観念にオセロゲームを語呂合わせして、幸福・不幸について考察する(再考分) | ------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛

観念にオセロゲームを語呂合わせして、幸福・不幸について考察する(再考分)

エゴ(=ネガティブな観念)を現わしている自我を手放すとか、捨てるとか、消すとかいうと、エゴを持っている自我が、自分の存在がなくなってしまうと恐れて、本来、同じひとつの観念で、対になっている、もう一方の面を提示されると、否定しようとする。

(ここで言う『エゴ』とは、『エゴイズム』の『エゴ』で、一方を肯定・執着して、他方を否定・排除する、という意味での利己主義のことです。)



自我が、対になっているひとつの観念を持っており、今、自我が、その一方の面を現わしている場合に、それをひっくり返して、もう一方の面を現わすことにより、どちらも同じであり、ひとつであると気付くと考えた方がよいでしょう。


自我が、対になっている観念の、一方の面を現わしているときに、自我には、その対になっている観念を、同時にひとつのものとして見ることはできません。なぜなら自我は、記憶の中に、形作られた心だからです。自我は、本来、対になっているひとつの観念を、別々に形としてしか見ることができないのです。つまり、自我には、今この瞬間に、幸福と不幸を同時に形作ることはできません。


幸福と不幸を形作るのではなくて、それそのものであるのは、記憶を超えた本当の自分の生きた心(=ハート)です。本当の自分の生きた心は、無条件の愛のエネルギーそのものですから、本来、対になっている観念を、ひとつのものとして、同時に見ることができます。



無条件の愛は、本来、絶対的な幸福感のエネルギーです。


どちらか一方というような、相対的な条件付け(形への囚われ)が一切なく、どちらも同時にひとつとして、許容する場合は、その観念に関しては、絶対的な幸福感のエネルギーとなります。

そして、その観念は、観念の集合の中では、相対的に、幸福感のエネルギーが、拡大・増加していく方向に働き、観念の集合の全体として、相対的に、幸福感のエネルギーが、拡大・増加していく状態(形)を、自我が幸福と呼んでいます。


どちらか一方という相対的な条件付け(形への囚われ)があって、どちらか一方を肯定・執着し、他方を否定・排除する場合は、その観念に関しては、相対的な幸福感のエネルギーとなります。

そして、その観念が、観念の集合の中で、相対的に、幸福感のエネルギーが、縮小・減少していく方向に働く場合に、観念の集合の全体として、相対的に、幸福感のエネルギーが、縮小・減少していく状態(形)を、自我が不幸と呼んでいます。



だから、記憶の中に形作られたものを超えることができない自我には、絶対的な幸福感のエネルギーを、それそのものとして味わうことはできないのです。自我は、エネルギーが、相対的に、形として現れたものしか見ることができないからです。



ここで、オセロゲームが登場します。


自我が持つ、対になっているひとつの観念の、一方の面を黒、他方の面を白とします。


自我は、一方の面が裏になっていて、他方の面が表になっているときは、表になっている面しか見ることができませんから、ひとつの観念を裏返して、もう一方の面を表に現わすということを、自我のみで行うことはできません。


対になっている観念の白も黒も、無条件の愛の、ひとつのエネルギーとして見ることができるのは、無条件の愛のエネルギーそのものである、本当の自分の生きた心であるハートだけです。


だから、観念をひっくり返すオセロゲーム(=現実の経験)をするときには、ハート主導で、形に囚われている自我に対して、今、自我がしがみついて、相対的に、幸福感のエネルギーが縮小・減少している原因となっている、対になっているひとつの観念の黒の面を、ひっくり返せば、白の面が現れ、そのことによって、黒と白は、本来、同じひとつの観念であると気付きます。


そして、そのときに、どちらか一方という条件付け、形への囚われが消失し、自我とハートとの間の、認識における分離の壁が消失します。


その観念に関しては、自我も、間接的ではありますが、ハートと同じ、合一の認識を持つようになり、自我がハートと調和しますから、認識の分離の壁のために、絶対的な幸福感のエネルギーが、相対的に縮小・減少する方向に作用していたのが、ハートの合一の認識を、妨げるものがなくなりますので、ハートが本来、認識している、絶対的な幸福感のエネルギーとして、自我とハートが調和して、それを認識できるようになります。


その観念が、観念の集合の中で作用するときに、観念の集合の全体として、相対的に幸福感のエネルギーが、拡大・増加する場合には、その観念をひっくり返すことによって、エネルギーの流れが、大きく変わったと気付くことになります。



ハート主導の現実の経験(=オセロゲーム)を通して、自我が、本来、対になっている同じひとつの観念の、相対的な形に囚われて、観念をひっくり返すことができないと恐れたときが、それに気付いて、ひっくり返すチャンスです。


恐れは、自我が、本来、対になっているひとつの観念の、形に囚われて、一方の面を肯定・執着しているときに、その形がなくなったら、自我自身の存在がなくなってしまうという恐れです。


ですから、ひっくり返しても、黒の面の代わりに白の面が形として表に現れ、白と黒は、本来、同じひとつの観念であるということを、記憶を超えた本当の自分の生きた心である、永久不変の無条件の愛である、ハートを信じて、すべてを委ねるのです。


観念をひっくり返して、黒から白の面を、表に現わしたときから、黒と白は、相対的な、形への囚われがないところにおいては、本来、同じひとつの観念であったと気付きます。


その観念に関しては、今まで、相対的に、幸福感のエネルギーが縮小・減少していた状態から、絶対的な幸福感のエネルギーに戻り、その観念が、観念の集合の中で作用するときに、観念の集合の全体として、相対的に幸福感のエネルギーが拡大・増加していく場合には、そのエネルギーの流れが大きく変わったことに気付くのです。


観念を黒から白にひっくり返すというと、黒を否定・排除し、白を肯定・執着するという、相対的な形に囚われた、欲望追求型の願望実現や洗脳につながり、幸福にはならないのではないのかと、疑問を持っていらっしゃる方がいますが、その罠にひっかからないためには、自我のエゴ主導のオセロゲームではなく、ハート主導のオセロゲームをすればよいのです。


自我のエゴ主導では、自我は記憶を超えることができずに、形に囚われるので、本来、対になっている観念の、白と黒の両方を、同時に見ることはできませんから、自我が、これは、白でこれが黒だからこれをひっくり返せば、白になり幸福になるはずだと思って、ひっくり返しても、自我が今、表に形として表れている面は、黒と思い込んで否定・排除しようとしているものが、実は、ハートから見れば、それは、白でもあり、かつ、黒でもあり、同じひとつの観念であると認識されており、また、その逆もあったりもします。


だから、自我から見て、ひっくり返して、表に、形として肯定・執着する、白が増えてきたと思っていても、白あるいは黒の、どちらか一方という、相対的な形に囚われたままでは、本来、目には見えない形のない、絶対的な幸福感のエネルギーが、相対的に、縮小・減少する方向に流れてしまう場合もあるのです。


だから、オセロゲームをするときには、ハート主導でやりましょう。無邪気で純粋で形に囚われない、形を超えた、ハートに任せればよいのです。