------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛 -4ページ目

ネガティブな現実の創造の原理

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本当の現実に気づくことによって、自分と他人は別々であるという分離の幻想(=仮想現実)から抜け出す

「牛肉を食べたいけれども、自分では殺したくない。自分で殺したら、おいしいと思って喜んで食べられなくなる。」

だから、自分以外の誰かに殺させて食べるのです。

私たちは、これで痛みは感じないと思っていますが、これでは本当の喜びを感じることはできません。

なぜなら、狭い思考の範囲に限定された自分としては、牛肉を食べる自分と、牛を殺す自分以外の誰かが別々であると思い込んでいても、思考の範囲を超えた本当の自分としては、食べる自分と殺す他人は、別々ではないからです。

食べる自分と殺す他人が別々であるという認識は、意識を狭い思考の範囲に限定したときの、幻想(=形作られた仮の現実=仮想現実)であり、形作られていない唯一本当の現実は、目には見えない形のないところでは、すべては、本当の喜びのもとにひとつであるということであり、それが究極の真実です。

だから、私たちは、形作られない唯一本当の現実から、形作られた(=形として投影された)ひとつの側面(=仮の現実=仮想現実=幻想)を作り出して経験しているのです。

牛肉を食べる経験と、牛を殺す経験が、形的には別々の経験であるかのように見えても、形を超えたところにおいては、すべてを別々にではなく、同時に経験しているというのが、真実になります。

もし、自分で牛を殺して、食べなければならないというふうに、同じ思考の範囲に限定された自分が、同時に経験しなければならないということになれば、「食べたいけれども、殺したくはない。」という想いの方が強くなり、牛肉を食べるという経験を作り出すことはできなくなるでしょう。

だから、牛肉を食べるというネガティブな経験(=形作られた喜び)をするために、食べたい自分と、殺す自分を、別々の思考の範囲に形作る、意識を別々に凝縮させる(=食べる自分と殺す他人は、別々であるという、仮想現実を作り出す)ことによって、ネガティブな経験(=分離の幻想)を作り出しているということになります。

だから、形としては別々に創造されている、食べたい自分の方が、まず先に、「殺したくない」(=本当の痛み)ということに気づかなければ、殺す他人(=もう一人の自分(側面))も、殺したくないということに気づく(=自分と他人は別々ではない=分離の幻想=仮想現実から、形作られない、目には見えない形のないところでは、本当の喜びのもとにすべてはひとつであるという、唯一、本当の現実に気づく)ことができないということになります。

同じように考えると、原発を利用して便利な生活をしたいけれども、原発は自分の近くにはいらないという場合に、原発を利用して便利な生活をしたいと思い込んでいる自分の方が、まず先に、「原発事故で自分以外の誰かや何かを犠牲にしたくはない」ということに気づかなければ、原発を推進する他人(=もう一人の自分(側面))も、気づくことはできない(=自分と他人は、別々であるという分離の幻想=仮想現実を見続ける)ということになります





思い込み(=形作られた喜び)が、恐れ(=形作られた痛み)を作り出す

例えば、牛の
口蹄疫に関する風評が出たときに、恐れ(=形作られた痛み)を感じている場合は、本当の痛みは感じていないということになります。

うまい牛肉が食べられなくなる、牛肉に関連した商売がうまくいかなくなるなどという恐れは、狭い思考の範囲の意識に限定された、思い込みにより形作られた痛み(=恐れ)にすぎないでしょう。

牛肉のステーキ、焼肉、牛丼などがうまい、牛肉に関連した商売がうまくいくなどということは、形作られた喜び(=思い込み)にすぎないということです。

口蹄疫 にかかった牛が殺処分されたと聞いて、食べられないからといって、人間の都合で牛を殺してしまってはいけないと気づいた人は、もう本当に牛肉を喜んで食べることはできないでしょう。

このように、本当の痛みを感じるということは、牛肉を食べるということが、自分にとって本当の喜びではなく、形作られた喜び(=思い込み)であったということになります。

牛肉を食べたいのなら、自分自身で牛を殺して、切り刻んでから食べなければならないとなったときに、一体、どれくらいの人が、それを実際にやって、牛肉はうまいといって喜んで食べることができるでしょうか。

多分、それは、相当、形への囚われが強く、本当に痛みに鈍くなっていないとできないことでしょう。

だから、ある状況に直面したときに、恐れ(=形作られた痛み)を感じているのか、それとも、形作られない本当の痛みを感じているのかによって、形への囚われの強さがわかる、ということになります。

恐れ(=形作れらた痛み)を感じているならば、形への囚われが強く、形作られない本当の痛みを感じているならば、形への囚われが弱いということになります。


例えば、原発がないと、電力が足りなくなり、電気料金が高くなると、企業のコストが高くなって、競争に勝てずに潰れてしまうなどと恐れ(=形作られた痛み)を感じます。

あるいは、電気が足りないと個人が便利な生活ができなくなる、電気代が高くなり、家計を圧迫するなどと恐れ(=形作られた痛み)を感じます。


自分以外の誰かや何かの本当の喜びを奪ってまでして、自分の形作られた喜びを手に入れても、その喜びは恐れ(=形作られた痛み)によって、常に、打ち消されてしまいます。

だから、思い込み(=形作られた喜び)が、恐れ(=形作られた痛み)を作り出しているのですから、その形への囚われを、気づき(=形作られた自分と、形作られない本当の自分とのずれを解消する)によって解消しなければ、いつまでたっても、本当の喜びは得られないということになるのです。