ドラゴンボールは、最初から自分の内にあったと気づいたときに、見るものすべてが輝いて見えてくる。 | ------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛

ドラゴンボールは、最初から自分の内にあったと気づいたときに、見るものすべてが輝いて見えてくる。

目には見えない、形のない喜びが見えない(=感じることができない)から、目に見える形作られた喜びを奪い合うことによって、喜びを得ようとするのです。

逆に、目に見えない、形のない喜びが見えれば(=感じることができれば)、それを目に見える形のあるものとして表現することによって、喜びを分かち合うことができます。

目に見える形のあるものに囚われてしまうと、目には見えない、形のない喜び(=ドラゴンボール)を見る(=感じる)ことができなくなるから、その喜び(=ドラゴンボール)を自分の外側に形あるものとして、見つけようとするのです。

願い
(=本当の喜びを分かち合うこと)を叶えてくれるという、ドラゴンボール(=目には見えない形のない喜び)を手に入れたいと思って、目に見える形作られた喜びを奪い合うけれども、その手に入れた形のあるものたちは、願い(=本当の喜びを分かち合うこと)を叶えてくれないのです。

ドラゴンボール

(=目には見えない形のない喜び) は、自分の外側にあると思い込んで、
ドラゴンボールを手に入れるために、目に見える形作られた喜びを奪い合い(=喜びが欠けていく)、願いを叶える(=本当の喜びを分かち合う)ことができないでいるのか、

それとも、ドラゴンボールは、最初から自分の内にあったと気づいて、目には見えない形のない喜びに満ちて、その喜びを形あるものとして表現することによって、喜びを分かち合い、願いを叶えることができて行くのかの、どちらかになります。

 ドラゴンボールが、自分の内に最初から在ると気づくか、気づかないかは、探す方向の違いによります。

形に囚われて、思考の範囲に自分を限定してしまえば、自分の内に在るドラゴンボールを見ることができずに、自分の外側を探そうとしますが、

形への囚われを捨てて、思考の範囲を超えて意識を拡大することによって、最初から自分の内にドラゴンボールがあった(= 自分がドラゴンボーそのものであった)と気づくことができれば、もう自分の外側にドラゴンボールを探す必要はなくなるのです。

そうなれば、後は、自分の内に在るドラゴンボールを使って、願い(=本当の喜びを分かち合うこと)を叶えていくだけでよい、ということになります。

ドラゴンボール(=形作られない本当の喜び=すべての形を作り出す源となるもの=フリーエネルギーE=無条件の愛)は、最初から自分の内にあった(=自分がドラゴンボールそのものであった)と気づいた人は、見た目がどんな些細なこと(=シンプルな日常)であっても、自分が創造するもの(=自分が見ている現実)は、すべて喜びであると気づいて行く(=見るものすべてが輝いて見えてくる)ことができるのです。

ryuu