------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛 -26ページ目

人間と自転車を語呂合わせして、自我とハートが一体化する方法を考察する

僕は、日常、自転車で信号待ちや、踏み切り待ちをするときに、自我とハートが一体になって、今、この瞬間に在る練習をしています。



自転車で足をつかずに、その場に留まるには、人間と自転車が一体になり、バランス(調和)が取れていないとできません。


人間と自転車とが、一体化せずに、バランスが取れていないと、人間は、自転車と共に倒れそうになり、肉体的な危険にさらされ、恐れの感情が生じます。



人間が自我、自転車がハートであるとすれば、自我とハートが一体になっていないと、バランスがとれずに、恐れの感情が生じ、自我が存在の危機に直面するということなのです。



人間(自我)と自転車(ハート)の全体として、ひとつとして、バランスを取るためには、元々、調和を取る性質のある自転車(ハート)に、人間(自我)がすべてを委ねて、一体化しなければなりません。



人間(自我)が自転車(ハート)と一体化せずに、分離して、自転車(ハート)をコントロールしようとすれば、その分離のために、バランス(調和)がとれずに、人間(自我)と自転車(ハート)が倒れそうになって、恐れの感情が生じ、人間は、肉体的な危険に直面します。



その自我が、ハートと分離していることによって生じる、恐れを持ったままで、自我だけで、人間と自転車のバランスを取ろうと、コントロールしようとすればするほどに、ますますバランスが崩れて、倒れそうになり、恐れが増すのです。



自我(人間)は、常に、ハート(自転車)と一体化せずに、分離して、コントロールすることにより、バランス(調和)を取ろうとしています。



人間(自我)が、自転車(ハート)と一体化せずに、分離したまま、バランスを取る方法があるのでしょうか?



原理的に、分離したままでは、一体化して、ひとつになる、全体としては、永遠にバランスはとれないということがわかると思います。



元々、自転車(ハート)には、すべてを無条件に許容し、信頼し、バランスを取る性質があります。



そのハートが、無条件に許容し、信頼する、すべての中には、もちろん、自我も含まれていますから、自我は、ハートから無条件に許容され、信頼されています。



だから、そのハートと一体化し、ひとつになり、全体として、バランスを取るためには、自我自身も、自ら、すべてを無条件に許容し、信頼すればよいのです。



そして、自我がそうするためには、まず、元々、すべてを無条件に許容し、信頼する性質のある、ハートを、自我自らが信頼し、そのハートに、すべてを委ねればよいのです。



それが、唯一、自我とハートが一体化し、全体として、ひとつとして、バランスを取る方法です。



自我が、元々、すべてを無条件に許容し、信頼している、ハートを信頼し、そのハートにすべてを委ねることが、まず、自我が自らを、無条件に許容し、信頼することにつながります。


そして、そのことが、自我が、すべてを無条件に許容し、信頼することにつながっていくのです。



自我がハートとのつながり、自我とハートとの信頼関係を無視したまま、分離したまま、すべてをコントロールしてバランスを取ることはできないのです。



人間(自我)が自転車(ハート)と一体化して、バランスを取って、今、この瞬間に在ると認識するためには、リラックスと集中をする必要があります。



リラックスするためには、人間(自我)が、あらゆる条件付けや判断をして、すべてをコントロールしようとするのをやめることによって、集中し、元々、すべてを無条件に許容し、信頼している自転車(ハート)に、すべてを委ねて一体化しなければなりません。



リラックスと集中とは、人間(自我)が自転車(ハート)から分離して、消えてなくなる状態ではなくて、人間(自我)と自転車(ハート)が一体化して、全体として、ひとつとして、バランスを取っている状態です。



もし、人間(自我)が、自転車(ハート)から分離して、消える、無くなる、ということになれば、この現実の世界で、人間(自我)として自転車(ハート)と一体化して、バランスを取るという、経験そのものができない、ということになってしまいます。










人間として、今、この瞬間に在るという認識について考察する

人間として、今、この瞬間に在ると、認識するためには、自我とハートが一体化して、調和していないとできません。



自我とハートとの調和であり、自我が、ハートだけを肯定し、自我自身を否定して排除することではありません。



ハートは、自我の存在を、無条件に許容していますから、ハートが自我を否定し、排除することはありません。



だから、自我が、自我自身を否定し、排除しようとすれば、自我とハートが分離して、不調和となり、自我とハートが一体化し、調和することによって、今、この瞬間に在ると、認識することができなくなるのです。



ハートは、今、この瞬間に在ろうとしなくても、常に、今、この瞬間にあります。



ハートは、記憶を超えた、自分の本当の生きた心だからです。



そのハートの、常に、今、この瞬間に在るという、認識を妨げているのは、自我がハートから分離して、記憶の中に形作れた、自我主導の認識になっているからです。



自我が、自我自身を否定し、排除しようとすると、自我がハートから分離して、不調和となるのですから、自我が、自我自身を、無条件に許容し、ハートと一体化して、調和しなければならないのです。



ハートは、エネルギーの波動(振動)ですから、自我が、そのハートのエネルギーの波動と一体化して、一緒に振動しているときには、その波動の、どの瞬間においても、常に、今、この瞬間に在ると、認識されます。



しかし、自我が、そのハートのエネルギーの波動から分離して、一体化していないと、自我のいるところである、記憶の中から見たときには、相対的に時間が流れていると認識します。



そして、自我主導で、記憶の中に、相対的に、形作られた、今が過ぎ去った過去や、今が未だ来ない未来としてしか認識できずに、ハート主導の、記憶を超えて、常に、今、この瞬間に在るという、認識ではなくなってしまうのです。



記憶の中に、形作られた自我が、自分の本当の生きた心である、ハートのエネルギーの波動(振動)と一体化して、一緒に振動しているときには、相対的な差は生じないので、ハート主導で、記憶を超えて、常に、今、この瞬間に在ると、認識できます。



そして、自我が、ハートの波動(振動)から分離して、一体化していないときには、自我主導で、相対的に、記憶の中に、形作られた、過去や未来を認識するのみで、記憶を超えて、常に、今、この瞬間に在ると、認識できない、ということなのです。













自我(闇、悪)とハート(光、善)という、対になったひとつの観念(人間)について考察する

まず、自我(=闇、悪、形作られた心)とハート(=光、善、形を超えた自分の本当の生きた心)という、対になったひとつの観念(=人間)があるとします。



自我が自我を肯定し、ハートを否定する。


あるいは、


自我がハートを肯定し、自我を否定する。



この場合は、どちらか一方を肯定・執着し、他方を否定・排除するという判断をしていますから、その判断が影となり、ハート(=光、善)から、自我(=闇、悪)が分離して、自我(=闇、悪)が表に姿を現わし、自我主導の調和のとれていない人間(=観念)となります。



そして、どちらか一方というような条件付けや、肯定・否定などの判断が、一切ない場合は、ハート(=光、善)と自我(=闇、悪)は一体化していますので、表にはハート(=光、善)が姿を現わし、ハート主導の調和のとれた人間(=観念)となります。



一人の人間(=ひとつの観念)としては、ハート(=光、善、形を超えた自分の本当の生きた心)と自我(=闇、悪、形作られた心)が、一体化したときには、表にハート(=光、善、形を超えた自分の本当の生きた心)が現れ、ハート主導の調和のとれた人間(=観念)となり、分離したときには、表に自我(=闇、悪、形作られた心)が現れ、自我主導の調和のとれていない人間(=観念)になる、ということなのです。