大正元年10月2日の萬象録によると、この日、高橋箒庵の麹町一番町邸に、高島北海、佐久間鐵園、益頭峻南が来邸した。

 

箒庵は、この年の文展入選をめざす八木岡春山を伝統的日本画のホープとして買っていたようで、出展予定の八木岡の屏風について、この三名にアドバイスを求めたと思われる。

 

先立つ8月5日の萬象録によれば、この年の文展では、日本画部門に「新派」と「旧派」が設けられることになり、八木岡は旧派に属する者として意欲的に屏風制作を行うつもりだと抱負を述べている。

(文展は、明治40(1907)年に創設されており、この年は第6回。)

 

また9月15日、18日の萬象録によれば、八木岡は、この屏風制作を箒庵邸の日本座敷客間で行うことになったようで、9月26日にはそれに着手している。

その経緯は不明だが、想像するに、八木岡の絵画の師匠である下條桂谷(げじょうけいこく)と箒庵には、明治29(1896)年ごろからの長い交友がある(「箒のあと」89を参照のこと)ことから、その弟子である八木岡に目をかけるようになったものであろうか。

前日の10月1日には、その下條が来邸し、八木岡の山水屏風に「自から筆を執りて樹木等を描き添へ、大體に於て上出来なりと評し居れり」とある。

 

さてこの日の三名は、いずれも文展の審査官である。

その三名が、出展予定の作品を見て、この部分をこのようになおしたほうがいい、などのアドバイスをしたというのである。内容はこまかく、かなり具体的だ。

この年の文展で、八木岡春山は入選するが、このようなことが事前に行われていたとは、すこし鼻白むような気がする。しかも、師匠が手直しした作品で入選しているわけだ。

 

2013年に、文展のとおい後身である「日展」の審査において、書の篆刻部門の入選に関して事前調整の不正が行われたことが公になったが、縁故者を優遇するのは、人間のサガとして、昔も今も、これからも、古今東西にあらわれる現象だろう。

なにも、そう目くじらを立てるほどのことではないのかもしれない。

 

それにしても、今回高島北海の名が登場したことが、ちょっとした驚きだった。

高島北海といえば、エミール・ガレに影響を与えた男、である。なんとなく、フランス在住の芸術家のイメージがあり、高橋箒庵に接点があるとは想像もできなかったからだ。

芸術家だとばかり思っていたが、本業は工部省の役人。スタートは明治5(1872)年の生野銀山の仕事で、フランス人鉱山技師のお雇い外国人、コワニエとも出会っている。その後政府による派遣でナンシーに3年間滞在したときに、ガレとの交流があったということを知る。

 

そういえば、下條桂谷も役人と日本画家の二足のわらじをはいた人生を送った。

 

また益頭峻南であるが、益頭という姓の人物が、益田孝が幕府遣欧使節の一員としてヨーロッパに行ったときのひとりにいたような気がしたので調べてみると、それは、峻南の父にあたる、益頭駿次郎という人物であることがわかった。

益頭駿次郎は、万延の遣米使節団にも加わっており、どちらの渡航にも見聞記を残している。

 

 

 

 

 

 

 

 

管理番号:9061490614