大正元(1912)年10月1日の高橋箒庵「萬象録」には、箒庵が前年から手がけていた四谷伝馬町の新宅建築についての記述が見られる。

 

「四谷新宅地に到り南側に石塀を築くことを木全に注文せり。宅地の東南側に築山を作り塀に倚って土を盛り、来春其上に樹木を植ゑ置かざれば築庭手後れとなるべきに就き、此部分だけ石塀を築く事とせり」

 

建設中のこの新宅、のちの天馬軒は、同年8月11日の萬象録の記事によると四谷伝馬町一丁目にあった。現在の地名表示では四谷一丁目、つまり四谷中学校の西側付近だったということがわかる。

 

迎賓館に近く、いまでも都心の駅からの徒歩圏内だとは思えないような住宅街になっているところだ。

 

江戸時代には、江戸城の西の守りとして旗本を多く住まわせていた地域であるので、一戸あたりの敷地が比較的大きく、明治以降も高級な住宅街を形成していたのだろう。

 

四谷一丁目の北側のへりには新宿通りが走っているが、この大通りに面しても戦前にはお金持ちの大邸宅が並んでいたのだろうか。

(現在の新宿通りにはビルが林立している)

 

 さて本文中にある「木全」とはいったい誰だろう。作庭、庭師、造園などのキーワードで検索してみると、「木全造苑」という造園会社が愛知県一宮市にあることがわかり、木全は、きまた、と読むようだ。が、この本文中にある木全との関連は残念だがわからない。古い本を読んでいるときに「庭師・植木屋」の意味で出てくる「駝師(たくだし)」をキーワードにしてみてもヒットはなく、木全が誰なのかは不明だ。木全という名前に引きづられて植木屋を想像してしまったが、もしかすると石塀を作る職人の名かもしれない。(後記:その後の日記部分で木全辰五郎という石工だということがわかった)

 

 箒庵がこの家の前に住んでいた麹町一番町の家に寸松庵茶室を移すとき、作庭にあたったのは益田孝の弟の克徳だった。克徳は明治36(1903)年に急死し、その後の箒庵の作庭のパートナーになるのは松本亀吉である。この四谷天馬軒も、松本亀吉が庭造りを行ったことが知られている。この松本亀吉は、もともと克徳が使っていた植木屋だった。木全は、松本の下で働く職人のひとりなのかもしれない。今後ふたたび名前が登場するかどうかに注意したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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