自ら照らして、自らから受け取り、自ら愛することによって、影が消える。
優しさから、強さが分離したら、弱さになる(優しさだけ肯定して、強さを否定したら、弱さになる)。
つまり、月が太陽の光を受け取るのを拒否しようとしたら、月の光は弱くなります。
強さから、優しさが分離したら、冷たさになる(強さだけ肯定して、優しさを否定したら、冷たさになる)。
つまり、太陽の光が月を照らさすのを拒否しようとしたら、月は冷たくなります。
優しさと強さがひとつになったら、柔らかい暖かさと、澄み切った穏やかさになります。
つまり、太陽の光が月を照らすことと、月が太陽の光を受け取ることとを、同時に許容したら、太陽の光は、柔らかい暖かさと、澄み切った穏やかさのある、月の光に変わります。
弱さを許容している、強さが優しさになり、冷たさを許容している、優しさが強さになる。
だから、弱さと冷たさを同時に許容すると、柔らかい暖かさと、澄み切った穏やかさになる。
自ら光を照らさない。つまり、男性エネルギーを否定すると、月の光が弱くなります。
自ら光を受け取らない。つまり、女性エネルギーを否定すると、月が冷たくなります。
つまり、どちらも、自己肯定と自己否定が同時に行われ、男性エネルギーと女性エネルギーが分離してしまいます。
だから、自ら光を照らして、自ら光を受け取り、自ら愛さなければ、自らを愛していない、ということになるのです。
自ら照らして、自ら受け取り、自ら愛す。
男性エネルギーと女性エネルギーを、どちらも同時に無条件に許容することが、自らを愛するということです。
本当の愛は、自ら与えたものを、自ら受け取り、自ら愛することによって、成立する。
自らの男性エネルギーと自らの女性エネルギーが融合することによって、本当の愛に目覚めるのです。
心が暖かく、穏やかに澄み切って、優しく、強い気持ちで満たされている状態は、自らを愛する(=自ら与え、自ら受け取り、自ら愛する)ことができている状態です。
自らを愛することができなかった人が、自分以外の誰かの愛を受け取って、心が暖かく、穏やかに澄み切って、優しく、強い気持ちで満たされているときは、与えることと、受け取ることを、同時に無条件に許容しているときです。
つまり、自らを愛している(=自ら照らして、自ら受け取り、自ら愛している)ときです。
すでに、自らを愛することができている、自分以外の誰かの、本当の愛の助けを借りて、自らを愛するように促されたということなのです。
本当の愛は、まず、自らを愛さない(=自ら照らして、自ら受け取り、自ら愛さない)と、受け取ることはできないのです。
だから、本当の愛を受け取るためには、まず、自らの男性エネルギーと女性エネルギーの統合が必要になるのです。
影を消すとは、自ら照らして、自ら受け取り、自ら愛することです。
影が現わしているのは、自ら愛していない、自らの一部分です。
自らが嫌って、自らが否定して、排除しようとしている、自らの一部分が、影として現れているのです。
だから、その、自らが嫌って排除しようとしている、自らの一部分を、自ら照らして明らかにすることによって、影は消え、その、自らが嫌って排除しようとしていた、自らの一部分の分離が解消し、自ら愛する(=太陽の光を月の光に変えて光る)ことができる、ということなのです。
自らの影の部分を、切り取って、分離させて、捨てるのではなく、自らの全体である光に統合するのです。
日食・月食は、宇宙にあるパワーメター(=見かけ上、パワーが食われる)
自分の持っている観念が、すべてポジティブな観念であれば、影はないから、闇は経験しない。
つまり、自ら光ることができる。
自分の持っている観念が、ポジティブとネガティブの両方あれば、ネガティブな観念から意味づけしたときに、影ができ、闇を経験する。
つまり、自ら光ることができない。
自分以外の誰かの光を受けたときに、ポジティブな観念から意味づけすれば、自らも光っているので、受けた光と自らの光が合わさって、ますます、輝きを増す。
自分以外の誰かの光を受けたときに、ネガティブな観念から意味づけすれば、そのネガティブな観念が影となり、光を見ることができずに、闇を経験する。
日食のときに、受ける光が欠けて、闇を経験したときに、ネガティブな観念が影となり、闇を経験していたと、自ら気付けば、食は終わる。
つまり、ネガティブな観念は、それに気付いた瞬間にポジティブに変わり、自ら光ることができる。
日食のときに、受ける光が欠けて、闇を経験したときに、ネガティブな観念が影となり、闇を経験していたと、自ら気付かなければ、食は終わらない。
つまり、ネガティブな観念を持ったままであるから、また、同じような状況に直面したときに、そのネガティブな観念から意味づけしてしまい、闇を経験する。
自ら光って自分以外の誰かを照らしたときに、相手が光っていれば、照らした光と相手の光が合わさって、ますます、輝きを増す。
自ら光って自分以外の誰かを照らしたときに、相手に影があって、闇を投影していても、その影がなくなれば、光に変わると気付く。
月食のときに、照らす光が欠けて、闇を経験したときに、ネガティブな観念が影となり、闇を経験していたと、自ら気付けば、食は終わる。
つまり、ネガティブな観念は、それに気付いた瞬間にポジティブに変わり、自ら光ることができる。
月食のときに、照らす光が欠けて、闇を経験したときに、ネガティブな観念が影となり、闇を経験していたと、自ら気付かなければ、食は終わらない。
つまり、ネガティブな観念を持ったままであるから、また、同じような状況に直面したときに、そのネガティブな観念から意味づけしてしまい、闇を経験する。
日食と月食の違いは、日食は、自ら光ることができない人(=地球の視点)が、自分以外の誰かに光を照らされて、自分の持っているネガティブな観念(=自らの影)に気付くことであり、月食は、自ら光っていって(=太陽の視点)、まだ闇を経験することがある人が、自分がまだ持っているネガティブな観念(=自らの影)に気付くことです。
影を持って、闇を経験している人に対して、光を照らすことはできても、その影を消すことはできない。
影は、その影を持っている人が、自ら気付くことによってしか消えないからです。
つまり、自ら気付くとは、自ら光るということです。
自ら光れば、影は消えます。
例えば、ある人が自分以外の誰かに会えたら嬉しいと思っているとします。
そして、その人が自分以外の誰かの視点から見た場合、影を持っているとします。
自分以外の誰かは、その人を光で照らすことはできますが、その人の持っている影を消すことはできません。
そうすると、その人が自分以外の誰かに会えたら嬉しいと、ポジティブな光を持っていても、その人が持っているネガティブな影のために、光を影が食ってしまい、本当はポジティブなパワーはあるのに、ネガティブなパワーが見かけ上、ポジティブなパワーを食ってしまい、ブレーキがかかり、動けない、自ら会うという行動に出れないということになります。
その人が自ら動く前に、自分以外の誰かが、その動けない、その人に会いに行くことはできない。
その人を動けなくしている影を、消すことができるのは、その人自身だからです。
だから、この場合、その人が動くことができないのなら、自分以外の誰かが会いに行けばよいではないかと、考えるかもしれませんが、それは、その人が自ら影を消す機会を奪うことになるので、そうすることはネガティブであり、しないことがポジティブです。
本来、その人自身に、自ら会いに行くという行動に出ることができる、ポジティブなパワーがあるのです。
その人が持っている影のために、ポジティブなアクセルとネガティブなブレーキを同時に使って、動けない状態にしているだけですから、自分以外の誰かは、その人が自らそれに気付くことによって動くことができるとわかっていますから、ただ待つというポジティブな行動を取っているのです。
日食と月食のイメージを、宇宙にある、自分のパワーメーターとして使うのです。
自らポジティブな行動をする(=自ら光る)ことを望んでいて、いざというときに、それができないということは、見かけ上、そのポジティブなパワーを食っている、ブレーキをかけている、ネガティブな観念(=自ら光ることのできない影)があるのです。
だから、パワーメーターのイメージを利用して、ポジティブな方向に加速するように、自らのネガティブな観念に気付いていくのです。
気付けば、ただそれだけで、見かけ上の食(=パワーを食われる)は終わります。
ネガティブな方向ではなく、ポジティブな方向に統一性のある行動ができるようになります。
ポジティブな方向に統一性があるものを統合といい、ネガティブな方向に統一性のあるものを分離といいます。
今、エネルギーは分離から、統合の方向に加速しているのです。
意味づけによっては、どちらの方向にも加速してしまうので、諸刃の剣でもあります。
なぜなら、ポジティブもネガティブも、元は同じエネルギーで、方向性に違いがあるだけだからです。
だとしたら、日食と月食のパワーメーターのイメージを使って、自分の望む、ポジティブな方向に加速するように、自らブレーキをかけている、ネガティブな観念に気付いて、ポジティブな観念から意味づけしなおして、自らポジティブな行動が取れるように、エネルギーの方向性を統一すればよいのです。
ネガティブな観念に気付いて、恐れではなく、喜びが連鎖する土台に、築きなおす
現実の経験の反映に中に起こっている、ある出来事や状況に対して、自分の持っている観念から意味づけすることによって、その観念が反映された現実を経験します。
観念から意味づけをするということは、意識の周波数を変えて、意識の焦点を、自らが望む現実の経験に移行するということです。
だから、現実の経験を見ることによって、自分がどんな観念から意味づけをしているのかを知ることができます。
ある出来事や状況に対して、自分の持っている観念から何も意味づけをしなければ、意識の焦点は、その出来事や状況の影響を受けている現実の経験に移行しませんので、その現実は経験しないことになります。
つまり、その出来事や状況から何も結果を引き出さない、中立となります。
ある出来事や状況に対して、自分の持っているネガティブな観念から意味づけをすると、その出来事や状況からネガティブな結果を引き出し、ポジティブな観念から意味づけをすると、ポジティブな結果を引き出すことになります。
成功を肯定し、失敗を否定すると、失敗を恐れます。
あるいは、失敗を肯定し、成功を否定すると、成功を恐れます。
成功と失敗に対して、このような条件付けと判断をしていると、どちらか一方の状況にだけ価値を見出し、もう一方の状況には、価値を見出さないことになります。
このように、ある出来事や状況に対して、その出来事や状況の、相対的な形の差に囚われて、一方の可能性だけを肯定し、もう一方の可能性を否定すると、「成功するのは難しい」というネガティブな観念を持つことができます。
このネガティブな観念を持っていると、ある出来事や状況が、一見、成功するのに簡単そうなら意味づけし、難しいそうなら意味づけしない、あるいは、一見、成功するのに難しそうなら意味づけし、簡単そうなら意味づけしないということになります。
つまり、ネガティブな観念を持っていると、ある出来事や状況の、相対的な形に囚われて、本来は中立である、出来事や状況の、表面的な形の差に左右されて、意味づけできなかったり、常に、ネガティブな意味づけをしてしまうことになるのです。
そして、意味づけできなければ、何の結果も引き出せない(チャンスを逃す)し、ネガティブな意味づけをすれば、ネガティブな結果を引き出すことになります。
成功も失敗も、どちらも同時に、無条件に許容し、どちらにも価値を見出し、どちらの可能性も否定していなければ、成功も失敗も恐れることはありません。
成功と失敗に対して、どちらの状況も無条件に許容し、どちらも同じように価値を見出し、どちらの可能性も否定していなければ、「成功するのは簡単だ」というポジティブな観念を持つことができます。
このポジティブな観念を持っていると、成功するのに簡単そうな状況であろうが、難しそうな状況であろうが、状況の表面的な形の差に囚われずに、状況に左右されることなく、常に、ポジティブな意味づけをすることができます。
そして、ポジティブな意味づけをすれば、ポジティブな結果を引き出す(チャンスを逃さない)ことになります。
ネガティブな現実の経験をしたときに、どんなネガティブな観念を持っているから、こんなネガティブな経験をしたんだということに気付けば、そのネガティブな観念を中立化、無力化することができます。
ネガティブな現実の経験を創りだす、原動力となっていた、ネガティブな観念を、中立化、無力化することができるのです。
自我がハートに対して、「どんなネガティブな観念を持っているから、こんなネガティブな現実を経験するのだろう」と質問することによって、自我主導で思考を使って、条件付けと判断をするのをやめて、ハート主導で受動的に思考を使って、ハートからインスピレーションによって、合一の認識を受け取るのです。
自我が、成功を肯定して、失敗を否定する、あるいは、失敗を肯定して、成功を否定するというように、相対的な形に囚われて、条件付けと判断をすることによって持っていた、無条件の愛の波動から分離した、ネガティブな観念、「成功するのは難しい」。
そして、ハートから、成功も失敗も無条件に許容している、無条件の愛の波動をイメージとして、受け取ることによって、波動の違いに気付くのです。
波動の違いに気付くことによって、観念の波動の分離が解消されるので、今まで持っていたネガティブな観念は、中立化、無力化し、気付いた瞬間から、その観念から意味づけすることはできなくなります。
自我がハートから受け取った、無条件の愛の合一の認識は、波動をイメージとして受け取ったものですから、そのイメージを思考を使って言語化して、新たに「成功するのは簡単だ」というポジティブな観念を作ります。
そして、現実の経験の反映の中に、ある出来事や状況が起こってきたときに、その新たなポジティブな観念があれば、その出来事や状況の表面的な形の差に左右されずに、ポジティブな意味づけをすることができ、ポジティブな結果を引き出すことができます。
ネガティブな現実の経験を創りだす、原動力となっていた、ネガティブな観念に気付いて無力化(中立化)し、新たなポジティブな観念と置き換え、恐れではなく、喜びが連鎖する土台に、築き直していけばよいのです。