感動することによって、自分の内側にも、形作られない本当の喜びがあることに気づく
形作られない本当の喜びを分かち合うとは、感動を分かち合うということです。
形作られない本当の痛みに鈍いということは、本当の喜びにも鈍いということになります。
なぜ、痛みに鈍くなるかというと、形作られない本当の痛み(=形作られない本当の自分とのずれ)を感じることを恐れて、形作られた喜び(=痛み止め)を手に入れることによって、形作られた自分を守ろうとしているからです。
形作られた喜びである、名利(=物質的な喜び)は、本当の痛みを感じないようにするための痛み止めのようなものであり、その痛み止めで形作れた自分を守ることに慣れているために、本当の喜びを感じる、感動することができなくなっているのです。
あることに対して、形への囚われが消失して、気づく(=感動する)ことによって、その形に囚われることによってする、ひとつの学びの過程(=経験)が終了します。
だから、あることに対して、形への囚われがまだあるということは、その形に囚われていることに関しての学びが終了していないということになります。
ある形に囚われることによって、どんなネガティブな波動の組み合わせであれば、どんなネガティブな経験ができるのかをよく知る学びをしているのです。
今、もし、本当の痛みを感じているのなら、その痛みを生じる原因となっている、形への囚われが、学びが進んで薄くなり、すぐそこに気づきがある状態です。
だから、本当の痛みは、恐れから来るものではないのです。
恐れには、本当の喜びに対する希望はないけれども、本当の痛みには、本当の喜びに対する希望があるのです。
本当の痛みとは、形作られない本当の自分と、形作られた自分とのずれを現わすものですから、気づきによって形への囚われが消失すれば、形作られない自分と、形作られた自分とのずれが解消し、本当の喜び(=感動)を感じることができるようになるのです。
本当の痛み(=形作られない本当の自分と、形作られた自分とのずれ)を感じることができるということは、恐れは持っていないということになります。
逆に、本当の痛みを感じることができないということは、本当の痛みを感じることに対して、恐れを持っているということです。
形作られない本当の自分と、形作られた自分とのずれを感じるということに対して、形作られた自分が否定されてしまうのではという恐れを持っているから、本当の痛みを感じることを恐れるのです。
本当の痛みを感じることを恐れるから、形作られた自分を守るために、形作られた喜びである痛み止めを手に入れることによって、本当の痛みを感じないようにしています。
だから、奪い合ってまでして、
形作られた喜び (=
痛み止め )を手に入れたとしても、本当の喜びは感じることはできないのです。
形作られない本当の痛みに鈍いということは、本当の喜びにも鈍いということになります。
なぜ、痛みに鈍くなるかというと、形作られない本当の痛み(=形作られない本当の自分とのずれ)を感じることを恐れて、形作られた喜び(=痛み止め)を手に入れることによって、形作られた自分を守ろうとしているからです。
形作られた喜びである、名利(=物質的な喜び)は、本当の痛みを感じないようにするための痛み止めのようなものであり、その痛み止めで形作れた自分を守ることに慣れているために、本当の喜びを感じる、感動することができなくなっているのです。
あることに対して、形への囚われが消失して、気づく(=感動する)ことによって、その形に囚われることによってする、ひとつの学びの過程(=経験)が終了します。
だから、あることに対して、形への囚われがまだあるということは、その形に囚われていることに関しての学びが終了していないということになります。
ある形に囚われることによって、どんなネガティブな波動の組み合わせであれば、どんなネガティブな経験ができるのかをよく知る学びをしているのです。
今、もし、本当の痛みを感じているのなら、その痛みを生じる原因となっている、形への囚われが、学びが進んで薄くなり、すぐそこに気づきがある状態です。
だから、本当の痛みは、恐れから来るものではないのです。
恐れには、本当の喜びに対する希望はないけれども、本当の痛みには、本当の喜びに対する希望があるのです。
本当の痛みとは、形作られない本当の自分と、形作られた自分とのずれを現わすものですから、気づきによって形への囚われが消失すれば、形作られない自分と、形作られた自分とのずれが解消し、本当の喜び(=感動)を感じることができるようになるのです。
本当の痛み(=形作られない本当の自分と、形作られた自分とのずれ)を感じることができるということは、恐れは持っていないということになります。
逆に、本当の痛みを感じることができないということは、本当の痛みを感じることに対して、恐れを持っているということです。
形作られない本当の自分と、形作られた自分とのずれを感じるということに対して、形作られた自分が否定されてしまうのではという恐れを持っているから、本当の痛みを感じることを恐れるのです。
本当の痛みを感じることを恐れるから、形作られた自分を守るために、形作られた喜びである痛み止めを手に入れることによって、本当の痛みを感じないようにしています。
だから、奪い合ってまでして、
形作られた喜び (=
痛み止め )を手に入れたとしても、本当の喜びは感じることはできないのです。
ドラゴンボールは、最初から自分の内にあったと気づいたときに、見るものすべてが輝いて見えてくる。
目には見えない、形のない喜びが見えない(=感じることができない)から、目に見える形作られた喜びを奪い合うことによって、喜びを得ようとするのです。
逆に、目に見えない、形のない喜びが見えれば(=感じることができれば)、それを目に見える形のあるものとして表現することによって、喜びを分かち合うことができます。
目に見える形のあるものに囚われてしまうと、目には見えない、形のない喜び(=ドラゴンボール)を見る(=感じる)ことができなくなるから、その喜び(=ドラゴンボール)を自分の外側に形あるものとして、見つけようとするのです。
願い
(=本当の喜びを分かち合うこと)を叶えてくれるという、ドラゴンボール(=目には見えない形のない喜び)を手に入れたいと思って、目に見える形作られた喜びを奪い合うけれども、その手に入れた形のあるものたちは、願い(=本当の喜びを分かち合うこと)を叶えてくれないのです。
ドラゴンボール
(=目には見えない形のない喜び) は、自分の外側にあると思い込んで、
ドラゴンボールを手に入れるために、目に見える形作られた喜びを奪い合い(=喜びが欠けていく)、願いを叶える(=本当の喜びを分かち合う)ことができないでいるのか、
それとも、ドラゴンボールは、最初から自分の内にあったと気づいて、目には見えない形のない喜びに満ちて、その喜びを形あるものとして表現することによって、喜びを分かち合い、願いを叶えることができて行くのかの、どちらかになります。
ドラゴンボールが、自分の内に最初から在ると気づくか、気づかないかは、探す方向の違いによります。
形に囚われて、思考の範囲に自分を限定してしまえば、自分の内に在るドラゴンボールを見ることができずに、自分の外側を探そうとしますが、
形への囚われを捨てて、思考の範囲を超えて意識を拡大することによって、最初から自分の内にドラゴンボールがあった(= 自分がドラゴンボーそのものであった)と気づくことができれば、もう自分の外側にドラゴンボールを探す必要はなくなるのです。
そうなれば、後は、自分の内に在るドラゴンボールを使って、願い(=本当の喜びを分かち合うこと)を叶えていくだけでよい、ということになります。
ドラゴンボール(=形作られない本当の喜び=すべての形を作り出す源となるもの=フリーエネルギーE=無条件の愛)は、最初から自分の内にあった(=自分がドラゴンボールそのものであった)と気づいた人は、見た目がどんな些細なこと(=シンプルな日常)であっても、自分が創造するもの(=自分が見ている現実)は、すべて喜びであると気づいて行く(=見るものすべてが輝いて見えてくる)ことができるのです。
逆に、目に見えない、形のない喜びが見えれば(=感じることができれば)、それを目に見える形のあるものとして表現することによって、喜びを分かち合うことができます。
目に見える形のあるものに囚われてしまうと、目には見えない、形のない喜び(=ドラゴンボール)を見る(=感じる)ことができなくなるから、その喜び(=ドラゴンボール)を自分の外側に形あるものとして、見つけようとするのです。
願い
(=本当の喜びを分かち合うこと)を叶えてくれるという、ドラゴンボール(=目には見えない形のない喜び)を手に入れたいと思って、目に見える形作られた喜びを奪い合うけれども、その手に入れた形のあるものたちは、願い(=本当の喜びを分かち合うこと)を叶えてくれないのです。
ドラゴンボール
(=目には見えない形のない喜び) は、自分の外側にあると思い込んで、
ドラゴンボールを手に入れるために、目に見える形作られた喜びを奪い合い(=喜びが欠けていく)、願いを叶える(=本当の喜びを分かち合う)ことができないでいるのか、
それとも、ドラゴンボールは、最初から自分の内にあったと気づいて、目には見えない形のない喜びに満ちて、その喜びを形あるものとして表現することによって、喜びを分かち合い、願いを叶えることができて行くのかの、どちらかになります。
ドラゴンボールが、自分の内に最初から在ると気づくか、気づかないかは、探す方向の違いによります。
形に囚われて、思考の範囲に自分を限定してしまえば、自分の内に在るドラゴンボールを見ることができずに、自分の外側を探そうとしますが、
形への囚われを捨てて、思考の範囲を超えて意識を拡大することによって、最初から自分の内にドラゴンボールがあった(= 自分がドラゴンボーそのものであった)と気づくことができれば、もう自分の外側にドラゴンボールを探す必要はなくなるのです。
そうなれば、後は、自分の内に在るドラゴンボールを使って、願い(=本当の喜びを分かち合うこと)を叶えていくだけでよい、ということになります。
ドラゴンボール(=形作られない本当の喜び=すべての形を作り出す源となるもの=フリーエネルギーE=無条件の愛)は、最初から自分の内にあった(=自分がドラゴンボールそのものであった)と気づいた人は、見た目がどんな些細なこと(=シンプルな日常)であっても、自分が創造するもの(=自分が見ている現実)は、すべて喜びであると気づいて行く(=見るものすべてが輝いて見えてくる)ことができるのです。
正気と狂気の両方が、否定されずに存在するという気月を得る
月が欠けるのを見て、狂気づくのは、ネガティブな方向の気づきで、
月が満ちるのを見て、正気づくのは、ポジティブな方向の気づきです。
皆既月食と満月は、表裏一体です。
皆既月食では、陰気月(=-m)を得て、
満月では、陽気月(=+m)を得ます。
陰気月と陽気月は、表裏一体です。
月が欠けていくときは、否定される恐れから自分を守ることによって、形への囚われが強いほど、影が濃くなり、深い闇を経験します。
恐れのままに、喜びを奪い合い、奪われるから守ろうとします。
逆に、月が満ちていくときには、肯定も否定もせずに、自分自身と他のすべてを無条件に許容することによって、形への囚われが弱いほど、
影が薄くなり、明るい光を経験します。
喜びのままに、喜びを分かち合い、奪われないから、守る必要はなくなります。
自らが持つ、形への囚われ(=思い込み)が、影となり、現実に投影されることによって、闇を経験するのですから、光を経験するため
には、形への囚われを捨てなければなりません。
しかし、それを簡単には捨てることができないのは、形(=名利)を持っていないと、自分が否定されてしまうという恐れを持っているからです。
形作られた自分が否定されてしまうのが、人間が作り出した最大の恐怖ですから、その恐怖を解消するための唯一の方法は、まず、自らを自らの意志で、否定される恐れから解放することです。
つまり、正気と狂気の両方が、形作られた自分の中に、両方、同時に存在していますから、それらをどちらも同時に否定せずに、無条件に許容しさえすれば、自分自身で、形作られた自分が否定されてしまう、最大の恐怖を解消することができるのです。
思考の範囲を越えて、陰陽表裏一体として包み込んでいるのが、本当の自分であると気づいたときには、陰気月と陽気月が表裏一体であるのと同じで、形への囚われを捨てることができるのです。
すべてを超えて、すべてを包み込んでいる、創造の源の視点から見た場合、同じひとつのものに、同時に異なる側面が見えているわけですから、今見ている側面と違う側面(=現実)を見たい、闇ではなく、光を見たいと思ったら、自らが形への囚われを捨てて、見る側の視点を変えることによって可能となります。
形への囚われを持ったまま、自分ではなく、見えている側面(=現実)の方を変えようとしても、変えることはできないのです。
まず、自らが形への囚われを捨てて、思考の範囲を超えて意識を拡大させることによって視点を変え、同じひとつのものの、同時に存在する別の側面(=現実)を見ることができるのです。
見る角度によって、月が欠けたり、満ちたりして見えるのは、欠けた月と、満ちた月が別々の月としてあるのではなく、同じ一つの月の異なる側面(=現実)であるということと同じなのです。
だから、光と闇は表裏一体というときには、形への囚われを捨てて、意識を思考の範囲を超えて拡大したときに、同じひとつのものの異なる側面を、同時に見ているということになります。
月が満ちるのを見て、正気づくのは、ポジティブな方向の気づきです。
皆既月食と満月は、表裏一体です。
皆既月食では、陰気月(=-m)を得て、
満月では、陽気月(=+m)を得ます。
陰気月と陽気月は、表裏一体です。
月が欠けていくときは、否定される恐れから自分を守ることによって、形への囚われが強いほど、影が濃くなり、深い闇を経験します。
恐れのままに、喜びを奪い合い、奪われるから守ろうとします。
逆に、月が満ちていくときには、肯定も否定もせずに、自分自身と他のすべてを無条件に許容することによって、形への囚われが弱いほど、
影が薄くなり、明るい光を経験します。
喜びのままに、喜びを分かち合い、奪われないから、守る必要はなくなります。
自らが持つ、形への囚われ(=思い込み)が、影となり、現実に投影されることによって、闇を経験するのですから、光を経験するため
には、形への囚われを捨てなければなりません。
しかし、それを簡単には捨てることができないのは、形(=名利)を持っていないと、自分が否定されてしまうという恐れを持っているからです。
形作られた自分が否定されてしまうのが、人間が作り出した最大の恐怖ですから、その恐怖を解消するための唯一の方法は、まず、自らを自らの意志で、否定される恐れから解放することです。
つまり、正気と狂気の両方が、形作られた自分の中に、両方、同時に存在していますから、それらをどちらも同時に否定せずに、無条件に許容しさえすれば、自分自身で、形作られた自分が否定されてしまう、最大の恐怖を解消することができるのです。
思考の範囲を越えて、陰陽表裏一体として包み込んでいるのが、本当の自分であると気づいたときには、陰気月と陽気月が表裏一体であるのと同じで、形への囚われを捨てることができるのです。
すべてを超えて、すべてを包み込んでいる、創造の源の視点から見た場合、同じひとつのものに、同時に異なる側面が見えているわけですから、今見ている側面と違う側面(=現実)を見たい、闇ではなく、光を見たいと思ったら、自らが形への囚われを捨てて、見る側の視点を変えることによって可能となります。
形への囚われを持ったまま、自分ではなく、見えている側面(=現実)の方を変えようとしても、変えることはできないのです。
まず、自らが形への囚われを捨てて、思考の範囲を超えて意識を拡大させることによって視点を変え、同じひとつのものの、同時に存在する別の側面(=現実)を見ることができるのです。
見る角度によって、月が欠けたり、満ちたりして見えるのは、欠けた月と、満ちた月が別々の月としてあるのではなく、同じ一つの月の異なる側面(=現実)であるということと同じなのです。
だから、光と闇は表裏一体というときには、形への囚われを捨てて、意識を思考の範囲を超えて拡大したときに、同じひとつのものの異なる側面を、同時に見ているということになります。

