小さな花のひとりごと -28ページ目

小さな花のひとりごと

乳がん再発の心の動きを綴っています。
現在、肺、縦隔、骨に転移していますが、治療のおかげで元気に過ごすことができています。
やれることをやれるうちに。

主治医が、今の病院を去ることが決まって、最後の診察日がきました。
 
なんと激混み!
これではしんみりと最後の挨拶もできません。
 
思いおこせば、20年前(21年前になりました)の出会いから、
途中、ご自分のクリニックを立ち上げ、私もそちらに移りました。
10年経ち「これからは、いつでもいいよ」と、予約がなくなって軽く卒業になり、
採血しやすい季節になったら行こうと思いながら、
ズルズル先延ばしにするうちに、
まさかの再発でまさかの再会をすることになった大事な先生です。
 
先生、どうして辞めちゃうのかな、
直接聴けずに緩和の先生に聴く・・
緩和の先生曰く
先生は見た目よりも実はお年だからね、お疲れなんだよ。
ご自分のクリニックもあるし、手術があれば毎日こっちの病院に顔を出さなければいけないし。
少しゆっくりしたいんじゃない?
 
・・先生、お年が理由なの?
私、先生のお年知ってます。
まだまだでしょ。
寂しい。

20年前、術後のいつもの回診に来た先生が
縫った糸がもうすぐ取れそうなのを見つけて
「ついでだから取っちゃおう」となった時、
先生「あれ?良く糸が見えないぞ、もっと明かりをくれ」と
看護師に言ってましたね。
看護師も小さな懐中電灯のようなもので私の傷跡を照らしながら、
「これじゃ、ともしびですね」
「この灯りでは・・うーん、目がつらいな」
やっとのことで糸が切れた時は、先生、看護師さん、私の3人でホッとしましたね。
 
あれから20年です。
一緒に私も20年、年を取りました。
 
期せずして再会した昨年の今頃…
ちょうど今頃でした。
ほとんど変わっていない先生にお目にかかれて、ドキッとしたのを覚えています。
先生、変わってないですね(相変わらずステキ)
私に暴言を浴びせた芋虫のようなO医師とは比べようがないほど紳士です。
 
きちんとご挨拶したかったのに、
このドアを出たらサヨナラですねと心で泣いて診察室を出ました。
 
 
今日は、誕生日でもありました。
こんなに記憶に残る誕生日もなかなか無いと思います。
知り合いから届くメッセージも、いつになく温かく感慨深いものになりました。
 
 
 
初発の頃の話⑦
 
楽しみにしていたはずの退院がちっとも面白くない。
 
退院って、清々しいはず。
何とも言えない解放感で楽しくて、景色まで違って見えて、生きてる喜びを感じます。
 
でも今回は、次に病院に来るときは
「抗がん剤やります」と不本意だけど、自分の口で言うつもり。
自分で言うからにはもう逃げられない。
 
退院したら行く予定だったランチも、味はわからず完食もできませんでした。
娘からは
「ママ、なんか元気ない?」と心配されるくらいのどんより。
 
それからは、今まで触りもしなかったパソコンに目覚めました。
訳もわからず憂鬱になっているだけじゃ前に進めない、
抗がん剤治療とはどんなものか、
相談する機関はどこかにあるのか、
私のように悩む人はいないのか、
初めて我家のデスクトップに触ってみることにしました。

 大きな患者会に電話したこともありますが、返事は冷たいものでした。
患者会ってこんなものかとガッカリしました。
 
ある日、子ども達の部屋を掃除していたら
「ママ死なないよね」と書いてあるメモが出てきました。
私は自分のためだけに生きてるわけではないことに気付かされました。
 
数年して高校に入る時には、駅に送り迎えしなくちゃ、お弁当も作らなくちゃ、
小さなことですが、私がやらなくて誰がする!
 
こうなったら、万が一再発しても悔いが残らないようにとことん治療しよう、なんでもやろうと決意。
(他にも背中を押してくれた言葉はありますけど)
 
それからは
早く抗がん剤を終わらせるのが目標になりました。
パソコンの検索も、治療を乗り越えた人の体験談が中心になっていきました。
 
 
 
 
初発の頃の話⑥
 
退院前日の話は、いつもの診察室でなく静かな部屋を使いました。
外来の無い日は静かです。
どこかの部屋を使ったのですが、全然覚えていません。
先生はじっくりと長い時間を使って私と会話をしてくださいました。
 

ステージⅡ

リンパ節転移あり

エストロゲンとプロゲステロン共に陽性

タイプは硬がん。

今後お薦めアイテムは、抗がん剤治療(EC療法とタキソテール)とホルモン療法。

 

硬ガンとはいわゆる顔つきが悪いと言われるタイプだそうです。

ガンと告知されてから、本には「顔つきの悪いガン」という種類があると必ず書いてありました。

どんな顔なんだろうとずっと思っていましたが、

こいつか。

 
抗がん剤と言う言葉に「ガーン」となって、何も頭に入らなくなりました。
ガン告知よりもショックでした。
主治医の話を受け入れられませんでした。

副作用の説明も、薬剤師でなく

先生から聴かされることになりました。

 

逃げだしたかったです。

かなりビビりました。

経験ないので副作用のイメージはもれなくドラマのアレ。

むりむりむり。耐えられない。

 

おまけに先生は

「やらなくてもいいんだよ。ホルモン療法でも効果がありそうだし、

それだけでも・・」

「でもやっぱり医師としては薦めたい」

どっちなの。

 

結局、返事は1か月後の外来の時までに決めることになって、話は終わりました。

返事は決まっていたと思いますが、

諦めがつくまでの1か月の猶予をいただいた感じです。

今から思えば、なんでそんなに抗がん剤を恐れたのか、

なんてことなく淡々と終わってるのです。

 

私の副作用が軽かったのかもしれませんが、

もし悩んでる方がいらしたら恐れることなくチャレンジしてね、

人間の身体って、そうそう簡単に負けませんよ、とお伝えしたいです。

 

現に今の私も

1年前に、ある乳腺医師から匙を投げられたことがあります。

私は施しようがなくてそのうち死ぬんだと思わされる言葉を浴びたのですが、

しぶとく生きてます。

普通に生活ができています。

諦めることなく恐れることなくチャレンジするって大切、とつくづく思います。

 

 

 

 

 
初発の頃の話⑤
 
初診のときに付き合ってくれた友人が私の洗濯物を引き受けてくれました。
友人のお子さんからは「なんでそこまでするの?」と不平不満が出たそうですが、
他に頼れる人もいなかったので助かりました。
 
手術から数日後、主治医から
「病理の結果が出たよ。後で詳しく話すけど、ガンは最初の見立てよりも大きかった。
 リンパ節転移もあったのでステージ2だね」
と話に来られた時がありました。
そこで少し落ち着いて考えればわかることです。
(リンパ節転移か…もしや抗がん剤もすることになるかも?)と思うでしょ、普通。
 
私は、最初のステージ1、リンパ節転移なしだけが擦り込まれていたので、
先生の話を能天気にへらへらと「ふーん」と聞き流していたのです。
 
今後の治療があることなど、想像すらしていませんでした。
退院の日を待つだけのお気楽患者。

退院の前日(土曜日)には、病理の結果と今後の治療予定の話をするからと先生に呼び出されました。
たぶん先生は土曜日にわざわざ出勤してくれたのだと思います。
資料に書いてある内容を丁寧に説明して頂きました。
 
土曜日にしっかり主治医と話をして、
日曜日には通院患者のいないガランとした病院をあとにしました。
退院の日は、迎えに来れる次女と一緒に
前から決めていたおしゃれなお店でランチをしてから帰る予定を立てていました。
 
実際には主治医の説明にショックを受け、ランチどころではなかったのですが、約束は約束です。
 
 
初発の頃の話④
 
入院の前日。
いつもと同じように過ごしました。
(いつもと同じではダメなんです。手術するんだよと子供たちに言わなければ!)
 
最後まで面と向かって話すことができませんでした。
手紙を書くことにしましたが、どう書いたらいいのか筆が進みません。
ガンと分かってから1か月間、この件は黙ってきたのでますます言えなくなっていました。
日ごろのコミュニケーションの少なさがこんな時にあらわになります。
手紙にも本当のことが書けませんでした。
 
2日後の手術当日は、夫は長女だけを連れてきました。
なぜ?
 
長女は病院に向かう車の中で今回のことを聴かされたようです。
聴きながら泣き出したと聞きました。
母は死ぬんだ、くらいに想像したのでは…。
鼻をグズグズさせながら病室に入ってきました。
 
ところが、自分の足でスタスタと
「じゃあね、ここからは眼鏡も外さないといけないから預かっていてね」と
手術室に入っていく私を見て、気が抜けたことでしょう。
 
長女は、切り取った部分を説明の際に見せられています。
センチネル生検で青い色素にまみれ、今や不気味な物体に変貌した胸を。
(私が見たかったのに)
耐えられず途中退席したそうです。
私が長女だったらどうしただろう・・・。
朝から気持ちが追い付かない事ばかり、一気に経験させられて、
夫のデリカシーの無さに突っ込みようがありません。

 

次女とは手術後の夜に携帯で話をしました。
術側の腕はまだ動かすことができず、もう片腕は自動の血圧計が取り付けられており、
両腕とも自由がありませんでした。
不本意ですが、夫に携帯を耳元に持ってきてもらって、次女と話すことができました。
 
「ママ帰って来れるんでしょ?」
電話の向こうで次女が泣き出しました。
(帰れるよ、ごめんね。ちゃんと言わずに入院しちゃって)
 
腕に自由がないと涙も拭けないのです。
涙を拭くために、
再び不本意ながら夫に涙を拭くように頼みました。
 
夫の「なに、泣いてんだよ」
という一言に、心がピキッと冷やされ涙も止まりました。
 
 

前回の話がアメトピ掲載されました。

今までに見たこともない順位をいただき、感激です。

ありがとうございました。