------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛 -30ページ目

どうやったらひっくり返せるのか?

「本当はどちらもありだったんだ。どちらも無条件に許容されていて、愛されていたんだ」と気付くことが、ひっくり返すということです。


①+愛ー愛=0(空) どちらか一方の条件付きの愛、分離の愛、有限の愛、形に囚われた愛。不完全な愛。           なぜなら、どちらか一方だけを選択する場合、他方を否定し、自分の方を肯定しているからです。例えそれが、+愛で、相対的な幸福感のエネルギーを拡大・増加する方向に作用したとしてもです。


② +愛=+愛 -愛がひっくり返って、+愛になった。ここで、どちらか一方ではなく、どちらも同時に、すべてがひとつとして無条件に愛されていたと気付く。

自我が0(空)の中で、+愛、-愛という対になっているひとつの観念に対して、一切の肯定も否定もしないとき、その観念に関する分離の壁が外れて、その観念を持っている自我意識がハートと繋がり、自我意識がハートから、その観念に関するハートの合一の認識を、思考の直観的な洞察により得て、+愛とー愛が分離していて、どちらか一方だけではなく、本当は、合一であり、どちらも同時に無条件に許容され愛されていたと、自我の認識として気が付く。これがひっくり返すということです。


③|+愛|=|-愛|=愛  絶対的な無条件の愛。どちらか一方ではなく、どちらも同時にすべてがひとつである愛。限界のない無限の愛、形に囚われていない、完全な愛。


④+愛ー愛=愛(=実在)となり、空の中に、その観念に関する、無条件の愛という解が現れる。



ある観念に関して、ハートと自我の分離が解消されて、ハートと自我が調和すれば、どちらが、どちらという区切り(=分離)、どちらか一方という条件付け(=形への囚われ)は必要なくなり、どちらも同時に調和して作用することが可能になるのです。


ある観念に関して、自我がハートを愛さない、つまり、ハートが常に絶えることなく、自我に示している無条件の愛を受け取らないから、自我は、ハートとの分離(=不調和)を解消して、合一(=調和)することができないのです。


つまり、無条件の愛は、常に絶えることなくハートから自我に無条件に示されていますから、自我がどちらか一方の形に囚われて、条件付けをせずに、どちらも同時にひとつとして受けて取れば成立するのです。


本当の愛は、どちらか一方ではなく、どちらも同時に、すべてを、ひとつとして受け取ることによって成立するのです。


だから、ハートは、自我が受け取り拒否しているものを、無理に押し付けることはしないのです。


自我が受け取るか、受け取らないか、それさえも、どちらも同時に、どちらもすべてが、ひとつとして許容しているのが、無条件の愛の性質です。


無条件の愛は、どちらか一方というような、一切の条件を付けずに、ただ、どちらも同時に、すべてがひとつとして示すのみですから、ハートからではなく、自我が形に囚われて、どちらか一方の条件に執着して、押し付けようとしたら、それは、形に囚われた条件付きの愛、分離の愛、相対的な愛、制限のある有限の愛、不完全な愛になってしまいます。


無条件の愛は、どちらか一方というような条件付けが一切ない、すべてがひとつの合一の愛、絶対的な愛、制限のない無限の愛、完全な愛なのです。



自我がある観念の一方の面に執着している、形に囚われているために、その観念の面に関して、自我とハートが分離を引き起こしている。


そのため、自我が執着(=肯定)している一方の面と対になる、もう一方の面を提示されたときに、自我が今、強くしがみついている観念の面を否定されないように、提示された観念の面の方を否定しようとする。


今、強くしがみついている観念の面を否定されると、自我自身の存在が、否定されなくなってしまうのではないかと、強い恐れを持つ。


つまり、自我の存在が危機にさらされてしまうのです。


その危機を回避するには、相手を否定し、攻撃するのではなく、自我がその強くしがみついている観念に関して、自我がハートとの分離を解消しなければなりません。


ハートは、その観念に関して、対になっているひとつの観念のそれぞれの面を、同時に合一として認識する。自我がその観念への執着や判断を一切せずに、その観念に関する分離の壁を外し、その観念に関して、ハートが持つ合一の認識を、思考の直観的洞察により受け取る。


対になっているひとつの観念のそれぞれの面を肯定も否定もせずに、どちらも同時にひとつとして受け入れる。つまり、自我がハートの無条件の愛を、そのままありのまま受け入れる。その観念に関して、自我が、肯定も否定もせずに、ハートとの分離を解消する。


これが、自我の存在の危機を回避して、ある観念の面をひっくり返す方法です。



自我が観念の一方の面に強くしがみついて、その面が自我の奥深くに潜在し、自我を根幹から支える、固定観念となっている場合があります。


その観念に関して、自我がハートから分離を引き起こしているので、その固定観念となっている観念の面と対になっている、観念の面を提示されると、強い疑いや恐れの感情が生じてきます。


その観念について、一切の判断や執着をしないことにより、その観念に関しての分離の壁が外れるので、ハートと繋がり、ハートがその観念に関して持っている合一の認識を、思考により、直観的な洞察として得て、肯定、否定しようとしていた、それぞれの観念の面が、同じひとつの観念の別々の面であったことに気付きます。


これが観念をひっくり返すということです。


どちらか一方という条件付けではなく、どちらも同時にひとつであり、すべてであるという、無条件の愛を、自我がハートから示されて、それを自我自らが受容して、変容するのです。ハートと分離する自我ではなく、ハートと調和して合一である自我に生まれ変わるのです。生まれ変わるだけであって、けして消してしまうことではないのです。



あなたのハートからの無条件の愛を、受け取り拒否している、あなたの自我に、あなたの外からではなく、あなた内側のハートから来る、無条件の愛を受け取らせてください。


あなたのハートで、あなたの自我を無条件に愛してください。


それが、どちらか一方という条件付きではなく、ただ、どちらも同時に、すべてがひとつとしてただ示し、受け取る、本当の愛だからです。



疑問という名の気付きの原動力である、思考のエネルギーに、いつも感謝しています。













無条件の愛の、無条件とは、一体どういう意味なのか?

無条件の愛について、まず、言葉から簡単に考えてみましょう。


無条件ということは、相対的に、どちらか一方というような、条件付けがなく、絶対的にどちらとも、ということになります。


幸福というひとつの観念のうち、幸福があるという面を基準面(肯定)として選択した場合の、現実の経験では、もう一方の面である幸福がないという面を、同時に肯定すればするほど、形への囚われが減少し、ハートとの分離の壁が薄くなり、相対的な幸福感のエネルギーが、拡大(=個の意識から集合意識へと、共有される範囲が拡がる)・増加(=相対的な幸福感が増す)する方向に作用します。


そして、幸福があるという面が反映された現実が経験できる世界を、その選択をした個の意識が経験します。


一方、幸福というひとつの観念のうち、幸福がないという面を基準面(肯定)として選択した場合の、現実の経験では、もう一方の面である幸福があるという面を、同時に否定すればするほど、形への囚われが増加し、ハートとの分離の壁が厚くなり、相対的な幸福感のエネルギーが、縮小(=集合意識から個の意識へと、共有される範囲が縮小する)・減少(=相対的な幸福感が減る)する方向に作用します。


そして、幸福がないという面が反映された現実が経験できる世界を、その選択をした個の意識が経験します。


つまり、自由意志による選択によって、どちらの現実の経験をするのかを、選択可能ということです。


そして、例えば、個Aが、幸福があるという面を基準面(肯定)として持ち、その面が反映された現実を経験することを選択した場合、もう一方の条件である幸福がないという面を基準面(肯定)として持ち、その面が反映された現実を、個Aの認識では、それらを同時に経験しているとは、認識していませんが、集合意識であるハイヤーセルフの認識では、同じ時間枠の別々の現実の中で、個Aと個Bが同時にそれぞれの経験をしていると認識されます。


すなわち、同じひとつの観念の相対する面を反映している現実が、同じ時間枠で別々に同時に存在し、個Aが、どちらか一方の面を選択した場合、他方の面は、個Bが同時に経験しているということなのです。


もし、個Aがどちらか一方の面を反映した現実を経験したときに、他方の面を反映した現実の経験が存在しないとしたら、それは、可能性として、どちらか一方しか経験できない、相対的な条件付きの愛になってしまい、どちらも同時に両方を選択して経験できる、相対的な条件付けがない、絶対的な無条件の愛とは言えないのです。


個の認識のレベルで、幸福があるという面を基準面に持つ人生も、幸福がないという面を基準面に持つ人生も、どちらか一方ではなく、どちらも同時に、集合意識であるハイヤーセルフの認識のレベルで、許容(=可能と)されているのが、どちらか一方という相対的な条件付けのない、どちらも、絶対的に、同時に経験できる、無条件の愛なのです。


あるひとつの観念の相対的な分離のために、個の認識レベルでは、その相反した面が反映された現実のうちどちらか一方だけを経験していると認識していても、ハイヤーセルフの認識のレベルでは、どちらの現実も同時に経験していると認識するのです。


相対する同じ幸福という観念が反映された、同じ時間枠の別の現実の経験を、同時にしているから、ハイヤーセルフのレベルでは、幸福感のエネルギーは、減少も増加もしていないということになるのです。


幸福感のエネルギーが減少している、増加していると感じるのは、縮小した、個の意識のレベルでは、幸福というひとつの観念としてではなく、幸福がある、幸福がないと、別々の面に分離して認識し、同時に認識することができないからなのです。これが、縮小した個の意識の、認識の限界なのです。


個Aが、幸福があるという面を基準面として持ち、その面が反映された現実の中で、相対的な幸福感のエネルギーの拡大・増加を感じる経験を通して触れる、絶対的な無条件の愛のエネルギーと、個Bが、幸福がないという面を基準面として持ち、それが反映された現実の中で、相対的な幸福感のエネルギーの縮小・減少を感じる経験を通して触れた、絶対的な無条件の愛のエネルギーは、本当は、同じなのです。


だから、幸福があるという観念の面を基準面(肯定)として選択した場合には、もう一方の面である、幸福がないという面も同時に肯定すればするほど、それが無条件の愛の波動と調和しているために、そのまま無条件の愛を反映した現実が経験されます。


また、幸福がないという観念の面を基準面(肯定)として選択した場合には、もう一方の面である、幸福があるという面を同時に否定すればするほど、それが無条件の愛の波動と不調和なため、その不調和が反映された現実を経験しますが、その不調和に気付いて、観念をひっくり返す(どちらか一方ではなく、どちらも同時にひとつであり、すべてであると許容する)ことができれば、無条件の愛のエネルギーに調和し、相対的な幸福感のエネルギーが拡大・増加する方向に流れを変えることもできるのです。


そして、そのとき初めて、見かけ上、無条件の愛に触れていなかっただけだと、気付くのです。

なぜ、疑い、あるいは、恐れを持ったときが、その観念をひっくり返すチャンスなのか?

ある観念について、何の判断も執着もしなくなったとき、0ポイントにおいて、自我からハート(=本当の自分の生きた心=実在=真我)に意識が切り替わります。


ある観念をひっくり返すとは、本来、ネガ・ポジで対になっているひとつの観念を、形に囚われて、別々に分離しているものという自我の認識、形への囚われを解消し、ハートが空から飛翔して、その観念の源となっていた、実在のエネルギーである無条件の愛と融合することです。


観念をひっくり返す場合、どんな観念をひっくり返すのかに、焦点を当てておかないと、なんだかよくわからないものをひっくり返すことはできません。


もし、ひっくり返そうとする、ある観念に焦点を当てておかないままに、0ポイント(=静寂=意識、エネルギー、観念の転換点)に入ると、ただ空という観念を自我が認識します。


空とは、「形がある・形がない」という、創造の源からの分離の根幹をなす、重要な観念です。そこからすべての分離が始まっています。


空において、自我意識は、形がないと否定(=判断)し、形があると肯定(=執着)しています。つまり、ひとつの観念の「形がある」という面を肯定(=執着)しているために、同じひとつの観念の「形がない」という面を否定(=判断)しているのです。


これが自我意識の認識の限界です。自我意識は、形に囚われているために、認識において、分離したままで、同じひとつの観念として、同時に認識することができないのです。


あるひとつの観念の、対になっている、一方の面を提示されたときに、疑い(または恐れ)を持つということは、その提示された一方の面を否定(=判断)しようとしていますから、自我意識が、肯定(=執着)しているもうひとつの面があるということです。


だからこそ、疑い(または恐れ)を持ったときは、それに気付いて、ひっくり返すチャンスなのです。