先日、ある友人と話をしていたときのことです。
共通の知人で、ステージ4bの癌を患っている○○さんの話になりました。


そのとき友人がこんな言葉を口にしました。
「○○ちゃん、命の時間を使っているんだね」


その言葉に、私は少し黙ってから、こう返しました。
「ちょっと待って。それって○○ちゃんだけじゃないよ。

私たちも同じように“命の時間”を生きているんだよ」



こう言うと、冷たく感じる方もいるかもしれません。
「なんて薄情なことを言うんだろう」
「心がない人だな」
そんなふうに思われるかもしれません。



でも私は、命の時間というものを、もっと広く捉えていたいのです。

今、多くの人が


癌=死


そう思い込んでいます。


たしかに、ステージによっては命を落とすこともあります。
ステージ4bとなれば、医師から「余命」という現実的な数字が告げられることもあるでしょう。

でもね、その数字は「ただの統計データ」に過ぎません。



実際に、
・余命通りに旅立つ方もいれば、

・その前に亡くなる方もいて、

・驚くほど長く生きる方もいます。

・そして、癌が治ってしまう方だっているのです。



じゃあ、その違いは何?

私は、命の時間の使い方にこそ、その答えがあると思っています。



不安、恐怖、絶望の中で日々を送る人。

たとえその感情を抱きながらも、命の時間を慈しみ、大切に味わって生きる人。



同じ“限られた時間”でも、その使い方によって、人はまったく違う人生を紡いでいきます。


私たちは皆、いつか終わりが来る命を生きています。
ただ、その「限りある命の時間」を意識して過ごしている人は、どれほどいるでしょうか?


もしかしたら、癌という病は、私たちに大切なことを教えてくれているのかもしれません。

「命の時間は、誰にとっても有限なんだよ」って。

 

 

 

 



野上徳子(のがみとくこ)
内科医・心理カウンセラー
1967年生まれ、岡山県育ち。愛媛県松山市在住。

30年診療に携わる中で、昔から‟病は氣から”というように病気の原因は氣(意識)が大きく関わっていることに気付き、現在は、病気や生きづらさの中に生きる価値を見出し、本当の自分として命を輝かせて生きるサポートをしています。

 

 

 

 

松山に戻ってまいりました。
たくさんのあたたかいメッセージ、本当にありがとうございます。心に沁みました。

 

 

奈々太郎も、3日間ペットホテルに預けられて緊張していたのでしょうね。
迎えに行くと、いつもはおとなしい子が興奮してワンワンと吠えて……きっと心細かったのだと思います。

 

奈々太郎久しぶりの散歩で嬉しそうです。

 

今回、家族を見送るという経験を通して、あらためて思い知らされました。
人がひとり旅立つということが、これほどまでに大変で、心を揺さぶるものなのだということを。

 

 

あまりにもやるべきこと、決めることが多すぎて、主人には悲しむ余裕さえなかったのではないか……そんなふうに見えていました。


けれどふと、主人がぽつりとこんな言葉をこぼしました。
「母が亡くなって、悲しいというよりも、“やっと逝けたね。お疲れさま”っていう感じなんだ」と。

 

 

長い療養生活の末に、一度も自宅へ戻ることのなかった義母。
病院から式場へ向かう道の途中、車が家のすぐ前を通りました。


そのとき、義母の魂も、ほんの一瞬、懐かしいわが家を見つめていたのではないか……そんな気がしてなりません。

 

 

 



野上徳子(のがみとくこ)
内科医・心理カウンセラー
1967年生まれ、岡山県育ち。愛媛県松山市在住。

30年診療に携わる中で、昔から‟病は氣から”というように病気の原因は氣(意識)が大きく関わっていることに気付き、現在は、病気や生きづらさの中に生きる価値を見出し、本当の自分として命を輝かせて生きるサポートをしています。

 

 

 

私たちはなぜ、「死」について考えるのでしょうか。

それは、漠然とした不安があるからかもしれません。

 


年齢を重ねるにつれ、身近な人の死をきっかけに、

少しずつ「死」は現実味を帯びてきます。

 

 

けれど、実際に死を「自分ごと」として感じられるのは、

よほど近しい人の死を体験したときだけ。

 


それほどまでに、「死」はどこか遠いものとして私たちの日常から切り離されています。

けれど、死は誰にでも必ず訪れます。

 


だからこそ、死について考えることには大きな意味があります。
死を見つめることは、「どう生きるか」を考えることでもあるからです。

 

 

医療の現場で感じるのは、若い人の死と高齢者の死への反応の違いです。


若い人が病気になると、医療者も家族も必死になります。亡くなると深い悲しみが広がります。
けれど、高齢者が病気にになると、「寿命だから仕方ない」と、どこか受け入れられてしまう。

 

 

その違いはどこにあるのでしょう。

それは「経験の差」ではないでしょうか。

 


若い人には、まだたくさんの経験が待っていた。
恋愛、結婚、子育て、旅、仕事の喜び…。
それらを経験できずに亡くなることが、「かわいそう」と思われるのです。

 

 

一方で、高齢者は「もう十分生きた」と思われる。
つまり、経験を積んだかどうかが、生の満足感を左右しているのです。

 

 

人は死を目前にしたとき、後悔を抱きます。
「あれもしたかった」、「これもやっておけばよかった」


そのすべては、“経験”したかったこと。

 

 

 

がんを宣告されると、命の期限をはっきりと意識するようになります。


すると、これまで我慢していたこと、後回しにしていたことを「今やろう」と思い立つ人がいます。
がんをきっかけに仕事を辞め、本当にやりたかったことに踏み出す人もいます。

 

 

「やりたいことをすべてやって生ききる」
その姿は、生きるとは「経験を重ねること」だということを教えてくれます。

 

 

命は永遠ではありません。


だからこそ、今という時間を大切に、自分の人生を自分の足で歩いていくことが大切です。


どれだけ経験できたかが、「生きた証」になるのです。

 

 

 



野上徳子(のがみとくこ)
内科医・心理カウンセラー
1967年生まれ、岡山県育ち。愛媛県松山市在住。

30年診療に携わる中で、昔から‟病は氣から”というように病気の原因は氣(意識)が大きく関わっていることに気付き、現在は、病気や生きづらさの中に生きる価値を見出し、本当の自分として命を輝かせて生きるサポートをしています。

 

 

 

義母が旅立ちました。

 

あまりにも突然で、
つい昨日まで元気だったと聞いています。

 

 

誤嚥性肺炎で入院。
一度は落ち着きを取り戻したものの、
嚥下機能が弱くなり、誤嚥を繰り返すため、胃ろうをつくりました。


退院に向けて準備をしていた矢先のことでした。

 

 

義母は、感情が豊かで、思ったことをすぐ口に出すタイプの人でした。
その率直さに、私は何度も戸惑い、時には傷つくこともありました。

 

 

結婚前、夫は言っていました。
「母はクセがある人だから、きっと苦労すると思う。
年を取って認知症になったら、手がつけられなくなるかもしれない」


その言葉どおり、義母の言動に心が揺れる日々が続きました。

 

 

心理学を学び始めた頃、
義母に対する怒りやわだかまりが次々と浮かび上がり、
それを手放すためのワークに何度も何度も取り組みました。

 

 

2017年、義母は急性腎炎で入院。
長い療養生活の中で、認知症が進行していきました。

 

 

晩年には、実の息子である夫の顔さえわからなくなっていたのに、
私の顔を見ると、にっこりと笑って
「徳子さん、よく来てくれたね」と言ってくれました。

 

 

“目の前の人は、自分の写し鏡” と言われます。

 

 

今、振り返ってみると、
義母は私の中に眠っていた「怒り」という感情を
引き出し、解放させてくれた存在だったのだと思います。

 

 

義母のおかげで、私は少しずつ
怒りを手放すことができるようになりました。

 

 

旅立った義母の顔は、まるで眠っているように穏やかで、安らかでした。

 

「お義母さん、ありがとう」

 

 

 

 



野上徳子(のがみとくこ)
内科医・心理カウンセラー
1967年生まれ、岡山県育ち。愛媛県松山市在住。

30年診療に携わる中で、昔から‟病は氣から”というように病気の原因は氣(意識)が大きく関わっていることに気付き、現在は、病気や生きづらさの中に生きる価値を見出し、本当の自分として命を輝かせて生きるサポートをしています。

 

 

 

こんにちは。
先週、WaRa塾の第2講から参加してきました。

 

WaRa塾については、

あらためてこちらのブログでもご紹介していきますが、

 

今日はその2日目の最後に行った「死の体験ワーク」について、

感じたことを綴りたいと思います。

 

 

講座の終盤、
「これから“死の体験ワーク”を行います」と。

 

 

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられました。
ああ、ここでもまた “死” というテーマに向き合うのか…。


そう思うと、どこか覚悟のような気持ちが湧いてきました。

 

 

ワークの具体的な方法はここでは詳しく触れませんが、
「大切な人」、「大切なもの」、「夢」、「大切な日常の活動」


それぞれを5つずつ書き出していき、
“死に向かう過程”の中で、それらをひとつずつ手放していくというものでした。

 

 

たとえば、ある日突然、身体の不調に気づき病院へ行くところから始まります。

 


検査を受け、結果に異常が見つかり、さらに詳しい検査へと進む…。
その過程で、自分の中にある大切なものが、ひとつ、またひとつと失われていくのです。

 

 

診断、治療、そして進行していく病。

 


それに伴って、
人とのつながり、叶えたかった夢、愛しい日常、
そして、身体の機能までもが静かに、しかし確実に奪われていく。

 

 

またひとつ失い、またひとつ手放す。

 

 

こんなにも多くの大切なものが、
病や死という現実の中で、少しずつ少しずつ、

自分の手からこぼれ落ちていくのかと、
胸が苦しくなりました。

 

 

最後に残ったのは、たったひとりの「大切な人」。

 


それすらも、やがて手放す時が来る・・・

 

 

「死」とは、
すべてを失っていく過程であり、
すべてを手放していく旅路なのだと、
深く心に沁みました。

 

ある日の夕焼け

 

でも、こうも思いました。
最初は何も持っていなかった。

 


この手にある全ては、

いつかどこかでいただいたものだったのだと。

 

 

そう思うと、不安や恐れ、悲しみさえも、
静かにほどけていくような感覚がありました。

 

 

今ある日常、
今ここにある全てのもの、そして、そばにいてくれる人。

 

 

「ありがとう」と、ただそれだけを感じています。

 

 

 

 



野上徳子(のがみとくこ)
内科医・心理カウンセラー
1967年生まれ、岡山県育ち。愛媛県松山市在住。

30年診療に携わる中で、昔から‟病は氣から”というように病気の原因は氣(意識)が大きく関わっていることに気付き、現在は、病気や生きづらさの中に生きる価値を見出し、本当の自分として命を輝かせて生きるサポートをしています。