高橋箒庵「萬象録」では、箒庵の日々の社交についての記事が多く、茶会や、交詢社の金曜午餐会などで政財界の一線にいる人たちと会食することは多くても、懇談、談笑して終わるということが多く、彼らがじっさいにどのような社会問題に直面し、どのようにその処理に奔走しているのかということまでは、なかなか見えてこない。

 

そのなかにあり、大正元年12月20日の記事、すなわち益田孝と有賀長文が発起人となって三井集会所で開かれた、和田豊治、藤山雷太、磯村豊太郎の3人の「新帰朝者」報告会の記事中、和田豊治が見てきた欧州の綿業視察の内容が興味深い。

 

(なお、この会には三井各商店重役、益田太郎、益田英作、野崎広太、草郷清四郎らが出席している。)

 

和田豊治の報告内容をしるすと、

 

「ロシアの紡績業は非常に発達し、ドイツの1200万錘【錘は紡績の量の単位】に対し、870万錘に上昇している。経営者の多くは英国人で今後ますます発展しそうだ。原綿は小アジア産のものが多く、外国からの原綿輸入に頼らずに供給できる勢いである。【ロシアの領土に小アジアは含まれないので、この場合、黒海北部のロシア領内を指しているのか?】

 

 ロシアの紡績工場の職工【工員】の勤務形態【原文では「使用法」】は、現在日本で行われているスリーセット(昼夜24時間を3分し、一職工が8時間ずつ交代)に替わり、ツーセットという方法がとられている。 

 これは、午前4時から午後10時の18時間を2分し、一職工あたり9時間労働する。たとえば甲グループが朝4時から4時間半働き、8時半に乙グループと交代する。乙グループは午後1時まで4時間半働き、そこで再び甲グループと交代する。このように、4時間半ごとに二回交代することで、食事時間を設ける必要もなく、かつ工員は新鮮な気持ちで働けるため、評判がよいそうなので、日本でも検討する必要があると思う。

【甲グループ:朝4時半から8時半、午後1時から5時半、乙グループ:午前8時半から午後1時、午後5時半から10時】

 

またヨーロッパの紡績工場では、機械操作に従来のシャフトによる動力ではなく電気を使うようになっており、大工場内に柱が必要なくなるという建築上の利点もある。これも日本でも研究する必要がある。

 

ロシアの女職工の一日の工賃は1円程度で、日本の女工の4倍だが、日本の女工に比べて勤勉で、成果にも歴然とした違いがある。

 

また英国では職工の賃金が年々上昇し、一家5人で工場勤務すると一週間の収入が10ポンド、ひと月で400円にもなり、夏に南フランスに避暑にでかけるなどという贅沢が生じて、さらに労働時間の短縮への希望がますます激しくなりストライキを起こして資本家を苦しめている。今後10年これが続けば、英国の紡績業者は現状を維持できず、綿糸産額は非常に減少し、職工自身も賃金減少という事態になるだろうと、有識者は憂慮している。」

 

 

和田豊治は、明治34年から経営不振の富士紡績に専務取締役としてはいり、この時期には再建に成功していた。【コトバンク情報;https://kotobank.jp/word/和田豊治-154141】

 

上記の帰朝報告の内容からは、明治終わりごろの日本やヨーロッパの紡績業の工場の実態を垣間見ることができるといえよう。

 

興味深い点を抜き出すと、

 

日本の紡績工場では、昼夜三交代で女工が働き、一日あたりの工賃は25銭程度であることや、ロシアの女工のほうが賃金を高いとはいえ、勤勉で、成果もあげているということもわかる。日本の女工はそれほど勤勉ではないと言っているようにもとれる。

 

そして、紡績工場重役から見て、イギリスの工員が南フランスに避暑旅行に行くことが、身分にそぐわない贅沢だと、いうニュアンスが感じ取れることも興味深い。

 

 

ここで思い出されるのは、細井和喜蔵「女工哀史」だ。

1925(大正14)年に刊行され、大正期の女工の劣悪な待遇を世に知らしめたこの著作のなかに、関東大震災(1923大正12年)が起こったときの富士紡績小山工場で、炎上する工場から避難しようとした女工たちが、監督官に、おまえたちの身体は金を出して買ったのだから、自由な行動はとらせない、と言われて敷地内に監視付きで拘束され、多数の焼死者が出たことが書かれている。

 

「女工哀史」を読めば、全般的に、夜間を含む長時間労働、粗悪な衣食住環境、ノルマやリンチなど、大正時代の女工(おもに紡績業)の置かれた環境が改善していないことがわかり、和田豊治氏が、さかのぼる10年前に欧州各国で見聞し、改善したいと思ったこともあまり実行されなかったことがわかるのである。

 

和田豊治は、大正13年3月4日に、激務の中、62歳で胃がんで亡くなったそうだ。「財界世話人」と呼ばれるほど多数の企業や団体の経営にかかわり、富士紡績の仕事だけをしていたわけではないが、大震災の半年後の死が、焼死した女工たちの怨念のためだったのではないかとも思えてしまうのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考【和田豊治氏の其の言行】

矢野滄浪著

国会図書館デジタルコレクション

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972119

 

 

管理番号:9062490624

 

大正元年10月2日の萬象録によると、この日、高橋箒庵の麹町一番町邸に、高島北海、佐久間鐵園、益頭峻南が来邸した。

 

箒庵は、この年の文展入選をめざす八木岡春山を伝統的日本画のホープとして買っていたようで、出展予定の八木岡の屏風について、この三名にアドバイスを求めたと思われる。

 

先立つ8月5日の萬象録によれば、この年の文展では、日本画部門に「新派」と「旧派」が設けられることになり、八木岡は旧派に属する者として意欲的に屏風制作を行うつもりだと抱負を述べている。

(文展は、明治40(1907)年に創設されており、この年は第6回。)

 

また9月15日、18日の萬象録によれば、八木岡は、この屏風制作を箒庵邸の日本座敷客間で行うことになったようで、9月26日にはそれに着手している。

その経緯は不明だが、想像するに、八木岡の絵画の師匠である下條桂谷(げじょうけいこく)と箒庵には、明治29(1896)年ごろからの長い交友がある(「箒のあと」89を参照のこと)ことから、その弟子である八木岡に目をかけるようになったものであろうか。

前日の10月1日には、その下條が来邸し、八木岡の山水屏風に「自から筆を執りて樹木等を描き添へ、大體に於て上出来なりと評し居れり」とある。

 

さてこの日の三名は、いずれも文展の審査官である。

その三名が、出展予定の作品を見て、この部分をこのようになおしたほうがいい、などのアドバイスをしたというのである。内容はこまかく、かなり具体的だ。

この年の文展で、八木岡春山は入選するが、このようなことが事前に行われていたとは、すこし鼻白むような気がする。しかも、師匠が手直しした作品で入選しているわけだ。

 

2013年に、文展のとおい後身である「日展」の審査において、書の篆刻部門の入選に関して事前調整の不正が行われたことが公になったが、縁故者を優遇するのは、人間のサガとして、昔も今も、これからも、古今東西にあらわれる現象だろう。

なにも、そう目くじらを立てるほどのことではないのかもしれない。

 

それにしても、今回高島北海の名が登場したことが、ちょっとした驚きだった。

高島北海といえば、エミール・ガレに影響を与えた男、である。なんとなく、フランス在住の芸術家のイメージがあり、高橋箒庵に接点があるとは想像もできなかったからだ。

芸術家だとばかり思っていたが、本業は工部省の役人。スタートは明治5(1872)年の生野銀山の仕事で、フランス人鉱山技師のお雇い外国人、コワニエとも出会っている。その後政府による派遣でナンシーに3年間滞在したときに、ガレとの交流があったということを知る。

 

そういえば、下條桂谷も役人と日本画家の二足のわらじをはいた人生を送った。

 

また益頭峻南であるが、益頭という姓の人物が、益田孝が幕府遣欧使節の一員としてヨーロッパに行ったときのひとりにいたような気がしたので調べてみると、それは、峻南の父にあたる、益頭駿次郎という人物であることがわかった。

益頭駿次郎は、万延の遣米使節団にも加わっており、どちらの渡航にも見聞記を残している。

 

 

 

 

 

 

 

 

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大正元(1912)年10月1日の高橋箒庵「萬象録」には、箒庵が前年から手がけていた四谷伝馬町の新宅建築についての記述が見られる。

 

「四谷新宅地に到り南側に石塀を築くことを木全に注文せり。宅地の東南側に築山を作り塀に倚って土を盛り、来春其上に樹木を植ゑ置かざれば築庭手後れとなるべきに就き、此部分だけ石塀を築く事とせり」

 

建設中のこの新宅、のちの天馬軒は、同年8月11日の萬象録の記事によると四谷伝馬町一丁目にあった。現在の地名表示では四谷一丁目、つまり四谷中学校の西側付近だったということがわかる。

 

迎賓館に近く、いまでも都心の駅からの徒歩圏内だとは思えないような住宅街になっているところだ。

 

江戸時代には、江戸城の西の守りとして旗本を多く住まわせていた地域であるので、一戸あたりの敷地が比較的大きく、明治以降も高級な住宅街を形成していたのだろう。

 

四谷一丁目の北側のへりには新宿通りが走っているが、この大通りに面しても戦前にはお金持ちの大邸宅が並んでいたのだろうか。

(現在の新宿通りにはビルが林立している)

 

 さて本文中にある「木全」とはいったい誰だろう。作庭、庭師、造園などのキーワードで検索してみると、「木全造苑」という造園会社が愛知県一宮市にあることがわかり、木全は、きまた、と読むようだ。が、この本文中にある木全との関連は残念だがわからない。古い本を読んでいるときに「庭師・植木屋」の意味で出てくる「駝師(たくだし)」をキーワードにしてみてもヒットはなく、木全が誰なのかは不明だ。木全という名前に引きづられて植木屋を想像してしまったが、もしかすると石塀を作る職人の名かもしれない。(後記:その後の日記部分で木全辰五郎という石工だということがわかった)

 

 箒庵がこの家の前に住んでいた麹町一番町の家に寸松庵茶室を移すとき、作庭にあたったのは益田孝の弟の克徳だった。克徳は明治36(1903)年に急死し、その後の箒庵の作庭のパートナーになるのは松本亀吉である。この四谷天馬軒も、松本亀吉が庭造りを行ったことが知られている。この松本亀吉は、もともと克徳が使っていた植木屋だった。木全は、松本の下で働く職人のひとりなのかもしれない。今後ふたたび名前が登場するかどうかに注意したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

管理番号:9061400122

 

 

 

 火曜日

 半晴 寒暖計四十八度

 

 越沢太助来訪、其談に、此程伊藤平山堂星ヶ岡茶寮を四万円にて買収し、五万円ならば即時何人にも売却すべしと云ふ、其仲諸道具を一万円と見積れば正価は実際四万円なり。茶寮は市有の地所七百坪の上に立ちて家は可なり古けれども木柄好く、今日新に之を建築せんとすれば数万円を要すべし、因て自分の東京住宅として買入れんと思ひ昨日現場を検分せしに、眺望絶佳にして市の地料は一坪十一銭即ち月に八十余円に過ぎず、貴意如何との事に就き、玄関坂坂路の上下を苦とせざれば住宅として或は面白き位置なるやも知れず、篤と勘案すべしと注意し置けり。

 

 松平直亮伯家所蔵茶入の実見記を口授す。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 月曜日

 晴 寒暖計四十七度(=摂氏8.3度)

 

 夜来の強風漸く収まる。

 

 池田慶次郎予て噂し居りたる川部利吉所持東山時代松竹梅蒔絵錫縁香合(三千円)を持参す。川部は一時余に買上げを乞ひ、他日不用と為らば買戻したしと希望し居る由なれば、兎に角買置く事と為せり。昨日、川部、池田等原宿池田(注・仲博)侯邸に赴き、雑品笠伏入札の準備を為し明日之を実行する筈なるが、見積金額一万円内外なるべしと云ふ。

 

 徳川家達公所蔵名物茶器の実見記を口授す。

 

[高田釜吉氏の音曲談]

 午後六時、高田釜吉氏の木挽町山口楼の晩餐会に出席す。高田氏は先頃或る友人会合の席に於て一中節を語りたるに、之を聴かされては一夕の御馳走なかる可からず、と同席者より要求せられたれば当夜此宴を催せし由、来賓は井上辰九郎、有賀長文、岩原謙三、土方久徴、川田鷹、今村繁三諸氏なり。高田氏は先頃余が茶人の御馳走には一品位必ず心入れの品物を交へざる可らずと言ひたるを、至極尤もと思ひたりとて今日国分寺の別荘に赴き自から鶉十数羽を打取りて、当夜席上に於て之を透き焼と為し葱に大根下しを添へて饗応せられたるには一同大満足なりき。余興は典山(注・錦城斎てんざん)の仙台騒動講談なりしが、後高田氏は自から義太夫を語るべければ余にも一曲をと頻に所望するに依り、余はおしんをワキとして清元保名を唄ひ藤間政彌に踊らせたり。続いて高田氏は其師匠某の三味線にて初めに紙治、後梅川の一節を語りしが、役者の声色などを学びたる事ありと覚しく口跡に稍聞くべき所あり。後余は高田氏が一中節を語りたるに依り今夕の御馳走を為したりとすれば、余も亦先例に倣い来月四日を卜して当席に於て今夜列席の諸君を招待すべしと相約せり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 水曜日

 晴、風強し  寒暖計三十八度(=摂氏3.3度)

 

 小田原の山県公より電話を以て、明日山下(注・山下亀三郎)氏主催の観舞会に誘引申し置きしが、公爵少しく風気にて外出六つかしく、勿論格別の事にはざれども一時用心の為め、山下氏に参会を断りたれば暫時延期と承知ありたし云々。

 

 川部利吉(注・道具商)来訪、一昨年秋元子爵入札の際、山西宗五郎が十四万円にて落札したる啓書紀八景帖は、爾後引取手なく其儘今日に及びたれば、今度根津嘉一郎氏に引取方を依頼せしに、一人にては力及ばざるに就き之を八分して一幅宛の掛物と為すべしとの意見なり。利息も嵩み居る事なれば、之を十六万円として一幅二万円宛にて好事家に分配せんとするは如何と言ふにぞ、余は過日も根津氏に向ひ一手にて引取り置くが得策なり、若し現金を出すを好まずば不用品を売却して之を取り置くべしと勧告したる次第なれば、此分割には全然不賛成なり。今一応根津氏に諮りて是非共同氏に買取らせ置くべしと注意せり。

 

 午後三時、帝国ホテルに開かれたる成瀬正恭長男正一と川崎芳太郎長女福子との結婚披露宴に出席す。三時より五時までの間に随意に参会すれは新夫婦入口に立ちて来客に接し、客は茶菓の饗を受け知人と談話などして随意退散する趣向にて、近来結婚披露に此式を採用するは簡便にして双方の為め好都合なり。子爵金子堅太郎、英人建築技師コンデル、前公使荒川巳次、松方巌諸氏と暫時雑談を交へて退散せり。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 火曜日

 晴 寒暖計四十二度(=摂氏5.6度)

 

[帝劇新年会諸名士の雑談]

 午前十一時、木挽町田中家に催されたる帝国劇場新年宴会に出席す。当日は帝国劇場社長大倉喜八郎男(爵)、同専務山本久次郎の主催にて、帝劇縁故者渋沢栄一男、小村欣一侯、福澤捨次郎、角田真平、坂田工学博士、役員側に於ては村井吉兵衛、福澤桃介等を招待し、松本幸四郎、尾上松助、沢村宗十郎、作者右田寅彦、舞台主任伊坂梅雪、其他帝劇俳優の重立ちたる者出席。最初に典山の水戸黄門記講談あり、次に小村侯の注文にて三遊亭圓右の素人芝居落語一席あり、圓右が或る村の素人芝居に於て役人不足の為め三河出の藪医者に本蔵の役を割当てしに、其本蔵の台詞が次第に万蔵の調子に変り行く所を話す軽妙、人の頣を解きければ、松助は何時の間にか釣り込まれて首を振り手を動かし之に聽き惚れたる其可笑しさ、頗る珍妙の図柄なりき。是れより前、待合室にて来客暫時雑談に耽りたる時、渋沢、大倉、角田、尾上松助等が維新前後の劇場変遷に関する感想談は頗る珍妙なるものあり。渋沢男は嘉永六年ペルリが初めて渡来したる時、初めて猿若町の芝居を見物したりと云ふ。其頃は芝居払暁より始まりて深更に至るまで興行するを常とし、忠臣蔵十二段を一日に演じ了るという云ふ有様にて、当時の観劇者は幕間の長きに頓着せず、前日より支度して夜の明けぬ中より芝居に繰込み、只長時間劇場の内に居て飲食するを無上の楽みと為したる者の如し。角田真平氏の談に、先年読売新聞にて観劇と云へる発句を募りたる事ありしが、其時幾万首中の秀逸は、

 春雨や芝居見る髪宵にゆふ

と云ふにて、最も当時の人情を穿ちたる者と思はれぬ。又新年吉例として曽我の狂言を演ずるのは如何と云ふに対して尾上松助の談に、初代市川團十郎が或る劇場の非常に寂れ行くに当りて、新年に曽我を演じたるに忽ち当時の人気に投じて、一月より五月まで打続きの繁昌を来したるにぞ、翌年一月にも又曽我の狂言を出したるに是れ亦大入を占めたれば、夫れより年々吉例として曽我狂言を繰返すに至りたるなり云々。当日小村欣一侯と雑談中、欧州講和会議に於て国際連盟の事が第一着に提議せらるる由なるが、如何なる形式を以て斯くの如き大問題を取纏むる事を得べきやと言ひたるに、今や米国大統領ウヰルソン氏は講和会議に出席して予て提唱したる国際連盟を何とか取纏めざれば米国に帰りて其面目を維持する能はず、苦心惨憺の有様にしてロイドジョウジやクレマンソー等にも夫れぞれ内談する所ありしならん。結局此国際連盟は欧羅巴と米国と東洋と世界を三つに分ちて、欧州方面は英仏伊の三国が国際連盟の警察権を持ち、米国は南北併せて北米合衆国が其平和維持者と為り、東洋は日本に警察権を委託するの外なく、此東洋の警察権を日本に委託するに就ては英国に於て最も異議あるの由なれども、斯くの如くせざれば到底連盟を実行する能はざるに依り、ウィルソン(ママ)氏は結局英国を説伏するに至るならん。斯くて此警察権即ち兵力を維持するに就ては、其管轄内に於ける各国が其費用を分担するの制度と為し、又或る連盟が我儘勝手の働きを為すが如き事あれば、他の連盟が之を詰責して若し猶ほ承伏せざる時は之れと交際を断絶して、貿易其他物資の供給はもちろん、様々の方便を以て其横暴を制圧するの規程を定むる事ならん。斯かる制度が永久に維持せらるべきや如何は知らざれども、米国大統領は此辺に於て国際連盟を実現する考なるべしと思はる云々。

 

 午後六時、有楽座に赴き長唄研精会を聴聞す。翁三番叟、鶴亀、賤機帯、中入後越後獅子、大正の栄の番組なり。余は翁三番叟より聴聞せしが、小三郎タテにて荘重なる中に優雅なる節廻しあり、新年の出物として誠に面白き者なりき。鶴亀は小四郎タテにて平凡、賤機帯は小三蔵タテにて例の如く趣味に乏しき唄ひ振は、畢竟斯かる曲を唄ふに適せざるを知るに足る。小三郎の独吟越後獅子は流石に手に入りたる者なり。六四郎のタテ、三太郎のワキ三味線にて替手の合の手も面白かりき。当夜は土間正面の一番遠き所にて聴聞せしが、文句は聴取れたれども音声は十分に徹底せず、蓋し日本の音曲は余り広き場所に適せず、有楽座は実際八百人を容るるに過ぎざれども小三郎の音声にして已に斯くの如し。若し細き節廻しを十分に味はんとすれば四、五百人を容るべき会場にて、然かも音声の反響に注意したる建築が最も適当ならんと思はる。

 

 

 

 

 

 

 

 

0081490128

 土曜日

 曇 寒暖計四十六度(=摂氏7.8度)

 

[蜂須賀侯追悼歌]

 蜂須賀正韶侯(爵)より来る二月六日は故茂韶侯の一週(ママ)忌に相当するに依り、寒月と云ふ題にて故侯生前の知己に詩歌の染筆を乞ひ、記念帖を作りて霊前に供ヘンとするに就き、余にも一筆請ひたしとて紫地銀砂子色紙を廻送せられければ、本日左の一首を認めて蜂須賀家に差送れり。

 

  蜂須賀侯の追悼に寒月と云ふ事を

 

 寒けくも月ふけわたる高とのにうたひし君のまさぬかなしさ

 

 

 山田敏行氏より交詢社にて来る二十三日頃交謡会を催さんとするに就き出演の事を依頼し来る、尚ほ他の出演者に就ても余の意見を聞きたしとの事に就き夫れぞれ注意を与へ置けり、

 

 年始雑煮六篇を時事新報に送る。

 

 

[井上侯の戦時欧州宮廷談]

 午前十時、内田山井上侯邸に赴き、去る七日東伏見宮随行員として欧州出張先より帰朝したる侯爵を訪ひしに、当日宮中御陪食にて不在なれば侯爵夫人に面会、侯爵の土産話を伝聞せしが中に、

 

 「英国にてはコンノート殿下が日本に渡来せられし際、非常の歓待を受けさせられたる返報の意味もありしならん、其歓迎実に非常にして英国皇帝と会食四回に及び、其他朝野の優礼も言語に絶せり。英国宮廷にては戦時中国民の模範として飲酒を禁ぜられしに依り、晩餐と雖も一切酒類を出さず、又民間の物資は非常に騰貴して約四倍と為り、殊に木材等の不足極度に達せり、人夫は兵役に徴発せられたるが為め、旅館の給仕人甚だ少数にして容易に用便を果すを得ず、宮家と雖も微行して旅館に在る時は例の切符を以て食物を購求するの有様なり、東伏見宮殿下は英語、仏語共に堪能にて外国人との交際に慣れ給へば、通弁を用ひずして皇帝陛下と直接談話せらるるに依り一層彼の地の好評を博せり。後来は外国との交通益々頻繁と為るべければ、深き学問を為すよりも先づ第一に交際上言語を自由にする事が必要にて、我が皇太子殿下の御教育なども十分此辺に注意せざれば他日非常なる御不便を感ずる事あるべしと恐察す。又殿下が白耳義【ベルギー】皇帝を戦地に訪ひたる時は、皇帝が飛行機にて戦地を一週(ママ)して帰着せられらる所にて、中食の饗応は粗末なる食卓にて食事は只三品に限りたるを以て観るも、戦地の状況如何を察するに足るべし。井上侯は白耳義皇帝より其節敵の砲丸を以て製造したりと云ふ鉄製の時計を下賜されしが、是れは功労ある軍人其他に賜はる者にて、侯の賜はりたるは二千七百八十七番目なりと云ふ。而して近来英、仏、白耳義等は時間を午前午後と区別せず、夜の一時より一二三泗と数へて夜中が二十四時と計算する事と為り、時計の記号も悉く此二十四時組織に改まり居り。現に此時計も即ち同式に拠って製造せられたる者なり。」

 

とて侯爵夫人は右時計を示されしが、鉄製時計の裏に金を以て王冠の模様を彫り出されらる者にて、戦地用の為めにや頑丈造りに見受けられぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 木曜日

 晴 寒暖計四十六度(注・=摂氏7.8度)

 

 酒井静雄氏北海道の友人より依頼に依り仏画を鑑定せられたしとて持参せしが、田舎廻りの粗悪品にて見るに足らず、因て明に其事由を同氏に説明せり。

 

 午前十時、徳川侯爵家評議員会に出席す。当日は同家道具売却金九十三万余円入金に就き、取敢へず川崎銀行に年利六分五厘の割合を以て定期預金と為すべきに決し、又此金額の利氏及び従来徳川家の経済上一年約一万円を剰し得たる者と相合して、一年約七万円は有利の証券に投資するが得策ならんとて時期を見計ひ之を決行する筈なり。又今度の売上金中より一万円を家職其他永年同侯爵家に勤務の男女に分与する事に決せり。

 

 小春の旅四篇を時事新報に送る。

 

 杵屋六四郎来宅、賎機帯を稽古し吉住小三郎方にて稽古したる枕慈童を唄ひ試む。

 

 

 

 

 

 

 

 

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