曇 寒暖計62度【=摂氏16.7度】

 

この日、

 

・高島北海、佐久間鉄円、益頭峻南が、八木岡【春山】の屏風一覧のため来宅。

 【批評の内容はここでは省略】

 

・中島【広蔵(道具商)】から、古事類苑12冊を買い取る。既版の分が26冊あるそうなので、おいおい完備する予定。

 

・昨日、日本銀行で利子が日歩(ひぶ)で二厘引き上げられる。金融やや切迫か。

 株式すべて不況。

 二ヶ月前に比べると、東株(東京株式取引所)などは実に20円の下落を示した。

 陸軍では、朝鮮に二個師団増設に固執し、西園寺内閣がやや動揺するなど、世間の人気を大きく落とした。

 また天候不順で、豊作が見込めないことも不景気の一因らしい。

 

・岡山高蔭が、9月23日から郷里の熱田に帰省し、おととい帰京したといって来宅。帰省中に名古屋地方を襲った台風は、古老もかつて知らないほどの規模で、それに海嘯【注・津波】が加わり、20万円とかで建てられた五階建ての料理店が、まさに竣工というところで吹き倒されたり、船舶が5、6艘も鉄道線路に打ち上げられたなど、大きな被害が出た。熱田の防波堤も破られ、愛知県下の損害だけでも甚大だそうだ。

 氏が名古屋へ持っていった高崎正風男爵の色紙は、5枚100円で売れたそうで、また岡山も帰省中に短冊、色紙など約500枚ほどしたため、友人のすすめで、一枚2、30銭の染筆料を取ったと笑っていた。

 熱田周辺には小出粲翁門下の歌人が多いが詠歌を専門にする者がなく、なにかと錬烹を欠き【注・れんぽうをかき=鍛錬が未熟で】物足りないところがあるという大口鯛二氏の忠告もあったので、岡山氏はそれを主だった人びとに伝えたそうだ。

 

・夜分、清元お若が来宅。

 お若は2月頃から黄疸にかかり、前々から、ただでさえ咽頭病で発声困難だったので、しばらく静養に専念し、今夜ひさしぶりに来宅した。

 

・清元というのは、音楽流派としてはいちばん最後に出てきたもので、各流派の長所を採用して、清らかで華やかな節が多い。はじめは芝居などに使われた。

 初代清元太兵衛という名人がおり、猿若町で明烏を語って非常な評判を取ったが、芝居小屋からの帰り道に何者かに暗殺されてしまった。

 その後継者が二代目延寿太夫である。若年ながら太兵衛に代わって語ったところ大いに世間の同情をひき、大入りが続いたという。

 この延寿太夫の娘は、清元お葉といって、四代目延寿太夫の妻になったが、明治年間の女流清元中の名人である。お葉は、女流だったため芝居では語らず、すべて座敷で語った。そこで時代に合うような上品な語り口を工夫した。江戸っ子が朝風呂でイナセに語る清元とはがらりと違い、座敷に金屏風を引き回して、それに調和するような、お葉独自の清元を切り開いたことはよく知られている。

 このお葉の節を正しく伝えているのが、お若で、まだのどを痛めていなかった20代のころは、声に関してはあるいはお葉に勝るところもあると言われたそうだ。最近は夫である現延寿太夫【注・5代目=4代目の養子】の節回しにならい、いくぶんお葉の節を失ったところはあるが、とにかく、お葉の真の後継者は、お若ひとりである。

 わたしは去年1月から、各流派の音曲を研究しようと、清元をお若に習っているが、諸流派のなかでも、清元は音量が必要で、かつもっとも曲折に富むため、一番難しいが、それゆえに一番興味深いともいえる。これまでわたしが伝習したのは、わずか6、7段にすぎないが、せめて2、30段は習得したいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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