競争により発生する無駄が、エネルギーの流れに、滞り、偏りを生じさせる
競争に勝つために、個々の会社が別々に生産の効率を上げてきた結果、全体としては、需要よりも供給が多くなり、その結果、物が余って売れなくなるという矛盾が生じます。
貨幣経済においては、売り上げが上がったら、生産量を増やし、売り上げが下がったら、生産量を減らすというふうに、結果オーライの方法での調整はできても、貨幣は、予め、必要なものを、必要なところに、必要なときに、必要なだけ行き渡らせるための、必要な情報を持たないために、売上の結果が出る前に、個々の会社の枠を超えて、生産量を全体として無駄がないように、調整することができないということになります。
競争原理によって個々の会社の効率は上げることはできても、全体としては、競争により発生する無駄により、効率が下がってしまう(=全体としてのバランスを取ることができない=調和できない=エネルギーの流れが滞り、偏る)のです。
競争原理における貨幣には、エネルギーを滞りなく、偏りなく、流す機能がない(=必要なものを、必要なところに、必要なときに、必要なだけ行き渡らせるために必要な情報を持たない)のですから、当然の結果を招いているということになるのでしょう。
エネルギーを流すのに、その行き先と流す量がわかっていなければ、スムーズに効率よく流すことなどできるはずがないのです。
だから、例えば、電力エネルギーを流すにしても、競争原理によって発生する無駄にあわせて、必要量より多く見積もって発電しなければならなくなりますから、必ず無駄が生じてしまうということになります。
そして、その無駄の穴埋めをするために、原子力により、電力エネルギーを供給しようとするのですが、原子力も、競争原理に基づいたエネルギーシステムですから、必ず、無駄(=廃棄)の問題が生じ、再生可能エネルギーとはなり得ないということになります。
ですから、人類が一切の無駄を生じない、エネルギーの滞り、偏りを生じない、再生可能なフリーエネルギーにアクセスする技術を発明するためには、まず先に、必要なものを、必要なところに、必要なときに、必要なだけ行き渡らせるために、必要な情報を共有するためのシステムを作り、そのシステムにより、フリーエネルギーを滞りなく、偏りなく、スムーズに調和して流して行き渡らせることができるように準備する必要があります。
そして、そのフリーエネルギーを滞りなく、偏りなく、スムーズに調和して流して行き渡らせることができる情報システムは、競争原理(=奪い合う・独占・非共有・排除)における貨幣経済システムに代わり、助け合いの原理(=助け合う・分かち合う・補い合う・共有する)による情報経済システムとなるでしょう。
エネルギーを滞りなく、必要なところに行き渡らせるためには、その行き先がわかっていなければできません。
今の貨幣経済のシステムでは、競争に勝った者のところへ、エネルギーが流れ込むようになっていますが、必要なところに万遍なく行き渡らせるための行き先は、最初からないことになっているのです。
行き先がないから、競争に勝った者のところでエネルギーが滞ってしまうのです。
だから先に、エネルギーを滞りなく、必要なところすべてに流して行き渡らせることができるシステムができれば、そのシステムに見合ったエネルギーを流すことができるようになりますから、フリーエネルギーにアクセスすることができる技術が発明されることになります。
競争原理に基づく、貨幣経済システムは、奪い合い、独占、非共有、排除などの、形に囚われた狭い思考の範囲に意識を限定させることによって作り出された、分離の幻想によるネガティブな経済システムです。エネルギーが滞り、偏り、再生不可能となる、枯渇するエネルギーシステムでもあります。
助け合いの原理に基づく、情報経済システムは、助け合い、分かち合い、補い合い、共有などの、形への囚われを捨てて、思考の範囲を超えて意識を拡大させることによって作り出す、ポジティブな経済システムです。エネルギーが必要なところすべてにスムーズに流れ行き渡り、再生可能となる、枯渇しないエネルギーシステムでもあります。
奪い合い・独占・非共有・排除の競争原理では、個々に効率を高めたとしても、全体としては、エネルギーの滞り、偏りのために流れが悪くなり、効率は低くなります(=必ず無駄が生じる)。
逆に、助け合い・分かち合い・補い合い・共有の助け合いの原理では、個々の効率が低かったとしても、全体としては、エネルギーが必要なところすべてにスムーズに流れて行き渡るために、効率は高くなります(=常に、無駄が生じない)。
貨幣経済においては、売り上げが上がったら、生産量を増やし、売り上げが下がったら、生産量を減らすというふうに、結果オーライの方法での調整はできても、貨幣は、予め、必要なものを、必要なところに、必要なときに、必要なだけ行き渡らせるための、必要な情報を持たないために、売上の結果が出る前に、個々の会社の枠を超えて、生産量を全体として無駄がないように、調整することができないということになります。
競争原理によって個々の会社の効率は上げることはできても、全体としては、競争により発生する無駄により、効率が下がってしまう(=全体としてのバランスを取ることができない=調和できない=エネルギーの流れが滞り、偏る)のです。
競争原理における貨幣には、エネルギーを滞りなく、偏りなく、流す機能がない(=必要なものを、必要なところに、必要なときに、必要なだけ行き渡らせるために必要な情報を持たない)のですから、当然の結果を招いているということになるのでしょう。
エネルギーを流すのに、その行き先と流す量がわかっていなければ、スムーズに効率よく流すことなどできるはずがないのです。
だから、例えば、電力エネルギーを流すにしても、競争原理によって発生する無駄にあわせて、必要量より多く見積もって発電しなければならなくなりますから、必ず無駄が生じてしまうということになります。
そして、その無駄の穴埋めをするために、原子力により、電力エネルギーを供給しようとするのですが、原子力も、競争原理に基づいたエネルギーシステムですから、必ず、無駄(=廃棄)の問題が生じ、再生可能エネルギーとはなり得ないということになります。
ですから、人類が一切の無駄を生じない、エネルギーの滞り、偏りを生じない、再生可能なフリーエネルギーにアクセスする技術を発明するためには、まず先に、必要なものを、必要なところに、必要なときに、必要なだけ行き渡らせるために、必要な情報を共有するためのシステムを作り、そのシステムにより、フリーエネルギーを滞りなく、偏りなく、スムーズに調和して流して行き渡らせることができるように準備する必要があります。
そして、そのフリーエネルギーを滞りなく、偏りなく、スムーズに調和して流して行き渡らせることができる情報システムは、競争原理(=奪い合う・独占・非共有・排除)における貨幣経済システムに代わり、助け合いの原理(=助け合う・分かち合う・補い合う・共有する)による情報経済システムとなるでしょう。
エネルギーを滞りなく、必要なところに行き渡らせるためには、その行き先がわかっていなければできません。
今の貨幣経済のシステムでは、競争に勝った者のところへ、エネルギーが流れ込むようになっていますが、必要なところに万遍なく行き渡らせるための行き先は、最初からないことになっているのです。
行き先がないから、競争に勝った者のところでエネルギーが滞ってしまうのです。
だから先に、エネルギーを滞りなく、必要なところすべてに流して行き渡らせることができるシステムができれば、そのシステムに見合ったエネルギーを流すことができるようになりますから、フリーエネルギーにアクセスすることができる技術が発明されることになります。
競争原理に基づく、貨幣経済システムは、奪い合い、独占、非共有、排除などの、形に囚われた狭い思考の範囲に意識を限定させることによって作り出された、分離の幻想によるネガティブな経済システムです。エネルギーが滞り、偏り、再生不可能となる、枯渇するエネルギーシステムでもあります。
助け合いの原理に基づく、情報経済システムは、助け合い、分かち合い、補い合い、共有などの、形への囚われを捨てて、思考の範囲を超えて意識を拡大させることによって作り出す、ポジティブな経済システムです。エネルギーが必要なところすべてにスムーズに流れ行き渡り、再生可能となる、枯渇しないエネルギーシステムでもあります。
奪い合い・独占・非共有・排除の競争原理では、個々に効率を高めたとしても、全体としては、エネルギーの滞り、偏りのために流れが悪くなり、効率は低くなります(=必ず無駄が生じる)。
逆に、助け合い・分かち合い・補い合い・共有の助け合いの原理では、個々の効率が低かったとしても、全体としては、エネルギーが必要なところすべてにスムーズに流れて行き渡るために、効率は高くなります(=常に、無駄が生じない)。
競争原理は、自分と他人は別々であるという、分離の幻想に基づいた、ネガティブな現実の創造原理です。
競争に勝つ自分の喜びは、負ける他人がいることによって成り立つ、形作られた喜びであって、本当の喜びではありません。
競争に勝つ自分と負ける自分とを、形として同時に創造することができないから、勝つ自分と負ける他人を別々に創造することによって、分離の幻想に基づいた、ネガティブな、形作られた喜びを経験しているのです。
例えば、貨幣経済のシステムにおいて、競争に勝つとは、自分が他人より多く貨幣を手に入れるということになります。
競争に負けて、貨幣の獲得量が少ない、大多数の者にとっては、必要な物を手に入れるためには、できるだけ安く、品質が良く、数が多いものを選択しなければならないということになります。
競争に負けている大多数の者は、貨幣の獲得量が少ないから、その少ない貨幣量に応じて、貨幣と物の交換基準である物価が安くなり、デフレになります。
競争に勝っているごく少数の者の貨幣の獲得量は多いですが、競争に負けている大多数の者よりも、その需要は極端に少ないために、全体の物価を上げる(=インフレになる)ほどの効果は期待できないということになります。
競争に勝っているごく少数の者が持つ、貨幣の全体に対する総量を99%、競争に負けている大多数の者が持つ、貨幣の全体に対する総量を1%とし、
ある一つの物に対する需要量が、競争に勝っている者が1%、競争に負けている者が99%であるとすると、
競争に勝っている者が持つ、99%の貨幣量に合わせて、物価を高くしてしまうと、競争に負けている者が持つ、1%の貨幣量では、高すぎて買うことができないということになります。
そして、生産・販売する側にとっては、高い値段で少数の者に売るよりも、安い値段でも多数の者に売らなければ(=薄利多売する)、競争に勝てずに負けてしまうということになります。
だから、必然的に値段を下げる競争をしなければならなくなり、デフレ状況が作り出されるのです。
デフレが繰り返されると、競争に勝っている会社の内部においても、競争に勝っている者と、負けている者との差(=経営者と労働者、社員と派遣社員・アルバイト・パートなど)が大きくなり、負けている者の貨幣の保有量は、どんどん少なくなっていきますから、最終的には、極限まで安く、つまり、ただになり、貨幣の物の交換媒体としての役目は終わりを迎えることになるでしょう。
貨幣経済のシステムにおいて、競争とは、物の交換媒体となっている貨幣を、自分が他人より多く手に入れる(=奪う)ということです。
しかし、その原理によって、競争に勝っているごく少数の者の貨幣の保有量が増えても、負けている大多数の者は、逆に少なくなり、需要の多い、負けている大多数の者の保有する貨幣量に応じてより安く物の値段が決まり、薄利多売した、その薄利を束ねて、分配する権限を持っているごく少数の者に、貨幣の大半が集中してしまい、その状態が極まると、もはや、貨幣は物の交換媒体としての機能を果たさなくなり、貨幣経済は崩壊するでしょう。
したがって、ネガティブな競争原理の基では、『すべての人が競争に勝つ』というようなことは最初からなく、自分と他人は別々であるという、分離の幻想を見ていたのですから、
それに気づいたら、ごく少数の者だけが、圧倒的な貨幣の保有量に物を言わせて、必要ない物まで、必要以上に手に入れる(=奪い合う)という競争原理ではなく、すべての者に必要な物が必要なだけ手に入る(=分かち合う)助け合いの原理で、ポジティブな現実(=本当の喜びに基づく経済システム)を創造することができるでしょう。
必要なくても、お金をたくさん持っている人が手に入れ、必要なのに、お金がないから手に入らない人がいるという矛盾が生じているのは、すでに、貨幣が物の交換媒体としての機能を果たさなくなっているのに、ごく少数の競争に勝っている者たちの意向だけで、実質は機能していないのに、ルールだけをその権限で守っているからです。
だから、競争に勝って貨幣を多く保有している者だけが、それを使って、多くの物を手に入れる(=奪う)ことができるという、競争原理に基づくルールを、必要なときに、必要なものが、必要な人に、必要なだけ手に入る(=分かち合う)、助け合いの原理に基づいた、新たなルールに変えなければならないでしょう。
競争に勝つ自分と負ける自分とを、形として同時に創造することができないから、勝つ自分と負ける他人を別々に創造することによって、分離の幻想に基づいた、ネガティブな、形作られた喜びを経験しているのです。
例えば、貨幣経済のシステムにおいて、競争に勝つとは、自分が他人より多く貨幣を手に入れるということになります。
競争に負けて、貨幣の獲得量が少ない、大多数の者にとっては、必要な物を手に入れるためには、できるだけ安く、品質が良く、数が多いものを選択しなければならないということになります。
競争に負けている大多数の者は、貨幣の獲得量が少ないから、その少ない貨幣量に応じて、貨幣と物の交換基準である物価が安くなり、デフレになります。
競争に勝っているごく少数の者の貨幣の獲得量は多いですが、競争に負けている大多数の者よりも、その需要は極端に少ないために、全体の物価を上げる(=インフレになる)ほどの効果は期待できないということになります。
競争に勝っているごく少数の者が持つ、貨幣の全体に対する総量を99%、競争に負けている大多数の者が持つ、貨幣の全体に対する総量を1%とし、
ある一つの物に対する需要量が、競争に勝っている者が1%、競争に負けている者が99%であるとすると、
競争に勝っている者が持つ、99%の貨幣量に合わせて、物価を高くしてしまうと、競争に負けている者が持つ、1%の貨幣量では、高すぎて買うことができないということになります。
そして、生産・販売する側にとっては、高い値段で少数の者に売るよりも、安い値段でも多数の者に売らなければ(=薄利多売する)、競争に勝てずに負けてしまうということになります。
だから、必然的に値段を下げる競争をしなければならなくなり、デフレ状況が作り出されるのです。
デフレが繰り返されると、競争に勝っている会社の内部においても、競争に勝っている者と、負けている者との差(=経営者と労働者、社員と派遣社員・アルバイト・パートなど)が大きくなり、負けている者の貨幣の保有量は、どんどん少なくなっていきますから、最終的には、極限まで安く、つまり、ただになり、貨幣の物の交換媒体としての役目は終わりを迎えることになるでしょう。
貨幣経済のシステムにおいて、競争とは、物の交換媒体となっている貨幣を、自分が他人より多く手に入れる(=奪う)ということです。
しかし、その原理によって、競争に勝っているごく少数の者の貨幣の保有量が増えても、負けている大多数の者は、逆に少なくなり、需要の多い、負けている大多数の者の保有する貨幣量に応じてより安く物の値段が決まり、薄利多売した、その薄利を束ねて、分配する権限を持っているごく少数の者に、貨幣の大半が集中してしまい、その状態が極まると、もはや、貨幣は物の交換媒体としての機能を果たさなくなり、貨幣経済は崩壊するでしょう。
したがって、ネガティブな競争原理の基では、『すべての人が競争に勝つ』というようなことは最初からなく、自分と他人は別々であるという、分離の幻想を見ていたのですから、
それに気づいたら、ごく少数の者だけが、圧倒的な貨幣の保有量に物を言わせて、必要ない物まで、必要以上に手に入れる(=奪い合う)という競争原理ではなく、すべての者に必要な物が必要なだけ手に入る(=分かち合う)助け合いの原理で、ポジティブな現実(=本当の喜びに基づく経済システム)を創造することができるでしょう。
必要なくても、お金をたくさん持っている人が手に入れ、必要なのに、お金がないから手に入らない人がいるという矛盾が生じているのは、すでに、貨幣が物の交換媒体としての機能を果たさなくなっているのに、ごく少数の競争に勝っている者たちの意向だけで、実質は機能していないのに、ルールだけをその権限で守っているからです。
だから、競争に勝って貨幣を多く保有している者だけが、それを使って、多くの物を手に入れる(=奪う)ことができるという、競争原理に基づくルールを、必要なときに、必要なものが、必要な人に、必要なだけ手に入る(=分かち合う)、助け合いの原理に基づいた、新たなルールに変えなければならないでしょう。
本当の痛みに気づいたら、まず自らが先に、形作られた物資的な喜びへの囚われを捨てる
今の労働システムが作り出しているものは、自分というものを、形作られた狭い思考の範囲に限定することによって得られる、形作られた物質的な喜びです
例えば、社員は、派遣社員に社員が嫌う、きつい・汚い・危険な仕事をさせて、物質的な痛みを感じないようにすることによって、形作られた物質的な喜び(=高給・高待遇)を手に入れようとします。
社員自らがきつい・汚い・危険な仕事をしてしまうと、形作られた物質的な痛み(=恐れ)によって、形作られた物質的な喜び(=楽して高給・高待遇)が打ち消されてしまうので、物質的な喜び(=高給・高待遇)を手に入れる自分と、社員に代わって、低給・低待遇で、きつい・汚い・危険な仕事をする派遣社員とを、別々に創造することによって、形作られた物質的な喜びを手に入れようとするのです。
もし、給料・待遇が良いとしても、自らがきつい・汚い・危険な仕事をしなければならないのなら、その仕事はしたくないという気持ちの方が強くなるから、ネガティブな(=分離の幻想に基づいた)物質的な喜びを手に入れるという経験を作り出すことはできなくなるでしょう。
社員は、自分の代わりに、きつい・汚い・危険な仕事をする、低給・低待遇の派遣社員がいなくなれば、自分が楽して、高給・高待遇を得られなくなるという形作られた痛み(=恐れ=形作られた自分が否定されてしまう恐れ)を感じます。
一方、派遣社員は、誰もが嫌がるきつい・汚い・危険な仕事を、社員の代わりにすることができなくなれば、生活ができなくなるという形作られた痛み(=恐れ=形作られた自分が否定されてしまう恐れ)を感じます。
この場合の本当の痛みは、社員が、自分が楽して高給・高待遇を得るために、派遣社員に、低給・低待遇で、きつい・汚い・危険な仕事をさせて犠牲にしたくないということであり、派遣社員も社員の代わりに、低給・低待遇で、きつい・汚い・危険な仕事をして、犠牲になりたくはないということになるでしょう。
形作られた痛み(=恐れ=闇)には、本当の喜びに対する希望(=光)はありませんが、本当の痛みには、社員が派遣社員を犠牲にしなくても、あるいは、派遣社員が社員の犠牲にならなくても成り立つ、新たな労働システム(=本当の喜び)に対する希望(=光)があります。
だから、本当の痛みに気づいたら、まず自らが先に、形作られた物資的な喜びへの囚われを捨てて、狭い思考の範囲を超えて意識を拡大し、自分(=社員)と他人(=派遣社員)とは別々であるという分離の幻想(=仮想現実)から抜け出すことです。
そして、その本当の痛みから感じた、目には見えない形のない光(=新たな労働システム=本当の喜び)を表に形として現わすことによって、本当の喜びを分かち合うことができるようになるでしょう。
例えば、社員は、派遣社員に社員が嫌う、きつい・汚い・危険な仕事をさせて、物質的な痛みを感じないようにすることによって、形作られた物質的な喜び(=高給・高待遇)を手に入れようとします。
社員自らがきつい・汚い・危険な仕事をしてしまうと、形作られた物質的な痛み(=恐れ)によって、形作られた物質的な喜び(=楽して高給・高待遇)が打ち消されてしまうので、物質的な喜び(=高給・高待遇)を手に入れる自分と、社員に代わって、低給・低待遇で、きつい・汚い・危険な仕事をする派遣社員とを、別々に創造することによって、形作られた物質的な喜びを手に入れようとするのです。
もし、給料・待遇が良いとしても、自らがきつい・汚い・危険な仕事をしなければならないのなら、その仕事はしたくないという気持ちの方が強くなるから、ネガティブな(=分離の幻想に基づいた)物質的な喜びを手に入れるという経験を作り出すことはできなくなるでしょう。
社員は、自分の代わりに、きつい・汚い・危険な仕事をする、低給・低待遇の派遣社員がいなくなれば、自分が楽して、高給・高待遇を得られなくなるという形作られた痛み(=恐れ=形作られた自分が否定されてしまう恐れ)を感じます。
一方、派遣社員は、誰もが嫌がるきつい・汚い・危険な仕事を、社員の代わりにすることができなくなれば、生活ができなくなるという形作られた痛み(=恐れ=形作られた自分が否定されてしまう恐れ)を感じます。
この場合の本当の痛みは、社員が、自分が楽して高給・高待遇を得るために、派遣社員に、低給・低待遇で、きつい・汚い・危険な仕事をさせて犠牲にしたくないということであり、派遣社員も社員の代わりに、低給・低待遇で、きつい・汚い・危険な仕事をして、犠牲になりたくはないということになるでしょう。
形作られた痛み(=恐れ=闇)には、本当の喜びに対する希望(=光)はありませんが、本当の痛みには、社員が派遣社員を犠牲にしなくても、あるいは、派遣社員が社員の犠牲にならなくても成り立つ、新たな労働システム(=本当の喜び)に対する希望(=光)があります。
だから、本当の痛みに気づいたら、まず自らが先に、形作られた物資的な喜びへの囚われを捨てて、狭い思考の範囲を超えて意識を拡大し、自分(=社員)と他人(=派遣社員)とは別々であるという分離の幻想(=仮想現実)から抜け出すことです。
そして、その本当の痛みから感じた、目には見えない形のない光(=新たな労働システム=本当の喜び)を表に形として現わすことによって、本当の喜びを分かち合うことができるようになるでしょう。