正気と狂気の両方が、否定されずに存在するという気月を得る
月が欠けるのを見て、狂気づくのは、ネガティブな方向の気づきで、
月が満ちるのを見て、正気づくのは、ポジティブな方向の気づきです。
皆既月食と満月は、表裏一体です。
皆既月食では、陰気月(=-m)を得て、
満月では、陽気月(=+m)を得ます。
陰気月と陽気月は、表裏一体です。
月が欠けていくときは、否定される恐れから自分を守ることによって、形への囚われが強いほど、影が濃くなり、深い闇を経験します。
恐れのままに、喜びを奪い合い、奪われるから守ろうとします。
逆に、月が満ちていくときには、肯定も否定もせずに、自分自身と他のすべてを無条件に許容することによって、形への囚われが弱いほど、
影が薄くなり、明るい光を経験します。
喜びのままに、喜びを分かち合い、奪われないから、守る必要はなくなります。
自らが持つ、形への囚われ(=思い込み)が、影となり、現実に投影されることによって、闇を経験するのですから、光を経験するため
には、形への囚われを捨てなければなりません。
しかし、それを簡単には捨てることができないのは、形(=名利)を持っていないと、自分が否定されてしまうという恐れを持っているからです。
形作られた自分が否定されてしまうのが、人間が作り出した最大の恐怖ですから、その恐怖を解消するための唯一の方法は、まず、自らを自らの意志で、否定される恐れから解放することです。
つまり、正気と狂気の両方が、形作られた自分の中に、両方、同時に存在していますから、それらをどちらも同時に否定せずに、無条件に許容しさえすれば、自分自身で、形作られた自分が否定されてしまう、最大の恐怖を解消することができるのです。
思考の範囲を越えて、陰陽表裏一体として包み込んでいるのが、本当の自分であると気づいたときには、陰気月と陽気月が表裏一体であるのと同じで、形への囚われを捨てることができるのです。
すべてを超えて、すべてを包み込んでいる、創造の源の視点から見た場合、同じひとつのものに、同時に異なる側面が見えているわけですから、今見ている側面と違う側面(=現実)を見たい、闇ではなく、光を見たいと思ったら、自らが形への囚われを捨てて、見る側の視点を変えることによって可能となります。
形への囚われを持ったまま、自分ではなく、見えている側面(=現実)の方を変えようとしても、変えることはできないのです。
まず、自らが形への囚われを捨てて、思考の範囲を超えて意識を拡大させることによって視点を変え、同じひとつのものの、同時に存在する別の側面(=現実)を見ることができるのです。
見る角度によって、月が欠けたり、満ちたりして見えるのは、欠けた月と、満ちた月が別々の月としてあるのではなく、同じ一つの月の異なる側面(=現実)であるということと同じなのです。
だから、光と闇は表裏一体というときには、形への囚われを捨てて、意識を思考の範囲を超えて拡大したときに、同じひとつのものの異なる側面を、同時に見ているということになります。
月が満ちるのを見て、正気づくのは、ポジティブな方向の気づきです。
皆既月食と満月は、表裏一体です。
皆既月食では、陰気月(=-m)を得て、
満月では、陽気月(=+m)を得ます。
陰気月と陽気月は、表裏一体です。
月が欠けていくときは、否定される恐れから自分を守ることによって、形への囚われが強いほど、影が濃くなり、深い闇を経験します。
恐れのままに、喜びを奪い合い、奪われるから守ろうとします。
逆に、月が満ちていくときには、肯定も否定もせずに、自分自身と他のすべてを無条件に許容することによって、形への囚われが弱いほど、
影が薄くなり、明るい光を経験します。
喜びのままに、喜びを分かち合い、奪われないから、守る必要はなくなります。
自らが持つ、形への囚われ(=思い込み)が、影となり、現実に投影されることによって、闇を経験するのですから、光を経験するため
には、形への囚われを捨てなければなりません。
しかし、それを簡単には捨てることができないのは、形(=名利)を持っていないと、自分が否定されてしまうという恐れを持っているからです。
形作られた自分が否定されてしまうのが、人間が作り出した最大の恐怖ですから、その恐怖を解消するための唯一の方法は、まず、自らを自らの意志で、否定される恐れから解放することです。
つまり、正気と狂気の両方が、形作られた自分の中に、両方、同時に存在していますから、それらをどちらも同時に否定せずに、無条件に許容しさえすれば、自分自身で、形作られた自分が否定されてしまう、最大の恐怖を解消することができるのです。
思考の範囲を越えて、陰陽表裏一体として包み込んでいるのが、本当の自分であると気づいたときには、陰気月と陽気月が表裏一体であるのと同じで、形への囚われを捨てることができるのです。
すべてを超えて、すべてを包み込んでいる、創造の源の視点から見た場合、同じひとつのものに、同時に異なる側面が見えているわけですから、今見ている側面と違う側面(=現実)を見たい、闇ではなく、光を見たいと思ったら、自らが形への囚われを捨てて、見る側の視点を変えることによって可能となります。
形への囚われを持ったまま、自分ではなく、見えている側面(=現実)の方を変えようとしても、変えることはできないのです。
まず、自らが形への囚われを捨てて、思考の範囲を超えて意識を拡大させることによって視点を変え、同じひとつのものの、同時に存在する別の側面(=現実)を見ることができるのです。
見る角度によって、月が欠けたり、満ちたりして見えるのは、欠けた月と、満ちた月が別々の月としてあるのではなく、同じ一つの月の異なる側面(=現実)であるということと同じなのです。
だから、光と闇は表裏一体というときには、形への囚われを捨てて、意識を思考の範囲を超えて拡大したときに、同じひとつのものの異なる側面を、同時に見ているということになります。
