く呼ばれている気がして、冒頭で述べたように、函館旅行の計画を取りやめて、急遽、奈良を訪れることに決めました。

 

◇法隆寺❶

 

 奈良旅行初日の平成30年(2018年)9月15日(土)、東京駅からのぞみ、JR奈良線を乗り継いで奈良に着いた私は、その日から宿泊するセンチュリオンホテルクラシック奈良に荷物を預け、JR大和路線で法隆寺駅へと向かいました。

 

 法隆寺駅から歩いて15分ほどで、法隆寺参道に着きました。

 

(法隆寺/寺号碑)


 寺号碑から法隆寺南大門まで、360mほどのまっすぐな松並木参道が続いています。

 

(法隆寺/参道)

 

 松並木の両脇は、車道になっていて、その車道沿いに、食事処や土産屋などが並んでいます。

 

 

(法隆寺/南大門)

 

 正史『日本書紀』によると、推古天皇9年(601年)に、聖徳太子が飛鳥の地からこの斑鳩(いかるが)の地に移ることを決意し、斑鳩宮の建造に着手し、推古天皇13年(605年)に聖徳太子斑鳩宮に移住したと記されています。
 そして、
聖徳太子の伝記である『上宮聖徳法皇帝説』によると、推古天皇15年(607年)に斑鳩宮に接して聖徳太子が建立したのが法隆寺(別名:斑鳩寺)とされています。 

 

 この法隆寺西院伽藍は、現存する世界最古の木像建築物群で、その他の建築物も、飛鳥時代の建築物が多いのですが、参道の先にある南大門(国宝)は、室町時代の永享10年(1438年)に建てられてものです。

 実は、僧侶同士の権力争いが激化し、永享7年(1435年)に元々あった南大門に火が移って焼失してしまったため、現在の南大門は、別の門を永享10年(1438年)に移築改造したものであることから、法隆寺では珍しく、かなり時代が下ってからの建築物となっています。

 

 南大門を潜り、拝観券を購入し、中門を潜って西院伽藍に入ると、目の前に国宝の五重塔が見えます。

 

 

(法隆寺/五重塔)

 

  法隆寺五重塔は、木造の五重塔現存する世界最古のもので、心柱の下の心礎には、仏舎利(釈迦の遺骨)が納められています。

 

  五重塔の東には金堂(国宝)があります。

 

 

(法隆寺/金堂)

 金堂には、御本尊の釈迦如来薬師如来阿弥陀如来が祀られています。

 

 五重塔金堂の北には、大講堂(国宝)があります。

 

(法隆寺/大講堂)

 

 大講堂は、延長3年(925年)に焼失してしまい、現在の大講堂は、正暦元年(990年)に元の大講堂とほぼ同じ規模で再建されたもので、その際に、新たに造像された薬師三尊像が安置されました。

 

 大講堂の東側には、鐘楼があります。

 

(法隆寺/鐘楼)

 

 鐘楼は、平安時代に建立されたものです。

 

 鐘楼から廻廊を歩いて西院伽藍を後にし、聖霊院に向かったのですが、西院伽藍を出る前に東南から見る五重塔も素敵でした。

 

 

(法隆寺/五重塔)

 

 ところで、この五重塔相輪(最上部にある金具のこと)をよく見ると、4本の鎌がかかっています。

 

(法隆寺/五重塔の相輪の鎌)

 

 これは、雷除けのおまじないだと言われているのですが、実は、別の意味があるのではないかとの説もあります。

 それについては、次回、詳しくお話しさせていただきます。

 

 西院伽藍を後にした私は、聖霊院(国宝)に行き、御朱印をいただきました。

 

 

(法隆寺/聖霊院)

 

 聖霊院は元々は東室(ひがしむろ)の一部でしたが、保安2年(1121年)に東室を再建する際に南側の半分を改造し、聖霊院とし、聖徳太子尊像を安置しました。

 聖霊院には、3つの厨子があり、中央の厨子には御本尊の聖徳太子尊像、向かって左の厨子に聖徳太子の子とされる山背大兄王用明天皇の子である殖栗皇子(えぐりのみこ)、向かって右の厨子には、卒末呂王、高句麗僧の恵慈法師の像が祀られており、その他に如意輪観音半跏像(重要文化財)、地蔵菩薩立像(重要文化財)も安置されています。

 

 聖霊院御朱印をいただいた後、綱封蔵(国宝)の脇を抜けて、大宝蔵院へと向かいました。

 

(法隆寺/綱封蔵)


 大宝蔵院には、百済観音像(国宝)、夢違観音とも呼ばれている観音菩薩像(国宝)、玉虫厨子(国宝)などを始めとする法隆寺名宝が安置されています。

 

◇次回予告

 

 大宝蔵院法隆寺名宝を見学した私は、夢殿のある東院伽藍へと向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。 

 

 

 

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