常に、無条件に許容する、という選択をする
ハート(魂の青写真)のもとでは、知的・理性的なものと、感覚的・感情的ものが、別々にではなく、ひとつとしてあります。
ハート(魂の青写真)から分身として形を投影するときに、知的・理性的なものと、感覚的・感情的なものを、精神体と感情体に分けて、別々に投影します。
ハートのもとでは、本来、エネルギー的に、ひとつとしてある、知的・理性的なものと、感覚的・感情的なものが、精神体と感情体という、別々の形として投影され、別々に独立して機能することができます。
そのために、精神体が、自らが持つネガティブな観念を肯定し、感情体が喜びを感じることを否定した場合には、自我(精神体・感情体・肉体)において、自己肯定と自己否定が同時に行われますので、無条件の愛の喜びの波動からの分離が生じ、感情体において恐れを感じます。
本来、ハートのもとでは、喜びのままにひとつとしてある、知的・理性的なものと、感覚的・感情的なものの、一方を肯定し、他方を否定するというような、条件付けと判断をしたときには、精神体の持つ観念の波動は、知的・理性的なものと、感覚的・感情的なものが恐れのもとに分離した、観念の波動になります。
知的・理性的なものと、感覚的・感情的なものが、恐れのもとに分離して、別々になるのです。
精神体と感情体が、喜びのもとに一体化して、同時にひとつとして調和して機能する意識の波動から、恐れのもとに分離して、別々に一方ずつ機能する意識の波動になります。
これが自我(精神体・感情体・肉体)において、緊張(葛藤)状態を引き起こし、そのストレスが、各体に歪みとして蓄積されます。
精神体または感情体の、どちらか一方の主導で思考を使って、他方をコントロールする、抑圧状態になります。
精神体主導で、思考を使って、感情体において、喜びを感じることのできない観念の波動を、精神体に持つ。
感情体主導で、思考を使って、恐れがあって、喜びがないから、喜びを形作ろうとして、精神体において、無条件の愛の喜びの波動と一致した観念を持てない。
すべては、恐れのもとでは、分離して別々になり、調和せずに、どれかひとつに偏って機能します。
すべては、喜びのもとでは、一体化してひとつとなり、調和して機能します。
だから、精神体または感情体のどちらか一方に偏って、思考を使う主導権を与えないためには、すべてにおいて、一切の条件付けと判断をせずに、無条件に許容するのです。
条件付けと判断がなされているときには、精神体または感情体の、どちらか一方の主導で思考が使われていますので、無条件の愛の喜びの波動から分離してしまうのです。
本来、喜びのもとに、ひとつとしてあるものの、自己肯定と自己否定が同時になされた場合には、精神体と感情体の機能が調和せずに、別々に分離して、どちらか一方に偏って働いてしまうのです。
精神体または感情体の、どちらか一方の主導ではなく、すべてにおいて、一切の条件付けと判断をせずに、無条件に許容すれば、ハート主導で、受動的に、思考を使うことになるので、無条件の愛の喜びの波動からは分離しません。
すべてにおいて、一切の条件付けと判断をせずに、無条件に許容すれば、精神体と感情体は、ハートのもとで、ひとつとなり、ハート主導で受動的に思考が使われるので、精神体または感情体の、どちらか一方が、他方を、思考を使ってコントロールするという、緊張(葛藤)状態は引き起こされませんので、ストレスによる歪みも生じません。
精神体または感情体の、どちらか一方の主導で、思考を使って、条件付けと判断をして、無条件に許容しないときには、思考を使って、条件付けと判断をして、結果を形作ることになります。
逆に、一切の条件付けと判断をせずに、無条件に許容するときには、ハート主導で受動的に思考を使うことになりますので、思考を使って、条件付けと判断をしないということは、結果を形作らないということになります。
思考を使って、条件付けと判断をすることは、結果を形作ることになり、条件付けと判断をしないことは、結果を形作らないことになる。
無条件に許容しない場合は、結果を形作り、許容する場合は、結果を形作らない。
すべてにおいて、思考を使って、一切の条件付けと判断をせずに、無条件に許容すれば、現実創造のプロセスにおいて、現実の経験の反映の中に、任意に入ってくる、シンクロニシティ(共時性)を無条件に許容することになります。
シンクロニシティが、現実創造のプロセスにおいて、次の1サイクルの選択を変化させる機会を与える、兆候(サイン)である場合には、精神体または感情体主導で、思考を使って、条件付けと判断をして、無条件に許容していないときには、その兆候(サイン)を見逃すことになります。
精神体または感情体主導で、思考を使って、条件付けと判断をして選択する場合には、常に、先に結果を形作っていますから、シンクロニシティにより示される、次の1サイクルの現実の経験の可能性を、その、先に形作った結果により否定してしまうことになるのです。
だから、精神体または感情体主導で、思考を使って、条件付けと判断をして選択するのではなくて、現実の経験の流れを変える可能性として、反映の中に起こっていることを、無条件に許容するという選択をするのです。
無条件に許容するという選択であれば、先に結果を形作らないので、シンクロニシティにより示される、次の1サイクルの現実の経験の可能性(兆候・サイン)を否定せずに、無条件に許容するので、無条件の愛の喜びの波動と一致した、現実の経験ができる方向に流れていく選択ができるのです。
すべてを無条件に許容して、シンクロニシティによるサインと、ハート主導で受動的に思考を使うことによって受け取る、インスピレーションによって、選択・行動するのです。
そうすれば、ハートと無条件の愛の喜びの波動に、一致した経験のできる、現実の経験の流れに変わっていくのです。
日々の現実の経験を通して、自ら(=無条件の愛の波動)をよく知る学びをする
意識の波動が変わって、その違いに気付いたときには、現実の経験の流れも変わっています。
そのときには、現実創造のプロセスにおいて、前の1サイクルの学びは終了し、新たな1サイクルの学びが始まったということでもあります。
本来、ひとつとして在るものが、すべてに分離して、さまざまな現実の経験を通して、自ら(=無条件の愛の波動)をよく知る、という学びをしているのです。
ひとつとして在るときの唯一の経験から、すべてに分離して、無限の経験を通して、どんな波動であれば、どんな経験ができるのかを、知る学びをしているのです。
唯一リアルなものである無条件の愛の波動を、自我の三つ(精神体・感情体・肉体)の意識を通して、現実を経験(=信じる、感じる、行動・反応する)して知る、という学びをしています。
だから、日々、現実の経験を通して、自分の信じていること、感じていること、ふるまいに気付いていくことが、無条件の愛の波動そのものである自らを、よく知る学びになるのです。
どうすれば、本当の喜び(感動)が得られるのか?
自然破壊を例にして、どうすれば、本当の喜び(感動)が得られるのかを、考察してみたいと思います。
精神体が、感情体が自然の美しさを感じることを、抑圧(否定)してきた。
精神体が、人間が生きるためには、自然の美しさを破壊して、人間の都合のよいように、利用してもよいと考え、そのためには、感情体が自然の美しさを感じることを、否定(抑圧)してもよい、犠牲にしてもよいと考えた。
つまり、精神体の、自然の美しさを破壊して、人間の都合のよいように、利用してもよいという考えは、単に、自然を破壊しているだけではなく、自らの感情体を否定(抑圧)し、犠牲にしている、ということなのです。
精神体が、感情体と分離して、自然を破壊することは、自己否定であり、すべてが喜びのもとに、ひとつとしてあるという、本当の喜びの感覚を、押し殺して生きていることになります。
その自己否定が強いと、例え、自然が人間によって破壊されていないところに居たとしても、本当の喜びの感覚(感動)は、戻って来ません。
なぜなら、形として、投影されているものは、幻想であり、自らの意識が、自己否定により分離していることが、真実だからです。
だから、自然の美しさをありのままに感じて、本当の喜びの感覚(感動)を得るためには、自らの感情体を否定(抑圧)し、犠牲にして、自然を破壊し、利用してもかまわないという、精神体の持つ、無条件の愛から分離した観念(意識の波動)を、自らの感情体を否定(抑圧)せずに、精神体も、感情体も、肉体も、自然も、すべては、喜びのもとに、ひとつとしてあるという、合一の観念(意識の波動)に変えなければならないのです。
その合一の観念(意識の波動)にもとづいて、ハート主導で思考を使って、肉体のレベルで行動・反応するように、自我(精神体・感情体・肉体)の意識が変われば、自己否定(抑圧)されて、恐れのために、無感動となっていた感情体が、すべては喜びのもとに、ひとつとしてあるという、本当の喜びの感覚(意識の波動)を取り戻し、自然の意識の波動とひとつになって、感動する(喜びの意識の波動がひとつになって、振動数が高くなる)ことができるのです。
恐れがあって、喜びがないから、肉体的・物質的な喜びを形作ろうとするのではなく、それぞれの喜びの意識の波動があって、それらの意識の波動が、喜びのもとに、ひとつとなって、喜びの振動数が高くなるから、感動するのです。
純粋な喜びの意識の波動どうしであれば、それらの意識の波動は、形を超えて、喜びのもとに、ひとつとなり、一体化し、調和して振動数を増すのです。
ここで、自我(精神体・感情体・肉体)意識の中で、実際に、肉体のレベルで行動・反応するという、肉体の意識が重要になってきます。
自我の三つの意識の波動が合わさって、自我固有の波動となり、その波動が反映された現実を経験するのですから、精神体の信じていることと、肉体のやっていることが違っていれば、感情体の感じることは、本当の喜びにはならないからです。
精神体が、どんなに、自然を破壊することに対して、ポジティブな観念(意識の波動)を持っていたとしても、肉体のレベルで、その観念にもとづいた行動・反応をしなければ、感情体において、本当の喜びの感覚は得られません。
自我の構成要素である、精神体・感情体・肉体の三つの意識の波動のそれぞれが、すべて、恐れの意識の波動ではなく、喜びの意識の波動に変わらなければ、すべては、喜びの意識の波動のもとに、ひとつとしてあるという、本当の喜びの意識の波動にはならないからです。
精神体の信じていること(観念)と、肉体のとっている行動・反応と、感情体の感じていることとが、自己否定のために分離し、バラバラであれば、本当の喜びを感じることはできないのです。
だから、自我の構成要素である、精神体・感情体・肉体の三つの意識の波動が、自己否定せずに、喜びのもとに、ひとつとなったときに、本当の喜び(感動)が得られる、ということになります。