常に、感じ取る働きを先にして、形作る働きを後にする。
思考の働きには、2種類あります。
まず、1つは、思考の思う(=感じ取る)働きです。
思考の思う(=感じ取る)働きは、受動的なイマジネーションであり、全体を無条件に許容して受け取り、ひとつとしてイメージする働きです。
そして、もう1つは、思考の考える働きです。
思考の考える働きは、能動的なイマジネーションであり、全体としてひとつのイメージを、部分に分けてイメージしたり、部分のイメージを組み合わせて、全体としてひとつのイメージに再構成したりします。
つまり、思考は、波動をイマジネーションにより、受動的または能動的にイメージする働きなのです。
現実の経験の創造のプロセスにおいて、ある状況に直面したときに、自分の持つ観念から意味づけすることによって、その状況の影響を受けた現実の経験を選択することになります。
そして、その自分の持つ観念から、意味づけするというのは、創造の源とハートの波動に、思考のイマジネーションにより、観念の波動をイメージして、組合わせる(=同調させる)ということです。
ネガティブな観念から意味づけする場合は、思考の考えるイマジネーションを使って、部分的な形に囚われた、条件付けと判断をして、イメージをすることによって、創造の源とハートの波動から分離した、ネガティブな要素の波動に同調して、観念の波動を組み合わせます。
創造の源とハートの波動は、エネルギー的にバランスが取れた高い波動であり、全体としてひとつの、エネルギー的なイメージの青写真と考えることができます。
ネガティブな観念から、イメージする場合、波動が低い、より部分的な形に囚われたイメージとなり、創造の源とハートの波動から分離した、ネガティブな要素の波動と組合わさる(=同調する)ことになります。
つまり、ネガティブな観念から意味づけすると、創造の源とハートの、エネルギー的にバランスの取れた高い波動の、全体的としてひとつのエネルギー的なイメージの青写真が、エネルギー的にバランスの取れていない、波動の低い、より部分的な形に囚われた、分離した、ネガティブな青写真になってしまうのです。
現実の経験の、想像(=創造)の元になる青写真が、ネガティブな青写真になってしまうから、その結果、反映される現実の経験も、バランスの取れていない、ネガティブな経験になります。
一方、ポジティブな観念から意味づけする場合は、思考の思う(=感じ取る)イマジネーションを使って、一切の条件付けと判断をせずに、無条件に許容して、全体をひとつとしてイメージしますから、創造の源とハートのポジティブな波動に同調して、観念の波動を組み合わせます。
ポジティブな観念から意味づけした場合の青写真は、創造の源とハートの、全体としてひとつである、エネルギー的にバランスの取れた高い波動に同調していますので、その結果、反映される現実の経験も、バランスの取れた、ポジティブな経験となります。
現実の経験の創造のプロセスにおいて、思考の考える働きである、能動的なイマジネーションを使って、部分的な形に囚われた、条件付けと判断をすることによりイメージすると、インスピレーションを受け取ることができないのです。
インスピレーションとは、全体としてひとつである、エネルギー的にバランスの取れた高い波動を、全体としてひとつである、エネルギー的なイメージとして認識することです。
インスピレーションを受け取るためには、思考の思う(=感じ取る)働きである、受動的なイマジネーションを使って、全体を無条件に許容して、エネルギー的にひとつとしてイメージするのです。
現実の経験の創造のプロセスにおいて、ある状況に直面したときに、ネガティブな観念から意味づけすると、思考の考える働きを使って、条件付けと判断をして、イメージすることになりますから、想像(=創造)するのに必要な青写真が、エネルギー的にバランスの取れていない、部分的な形に囚われた青写真になり、結果として反映される現実の経験も、バランスの取れていない、ネガティブな経験になるのです。
一方、ポジティブな観念から意味づけすると、思考の思う(=感じ取る)働きを使って、全体を無条件に許容して、エネルギー的にひとつとしてイメージしますから、想像(=創造)するのに必要な青写真が、エネルギー的にバランスの取れた、全体としてひとつの青写真になります。
つまり、インスピレーションを受け取ることができるのです。
そして、結果として反映される現実の経験も、バランスの取れた、ポジティブな経験になるのです。
だから、現実の経験の創造のプロセスにおいて、常に、思考の感じ取る働きを先にして、インスピレーションを受け取り、形作る働きを後にする必要があるのです。
逆に、形作る働きを先にしてしまうと、部分的な形に囚われてしまって、インスピレーション(=全体としてひとつであり、エネルギー的にバランスの取れた高い波動の、エネルギー的な青写真)は受け取れないのです。
影の部分を明らかにして、気付いて、諦める
ある状況や出来事に直面したときに、それらから、ある特定の可能性を肯定・執着し、他の可能性を否定・排除しようとすると、影ができます。
つまり、期待し、判断すると、それが影になり、闇(=ネガティブな結果)を経験することになります。
期待する場合、特定の可能性を肯定し、執着しているので、他の可能性を否定することになります。
その場合、影を消すには、肯定している特定の可能性に対する執着を手放し、他の可能性も許容することです。
執着しているものを明らかにして、気付いて、諦めるのです。
判断する場合、特定の可能性を否定し、排除しようとします。
その場合、影を消すには、否定し、排除しようとしている可能性も、他の可能性と同様に許容することです。
否定し、排除しようとしているものを明らかにして、気付いて、諦めるのです。
今まで、ネガティブな結果を引き出していた、同じような状況や出来事に直面したときに、それらの状況や出来事から、結果として引き出される可能性に対して、期待や判断をせずに、明らかにし、気付いて、無条件に許容することによって、諦めると、影は消え、光に変わり、ポジティブな結果を引き出すことになります。
諦めることによって、自分が本来望んでいる(ポジティブな)結果を引き出すことができるのです。
諦められないことが、自分が本来望んでいる(ポジティブな)結果を引き出すことを、拒んでいるのです。
なぜなら、今までは、自分が肯定している可能性に執着し、否定している可能性を排除することが、自分が望む結果を引き出すことだと、思い込んでいたからです。
だから、自分が望んでいる(ポジティブな)結果を引き出すためには、自分が肯定している可能性に対する執着を手放し、否定している可能性を排除せずに、許容する必要があるのです。
今まで、ネガティブな結果を引き出していた、影の部分を明らかにして、気付いて、諦めることによって、ポジティブな結果を引き出すことができるのです。
自らの意識が投影するものが、影ではなく、光に変われば、それが鏡のように反映された現実の経験も、闇ではなく、光に変わるのです。
自分が何に期待し、何を判断しているかを明らかにすることが、影の部分に気付くこと、自ら愛する(=自ら照らす)ことになります。
そして、その、明らかにして気付いた、影の部分を諦めることが、無条件に許容すること、受け取り、自ら光ることになります。
期待を明らかにして、気付いて、諦める。
判断を明らかにして、気付いて、諦める。
それが、自ら照らし、自ら受け取り、自ら光る(=自らを愛する)ことになるのです。
自らを本当に愛することができるようになれば、例え、一人でいるとしても、孤独を感じることはなくなります。
なぜなら、孤独感というのは、愛に対する欠乏感から生じるものだからです。
自分以外の誰かや何かから愛をもらわなくても、まず、自らを本当に愛することによって、愛に対する欠乏感である孤独感(=影)は消えるのです。
まず、自らを本当に愛することによって、孤独感(=影)が消え、光に変われば、自らの意識が投影するものが、影によって作られていた闇から、光に変わるのです。
自らの意識が投影するものが、光に変われば、自分以外の誰かや何かに対して、期待や判断を諦めた状態になります。
つまり、まず、自らを本当に愛していますから、愛に対する欠乏感である孤独感(=影)も消えているのです。
その状態になれば、自らの愛が欠乏しているから、自分以外の誰かや何かに、期待したり、判断したりする必要がなくなるのです。
自分の行動や反応を決めるのに、自分以外の誰かや何かに、期待したり、判断したりすることによって生じていた感情に、左右されることがなくなります。
まず、自らを愛することが、自らのハート(=中心)と一体化することなのです。
自分以外の誰かや何かに期待したり、判断したりしなくなれば、自らの意識が投影する光が、鏡のように反映される現実を経験できるようになります。
まず、自らを本当に愛し、愛に対する欠乏感である孤独感(=影)を感じていない、自分の分身のような存在に出会うという、現実の経験をすることもできるのです。
終わりなき悲しみから、終わりなき喜びへ
悲しみの涙は、浄化の雨。
止まない雨はなく、終わりなき悲しみもない。
雨上がりの一瞬を逃すな。そこには、もう悲しみはない。
恐れが雲を呼び、その恐れのために形作った、ネガティブな感情と行動が、誰かを傷つけたという思いが、浄化の雨を降らせる。
そして、雨が去った後の、一瞬の澄み切った青空が、本当は誰も傷ついていなかったということを気付かせる。
それに気付いたら、終わりなき悲しみを続けるのか、それとも、終わりなき喜びを始めるのかは、君の選択しだいだ。
終わりなき喜びを選択した君は、雨上がりの一瞬の、澄み切った青空に、虹がかかっているのを見つけるだろう。
その虹の向こうの、君が傷つけたと思っている人がいるところに、行って確かめるんだ。
その虹が消えてしまう前に、実際に行動を起こして、笑顔を確かめるんだ。
虹があるから笑顔になるのではなく、笑顔があるから虹があるんだ。
終わりなき悲しみを終わらせるのは、虹が出ている間に、虹の向こうにある笑顔を、自ら確かめに行く、実際に行動を起こす、君の勇気だけだ。
そこに虹があるから、笑顔があるのではなく、そこに笑顔があるから、虹があるんだ。
それをどうして恐れるのでしょう?
その恐れが雲を呼び、ネガティブな幻想を見させ、浄化の雨を降らせるのです。
恐れを消すために必要なのは、虹の向こうに、必ず笑顔があると信じることと、実際に行動を起こして、それを確かめに行く勇気だけです。
君が傷つけたと思っている相手が、君に笑顔を見せに来るのを待つのは、虹の端が、君のところにやって来るのを待つようなものです。
待っている間に虹は消え、癒しの機会を逃すでしょう。
君の歌は、単なる気休めのためだけのものではない。
君の歌は、君の信念そのものだから、あとは、その信念を、実際に行動に移す勇気を持つんだ。
君の勇気は、雨上がりの、澄み切った青空とともにあり、君の喜びは、虹とともにあります。
君の恐れは、曇った空とともにあり、君の悲しみは、浄化の雨とともにあります。
君の信念は君の歌の中にあり、君の行動は、見上げた空とともにあります。
だとしたら、君が行動を起こすのに、一体誰に聞く必要があるのでしょう?
恐れ、悲しみ、喜び、信念、勇気、行動・・・・
それらのすべては、いつも君とともにあるのです。
なぜなら、君の経験する現実のすべては、君が創造しているからです。
虹はすぐに消えてしまう、手の届かないものではなく、君の意識の反映なのです。
そこに虹があるから、君が笑顔になるのではなく、君が笑顔になるから、そこに虹があるのです。
だから、虹が出るのを待つ必要はありません。
君が今、この瞬間に笑顔になれば、空には、虹が出て、その虹の向こうに行けば、君の笑顔が、鏡のように反映された、君の分身がそこにいるのです。
終わりなき悲しみを終わらせ、終わりなき喜びを始めるのに、必要なのは、虹の向こうには、必ず笑顔があるという信念と、実際に行動を起こして、それを確かめに行く勇気だけなのです