山登りと創造のプロセスを語呂合わせする | ------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛

山登りと創造のプロセスを語呂合わせする

言葉に、本当の自分の生きた心(=ハート)から分離している、最初から形作られた意味ではなくて、自分の生きた心に調和する意味を、自由に持たせることができる。


それが、心の中の形への囚われを外して自由になっていく練習になる。


例えば、「感動」という言葉の意味を国語辞典で調べてみると、「物に深く感じて、心を動かすこと」とある。


僕がこの字を読むときは、「感覚が動かされる」と読み、「自分の本当の生きた心が動かされること」という意味を持たせる。


同じように、「感情」という言葉の意味のひとつとして、「気持ち。心持。」と書いてあるが、自分がこの字を読むときは、「情報から感じ取る」と読み、「生きた心ではなくて、記憶の中に形作られた情報に基づいて感じ取る」という意味を持たせる。


続いて、「欲望」は、「欲しがる心。不足を感じて、これを満たそうと望む心」と書いてある。僕は、「欲しいと望む」と読み、「すでに、記憶の中に形作られたものの中から探し出して、欲しいと望むこと。目に見える形のある結果(=過去・未来)を先に、心の中に形作って欲しいと望むこと」という意味を持たせる。


「絶望」は、「希望を全く失うこと。望みが絶えること」と書いてある。僕は、「望みが絶えること。」と読み、「記憶の中に形作られた心の中から探し出して、欲しいと望むものがなくなること。」という意味を持たせる。


「希望」は、「未来に望みをかけること。」と書いてある。僕は、「稀な望みを持つ」と読み、「心の中に形作られた記憶の中にではなくて、自分の本当の生きた心(=ハート)が、未だ記憶の中にはない、目には見えない形のないもの(=感動すること)に望みを持つこと。」という意味を持たせる。


このように、自分の本当の生きた心(=ハート)に調和させる語呂合わせは、際限なく続いていく。


つまり、心の中の形への囚われを外して自由になれば、表現の手段はひとつではなく、無限にあるということだ。




本当にリアルな感動というのは、心の中だけではなくて、現実の経験の中で、プロセスを経ることによってしか得られない。


自分の本当の生きた心(=ハート)が動かされることと、記憶の中に形作られた情報に基づいて感じ取る感情とは同じではない。


例えば、山登りについて考えてみたら、山を登って、そこから実際に景色を見て、感動した人の話を聞いただけでは、その人が感じた同じ感動をリアルに味わうことはできない。そのプロセスを想像することによって、ある程度まで、心動かされるかもしれないが、自分自身で登って得た感動には及ばない。


だから人は、誰か他の人が実際の経験を通して、感動した体験を見聞きすると、自分も、自分自身で、そのような感動をあじわってみたいと望むようになる。それが希望なのです。


今特に、形に囚われている、この現実の世界の中で、最初から結果がわかっているものの中から欲しいと望む欲望ではなくて、もうそれに本当に心を動かされる、けして心が満たされることがない、「ああ、これが望みが絶える、絶望というものなのか。」と気付いた人なら、誰でも辿るプロセスなのです。


目覚めとか悟りとかの形に囚われなくても、形に囚われた欲望ではなくて、目には見えない形のない感動を手に入れたいと望んで、現実の経験を積んでいるなら、山登りであろうが、スポーツであろうが、音楽であろうが、平凡な日常であろうが、そのプロセスは無限にあるとういことです。


もし表現の手段、感動を得る手段がたったひとつしかないとしたら、恐ろしくつまらない世界になるでしょう。それさえも無限の可能性のうちのひとつにすぎないし、可能性としてないことはないのであり、ただ、自分がその現実の経験を通して、感動することを選択するかどうかということなのです。


だから、僕の場合も、形に囚われた、欲望を求めることによっては、もう満たされないと、絶望を感じていたときに、ある有名な歌手のコンサートに行って感動した体験が基となり、人から与えられる感動ではなくて、自分自身で、自分の経験する現実を通して、感動を得たいという希望を持つようになりました。


その結果、「優しく、暖かく、広く、大きく、強く、澄み切って、本当の喜びに満ちた本当の愛の世界」を垣間見ることができたのですけれど、それは、現実の経験の終わりではなく、新たな創造のプロセスの始まりに過ぎないのです。


そういう感動があるということを見聞きしただけで、まだ、現実の経験の中で、その創造のプロセス(=感動のプロセス)を、自分自身の足で歩き始めたばかりなのです。


なぜそう言えるのかというと、誰もが皆、この現実の経験の中で経なければならないプロセス、テーマを持って生まれてきているからです。


本当の愛の世界を垣間見て、この現実の世界に戻って来たとき、ある感覚が自分に戻ってきたかどうかを確かめてみた。


それは、まだ形に囚われていない、無邪気で純粋な子供だったころに、青空や星空を見ているだけで、すべてと一体であり、何も欠けているところがない、本当の喜びに満たされた感覚を持つことができていたのだけれども、

その感覚は、大人になって、本当の愛の世界を垣間見ただけでは、戻ってはこないのです。


なぜ、その感覚が戻って来ないのか?それは、ハートが本当の愛の世界を垣間見て来て、感動を得たのであり、肉体とそれに付随する心は、まだその感動を自分自身で味わっていないからです。


無邪気で純粋な子供から、邪心を持って、不純で形に囚われた大人になる過程で、本当の自分の生きた心(=ハート)は望んでいないのに、自分の肉体と心が生きていくためには仕方ないと、地球を自分の欲望を満たすために利用して破壊してきたネガティブな信念、思考・行動パターン、感情が、形への囚われとなり、地球や宇宙と自分のハートとの分離を引き起こし、地球や宇宙との一体感を失ってしまった。


先に山を登って、本当の愛を垣間見て感動してきた、自分の本当の生きた心(=ハート)の視点を借りて、この現実の世界を生きる肉体と心も、地球や宇宙との分離を生じさせてきた、ネガティブな信念、思考・行動パターン、感情を、地球や宇宙との一体感を感じ取れるポジティブなものに置き換えていき、その過程を自らの足で歩ききることができたら、再び、無邪気で純粋な子供のように感動することができるようになるという信念を持っています。


「創造(=感動)は、純粋に感じ取った瞬間に生まれ、この現実の世界で、形として表現される無限の可能性を生きて、再び感じ取る瞬間に生かされる。」


私たちは、生まれ、生きて、生かされるという創造のプロセス(=感動のプロセス)を繰り返して、本当の愛を学んでいるのです。