------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛 -28ページ目

自我は、ハートが、無条件の愛を形・肉体・個性として表現するための機能です

ハートは、自我という、形・肉体・個性の表現機能を使わないと、目に見える形あるものとして、この現実の世界に自分の意志を表現することはできません。


自由意志というときには、本来は、ハートの自由意志のことですが、ハートがその意志を、形・肉体・個性として表現するときには、肉体により密接した意識である、自我の機能を使わなければなりません。


そのときに、自我の持つ観念が、どちらか一方という、形に囚われている場合には、ハートの合一の認識との整合性がなく、調和しないので、自我とハートが意識として、分離してしまい、ハートの意志というよりも、自我の意志として、表現されてしまう場合があります。


つまり、その場合は、ハート主導ではなく、自我主導で、思考を使ってしまうということです。だから、自我の相対的な不完全な認識方法による、不完全な自由意志となり、どちらか一方という条件付け、制限のある自由意志の表現ということになります。



一方、自我の持つ観念に、どちらか一方という条件付けや制限がなく、ハートの合一の、絶対的な完全な認識と整合性があり、調和しているときには、自我とハートは、意識として分離していないので、どちらか一方という条件付けや制限のない、ハートの完全な自由意志として、肉体により密接した自我意識の機能を使って、形・肉体・個性として表現することができます。


つまり、その場合は、自我主導ではなく、ハート主導で、思考を使っているということです。



内から外に、何かを表現する必要のないときには、ハートは、ただ在るものとして、自我意識の機能(記憶と思考)を使う必要はありません。


しかし、ハートが、内から外へ、形・肉体・個性を使って、何かを表現するときには、肉体により密接した意識である、自我意識の機能を使わなければできません。


肉体により密接した自我意識の機能を使わなければ、言葉も話せない、字も書けない、ブログも書けない、身体の感覚を使って、何かを感じたり、表現することもできないということになり、肉体を使って、何の意志表示もできずに、眠った状態のままになり、自分自身で、肉体的な生命を維持することさえ、困難になってしまいます。



つまり、自我意識の機能は、ハートが自らを、独立した、肉体的な個性をもった自己として認識するときの機能ということになります。


自我意識の機能とは、ハートが、肉体的に、自らを我であると、認識するための機能、ということなのです。



ハートの在り方には、静と動の両面があります。


静のときは、心の安らぎ、穏やかさ、優しさなどの感覚を持ち、思考を使って意識を外に表現するのをやめ、自我意識の機能を弱めている状態。これは、睡眠の状態に入ると、自我意識は薄れることから理解できると思います。夜、深く眠っている間のことは、肉体的な自我意識は、はっきりと認識していない、ということからも理解できるでしょう。


動のときは、心の高揚感、躍動感、情熱、強さなどの感覚を持ち、ハート主導で思考を使って、意識を外に表現し、自我意識の機能を通して、肉体的な活動をすることができます。これは、睡眠から覚め、薄れていた自我意識が活動をし始める、毎朝の体験を通して理解できると思います。



だから、ハートが、自らの意識を、内から外に、肉体的な個性を使って表現するときには、自我意識の機能を通して表現しますが、そのときに、自我が、ハートの合一の認識と調和していない、分離した観念を持っているときには、ハートと自我の意識が分離してしまい、ハートの完全な自由意志が、自我の不完全な自由意志として表現されてしまう、ということなのです。














固定観念に意志があるのではなく、観念を持つ自我・ハートに意志がある

本来であれば、自我の自由意志に基づく選択により、自我の望む観念を持ちます。



ルールでは、自我の自由意志を排除して、集団に共通の固定観念を持たせ、それを守らせます。



これが、今まで、大人の男/性の自我が築き上げて来た、形に囚われ、人間の自由意志を排除して、予め定められた固定観念を持たせ、支配することによって、調和させようとする、不完全な観念システムです。



大人の男/性の自我が、自分以外の者の自由意志を排除して、支配(管理)することによって、自分自身の自由を得ようとしています。



だから、その不完全な調和の観念システムの中では、支配(管理)される側よりも、支配(管理)する側になって、自分が誰よりも自由になろうと、自分以外の者の自由意志を排除することを競いあっています。



しかし、そのやり方では、本当の自由は、得られません。



予め定められた固定観念の集合体(ルール)に囚われて、自分自身の自由意志との間で、常に、矛盾が生じ、その葛藤の中で苦しみながら、表面上、調和を保とうと、協調しようとしていますが、内面では、常に、本当の自由を求めています。ハートが、自我に、葛藤という苦しみによって、本当の自由を求めるよう促しているのです。


本当の自由とは、認識における自由のことです。


自我の因果律に基づいた、相対的な不完全な認識を超えて、ハートの合一の、因果律を超えた、絶対的な認識を得ることです。


今まさに、今まで、大人の男/性が築き上げてきた、自由意志を排除した、固定観念の集合体(ルール)に基づく、不完全な調和システムが崩壊しようとしています。


今まで、その不完全な調和の、観念システムの中で味わってきた、多くの矛盾が、大きな歪みとして蓄積されていましたから、その歪みが表面に現象として現れ、見せ掛けの調和、形だけの調和が壊れ始めています。


この自我の存在の危機を回避するために、自我の因果律に基づいた、形に囚われた、相対的な認識方法のままでは、自我は、自分が持っている固定観念の方を肯定し、それに反するものは、否定して攻撃しようとしますから、自我の心の中の状態が、そのまま、相手に投影されて、自分自身で恐怖や怒りの感情を引き起こすことになります。


その恐怖や怒りを外に向けてしまったら、崩壊していく、固定観念の集合体の、不完全な調和システムと共に、自分の存在も崩壊してしまうことになりかねません。


だから、恐れや怒りに気付いたら、因果律を超えたハートの合一の認識に戻るチャンスなのです。



ここで、なぜ、宗教戦争が起こるのか考察してみましょう。



それは、宗教の教義が、人間の自由意志を排除した、固定観念の集合体(ルール)だからです。


自分の信じる、宗教の教義である、固定観念の集合体(ルール)を基準として、それに反しているもの、それと整合性のないものは、すべて否定し、排除しようとするからです。


自我の存在の危機を回避するために、自らを肯定し、他を否定するという、自我の因果律に基づく、相対的な不完全な認識方法によって、形作られた教義だからです。


教義の中に自由意志を認めてしまうと、教義の中に書かれている固定観念と、反対のことも認めるという矛盾を含んでしまい、自我が葛藤を引き起こし、存在の危機を招いてしまいますから、自我の防衛本能として、それは認めないということになってしまいます。


その教義に対する思い込み、妄信が強ければ強いほど、その思い込みと整合性のないものを否定し、排除しようとする、自我の防衛本能が強くなるのです。


自我が、自由意志を排除して、支配することにより、自我の存在が否定されること、自我の存在の危機を回避して自由になろうとします。


教義の中に、表面上、形としては、どんなに調和的なことが書かれていたとしても、ある瞬間には、内面では、恐れや怒りに支配されて、本当に自由ではないのです。認識における自由の壁にぶつかっているのです。


本当は、心の自由、心の安らぎを求めているはずなのに、大きな矛盾を孕んでいます。



大人の男/性の自我が、築き上げてきた、固定観念の集合体(ルール)に基づく、不完全な調和のシステム。



大人の男/性の自我ほど、その中に入り込んでいるので、その矛盾の中で、葛藤した経験が、認識における自由の壁があることに気付かせます。大人の男/性の自我こそ、その認識の壁を超えて、因果律に囚われない、ハートの合一の絶対的な認識を取り戻し、認識において、本当に自由になる必要があります。


そうすれば、今まで、大人の男/性の自我が、築き上げてきた、不完全な認識方法に基づく、不完全な調和のシステムを、ハートの完全な認識方法に基づく、完全な調和システムに変えていくことができます。


女/性や子供の自我は、男/性の自我ほどには、不完全な調和のシステムには入り込んでいませんから、社会を構成する調和システムが、不完全なものから完全なものに変わっていけば、無理なく、そのシステムの中で、ハートの合一の認識方法を使って、調和することができます。







無条件の愛をまねることにより、無条件の愛そのものの在り方に気付いたら戻っている

まず、私たちの、今の社会システムが、私たちの自由意志に基づかない、不完全な観念システムであるということを認識する必要があると思います。



その一例として、交通システムについて、考察してみましょう。



交通システムは、基本的に、一方を肯定して、他方を否定するという、相対的な認識方法である、交通ルールに基づいた、不完全な調和を生み出す、観念システムと言えると思います。



交通ルールは、本来、ひとつの観念の、どちらか一方の面を基準面(肯定・執着)として、他方を判断(否定)するという、自我の相対的認識に基づいた、固定観念の集合体と言えます。



なぜ、固定観念の集合体である交通ルールが、完全な調和ではなく、不完全な調和を生み出しているのかを考えてみましょう。



まず、今、僕は、フリーターをしていますが、どんなアルバイトをしているのかというと、スーパーカブという50ccの原付バイクを運転して、新聞の朝刊と夕刊を配達するアルバイトをしています。そのアルバイトの合間に、こうやってブログを書いているわけです。


そして、バイクを運転していて思うことは、自動車にしろ、歩行者にしろ、バイクにしろ、自転車にしろ、自分自身にしろ、人間は、自由意志で、好き勝手に動いているという事実です。


いくら、交通ルールという、自我の、相対的な認識に基づく、固定観念を守るように、建前として決まってはいても、同じ交通の流れに乗っていて、少しでも、隙を見せようものなら、我先にと、交通ルールは、半分無視して、自分の自由意志により、先に流れて行こうとするのが、人間の性質だということです。


つまり、交通ルールというのは、予め定められたどちらか一方を守るという、固定観念を持つことが前提で、実際の人間の行動を決めている、人間の自由意志までは、考慮されていない、不完全な調和の観念システムということです。


実際の交通の流れの中では、例えば、停止線で一時停止するということが、予め肯定された固定観念となっていますが、実際は、その流れの中でのタイミングと、人間の自由意志により、停止線で停止しない、つまり、停止するという固定観念を否定して、停止しないということを、自分自身の自由意志により選択して肯定することも、可能性として、あり得るということなのです。


だから、人間の自由意志を排除した、どちらか一方という、予め定められた、固定観念を持つことを前提にしたルールでは、不完全な調和を生み出してしまうのです。


人間の自由意志により、停止線で停止することを肯定する場合と、否定する場合の、どちらもあるということです。


交通の流れの中で、例えば、相手の方に停止線があるから、相手がそこで停止して、自分の方には、停止線がないので、そのまま行けば必ず安全であるという、どちらか一方の固定観念を持っていたら、相手が停止線で止まらずに進んできた場合は、こちらがそのまま進めばぶつかってしまうということになります。


どちらか一方の観念の面に執着していたために、自我の存在の危機に直面し、恐れや相手に対する怒り(自分を肯定し、相手を否定・攻撃する)などのネガティブな感情が湧いてきて、それが強いときは、その感情の衝動に突き動かされ、相手に罵声を浴びせるなどの行動をとるときさえあります。


肉体に、より密接した自我意識が、自分が肯定していることを否定されて、肉体的な危険を感じた場合は、特に、そのような傾向が強くなります。


このように書いている私自身も、今でもまだ、そういう場面に多々直面し、恐れやネガティブな感情が湧いてきて、その衝動のエネルギーが強いときには、それを抑えるのにひと苦労するという経験をしているのです。


肉体に、より密接した意識である自我が、本来、ひとつである観念の、一方の面に固執している場合は、自我の存在の危機を回避するために、ほとんど自動的と言っていいほど、防衛本能として、相手を否定・攻撃し、自分を肯定することによって、自分を守ろうとするのです。


その、自我の存在の危機を完全に回避するためには、交通ルールという、固定観念の集合体である、人間の自由意志を加味していない、不完全な観念システムだけに頼るのではなくて、人間は、本来、支配よりも自由を好み、自由意志により、どちらか一方だけではなく、どちらも同時に選択をする可能性があるということを、許容していなければ、できないということなのです。


自我が、あるひとつの観念のどちらか一方の面に固執して、相対的な不完全な認識を持っているときに、ハートのどちらも同時にひとつであり、すべてであるという、絶対的な合一の認識を、他方の面を否定する、反発するのをやめて受け入れるためには、自我には、自由意志があり、自我は支配されることよりも、自由を望んでいるということから、切り込んでいくことができます。


つまり、無条件の愛の本来の性質の中に、どちらか一方だけではなく、どちらも同時にすべてを許容しているという、どんな条件付けも制限もない、本当の自由という感覚があります。この本当の自由という感覚のために、ハートは、どちらか一方を自我に押し付けて、自我を支配するのではなく、自我が、自由意志で自由に選択できるように、どちらも同時に、すべてを可能性として許容している、ということなのです。


どちらか一方に固執しているがために、自我は、存在の危機に直面してしまう。自我が肯定していることを、否定することは、自我の自由を奪い、支配することにつながるのです。


だから、本当の意味で、自我の存在の危機を回避するためには、常に、自由を望んでいる、自由意志を持っている自我に対して、どちらか一方に固執することは、逆に、恐れや怒りなどのネガティブな感情を生み出し、肉体的にも危機を招く恐れがあると、自我に気付かせる必要があります。


それは、ハートが示す無条件の愛を、自我がまねして、どちらも同時に可能性としてあり得ると許容して、ハートの合一の認識に基づいた認識に変えることによって、実際の場面で、恐れや怒りなどのネガティブな感情が生じることなく、肉体的な危機も招くことがなくなれば、認識において、自我も、ハートと同じく、本当に自由になったということですから、支配ではなく、自由を望んでいた自我は、反発することなく、自らハートの示す合一の認識を、無条件の愛を受け入れることができるのです。


実際の交通の流れの中での、場面、場面において、交通ルールという、人間の自由意志を排除して、どちらか一方の面を固定観念として支配している、ルールという形だけに囚われずに、人間の自由意志を認めて、ルールにはないが、どちらも同時に可能性としてあり得ると許容したときに、初めて、自我の存在の危機を招く事故を回避でき、不完全な調和から完全な調和に近づいていくと思っています。


しかし、個人のレベルだけでは、交通ルールという人間の自由意志に基づかない、不完全な調和を生み出す今の観念システムを変えることはできないので、大勢の個人の意識が、自我の相対的な不完全な認識方法から、ハートの合一の絶対的な認識方法に変わっていけば、個人の意識を超えて、集合意識として、人間の自由意志に基づいた、より完全な調和を生み出す観念システムに変わっていくと思っています。


そして、それは、交通の分野だけではなく、経済、政治、教育、雇用、医療、介護、環境、食料、エネルギー、コンピューターなどの、すべての、社会を構成するシステムにおいて、変わっていくと思っています。