オランダトラガシラ -2ページ目

市ヶ谷の桜



 この写真は3月31日に撮影したもの。この道は靖国通りで、写真の前方奥にJR市ヶ谷駅、右後ろにずっと行くと靖国神社がある。靖国通りに沿ってずっと桜並木が続いていた。この日はある用事で市ヶ谷に行ったのだが、ここがこんなに桜の素晴らしい場所だとは知らなかった。土曜だったが、それほど混んでるわけでもない。また来年も見たい桜だ。

大山町交差点



 東北沢付近の大山町交差点。何があるところなのかよくわからないが、たまに名前を聞く交差点である。この写真の向いている方向が井の頭通りである。

私事だが御茶ノ水

 私は約10年前、御茶ノ水にある予備校に通っていたのだが、なぜか当時、ニコライ堂にも湯島聖堂にも行かなかった。両方とも、今日初めて行ったのである。


 ニコライ堂、友人撮影。



 湯島聖堂、これも友人撮影。


 ついでに当時通っていた予備校にも行ってきて、ほぼ当時のままの校舎を見てきた。私は予備校時代にけっこう苦労して、かなり「いっぱいいっぱい」な感じで過ごしていたのだが、今になってその場所を見てみると、何のことはない所だった。もちろん懐かしさや思い入れみたいなものも感じたのだが、それ以上に、こんな「小さな」場所にあれほど圧倒されていたのか、という意外な印象が強かった。


 私は予備校時代から東京に出てきて、それ以来一人で勉強を続けるという生活がずっと続いているので、現在の私にとって、この予備校時代が原点なわけである。さらに東京生活、一人暮らし、学問といった点だけでなく、これ以後は高校時代以前のように何らかの仲間のグループに属するということがほとんどなかったし、精神的に危うくなる経験というのも、高校時代以前はなかった。将来に向けて、月単位、年単位、五年単位くらいでそれぞれ「スケジュール」的なものを意識して行動するようになったり、毎日の生活をいちいち合理的にコントロールしようとすること――こういう息苦しい愚かさが改善されてきたのはここ数年のことで、まだ完全に抜け切ったわけでもないのだが――も、この御茶ノ水に通っていた頃から始まったように思う。一言で言えば悪しき完璧主義という感じなのだが、それは一方で、ひたすら純粋に夢を追った、ということでもあった。いずれにしても、良かれ悪しかれ、御茶ノ水に通った頃が今の私の原点であって、それを改めて振り返るのは非常に興味深かった。


 それにしてもこのニコライ堂や湯島聖堂というのは非常に立派な建築物で、湯島聖堂も含め、よく日本にこんな異国的なものをこれほどの完成度で立てられたもんだ、と強い印象を受けたのだが、もっと意外なのは、先ほどの話と同じく、なぜこれほどのものを、この御茶ノ水に通っていた時に見に行ってなかったのか、ということである。時間的に余裕がないわけはないので、精神的な余裕のなさということなのだが、そこまで弱かったのかということを、ここでも理解させられた。


 あの頃から約10年経って、自分はあの頃よりもずっとタフになって、余裕も出ていることがわかったのだが、しかし同時に、当時のその「余裕のなさ」を理解したことによって、その頃と正反対の人間になったわけでもない今の自分に依然として残る「余裕のなさ」がどのような類のものなのか、ということも、イメージとして理解出来たように思うのである。といっても言葉でそれを表現出来るほど理解したわけではないが、漠然と表現してみれば、自分にとって必要なことと、自分が必要だと思っていることというのは、必ずしも一致しないんだということ、不安というもののほとんどは疑心暗鬼から来ていて、実際にはそれほど存在しないんだということ、主観と客観というものの間には凄まじい違いがあるのだということ、といった感じと関連しているのである。


嵐が過ぎた金魚



 3月下旬くらいから水槽の6匹の金魚が全て病気になっていたのだが、結局、そのうちの3匹が死んでしまった。トラ蝶尾と黒らんちゅうは、もともと弱っていたところをオランダにつつかれて衰弱死。そして約1年間生活をともにした青文は、なんか痩せて死相が出ていると思ったら、ある日の朝、水底から1センチくらいの高さで少しだけ傾いた姿勢で死んでいた。網で掬い上げた青文は思ったよりもずっと重かったが、死んだ姿を目で見ることは出来なかった。


 原因については断定出来ないが、皆の病気が始まった後、水温を30度まで上げたのが失敗だったように思われる。一日に2・3度のペースでゆっくり上げたつもりだったのだが、この季節なら25度くらいに留めておいた方がよかったのかもしれない。25度を越えた辺りから病気が悪化していたのだが、「金魚の病気には水温を30度に上げて対処するのが定石」というのを信じすぎたように思う。


 残ったのはこの写真の水泡眼と、江戸錦、オランダの3匹なのだが、嵐が過ぎた後のこの3匹は全く健康のようである。ただ、3月くらいまでは江戸錦に追星(発情の印)が出ていて、水泡眼をよく追い回してたのだが、今では江戸錦は非常に大人しい。私としては子供が生まれることを期待しているのだが、このまま期待通りになるかどうか、少し心配である。ゴールデンウィーク辺りに産卵するとベストだという話なのだが、その頃にでも実行してくれるのかどうか。


 あとは、この大き目の水槽で、たった3匹というのはちょっと寂しい。もう一度黒らんちゅうを迎えようかとも思うのだが、また混乱が起こるのも避けたいので、しばらくの間は、この3匹に平和な日々を送らせようと考えている。

あさりの簡単パエリア

そろそろあさりの旬である。

そこで、フライパンで簡単に作れるあさりのパエリア。以下のように簡単に出来るのである。


(一人分)

①フライパンにオリーブオイルを入れ、潰したニンニクを弱火でゆっくり炒める。

②みじん切りにしたたまねぎ半個~1個を加え、炒める。

③米を一合加えて、透き通るまで炒める。米は研がなくていいようだが、無洗米でもいいと思う。

④水を200cc加え、コンソメを1/2かけら、塩少々(あさりから塩が出るので、本当に少々でよい)、白ワイン50ccを加える。

⑤砂抜きしたあさり150gを乗せる。私は200gくらい入れてしまうので、その辺は適当な量でいい。

⑥強火で水を沸騰させたら、その後フタをして、弱火で30分。

⑦30分経ったら、火を強めて残った水分を飛ばし、軽く焦げ目をつけてみる。焦がしすぎに注意。

⑧フタを取って、みじん切りにしたパセリを入れて混ぜる。パセリは大量に入れると美味い。さらに香菜を入れてもいいようだ。

以上。非常に簡単だが、なかなか美味いのである。

新しい金魚水槽


 ↑クリックすると大きくなるのだが、数週間前に新しい水槽を買って、そこに金魚たちを移した。幅は90cmだけど、奥行30・高さ36と小さめで、容量は90リットルくらいである。普通の90cm水槽は150リットルなので、それよりは少しスリムな形になっている。しかし、水泡眼その他のランチュウ系の背びれのない金魚もいるから、あまり深さがない方がいいし、何よりこの形がなかなか気に入っている。いわゆる前面曲げガラス水槽というもので、なかなか洗練された印象だ。商品名は「レグラスR-900S」だが、ガラスの厚みが8mmあって、それもこの高級感の一因のように思われる。しかもこの高級感の割に、ネット上のいろんなところで安売りしていて、なかなかお得な品だ。


 で、これまでは40cmの小さい水槽で青文(思いっきり退色したが)、水泡眼、江戸錦の3匹を1年ほど飼っていたのだが、この新水槽が来た直後に黒らんちゅうとオランダ獅子頭の小さい子を買って来て、その後さらにいわゆる「トラ蝶尾」を迎え入れた。黒らんちゅうとオランダは築地市場のパウパウアクアガーデン、トラ蝶尾は池袋東武の屋上で見つけたものである。確か黒らんちゅうが1400円くらい、オランダが900円くらい、トラ蝶尾が3000円くらいだった。「トラ蝶尾」というのは黒い「蝶尾」が退色して二色になっただけで、「トラ蝶尾」などという名前をつけることに異議を唱える向きもあるようなのだが、普通に美しいので全く問題はないと思われる。




 で、その6匹のうちの4匹がこれである。どうも江戸錦のヒレに最近「追星」という、オスの発情してる印らしきものが見えて、かつ水泡眼を追っかけまくってるので、どうも彼がオスで、水泡眼がメスのように思われる。水泡眼はひたすら追われまくっていて、かなり体力を消耗してるんじゃないかと心配だ。


 なのだが、この新しい水槽を入れてから10日ほどたって、どうもいきなり大きな水槽に変わったせいなのか、あるいは最近水温のアップダウンが激しいせいなのか、それともちょっとエサをやりすぎたせいなのか、原因ははっきりわからんのだが、金魚たちの体調が次々と悪くなった。まず青文(前述の通り完全に白いのだが)が水底に沈むようになって、その後トラ蝶尾が白点病を発病し、さらに江戸錦が転覆病っぽくクルクルし始めて、おまけに青文・黒らんちゅうも白点病、オランダが妙に暴れる、と災難が続いた。その中で、水泡眼はアホ面で淡々と元気に生きている。意外なものだ。


 体調が悪くなった魚はバケツに移して塩水浴、ココア浴、メチレンブルーなどで治療していたのだが、しばらく経ってもなかなか簡単に治らなかった。しかし、因果関係が本当にあるのかどうかはわからんが、数日前にいわゆる「唐辛子浴」、すなわち唐辛子を1つ/10リットルの割合で投入してみたら、その2日後くらいにだいぶ回復してきた。今日からはヒーターも入れて、いざとなれば水温を上げて治療しようと思うので、もはや峠は越えたものと思われる。現在は6匹全てがこの水槽に復帰して、とりあえず普通に過ごしている。わずかに白点らしきものが少し残っている奴もいるのだが、それも水温を上げて対処するつもりだ。いずれにしても、この数週間は金魚たちがいろいろと騒ぎを起こして大変だった。


 この中で特に青文と水泡眼とは長い付き合いということもあって、この1年の私のいろんな忙しさとともに過ごした奴らだということもあるので、死なれると困るのである。しかもこの2匹は私が魚の飼育の仕方を1から勉強した時のいわゆる「最初の子」なのであって、「手のかかる子ほど可愛い」せいか、いつの間にか思い入れが強くなってきてしまったようである。魚といってもやはり性格の違いというのが明確にあるので、その辺りで惹きつけられてしまう感じだ。

野村と星野

 タイガースの近年の歴史の中で、二人のいわば「外様監督」による時代――野村の3年間と、星野の2年間――は重要である。周知の通りタイガースは2003年に、18年ぶりのセリーグ優勝を達成したわけだが、その2003年の劇的な優勝に至る過程は、1998年のシーズン終了後に、野村が監督に就任したところから始まると考えてよい。ここから、いわゆる「ダメ虎」からの脱却が始まったのである。といっても、もちろんこうした意見に対して異論もあると思われ、野村の前にも吉田義男さんという大人物を監督としていたのだから、それまでも球団の中に何らかの変革の意思があったことも確かである。しかし、伝統志向が決して弱くはないこの球団で、前例の少ない外様の名監督を抜擢した98年オフの時点は、やはりタイガースが大変革に動いた「区切り」として捉える意味が大きいと思われる。そして、星野の後任で、生え抜きの岡田時代が始まった時には、もはやタイガースは誰も「ダメ虎」などとは呼ばない、優勝争いの常連となっていたのである。そういうことで、この野村・星野時代は、一つの変革の時代として捉えることが出来る。

 この野村と星野の二人だが、いろんな意味で好対照であると言える。まず、この阪神監督の時代の実績が、野村は3年連続最下位であった一方で、星野は初年度こそ4位に終わったものの、2年目に凄まじい勢いを見せて優勝を遂げている。また、阪神監督としての二人の取り組み方も好対照である。野村はあまり外部からの人材の登用を行わず、むしろ現状のメンバーのまま、作戦面・精神面を重視して変革を試みた。星野は大胆なリストラと外部の人材の積極的な登用によって、野村よりも遥かに具体的で、結果を重視した変革を試みたといえる。そして、この二人の「キャラ」というのも好対照である。マスコミから流れてくる野村の人物像というのは、陰険で、暗く、地味である。一方で星野は、激情型で、社交的、派手、といったイメージで捉えられる。この二人同士の関係がどういったものかについては噂があまりないが、野村は星野の監督ぶりを評価しているようだから、少なくとも悪い関係ではないようである。


 そういった二人であるが、この変革の時期の中で、結果として、野村はその変革に失敗し、星野は成功した、とは言えるのだろうが、しかしだからといって、一般にイメージされている人物像の通り、野村が堅く保守的であり、星野がそれよりも自由で柔軟な発想の持ち主、ということは出来ない。恐らくは、それはむしろ逆である。詳しくは書かないが、クイックモーションや「ノムラスコープ」の発明といった技術革新を次々と生み出し、新たな世界を切り開いてきた野村に比べ、バントを駆使し、あまり多様な作戦に挑戦しない星野の手法は極めて堅実である。また私としては、普段話す言葉を聞いていても、一見したキャラクターとは裏腹に、野村は非常に純粋で素直な性格で、星野は冷静・狡猾で、世渡り上手な人物に見える。両者の間に優劣を見出そうとするわけではないが、強いて言えば、野村は理想主義者であり、星野は現実主義者である、と言っていいのではないか。もっと大胆に言えば、野村は学者であって、星野は政治家なのである。いずれにしても、両者は強烈な個性の持ち主なのであって、たとえ阪神の伝統と整合しない部分があるにしても、彼ら二人のリーダーシップによるあの時代は、やはり偉大な時代だったのである。

中野坂上



 中野の中心地区といえば、それは中野駅周辺、と思う人が多いに違いない。それは決して間違いではないのだが、しかし中野駅周辺というのは、大昔から中野の中心だったわけではない。かつて中野の中心であったのは、実はこの中野坂上の周辺エリアであった。


 そもそもこの中野という地域は、今でこそ荻窪や阿佐ヶ谷などとともに「中央線」沿線の住宅地として知られているが、もともとこの地域の中心となったのは中央線ではなく、今の青梅街道であった。鉄道で言えば、この中野坂上を含む丸の内線沿線である。


 中野の歴史を簡単に追っていくと、江戸時代よりも以前は、この中野というのはススキばかりが広がった何もない地域であった。「中野」という地名も、「野」原の「中」といった意味で生まれたということである。


 そうした何もない中野に発展がもたらされたのは江戸時代の初期、宿場町としての新宿の発展に影響されて、今の青梅街道沿いに商業地帯が育った頃からである。そしてその発展の中心が、今の中野坂上のエリアであった。


 中野は明治以後、「中野町」として東京府下の豊多摩郡その他に属するのだが、その際町役場は中野坂上近くの宝仙寺の境内に置かれている。中野町はその後、東京近郊のベッドタウンとして急速に発展して、昭和10年代に「中野区」となるのだが、それとともに中野の中心は中野坂上から中野駅周辺へと移ることになる。区への昇格と同時期には、区役所が中野駅南口、続いて北口の今の位置に移転していて、恐らくはそれと同じ頃に、商業的な中心も中野駅周辺に移ったものと思われる。


 そういったわけで、行政上も商業的にも、中野の中心は戦前から戦中にかけての時期に、中野坂上から中野駅周辺に移ったというわけなのだが、しかし、中心を中央線に明け渡した青梅街道/丸の内線沿線がどうなったかというと、一度来てみればわかるのだが、現在でも、その「中央線沿線」のインパクトほど、中央線エリアに圧倒されているわけではないのである。


 この写真はとてもキレイに撮れたとは言いがたいものだけれども、現在の中野坂上にはこのように、かつての「新宿の下っ端」としての伝統を受け継いだかのような超高層ビルが4つほどあるし、そこから西へ続く青梅街道沿いには依然として多様な商店が並び、人々で賑わっている。


 住所の表記を見てもわかるのだが、中野駅の周辺が「中野区中野」となっている一方で、中野坂上の概ね北側は「中野区中央」、南側は「中野区本町」となっている。どれも「ここが中野の中心」と言わんばかりのネーミングで、中野区における中野駅エリアの覇権が必ずしも確立しているわけではないことが窺える。


 いささか強引に例えてみれば、青梅街道/丸の内線沿線が世界における欧州のようなもので、中央線沿線がアメリカなのである。要するに中央線沿線の方がインパクトは遥かに強く、力も勢いもあるけれども、しかし青梅街道/丸の内線沿線の方がいろいろとセンスがいいというか、面白みがあって、ちょっと老いてる感じもあるけれども、居心地がいいのである。


 そういうわけで、何かと「中央線沿線」という呼ばれ方をされる中野なのだが、実はこの中野坂上から始まる青梅街道/丸の内線のエリアというのも見逃せない。グルメ及びショッピングのスポットとしても面白いものが少なくないし、何より住む場所としては中央線エリアよりもずっといいのではないか、と思うのである。

鹿児島



 いきなり鹿児島に行って、二泊三日で帰ってきた。鹿児島についてはネットで調べてもよくわからなかったし、明治維新関連以外に特にイメージがなかったが、鹿児島市に着いた瞬間、その大都市ぶりにびっくりした。しかも規模がでかいだけでなく、文化も充実し、自然も楽しめる。人々は穏やかで優しい。理想的な街だと思った。欠点を挙げるとすれば、日本の他の大都市から遠いことくらいなのではないか。人々は関東人の私にとっては不思議なイントネーションで話していたが、その訛りも、決して田舎っぽい印象を受けなかった。


奥多摩


 今日の朝突然思いついて、奥多摩に行ってきた。青梅線の終点である。中野まで890円。帰りは新宿までの直通電車が出ていた。都心からのアクセスの良さの割りに、贅沢な山々の風景である。さらにもう少し秋が深まって、この山々が紅葉で染まる時期になれば、全国でもそれほど多くないほどの圧巻な景色を楽しめるのではないか、と思った。

 思いつきで行ったので、情報収集の類は全くやっていないのだが、景色以外のこの地の名物は渓流釣り、温泉、わさび、といったところのようである。この写真の右下に池のようなものが写っているが、これは川を利用した釣堀みたいなもので、要するに渓流釣りの簡易版のようなことが出来る。魚はニジマスである。そこで私もやってみたのだが、3時間ほど頑張ったものの、収穫はゼロだった。ただ、なぜか他のお客さんが私に魚を一匹くれた。帰り際、その一匹が入った網を受付のおばちゃんのところに返しに行ったら、「食堂でこの魚焼いてもらう?一匹しか釣れないんじゃ、タダで焼いてあげるよ」と言われて、若干情けない思いがした。しかし非常に美味い塩焼きにしてくれたので、結局のところは満足であった。