------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛 -25ページ目

精神体の持つ観念が、分離していない場合の、創造のプロセスについて考察する

創造のプロセスにおいて、精神体の持つ観念が分離していない場合を考えてみましょう。



まず、創造の源から純粋な光が、ハート(魂の青写真)に送られ、ハートの波動と調和して一体化します。


次に、ハートにより密接に重なっている精神体を、創造の源とハートの波動が合わさった波動が通り、そのときに精神体の持つ観念は、純粋な光の波動から分離していないために、創造の源とハートの波動と合わさるときに、ずれを生じることなく、調和して一体化して、精神体の波動が合わさります。


このとき、精神体において、観念が分離していないために、知的・理性的に純粋な波動との間で、矛盾(ずれ)は生じません。


そして、さらに、精神体により密接に重なっている感情体を、精神体からの波動が通ります。そのときに、創造の源とハートと精神体の波動が、純粋な光の波動として調和して一体化しているために、感情体においては、その純粋な光の波動が持つ、本来の感覚である喜びに基づいて、わくわくするという、情熱感が生じます。


このとき、精神体において、観念が分離していないために、感情体においても、感情的・感覚的に純粋な波動との間で、矛盾(ずれ)は生じません。



その感情体の、純粋な光の波動と調和した情熱感の波動に基づいて、その情熱感が原動力となって、ハート主導で、精神体の思考を使って、その情熱感を現実に、ありのままに形として表現するための、肉体的な反応や行動を生み出す波動が、感情体により密接に重なっている肉体に作られ、その波動が、創造の源とハートと精神体と感情体の波動と調和して合わさります。


このとき、精神体において、観念が分離していないために、肉体においても、肉体的に純粋な波動との間で、矛盾(ずれ)は生じません。



ここで、精神体・感情体・肉体の三つの意識の波動が重なった自我(パーソナリティー)固有の波動となり、その波動を創造の源に投影し、その投影に基づいた現実の経験ができるような波動が、反映として返され、それをハートと自我が受け取り、現実の経験として認識します。


このとき、反映された現実の経験は、創造の源とハートと自我の波動が純粋な光の波動として調和しているために、その調和を反映した、純粋な光として喜びに満ちた経験となります。


そして、その経験が創造の源に送られ、全体のエネルギーに加えられます。



現実創造のプロセスについて考察する

以下に考察することは、主に、『バシャール2006』 、ダリルアンカ、バシャール、VOICE  P49~P64、P101~P109に基づいて、参考・参照・引用しています。



自我(パーソナリティー)は、基本的に、意識の三つの側面で構成されています。



観念と感情と行動(反応)という三つの側面です。



この自我(パーソナリティー)が、本来の固有の波動を持っているハート(魂の青写真)の上に重なっているのです。



ハートが、純粋な光のエネルギーの波動として、ただ在るときには、形としては、表現されていませんが、この現実の世界で一人の人間を経験するときには、さまざまな意識の組み合わせとして、形として表現されます。



それは、ハートが霊体を、精神が精神体を、感情が感情体を、脳が肉体を通して、形として表現されていることに対応しています。



つまり、このことは、自我(パーソナリティー)も、純粋な光のエネルギーの波動が元となって、この現実の世界で、形として投影されて、表現されている、ということを示しています。




現実創造のプロセスとしては、まず、最初に、創造の源から送られた純粋な光の波動が、ハート(魂の青写真)を通ります。


すると、そのハートの固有の波動が、創造の源からの純粋な光の波動と調和して一体化し、組み合わさります。



そして、ハートに重なっている自我(パーソナリティー)の三つの側面のうち、まず、精神体に形作られた観念システムを、創造の源からの純粋な光の波動とハートの固有の波動が調和して一体化して組み合わさった波動が通り、そのときに精神体が持っている意識のエネルギーの波動が合わさり変化します。



次に、その変化した波動が、感情体を通り、そのときに感情体が持っている意識のエネルギーの波動と合わさり、さらに波動が変化し、最後に行動や反応を、現実に形として表現する肉体の波動が合わさり変化して、創造の源からの純粋な光の波動とそれに調和し一体化したハートの波動、観念(精神体)と感情(感情体)と行動(肉体)の波動の組み合わせにより、そのときの自我(パーソナリティー)の固有の波動が形作られます。



そして、その形作れた自我(パーソナリティー)の固有の波動を、創造の源に向かって、エネルギーを投影して返します。



すると、その返された、形作られた波動に基づく現実が経験できるように、創造の源から、自我が形作って投影した波動の通りに現実を経験できる波動を、反映として戻し、それを現実の経験として、ハート(魂の青写真)と自我(パーソナリティー)が認識するのです。



そのときに、創造の源からの反映は、まず、ハート(魂の青写真)が受け取り、次に、自我(パーソナリティー)が受け取るようになっています。



だから、源から戻ってきた反映である、現実の経験を、自我が認識するときに、ハートと自我の波動にずれがなく、調和し一体化して振動しているときには、喜びなどのポジティブな感覚が生じます。


一方、自我の持つ波動が、純粋な光の波動から分離し、闇の成分が組み合わさり調和せずに振動している場合には、自我の波動は、調和し一体化して振動している創造の源とハートの純粋な波動と、ずれて組み合わさり、調和せずに一体化せずに振動するため、恐れなどのネガティブな感情が生じるのです。



そして、ハートと自我が経験した、現実の経験として、そのエネルギーの波動を、再び、創造の源に向かって送ります。



それによって、創造の源は、個々人の経験を観察し、源の全体のエネルギーに、それを加えることができます。



ここでひとつの創造のプロセスが終了し、再び、創造の源は、新たな経験ができるように、純粋な光のエネルギーをハート(魂の青写真)と自我(パーソナリティー)に向かって送ります。



この創造のプロセスのサイクルを繰り返しているのです。




創造の源が、さまざまな光の波動の組み合わせをすることにより、さまざまな経験をしているのです。


そして、一人の人間として、いろいろな現実を経験するために、その光の波動を組み合わせて、形作る、自我(パーソナリティー)という装置(構造)が形作られ、使われているということなのです。


その自我(パーソナリティー)が組み合わせる波動が、純粋な光の波動から分離した、闇の成分のときには、創造の源から、最初に、創造として送られてくる純粋な光とハートの光が調和し一体化した波動と、自我の波動の間でずれが生じます。


そのため、創造の源、ハート、自我の波動が組み合わせとして、一体化していない、調和していない波動となり、その分離した闇の成分が反映された不調和な現実を経験し、恐れなどのネガティブな感情が生じます。


また、その波動の組み合わせが、純粋な光からの分離がなく、ずれがなく、調和して一体化しているときには、その光が反映された現実を経験し、喜びなどのポジティブな感覚が生じます。



つまり、組み合わせる光の波動の違いが、表に現れる形(現実)の違いを作り出しているのです。


組み合わせる光の波動の違いにより、表に現れる形の違いである、さまざまな現実を経験しているのです(さまざまな形として表現しているのです)。


そして、そのさまざまな波動の組み合わせから生じる、さまざまな現実の経験から叡智(=どんな波動の組み合わせであれば、どんな経験ができるのか)を得て、それを創造の源に返しているのです。


創造の源は、それらの現実の経験から得た叡智を元にして、さらに、新たな光の波動の組み合わせを学ぶために、再び、新たな光の波動を、人間として、さまざまな現実を経験するために、組み合わされている、ハート(魂の青写真)と自我(パーソナリティー)に向かって送るのです。


創造の源は、この現実創造のプロセスを繰り返し、無条件の愛である、純粋な光のエネルギーの波動である、自らを経験し、学んでいる(経験してよく知るという学びをしている)のです。



創造の源からの純粋な光の波動と、それと調和し一体化したハートの波動に、自我の持つ波動が組み合わさったときに、自我の波動は、消えてなくなるのではありません。


その組み合わさって、ひとつとなった波動の中に、自我の持つ波動の成分もすべて含まれているのです。




純粋な光として、ただ在るときには、光と闇は一体化し、調和し、ひとつとして在ります。


しかし、純粋な光を形として現わす(経験する、表現する)ときには、本来、一体化して調和している光と闇を分離して、闇の成分を取り出し、表に現わす(経験する、表現する)こともできるのです。



影も形もない、無限の光だけで満たされた世界を想像してみてください。


光のみで存在しているときには、形がないので、影ができずに、闇を経験することはできないのです。


光を形として現わしたときに、初めて、影ができ、光と闇が分離した状態である闇を経験できるのです。


純粋な光として、ただ在るときには、形として投影しない(表現しない、経験しない)ので、光と闇が一体化していますが、純粋な光を現実に、形として投影する(表現する、経験する)ときには、本来、光と一体となっている、闇の成分を分離して、表に取り出すこともできるということなのです。


純粋な光として、ただ在る状態のときには、すべてが、ただ、ひとつとして在るという経験のみで、純粋な光を現実に、形として投影していないので、経験して学ぶことは、それ以外には何もないということになります。


つまり、すべてが、ただ、純粋な光として、ひとつとして在る場合は、経験としては、それ以下でもなく、それ以上でもないという状態、ということになります。



だから、創造の源は、それ以上の経験をするためには、純粋な光を現実に、自らの分身として投影する必要があるのです。


そして、本来は、すべてが同時に、並行的に経験されていますが、直線的に、段階的に経験しているという視点で視た場合には、最初に分身として投影されたものの経験は、純粋な光に近いものであり、純粋な光の成分を細かく分離して投影していく、分離の過程が進んだことによって、本来、一体化している光と闇の、闇の成分も分離して取り出して経験することができるようになった、ということになります。


直線的、段階的な視点で視た場合には、分離のプロセスと統合のプロセスがあるということになりますが、実際は、すべては、同時並行的に経験されているので、それらが、ひとつの創造のプロセスということになります。


そして、その創造のプロセスには、すべての分離・統合のプロセスの経験で得た叡智が、同時並行的に活用されているということになります。

























分離(苦痛)のサイクルについて考察する(善と悪の場合)

分離のサイクルについて考察してみます。



①善と悪という対になったひとつの観念のうち、善を肯定・執着し、悪を否定・排除する場合、自我の相対的な不完全な認識が、無条件の愛(ハートの絶対的な完全な合一の認識)と分離し、恐れの感覚が生じる。


②その恐れの感覚のために、ハートと分離した自我主導で思考を使い、その恐れを打ち消すために、自我が善と認識するものを肯定・執着し、悪と認識するものを否定・排除するための破壊欲が形作られる。


③その破壊欲により、恐れを自分の外側に投影し打ち消すための原動力となる、怒りという感情が形作られる。


④その怒りという感情により、恐れを自分の外側に投影し、自我が善と認識するものを肯定・執着し、守り、悪と認識するものを否定・排除し、攻撃するという行動(反応)をとる。


⑤その行動の結果、破壊欲が満たされたら、満足感を得て、満たされなければ、不満足(欲求不満)となる。


⑥破壊欲を満たし、満足感を得たとしても、根本的には、恐れは解消されていないので、次に同じような状況に直面したときに、再び、恐れから、思考により、破壊欲を作り出し、その破壊欲を満たすための怒りという感情も作り出され、恐れを自分の外側に投影する行動(反応)をとる。



このサイクルを繰り返すことが、分離のサイクルであり、苦痛の根本原因となっているものです。


そして、特に、恐れが強く、怒りを外側に投影する対象が固定化され、強い怒りが持続されるときには、怒りは憎しみという感情に変容します。