無条件の愛をまねることにより、無条件の愛そのものの在り方に気付いたら戻っている
まず、私たちの、今の社会システムが、私たちの自由意志に基づかない、不完全な観念システムであるということを認識する必要があると思います。
その一例として、交通システムについて、考察してみましょう。
交通システムは、基本的に、一方を肯定して、他方を否定するという、相対的な認識方法である、交通ルールに基づいた、不完全な調和を生み出す、観念システムと言えると思います。
交通ルールは、本来、ひとつの観念の、どちらか一方の面を基準面(肯定・執着)として、他方を判断(否定)するという、自我の相対的認識に基づいた、固定観念の集合体と言えます。
なぜ、固定観念の集合体である交通ルールが、完全な調和ではなく、不完全な調和を生み出しているのかを考えてみましょう。
まず、今、僕は、フリーターをしていますが、どんなアルバイトをしているのかというと、スーパーカブという50ccの原付バイクを運転して、新聞の朝刊と夕刊を配達するアルバイトをしています。そのアルバイトの合間に、こうやってブログを書いているわけです。
そして、バイクを運転していて思うことは、自動車にしろ、歩行者にしろ、バイクにしろ、自転車にしろ、自分自身にしろ、人間は、自由意志で、好き勝手に動いているという事実です。
いくら、交通ルールという、自我の、相対的な認識に基づく、固定観念を守るように、建前として決まってはいても、同じ交通の流れに乗っていて、少しでも、隙を見せようものなら、我先にと、交通ルールは、半分無視して、自分の自由意志により、先に流れて行こうとするのが、人間の性質だということです。
つまり、交通ルールというのは、予め定められたどちらか一方を守るという、固定観念を持つことが前提で、実際の人間の行動を決めている、人間の自由意志までは、考慮されていない、不完全な調和の観念システムということです。
実際の交通の流れの中では、例えば、停止線で一時停止するということが、予め肯定された固定観念となっていますが、実際は、その流れの中でのタイミングと、人間の自由意志により、停止線で停止しない、つまり、停止するという固定観念を否定して、停止しないということを、自分自身の自由意志により選択して肯定することも、可能性として、あり得るということなのです。
だから、人間の自由意志を排除した、どちらか一方という、予め定められた、固定観念を持つことを前提にしたルールでは、不完全な調和を生み出してしまうのです。
人間の自由意志により、停止線で停止することを肯定する場合と、否定する場合の、どちらもあるということです。
交通の流れの中で、例えば、相手の方に停止線があるから、相手がそこで停止して、自分の方には、停止線がないので、そのまま行けば必ず安全であるという、どちらか一方の固定観念を持っていたら、相手が停止線で止まらずに進んできた場合は、こちらがそのまま進めばぶつかってしまうということになります。
どちらか一方の観念の面に執着していたために、自我の存在の危機に直面し、恐れや相手に対する怒り(自分を肯定し、相手を否定・攻撃する)などのネガティブな感情が湧いてきて、それが強いときは、その感情の衝動に突き動かされ、相手に罵声を浴びせるなどの行動をとるときさえあります。
肉体に、より密接した自我意識が、自分が肯定していることを否定されて、肉体的な危険を感じた場合は、特に、そのような傾向が強くなります。
このように書いている私自身も、今でもまだ、そういう場面に多々直面し、恐れやネガティブな感情が湧いてきて、その衝動のエネルギーが強いときには、それを抑えるのにひと苦労するという経験をしているのです。
肉体に、より密接した意識である自我が、本来、ひとつである観念の、一方の面に固執している場合は、自我の存在の危機を回避するために、ほとんど自動的と言っていいほど、防衛本能として、相手を否定・攻撃し、自分を肯定することによって、自分を守ろうとするのです。
その、自我の存在の危機を完全に回避するためには、交通ルールという、固定観念の集合体である、人間の自由意志を加味していない、不完全な観念システムだけに頼るのではなくて、人間は、本来、支配よりも自由を好み、自由意志により、どちらか一方だけではなく、どちらも同時に選択をする可能性があるということを、許容していなければ、できないということなのです。
自我が、あるひとつの観念のどちらか一方の面に固執して、相対的な不完全な認識を持っているときに、ハートのどちらも同時にひとつであり、すべてであるという、絶対的な合一の認識を、他方の面を否定する、反発するのをやめて受け入れるためには、自我には、自由意志があり、自我は支配されることよりも、自由を望んでいるということから、切り込んでいくことができます。
つまり、無条件の愛の本来の性質の中に、どちらか一方だけではなく、どちらも同時にすべてを許容しているという、どんな条件付けも制限もない、本当の自由という感覚があります。この本当の自由という感覚のために、ハートは、どちらか一方を自我に押し付けて、自我を支配するのではなく、自我が、自由意志で自由に選択できるように、どちらも同時に、すべてを可能性として許容している、ということなのです。
どちらか一方に固執しているがために、自我は、存在の危機に直面してしまう。自我が肯定していることを、否定することは、自我の自由を奪い、支配することにつながるのです。
だから、本当の意味で、自我の存在の危機を回避するためには、常に、自由を望んでいる、自由意志を持っている自我に対して、どちらか一方に固執することは、逆に、恐れや怒りなどのネガティブな感情を生み出し、肉体的にも危機を招く恐れがあると、自我に気付かせる必要があります。
それは、ハートが示す無条件の愛を、自我がまねして、どちらも同時に可能性としてあり得ると許容して、ハートの合一の認識に基づいた認識に変えることによって、実際の場面で、恐れや怒りなどのネガティブな感情が生じることなく、肉体的な危機も招くことがなくなれば、認識において、自我も、ハートと同じく、本当に自由になったということですから、支配ではなく、自由を望んでいた自我は、反発することなく、自らハートの示す合一の認識を、無条件の愛を受け入れることができるのです。
実際の交通の流れの中での、場面、場面において、交通ルールという、人間の自由意志を排除して、どちらか一方の面を固定観念として支配している、ルールという形だけに囚われずに、人間の自由意志を認めて、ルールにはないが、どちらも同時に可能性としてあり得ると許容したときに、初めて、自我の存在の危機を招く事故を回避でき、不完全な調和から完全な調和に近づいていくと思っています。
しかし、個人のレベルだけでは、交通ルールという人間の自由意志に基づかない、不完全な調和を生み出す今の観念システムを変えることはできないので、大勢の個人の意識が、自我の相対的な不完全な認識方法から、ハートの合一の絶対的な認識方法に変わっていけば、個人の意識を超えて、集合意識として、人間の自由意志に基づいた、より完全な調和を生み出す観念システムに変わっていくと思っています。
そして、それは、交通の分野だけではなく、経済、政治、教育、雇用、医療、介護、環境、食料、エネルギー、コンピューターなどの、すべての、社会を構成するシステムにおいて、変わっていくと思っています。