本当の現実に気づくことによって、自分と他人は別々であるという分離の幻想(=仮想現実)から抜け出す
「牛肉を食べたいけれども、自分では殺したくない。自分で殺したら、おいしいと思って喜んで食べられなくなる。」
だから、自分以外の誰かに殺させて食べるのです。
私たちは、これで痛みは感じないと思っていますが、これでは本当の喜びを感じることはできません。
なぜなら、狭い思考の範囲に限定された自分としては、牛肉を食べる自分と、牛を殺す自分以外の誰かが別々であると思い込んでいても、思考の範囲を超えた本当の自分としては、食べる自分と殺す他人は、別々ではないからです。
食べる自分と殺す他人が別々であるという認識は、意識を狭い思考の範囲に限定したときの、幻想(=形作られた仮の現実=仮想現実)であり、形作られていない唯一本当の現実は、目には見えない形のないところでは、すべては、本当の喜びのもとにひとつであるということであり、それが究極の真実です。
だから、私たちは、形作られない唯一本当の現実から、形作られた(=形として投影された)ひとつの側面(=仮の現実=仮想現実=幻想)を作り出して経験しているのです。
牛肉を食べる経験と、牛を殺す経験が、形的には別々の経験であるかのように見えても、形を超えたところにおいては、すべてを別々にではなく、同時に経験しているというのが、真実になります。
もし、自分で牛を殺して、食べなければならないというふうに、同じ思考の範囲に限定された自分が、同時に経験しなければならないということになれば、「食べたいけれども、殺したくはない。」という想いの方が強くなり、牛肉を食べるという経験を作り出すことはできなくなるでしょう。
だから、牛肉を食べるというネガティブな経験(=形作られた喜び)をするために、食べたい自分と、殺す自分を、別々の思考の範囲に形作る、意識を別々に凝縮させる(=食べる自分と殺す他人は、別々であるという、仮想現実を作り出す)ことによって、ネガティブな経験(=分離の幻想)を作り出しているということになります。
だから、形としては別々に創造されている、食べたい自分の方が、まず先に、「殺したくない」(=本当の痛み)ということに気づかなければ、殺す他人(=もう一人の自分(側面))も、殺したくないということに気づく(=自分と他人は別々ではない=分離の幻想=仮想現実から、形作られない、目には見えない形のないところでは、本当の喜びのもとにすべてはひとつであるという、唯一、本当の現実に気づく)ことができないということになります。
同じように考えると、原発を利用して便利な生活をしたいけれども、原発は自分の近くにはいらないという場合に、原発を利用して便利な生活をしたいと思い込んでいる自分の方が、まず先に、「原発事故で自分以外の誰かや何かを犠牲にしたくはない」ということに気づかなければ、原発を推進する他人(=もう一人の自分(側面))も、気づくことはできない(=自分と他人は、別々であるという分離の幻想=仮想現実を見続ける)ということになります
だから、自分以外の誰かに殺させて食べるのです。
私たちは、これで痛みは感じないと思っていますが、これでは本当の喜びを感じることはできません。
なぜなら、狭い思考の範囲に限定された自分としては、牛肉を食べる自分と、牛を殺す自分以外の誰かが別々であると思い込んでいても、思考の範囲を超えた本当の自分としては、食べる自分と殺す他人は、別々ではないからです。
食べる自分と殺す他人が別々であるという認識は、意識を狭い思考の範囲に限定したときの、幻想(=形作られた仮の現実=仮想現実)であり、形作られていない唯一本当の現実は、目には見えない形のないところでは、すべては、本当の喜びのもとにひとつであるということであり、それが究極の真実です。
だから、私たちは、形作られない唯一本当の現実から、形作られた(=形として投影された)ひとつの側面(=仮の現実=仮想現実=幻想)を作り出して経験しているのです。
牛肉を食べる経験と、牛を殺す経験が、形的には別々の経験であるかのように見えても、形を超えたところにおいては、すべてを別々にではなく、同時に経験しているというのが、真実になります。
もし、自分で牛を殺して、食べなければならないというふうに、同じ思考の範囲に限定された自分が、同時に経験しなければならないということになれば、「食べたいけれども、殺したくはない。」という想いの方が強くなり、牛肉を食べるという経験を作り出すことはできなくなるでしょう。
だから、牛肉を食べるというネガティブな経験(=形作られた喜び)をするために、食べたい自分と、殺す自分を、別々の思考の範囲に形作る、意識を別々に凝縮させる(=食べる自分と殺す他人は、別々であるという、仮想現実を作り出す)ことによって、ネガティブな経験(=分離の幻想)を作り出しているということになります。
だから、形としては別々に創造されている、食べたい自分の方が、まず先に、「殺したくない」(=本当の痛み)ということに気づかなければ、殺す他人(=もう一人の自分(側面))も、殺したくないということに気づく(=自分と他人は別々ではない=分離の幻想=仮想現実から、形作られない、目には見えない形のないところでは、本当の喜びのもとにすべてはひとつであるという、唯一、本当の現実に気づく)ことができないということになります。
同じように考えると、原発を利用して便利な生活をしたいけれども、原発は自分の近くにはいらないという場合に、原発を利用して便利な生活をしたいと思い込んでいる自分の方が、まず先に、「原発事故で自分以外の誰かや何かを犠牲にしたくはない」ということに気づかなければ、原発を推進する他人(=もう一人の自分(側面))も、気づくことはできない(=自分と他人は、別々であるという分離の幻想=仮想現実を見続ける)ということになります