観念と気付きを数式に語呂合わせして考察する(再考分)
幸福感のエネルギーについて、再考させていただきます。
まず、以下のような数式で、観念の集合を表してみます。
対になったひとつの観念の集合 一方を基準面としたときの他方との関係 相対的な幸福感の
エネルギーのレベル
+5-5=0 +4-5=-1 4
+6-6=0 +6-3=+3 3
+7-7=0 +3-7=-4 3
+8-8=0 +8-2=+6 2
+9-9=0 +9-9=0 9
(絶対的な幸福感のエネルギー)
・
・
・
・
上記の数式の中で、+5-5=0 に着目します。
永久不変で無限のエネルギーである、無条件の愛は、絶対的には、存在そのものである、絶対値の5でありますから、それ自体は、増加も減少もないので、時間と方向(空間)もない、時空を超えたものとして存在しています。
しかし、現実の世界の、人間の自我が持つ観念を通した場合、相対的な働きが生まれ、絶対値の5は、+5であり、-5でもありますから、増加と減少を自我が認識しますので、時間と空間を認識することになります。
つまり、現実の経験を通して、絶対的な幸福感のエネルギーの、自我が持つ観念を通した結果としての、相対的な増加と減少を認識し、それをそれぞれ幸福と不幸と呼んでいるのです。
次に+5または、-5を基準面(肯定・執着する面)にした場合の、相対的な幸福感のエネルギーのレベルについて考えてみます。
+5を基準面にした場合
+5-5= 0 →+5、-5ともに許容。レベルは、絶対値の5。形への囚われはない。
+5-4=+1 →-5を+1否定。レベルは、4。
+5-3=+2 →-5を+2否定。レベルは、3。
+5-2=+3 →-5を+3否定。レベルは、2。
+5-1=+4 →-5を+4否定。レベルは、1。
+5-0=+5 →-5を+5否定(全否定)。レベルは、0。形への囚われが最大。
-5を基準面にした場合
+5-5= 0 →+5、-5ともに許容。レベルは、絶対値の5。形への囚われはない。
+4-5=-1 →+5を-1否定。レベルは、4。
+3-5=-2 →+5を-2否定。レベルは、3。
+2-5=-3 →+5を-3否定。レベルは、2。
+1-5=-4 →+5を-4否定。レベルは、1。
0-5=-5 →+5を-5否定(全否定)。レベルは、0。形への囚われが最大。
①+5-5=0 ⇔ ②+5-0=+5 ⇔ ③ |+5|=|-5|=5 ⇔ ④+5-5=5
自我は、対になっている、同じひとつの観念を、同時に形として認識することはできません。自我がそれを同時に認識するときには、形のないもの(=空)として認識します。
つまり、①の式の左辺は、自我が、対になっている同じひとつの観念を、別々の形として、分離して認識する状態で、右辺は、左辺の対になっている観念を同時に見たとき、形のないもの(=空)として認識している状態です。
対になっている同じひとつの観念を、ひっくり返すためには、②の式において、まず、右辺の+5が=を越えて、左辺の0(=空)に飛び込まなければなりません。その観念の持つエネルギー(=しきい)が高ければ高いほど、そのしきいを越えるのは、困難になります。
つまり、自我の存在を支える根幹となっている観念であればあるほど、それを支えるエネルギーが大きく、しきいを越えるのが困難になるのです。
そのしきいを越えさせるのは、無条件の愛である、絶対的な幸福感のエネルギーです。
自我が持っている、あるひとつの観念が、対になっているどちらか一方の面を肯定・執着し、他方を否定・排除するというような、相対的な形に囚われていると、本来、絶対的である、幸福感のエネルギーのレベルが、相対的に下がってしまいます。
そして、観念の集合の全体として、相対的に幸福感のエネルギーのレベルが下がってしまうと、自我全体として、相対的に幸福感のエネルギーが下がっていると認識し、エネルギーの大きな観念を、ひっくり返す際に必要な、幸福感のエネルギーを使うことができない状態になります。
だから、その場合、まず、自我が持っている観念のうち、しきいが低くてて、幸福感のエネルギーをあまり必要としない観念から、先にひっくり返していきます。
幸福感のエネルギーを、自我全体で、増加する方向に変化させて、十分に幸福感のエネルギーを使うことができる状態まで、エネルギーのレベルを引き上げてから、しきいの高い観念をひっくり返せば、楽にひっくり返すことができるのです。
観念をひっくり返すのに、苦痛を感じてしまうのは、自我全体として、相対的に下がっている、幸福感のエネルギーのレベルが、上がっていないうちに、大きな観念に焦点を当てて、ひっくり返そうと取り組んでいるからなのです。
まず先に、しきいの低い観念からひっくり返していき、小さな気付きを積み重ね、幸福感のエネルギーに十分満たされてから、しきいの高い観念をひっくり返して、大きな気付きを得るのです。
ある観念に関して、そのしきいを越えられるほどに、自分が幸福感のエネルギーに満たされたら、②の式の右辺の+5を、=のしきいを超えて、左辺の転換点である、0ポイント(=空=ニュートラル=中立)に飛び込み、その観念に関して、一切の判断や執着を捨てて、空の中で静寂を極め、その先にある、③式の、絶対値の5である、絶対幸福感のエネルギーと融合するのです。
そうすれば、④式のように、分離でもなく、空でもない、その先に、ただ在る、永久不変の、無限の、絶対幸福感のエネルギーである、無条件の愛と融合することができるのです。
そして、自分の実在が、無条件の愛そのものであることを悟るのです。
静寂の中、空までが、自我が認識できる限界で、それを越えるためには、自分の本当の生きた心であるハートを信頼して、自我の認識には限界があると、文字通り、観念を観念する、観念をあきらめて、ひっくり返して、その観念を越えた、絶対的な認識を、ハートと取り戻す、思い出すことを、自我の主導ではなく、ハート主導でするプロセスを、この現実の世界の経験を通して経なければならないのです。
だから、自我が疑問に思うことを軽くあしらってはいけません。自我だけで、疑問に思っているのではなくて、それさえもハートがそう思うように仕向けているのです。
「疑問を感じたら、その疑問を愛しましょう。疑問を愛するところには、疑問はありません。気付きがあるのみです。」
「恐れを感じたら、その恐れを愛しましょう。恐れを愛するところには、恐れはありません。気付きがあるのみです。」
観念にオセロゲームを語呂合わせして、幸福・不幸について考察する(再考分)
エゴ(=ネガティブな観念)を現わしている自我を手放すとか、捨てるとか、消すとかいうと、エゴを持っている自我が、自分の存在がなくなってしまうと恐れて、本来、同じひとつの観念で、対になっている、もう一方の面を提示されると、否定しようとする。
(ここで言う『エゴ』とは、『エゴイズム』の『エゴ』で、一方を肯定・執着して、他方を否定・排除する、という意味での利己主義のことです。)
自我が、対になっているひとつの観念を持っており、今、自我が、その一方の面を現わしている場合に、それをひっくり返して、もう一方の面を現わすことにより、どちらも同じであり、ひとつであると気付くと考えた方がよいでしょう。
自我が、対になっている観念の、一方の面を現わしているときに、自我には、その対になっている観念を、同時にひとつのものとして見ることはできません。なぜなら自我は、記憶の中に、形作られた心だからです。自我は、本来、対になっているひとつの観念を、別々に形としてしか見ることができないのです。つまり、自我には、今この瞬間に、幸福と不幸を同時に形作ることはできません。
幸福と不幸を形作るのではなくて、それそのものであるのは、記憶を超えた本当の自分の生きた心(=ハート)です。本当の自分の生きた心は、無条件の愛のエネルギーそのものですから、本来、対になっている観念を、ひとつのものとして、同時に見ることができます。
無条件の愛は、本来、絶対的な幸福感のエネルギーです。
どちらか一方というような、相対的な条件付け(形への囚われ)が一切なく、どちらも同時にひとつとして、許容する場合は、その観念に関しては、絶対的な幸福感のエネルギーとなります。
そして、その観念は、観念の集合の中では、相対的に、幸福感のエネルギーが、拡大・増加していく方向に働き、観念の集合の全体として、相対的に、幸福感のエネルギーが、拡大・増加していく状態(形)を、自我が幸福と呼んでいます。
どちらか一方という相対的な条件付け(形への囚われ)があって、どちらか一方を肯定・執着し、他方を否定・排除する場合は、その観念に関しては、相対的な幸福感のエネルギーとなります。
そして、その観念が、観念の集合の中で、相対的に、幸福感のエネルギーが、縮小・減少していく方向に働く場合に、観念の集合の全体として、相対的に、幸福感のエネルギーが、縮小・減少していく状態(形)を、自我が不幸と呼んでいます。
だから、記憶の中に形作られたものを超えることができない自我には、絶対的な幸福感のエネルギーを、それそのものとして味わうことはできないのです。自我は、エネルギーが、相対的に、形として現れたものしか見ることができないからです。
ここで、オセロゲームが登場します。
自我が持つ、対になっているひとつの観念の、一方の面を黒、他方の面を白とします。
自我は、一方の面が裏になっていて、他方の面が表になっているときは、表になっている面しか見ることができませんから、ひとつの観念を裏返して、もう一方の面を表に現わすということを、自我のみで行うことはできません。
対になっている観念の白も黒も、無条件の愛の、ひとつのエネルギーとして見ることができるのは、無条件の愛のエネルギーそのものである、本当の自分の生きた心であるハートだけです。
だから、観念をひっくり返すオセロゲーム(=現実の経験)をするときには、ハート主導で、形に囚われている自我に対して、今、自我がしがみついて、相対的に、幸福感のエネルギーが縮小・減少している原因となっている、対になっているひとつの観念の黒の面を、ひっくり返せば、白の面が現れ、そのことによって、黒と白は、本来、同じひとつの観念であると気付きます。
そして、そのときに、どちらか一方という条件付け、形への囚われが消失し、自我とハートとの間の、認識における分離の壁が消失します。
その観念に関しては、自我も、間接的ではありますが、ハートと同じ、合一の認識を持つようになり、自我がハートと調和しますから、認識の分離の壁のために、絶対的な幸福感のエネルギーが、相対的に縮小・減少する方向に作用していたのが、ハートの合一の認識を、妨げるものがなくなりますので、ハートが本来、認識している、絶対的な幸福感のエネルギーとして、自我とハートが調和して、それを認識できるようになります。
その観念が、観念の集合の中で作用するときに、観念の集合の全体として、相対的に幸福感のエネルギーが、拡大・増加する場合には、その観念をひっくり返すことによって、エネルギーの流れが、大きく変わったと気付くことになります。
ハート主導の現実の経験(=オセロゲーム)を通して、自我が、本来、対になっている同じひとつの観念の、相対的な形に囚われて、観念をひっくり返すことができないと恐れたときが、それに気付いて、ひっくり返すチャンスです。
恐れは、自我が、本来、対になっているひとつの観念の、形に囚われて、一方の面を肯定・執着しているときに、その形がなくなったら、自我自身の存在がなくなってしまうという恐れです。
ですから、ひっくり返しても、黒の面の代わりに白の面が形として表に現れ、白と黒は、本来、同じひとつの観念であるということを、記憶を超えた本当の自分の生きた心である、永久不変の無条件の愛である、ハートを信じて、すべてを委ねるのです。
観念をひっくり返して、黒から白の面を、表に現わしたときから、黒と白は、相対的な、形への囚われがないところにおいては、本来、同じひとつの観念であったと気付きます。
その観念に関しては、今まで、相対的に、幸福感のエネルギーが縮小・減少していた状態から、絶対的な幸福感のエネルギーに戻り、その観念が、観念の集合の中で作用するときに、観念の集合の全体として、相対的に幸福感のエネルギーが拡大・増加していく場合には、そのエネルギーの流れが大きく変わったことに気付くのです。
観念を黒から白にひっくり返すというと、黒を否定・排除し、白を肯定・執着するという、相対的な形に囚われた、欲望追求型の願望実現や洗脳につながり、幸福にはならないのではないのかと、疑問を持っていらっしゃる方がいますが、その罠にひっかからないためには、自我のエゴ主導のオセロゲームではなく、ハート主導のオセロゲームをすればよいのです。
自我のエゴ主導では、自我は記憶を超えることができずに、形に囚われるので、本来、対になっている観念の、白と黒の両方を、同時に見ることはできませんから、自我が、これは、白でこれが黒だからこれをひっくり返せば、白になり幸福になるはずだと思って、ひっくり返しても、自我が今、表に形として表れている面は、黒と思い込んで否定・排除しようとしているものが、実は、ハートから見れば、それは、白でもあり、かつ、黒でもあり、同じひとつの観念であると認識されており、また、その逆もあったりもします。
だから、自我から見て、ひっくり返して、表に、形として肯定・執着する、白が増えてきたと思っていても、白あるいは黒の、どちらか一方という、相対的な形に囚われたままでは、本来、目には見えない形のない、絶対的な幸福感のエネルギーが、相対的に、縮小・減少する方向に流れてしまう場合もあるのです。
だから、オセロゲームをするときには、ハート主導でやりましょう。無邪気で純粋で形に囚われない、形を超えた、ハートに任せればよいのです。
山登りと創造のプロセスを語呂合わせする
言葉に、本当の自分の生きた心(=ハート)から分離している、最初から形作られた意味ではなくて、自分の生きた心に調和する意味を、自由に持たせることができる。
それが、心の中の形への囚われを外して自由になっていく練習になる。
例えば、「感動」という言葉の意味を国語辞典で調べてみると、「物に深く感じて、心を動かすこと」とある。
僕がこの字を読むときは、「感覚が動かされる」と読み、「自分の本当の生きた心が動かされること」という意味を持たせる。
同じように、「感情」という言葉の意味のひとつとして、「気持ち。心持。」と書いてあるが、自分がこの字を読むときは、「情報から感じ取る」と読み、「生きた心ではなくて、記憶の中に形作られた情報に基づいて感じ取る」という意味を持たせる。
続いて、「欲望」は、「欲しがる心。不足を感じて、これを満たそうと望む心」と書いてある。僕は、「欲しいと望む」と読み、「すでに、記憶の中に形作られたものの中から探し出して、欲しいと望むこと。目に見える形のある結果(=過去・未来)を先に、心の中に形作って欲しいと望むこと」という意味を持たせる。
「絶望」は、「希望を全く失うこと。望みが絶えること」と書いてある。僕は、「望みが絶えること。」と読み、「記憶の中に形作られた心の中から探し出して、欲しいと望むものがなくなること。」という意味を持たせる。
「希望」は、「未来に望みをかけること。」と書いてある。僕は、「稀な望みを持つ」と読み、「心の中に形作られた記憶の中にではなくて、自分の本当の生きた心(=ハート)が、未だ記憶の中にはない、目には見えない形のないもの(=感動すること)に望みを持つこと。」という意味を持たせる。
このように、自分の本当の生きた心(=ハート)に調和させる語呂合わせは、際限なく続いていく。
つまり、心の中の形への囚われを外して自由になれば、表現の手段はひとつではなく、無限にあるということだ。
本当にリアルな感動というのは、心の中だけではなくて、現実の経験の中で、プロセスを経ることによってしか得られない。
自分の本当の生きた心(=ハート)が動かされることと、記憶の中に形作られた情報に基づいて感じ取る感情とは同じではない。
例えば、山登りについて考えてみたら、山を登って、そこから実際に景色を見て、感動した人の話を聞いただけでは、その人が感じた同じ感動をリアルに味わうことはできない。そのプロセスを想像することによって、ある程度まで、心動かされるかもしれないが、自分自身で登って得た感動には及ばない。
だから人は、誰か他の人が実際の経験を通して、感動した体験を見聞きすると、自分も、自分自身で、そのような感動をあじわってみたいと望むようになる。それが希望なのです。
今特に、形に囚われている、この現実の世界の中で、最初から結果がわかっているものの中から欲しいと望む欲望ではなくて、もうそれに本当に心を動かされる、けして心が満たされることがない、「ああ、これが望みが絶える、絶望というものなのか。」と気付いた人なら、誰でも辿るプロセスなのです。
目覚めとか悟りとかの形に囚われなくても、形に囚われた欲望ではなくて、目には見えない形のない感動を手に入れたいと望んで、現実の経験を積んでいるなら、山登りであろうが、スポーツであろうが、音楽であろうが、平凡な日常であろうが、そのプロセスは無限にあるとういことです。
もし表現の手段、感動を得る手段がたったひとつしかないとしたら、恐ろしくつまらない世界になるでしょう。それさえも無限の可能性のうちのひとつにすぎないし、可能性としてないことはないのであり、ただ、自分がその現実の経験を通して、感動することを選択するかどうかということなのです。
だから、僕の場合も、形に囚われた、欲望を求めることによっては、もう満たされないと、絶望を感じていたときに、ある有名な歌手のコンサートに行って感動した体験が基となり、人から与えられる感動ではなくて、自分自身で、自分の経験する現実を通して、感動を得たいという希望を持つようになりました。
その結果、「優しく、暖かく、広く、大きく、強く、澄み切って、本当の喜びに満ちた本当の愛の世界」を垣間見ることができたのですけれど、それは、現実の経験の終わりではなく、新たな創造のプロセスの始まりに過ぎないのです。
そういう感動があるということを見聞きしただけで、まだ、現実の経験の中で、その創造のプロセス(=感動のプロセス)を、自分自身の足で歩き始めたばかりなのです。
なぜそう言えるのかというと、誰もが皆、この現実の経験の中で経なければならないプロセス、テーマを持って生まれてきているからです。
本当の愛の世界を垣間見て、この現実の世界に戻って来たとき、ある感覚が自分に戻ってきたかどうかを確かめてみた。
それは、まだ形に囚われていない、無邪気で純粋な子供だったころに、青空や星空を見ているだけで、すべてと一体であり、何も欠けているところがない、本当の喜びに満たされた感覚を持つことができていたのだけれども、
その感覚は、大人になって、本当の愛の世界を垣間見ただけでは、戻ってはこないのです。
なぜ、その感覚が戻って来ないのか?それは、ハートが本当の愛の世界を垣間見て来て、感動を得たのであり、肉体とそれに付随する心は、まだその感動を自分自身で味わっていないからです。
無邪気で純粋な子供から、邪心を持って、不純で形に囚われた大人になる過程で、本当の自分の生きた心(=ハート)は望んでいないのに、自分の肉体と心が生きていくためには仕方ないと、地球を自分の欲望を満たすために利用して破壊してきたネガティブな信念、思考・行動パターン、感情が、形への囚われとなり、地球や宇宙と自分のハートとの分離を引き起こし、地球や宇宙との一体感を失ってしまった。
先に山を登って、本当の愛を垣間見て感動してきた、自分の本当の生きた心(=ハート)の視点を借りて、この現実の世界を生きる肉体と心も、地球や宇宙との分離を生じさせてきた、ネガティブな信念、思考・行動パターン、感情を、地球や宇宙との一体感を感じ取れるポジティブなものに置き換えていき、その過程を自らの足で歩ききることができたら、再び、無邪気で純粋な子供のように感動することができるようになるという信念を持っています。
「創造(=感動)は、純粋に感じ取った瞬間に生まれ、この現実の世界で、形として表現される無限の可能性を生きて、再び感じ取る瞬間に生かされる。」
私たちは、生まれ、生きて、生かされるという創造のプロセス(=感動のプロセス)を繰り返して、本当の愛を学んでいるのです。