生と死というひとつの観念を、成功と失敗という言葉を使って考察する
生という基準面を、現生(物質的、肉体的であること)とし、死という基準面を、死後(精神的、霊的であること)とします。
この場合、観念をひっくり返す気付きのプロセスは、次の2つのアプローチになります。
現生を基準面(肯定・執着)に持つ場合、死後を否定すればするほど、恐れや疑いなどのネガティブな感情が強くなります。
どちらか一方という相対的な形への囚われが強くなり、自我の相対的な認識と、ハートの合一の認識との間の差(矛盾)が大きくなります。認識の差(矛盾)が大きくなるため、それが、ハートと自我の認識の間の、分離の壁となり、不調和となります。
そして、その場合、相対的な幸福感のエネルギーは、縮小(共有範囲が狭い)・減少(幸福感が減少)します。
それとは逆に、現生と共に、死後も同時に肯定すればするほど、恐れや疑いなどのネガティブな感情が弱くなります。そして、その代わりに、無条件の愛の本来の性質である、安心感や心の安らぎなどのポジティブな感覚を持てるようになります。
どちらか一方という相対的な形への囚われが弱くなり、自我の相対的な認識と、ハートの合一の認識との間の差(矛盾)が小さくなります。認識の差(矛盾)が小さくなるため、それが、ハートと自我の認識の間の、分離の壁を薄くして、調和に近づきます。すなわち、これが、観念をひっくり返す気付きのプロセスとなります。
そして、その場合、相対的な幸福感のエネルギーは、拡大(共有範囲が拡がる)・増加(幸福感が増加)します。
一方、死後を基準面(肯定・執着)に持つ場合、現生を否定すればするほど、恐れや疑いなどのネガティブな感情が強くなります。
どちらか一方という相対的な形への囚われが強くなり、自我の相対的な認識と、ハートの合一の認識との間の差(矛盾)が大きくなります。認識の差(矛盾)が大きくなるため、それが、ハートと自我の認識の間の、分離の壁となり、不調和となります。
そして、その場合、相対的な幸福感のエネルギーは、縮小(共有範囲が狭い)・減少(幸福感が減少)します。
それとは逆に、死後と共に、現生も同時に肯定すればするほど、恐れや疑いなどのネガティブな感情が弱くなります。そして、その代わりに、無条件の愛の本来の性質である、安心感や心の安らぎなどのポジティブな感覚を持てるようになります。
どちらか一方という、相対的な形への囚われが弱くなり、自我の相対的な認識と、ハートの合一の認識との間の差(矛盾)が小さくなります。認識の差(矛盾)が小さくなるため、それが、ハートと自我の認識の間の、分離の壁を薄くして、調和に近づきます。すなわち、これが、観念をひっくり返す気付きのプロセスとなります。
そして、その場合、相対的な幸福感のエネルギーは、拡大(共有範囲が拡がる)・増加(幸福感が増加)します。
ですから、生と死という、対になった、ひとつの観念のどちらを基準面に持っても、同じひとつの観念を、ひっくり返す、気付きのプロセスがあります。
ここで、生が成功(肯定)で、死が失敗(否定)とするならば、失敗するために生きることになります。
さらに、死後が成功(肯定)で、現生が失敗(否定)とするならば、現生(物質的・肉体的なこと)を生きる意味はなく、死後(精神的・霊的なこと)のみに生きればよいということになります。
生と死のどちらか一方という、自我の相対的な認識ではなく、どちらも同時にひとつであり、すべてであるという、ハートの合一の、絶対的な認識であれば、自我の、生と死という相対性からなる、原因と結果に左右される認識を超えることができます。
生と死が、別々にあるという、相対的な原因と結果に囚われた認識を超えて、どちらも同時にすべてがただひとつとしてあるという、絶対的な認識に至れば、成功と失敗という、相対的な原因と結果に基づく認識を離れて、形への囚われが解消し、本当の自由を手にすることができるのです。
自我の、相対的な原因と結果に囚われた認識のために、ハートの合一の認識との間に分離の壁が生じ、ハートの原因と結果を超えた絶対的な合一の認識を得ることができないために、恐れや疑いなどのネガティブな感情が生じていました。
だから、本当の、絶対的な、自由とは、その恐れや疑いなどのネガティブな感情が湧いてくる原因がなくなるということです。その原因がなくなったところには、絶対的に今、ただあるものとしての、本来の無条件の愛の性質である、安心感や心の安らぎなどの、ポジティブな感覚が姿を現わす、ということなのです。
もし、自我の、どちらか一方という、相対的な原因と結果に基づく認識を超えることができないとしたら、例えば、現生という、自我が、その中にこそ、生や成功や幸福があるという執着が強くなって、強迫観念となり、本当はそれにしがみついても、その反対の面である死や失敗や不幸という、同じひとつの観念の面との分離が、原因と結果に基づく相対的な恐れや疑いなどのネガティブな感情を生み出し、けして、本当の自由や安心感や心の安らぎは得られないのです。
つまり、どちらか一方という形に囚われて、それにしがみつけばつくほど、苦しみ続けなければならないのです。
だから、そこから抜け出すためには、まず、どちらか一方しかないという強迫観念、相対的な、形に囚われた、原因と結果に基づく、自我の認識を超えなければならないのです。
自我の、相対的な原因と結果に基づく認識を超えた、ハートの、ただ、今、在るものとしての、絶対的な合一の認識を得る方法が、観念をひっくり返して、自我とハートの、認識の分離の壁を解消していく、気付きのプロセスなのです。
観念と幸福感のエネルギーとの関係について再考する。
以前、考察した、観念と幸福感のエネルギーについて、僕自身の認識の壁と表現の壁のために、かなり、矛盾を生じていたので、再考させていただきます。
自我が、形に囚われて、対になっているひとつの観念の一方の面を肯定(執着)して、他方の面を否定(判断)しているときには、自我が、それらを合一として認識する、ハートとの分離を引き起こし不調和となり、無条件の愛が、ネガティブな方向に作用して、相対的な幸福感のエネルギーが縮小(共有範囲が狭くなる)・減少(幸福感の減少)します。
自我が、対になっているひとつの観念に関して、どちらか一方を肯定し、他方を否定するという、形に囚われていなければ、どちらも同時にひとつであり、すべてであるという、ハートの合一の認識と調和するので、無条件の愛がポジティブな方向に作用して、絶対的幸福感のエネルギーとなり、他の観念の集合の中で、相対的に働くときには、相対的な幸福感のエネルギーが拡大(共有範囲が拡がる)・増加(幸福感が増加)します。
自我が、対になっているひとつの観念の一方の面だけを肯定し、もう一方の面を否定すると、ハートの合一の認識と矛盾するために、恐れや疑いなどのネガティブな感情が湧いて来ます。
その矛盾が生じる原因は、自我が本来、対になっているひとつの観念を、別々のものとみなし、相反する(相対的な)認識を持っているために、合一の(絶対的な)認識を持っているハートとの間に、認識の(分離の)壁があるからです。
だから、その矛盾を解消するために、観念をひっくり返して、自我とハートとの、認識の分離の壁を解消し、自我もどちらか一方という、形に囚われた相対的な認識ではなく、ハートの合一の、絶対的な認識を得れば、自我とハートとの認識の間には、差がなくなり、矛盾は生じなくなります。そうなれば、自我が、その観念のどちらか一方の面を提示されても、恐れや疑いなどのネガティブな感情は、湧いてこなくなるのです。
その観念については、恐れや疑いなどではなく、安心感、心の安らぎなどのポジティブな感覚を持つことができるようになります。
そして、その観念をひっくり返すアプローチが二つあるということです。
幸福というひとつの観念について見た場合、幸福があるという面を基準面(肯定・執着)に持つ場合と、幸福がないという面を基準面(肯定・執着)に持つ場合です。
自我が基準面として持つ面の、反対の面を否定する度合いが強くなればなるほど、どちらか一方という形への囚われが強くなり、合一の認識を持つハートとの分離(不調和)の度合いが増し、無条件の愛が、ネガティブな方向に作用して、恐れや疑いなどのネガティブな感情が強くなり、相対的な幸福感のエネルギーが縮小(共有範囲が狭い)・減少(幸福感が減少)します。
逆に、自我が基準面として持つ面の、反対の面も同時に肯定する度合いが強くなればなるほど、どちらか一方という形への囚われが弱くなり、合一の認識を持つハートとの分離の度合いが弱くなり、調和の度合いが増し、無条件の愛が、ポジティブな方向に作用して、恐れや疑いなどのネガティブな感情が弱くなります。そして、その代わりに、安心感や心の安らぎなどのポジティブな感覚が持てるようになる。つまり、相対的な幸福感のエネルギーが拡大(共有範囲が拡がる)・増加(幸福感が増加)します。
結局は、幸福があると、幸福がないの、どちらの面を基準面(肯定・執着)として持っていても、観念をひっくり返すこと(分離から合一にすること)による、同じ気付きのプロセスとなります。
本当は、ハートの合一の、絶対的な認識からすると、どちらがどちらという、相対的な違いはないのです。
違いがあると思っているのは、ある観念について、自我が、合一の認識を持つハートと分離したままで、相対的な認識の壁に突き当たっているからなのです。
思考・自我・ハートを定義して、気付きのプロセスを考察する
まず、 思考・自我・ハートをそれぞれ定義してみます。
思考のうち「思う」自分は、感じ取ろうとする自分(感覚的・直観的なイメージ能力、全体同時把握能力)
思考のうち「考える」自分は、形作ろうとする自分(分析能力、言語化能力、部分的把握能力)
自我は、形作ろうとする自分が、記憶の中に形作った心
ハートは、形作られた記憶を超えた、自分の本当の生きた心、実在、無条件の愛のエネルギー
それでは、ある観念をひっくり返す、気付きのプロセスを考察してみます。
①ある観念を提示されると、疑いや恐れの感情を感じる。
②その疑いや恐れの感情がどこにあるのか、まず、自我主導で、思考の思う(感覚的・直観的なイメージ能力、全体同時把握能力)働きと、考える(言語化能力、分析能力、部分的把握能力)働きを使って、思いを巡らす、考えを巡らして、思考の焦点を当てるべきところを探す。
③自我主導では、原因がどこにあるのかを、思考を巡らして焦点を当てるべきところを探しても、意識が分散するだけで、原因がどこにあるのか分からないという、自我の認識の壁(=ハートとの分離の壁)、認識の限界に突き当たる。自我主導で原因がどこにあるのか、思考を巡らして、探っていると、ただ、認識の壁、認識の限界があることに気付く。ここで、焦点を当てるべきところがどこなのかを、まず認識できたことになります。
④そこで、自我主導で、思う働きと、考える働きを使うのを止める。
原因がどこにあるのか肯定(執着)も否定(判断)も一切しない。思い考えることを止める。
その思わない(イメージしない、イメージすると、身体の感覚をイメージせずに弛緩・リラックスすることができない)、考えない(イメージを言葉にしない、意識を分散から集中に切り替える)状態が極まる(分散から集中、緊張から弛緩へ移行する)と、焦点を当てていた認識の壁(自我とハートの分離の壁)が外れる。分散していた自我意識の焦点が、0ポイント(意識の転換点)に集中すると、自我意識とハートがつながる。
⑤自我とハートの意識がつながったら、自我主導からハート主導に切り替わり、ハート主導で思考の思う(感覚的・直観的なイメージ能力、全体同時把握能力)働きを使って、本来、対になっているひとつの観念に関するハートの合一の認識を、直観的に受け取り、思考の考える(言語化能力、分析能力、部分的把握能力)働きを使って、言葉にして、自我がハートの合一の認識を、認識する。
⑥自我主導で思考を使って、どこに原因があるのかを探って、それに焦点を当てようとしても、どちらか一方を肯定(執着)して、他方を否定(判断)するという、形に囚われた認識しかできない自我には、疑いや恐れの原因になっているものが、本来、対になっているひとつの観念であると、同時にどちらもすべてでひとつであると、直接、認識できない。認識(分離)の壁にぶつかる。
だから、自我主導で思考を使って、どこに原因があるのかに焦点を当てようとしていると、認識の壁にぶるかるので、そこで、自我主導で思考を使うのをやめて、ハートとの分離の壁が外れたときに、ハートとつながり、ハート主導で思考を使って、ハートの合一の認識を、まず、思考の思う働き(イメージ能力)で直観的に受け取り、次に、思考の考える働き(言語化能力)で言葉にして、自我が認識の壁を超えて、ハートからの合一の認識を、認識し、気付くのです。これがひっくり返す、ということです。
つまり、自我だけでは、気付けない、わからないことも、自我とハートの分離(認識)の壁を外して、ハートとつながることによって、ハート主導で、自我も気付ける、わかる、ということなのです。
自我だけでは、形に囚われて、形作られた、記憶の中だけから探し出そうとするので、答えがでません。
だから、形に囚われない、形作られた記憶を超えた、実在である、ハートの主導であれば、自我も気付くこと、わかることができるのです。
本来は、実在(形を超えた、絶対的な無条件の愛)であるものを、自分の内のハートから、外に表現するためには、ある一定の枠(パーソナリティー、個性)に当てはめて、相対的に表現しないとできません。
内から外に表現する場合は、どうしても相対的となり、表現の限界があります。
外に相対的に表現されたものを、外だけ相対的に受け取ると、そのままでは、相対的な認識であり、絶対的な認識にはなりません。
外から相対的に受け取ったものを、自分の内のハートを通して、相対的にではなく、絶対的に受け取ればよいのです。
ですから、外から提示されたものを、自分で絶対的に認識するためには、まず形として受け取り、そして、次に、形(枠、分離の壁、認識の壁)を外して、ハートとの分離を解消し、自分の内のハートに、合一(実在)として、絶対的に認識させ、そのハートの合一の絶対的な認識を、今度は、自分自身の形(枠、パーソナリティー、個性)に当てはめ認識してから、表現するということなのです。
だから、自分の外からではなく、常に、自分の内のハートから来るものを受け取ってください、ということになるのです。
相対的(不完全)な認識、相対的(不完全)な表現を、ハートとつながって、絶対的(完全)な認識、ただ、今、ここに在るもの(=無条件の愛のエネルギー)として認識するのです。