野球の連係プレーに語呂合わせして、意識の連続性について、思い出す
自我意識(精神体・感情体・肉体)との連続性の中で、ハートがすべてはひとつを思い出す経験が、ワンネス(=意識が宇宙に吹っ飛んだ)の経験です。
意識の認識できる範囲を、野球の守備範囲に語呂合わせしてみます。
精神体の持つ観念(波動)が分離している場合は、自我意識としての振動数は低くなりますので、意識の認識できる範囲、守備範囲が狭くなります。
自我意識の守備範囲が狭いということは、ハートに自我意識が十分開かれていない、エネルギー的に分離して、閉じ気味になっている、ということになります。
一方、ハートも、この三次元の世界に在るときには、振動数の低い肉体と合わさるために、振動数を下げていますから、本来の在り方よりも、意識の守備範囲が狭い状態になっています。
だから、ハートが、ハイアーセルフと融合して、すべてはひとつの意識状態を思い出すためには、ハートは、下げている振動数を上げて、意識の守備範囲を拡げなければなりません。
そして、そのハートが、意識の振動数を上げるときに、肉体を含めた自我意識の意識の守備範囲が狭いままですと、ハートが意識の守備範囲を拡げて、ハイアーセルフと融合したとしても、そのハートの経験を、意識の守備範囲の狭い自我意識のままでは、受け取ることができない、認識の限界を超えているということになります。
つまり、ハートが意識の守備範囲を拡げ、ハイアーセルフと融合して、すべては、ひとつを思い出す経験を、肉体を含めた自我意識が認識するためには、その肉体を含めた自我意識も、ハートが思い出す、すべてはひとつの経験を、認識できる範囲まで、意識の守備範囲を拡げなければならないのです。
これが、よく、ハートを開くと言っていることですが、このとき、自我意識も意識の守備範囲を拡げて、意識を十分に、ハートに開いていなければ、ハートの、その意識の守備範囲を拡げる経験である、ワンネスを、肉体を含めた自我意識は認識することはできないのです。
自我意識が十分に、ハートに開いていなければ、ハートの、すべてはひとつの認識を、肉体を含めた自我意識が、自我意識とハートの意識との連続性の中で、認識できない、ということなのです。
自我意識の、意識の守備範囲が狭いと、自我意識が、ハートからの、ワンネスの認識を受け取るのに必要な、意識の連続性が保たれずに、ハートから返球されるボール(=すべてはひとつの認識)を自我意識が受け取る(=認識する)ことができないのです(連係・中継プレーに失敗する)。
というわけで、ハートが、意識の守備範囲を拡げて、すべてはひとつ、を認識する経験を、肉体を含めた自我意識が、意識の連続性の中で、認識するためには、自我の精神体の持つ観念(波動)の分離を、ひとつずつ解消して、肉体を含めた自我意識の振動数を上げて、その意識の守備範囲を、ハートに向けて、十分拡げていく必要があるのです。
自我の構成要素が、なぜ、精神体・感情体・肉体の三つなのか?について考察する
なぜ、自我(パーソナリティー)が、精神体、感情体、肉体の三つの異なる意識の波動で構成されているのかについて、考察してみましょう。
まず、自我が、純粋な光の波動を通して、解釈する装置と考えてみます。
そうすると、
精神体は、純粋な光の波動を知的・理性的に解釈する装置、
感情体は、純粋な光の波動を感情的・感覚的に解釈する装置、
肉体は、純粋な光の波動を肉体的・物質的に解釈する装置
である、と考えることができます。
創造の源とハートの純粋な波動が、一番最初に通るのは、精神体です。
ここで、なぜ、一番最初に精神体を通るのか?感情体や肉体ではだめなのか?という疑問が湧いてきます。
一番最初に通るということに、何かの意味があるはずです。
まず、精神体は、純粋な光の波動を知的・理性的に解釈しますから、精神体単独では、感情体のように、直接的に、感情的・感覚的には解釈できないということになります。
このことは、精神体においては、単独では、直接的に、純粋な光の波動を感情的・感覚的に解釈できないために、精神体が単独で知的・理性的に思考を使って、矛盾していると考えなければ、純粋な光の波動からどんなに分離した、ネガティブな感情や感覚が生じる観念であっても持つことができる、ということを示しています。
もし、精神体に、感情体の要素が、同時に兼ね備えてあれば、感情的・感覚的に恐れなどのネガティブな感情や感覚は感じたくないと思えば、純粋な光の波動から分離したネガティブな観念は持たないはずなのです。
感情体の本来の在り方、純粋な光の波動としては、恐れではなく、喜びを感じていたい、ということなのです。
もし、精神体に、同時に、感情体の要素があれば、自らが恐れを抱くような観念は持たない、それが、本来の純粋な光としての在り方です。
つまり、純粋な光である、ハートは、それ自身に、感情的な知性を持っている、ということになります。
そのハートが、自らの分身として、本来ひとつである、一体化して調和している、自らの性質を、分離して、形として投影したものが、精神体と感情体ということになります。
純粋な光としては、本来ひとつである、ハートの感情的な知性を、ハートの分身として、形として分離して、別々に投影することによって、感情体において、恐れなどのネガティブな感情が生じる、分離した観念を、精神体が持つことができるようになります。
そのことによって、純粋な光として在るときには、経験することのできない、光から分離した闇の成分を取り出し、経験することができるのです。
そして、肉体的・物質的な三次元での現実の経験を通して、肉体的な苦痛や感情的な不快感や知的・理性的な矛盾が生じた出来事を、精神体に記憶として取り入れます。
精神体は、それらの記憶に基づいて、精神体主導で、思考を使って、総合的に経験を解釈し、知的・理性的、感情的・感覚的、肉体的・物質的な矛盾を解消しようとしますが、精神体は、すでに記憶としてあるものの、形に囚われて、相対的に知的に判断することしかできないために、解消することはできません。
それらの矛盾を解消できるのは、現実の経験を、感情的な知性で、感じ考えることのできるハートだけです。
ハート主導で、精神体の、直観的に全体をイメージとして受け取る思考を使って、ハートの、形を超えた知的・感情的な絶対的な合一の認識を、精神体に与え、それを受け取った精神体が、その直観的な知的・感情的な合一の認識を、言語化する思考を使って、知的・理性的に理解し、気付きを得るのです。
ここで、精神体が最初に持っていた、光と分離した闇の成分を現実に反映し、創造してしまう、分離した観念の、分離(=形への囚われ)が解消されます。
そして、創造のプロセスにおいて、一番最初に、創造の源とハートの純粋な光の波動が通る、精神体において、観念の分離(純粋な光の波動との知的・理性的な矛盾・ずれ)が解消されれば、後に続く、感情体、肉体においても、純粋な光の波動との、感情的・感覚的、肉体的・物質的な矛盾・ずれも、同時に解消されるのです。
だから、創造のプロセスにおいて、精神体が持つ、分離した観念により始まる、精神体、感情体、肉体に苦痛を生み出す、分離のサイクルを解消するためのプロセスは、なぜ、自我(パーソナリティー)が精神体・感情体・肉体の三つの異なる意識の波動で構成されているのかを理解していくプロセスでもあるのです。
精神体は、知的・理性的にしか、思考を使うことができません。
感情体は、感情的・感覚的にしか、思考を使うことができません。
ハートは、知的・理性的・感情的・感覚的要素を、別々にではなく、それらのすべてがひとつとして、思考を使うことができます。
肉体は、肉体的・物質的な側面(純粋な光の波動の投影・分身)。
感情体は、感情的・感覚的な側面(純粋な光の波動の投影・分身)。
精神体は、知的・理性的な側面(純粋な光の波動の投影・分身)。
霊体(ハート)は、霊的な青写真(純粋な光の波動そのもの)。
創造された現実の経験を通して、精神体・感情体・肉体の純粋な光の波動との分離を解消し、ずれ(=矛盾)を修正し、霊体(ハート)と一体化して調和することによって、波動を上げていくのです。
そして、その上昇した波動が反映された、現実の経験が創造されるのです。
精神体の持つ観念が、分離している場合の、創造のプロセスについて考察する
創造のプロセスにおいて、精神体の持つ観念が、分離している場合を考えてみましょう。
まず、創造の源から純粋な光が、ハート(魂の青写真)に送られ、ハートの波動と調和して一体化します。
次に、ハートにより密接に重なっている精神体を、創造の源とハートの波動が合わさった波動が通り、そのときに精神体の持つ観念は、純粋な光の波動から分離しているために、創造の源とハートの波動と合わさるときに、ずれを生じ、調和せずに、一体化せずに、精神体の波動が合わさります。
このとき、精神体において、観念が分離しているために、知的・理性的に、純粋な波動との間で、矛盾(ずれ)が生じます。
そして、さらに、精神体により密接に重なっている感情体を、精神体からの波動が通ります。そのときに、創造の源とハートと精神体の波動が、調和せずに、一体化せずに、ずれて合わさっているために、感情体においては、純粋な光の波動が持つ、本来の感覚である喜びではなく、光から分離した闇としての、恐れが生じます。
このとき、精神体において、観念が分離しているために、感情体においても、感情的・感覚的に純粋な波動との間で、矛盾(ずれ)が生じます。
その感情体の、純粋な波動と調和していない、恐れの波動に基づいて、感情体主導で、精神体の思考を使って、その恐れを打ち消すための欲が、精神体に形作られ、その欲を満たす原動力となる感情も同時に、感情体に形作られます。
そして、感情体により密接に重なっている肉体に、欲を満たすための、反応や行動を生み出す波動が作られ、その波動が、創造の源とハートと精神体と感情体の波動と調和せずに、一体化せずに、ずれて合わさります。
このとき、精神体において、観念が分離しているために、肉体においても、肉体的に純粋な波動との間で、矛盾(ずれ)が生じます。
ここで、精神体・感情体・肉体の三つの意識が重なった自我(パーソナリティー)固有の波動となり、その波動を創造の源に投影し、その投影に基づいた現実の経験ができるような波動が、反映として返され、それをハートと自我が受け取り、現実の経験として認識します。
このとき、反映された現実の経験は、創造の源とハートと自我の波動が調和せずにずれて合わさった、自我の持つ波動の、闇の成分を反映した、不調和で、ネガティブな感情の入り混じった経験となります。
そして、その経験が創造の源に送られ、全体のエネルギーに加えられます。